運命について(2)

万次郎がアメリカで航海術や造船技術を学んでいたとき、世界のいたるところで「歴史の転換点」ともいうべき変化がおきていました。産業革命後のイギリスは、すでに植民地にしていたインドを足がかりに、中国(清)に進出しようと考えていました。中国からのお茶の輸入が急増し、イギリスが大量の銀を支払っていました。そこで、イギリスーインドー中国という三角貿易を利用し、インド産のアヘンを中国に持ち込んで貿易赤字を解消しようとしたのです。その結果、多くの中国人がアヘン中毒となり、中国国内からは銀が流出していきました。アヘンの蔓延は中国にとって見過ごすことのできない問題でした。

清政府はアヘンの中国への持ち込みを阻止しようとしました。しかし、イギリスの船に積載されたアヘンが没収されたのをきっかけに、イギリスは戦争をしかけて中国に開国と自由貿易を認めさせようとしたのです。これが1840年のアヘン戦争です。軍の近代化が遅れていた清は、強大な軍事力を持つイギリスに敗北しました。そして、不平等な南京条約を結ばされ、香港をイギリスに割譲。いくつかの港湾もイギリスに解放することになりました。フランスやアメリカも同様の条約を締結するよう清に迫り、中国は欧米の半植民地のようになってしまったのです。その結果、中国国内では外国勢力に対する反発が高まっていきました。

条約が締結したにもかかわらず、清政府は条約違反を繰り返していました。そして、フランス人宣教師が殺害されたのをきっかけにアロー戦争が起こりました。戦争を仕掛けたのはフランスとイギリスです。のちにアメリカとロシアも終戦交渉に加わりました。当時の江戸幕府は鎖国をしていましたが、その戦争のことを知っていました。それは長崎・出島のオランダ商館の館長が、幕府に逐次報告していたからです。長く鎖国を続けていた幕府ですが、長崎の出島を指定して、オランダや清、朝鮮とのみ交易を続けていました。外国人は出島から出ることが制限されていましたが、オランダには出島に商館を作ることが許されていました。

オランダが優遇されていたのは、オランダがキリスト教の布教を望まず、交易のみを目的としていたからです。そして、幕府は交易を許すかわりに、そのときどきの国際情勢を「オランダ風説書」として報告させていたのです。この風説書によって幕府は、世界でどんな変化が起きているのかを知ることができました。ヨーロッパでキリスト教の宗教改革が起こったこと、小国同士の内戦が繰り返され、今の国際法の原型となるウェストファリア条約ができたこと。ナポレオン戦争があり、アメリカという新国家ができたこと。さらにはイギリスで起こった産業革命のことや、欧米列強による植民地政策のこともオランダは報告していました。

そんなこともあり、江戸幕府はやがて欧米列強がやってくることを知っていました。産業革命が起こったヨーロッパの強国が、資源を求めてアジアの小国家を次々と武力で奪い取ってきたからです。当時の日本は世界でも有数の金・銀の産出国でもあったため、なおさら標的になっていたに違いありません。そこで1825年に異国船打払令を出し、日本の港に入港しようとするすべての外国船を拒絶することになりました。薩摩藩や長州藩などでは、1830年ごろから藩を近代化する改革をはじめました。そんな中での1837年、救助した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を幕府が砲撃するという事件が起こりました。

幕府は、その翌年のオランダ風説書によって「モリソン号は人道的な目的で入港しようとした商船であり、武器もあえてはずして港に近づこうとしていた」ということを知ります。高野長英や渡辺崋山といった国内の蘭学者たちが、その国際法にもとる幕府の対応を厳しく批判しました。幕府は、そうした批判を許せば、国民が外国船への警戒心を緩め、鎖国政策に反対する世論が高まるのではないかと警戒しました。そして、幕府を批判した蘭学者を一斉に逮捕し、投獄・処罰しました(蛮社の獄)。その一方で、1842年、異国船打払令を緩和する「薪水給与令」を出し、漂着した船だけには燃料と水を補給することにしました。

1843年、太平洋で漂流した万次郎ら5人は、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。万次郎だけはウィットフィールド船長と一緒にアメリカ本土に渡りますが、伝蔵・重助・五右衛門の三兄弟と寅右衛門の4人はハワイであらたな生活をはじめます。彼等は地元の有力者の援助でなに不自由のない暮らしをしていました。しかし、「いつまでも頼ってばかりいてはいられない」と、有力者に仕事を世話してもらえないかと頼みます。彼は「国王に面倒を見るようにいわれているから心配するな」と言ってくれました。でも、怪我をおった重助を除く三人は、知り合いのつてで仕事を見つけ、働くことになりました。

重助は鳥島に船で流されたとき、足に大きな傷を負っていました。しかもその傷が治らず、どんどんと衰弱していきます。そして、島の名医といわれる医者に診てもらおうとした矢先に亡くなってしまいます。でも、残りの三人にはあらたな仕事もでき、島での穏やかな生活がはじまりました。たまに自分たちと同じように遭難し、外国船に救助された日本人が来てくれました。お互い、遭難したときの恐ろしかった話しをしますが、日本に帰国するみんなの意志は強いことがわかります。そして、「我々が日本に帰るときは一緒に帰ろう」と語り合うのです。そんなとき、三人は心の中に希望の光が差してくるように感じたはずです。

ある人が「船の船長に君たちも一緒に乗れるよう頼んでみよう」と言ってくれました。三人は大いに喜び、いよいよ帰国が実現するかもしれないと期待がふくらみます。ところが、その船長はにべもなく断ったといいます。これ以上厄介者を抱えたくなかったのかもしれません。また、別の日本人が、船に三人を一緒に乗せてほしいと頼んだところ、船長は乗船料として多額の金額を要求してきました。なんどか交渉しましたが、伝蔵らは「君たちに迷惑がかかるから」と断ることにしました。その後も帰国するチャンスがありましたがうまくいきません。そのうち寅右衛門だけは、まるで帰国をあきらめたかのように断るようになりました。

ある日、ウィットフィールド船長が訪ねて来てくれました。「今度、日本の近海に行く船がある。帰国の意志があるなら頼んでみるがどうするか」と言うのです。三人はその言葉に喜びました。そして、相談の結果、「お願いしよう」ということに。伝蔵・五右衛門兄弟が船長にお願いをしに行きました。しかし、船長は「二人分しか頼むことができなかったので君たちだけで行きなさい」と言います。伝蔵は「寅右衛門は私のせいでこの遭難にあってしまった。一緒に帰国させてやりたいのでなんとか彼の分もお願いできないだろうか」と船長に土下座をします。そんな伝蔵の姿にウィットフィールド船長は胸を打たれます。

船長は結局、寅右衛門のために船を探してくれました。しかし、出港の当日になって、寅右衛門は「やっぱり俺は今度もやめる。君らだけで行ってくれ」と言い出しました。いくら説得しても彼はききません。しかたなく、伝蔵と五右衛門の二人だけの出港になりました。伝蔵と五右衛門は、アメリカ船のフロリダ号に乗船して出発しました。そして、しばらく航海して八丈島付近にさしかかったとき、船長は小舟を出してくれるといいます。ふたりは島に上陸できるものと喜びました。しかし、風雨がにわかに強くなり、いつまでたっても海のしけはおさまりません。結局、八丈島への上陸はあきらめるしかありませんでした。

船はあらためて蝦夷(北海道)を目指すことになりました。蝦夷の海岸が遠くに現れたとき、海岸にはいくつものかがり火が見えました。二人は船長とともに小舟で上陸を試みることにしました。ところが、上陸したもののどこにも人影は見当たりません。建物の中にも誰もいないのです。「私たちは日本人です」と叫んでみましたが反応がありません。伝蔵は船長に言いました。「ここは日本の領内であるはず。このまま私たちを置いていってもらえないだろうか。大きな船が去れば誰かがでてくるだろうから」。しかし、船長は言いました。「それはできない。君たちを無事送り届けた証明書をもらわねばならないのだ」と。

仕方なく伝蔵と五右衛門は船長とともに船に戻りました。そして、再びハワイをめざして帆を張ったのです。北の海では霧が立ちこめ、太陽も姿を現さない日が続きました。そうした毎日は、祖国で待つ家族のもとに帰れなかった伝蔵たちの心をさらに重くしました。帰国するチャンスを何度も逃し、そしてまた今回もダメだったのです。二人の全身から力が抜けていくようでした。しかし、航海の途中から強い西風になり、船は後ろから押されるようにスピードをあげて行きました。船はハワイ・ホノルルへ戻ります。運命のながれに逆らわず、なんどもチャンスをつかもうとするこの二人に神は手を差しのべてくれるでしょうか。

 

********************* 「運命について(3)」につづく

運命について(1)

運命について ― ジョン・万次郎の生涯 ー

【はじめに】

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があったからこそ成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているのかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、これからの自分はどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないことです。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東大にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性だっていくつもあることに気が付かなければなりません。

来年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授になって教育にも関わりました。でも、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックです。今回はその一端をご紹介します。

 

********************* 以下、本文

 

万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁民の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ漁師の道を選びました。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよいながら、祈るような思いで船にしがみつく五人。その祈りが通じたのか、荒波に翻弄されながら運良く伊豆諸島はずれの無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火もなければ、湧き水すらない絶海の孤島。さぞかし厳しい生活だったに違いありません。食べものはアホウドリを捕まえ、草を集めて食べるしかないのです。喉が渇いても真水も満足に飲めない無人島でこの五人はどのような思いだったでしょう。でも、いつ命が絶えるかもしれないという過酷な生活を強いられた143日目のこと。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ウィットフィールドといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に五人を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した者が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ウィットフィールド船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみないか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわします。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。そんな万次郎が船長はよほど可愛かったのでしょう。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ウィットフィールド船長は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が船長に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎にバルコニーにある黒人の席に座るように言います。「信仰に人種が関係あるのか」。ウィットフィールド船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した船長は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を歩きまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ウィットフィールド船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく