アジアのなかの日本

今ほど「激動の時代」と呼ぶのにふさわしい時代はありません。欧州ではゲルマン民族の大移動を見るような移民流入が各国の治安をおびやかし、政治をゆさぶり続けています。また、大国が主導する戦争が勃発し、力による現状変更が横行しています。さらにはAIの急速な発達によって、人間の生活そのものを大きく変えようとし、AIが進化を続ければ人類を滅亡させてしまうかもしれないといわれるほどです。日本に目を向ければ、激変する世界と無縁ではなく、さまざまな社会問題が表面化しています。社会の分断と対立が徐々に深刻になっているようにも見えます。そんな混沌とした現代だからこそ、私たちの未来がどうあるべきなのかを冷静に考えてみなければなりません。そのためにも歴史を振り返ることが大切です。ただし、過去のできごとにとらわれず、現状を認めたうえでこれからどうすべきかを考えることが重要なのです。

歴史において起こってしまったことを現在の価値観で評価することはできません。価値観は時代によって変化・変遷するからです。中世の宗教戦争においてたくさんの人の命が奪われました。そのことを今さら責めても意味がありません。近現代において欧米列強が世界中に植民地を求め、その資源や労働力を搾取したと批判しても仕方がないのです。そうではなく、これまでの歴史を振り返ったうえで、「これからの我々はどうあるべきか」を自分のあたまで考えるべきです。ですが、学校で教えられている歴史教育は不十分です。歴史の価値すら認識していない人も少なくありません。その一方で、特定の目的をもって偏向教育がおこなわれることもあります。子どものころ、学校では「日本は戦争をした悪い国」と教えられました。でも、そこには「なぜ戦争をしたのか?」という問いはありませんでした。しかし、インターネットを駆使して、さまざまな情報が手に入るようになると、その「なぜ?」の答え、言い換えると、これまでいわれてきた姿とはことなる日本が見えてきます。今回のブログでは、学校では詳しく習わない、でもこれからの日本を考える上で重要なできごとをまとめてみたのでご紹介します。

 

隋(ずい)が中国という広大な地域を統一した頃、日本はまだ「倭国(わこく)」と呼ばれていました。当時、隋はアジアの超大国であり、文明や文化の中心でもありました。その存在感は畏怖に近いものであり、周辺諸国は隋に朝貢をして保護を求めていました。隋は日本を「倭」という蔑む意味をもつ文字をあてて呼び、日本にも朝貢するよう求めます。ときの天皇は第33代推古天皇。その天皇を補佐していたのは、聖徳太子として知られる厩戸皇子(うまやどのおうじ)です。このとき、すでに倭国には朝鮮半島からさまざまな情報が伝えられており、聖徳太子は、隋に朝貢することの意味、そして、朝貢を拒否することの意味を知っていました。このときの朝鮮半島は、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)が覇権をあらそう「三国時代」にありました。高句麗は満州系の狩猟民族が高緑江中流域に打ち立てた国家にはじまり、百済や新羅とともに半島での勢力争いをする一方、常に中国からの脅威にさらされていました。百済は古くから日本との良好な関係が続き、仏教もこの百済を経由して日本に伝来しました。しかし、高句麗と新羅にはさまれた百済は、日本との協力関係を結んでようやく存続しているという状態でした。また、半島の南端には任那(みまな)という小国家群があり、任那日本府がおかれるなど、日本とは鉄や磁器などの貿易を通じて深い関係にありました。

聖徳太子は、日本が隋の冊封体制に組み込まれれば、いつしか朝鮮半島が中国の一部となったとき、隋が日本の現実的な脅威になるだろうと考えていました。そこで、中国を統一した隋の現状を知り、全国を統治するための律令制度がどのようなものなのかを知るため、遣隋使を派遣することにしました。西暦600年のことです。しかし、隋の初代皇帝である文帝(ぶんてい)に日本の国家体制を問われたとき、倭国からやってきた使者は「我が国は神の国であり、神の言葉によって政治を進めている」と答えます。すると文帝は「おまえの国はそんな道理のあわない国なのか」と冷笑します。かくして、初めての遣隋使の派遣は屈辱に満ちたものになってしまいました。しかし、聖徳太子はあきらめませんでした。ただちに「冠位十二階」や「十七条憲法」などを矢継ぎばやに制定し、律令国家にふさわしい体制の整備を急ぎました。朝貢はしても隋の冊封体制に組み込まれぬよう、日本は独立した国家の立場を貫こうとしたのです。

そして、607年、満を持して小野妹子を第二回遣隋使として中国に派遣します。そこであの有名な「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す」という国書を、文帝にかわって皇帝となった煬帝(ようだい)に渡すのです。ところが、「倭国」とあなどっていた日本が自らの王を「天子(皇帝の意)」と呼ぶことに煬帝は激怒します。天子とは世界で唯一自分だけだからです。とはいえ、隋はちょうどそのとき高句麗と緊張状態にありました。日本とことを荒立てるのは得策ではありません。そこで隋は使節を歓待し、帰国する際にも外交事務官の裴世清(はいせいせい)を答礼使として同伴させました。日本に渡った裴世清も歓迎され、煬帝からの親書を推古天皇の前で読み上げました。

その後、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権争いが激化。そして、以前から日本と密接な関係をもっていた任那は新羅に征服されます。それをきっかけに、半島における日本の影響力は低下。それに危機感をいだいたのは百済でした。百済は新羅と高句麗にはさまれて常に圧迫を受けていたため、日本の後ろ盾を必要としていたのです。そして、隋を倒した唐(とう)と新羅の連合軍とのせめぎ合いが激しくなってくると、百済は若き王族の一員である豊璋(ほうしょう)と弟の善光(ぜんこう)を日本に送りました。名目上は人質ですが、実際には王子たちを避難させることが目的でした。ついに王朝が滅ぼされ、孤立した百済軍は豊璋の帰国と日本に援軍を求めます。そこで中大兄皇子(のちの天智天皇)は、すぐさま一万人を越える日本兵とともに豊璋を百済に帰国させました。豊璋は地元で新羅・唐連合軍と戦う百済軍と合流。百済の王に即位すると、一緒にやってきた日本の兵士とともに新羅・唐連合軍と戦いました。これが「白村江(はくそんこう)の戦い」です。日本は三回にわたって計4万人にもおよぶ兵を送ります。しかし、対する新羅・唐連合軍の兵士は18万人。この圧倒的な兵力の差にくわえ、百済軍内での対立もあって百済・倭国連合軍は敗れてしまいます。敗走した豊璋は高句麗に亡命。ところが、その高句麗もまもなく唐に滅ぼされ、連行された豊璋は中国南部に流刑となって非業の死をとげました。

百済という国家はなくなりましたが、日本には豊璋の弟である善光が残りました。彼は持統天皇から亡命貴族の称号である「王(こにきし)」を賜り、「百済王(くだらのこにきし)」を名乗りました。そして、その後も朝廷は彼を丁重にあつかいました。この百済の王家は日本で生き残り、のちのちまで朝廷と天皇に仕えたのです。ちなみに、752年に開眼供養がおこなわれた奈良・東大寺の大仏の建造事業は、当初、使用する金が不足して頓挫しかけていました。しかし、当時、東北の地方長官だった百済王・善光のひ孫が金鉱を発見。大量の金を朝廷に献上したことで大仏は無事完成したのです。ところで、第50代天皇として即位した桓武天皇の生母・高野新笠(たかののあらがさ)も百済系渡来人の子孫でした。2001年に今の上皇陛下(当時は天皇陛下)が誕生日の記者会見で、W杯サッカー大会が日韓で共催されることに際して、「桓武天皇の生母は百済人であり、韓国にはゆかりを感じる」と述べられたことはよく知られています。日本と朝鮮の関係は、今、多くの人が感じている以上に深かったのです。

 

「高麗(こうらい)」という言葉ですぐに思い浮かぶのが「高麗人参」かもしれません。朝鮮半島でとれる薬用人参を朝鮮人参といいますが、その中でも質の高いものは高句麗があった高麗地域(北朝鮮)産だといわれています。それをとくに「高麗人参」と呼ぶのです。ちなみに、朝鮮人参は食用人参とは似て非なるもの。食用人参はセリの仲間で甘みがありますが、朝鮮人参は苦みのあるウドの一種であり、食用人参とは種類のことなる植物です。私が研修医をしていた東京逓信病院のすぐそばには朝鮮総連の本部ビルがありました。北朝鮮の要人の誕生日になると、この朝鮮総連からパーティーの招待状が医師に届きます。毎日が忙しい医師達が出席することはほとんどありませんが、そうした人にはあとで「高麗人参酒」が届くのです。なお、私たちのような末端の研修医には招待状も高麗人参酒も届きません。

埼玉県に「高麗(こま)神社」という神社があります。神社というと、日本の神話にでてくる人物が祀られていることが多いのですが、高麗神社の主祭神は高句麗の王・若光(じゃくこう)です。神社に朝鮮人が祀られているのはなにか不思議な気がします。しかし、ここにも日本と朝鮮半島との深い関係が影響しています。半島で大きな政治的変化が起こっていた660年、百済が新羅・唐連合軍によって滅ぼされ、唐はその強大な軍事力を今度は高句麗に向けます。そこで高句麗は、日本が白村江の戦いに敗れた3年後の666年に若光を「外交使節」として派遣しました。若き王・若光を守るためです。しかし、若光が日本に到着して間もない668年、高句麗はついに唐に滅ぼされてしまいます。祖国を失った若光は日本に残ることになりました。当時の大和朝廷は、若光に「高麗王」という姓を与えて保護します。朝廷は全国に散らばっていた高句麗からの渡来人1779名を武蔵国に集めて「高麗郡」を創設しました。そして、その長官に若光を任命したのです。若光は郡民となる高麗人たちをよくまとめ、土地の開拓を進めていきました。このように、祖国に帰ることのできなかった若光の威徳を偲んで作られたのが高麗神社なのです。

この神社には猿田彦命(さるたひとのみこと)と武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)も祀られています。猿田彦命は、ニニギのミコトが天孫降臨する際、地上への道案内をした人物とされ、「導きの神」として知られています。武内宿禰命は、何代もの天皇に仕え、たびたび日本沿岸を襲ってきた新羅の海賊を征伐して国を守った功労者。そのため「忠臣の鑑(かがみ)」とされていました。若光は天皇から下賜された「高麗郡」を開拓するにあたり、神の導きと天皇の加護を願い、猿田彦命と武内宿禰命の社(やしろ)を作って祀っていたのです。民族の誇りを忘れず、しかし、自分を保護してくれた天皇に感謝する若光の思いが伝わってくるようです。

 

日本の近現代史を振り返ってみると、朝鮮半島や中国において大きな変革をおこそうとした人物と日本には浅からぬ縁があります。日本の明治維新に刺激を受け、朝鮮半島の近代化を模索した金玉均(きんぎょくきん)はそのひとりです。両班(やんばん)とよばれる貴族階級にいた彼は、李氏朝鮮がこのまま鎖国状態を続けて近代化を拒めば、大国の植民地になってしまうと懸念していました。そこで、近代化に成功した日本に学ぶため、玉均は1882年に日本に渡ります。福沢諭吉は玉均の志に感銘を受け、彼が日本に滞在している間、物心両面にわたる支援を惜しみませんでした。そして、「近代化のためには、まず文盲の国民にハングル文字を普及させ、識字率を高めるのだ。新聞を作って国民の政治に対する意識を醸成したまえ」と助言します。帰国した玉均は、諭吉の言うとおり、朝鮮ではじめてとなる新聞「漢城旬報」を発行しました。そして、李氏朝鮮の王朝を倒すための革命を試みますが失敗。1884年、日本に亡命します。日本では福沢諭吉のみならず、大日本帝国憲法を草案した井上馨らが援助するのですが、李氏朝鮮が送り込んだ暗殺者によって逃亡先の中国・清で殺害されます。そのうえ、祖国に運ばれた遺体は残忍な方法で見せしめにされるのです。李氏朝鮮のそうした理不尽さに福沢諭吉は憤慨します。「脱亜論」にて「もはや近代化に背を向けるアジア諸国との関係を日本は絶つべし」と説くほどでした。

ちょうどそのころ、中国・清も変革期にありました。こちらも近代化が遅れた結果、国内は混乱をきわめていました。そんなときに孫文が登場します。孫文は「今こそ中国にも日本のような維新をおこすときだ」と叫びます。しかし、中国国内では軍閥が次々と武装蜂起するなど、政治状況は流動的でした。裏切りと謀略のなかで翻弄される孫文でしたが、二度も日本に亡命し、宮崎滔天ら、たくさんの日本人の支援を受けます。1912年、清朝の高官だった袁世凱(えんせいがい)のクーデターによる辛亥革命(しんがいかくめい)で清王朝は滅亡。孫文は中華民国政府の樹立を宣言します。しかし、狡猾な袁世凱との政権移譲に失敗すると、中華民国政府は徐々に共産党に飲み込まれていくことになります。亡くなる直前、孫文は日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、日本に欧米の帝国主義に対抗するよう求めました。しかし、皮肉にも、その後の中華民国・国民党はそのアメリカの支援を受けながら、国共合作によって中国共産党と共闘する関係になってしまいます。

中華民国・国民党軍が日本軍との泥沼の戦いに陥った原因は蒋介石にありました。彼は日本の軍人養成学校に留学した経験があります。1907年のことです。そして、日本帝国陸軍の士官候補生になり、2年ほどでしたが軍務にもついていました。1912年の辛亥革命にも参加し、そこで孫文と知り合うのです。帝国陸軍の戦い方を熟知していた蒋介石は、軍閥が乱立する中国国内を徐々にまとめて行きます。当初は反共産主義の立場から中国共産党軍と戦っていました。しかし、南下して満州地方の支配をたくらむソ連軍を押さえるため、中国大陸に本格的に進出してきた日本軍とも交戦することになったのです。中国共産党と日本軍との両面作戦に苦慮していた蒋介石は、「当面は中国共産党とともに日本軍と戦う」と宣言します。これが国共合作です。アメリカから軍事・資金両面の援助を受けて、国民党軍と日本軍との戦いは泥沼化していきます。かくして国民党軍の力は徐々に弱まっていきました。しかし、日本はポツダム宣言を受諾して第二次世界大戦で敗戦することに。すると、中国共産党軍は一転して弱っていた国民党軍を追撃するようになり、蒋介石が率いる中華民国・国民党軍は台湾に敗走を余儀なくされるのです。

その中国共産党軍の指揮官のひとりが周恩来(しゅうおんらい)でした。周恩来も、実は日本に留学しようとした時期があります。辛亥革命が一段落した1917年のことです。日本の高等学校に進学することを希望し、貧しい留学生生活を余儀なくされていた周恩来。しかし、日本語がなかなか上達せず、希望する学校の入学試験に合格できずにいました。仕方なく、いろいろな大学の講義を聴講しに歩きます。そのなかでもとくに京都大学の河上肇教授が講義する「マルクス主義」には強い影響を受けました。河上肇はマルクス主義の権威として知られ、周恩来とときを同じくして近衛文麿が東京大学から京都大学に転学したのも河上肇に学ぶためでした。周恩来はその後、毛沢東とともに中国共産党の結成に参加します。周恩来は、国共合作にあっては中華民国・国民党軍との関係を重視する立場をとりました。また、日本軍の捕虜に対しては、素行良好な者は早期に釈放するなど人道的な態度で臨みます。周恩来の人柄はつねに冷静で、寛大・篤実であり、あの文化大革命でも粛清されることはありませんでした。また、文革が終ってもなお中国共産党の首相として日中国交回復にも尽力したのです。晩年、病床にあった周恩来は日本に留学した時代を懐かしみ、「もう一度日本に行ってみたい」と語っていたといいます。京都の亀山公園には、かつて周恩来が嵐山を訪れたときの思いを綴った詩「雨中嵐山」の石碑があります。

 

歴史は正しく知ることが重要です。でも、残念ながら、正しい歴史は教科書やメディアを通じて知ることは困難です。そこにはなんらかの意図が見え隠れしている場合があるからです。自分の意志によって能動的に調べなければ「真実」は見えてきません。歴史は史実を通じた「解釈」。同じ史実でも、日本側から観た解釈もあれば、相手国から観た解釈もあります。どちらの解釈が正しいか判断できないことも少なくありません。今、世界は歴史の転換点にあります。これまでとはまったく異なる社会になろうとしているのです。明日の日本を背負う若い人たちには、イデオロギーや固定観念にとらわれることなく、まっさらな気持ちで歴史を学び直してほしいと思います。

今年も10月5日からノーベル賞各賞の受賞者が発表されます。出身国別の受賞者数ランキングにおいて日本は世界の第6位です。資源のない貧しいアジアの国家であった日本が、多数のノーベル賞の受賞者を輩出する科学大国・経済大国になれたのは、私たちの先人の不断の努力と英知があったからです。一方で、日本はこれまで、一度たりとも欧米列強の植民地にはなりませんでした。それも単なる偶然ではありません。それぞれの時代の変化を感じとり、変革すべき時に果敢に行動する勇気を日本人がもっていたからです。そして、そうした日本人の姿は、他のアジアの国々の改革の志士たちをも突き動かして来ました。私はそのことを誇りに思います。と同時に、これからの日本人も是非そうであってほしいと願ってやみません。