価値観の違い(2)

以前の投稿「価値観の違い」にも書いたように、人の価値観は国柄や民族によって異なります。個人のレベルにおいてもさまざまです。それぞれの価値観の溝を埋めようにも難しいことがしばしば。それは、価値観の多くが必ずしも「良し、悪し」の問題ではなく、「好き、嫌い」の問題だからです。かつて、旧ツイッター(現在、X)で、音を立てながらそばを食べる日本人の姿に、外国人観光客が「あの下品な音はどうにかならないか」とつぶやいて話題になったことがあります。生活の中でのなにげない音ですら、その印象は生まれ育った環境によってずいぶん違うものだということを実感させられます。

「音を立ててそばを食べること」が下品かどうか、が問題なのではありません。音を立てて食べるのが当たりまえの国にやって来て、「その下品な音をなんとかしてくれ」と言われても困る、ということなのです。それはまるで、寺の周辺に住む住民が「除夜の鐘がうるさい」と苦情をいうのと似ています。以前からそこに寺があって、年末の行事として除夜の鐘を鳴らしてきただけなのに、あとから寺の周辺に住むようになった人間に「うるさい」と言われても困ります。嫌ならそこに住まなければよい。それだけのことです。しかし、最近は、なかなか「嫌なら住むな」とはっきり言い切れない時代になっています。

「価値観の多様性」という言葉の主旨は、いろいろな人が住む現代社会において個人のもつ価値観を認め合おうというものです。価値観の多様性を認め合うことそのものはすばらしいのですが、言うほど簡単なことではありません。その理由が二つあります。ひとつは「価値観は好き嫌い」であり、理屈ではないがゆえに、対立する価値観を共存させることが困難だからです。もうひとつの理由は、「多様性を認め合う」ことがともすると強制となって、「多様性は認めない」という価値観そのものをも拒絶してしまうからです。価値観の多様性を認めることにはそんな禅問答のような難しさがあります。

こうした現実的な難しさを抱える社会を維持するためには価値観を調整しなければなりません。「調整する」という意味にもふたつの解釈があります。ひとつは「対立する個々の価値観を調整する」という狭義の意味です。その一方で、「【すべての多様性を認める】とする考えと【一切の多様性は認めない】という考えを調整する」という広義の意味があるのです。その狭義・広義の意味の間で、どの程度の振れ幅で価値観の違いを調整していくかが重要です。どちらが正しく、どちらが間違っているかの問題ではないのです。しかし、最近の価値観の調整が、私には少し性急すぎていて、なにか意図的であるようにすら見えます。

価値観の調整が乱暴になったのは、ソ連をはじめとする東側諸国が崩壊し、アメリカ一極主義の時代となったころからはじまったように感じます。それまでの世界は、アメリカを中心とする自由主義陣営とソビエトを中心とする全体主義(共産主義)陣営とが、バランス・オブ・パワーを維持しながら安定が維持されてきました。若いころの私はそうした世界情勢を日々感じていたものです。しかし、東西の国家を隔てる壁が崩れると、世界中の全体主義国家が次々と「民主化」されていきました。当時の私は「これで世界は平和になる」と思ったものです。しかし、世界は安定するどころか、むしろ混乱から混沌へと変化していきました。

 

2012年にアメリカのバージニア州で黒人青年が白人の自警団員によって射殺されるという事件が起きました。この事件をきっかけにBLM(Black Lives Matter)運動がはじまったとされています。BLM運動とは、アメリカ社会に根深く存在している黒人差別を批難する社会運動で、三人の黒人女性によってソーシャルメディアを通じて全米に拡大していきました(この運動には中国から多額の資金が投入されていたことが後でわかっています)。しかし、この事件の犯人だった自警団員がヒスパニック系であり、黒人の大統領であるオバマ氏が国民に冷静になるよう呼びかけたことによってやがて収束していきました。

しかし、2020年、ミネソタ州で黒人被疑者を白人警官があやまって死亡させたのをきっかけに、再びBLM運動に火がつくこととなり、全米で大きな抗議運動がおこる事態にまで発展しました。当時のマスメディアが、トランプ大統領を差別主義者だと扇動的に報道していたこともあって、アメリカ社会の秩序を大きく混乱させる暴動事件に拡大したのです。そして、この社会運動は、いつしかアメリカ建国の歴史をも否定する運動に変わり、建国の父とされる多くの偉人たちの銅像を撤去させることにもなりました。この騒乱は、結果として警察活動を萎縮させ、犯罪を助長し、アメリカ社会を今も混乱させています。

こうした混乱の背景に、2016年の大統領選挙においてトランプ氏が当選したことが無関係ではありません。トランプ氏はかねてから「今のアメリカがいちぶのエスタブリッシュメント(既得権益者)によって牛耳られ、ごく一部の富裕層の金儲けに利用されている。世界から尊敬されていた、かつてのアメリカの栄光を取り戻そう」と主張して大統領選挙に立候補しました。当初、ほとんどのマスコミは彼を泡沫候補として注目していませんでした。民主党の大統領候補者からはもちろん、共和党の候補者たちからも批判されていたトランプ氏を多くのメディアが「きわもの」として報道していたのです。

メディアはトランプ氏の女性問題を繰り返し報道し、女性を蔑視する差別主義者としての印象を視聴者に植え付けようとしました。政治家としては州知事の経験すらなく、タレントであり、不動産で築いた大金持ち。しかも、下品で無教養、常識も通用しないトランプがアメリカの大統領になったら大変なことになる、と騒ぎ立てたのです。そうしたトランプ氏に対する逆風は、アメリカ国内外を問わず吹き荒れていました。そんな四面楚歌の中、選挙直前の予想では、ヒラリー・クリントン氏が当選する確率は71.4%、トランプ氏は28.6%と報じられました。圧倒的にヒラリー優勢と報道される中で投票がはじまったのです。

開票作業がはじまると、いくつかのメディアがすぐにヒラリーに当確を打ちました。ところが、開票が進むにつれ、トランプ氏が得票を増やしていったのです。終わってみればトランプ氏が選挙人の55%を獲得して当選。国民の世論を読み間違えたマスメディアは意気消沈しました。トランプ氏が第45代大統領になった2016年からのアメリカの4年間はどうだったでしょう。はじめこそ重要閣僚が次々と交代し、政治的経験がほとんどないトランプ氏に対する懸念が現実のものとなったかのようでした。しかし、その後、政権は安定し、アメリカの秩序と経済は回復しました。アメリカが関与した戦争すら起きなかったのです。

トランプ氏が大統領になってからの変化はそれだけではありません。彼がこれまで、そして、今もなお繰り返し批判している、マスメディアの偏向ぶりがあぶり出される結果になりました。メディアは必ずしも「真実」を伝えているわけではありません。詳しくは「歴史の転換点(4)」に書きましたが、トランプのスキャンダルとして報じられたロシア疑惑が、実は民主党オバマ政権のバイデン副大統領によるウクライナ汚職とつながっていることが明らかになりました。ヒラリー・クリントンのメール問題が単なるミスではなく、クリントン財団が世界中から不当な資金を集める団体だったことをも明らかにしたのです。

メディアによるトランプ氏に対する印象操作、報道内容の恣意的な操作を深刻だと私が思うのは、彼を政治的におとしめ、大統領の座から葬り去ろうとする策略に、個人レベルではなく、FBIやCIA、あるいは国務省や裁判所など政府機関が関与していたという点です。これまで我々が映画の世界の出来事だと思ってきたことが現実に存在していたのです。アメリカという国家のゆくえが、一般国民の選挙の結果ではなく(その選挙結果さえもが「盗まれていた」?)、エスタブリッシュメントたちの意志が影響していたのです。トランプ大統領の登場は、そうした現実に国民が気づき始めるきっかけになりました。

昨年の大統領選挙戦の過程において、ロバート・ケネディ・ジュニアやタルシー・ギャバードといった民主党の大物政治家がトランプ陣営に加わりました。その一方で、共和党の大統領候補だったトランプ氏自身が、共和党内部の抵抗勢力と戦いながら勝ち上がってきたという事実にも目を向けなければなりません。このような異例の出来事が、今のアメリカをとりまく政治問題の深刻さ、あるいは、アメリカ社会の異常さを表しているともいえます。それはまるで、自由と民主主義の国家アメリカが、自由を社会的に失い、いまや民主主義すらなくしかけたぎりぎりのところで踏みとどまっているかのようでもあります。

 

アメリカのみならず、日本をふくむ世界が今大きな変革期を迎えていると思います。これまでの社会のあり方を見直すと同時に、今のこの変革そのものがいったいどのような社会に変えていくのかを冷静に見つめるべきです。世界は東西冷戦の時代からアメリカ一極主義にながれがかわりました。そして、グローバリズムの波が世界中をかけめぐるようになってからというもの、国境という壁すら必要のない「国際化」があらゆる分野に求められてきました。しかし、それは一方において弱肉強食の社会を受け入れるものでもありました。強いものが弱いものから奪いとっていく世界観だったのです。

世界の1%の超富裕層が全資産の37%を独占しているといいます。そうした超富裕層の三分の一がアメリカ人です。アメリカでの1%の富裕層が全米資産の30%を所有しています。中国のような共産国ですら、100万米ドル以上の資産をもつ富裕層は人口の0.3%ですが(共産国にこんな富豪がいること自体が異常)、富裕層の平均年収は約3000万円である一方で、年収20万円以下で生活している人民は全人口の40%だといわれています。自由主義のアメリカであろうと、全体主義(共産主義)の中国であろうと、真の民主主義のない国家では富の独占が合法的におこなわれているのです。そして、これがグローバリズムの正体です。

日本にも押し寄せてきたグローバリズムの結果がどうだったでしょうか。いわゆる「世界標準」は日本国民のために、ひいていえば日本のためになったのか。大規模なスーパーによって商店街は次々と姿を消し、もの作りの伝統が先細りとなり、日本の土地が外国資本に買い取られ、不良外国人による犯罪によって治安が悪化しています。もちろん日本の国際化によって、世界で日本の強みを生かしているという側面もあるかもしれません。しかし、日本でも「強いものが、弱いものから奪う」ことが合法的におこなわれ、最近では「社会的な弱者を装って公金(補助金)を盗み取る」ということすら横行するようになりました。

「持続可能な社会(SDGs)」というキャッチフレーズで進められている環境問題がいい例です。環境保護という美名のもとに、環境の保護にはつながらない価値観を喧伝し、社会のあり方を誘導して公金を盗み取るのです。「脱炭素による地球の温暖化防止」のための再生可能エネルギーの推進もそのひとつ。太陽光発電パネルや電気自動車などはその生産過程において二酸化炭素を大量に放出します。太陽光発電や風力発電という不安定なエネルギーを獲得するために広大な森林が伐採されています。レジ袋だって有料化が脱炭素につながらず、マイクロチップによる海洋汚染を阻止しないことも今ではあきらかです。

脱炭素の問題に関しては客観的で科学的なデータで検証することが可能です。それでも現在のSDGsという社会運動は、科学的な検討結果ではなく「環境保護」といういささか情緒的なムーブメント(しかも誰かの思惑によるもの?)に偏りすぎています。そもそも「本当にその対策が目的達成のために有効か」を考えて脱炭素を主張している人は多くはありません。「なんとなくそう言われているから」「それが企業イメージをあげるから」というあいまいな気持ちでながされている人が大半です。それが間違っているということがわかっても、なかなか以前の社会行動に戻せないことがほとんどです。

LGBTやフリージェンダーの人たち、あるいは少数民族に対する差別の問題も同じです。現在の日本に本当に差別が存在するのか。あるとすればどんな差別が存在しているのか。そうした検証なくして具体的な対策は取れないはず。そもそも日本における差別の問題は、文化的にも、宗教や信仰という観点からも大きくことなる欧米や他のアジア諸国のそれと比較はできません。ましてや、日本における差別の問題を、諸外国からとやかくいわれる筋合いはないのです。突っ込んだ国民的議論が国内にないまま、アメリカの政権から指示されたかのように拙速に「解決」しようとするのは間違いです。

差別の問題は、なにをもって差別とするのかが、ある意味、情緒的・主観的なものになっていて、複雑模糊として単純ではありません。いろいろな考え方があるだけに、解決の難しいことなのです。昨日までなんの問題もなかった人間関係が、あらためて差別の問題を提起されてぎくしゃくすることもあります。あえて隠しておきたい人にとって、「カミングアウトして胸を張って生きろ」と強制するのも筋違いです。ひとの心の奥にある問題を単純に善悪という観点であつかえないのです。ましてや精神的にも、社会的にも未発達である子ども達の世界にもちこむテーマではないと思います。

 

人の価値観の問題は拙速に結論を出してはいけません。社会の安定を維持するためには、人々の価値観を調整しなければならない。しかし、価値観の問題は単純に「多様性の問題」として解決できないもの。「多様性を認めることのどこがいけないのか」と思う方もいるでしょう。しかし、「多様性を認めるべき」という考え方は、ともすると「認めなければならない」と短絡的にとらえられてしまう危険性があります。ですから「多様性をどう認めていくべきなのか」についての社会的な合意を築くプロセスが大切。必ずしも「認めること」が絶対的な善でもなければ、「認めないこと」が絶対的悪ではないのです。

ところが、今の日本において、価値観の問題が拙速に決めつけられているように思います。「基本法」という法律によって、簡単に「いい、悪い」が判断され、学校においてもなかば強制される教育がおこなわれているのです。これまでの日本人の価値観を修正するような問題は、日本の伝統や歴史、文化や価値観に基づく広汎な議論が必要です。ましてや、特定の人たちの思惑による作為があってはなりません。社会の価値観の変更は、ひとりひとりの生活や人生に関わること。社会は「最大多数の最大幸福」のためにあるべきで、そうした理想を実現するためにも、さまざまな人たちによる深い議論が不可欠です。

アメリカや日本では、自由主義・民主主義を国是として掲げています。国家の役割のひとつは、すべての国民の自由と権利の調整を図ることです。そして、その国家の方向性は国民の総意を反映したものでなければなりません。その国民の意思がいかなるものであれ、尊重されなければならない。それが自由主義の基本です。一方で国民の意思を国政に反映させる手段は選挙結果です。それが民主主義の基本なのです。ところが、最近のアメリカ、あるいは日本においては、そうした自由主義、民主主義を揺るがす構造的な問題点が浮き彫りになってきました。エスタブリッシュメントという存在がそれです。

もっと具体的にいうと、国民の意思よりも、エスタブリッシュメントの思惑が政治に反映され、国のゆくすえに影響を与えていることを私は懸念しています。このことがさらに深刻なのは、本来、権力を監視すべきマスメディア自体が権力と化し、エスタブリッシュメントになっていることです。そうした社会の構造的な問題が放置されると、人々の知る権利が制限されるとともに、特定の人たちにとって都合のいい情報だけが社会にながされます。そして、国民の意思が操作され、それがまた世論調査の結果となって上書きされていく。そうなればもはや自由主義は全体主義に、民主主義は独裁主義へと変質してしまいます。

古くは「大本営発表」といわれた情報統制がおこなわれ、国民の戦意高揚に都合のよいことだけが報道されました。また、つい最近まで、TVや新聞などのオールドメディアから発信された情報が世論を支配していました。メディアから伝えられたことを額面通りに受け取った国民だけではなく、他国の国民の意志をも動かしてしまう力をメディアはもっている。「従軍慰安婦」や「福島原発事故調査報告書」に関する報道がそれでした。間違った記事が書かれたのではなく、世論を誘導する目的でねつ造された記事が「クオリティ・ペーパー(有力紙)」に掲載され、日本の国際関係にまで悪影響をおよぼしたのです。

メディアからの情報が必ずしも真実ではなく、内容によっては民意を誘導する手段となっていたことが、最近次々とあきらかになっています。そんな今、インターネットを中心とするソーシャルメディアが発達していることは、正しい情報を得るために歓迎すべき変化です。確かに、SNSに飛び交う情報は玉石混淆であり、その情報の選び方によっては間違った世論を形成する恐れがあります。それでも情報が一方的かつ単方向であると、その情報は民意を容易に操作できてしまう。そうした意味でも、SNSをはじめとするツールで自由な情報が発信・受信できることは、人々の「知る権利」を正しく行使するためにも重要です。

ところが、そのソーシャルメディアの利用を制限するべきだという意見が、おもにメディアや政治家という権力者の間から出始めています。そのことを我々国民は深刻に受け止めるべきです。国民の知る権利は「正しい情報」を知る権利。どの情報が正しく、どの情報が間違っているのかについては、個々人がリテラシーを総動員し、理性を働かせ、自分自身で判断するしかありません。「人々の価値判断」という「好き、嫌いの問題」を、いかにして「いい、悪いの判断」に近づけるか。そのための指標になるのは個人の理性と良識。価値観の違いを超えた「真理」は、多くの人たちによる終わりのない対話によってでしか得られないのです。