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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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がんばれ、新人君

先日、今上天皇陛下の祝賀御列の儀がありました。即位礼正殿の儀のときとはうってかわっての晴天で本当によかったと思います。それにしても即位礼正殿の儀の日は朝から大雨。せっかくのおめでたい日だというのにお気の毒に、と思いましたが、式典が始まるころには厚い雲から薄日が差しはじめ、雨がやむと青空となり、場所によっては虹までが見られるようになったのには驚きました。

それにしても、あの即位礼正殿の儀が行われた日の天候の変化は、以前の記事(「令和に思う」)にも書いたような「草薙剣」のいわれを地で行くようなものだったともいえます。つまり、厚い雨雲から出でる水神でもあるヤマタノオロチ。スサノオノミコトはこのオロチを退治するためにオロチに酒を飲ませて切りつけますが、彼が手にしていた十挙剣はオロチの尾の草薙剣にあたって刃こぼれをおこします。

死闘の末にスサノオはオロチを撃ち取り、その体を切り刻むとオロチの尾からは草薙剣がでてきました。すると、空一面をおおっていた厚い雲は切れ、一条の太陽の光が暗かった大地を照らし、ふたたび静かで平和な世の中が戻って来た、というものです。どうでしょう。あの即位礼正殿の儀の日の天候の劇的な変化に、なにか神がかり的なものを感じませんか。皇室の行事ではこうした奇跡がこれまでなんどもありました。

天皇陛下のお仕事は「日本の五穀豊穣と安寧、および国民の幸福と安全を祈ること」です。即位礼正殿の儀で今上陛下が宣明された「国民の幸せと、世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら国民の象徴としての務めをはたす」という誓いは、古来から営々と天皇が繰り返してこられたものです。それは14日からとりおこなわれる大嘗祭が、天皇の役割を天照大神から今上陛下が引き継ぐ祭祀であることからもわかります。

 

***** 以下、「令和に思う」からの引用

草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

***** 以上

 

日本は西暦とは異なる元号を用いており、その時代時代を象徴するイメージを容易にもつことができます。元号など無用の長物だという人もいます。しかし、一連の皇室行事を通じて感じるのは、日本古来から伝わる文化を残すことで日本人としての意識をあらためて確認できるということです。そうすることにより、世界にも類を見ない日本の伝統や文化を維持・発展できるのではないかと思います。

史上はじめて日本の古典である万葉集から採用された「令和」という元号。いったいどのような時代になるのでしょうか。日本をとりまく国際情勢、あるいは国内でのさまざまな軋轢や摩擦は、ともすると日本の誇るべき「仁・義・礼・智・信」の精神をそこなうきっかけにもなりそうで心配です。令和という元号の文字の意味にもあるように「清々しく調和のとれた時代」となればいいのですが。

そんな「令和」の時代に社会人となった人たちが、来院する製薬会社のMRさんにも、あるいは患者さんにもたくさんいます。そうした人たちにはいつも「社会人になって半年。そろそろ疲れていないかな?」と声をかけてみます。社会に出て間もないころは、まだ右も左もわからずにただ仕事をこなすのが精いっぱい。戸惑いながらも無我夢中で働いてきたであろう彼らの中にもなにかの変化が起こっています。

がむしゃらの半年がすぎ、ある程度冷静に周囲を見渡せるようになると、心にも余裕がでてくる反面、会社や仕事の嫌なところが見えてきます。必死だった仕事にも、あるいはそりの合わない先輩や上司にも多少疲れてきて、そろそろ「この仕事(会社)を辞めたい」と思い始める人がでて来る頃です。現に私もそうでしたから。「このままでいいのだろうか」というあせりが襲ってくるのです。

社会人となって半年を経た人たちに私は「そろそろ会社をやめたくなったんじゃない?」と尋ねてみます。すると、「そんなことはありません」ときっぱり答える人よりも、肯定したそうな表情で苦笑いする人の方が圧倒的に多いことに気が付きます。しかし、私はそうした人たちにこういいます。「だからといってすぐに会社を辞めちゃだめだよ」と。これは気休めで言っているのではありません。

その会社(仕事)を辞めたって、他の会社に移ったって、別の仕事に就いたって、結局は同じような状況にぶつかるからです。私は彼らにこう付け加えることも忘れません。「ひとつの場所で頑張れない人間は、よそに行っても頑張れないんだからね」と。他の会社に行けば、あるいは別の仕事をすれば、不満や嫌気から解放されて、自分にふさわしい理想的ななにかに巡り会えるなんてことは稀有なのですから。

最近は「頑張らない」ことが当たり前のようになってきました。「頑張らなくていい」という言葉が人の優しさを表現しているかようです。しかし、そうではありません。「頑張らなくていい」のは心の病気の人。頑張れないからこそ病気になった人がそもそも頑張れるはずがないのですから。頑張るべき人にも「頑張らなくてもいい」と声をかける人がいますがそれは違うと思います。

私は会社(仕事)を辞めたいと思っている新人君たちに、「すぐに辞めちゃだめだよ。辞めることはいつでもできる。そのときまで頑張れるだけ頑張るんだ。そうした頑張りが次の仕事にもつながるんだから。頑張って、頑張って、頑張って、ボロボロになったときに躊躇することなく辞めればいい。私の若いころとは違って、今は転職することのハードルは決して高くないんだからね」と言います。

私たちの時代は、同じ会社に退職まで勤めあげることが当たり前で、途中で他の会社や仕事に移る人はまるで負け犬か何かのように思われました。しかし、今は違います。多くの人にとって働くことは「自分のスキルアップのため」であり、自分のスキルにあわせて転職をすることを後ろめたいと思う必要はなくなりました。途中退社、中途採用であること自体が不利な条件ではなくなったのです。

今は食べていくだけならどんな仕事にもありつけます。より好みさえしなければ仕事は必ず見つかるのです。だからでしょうか、すぐに会社(仕事)を辞めてしまう人が少なくありません。しかし、問題は「働くことの意味」なのです。働くことの必要条件を「食べていけること」とすれば、給料が高いこと、楽しかったり、働き甲斐を感じることなどは十分条件。その必要十分条件をそろえるためには努力が必要です。

理想的な仕事などなかなか見つかるものじゃありません。だから私はあえて言いたいのです。「そんなに簡単に仕事を辞めちゃダメだよ」と。若いころの私は「気に入らない仕事を我慢してやることになんの意味があるのか」と考えていました。医学部の再受験をするため、他の友人たちが皆就職する中、ひとりだけ塾の講師をしながら受験勉強をしていた私ならではの強がりだったのかもしれません。

当時の思いがそのままセリフとなったドラマがありました。そのドラマはNHKで放映された「シャツの店」です。家庭や家族を省みず、仕事一筋に生きてきたシャツ職人にその妻と息子が反旗を翻すというもの。そのドラマの中で、家出をした息子と父親とのやり取りがとても印象的でした。大学卒業をまじかにした息子は会社に勤めず世界を放浪するといいます。それを聞いた職人の父が説教をするシーンです。

 

********** 以下、ドラマのワンシーン

(待ち合わせた川べりの喫茶店。父と息子が向き合って座っている)

父親:働かないでどうやって食べていく?

息子:働かないなんていってません。

決まった会社には入らないと言ったんです。

父親:それで?

息子:金をためて、しばらく世界を歩いてみようって。

特別変わったことじゃないです。

いい会社入った先輩で、1,2年で辞めてそういうことする人一杯いるし。

父親:そんなぐうたらな仲間に入ってどうするっ。

息子:勤めてりゃ満足?

ネクタイ締めて、とりあえずひとつんとこ勤めてりゃいいんですか?

父親:まぁ、そうだ。

息子:むちゃくちゃじゃないっ。

父親:若い時はなぁ、ひとつの仕事を我慢しても続けてみるもんだ。

息子:どうして?

父親:自分がどんな人間かわかってくる。

息子:わかってるつもりだけどな・・・。

父親:わかってるもんかっ。

人間ってものはな、嫌でたまらない仕事を我慢して続けたりして、だんだんに自分が

わかってくる。

我慢しているうちに、だんだん自分がしたいことがわかってくる。

だいたい仕事なんてものは、すぐに辞めては本当のところなどわかるものじゃない。

どんな仕事だって奥行きが深いもんだ。

息子:そりゃ父さん、自分の仕事で考えているんだよ。

だいたいの仕事は奥行きなんてないさ。

ひと月も勤めればわかる。

父親:生意気なことを言うなっ!

息子:むしろ褒めてもらいたいけどな。

人の目を気にしていい会社を狙うより、ずっと健康的なんじゃない?

父親:ふわふわ世界を歩いてなにがわかる?

息子:そんなの会社に勤めたって同じじゃない。

せいぜい人当たりがよくなって、処世術を覚えるくらいで。

父親:高をくくるなっ!

息子:だったら俺の計画にも高をくくるなよっ!

*********** 以上

 

この息子を演じたのは私と同じ年齢の佐藤浩市でした。ドラマのなかの彼も大学を卒業後、塾の講師をして資金をため、世界放浪の旅を計画していると言い出します。このドラマを見ていた当時の私は、この息子に自分自身を重ねていたように思います。私の父もまたこの鶴田浩二が演じる父親と似ていて頑固一徹でしたから、なおさらこのシーンに共感できたのではないでしょうか。

そして今、このドラマの父親と同じ世代となった私は、息子の気持ちというよりも父親の気持ちに共感するようになりました。だからこそ若い人たちに「すぐに辞めちゃだめだよ。どこにいっても同じ壁にぶちあたるんだから。別の会社に行っても、結局は『どこの会社も同じだ』って気が付くんだから」と言いたくなるのです。これは私の半生を振り返っての感想でもあります。

要するに私が若い人たちに言いたいことは、「会社(仕事)を辞めることは悪いことじゃない。いつ辞めてもいい。でも、だからこそ、それまでは今の自分がぶち当たっている壁に立ち向かって、その壁を乗り越える努力をしてごらん。そして、どうしても乗り越えられないことがわかったら、そのときにこそすっぱり辞めればいい」ということ。壁を乗り越えようとする努力は必ずあとで役に立つからです。

誰かに相談することもできず、ひとり悶々と悩み、そして試行錯誤しながらもがいていたあの頃に戻ってみたいと思うときがあります。今度はうまく切り抜けられそうに思えるからです。しかし、現実にはあの頃に戻れるはずがありません。であるなら、自分の経験を伝えることで若い人たちが困難を乗り越えるお手伝いができるかもしれない。それが私たちの世代の役割なのではないかと思っています。

最後にこれからの人たちに贈る応援歌を二曲。これは私が北大の医療問題研究会というサークルで活動していたとき、追い出しコンパ(卒業生を送り出す会)で、先輩たちへの応援歌としてよくかけられていた歌です。ひとつは岡村孝子の「夢をあきらめないで」で、もうひとつは松山千春の「大空と大地の中で」。名曲はいつ聞いても勇気を与えてくれます。若い人達にも是非このエネルギーを感じとってほしいものです。

※ UVERworldの「I LOVE THE WORLD」も若い人たちへの応援歌に聴こえます(歌詞が気に入ってます)。

                  がんばれ!

 

ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。

質的研究(3)

日本とアメリカの両国での集団面接、いわゆるフォーカスグループでは面白い違いが見られました。会場には食べ物や飲物をおき、参加者が話しやすい雰囲気を作ってインタビューをおこないましたが、アメリカでは多くの人が調査開始までの間、コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりしながら参加者同士が談笑しており、皆リラックスしていました。それに対して日本ではほとんどの人がお菓子や飲み物には手をつけませんでした。また、面接が始まるまでは静まりかえっているなど、アメリカでの風景とは異なっていました。

日本での参加者全員が有力者の紹介で集まり、お互いに知り合いだという人もいました。にも関わらず、フォーカスグループが始まってもなかなか発言がありませんでした。ところが、いったんキーワードとなるような話題が出ると話しが多少だけ盛り上がり、日本の参加者は自分の意見を集団の中で発表するのに慣れていないという様子がうかがえました。調査終了後、協力していただいた人には謝礼を支払ったのですが、日本の参加者は全員がその謝礼を受け取るとそのまま会場をあとにしました。

ところがアメリカは違いました。結構な数の人が調査後も残って、私たちを取り囲んでは「とても興味深い調査だね。もっと詳しく教えてくれないか。日本ではどんな話しが出たんだい?」と今回の研究に関心を持ってくれました。しかも何人かの人が「私はこの研究を手助けするために来たのだから謝礼はいらない」と謝金を受け取りませんでした。自発的に参加したか、紹介されて参加したかの違いによるものかもしれませんが、日本人とアメリカ人の社会参加に対する意識の違いを反映しているようにも見えました。

日米での調査がすべて終わるころ、日本での質的調査の結果を論文にして投稿したときある問題が生じました。それは投稿した学術雑誌の編集委員会が、私の質的調査の論文を「原著としては掲載しない。資料としてなら掲載する」と言ってきたのです。科学雑誌に投稿した論文は「査読」と呼ばれるチェックを受け、論文として不適切な部分の修正を求められます。その雑誌の査読を受けていた私の論文はどうやら原著論文にはふさわしくないと判断されたようでした。

「原著論文」というのはその研究の独創性や新規性が学術的に評価されたものであり、「資料」とは興味深い結果ではあるがその価値は参考程度にとどまる論文といったニュアンスがあります。ですから、「この論文は原著ではなく資料として掲載するべき」ということは、科学論文としての価値が不十分だとみなされたのも同然なのです。投稿した雑誌が従来から量的研究の牙城だったからかもしれませんが、原著論文として掲載されないのは質的研究(調査)の論文だったということが大きく影響しているように思えました。

すでにお話ししたように、数値を使って統計学的な有意差を確かめる量的研究とは違って、質的研究はあくまでも分析者の主観を利用しています。主観を利用していますが、「恣意的な研究」ではありません。しかし、「恣意的」だとする誤解(偏見?)が根強く残っている質的研究の論文は、当時、学術雑誌に原著として掲載されることはほとんどありませんでした。しかし、私は「原著論文の価値がある」と確信できる論文を書いたつもりでしたし、ミシガン大学のフェターズ先生からもお墨付きをもらっていました。

一方で私は、質的調査の結果をまとめた自分の論文をあえて量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に「原著」として掲載することを重視していました。それは質的研究も「科学的研究」なのだと認めさせる戦いでもあったからです。それまでさまざまなところで感じてきた質的研究に対する偏見や誤解を払拭し、質的研究も学術的な手法として正当なものであることを主張するためには、量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に質的研究の論文を「原著」として掲載しなければならならなかったのです。

私の論文は三人の編集委員から査読を受けた後、委員が求めた修正コメントとともに戻ってきました。しかし、査読した委員からの修正コメントには、質的研究を方法論として理解しているとは思えないような不適切な修正要求が書かれていました。私は論文の修正すべきところは修正しましたが、納得のいかない修正要求にはひとつひとつに反論を書いて再投稿しました。編集委員のひとりはその後再修正を求めてきませんでした。しかし、他の二人の委員からはなおも前回と同様の修正要求が再び送られて来ました。

私の反論に対して納得のいく回答がないことを指摘するとともに、共同執筆者でもあるフェターズ先生の「原著論文にならないのは納得できない」との意見を添えて再度反論しました。しかし、編集委員会からの査読結果は変わりませんでした。むしろ「資料でであれば掲載するが、あくまでも原著論文としての掲載を求めるなら受理しない」と突き放すような回答が返ってきました。質的研究の論文を原著として雑誌に掲載することの難しさを改めて感じさせられました。

私はフェターズ先生と相談の上、今回は「資料」での掲載で甘んじ、次の論文を原著で掲載することを目指すことにしました。「今度こそ原著論文で掲載させてみせる」との決意も新たに、その後の論文もこの雑誌に原著論文として投稿しました。もちろん納得のいかない査読結果にはしっかり反論して再投稿しました。ところが、そうした私の意気込みをよそに、編集委員会はあくまでも「原著も資料もその価値は同じだから」という理由を繰り返し、続いて投稿した論文もことごとく原著として掲載しませんでした。

質的調査を実際にやってみると、質的研究の課題も明らかになってきました。そうしたことも、他のいろいろな雑誌に論文として投稿していました。するといつしか原著論文として掲載することを拒んでいたあの学術雑誌から質的研究の論文の査読を頼まれるようになりました。おそらくその雑誌にも質的研究の論文投稿が増えてきたからだと思います。それまで納得できない査読結果に不満をもっていた私は、私自身の経験をふまえて執筆者が質の高い論文を書けるよう、執筆者が納得できる査読を心がけました。

そんなときにちょっとした「事件」がありました。それは投稿された論文を査読していたときの話しです。私はその論文の方法論として修正しなければならない点をいくつか指摘して執筆者に送り返しました。ところが、いつまで経っても再投稿がありませんでした。私はいつの間にかその論文のことを忘れていました。あるとき、雑誌を見ていたらなんとあの論文が掲載されているのに気が付きました。私はびっくりしました。あの論文を雑誌に掲載させることを私はまったく了承していなかったからです。

私は編集委員会に連絡しました。ところが「編集委員会の決定にもとづいて掲載したものであり、あなたの査読結果に拘束されない」というのです。「それではなんのための査読なのか」と強く抗議しましたがあとの祭り。あとで調べてみたらすごいことがわかりました。その論文はなんとこの雑誌の編集委員会幹部の研究室の修士論文だったのです。つまり、一刻も早く雑誌に掲載しないと、学位論文の提出に間に合わなかったというわけです。自分が指導する学生へのお手盛りだといわれても仕方のない判断です。

こんな解釈は私の「ゲスの勘繰り」かもしれません。でも、事実を時系列に並べるとそうなるのです。私は「日本のアカデミックはここまで腐っているいるのか」とあきれてしまいました。質が担保されていた(はずの)私の論文を原著論文として掲載することはかたくなに拒みながら、その一方で編集委員会幹部に忖度したかのように基準に満たない論文を掲載してしまうという現実はあまりにも衝撃的でした。それ以来、私には質的研究の論文の査読依頼は来なくなりました。当然のことながら、後日、私は学会を退会しました。

いろいろなことがあった大学院時代でしたが、ついに学位論文をまとめる時期がやってきました。すでに質的研究の方法論について、あるいは実際におこなった質的調査についてまとめた論文が次々と雑誌に掲載されていましたから、あとは形式にしたがって学位論文にまとめるだけでした。当初、「質的研究で学位はとれないのではないか」という陰口も耳にしましたが、私は「それでもできるだけのことはやってみよう」と気にとめないようにしていました。でも、私はついに質的研究で医学博士の学位を取ったのです。

質的手法をもちいた調査研究で医学博士が授与されたのは私が初めてではないかといわれています。大学院に進学したものの、研究の進め方も、論文の書き方も、すべてを自分ひとりで学んできました。正直にいえば、「学位論文にまとめられれば、学位までとれなくてもいいや」と弱気になったこともあります。しかし、ミシガン大学のフェターズ先生の助言と協力と多額の研究助成のおかげもあって私は学位をとりました。ゼロからスタートして学位にまでたどり着けたことはその後の私の大きな自信となりました。

開業医としての仕事をしながら、大学院時代の「プライマリ・ケアに対する患者ロイヤルティの関する研究」はとても役に立っています。患者が私たちになにを求め、なにに不安を感じているのか。患者の「声なき声」ともいうべきニーズを追い求めながら、あるべき医療を考えるとき、あのときの研究が私にヒントを与えてくれます。日本やアメリカでの質的調査、ミシガンで生活した思い出は今でも私の大きな原動力になっています。今の自分は間違いなくあのときの研究、当時の思い出に支えられています。

質的研究(2)

「プライマリ・ケアに対する人々の信頼を醸成する」ためには、まず、患者がプライマリ・ケアをどうとらえているかを調べてみなければいけないと私は思っていました。それらをインタビューをはじめとする質的調査手法で調べてみようと思ったのです。そして、患者がプライマリ・ケアに対して持っているイメージの背景に何があるかを明らかにしてみようと考えました。そのためにまず日米の比較研究をしてみよう。そう思っていたときに巡り会ったのが米国ミシガン大学のマイク・フェターズ先生です。

私は当初、米国留学から帰国したばかりの助教授に、日米比較調査をするアメリカ側の相手を探すため、米国で診療している日本人医師を紹介してもらいました。するとミシガン大学医学部のアメリカ人研究者が質的研究を実際にやったことがあるらしいと教えてくれました。それがフェターズ先生でした。さっそく私はフェターズ先生にeメールを送りました。すると彼も私の研究に関心があるとの返事をもらいました。それ以後、日米比較調査はとんとん拍子に具体化していきました。

問題は研究費をどう捻出するかでした。質的調査、しかも日米両国での調査となればそれなりの経費がかかります。そこで私は受けられそうな研究助成(グラント)に片っ端から応募してみました。小さな額から大きな額まで、応募できる助成のすべてに申請書類を送りました。その中でもとある大手製薬会社の助成金は500万円と多額でした。大学院に進んでからすでに結構な額の自腹を切っていたこともあって、この研究助成金は是非獲得したいものでした。私は祈るような気持ちで応募しました。

しばらくして私の研究が採択される旨の通知が来ました。500万円の助成金が受けられるのです。正直、ほっとしました。この助成金でインタビュー調査に使用するビデオカメラや音声録音機器のほか、質的調査の分析の際に必要となる機材を購入することができます。なにより調査に協力してくれた人たちに謝金が払えます。また、アメリカへの渡航費用や滞在費も捻出できます。私のモチベーションは一気に高まりました。論文を執筆するペースもどんどん進んでいき、日米比較研究をはじめる準備は次第に整っていきました。

そのときの研究室には大学院生の後輩がいました。他大学の歯学部を卒業した彼を、うちの医局の教授が誘って大学院生として入学してきたのです。しかし、彼もまた入学後ずっと教授から指導を受けることもなく、日々を無為に過ごしていました。なにをやればいいのかわからないまま時間だけが去っていく。そんな毎日に彼はどんどん元気がなくなっているように見えました。せっかく期待を胸に入学してきただろうに、なかば「飼い殺し」になっている彼が気の毒でした。

私は彼を共同研究者にして日米比較調査の手伝いをさせようと思いました。500万円もの助成金を得られたのですから、彼をアメリカに連れていく渡航費も出して上げられます。私の調査の手伝いをしながら、彼自身の研究に対するモチベーションを高められればという思いがあったのです。そのことを告げると彼の表情は明るくなりました。これまでたったひとりで頑張ってきた私ですが、共同研究者という心強い仲間もできました。日米比較調査に対する期待はどんどんふくらんでいきました。

フェターズ先生とはeメールで、ときには国際電話でやりとりをしながら日米比較調査を具体化していきました。その一方で、渡米するまでに日本でのインタビュー調査も進めておかなければなりませんでした。北海道大学の倫理委員会に日米比較調査をする申請をしたり、調査に入る地域への挨拶まわりをしたり。調査に協力してくれる人の募集やインタビューガイドとよばれる進行表の作成など、やらなければならないことが目白押しでした。それまでマイペースだった大学院生活は一転してとても忙しいものになりました。

そんなとき、フェターズ先生から私を愕然とさせる連絡が入りました。それは「ミシガン大学との共同研究には約300万円の協力費が必要だ」というのです。今回の日米比較調査は正式に北海道大学とミシガン大学の共同研究になっていました。ですから、北海道大学に対する申請の他に、ミシガン大学でも膨大な申請書類を提出して審査を受けなければなりません。ミシガン大学の施設を使い、私も研究員として調査に加わる以上、それなりの費用がかかるというのがフェターズ先生の説明でした。

500万円の研究助成を受けられると喜んでいたのもつかの間、その多くをミシガン大学に支払わなければならない。フェターズ先生は「これは大学の決まりだから」と言いますが、思いもかけない多額の出費はやはりショックでした。しかし、予算が大幅にオーバーするからといって調査を縮小することもできません。アメリカに連れて行く後輩の渡航費を負担しないわけにもいきません。予想外の出費を自腹でまかなうことにして調査は予定通りに進めることにしました。

アメリカには打ち合わせのために何度か行きました。そのときの珍道中はすでにこのブログでも紹介した通りです。ビデオ機材を担いでなんども「羽田ーデトロイト」を往復したせいか、アメリカでの入管では結構しつこく入国目的をきかれました。二回目の打ち合わせに渡米した帰り、成田空港では珍しくめずらしく手荷物検査も受けました。入管の審査官はビデオの三脚を中心に細かく調べていましたが、おそらく麻薬の密売人を疑われていたんだと思います。三脚に麻薬を隠すことが多いのでしょう。

日米比較調査というビックプロジェクトを進めているというやりがいを感じながら毎日が充実していました。日本での調査も順調に進み、あとは渡米するのみとなりました。アメリカでの長期滞在のために用意したどでかいトランクの中には、日本での調査結果とともに私の夢と希望が詰まっていました。成田で共同研究者である後輩と合流し、「羽田発デトロイト行きのノースウェスト機」に搭乗しました。打ち合わせに初めて渡米したときの失敗を繰り返さないためデトロイトへの直行便を選びました。

デトロイト空港での入国審査ではかなり入念に質問されました。「入国の目的は?」「どのような研究?調査の内容は?」「共同研究者の所属と名前?」「その間の生活費はどうする?」「どこに住む?」などなど矢継ぎばやにきかれました。きっと観光ビザで入国しても実は労働目的ってアジア人が多いからなんでしょう。ようやくアメリカに入国できたのもつかの間、レンタカー会社に行き、慣れない英語で車を長期間借りる手続きをしてようやくアン・アーバー市へ。

アン・アーバーに着いてミシガン大学へ。まずは大学の留学生用の宿舎を借りなければなりません。広い大学構内にレンタカーを走らせ、あちこち迷いながらようやく事務所にたどり着きました。英語での手続きは思いのほか簡単ですぐに終わりました。ミシガン大学の広さは日本の大学の比ではありません。構内にひとつの街が存在するかのような広さ。無料の巡回バスが定期的に走っているくらいですから。校舎を移動するときはそのバスに乗っていきます。アメリカでは車なしでは生活できないのです。

大学の構内には至るところに掲示板があり、ボランティアの募集やなにかのレッスンの勧誘チラシがぎっしり貼られています。例えば、転居かなにかで車が不要になった人は「車売ります」と書いた紙を貼っていきます。そのチラシには電話番号が書かれた小さな紙片がぶらさがっていて、その車に興味をもった人たちがその小さな紙きれをちぎって持って帰るのです。アメリカに何年も留学する人たちはこうして中古の車を手に入れます。アメリカならではの合理的なシステムです。

私たちが借りた留学生用の宿舎は二階建ての建物の二階にあって、20畳ほどのリビングと8畳の寝室、そして、台所とバスルームという家内とふたりで生活するにはちょうどいい広さでした。週末には掃除や洗濯をしてくれるハウスキーパーが来てくれました。一方で、一緒に連れて行った大学院の後輩は、発展途上国からの留学生などが格安で住むことができるアパートに部屋を借りました。そのアパートは大学からは少し離れていましたが、私の宿舎に来るときは大学の無料バスで来ることができました。

フェターズ先生は家庭医療学講座の准教授でした。平日は彼のオフィスがある大学の施設に通い、アメリカで行なう調査の計画と準備をしました。オフィスには長崎大学医学部から留学していた先生や公衆衛生学部の日本人留学生などがいて、私たちの調査に協力してくれました。24時間英語で話さなければならない環境は私にとってはそれなりにストレスでした(家内によれば、寝言すら英語だったそうですから)が、日本語が通じる日本人留学生が身近にいることはとても心強かったです。

準備万端でおこなったアメリカでの調査はとても興味深いものでした。アメリカ人の成熟した社会性に感心したといってもいいかもしれません。調査はまずインタビューに協力してくれる人を探すことから始めました。当初、誰かからの紹介ではなく、調査に興味を持ち、自発的に応募してくる参加者を集めることにしていました。そこで、アン・アーバー市とその周辺地域にある教会やスーパー、床屋さんなどをまわって、掲示板にチラシを貼らせてもらい協力者を募集しました。

アメリカでは協力的な人ばかりでした。調査の目的と概要を説明して「貼り紙をさせてもらえないか」と頼むとほとんどの人が好意的でした。「とても大切な調査だね。好きなところに貼っていっていいよ」といってくれます。とくに教会などでは「他の教会、知り合いの人にも貼り紙を頼んであげましょうか」と申し出てくれるなどとても協力的でした。ときには私の英語が下手で困ることもありましたが、貼り紙をさせてもらうのに苦労することはほとんどありませんでした。

一方、日本ではこうはいきませんでした。同じように貼り紙をお願いしても、「それはちょっと勘弁してください」と拒否されたり、「責任者の許可をとらなきゃならない」と言われてその後返事がないまま、といったことがしばしばでした。日本では調査の目的や内容の問題というよりも、「協力する」ということ自体が嫌厭されていたように思います。結果として、アメリカでは貼り紙を見て自発的に応募して来た人が多かったのに対して、日本の参加者はその全員が紹介してもらって集めた人という結果になりました。

 

********* 「質的研究(3)」に続きます。

質的研究(1)

私がまだ医学部の学生のころ、「全人的医療を考える会」というセミナーが開かれていました。「全人的医療」とは「人の疾患を診るのではなく、病気を抱える患者を診る」をスローガンとする医療をいいます。その医療を実践する運動で中心的な役割を果たしたのが今は亡き大阪大学の中川米蔵教授です。セミナーでは座学や講演、体験学習がおこなわれましたが、私はその会自体よりも体験学習に興味があり、その方法論をめぐって中川教授となんどか手紙のやりとりをしたほどでした。

当時から私は「医者には面接技法が必要」と思っていました。そんなこともあって、カウンセリングを治療法としてもちいる臨床心理学を中心に勉強していました。セミナーでの体験学習の方法論につながっているように思えたからでもあります。エンカウンターグループという集団面接によるカウンセリングは、医者になったとき、外来での患者とやりとりに活かせるのではないか。そんなことを考えながら勉強していましたが、後に私が学位をとった質的研究にもつながっていきました。

私は特定の臓器を専門とする医者(一般的にいう「専門医」)になろうとは思っていませんでした。当初からプライマリ・ケアを担当する「プライマリ・ケア医」としてできるだけ患者を幅広く診ることができる医者になろうと考えていました。病気を治療・管理するだけではなく、患者の不安や悩み、健康相談までトータルにサポートできる医者になりたかったのです。専門医になることよりもプライマリ・ケア医として患者を診ることの方が医者としてやりがいがあると思っていたのかもしれません。

しかし、「プライマリ・ケア医(開業医)を信用していない国民は決して少なくない」ということはうすうす感じていました。「開業医」や「町医者」といった言葉には、どこかその医者を軽蔑するような響きがあります。大学病院の医者は優秀で、町医者はあてにならない、そんなイメージがあるのかもしれません。開業医の多くはかつて大学病院の医者だったのに、町医者になったとたんになぜそのようなイメージにかわるのか。私は以前からその理由が知りたいと思っていました。

専門診療をする医者には当然専門性がなければなりません。その専門医が持つ高度で専門的な技術と知識はプライマリ・ケア医にはないものかもしれません。しかし、その一方でプライマリ・ケア医には患者をトータルに診ていく医師としての守備範囲の広さが必要です。特定の臓器をあつかう専門医にはこの守備範囲の広さがありません。つまり、それぞれの医者にはそれぞれの専門性があるのです。専門医の「深さ」とプライマリ・ケア医の「広さ」を「どちらが有能か、優秀か」と比較すること自体が無意味なのです。

にもかかわらず、一般の人たちの中にはプライマリ・ケア医に対する根強い不信感がありそうです。それがどう形成されてきたかを知ることは、プライマリ・ケア医への信頼をとりもどすことにつながるかもしれません。しかし、そうした調査や研究をした文献はこれまでほとんどありませんでした。プライマリ・ケアに関する研究はそれだけ遅れているということでもあり、私は大学院で「国民の信頼を得られるプライマリ・ケアのあり方」について研究をしてみたいと思いました。

といいながら、私が調べたいと思っていた領域の研究の指導をしてくれる場所がありません。仕方なく当時所属していた医局の教授を指導教官にして大学院に進むことにしました。「仕方なく」と書いたのは、当時の医局の教授はあまり研究に関心がなく、適切な指導を受けることは期待できなかったからです。しかし、それは逆に自由に研究をさせてもらえることでもあります。なにはともあれ、とにかく大学院に進んでやれるだけのことはやってみようと思ったのでした。

大学院に進んでみると、予想したとおり指導教官の「指導」はありませんでした。何をどうしたらいいのか、私は手探りで研究を始めなければなりませんでした。でも、自分で選んだ道です。同じ研究室の仲間達に愚痴をこぼしながらも、とりあえず「プライマリ・ケアへの信頼を取り戻すにはどうしたらいいか」という大テーマに関連する本を私は片っ端から読んでみました。また、これまでの先行研究もできるかぎり取り寄せて読みることにしました。はじめの1年はこの作業に明け暮れました。

すると、やらなければならないテーマが次々と浮かんできました。その領域もどんどん広がっていきます。それほどまでに医師・患者関係に関する研究はほとんどが手つかずだったのです。それには理由がありました。まず、医者はそのような事柄に関心がなかったこと。そして、「どのような方法論」で調べていくかについて限界があったからです。多くの研究はアンケートに頼ることがほとんどでしたが、アンケート調査を繰り返してもそれまでの研究成果をブレイク・スルーするような結果は得られなかったのです。

研究課題を明らかにするのにふさわしい方法論が見つからない。そんな現実に行き詰まっているうちにあっという間に2年が経とうとしていました。あと2年で成果を出さなければいけないというプレッシャーを感じるようになったとき、アメリカでの留学を終えて助教授に赴任してきた先生に「アメリカでは『質的研究』というものがあるようだから勉強してみたら」とアドバイスされました。「質的研究」という耳慣れない言葉に興味をもった私はさっそく調べてみることにしました。

試験管を振ったりして実験的に調べる研究を自然科学といいますが、人々がどう考えているのかをアンケートなどの手法を使って調べる研究を社会科学調査といいます。アンケートでは統計学的な手法を使って回答の傾向を調べますが、社会調査ではときにアンケートではなく、観察調査やインタビュー調査などによって人間の行動や意識の深い部分を探ろうとするものがあります。これらの手法はアンケートでは知ることのできないような事象の意味などを調べるときに有用な方法論です。

このように、社会調査の中でアンケート調査のようにデータを数値化して統計処理するものを「量的研究」、インタビューなど非数値化データを利用して解析するものを「質的研究」といいます。従来の「量的研究(調査)」に慣れた人たちからすると、数値や統計処理に頼らずに解析する質的研究は客観性に欠けた「いい加減な調査」に見えるようです。質的研究に向けられる批判の多くはまさしくその「客観性がない(に欠ける)」という点(ある意味でこれは無知から来る誤解なのですけど)でした。

でもよく考えてみて下さい。アンケート調査はデータを数値化して統計理論を背景に客観性が担保されているように見えます。しかし、アンケートの回答がきちんと対象者の意見や考えを反映しているとどうしていえるでしょう。アンケートの内容、設問の妥当性が担保されているかという点は重要です。しかし、そこは皆目をつぶっています。アンケートの選択肢にはない回答は「その他」として処理されますが、「その他」の回答の中にこそ重要な情報があるといった場合もあります。

つまり、「量的研究」と「質的研究」のどちらが優れているかという問題ではないのです。その調査に適している方法論はなにか、というところが大切なのです。たしかに質的研究は恣意的なもの、あるいは作為的なものになる危険性はあります。しかし、調査プロセスをしたがって、調査の質を担保する工夫を施し、論理的に結論を見いだす努力によって科学性はある程度担保されます。そのことを私は、質的研究の方法論をその根本から学びながら実感しました。

私はまず「恣意的だ、主観的だ」といわれる質的研究の方法論を一度整理してみようと考えました。質的調査の正当性・妥当性を統計学的に調べようと思ったのです。学生アルバイトを募って、質的研究でおこなう分析の妥当性を検討する実験をしてみました。たった8人ほどの学生を使ったものでしたが、事前に分析のプロセスを決め、複数の分析者による確認作業を併用すれば、「人間の主観はいい加減だ」と一方的に批判されるべきではないことがわかりました。

こんなことがありました。ちょうどこの頃、長男は2歳ぐらいでいろいろなものを口にするので困っていました。携帯電話を手にしてボタンを押すことを覚えて、いろいろなところに電話をかけてしまい、その都度私たちが謝りの電話をかけるといったことがしばしばありました。私のところにもなんどか電話がかかってきて、「もしもし」と呼びかけても返事なし。何度も呼びかけるうちに「スーハー、スーハー」と鼻息だけが聞こえてきます。なにやら「変態電話」のようなコールでした。

あるとき私の携帯をなにげなく見たら、方法論に関する実験を手伝ってくれた女子学生の連絡先に電話をかけた痕跡がありました。若い女子学生のところに用もないのに私が電話をするはずがありません。私はとっさにあの「スーハー、スーハー」という息子の鼻息を思い出しました。私の携帯からの電話を受取って、その「スーハー、スーハー」を聴いて女子学生が勘違いしていないか心配になりました。私は勇気を出してその女子学生にかけ直し、息子が間違ってかけてしまった電話だったとお詫びしました。

彼女たちのような学生を使って質的研究の方法論を検討してみると、質的な調査手法が私がこれからやろうとしている研究に役立つことを確信しました。しかし、指導教官にそうした進行状況を報告しましたが反応はありませんでした。また、医局の中ですら私の研究に向けられる冷ややかな目を感じていました。統計調査に慣れた人たちからすれば、質的研究という聞き慣れない方法論は「統計学的に意味のない調査」に見えたのかもしれません。私はそうしたまるで偏見のような逆風を感じながら研究を続けました。

 

****** 「質的研究(2)」につづくに続く