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AIと医療のはざまで

以下の文は、医師会雑誌に投稿したものです。AIなどをはじめとするコンピューター・サイエンスの発達は、これからの社会を大きく変えていくことでしょう。それらの変化が、人類の生活の質の向上に寄与するものになるのか、それとも人類社会に危機をもたらすものなのかはわかりません。しかし、すべては我々人類の英知と倫理観にかかっています。

************************** 以下、本文

私が大学に入学したころ、いわゆるデスクトップ型PCと呼ばれる汎用パソコンが世の中に広まり始めました。当時はまだ「パソコン」、すなわち、パーソナルコンピューター(PC)という言葉すら広く認知されていなかった時代でした。今でこそアップル社製のコンピューターが人気ですが、当時はそれほど注目されておらず、むしろ、タンディ・ラジオ・シャック社製のTRS-80というマイクロコンピューターが知られていました。

CPUもまだ8ビットが主流であり、ザイログ社のZ80を搭載しているPCが多い時代でした。「16ビットのCPUが出た」という話を聴いて「すげぇ」と言っていたころでもあります。ちなみに現在のCPUは64ビット単位でデータ処理をしていますし、クロック周波数もギガ単位です。Z80のそれはメガ単位で、今の1000分の1だったことを考えると隔世の感があります。

 

コンピューター自身も、これまでのノイマン型と呼ばれるデータを逐次処理するタイプから、同時に複数のデータ処理をおこなう量子コンピューターへと革新的な変化を遂げています。そして、コンピューターが活用される場面も大きく変化しています。単なるデータ処理や複雑な計算だけではなく、さまざまな機器の操作や制御などにも活用されており、現代社会には不可欠なものになっています。

AI(artificial intelligence)技術の進歩は世界を大きく変えようとしています。大学生のころに話題となっていたPrologという論理プログラミング言語は、今の人工知能のはしりともいえるものかも知れません。Prologは、事象や事物との関連性を理解し、推論するためのコンピューター言語です。我々が話している言葉の解析、あるいは人間の認知・認識を質的に分析するツールとして利用されてきた人工知能の基盤ともいえるものです。

 

こうしたコンピューター技術の進化は、これからの人々の生活を確実に変えていくでしょう。たくさんの知識をもとに判断していくという作業がまさに劇的な変化をとげるのです。法律の知識を駆使して法的な解釈をする弁護士の仕事、原稿を読み上げるだけにとどまらず、人との会話を通じてものごとを伝えるアナウンサーや解説者の仕事。そして、私たちの医療の領域においても決して例外ではありません。

 医師としての仕事の多くも、医学的知識を通じて病歴や症状、検査結果から疾患を診断し、治療方法を選択する作業です。現在の診療は医師の裁量権が大きいため、医師個人の力量によって診断の精度、治療効果が大きくかわってきます。しかし、AIを中心とするコンピューターサイエンスの発達によって、診断・治療の標準化・最適化をはかることが可能です。これは科学技術の発達にともなう大きな福音だともいえるでしょう。

 

AIによって医療の風景はずいぶんとちがったものになるはずです。病理診断や画像診断、あるいは皮膚科診療などはある種のパターン認識に支えられているため、AIにとって変わられる可能性の高い分野です。さらにいえば、内科診療全般もそうなるかもしれません。そして、医師でなくとも多少の医学的知識さえあればコメディカルの人たちでも代行できるようになる。その結果、医師の数を削減して、医療費の抑制にも寄与するでしょう。

また、AI診療によって疾患の管理がおこなわれるようになるかもしれません。スマートウォッチで定期的に測られた血圧の値、自己血糖測定機器からの血糖値はクラウドデータベースに送られます。また、自分の都合のいいときに、都合のいい病院で採血をしたデータもクラウドデータベースに送られて医療機関に共有されるのです。そして、それらのデータがAIによって解析され、投与薬が処方され、適宜病院を受診するよう指示されます。

 

在宅医療も大きく変わるでしょう。タブレットをもった保健師が各患者宅をまわり、訪問時のバイタルと患者の状態をAIに送ります。すると、経過観察でいいのか、それとも病院への受診を勧めるべきなのかの指示が送られてくる。訪問する保健師も忙しい医師の指示を待つまでもなく、AIからの指示が逐次送られてくるので安心です。患者を病院に受診させる際も、これまでのバイタルと状態像をデータとしてすみやかに紹介病院に送れるのです。

病院への受診スタイルも変わります。初診で訪れた病院では、まず、電話ボックスのような初診ブースに入ってモニター画面の前に座ります。そして、マイクに向かって自分の症状を語り、AIが問いかけてくるいくつかの質問に答えると「受診すべき診療科」が指示される。一方、該当する診療科の初診医のモニターには、その患者の訴えと鑑別疾患が提示されます。初診医は簡単な診察と確認を行なって暫定的な診断を下すと、AIは必要な検査や投与薬を外来医に提示するのです。

 

こうした風景が現実のものとなるのでしょうか。あるいは弁護士や医師といったいくつかの専門職がなくなってしまうのでしょうか。判断の中立化・標準化・精緻化といった作業はAIの得意とするところであり、人間が介在することが当たり前だった作業がAIに置き換わることの影響ははかりしれません。とくに医療の現場を陰で支えてきた医師・患者関係は大きくさまがわりすることでしょう。

科学技術のめざましい進歩・発展とともに、人と人とのつながりが希薄なものになっていく可能性は否定できません。世の中がより効率的になり、精確で緻密なものになることの意義は大きいとはいえ、非効率で不正確でおおざっぱな部分、すなわち、ある種、人間的な温かみを感じる側面がなくなっていくのです。それはまるで、標準化・均一化の代償として社会を「誰がやっても同じ」という無味乾燥なものにしてしまうように思えてなりません。アナログがデジタルに飲み込まれようとしている現代社会にとまどう今日この頃です。

歴史の転換点(6)

まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。

明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。

この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。

************** NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)

1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。

松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。

アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。

1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。

ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。

さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。

長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。

松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。

それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。

しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。

条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。

処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。

令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。

********************** 以下、挨拶内容要旨

父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。

「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。

主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。

********************** 以上

私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、期待していることは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。

「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」

松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。

「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」

安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで104代の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の多くの人に知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。

今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。

有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。

我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)

ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。

このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。

※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、
なにか因縁めいた
ものを感じます。

烏合の衆になるな(2)

今、にわかにインフルエンザが感染を拡大していると報道されています。事実、松戸保健所からの定期連絡でも、管内のインフルエンザ患者は増加しているようです。外国人観光客がウィルスを持ち込んだための早期流行だとする識者もいます。しかし、最近のインフルエンザは、COVID-19(新型コロナ)と同じように季節を問わずに患者が発生しています。しかも、それらのウィルスに感染した患者は、倦怠感や頭痛、関節痛といった随伴症状が多少強めにでますが、重症化するケースはほとんどないのが特徴です。

ですから、「インフルエンザ流行中」とマスコミが騒ごうとも、あわててワクチンを接種したり、風邪症状があるからといってすぐに医療機関に駆け込む必要などありません。そもそもインフルエンザであれ、COVID-19であれ、「治す薬」というものがないのです。留意すべきことは、あくまでも「重症化しないこと」。そして、「重症化のサインを見逃さないこと」。この二点に注意しながら、感染患者からうつされないようにし、万が一感染しても他者にうつさないような配慮を忘れないこと。このことに尽きます。

「重症化しないこと」と「重症化のサインを見逃さないこと」には密接な関係があるので、これらのことをまとめてお話ししたいと思います。まず、大切なことは、感染しないよう・感染させないようにすることです。そのための基本は、「マスク・手洗い・解熱しないこと」です。「マスク・手洗い」は容易に理解できるだろうと思います(とはいえ、最近の新型コロナ感染の状況から、「マスク・手洗いは無意味だった」と考える軽率な人がいますが、それは間違いです)。問題は「解熱しないこと」です。

解熱しないこと」については、当院に通院する患者さんにはだいぶ理解してもらっています。しかし、多くの人はいまだに「熱がでたら解熱剤でさげる」のが当たり前だと考えています。当たり前というよりも、「高熱=重症=死」と思って解熱剤を飲まずにいられない人が少なからずいるのです。「風邪薬(解熱剤)を飲まないでください」と説明すると、「風邪薬を飲めば2、3日で良くなる」と言う人もいます。でも、そうしたケースは、風邪薬を飲まなくても「2、3日でよくなっている」のです。

解熱剤や風邪薬を服用して熱がさがった人たちはどう行動するでしょうか。熱がさがったからと、会社や学校に行っている人たちが必ずいます。「そもそも休めないから解熱しているんじゃないか」とおっしゃる方もいるかもしれません。「熱ぐらいで休むな」と上司や教師から厳命されている人だっているかもしれません。あるいは「検査でインフルエンザやコロナの抗体が陰性だったのだから」とタカをくくって出勤・登校する人も。でも、熱が出てからしばらくの間は他の人に移しやすいことを忘れてはいけません。

熱が出たら、原則的に会社・学校を休んでください。そして、熱があっても安易に下げない。もし、解熱剤なしでも24時間は様子を見て、体温が再上昇する気配がなければマスクをして出勤・登校する。なにより他の人に感染を広めないためです。くれぐれも風邪薬を飲みながら職場に行く、学校に行かせる、といったことがないように。「あなたのため」というよりも「他者への配慮」だからです。検査など必須ではありません。ましてや「インフルエンザのタイプは?」なんてことを調べるのはまったく無意味です。

「重症化しないようにする」ためには、まずワクチンを接種することが大切です。そして、感染してしまったら、自宅で安静にしながら充分な休養をとる。そして、重症化のサインを見逃さなければいいだけです。ワクチンについては、「COVID-19のワクチンを接種しても、あれだけたくさんの死者や重症者を出したのだから無意味」と言う人たちがいます。でも、それは間違った考え方です。感染した人があれだけいれば、死者や重症者だってそれだけの数になるはず。分母と分子の数を考慮して判断すべきです。

「ワクチン接種によって重い副反応を起こしたケースがあんなに多かったじゃないか」ということについても同じです。新型コロナワクチンは当初から「数十万人にひとりの割合で重篤な副反応が出る可能性がある」といわれていました。そして、それは今、おおむね正しかったことがわかっています。重い後遺症を背負うことになった気の毒なケースについても、ワクチンを接種したときに起こることがある「ADEM(急性散在性脊髄炎)」とよばれる副反応であって、新型コロナワクチンに特有な薬害ではありません。

「ワクチンは接種した方がいいですか」と質問されることがあります。そんな時、私は次のように答えています。「どんなワクチンにも副反応がおこることがあります。その副反応が重い場合もあるため、安全性が担保されたワクチンであれば積極的に接種してください。とくに、命に関わるような疾患であり、かかっても治療薬がない場合はワクチン接種は必要です」と。したがって、インフルエンザワクチンについては、そのワクチンの安全性はある程度確認されており、積極的に接種することをお勧めしています。

その一方で、新型コロナウィルスワクチンについては、mRNAワクチンそのものが新しいワクチンであり、長期的な安全性にはまだ疑念が残るという意見があります。しかし、新型コロナが流行しはじめたときのように、多くの人が重症になったり、亡くなったりしている状況においては積極的に接種すべきです。でも、重症患者がほとんどいなくなった今、あえて接種をしなければならないとは思いません。長期的なリスクをうわまわるほどのメリットを感じないからです。こうした考えはあくまでも私個人のものなのです。

インフルエンザに限らず、感染症が重症化するのは気温の低い冬季だとされています。それは乾燥していてウィルスがなかなか死滅しにくいということ。また、空気の乾燥が人間の鼻やノドの粘膜における感染防御機構を弱らせてしまうといわれています。さらには、日照時間が短くなることによって人間の免疫力そのものが低下することも指摘されています。したがって、インフルエンザに限らず、感染症に対するワクチンの接種は、来年の1,2月にワクチンの効力がピークとなる11月頃がいいのではないかと思います。

インフルエンザであれ、COVID-19であれ、重症化して死ぬ直接的な原因は肺炎です。ですから、単に高熱になった場合であれば怖がる必要はなく、「高熱をともなう咳が続き、息苦しさがあるとき」にこそ注意が必要です。高熱が続いたとしても、3日目に解熱傾向となっていれば問題ありません。3日目になっても高熱が続き、寝床からトイレに移動するだけで息切れがするような場合は肺炎を疑うべきです。医療機関に電話をして相談して下さい。「咳と高熱」があればすぐに受診、ということではありません。

これまでお話ししたことは、すでに何回もこのブログで書いてきました。当ブログ内の検索をして、是非読み直してみて下さい。最後に、COVID-19(新型コロナ)が流行をはじめた2020年に医師会雑誌に投稿した文章を掲載します。いい加減な情報や、恣意的な意見に振り回されてはいけません。くれぐれも「烏合の衆」にならないでください。どの情報が信頼できるものなのかを見分けることは難しいと思います。でも、いろいろな情報に接し、できるだけ理性を働かせ、その正しさを判断する努力こそが重要です。

 

************************************ 以下、当時 (2020年8月)の掲載文

 昨年秋、新型コロナウィルスの流行は中国・武漢市からはじまったとされています。そして、そのウィルスは年があけた1月にインバウンドの勢いを借りるようにして日本に上陸しました。その後、諸外国ほどではないにせよ、感染者の数は増加の一途をたどっています。一時、重症者の数が横ばいになり、「もうすぐピークアウトか」と噂されましたがそれも期待外れに。東京などの大都市を中心にPCR検査陽性の人がにわかに急増し、ついに緊急事態宣言が出されてしまいました。

 それにしても、新型コロナウィルスは、まるで日本に来襲したシン・ゴジラであるかのようです。日本の、そして日本人のさまざまな問題点を明らかにしたのです。これまで日本は、SARS、MERS、そして新型インフルエンザといった外来感染症の危機に何度かさらされました。にもかかわらず、日本には「本格的な防疫体制」というものがないことがわかったのです。また、リーマンショックを越えるかも知れないという経済危機に、政府は今もなお経済を支えるための有効な手立てをとれないままです。

 一方で国民はどうかといえば、戦後の混乱を切り抜け、オイルショックを乗り切り、震災・原発事故を克服してきたはずだというのに、この混乱の中で依然として「買いあさり」と「買い占め」をやめられない人が少なくありません。また、日本人特有の「根拠なき楽観主義」によって、不要不急の外出、集会やコンサートの自粛が求められる中、海外旅行を我慢することも、夜の歓楽街をさまようことを控えられない人たちもいます。今、抗原検査陽性の人の数を増やしている原因の一部は、こうした「困った人たち」です。

 検査の実施件数もまさにうなぎ登りです。医学的知識もないド素人の国会議員が「検査を増やせ。希望するひと全員に検査を」と耳障りのいい主張を繰り返します。しかし、新型コロナウィルスのPCR検査は感度も特異度もそれほど高くなく、擬陽性や偽陰性の問題が無視できません。そんな検査を事前確率も上げないまま実施すれば、本来は入院を必要としない偽陽性者が病床を占拠し、偽陰性の患者が無自覚に感染者を増やすことにもなります。無知な政治主導はなにもしないことよりも恐ろしい。

 挙げればきりがないほどのダメダメぶりに、出てくるのはため息ばかり。この原稿が読まれるころも、まだそんな状態が続いているのでしょうか。保健所や検疫所の職員、感染患者の治療にあたる医療従事者が、感染する危険にさらされながらいっぱいいっぱいでやっています。お気楽な一般人がそうした人たちを見て見ぬ振りなのは仕方ないとしても、まさか医師会の先生方がその「今、危機にある人たち」から目をそらしていないでしょうね。いろいろなところで日本人の民度が試されているのです。

 とはいいながら、つくづく高病原性鳥インフルエンザでなくよかったと思います。オリンピックも仕切り直し。中国製品とインバウンド頼みだった日本経済も反省を余儀なくされ、感染症対策もふくめてすべてを抜本的に見直すことになるでしょう。将来、ふたたびやって来るだろう恐ろしい未知の感染症のため、今、経験していることすべてをこれからにつなげなければなりません。そして、「あのときの辛い思いがあったからこそ」と思えるような日本にしていきたいものです。

 

涙なき別れ(2)

今年の正月に入院し、病気療養中だった母が7月28日に亡くなりました。行年92歳でした。半年あまりの闘病生活でしたが、痛みなどのつらい症状に苦しむこともなく、ロウソクの火が消えるような大往生でした。先日、四十九日の法要が終わりましたので、今回は母のことを書きます。

もともと母はたくさんの病気を抱えていました。まるで「病気のデパート」といってもいいほどです。高血圧や高脂血症、糖尿病はもちろん、気管支喘息や狭心症、心房細動の既往があり、心筋梗塞・脳梗塞で何回か入院もしました。自分で車を運転していたころには、二度も自損事故を起こしたりもしました。いずれの事故も乗っていた車が廃車になるほど大きなものでしたが、幸いにも怪我は骨折程度で済みました。そうした中で長生きできたのですから、まさに「誰かに守られていた」のかもしれません。

母は幼い頃に実母を病気で亡くしました。母の実父、つまり、私の祖父は優しい人でしたが、いろいろな商売をやってもうまくいかず、五人兄弟の長女だった母は子どもの頃から苦労が絶えなかったと思います。母が結婚した私の父はわがままで厳しい人でしたから、結婚生活も必ずしも幸せなものとはいえなかったかもしれません。戦後まもなく建てられたバラックのような官舎の狭い一室で私たちの生活ははじまりました。小さい頃を思い出すと、裸電球がぶら下がった粗末で小さな部屋の光景が必ず浮かんできます。

母と父は同じ歳の幼なじみでした。七人兄弟の末弟だった父の長兄と母の叔母(母の父親の妹)が結婚した関係で小さいころからの知り合いだったのです。なにかの行事で親戚が集まったとき、叔父が「君たちの両親は恋愛結婚なんだよ」と教えてくれました。喧嘩ばかりしている両親を見てきた私にはにわかに信じられなかったのですが、そのことを両親はあえて否定も肯定もしなかったのをみるとそうだったのかも知れません。私の両親は喧嘩ばかりする友達のままだったのでしょう。

父が亭主関白だったかというと必ずしもそうではありませんでした。母は口うるさい父に服従することは決してなかったのです。父親はいつも同じ時間に帰宅します。帰宅した父がすぐにはじめるのは掃除。ずぼらな母の掃除が父には気に入らなかったからです。文句を言いながら掃除機をかけはじめる父。仕事で何かあって機嫌が悪いときは、怒りだして母に手をあげることすらありました。そんなとき、子どものころの私は部屋の中でじっと耐えていましたが、中学生ぐらいになると仲裁に入り、暴れる父を止めたりしました。

母はそんな父にはお構いなしに、あくまでもマイペースでした。私は子どもながらに「文句を言われないようやればいいのに」と思ったものです。こんなことがありました。そろそろ父が帰ってくるという時間なのに、母は近所のおばさんと楽しそうに台所でお茶を飲んでいます。でも、父が帰ってきて怒りながら掃除をはじめることを知っていた私は気が気ではありません。だからといってご近所さんとの話しに夢中な母親に、「そろそろ掃除をした方がいいよ」と耳打ちすることもできません。

私は仕方なく、母の茶飲み話しの邪魔にならぬよう、台所以外の部屋を片付け、簡単に掃除をすることにしました。父が帰ってきても機嫌が悪くならないようにするためです。私はいつしか毎日掃除をするようになりました。父親が文句をつける点はどんなところか。短時間で掃除を済ませるためにはどんなところを重点的にやればいいのか。そんなことを考えながら掃除をしていると、父が文句をいいながら掃除をすることが少なくなりました。以来、夕方になると当たり前のように私が掃除をしていました。

そうした子ども時代を過ごしたせいか、私は今でも掃除機の音が苦手です。あの当時のことを思い出すからです。ですから、私の家内にも、また、クリニックのスタッフにも、「散らかっていなければ掃除はそこそこでいいよ」と頼みます。結婚した当初、家内は母に「あまり掃除をしなくてもいい」と私が言っていると話したそうです。それを聞いた母は不思議そうに、「あら変ね。あれだけ掃除が好きだったのに」と言ったとか。子どものころの私の苦労や心の内など、母はまるでわかっていなかったようです。

でも、母は誰かのために何かをしたい人でした。今ではすっかり見かけなくなりましたが、昔は浮浪者が家々をまわって施しものを乞うことがありました。我が家にも一度そうした浮浪者が来たことがあります。どこの誰かもわからないその浮浪者に、母は気の毒そうに食べ物を分けていました。また、実家の裏の公園で、平日にもかかわらず毎日一人で遊んでいる女の子がいたときのこと。母はその子を見かけると、彼女を家にあげ、話しを聴いてあげ、励ましたりもしていました。母はそんな人でした。

その一方で、こんなこともありました。幼かったとき、暖かくて格好のいい上着を母に買ってもらいました。私はそれをとても気に入っていたのです。あるとき、私と同じ年代の子のいる叔母がその上着を褒めてくれました。私はそれがうれしく、また、誇らしくもありました。しかし、母は「そう?じゃあ、これ、あげるわ」と。あっけにとられているうちに上着を脱がされた私は、悲しいような、くやしいような気持ちになったことを覚えています。褒められるとすぐにあげたくなるという母の性格は最期までかわりませんでした。

晩年の母はいろいろな料理に挑戦するのが好きでした。「おいしかった」と言ってもらえることがなによりもうれしかったのです。ご近所の友達にはもちろん、いつも買い物に通っているお店にも、あるいは入院した病院の職員にもカステラを焼いてもっていきました。「コロナのこともあって、食べ物をもらうのを嫌がる人もいるんだから」と注意しても聴く耳をもちません。その後も、餃子を皮から作って「ちょっと工夫してみたから食べてみて」ともっていくことも。人が喜ぶのを見るのが好きだったのです。

母は交際範囲が広く、友だちがとても多い人でした。先に逝った父もまた仕事関係の交際範囲が広かったため、父の葬儀にはたくさんの参列者が来て下さいました。母も父も実は「似たもの夫婦」だったのでしょう。父が亡くなったとき、「家族葬」でひっそりやろうと思っていました。葬儀社にはそう伝えていましたが、実際には「大企業の社長でもこんなには来ない(葬儀社談)」と驚くほどの参列者が来場しました。火葬場に向かう霊柩車の中でも「これは家族葬ではありません(同)」と笑われるほどでした。

父の葬儀のとき、いろいろな人たちに迷惑をかけてしまい、母の葬儀こそ、本当の家族葬で静かに見送ってやろうと思っていました。大家族で育ち、たくさんの友人がいたとはいえ、一人暮らしをする母を見ていると、本当は賑やかなことがあまり好きではないのかもしれない、と思えたからです。好きなときに起き、好きなときに食事を取り、好きな時間に寝ることに安らぎを感じ、気心の知れた人たちと時々お茶を飲んで談笑することを幸せだと思っていた母。そんな素朴な生活が母には合っているようでした。

母が徐々に弱っていき、食事もほとんどとれなくなって、妹が「もうダメみたい」と泣きそうな声で電話をしてきました。残された時間が長くないことはわかっていても、やはり今生の別れとなればつらいものです。でも、私は妹にいいました。「母親が後ろ髪引かれぬよう、淡々と見送ってやろうぜ」と。「あの人も亡くなった。この人も認知症になってしまった」と嘆く母に、「長生きは修行なんだよ。長く生きられなかった人たちの悔しさを背負いながら生きていくのだから」と諭していた私の最後の親孝行のつもりでした。

母は私が言ってきたとおりの晩年を過ごし、そして、ついに鬼籍に入りました。その最期はとても静かなものでした。亡くなる二日前、一緒に見舞いに行った家内とふたりで冷たくなりかけた母の両足をさすってやりました。「どこか痛いところはない?」と聞くと、母はうなづきながら、手のひらを胸におきました。私も母の胸に手を重ね、鼓動を刻むように軽く胸を叩いてやりました。すると母は安心した表情になって、静かに目を閉じました。私はこのとき、母の命がもうじき尽きるだろうと思いました。

母は満足して旅立っていったと思います。幼い頃から苦労は絶えなかったかもしれませんが、息子は医師に、娘は看護師になりました。そして、晩年、「なにも心配事がないことが一番幸せ」、「気ままな一人暮らしができるのはお父さんのお陰よ」と繰り返し言っていました。脳腫瘍になったことを知ったときはショックだったに違いありません。しかし、その後は、愚痴をこぼしたり、泣きごとを言ったりすることは一度もありませんでした。不安そうな表情すらしませんでした。

本来であれば、いろいろな人達に母が亡くなったことをお知らせすべきだったかもしれません。でも、母を静かに見送ってやりたいと思っていた私たちは、ごく近しい人だけで葬儀をすることにしました。母のことを誰かから聞いたとご挨拶をいただいた方もあります。香典やお花などはお断りしていましたから、そうした人たちにも失礼・無礼をしてしまったと思います。母もそれを不義理だ、礼儀に欠けると怒っているでしょう。でも、すべては母を静かに見送るため。どうかお許しください。

四十九日の法要が終わり、まさに母の遺骨が墓に納められようとしたとき、突然、どこかにいた鳥の鳴き声が霊園に響き渡りました。それはまるで母が最期のありったけの声で別れを告げたかのようでした。私はこれで母が仏になったことを確信しました。人間の命には限りがあります。永遠ではないのです。人間の一生にはそれぞれの長短があるにせよ、「人生を生ききる」ことにこそ意味があります。「生・老・病・死」を見守り、寄り添うことが医師の仕事。今、あらためて医師になれて本当によかったと思っています。

行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし   合掌

コロナの再流行について

今、COVID-19(新型コロナウィルス)の感染者が増加している、と報道されています。実際に、松戸保健所からの定期報告でも、管内の定点医療機関あたりのCOVID-19感染者数は増加傾向にあるといいます(ひととき多かったインフルエンザの患者は減少に転じています)。しかし、「それがどうした?」ってことです。マスコミが報道しなければならないのは、「コロナが増えている」ではなく、「熱があるときは自宅で静養しましょう」であり、「家族をはじめとする他の人にうつさないよう配慮しましょう」であるはずです。

ところが、TVのニュース、あるいは新聞報道を見ると、「またあのコロナが増えてきた」と恐ろしくなるような内容。具体的になにをどうすればいいのか、コロナに感染するとどうなってしまうのか、といった肝心なことがまったく触れられていないのです。これまで、そうした重要なことを、なんども、なんども、なんども、なんども書いてきた私にすれば、「もういい加減にしてくれ」といいたいくらい。今のコロナはあのときの「恐ろしいウィルス」とはすっかりさまがわりしていることを少しは学んでほしい。

そこで、昨年の11月にこのブログに掲載した記事を以下に再掲します。コロナウィルスが流行を始めてから私が主張してきたことは、「コロナ」や「COVID」というキーワードでブログ内検索(右上の検索エンジンを利用してください)すると読むことができます。私が間違ったことを書いてこなかったのがわかると思います。世間が放射能で騒然としていたときとまったく同じで、そのときの科学で「正しい」と信じられていることを冷静に受け止めれば当然の結果。イデオロギーで世間を混乱させるだけの人間と私は違うのです。

「コロナ流行」と聞くと、「いざ検査」「いざ薬」「いざ医療機関」と煽られる人がいます。その一方で、発熱があるにもかかわらず、風邪薬や解熱剤を飲みながら会社や学校に行き、周囲に感染を広めても平気な人もいる。そもそもいまだに「検査してこい」という会社や学校、「面会制限を再開する」と過剰反応する施設が多過ぎるのです。「風邪症状があったら休む」「風邪薬を飲みながら仕事をしない」も実践させないくせに。当院のブログを読んでくださる皆さんには是非正しい対処法を知ってほしい、実践してほしいと思います。

 

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「風邪は治るが治せない(2)」

新型肺炎」と呼ばれたCOVID-19(新型コロナウィルス)感染症が中国の武漢で流行し始めたのが2019年。その後、全世界に感染は拡大し、アウトブレイクとなってたくさんの人が亡くなりました。今でこそ「風邪とかわらない」と言われるようになったCOVID-19ですが、救急病院にはたくさんの重症患者が搬送され、病院機能が損なわれる「医療崩壊」が心配されるほどでした。

そうした危機的な状況は、mRNAワクチンの登場によって徐々に改善していきました。その一方で、感染症病棟や呼吸器内科病棟の医師、あるいは看護師や薬剤師、検査技師や一般職員など、病院で働く多くの人たち、さらには患者の搬送にあたった救急隊員らの献身的な活躍があったことを忘れてはいけません。決して新型コロナウィルスが「実は大したことのない感染症だった」わけではないのです。

新型コロナウィルス感染症の蔓延は、社会のさまざまな価値観に影響を与えました。それまで風邪をひいて咳をしていてもマスクすらしない人が少なくありませんでした。しかし、今では「咳エチケット」としてマスクの着用が当たり前になっています。また、「熱ぐらいで会社は休めない」といった誤った「常識」も、徐々に「熱を出したら他人にうつさぬように自宅安静」に変化しています。

私は以前から「インフルエンザ流行時の対応」について注意喚起を繰り返してきました。それは、社会の「常識」には医学的な間違いが少なくなかったからです。発熱に対する認識もそう。あるいは、風邪薬や検査の必要性についてもそうです。「社会でごく当たり前になっていることには、あるいは医者がなにげなく行なっている診療にも、実は医学的に間違っていることは多いのですよ」と指摘したのです。

それはこのブログを通じて繰り返し情報(「風邪」「インフルエンザ」「発熱」などでブログ内検索してみてください)を提供してきましたし、患者さんに対しては診療をしている時に直接説明したりしました。また、私が校医をしている学校の養護教諭にも指導してきたことです。しかし、そうした努力はなかなか浸透せず、多くの人々の行動変容をもたらすほどの影響力はありませんでした。

ところが、新型コロナウィルスの感染拡大が社会問題化し、加熱するマスコミの報道でも誤った対応が喧伝されるようになりました。「検査はできるだけ早く、しかも何度でも繰り返す」、「新型コロナに感染したと思ったらすぐに病院を受診する」、などがその代表的な事例です。多くの国民がそうした情報にしたがい、必要のない検査をして国費を無駄にし、発熱外来に殺到して感染を広めたのです。

その一方で、新型コロナウィルスに対する有効性も証明されていない薬を勧めた医者がいます。軽症の新型コロナ患者に対して過剰な検査や措置をした医者もいました。それが間違った知識によるものなのか、それとも儲け主義の結果なのかはわかりません。しかし、メディアによく登場する医師が間違った対応を推奨して、本当に正しい主張がかき消され、批判されてしまう場合すらありました。

しかし、今、社会を揺るがしてきたコロナ禍を振り返り、多くの人々が「正しい対応」がどのようなものだったかを振り返るようになりました。と同時に、私がこれまで主張してきたことの正しさを冷静に理解できるようになりつつあるように感じます。今回のブログは、そうしたこれまでの私の主張を改めてまとめ、皆さんが感染症に対してどう行動すべきなのかについて再度注意喚起したいと思います。

 

今、新型コロナの流行は小康状態となっています。しかし、千葉県の一部ではインフルエンザの患者が増えてきています。また、マイコプラズマなどを原因とする「咳風邪」がはやっています。当院でも「咳が治らない」と訴える患者さんが毎日たくさん来院しています。感染症は治療も大切なのですが、流行を拡大させないことも重要です。そうした点を念頭におきながら私は診療しています。

当院では、風邪症状のある方には、あらかじめお電話をかけていただいてから来院してもらっています。それは感染症の患者の来院時間を指定し、待合室にいる一般患者とできるだけ分離するためです。しかし、そうしたことを知らなかった風邪患者が、事前のお電話がないまま直接来院することもあります。そんなときは院内が混雑し、一般患者と感染症の患者の分離に苦慮することもしばしばです。

お電話でのお問い合わせの際に怒り出す人もいます。「なんで今すぐ診てくれないのか」というものです。感染症の患者さんにはできるだけ空いている時間帯を指定して来院していただいています。とくに、「今すぐ診る必要性が高くない患者」、例えば、症状が出たばかりの方や風邪薬を服用してきた方たちには、「しばらく経過を見て、あらためて電話してほしい」と説明する場合があるのです。

前稿「風邪は治るが、治せない」でも書いたように、風邪は薬で治すことができません。自分の免疫力で治っていくものなのです。風邪薬は「風邪を治す薬」ではありません。むしろ、風邪症状をわからなくする薬であり、ときに診療の妨げになる薬です。医師が風邪症状の患者に処方する薬は、その症状を緩和するためのもの。どのような薬を処方するかを判断するためにも風邪薬は服用しないでほしいのです。

むやみに熱をさげてしまうと、重症度を判断することができなくなることもあります。ひとくちに「熱が出た」といっても、そのなかには肺炎を合併しているものや、実は風邪ではなく内科疾患から熱が出ている場合もあるのです。どのくらいの熱が、どの程度続いているのかによって診断が違ってきます。そうした大切な情報である「発熱」を解熱剤でむやみに下げられてしまうと診断を誤る原因にもなります。

本来、「風邪」であるなら薬を服用する必要はありません。肺炎を合併しない限り、自然経過で数日のうちに必ず治るからです。なかなか治らない症状は単なる風邪ではありません。「早期発見、早期治療」と思ってか、「早く治したいので、早く薬を飲みたい」という人がいます。でも、「早く薬を服用しても、風邪は早く治すことはできない」のです。「風邪に風邪薬」は「早めにパブロン」というキャッチコピーの誤った受け売りにすぎません。

風邪薬を飲みながら会社や学校に行くと、周囲の人に感染を広めてしまうことにもなります。「風邪薬は飲まないでください」とお話しすると、「風邪薬を飲まなければ熱が下がらず、会社に行けないじゃないか」と言う人がいます。しかし、「熱がでたら会社や学校に行ってはいけない」のです。一般的に発熱しているとき感染力が強いことが知られています。「発熱時は自宅で療養」が原則です。

熱があっても、よほど辛くなければ解熱剤を使用せずに経過観察。そして、熱がいつまでもさがらないのであれば(目安は「高熱が3日目に突入したら」「微熱であっても5日目に突入するなら」)医療機関に電話をして相談すべきです。発熱は「早く治すため」にも、また、「重症化を発見するため」にもとても大切な情報です。怖いあまりに解熱剤を多用していいことはありません。

というわけで、当院では次のような基準を設けて受診(電話で相談)を勧奨しています。

(1)風邪症状が出たばかりの人は24時間経過観察すること

(2)風邪薬を服用した人は服用後24時間は経過観察すること

(3)発熱があっても24時間は解熱剤を使用しないこと

(4)他院(当院)で処方された薬はすべて飲みきってから効果判定すること

(5)処方薬を服用しても改善しないときは、薬を処方した医療機関をふたたび受診すること

以上の点をよく理解して風邪症状に対応して下さい。今年は例年になく肺炎が多いように感じます。とくに若い人の肺炎が多い印象があります。でも、肺炎だからといって怖がることはありません。肺炎を心配してあわてて受診する必要もありません。高熱をともなわない風邪症状は風邪薬を服用しないで二日ほど様子をみてください。高熱があっても解熱剤を飲まずに24時間は経過観察してください。

それから「明日、また電話してください」と言われても怒らないでください。午前中は風邪患者がたくさん来院します。午前中に来院しなければならない特段の理由がなければ、午後の空いている時間に受診することをお勧めします。院内が混雑しているときは、また後で来院することをお勧めします。そんな日は、風邪症状の患者が多いからです。病院に行って風邪がうつってしまったら意味がありません。

とくに高齢の方は午後に来院したほうがいいでしょう(朝早く受診する高齢者は多い)。重症感の強い風邪の患者さんが午前中の早い時間帯に受診するからです。とくに土曜日は大変混み合うので、高齢の方は受診を避けた方がいいでしょう。現役のサラリーマンは土曜日しか受診できないため集中するのです。患者でごった返す中、マスクもしていない高齢者が待合室で待っていることを想像しただけでゾッとします。

以上、ご理解・ご協力のほどよろしくお願いします。