院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
ご感想はご投稿いただいても結構ですが、エチケットに反するものは掲載しません。また、悪質なものはIPアドレスを公表しますのでご了承ください。
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TEL&FAX.04-7181-2300 〒270-1158 千葉県我孫子市船戸2-1-10
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Googleのクチコミに苦情が寄せられました。
日頃、人から後ろ指を指されないように診療して来たつもりなので、この苦情はまさに寝耳に水。もし私の対応が無礼であったのであればお詫びしなければなりませんが、診療内容に対するご不満であるなら弁解しなければなりません。他の患者さんにも参考になることでもあるのでこの場を借りて少しご説明します。
ただし、匿名で寄せられた苦情ですので、カルテを見直した上での的確な弁明にならないかもしれません。言った、言わなかったの齟齬になる可能性もあります。いずれにせよ、苦情を寄せられた方を誹謗・中傷する意図はまったくありませんので誤解のないようにお願いします。
************************** 以下、寄せられた苦情
最悪の医者です。
3日間高熱で咳混んで家から動けず、4日目に熱も咳も変わらないけど何とか受診しないとと家からいちばんちかいこの病院に行きました。 この時期、どこの病院も混雑してるのにここは患者が誰もいませんでした、この時点でナゼなのか気がつけば良かったのですが、熱と咳の為、頭が回りませんでした。
診察は熱と咳が出てるにもかかわらず服の上から背中に聴診器当てただけで喉も見ないで「風邪ですね」で終わりました。 インフルエンザもコロナの検査もせずに。 信じられませんでした。
それからクスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方したきました。 ただの風邪に6種類のクスリを出しますか? インフルエンザだったら、タミフル、リレンザ1つですむのに…
これほどのやぶ医者は見たことがありません。 異常に空いてる訳がわかりました。
皆さんもここへは絶対に行っては行けません。とんでもない医者ですよ。
************************* 以上
1)「熱と咳が出ているにもかかわらず服の上から背中に聴診器」「喉も見ないで風邪」
これは肺炎があるかどうかを確認したのだと思います。私が使っている聴診器は「マイクロフォン」です。服の上から聴診するために使っています。それは次のような理由からです。
●聴診器を直接肌に当てない
・服を脱がせることで寒い思いをさせない(プライバシーに対する配慮でもあります)
・患者が感染症だった場合、肌に当てた同じ聴診器を他の患者に使用して感染を広げない
・診察時間を短縮する(衣服の脱ぎ着きに時間をかけない)
この聴診器はノイズキャンセリング機能がついており、服の上からでも肺炎・気管支炎の有無や気管支喘息の状況、心雑音などを確認するのに支障はありません。ただし、詳細に聴診するときには適していませんが、一般診療における聴診においてはこれで充分だと考えます。
「熱と咳が続いている」ということだったので、肺炎を疑って聴診したものの、肺炎を疑わせる異常がなかったのでしょう。しかし、私は単なる気管支炎だったとしても、このような場合は、念のため抗生物質を処方していると思います。その一方で、「高熱が続いている」という訴えがなかったり(聞き落とした場合もあるかも)、すでに解熱して全身状態もよければ、抗生物質を処方しないかもしれません。
なお、私は通常、簡単に「風邪ですね」という表現は使いません。風邪で高熱が続くことはないからです。もし私がそう言ったとすれば、「高熱が続いていた」という情報が頭に入っていなかったためかもしれません。診察時にまだ「熱と咳」があったという意識が私にあれば、今回のケースはなおさら「風邪」とは説明せず、「気管支炎をこじらせたもの」として抗生物質を処方していたでしょう。
風邪症状を訴えて来院された方には全例に聴診はしています。これは生活習慣病で定期受診している患者もふくめて「聴診器をあてない診療」はしてはいけないと考えるからです。咽頭痛を訴える方には咽頭部の視診もおおむね全例にやっています。もし、私が咽頭部の視診をやっていなかったとすれば、咽頭痛の訴えがなかったか、うっかりして忘れてしまった(咽頭痛が主症状ではなく、咳に意識が向いていた?)からだと思います。咽頭部の症状にあまり意味がないと考えれば省略することもあります。
2)「インフルエンザもコロナの検査もしない」「タミフル、リレンザ1つですむのに」
治療薬のないコロナはもちろん、インフルエンザの抗ウィルス薬も感染初期に服用するものです。「治療薬」ではなく、ウィルスの増殖を抑えて「発熱期間を1日ほど短縮する薬」だからです。ですから、「3日間高熱で咳き込んで」ということを聞いていれば、私は抗ウィルス薬を処方しないと思います。むしろ、気管支などの混合感染(当初のウィルス感染に細菌感染を合併したもの)を疑って抗生物質を処方するでしょう。感染初期であって、ワクチン接種がなく、比較的重症感が強ければインフルエンザの抗ウィルス薬を追加するかもしれませんが、ワクチン接種があって重症感もない場合は処方しないことが多いです。
また、このブログでも繰り返してきたように、「検査は一番怪しいときにやるもの」であり、そのタイミングは高熱となって24時間以上経過してからです。早く検査しても検査の精度が落ちて意味がなくなるのです。ましてや会社や学校から「検査をしてくるように」と強く指示された場合でなければ、ワクチンの接種歴や症状、家族歴だけで「インフルエンザ」と診断することもあります。これを「みなしインフルエンザ」といいます。ワクチンを接種した場合は検査で陰性になることがあります。ですから、そうした場合であっても、症状によっては検査の有無とは無関係に「インフルエンザ」と診断しています。
以上のことから、高熱が3日以上経過している今回のケースはインフルエンザだと思っても抗ウィルス薬は処方しないと思います。インフルエンザやコロナの検査も同様です。ましてや私が「風邪ですね」と言ったとすればなおさらです。検査をすれば当院の収入になるので助かりますが、意味があまりないと思っても検査をするのは患者が強く希望したときです。ただし、検査の必要性について説明した上で、です。
3)「クスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方」「風邪に6種類もの薬」
以前のブログ(「傲慢な診療」をお読みください)にも書いたように、若いころの私は「風邪に薬は不要」という信念をもっていました。しかし、ある患者から思いがけずに寄せられた苦情に気が付かされました。「患者は症状がつらいから来院するのだ」ということを。以来、私は患者の訴えがあれば、薬が多くなりすぎないように注意しながらではありますが、症状緩和の薬を処方するようにしています。その結果、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があっただけでも4種類の薬を処方します。
これが多いといえるのかどうかは私にはわかりません。ただ、「咳」という症状だけでも処方薬が1種類というわけにはいかないのです。「咳」があるならば「咳止め」を出せばいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、咳は「気管支内の汚いもの」を喀出するための症状。強い咳止めによって咳をとめれば「汚いもの」を喀出しずらくして、気管支炎をこじらせたり、肺炎に進展させたりすることすらあります。また、麻薬系の強い咳止めは痰を粘張にしてかえって咳をひどくすることがあるのです。
そこで私は、咳に対して比較的穏やかな咳止めと気管支拡張剤の咳止めテープを処方します。そうすることによって、不必要に咳を止めることなく、咳を鎮めて痰を出しやすくできるからです。その結果、咳の症状があるときは、去痰剤をふくめて3種類(錠剤の鎮咳薬と去痰剤、テープ剤の気管支拡張薬)を処方しています。つまり、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があるだけで5剤を処方することになってしまいます。こじれた気管支炎や肺炎を疑えば、これに抗生物質や漢方薬を加えてさらに増えてしまうのです。
「もともと薬をたくさん服用している風邪症状の方にはできるだけ少ない薬で」と思いますが、症状によってはそうもいきません。もともと服用している多種多様の薬を「できるだけ減らしましょう」とお話ししますがなかなか納得してもらえないものです。「すでに飲んでいる薬なので減らすのは不安」だからです。そのお気持ちは理解できますし、減らすことができない薬が多い方もいるので、私は無理に減らすことはしません。「儲け主義」でたくさんの薬を服用させているわけではないのです。
その一方で、「薬はできるだけ飲みたくない」という方もいます。医療機関を受診した患者が「薬は飲みたくない」とおっしゃる理由はさまざまですが、私は医学的な見地から薬を服用する意義を説明した上でそれでも「飲みたくない」という方にはその希望を尊重しています。ただ、「薬を飲まないことによるリスクは理解しておいてください」と説明はします。あとはご本人しだいですから。我々医療従事者は「薬がほしいから医療機関に来る」と思っているので、ご要望は医師に明確に伝えなければいけません。
ちなみに「隣の薬局が儲かるように」と批判されていますが、隣の薬局は当院が経営しているわけではありません(こういう勘違いは多い)。結果として処方薬が多くなってしまっていても、薬局を儲けさせようとそうしているのではないので誤解しないで下さい。院外薬局は、処方内容に間違いがないか、現在服用している薬との相互作用がないかをきちんと確認してくれているありがたい存在です。なにより、隣の薬局は、処方薬に対する質問にもしっかり答えてくれる立派な薬局だということは強調しておきます。
4)「異常に空いているわけがわかりました」「とんでもない医者です」
苦情を寄せられた方が来院したときは年明けのせいでたまたま空いていたのかもしれません。ただ、「空いている」ことは必ずしも悪いことだと私は思っていません。当院では風邪症状のある方とそうでない方を分離して待っていただいています。それでもできるだけ混まないよう、風邪症状の方にはできるだけ空いている時間帯に来ていただくようにしています。こういう配慮にもときどき「なぜすぐに見てくれないのか」というお叱りを受けるのですが、感染拡大を防止するための対応策でありご理解いただいています。
と同時に、また何度も来院しなくてもすむよう、訴えていた症状に対する薬はできるだけお出しするようにしています。なんども来院するのはつらいですからね。そして、結構な数の薬となるときは、「たくさんの薬を飲みたくなければ、症状のつらさに応じて取捨選択して下さい」と説明しています。また、「思ったように改善しないときは、あまり間をあけないで受診してください」とお話しします。したがって、何回も来院するケースはそう多くはなく、それは患者の症状が改善しているからだと自分では思っています。
これまで長々と弁明してきましたが、それを読んでも納得いかないかもしれません。医学的な知識がなければ理解できないこともありますから。私は医学的見地から「これが最善」と思える診療をしているつもりです。その上で、なお患者の希望を考慮すべきだということであれば、クチコミに書き込むのではなく私に直接伝えて下さい。そのご意見に一理あればこれからの診療の質の向上に役立つのです。これまで書いてきたようなことを、診療中にひとつひとつ説明すればいいのでしょうがなかなかそうもいきませんから。
以前も、同じGoogleのクチコミで「人の話しを聴かない傲慢な医者」と書かれたことがあります(今は消去されています)。その批判を書いた方は当院に定期的な通院をしていた患者さんのご家族でした。書き込まれた内容からどの患者さんのことかは特定できています。そのご家族の指摘は「いつも通院している母親の訴えに、医師が耳をかさなかったために癌の発見が遅れたではないか」というものでした。このときもまさに私は寝耳に水、でした。そんな傲慢な診療をしているつもりはなかったからです。
その患者さんはいつもひとりで受診していて、それまでご家族が同伴することはありませんでした。ですから、お母さまの癌が発見されたとき、ご家族はお母さまに話しを聞いて、「なんでこんなになるまで放っておいたのだ」と憤慨されたのかもしれません。カルテを調べてさかのぼってみると、次のような経過をたどっています(なお、この方は糖尿病でしたので、定期的に採血をしていました)。
7月:胸焼けを訴えるため胃薬を追加。定期受診の際の採血では肝機能ふくめて異常なし。
8月:背部痛もある、と。胸焼けもあるため病院を受診するように説明。一ヶ月処方を継続。
9月:まだ病院には受診していない、と。胸焼けが続くことから再度受診をうながす。
10月:病院を受診して肝臓癌であることがわかる。
当時はコロナの感染拡大があったころ。それまで当院では「2ヶ月処方」といった長期処方はほとんどしていませんでした。大病院などでは2ヶ月処方はおろか3ヶ月処方が当たり前のようにおこなわれています。しかも、聴診器も当てない「変わりありませんね」の一分診療。そんなの診療ではありません。一度症状を見逃せば、あっという間に半年近くが経ってしまいます。にもかかわらず、当院でも2ヶ月処方の要望は多く、不本意ではありましたが、コロナの感染拡大を機会に2ヶ月処方を解禁にしてしまいました。
癌が見つかったこの患者の場合もちょうどそのころのことでした。訴えが気になった私はそれまでの2ヶ月処方をやめて7月、8月、9月と一ヶ月の処方で経過を診ていました。しかし、病院を受診するようになんどお話ししても受診していなかったのです。もちろん、7月の採血でなんらかの異常があれば、紹介状を書いて病院を受診させていたかもしれません。しかし、自覚症状だけで受診させ、また、なにか疑う疾患がこれといってないのに紹介状を書き、患者にその費用を請求するのは気が引けることです。
その結果、癌の発見が遅れてしまいました。病院に紹介すべきタイミングを逃さないようにしている私にとって、反省すべきところがなかったわけではありません。もっと強い口調で病院に受診するよう指示すればよかったかもしれません。採血結果もふくめて、紹介状を書くほどのケースだとは思いませんでしたから。私は日頃、患者の表情や顔色、仕草、歩き方などを注意して見ています。患者の訴えもまた同じです。その多くは不安からくるものですが、中にはそこから大きな病気につながるケースがあるのです。
ですから、この患者のご家族から「患者の訴えに耳をかさない傲慢な医者」とクチコミに書かれるとは思ってもいなかったのです。もちろん、私に傲慢さが実際にあって、私自身が自覚していないだけかもしれません。私が意地悪をしているように患者が感じることもあるでしょう。しかし、そうしたことは、私がまったく気づかないこと、あるいは、誤解にもとづく場合だと思います。ですから、気が付いたことがあったら、私に直接伝えてください。私に言えなければ当院のスタッフや薬局の方に言ってくださっても結構です。
繰り返しますが、クチコミに苦情を書いた方を批判しているわけではありません。ご意見にきちんと説明をし、私の診察・処方の意図を説明したかっただけです。その上で、なお、私を「とんでもないやぶ医者」だ、と感じられるのであればそれを私は甘受します。患者が望むことと、私が提供すべきだと考える内容が異なるのですから仕方ありません。私はあくまでも「医学的に間違っていないこと」を、患者の要望や希望にそって提供したつもりです。クチコミに投稿した方には今回の説明でご理解をいただければ幸いです。
母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。
母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。
なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。
都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。
同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。
意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。
また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。
我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。
長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?
母:都立高校であればどこでもいいと思っています。
長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。
母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。
帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。
勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。
**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)
「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。
私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。
医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。
***************** 以上
この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。
その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。
先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。
私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。
その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。
いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。
このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。
自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。
私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。
とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。
※ 未来のある子ども達に贈る歌 「壊れかけのRadio」
※ 中学生のころの自分に贈る歌 「帰れない二人」
以下の文は、医師会雑誌に投稿したものです。AIなどをはじめとするコンピューター・サイエンスの発達は、これからの社会を大きく変えていくことでしょう。それらの変化が、人類の生活の質の向上に寄与するものになるのか、それとも人類社会に危機をもたらすものなのかはわかりません。しかし、すべては我々人類の英知と倫理観にかかっています。
************************** 以下、本文
私が大学に入学したころ、いわゆるデスクトップ型PCと呼ばれる汎用パソコンが世の中に広まり始めました。当時はまだ「パソコン」、すなわち、パーソナルコンピューター(PC)という言葉すら広く認知されていなかった時代でした。今でこそアップル社製のコンピューターが人気ですが、当時はそれほど注目されておらず、むしろ、タンディ・ラジオ・シャック社製のTRS-80というマイクロコンピューターが知られていました。
CPUもまだ8ビットが主流であり、ザイログ社のZ80を搭載しているPCが多い時代でした。「16ビットのCPUが出た」という話を聴いて「すげぇ」と言っていたころでもあります。ちなみに現在のCPUは64ビット単位でデータ処理をしていますし、クロック周波数もギガ単位です。Z80のそれはメガ単位で、今の1000分の1だったことを考えると隔世の感があります。
コンピューター自身も、これまでのノイマン型と呼ばれるデータを逐次処理するタイプから、同時に複数のデータ処理をおこなう量子コンピューターへと革新的な変化を遂げています。そして、コンピューターが活用される場面も大きく変化しています。単なるデータ処理や複雑な計算だけではなく、さまざまな機器の操作や制御などにも活用されており、現代社会には不可欠なものになっています。
AI(artificial intelligence)技術の進歩は世界を大きく変えようとしています。大学生のころに話題となっていたPrologという論理プログラミング言語は、今の人工知能のはしりともいえるものかも知れません。Prologは、事象や事物との関連性を理解し、推論するためのコンピューター言語です。我々が話している言葉の解析、あるいは人間の認知・認識を質的に分析するツールとして利用されてきた人工知能の基盤ともいえるものです。
こうしたコンピューター技術の進化は、これからの人々の生活を確実に変えていくでしょう。たくさんの知識をもとに判断していくという作業がまさに劇的な変化をとげるのです。法律の知識を駆使して法的な解釈をする弁護士の仕事、原稿を読み上げるだけにとどまらず、人との会話を通じてものごとを伝えるアナウンサーや解説者の仕事。そして、私たちの医療の領域においても決して例外ではありません。
医師としての仕事の多くも、医学的知識を通じて病歴や症状、検査結果から疾患を診断し、治療方法を選択する作業です。現在の診療は医師の裁量権が大きいため、医師個人の力量によって診断の精度、治療効果が大きくかわってきます。しかし、AIを中心とするコンピューターサイエンスの発達によって、診断・治療の標準化・最適化をはかることが可能です。これは科学技術の発達にともなう大きな福音だともいえるでしょう。
AIによって医療の風景はずいぶんとちがったものになるはずです。病理診断や画像診断、あるいは皮膚科診療などはある種のパターン認識に支えられているため、AIにとって変わられる可能性の高い分野です。さらにいえば、内科診療全般もそうなるかもしれません。そして、医師でなくとも多少の医学的知識さえあればコメディカルの人たちでも代行できるようになる。その結果、医師の数を削減して、医療費の抑制にも寄与するでしょう。
また、AI診療によって疾患の管理がおこなわれるようになるかもしれません。スマートウォッチで定期的に測られた血圧の値、自己血糖測定機器からの血糖値はクラウドデータベースに送られます。また、自分の都合のいいときに、都合のいい病院で採血をしたデータもクラウドデータベースに送られて医療機関に共有されるのです。そして、それらのデータがAIによって解析され、投与薬が処方され、適宜病院を受診するよう指示されます。
在宅医療も大きく変わるでしょう。タブレットをもった保健師が各患者宅をまわり、訪問時のバイタルと患者の状態をAIに送ります。すると、経過観察でいいのか、それとも病院への受診を勧めるべきなのかの指示が送られてくる。訪問する保健師も忙しい医師の指示を待つまでもなく、AIからの指示が逐次送られてくるので安心です。患者を病院に受診させる際も、これまでのバイタルと状態像をデータとしてすみやかに紹介病院に送れるのです。
病院への受診スタイルも変わります。初診で訪れた病院では、まず、電話ボックスのような初診ブースに入ってモニター画面の前に座ります。そして、マイクに向かって自分の症状を語り、AIが問いかけてくるいくつかの質問に答えると「受診すべき診療科」が指示される。一方、該当する診療科の初診医のモニターには、その患者の訴えと鑑別疾患が提示されます。初診医は簡単な診察と確認を行なって暫定的な診断を下すと、AIは必要な検査や投与薬を外来医に提示するのです。
こうした風景が現実のものとなるのでしょうか。あるいは弁護士や医師といったいくつかの専門職がなくなってしまうのでしょうか。判断の中立化・標準化・精緻化といった作業はAIの得意とするところであり、人間が介在することが当たり前だった作業がAIに置き換わることの影響ははかりしれません。とくに医療の現場を陰で支えてきた医師・患者関係は大きくさまがわりすることでしょう。
科学技術のめざましい進歩・発展とともに、人と人とのつながりが希薄なものになっていく可能性は否定できません。世の中がより効率的になり、精確で緻密なものになることの意義は大きいとはいえ、非効率で不正確でおおざっぱな部分、すなわち、ある種、人間的な温かみを感じる側面がなくなっていくのです。それはまるで、標準化・均一化の代償として社会を「誰がやっても同じ」という無味乾燥なものにしてしまうように思えてなりません。アナログがデジタルに飲み込まれようとしている現代社会にとまどう今日この頃です。
まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。
明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。
社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。
この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。
************** 以上、NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)
1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。
松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。
アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。
1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。
ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。
さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。
長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。
松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。
それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。
しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。
条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。
処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。
令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。
********************** 以下、挨拶内容要旨
父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。
「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。
主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。
********************** 以上
私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、期待していることは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。
「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」
松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。
「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」
安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで104代の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の多くの人に知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。
今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。
有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。
我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)
ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。
このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。
※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、なにか因縁めいた
ものを感じます。
今、にわかにインフルエンザが感染を拡大していると報道されています。事実、松戸保健所からの定期連絡でも、管内のインフルエンザ患者は増加しているようです。外国人観光客がウィルスを持ち込んだための早期流行だとする識者もいます。しかし、最近のインフルエンザは、COVID-19(新型コロナ)と同じように季節を問わずに患者が発生しています。しかも、それらのウィルスに感染した患者は、倦怠感や頭痛、関節痛といった随伴症状が多少強めにでますが、重症化するケースはほとんどないのが特徴です。
ですから、「インフルエンザ流行中」とマスコミが騒ごうとも、あわててワクチンを接種したり、風邪症状があるからといってすぐに医療機関に駆け込む必要などありません。そもそもインフルエンザであれ、COVID-19であれ、「治す薬」というものがないのです。留意すべきことは、あくまでも「重症化しないこと」。そして、「重症化のサインを見逃さないこと」。この二点に注意しながら、感染患者からうつされないようにし、万が一感染しても他者にうつさないような配慮を忘れないこと。このことに尽きます。
「重症化しないこと」と「重症化のサインを見逃さないこと」には密接な関係があるので、これらのことをまとめてお話ししたいと思います。まず、大切なことは、感染しないよう・感染させないようにすることです。そのための基本は、「マスク・手洗い・解熱しないこと」です。「マスク・手洗い」は容易に理解できるだろうと思います(とはいえ、最近の新型コロナ感染の状況から、「マスク・手洗いは無意味だった」と考える軽率な人がいますが、それは間違いです)。問題は「解熱しないこと」です。
「解熱しないこと」については、当院に通院する患者さんにはだいぶ理解してもらっています。しかし、多くの人はいまだに「熱がでたら解熱剤でさげる」のが当たり前だと考えています。当たり前というよりも、「高熱=重症=死」と思って解熱剤を飲まずにいられない人が少なからずいるのです。「風邪薬(解熱剤)を飲まないでください」と説明すると、「風邪薬を飲めば2、3日で良くなる」と言う人もいます。でも、そうしたケースは、風邪薬を飲まなくても「2、3日でよくなっている」のです。
解熱剤や風邪薬を服用して熱がさがった人たちはどう行動するでしょうか。熱がさがったからと、会社や学校に行っている人たちが必ずいます。「そもそも休めないから解熱しているんじゃないか」とおっしゃる方もいるかもしれません。「熱ぐらいで休むな」と上司や教師から厳命されている人だっているかもしれません。あるいは「検査でインフルエンザやコロナの抗体が陰性だったのだから」とタカをくくって出勤・登校する人も。でも、熱が出てからしばらくの間は他の人に移しやすいことを忘れてはいけません。
熱が出たら、原則的に会社・学校を休んでください。そして、熱があっても安易に下げない。もし、解熱剤なしでも24時間は様子を見て、体温が再上昇する気配がなければマスクをして出勤・登校する。なにより他の人に感染を広めないためです。くれぐれも風邪薬を飲みながら職場に行く、学校に行かせる、といったことがないように。「あなたのため」というよりも「他者への配慮」だからです。検査など必須ではありません。ましてや「インフルエンザのタイプは?」なんてことを調べるのはまったく無意味です。
「重症化しないようにする」ためには、まずワクチンを接種することが大切です。そして、感染してしまったら、自宅で安静にしながら充分な休養をとる。そして、重症化のサインを見逃さなければいいだけです。ワクチンについては、「COVID-19のワクチンを接種しても、あれだけたくさんの死者や重症者を出したのだから無意味」と言う人たちがいます。でも、それは間違った考え方です。感染した人があれだけいれば、死者や重症者だってそれだけの数になるはず。分母と分子の数を考慮して判断すべきです。
「ワクチン接種によって重い副反応を起こしたケースがあんなに多かったじゃないか」ということについても同じです。新型コロナワクチンは当初から「数十万人にひとりの割合で重篤な副反応が出る可能性がある」といわれていました。そして、それは今、おおむね正しかったことがわかっています。重い後遺症を背負うことになった気の毒なケースについても、ワクチンを接種したときに起こることがある「ADEM(急性散在性脊髄炎)」とよばれる副反応であって、新型コロナワクチンに特有な薬害ではありません。
「ワクチンは接種した方がいいですか」と質問されることがあります。そんな時、私は次のように答えています。「どんなワクチンにも副反応がおこることがあります。その副反応が重い場合もあるため、安全性が担保されたワクチンであれば積極的に接種してください。とくに、命に関わるような疾患であり、かかっても治療薬がない場合はワクチン接種は必要です」と。したがって、インフルエンザワクチンについては、そのワクチンの安全性はある程度確認されており、積極的に接種することをお勧めしています。
その一方で、新型コロナウィルスワクチンについては、mRNAワクチンそのものが新しいワクチンであり、長期的な安全性にはまだ疑念が残るという意見があります。しかし、新型コロナが流行しはじめたときのように、多くの人が重症になったり、亡くなったりしている状況においては積極的に接種すべきです。でも、重症患者がほとんどいなくなった今、あえて接種をしなければならないとは思いません。長期的なリスクをうわまわるほどのメリットを感じないからです。こうした考えはあくまでも私個人のものなのです。
インフルエンザに限らず、感染症が重症化するのは気温の低い冬季だとされています。それは乾燥していてウィルスがなかなか死滅しにくいということ。また、空気の乾燥が人間の鼻やノドの粘膜における感染防御機構を弱らせてしまうといわれています。さらには、日照時間が短くなることによって人間の免疫力そのものが低下することも指摘されています。したがって、インフルエンザに限らず、感染症に対するワクチンの接種は、来年の1,2月にワクチンの効力がピークとなる11月頃がいいのではないかと思います。
インフルエンザであれ、COVID-19であれ、重症化して死ぬ直接的な原因は肺炎です。ですから、単に高熱になった場合であれば怖がる必要はなく、「高熱をともなう咳が続き、息苦しさがあるとき」にこそ注意が必要です。高熱が続いたとしても、3日目に解熱傾向となっていれば問題ありません。3日目になっても高熱が続き、寝床からトイレに移動するだけで息切れがするような場合は肺炎を疑うべきです。医療機関に電話をして相談して下さい。「咳と高熱」があればすぐに受診、ということではありません。
これまでお話ししたことは、すでに何回もこのブログで書いてきました。当ブログ内の検索をして、是非読み直してみて下さい。最後に、COVID-19(新型コロナ)が流行をはじめた2020年に医師会雑誌に投稿した文章を掲載します。いい加減な情報や、恣意的な意見に振り回されてはいけません。くれぐれも「烏合の衆」にならないでください。どの情報が信頼できるものなのかを見分けることは難しいと思います。でも、いろいろな情報に接し、できるだけ理性を働かせ、その正しさを判断する努力こそが重要です。
************************************ 以下、当時 (2020年8月)の掲載文
昨年秋、新型コロナウィルスの流行は中国・武漢市からはじまったとされています。そして、そのウィルスは年があけた1月にインバウンドの勢いを借りるようにして日本に上陸しました。その後、諸外国ほどではないにせよ、感染者の数は増加の一途をたどっています。一時、重症者の数が横ばいになり、「もうすぐピークアウトか」と噂されましたがそれも期待外れに。東京などの大都市を中心にPCR検査陽性の人がにわかに急増し、ついに緊急事態宣言が出されてしまいました。
それにしても、新型コロナウィルスは、まるで日本に来襲したシン・ゴジラであるかのようです。日本の、そして日本人のさまざまな問題点を明らかにしたのです。これまで日本は、SARS、MERS、そして新型インフルエンザといった外来感染症の危機に何度かさらされました。にもかかわらず、日本には「本格的な防疫体制」というものがないことがわかったのです。また、リーマンショックを越えるかも知れないという経済危機に、政府は今もなお経済を支えるための有効な手立てをとれないままです。
一方で国民はどうかといえば、戦後の混乱を切り抜け、オイルショックを乗り切り、震災・原発事故を克服してきたはずだというのに、この混乱の中で依然として「買いあさり」と「買い占め」をやめられない人が少なくありません。また、日本人特有の「根拠なき楽観主義」によって、不要不急の外出、集会やコンサートの自粛が求められる中、海外旅行を我慢することも、夜の歓楽街をさまようことを控えられない人たちもいます。今、抗原検査陽性の人の数を増やしている原因の一部は、こうした「困った人たち」です。
検査の実施件数もまさにうなぎ登りです。医学的知識もないド素人の国会議員が「検査を増やせ。希望するひと全員に検査を」と耳障りのいい主張を繰り返します。しかし、新型コロナウィルスのPCR検査は感度も特異度もそれほど高くなく、擬陽性や偽陰性の問題が無視できません。そんな検査を事前確率も上げないまま実施すれば、本来は入院を必要としない偽陽性者が病床を占拠し、偽陰性の患者が無自覚に感染者を増やすことにもなります。無知な政治主導はなにもしないことよりも恐ろしい。
挙げればきりがないほどのダメダメぶりに、出てくるのはため息ばかり。この原稿が読まれるころも、まだそんな状態が続いているのでしょうか。保健所や検疫所の職員、感染患者の治療にあたる医療従事者が、感染する危険にさらされながらいっぱいいっぱいでやっています。お気楽な一般人がそうした人たちを見て見ぬ振りなのは仕方ないとしても、まさか医師会の先生方がその「今、危機にある人たち」から目をそらしていないでしょうね。いろいろなところで日本人の民度が試されているのです。
とはいいながら、つくづく高病原性鳥インフルエンザでなくよかったと思います。オリンピックも仕切り直し。中国製品とインバウンド頼みだった日本経済も反省を余儀なくされ、感染症対策もふくめてすべてを抜本的に見直すことになるでしょう。将来、ふたたびやって来るだろう恐ろしい未知の感染症のため、今、経験していることすべてをこれからにつなげなければなりません。そして、「あのときの辛い思いがあったからこそ」と思えるような日本にしていきたいものです。