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歴史の転換点(5)

2004年の「オレンジ革命」後、ウクライナとロシアとの関係が急速に悪化したことはすでに述べました。思えば、1998年にロシアも西側のG7に加わるようになり、ロシアとヨーロッパとのエネルギー供給をめぐる結びつきもより強固になっていきました。にもかかわらず、ソ連が崩壊すると、ポーランドやルーマニア、バルト三国やジョージアまでもが次々とNATOに加盟し、まるでNATOがロシアを包囲していくかのようでした。警戒したプーチン大統領はそのNATOの東進をやめるよう西側に繰り返し伝えました。

2010年以降のウクライナ国内、とくにクリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立は激化し、ロシア政府にとって看過することの出来ない「ロシア系住民に対するネオナチ活動」となりました。ロシア系住民たちがロシアに保護を求めるほど激しいものであったといわれています。2014年、ついにロシアはその求めに応じて軍をクリミアに侵攻させました。そして、クリミア半島では住民投票がおこなわれ、「ウクライナからの独立」を宣言したのです。それを受けてロシアはクリミアの独立を承認して併合しました。

ウクライナ東部のドンバス地方を中心とした戦闘も激化しました。そして、ドイツやフランスが仲介して戦闘を停止させる議定書がウクライナとロシアの間でミンスク合意として締結されたのです。戦闘を停止させるとともに、武装集団および軍備を撤収させた上でドンバス地方の自治を保証すること。さらに人道的な問題点を解決し、経済の回復と復興を進めることなどが合意されました。しかし、ミンスク合意はまったく守られず、ウクライナとロシアの双方が「責任は相手にある」と批難し合う状態が続いたのです。

当初はロシアが一方的に合意を無視したと報道されましたが、後になって合意を仲介したドイツのメルケル首相が、「ミンスク合意は、ウクライナに時間を与え、同国が軍事的により強くなるために利用した」と目的を明らかにしています。つまり、ミンスク合意は、ウクライナがアメリカや西側諸国からの軍事的支援を受け、ウクライナ軍を軍事訓練するための時間稼ぎに過ぎなかったのです。かくしてロシアのプーチン大統領は2022年にミンスク合意を破棄し、ドンバス地方の独立を承認しました。

その後、ウクライナのロシア系住民を保護する「特別軍事作戦」としてロシア軍が国境付近に集結しました。しかし、アメリカと西側諸国は静観する姿勢を続けました。その動きに警告できたはずなのに、です。ロシアがさらに侵攻の準備を進めても、アメリカ軍やNATO軍はウクライナに軍隊を派遣するつもりはないと発表しました。ついにロシア軍がウクライナに侵攻。西側諸国からの批判を受けてロシアは、撤退の条件としてNATOのウクライナへの拡大をやめ、ロシア国境付近へのミサイル基地を建設しないことを求めます。

しかし、そうしたロシアの主張は無視され、ウクライナ戦争は拡大していきました。そして、今、ウクライナとロシア双方に多数の死傷者を出し、ウクライナのインフラにも甚大な被害をもたらしています。欧米各国はウクライナ軍に武器と兵器を援助し、軍備を整えるための多額な資金を提供しています。でも、ウクライナが大きな代償を払うなか、戦争に要したお金の多くがアメリカの軍産複合体に戻り、それがエスタブリッシュメントを潤しているのです。この「循環」をどう考えればいいのでしょうか。

当初、戦争を仕掛けてきたロシアに対する厳しい経済制裁は速やかに効果をもたらし、ロシアの経済を揺るがすとともに武器生産能力に打撃をあたえると多くの識者が考えていました。しかし、そうはなりませんでした。現在のウクライナとロシアの兵力の差は10倍にもなっているとされます。優勢だと伝えられてきたウクライナ軍ですが、現在は圧倒的な劣勢に陥っているとの情報もあります。ウクライナ軍の兵力も枯渇しつつあるとの報道すらあります。もはやウクライナは疲弊しているのです。

 

最近、ロシアの「反体制派」とされるナワリヌイ氏が刑務所で死亡したと報道されました。ロシアが刑務所で病死を装って殺害したのではないかと疑う報道があります。しかし、ナワリヌイ氏はプーチンの政敵ではありません。彼はスラブ民族主義の活動家として、反アジアの思想をもち、ロシア人だけの国家の樹立をめざしていました。アメリカはロシアをいくつかの国家に分割して弱体化させる戦略をもっているといいます。ナワリヌイ氏はそうしたアメリカの戦略に利用されただけなのではないかともいわれているのです。

事実、ナワリヌイ氏側がイギリスの諜報組織(MI-6)と接触し、ロシア国内に「革命」という名の反政府運動を起こすため年間1000万~3000万ドルを用意するように交渉する様子が報道されています。しかもナワリヌイ氏が死亡したのがタッカー・カールソンとプーチン氏とのインタビューの直後。ナワリヌイ氏をうとましいと思っているプーチン大統領が処刑したのか、それともプーチンのインタビューによって分の悪くなった西側によって暗殺されたのか。あるいは単なる病死なのか。今のところ真相は不明です。

プーチン大統領はインタビューで、「欧米が軍事援助を停止すれば戦争はいつでも終わる」といいました。「われわれは和平交渉を拒否していない」ともいっています。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ウクライナとロシアの間で和平交渉が検討されました。しかし、当時のイギリスのボリス・ジョンソン首相がウクライナを訪れ、ゼレンスキー大統領に和平交渉を断念させたともいわれています。ジョンソン氏はそれを否定していますが、彼はウクライナ戦争に関するインタビューには今も応じていません。

 

ロシアのウクライナ侵攻をやむを得ないことだとは思いません。いかなる理由、どのような歴史的背景があろうと、武力で現行の国境を変更することは認めてはいけないのです。今回の戦争に対する直接的な責任はロシアにあります。その一方で、すべての責任がロシアにあるわけではありません。善・ウクライナ、悪・ロシアとは言い切れないのが今回のウクライナ戦争。NATOを強引に東進させた欧米にも責任があり、世界の覇権を目指すアメリカの戦略が今回の戦争の引き金になっていることも否定できないのです。

ウクライナ戦争がはじまったとき、私は「まるで真珠湾攻撃のときのようだ」と思いました。ロシアの人口の半分にも満たないウクライナが、軍事的にも優位な大国ロシアを相手に国家・国民を守ろうと戦っている。それが圧倒的に巨大な国・アメリカに挑む日本に重なったのです。また、アメリカの世界戦略に翻弄され、戦争をするところにまで追い詰められたロシアが、東アジアでの覇権をめぐってアメリカと戦争をするしか選択肢がない状態にまで追い込まれた日本のように見えたのです。

一方、ロシア系住民を保護するために侵攻したロシア軍は、第二次世界大戦時にポーランドに侵攻したドイツ軍のようにも見えます。大戦前、ポーランドがドイツに分割されたとき、多数のドイツ人がポーランドに移り住みました。そのドイツ系住民が迫害されているというのが侵攻の理由でした。しかし、後年、ドイツ人の迫害は実際にはなかったことが明らかになっています。同じように、今回のロシア軍がウクライナを侵攻のした目的が本当に「ロシア系住民の保護」だったのか。不信感は拭い切れません。

そんな複雑でナイーブなウクライナ戦争は早くも3年目を迎えました。この間、たくさんのウクライナ人が亡くなりました。とくに兵士として戦場に送られた青壮年の男性人口が激減しているのです。社会インフラも寸断され、戦場となった地域の復興にも莫大な費用が必要とされています。戦争が今終わったとしても、ウクライナの復興に必要な費用は70兆円を超えるだろうと試算されています。ウクライナの国民はもちろん、国家としての基盤もゆらぎはじめ、そろそろ限界だという噂もながれています。

ウクライナへの軍事援助・資金援助もアメリカの議会を通らなくなってきました。ヨーロッパ各国の支援も滞っています。そんな閉塞感の中で、日本からの資金援助に対する期待感が高まっています。日本は憲法の制限によって軍事的貢献ができないからです。期待されている額は数兆円にも上るとされています。台湾への中国の侵攻も現実味をおび、日本がそれに巻き込まれて有事となれば、西側諸国からの援助を得なければなりません。その保険という意味でもなんらかの貢献をすることが必要なのです。

しかし、日本が貢献すべきことは資金援助だけなのでしょうか。1991年に勃発した湾岸戦争のとき、日本が味わった屈辱を思い出してください。日本はアメリカ・ブッシュ父大統領の要請を受け、戦費を一部負担するため90億ドル(約1兆2千億円)を支出しました。また、湾岸戦争が終結したあと、国内での猛烈な反対運動の中(なぜ反対するのか理解できませんが)、日本は機雷を除去する掃海艇を派遣しました。にもかかわらず、「金は出したが、汗も血も流さなかったから」との理由で評価されることはありませんでした。

今回のウクライナ戦争への支援として、アメリカ・バイデン大統領から岸田首相に総額で約6兆円を超える額が密かに提示されているともいわれています。そして、岸田首相はそれを内諾しているとの報道もありますが、これらがウクライナ国民にとってどのくらい意味のあるものかよく検討する必要があります。アメリカの武器や兵器を購入する費用に消えてしまうだけでは意味がないのです。ウクライナのためになるのはもちろん、ロシアにとっても役立つような支援でなければなりません。我々の大切な税金が原資なのですから。

日本は今こそ「まともな国」に立ち戻らなければなりません。自分の国は自分で守れる国。安っぽい理想を掲げるだけではなく、現実的な役割をはたすことのできる、成熟した国家になるべきです。そして、他国の不幸に手を差しのべ、国際社会の一員としての義務をはたす国になるのです。衝突する国々があれば日本が調停し、西側でもなく、東側でもない、アジアの雄だからこそ可能な国際貢献をすることが重要なのです。真の「平和国家」とはそういう国家だと思います。

そのためには日本が、軍事的にも、外交的にも、また、国力という点からも、経済大国としてふさわしい自立した国家に生まれ変わることが必要なのではないかと思います。日本にとっての「歴史の転換点」にはそんな意義があるのではないでしょうか。210年にもおよぶ鎖国状態から、国際社会の一員としての近代国家として再出発することを日本が決意した明治維新。このとき、国民に、そして、世界に宣言した「五箇条のご誓文」をあらためて読み返してみてください。

「五箇条のご誓文」

一、広く会議を興し、万機公論(ばんきこうろん:民主的な議論)に決すべし。

一、上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん:国家の政)を行なうべし。

一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志をとげ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣)を破り、天地の公道にもとずくべし。

一、智識を世界に求め、おおいに皇基(こうき:国家の礎)を振起すべし。

 

歴史の転換点(4)

1991年にソ連が崩壊しました。長引く冷戦によって社会主義諸国の経済は疲弊し、政権の腐敗ももはや修正不可能な状況にまでなっていました。ソビエト共産党改革派の旗手ミハイル・ゴルバチョフは、グラスノスチペレストロイカを導入して政治を改革し、経済を自由化しようとしました。彼は共産党を維持しつつ、ソビエト連邦をゆるやかに結びつけ、アメリカ合衆国のような国家の共同体を作ろうとしたのです。しかし、それは元に戻すことのできないパンドラの箱の蓋を開けることでもありました。

ソ連が崩壊し、ソビエト共産党が消滅すると、東側諸国は次々と分離独立を宣言しました。そして、それまでの社会主義を捨て、資本主義をとりいれて西側の一員になろうとしたのです。しかし、それまで民主主義を知らず、いわば独裁主義国家で生活してきた人たちにとって、「自由」はまさに「蜜」の味でした。共産国家のとき以上に汚職がはびこり、企業の私物化がはかられ、貧富の差が一気にひろがりました。国民の中には共産主義だった時代を懐かしむ人さえ出てくるほどでした。

そんな混乱を若きプーチンはどう見ていたのでしょうか。きっと祖父や父親から聞かされてきたソ連・ロシアの栄光がガラガラと崩れていくように感じたに違いありません。ソ連崩壊後、ロシアの国営企業が次々とアメリカ資本にただ同然の値段で売却されて外国企業になっていきました。民主主義や資本主義の現実を突きつけられ、プーチンは祖国ロシアをどう救えばいいのだろうかと思ったはずです。だからこそ、2000年にプーチン氏が大統領となって断行したのが民営化されたロシアの国内企業の再国営化でした。

アメリカ資本といってもその多くがユダヤ系でした。国内の新興財閥もオリガルヒと呼ばれるユダヤ系のものであり、そのオリガルヒが富を独占する一方で国民の暮らしがなかなかよくなりませんでした。そこで、プーチンは財閥の解体にも乗り出します。このままではロシアが外国資本に乗っ取られてしまう。そんな危機感がプーチン大統領にあったかも知れません。そのような中にあって、プーチン大統領はなんどもEUやNATOへのロシアの加盟を打診しました。しかし、その打診はことごとく拒否されました。

ロシアには世界有数の資源があります。冷戦終結後、その豊富な資源にドイツやイタリア、オランダ、スペインなどが依存するようになりました。石油や天然ガスなどがほとんど出ないウクライナも、ずっと以前からロシアの資源に依存してきた国のひとつでした。ロシアがヨーロッパに向けて敷設したパイプラインの中継基地として、ウクライナは格安の値段で供給を受けていたのです。しかもその一部を盗み取って売るという利権すら存在していました。しかし、それをロシアはこれまで黙認していました。

ウクライナは冷戦の終結とともに、ソ連の核兵器を手放し、「平和国家」として独立する道を選びました。そして、EUへの加盟とともにNATOへの加盟を望んだのです。ソ連が崩壊したとき、ブッシュ父はゴルバチョフに「NATOを1ミリたりとも東に進めない」と約束しました。にもかかわらず、アメリカをはじめとする西側諸国は、ロシアの緩衝地帯にあるバルト三国を、そしてポーランドやルーマニアといった国々をEUに加盟させ、NATOの加盟国にしていきます。それはロシアにとって国際信義に反することです。

 

NATOの東進がついにウクライナにも及びます。2004年、ウクライナの大統領選挙において、ロシアとの友好関係を重視するヤヌコビッチが当選しました。すると、投票に不正があったとする大規模な暴動が国内各地でおこりました。混乱ののちに再投票がおこなわれ、EU・NATO加盟を公約したユシチェンコが大統領に選ばれます。これが「オレンジ革命」です。ユシチェンコはEU・NATOへの加盟を加速させるとともに、ロシア語を禁止するなど反ロシア政策ともいえる法律も通そうとしました。

かくしてウクライナでの親欧米派と親ロシア派の対立が深まっていきました。このような対立を煽った背景には、アメリカのユダヤ人投資家であるジョージ・ソロスやウクライナ新興財閥(多くはユダヤ系ウクライナ人が創設)の多額の資金提供があったともいわれています。また、当時のアメリカ政府のヌーランド国務次官補(現在のバイデン政権では国務次官:彼女もウクライナからアメリカに移住してきたユダヤ人)がウクライナの大統領選挙に関与したこともオバマ大統領が後に認めています。

そんな親米派のユシチェンコ政権も内部崩壊していきます。ウクライナの内政に干渉する欧米諸国に嫌気が差す閣僚が続出した結果だともいわれています。政権の混乱によって国民の支持率を大きく落としていきました。そして、2010年の大統領選挙では再び両者が立候補しましたが、ふたたび親ロ派のヤヌコビッチが当選するという皮肉な結果となりました。しかし、今度もまた混乱が生じ、収束しませんでした。その結果を不服としたデモ隊の反政府運動が拡大し、ウクライナ全土が騒乱状態となったのです。

国内の混乱はヤヌコビッチ大統領が東ウクライナに退避するところまで拡大しました。そして、ついにヤヌコビッチは政権を放棄する事態にまで至りました。これを西側は「マイダン革命」あるいは「尊厳革命」と好意的に呼びます。しかし、この混乱に乗じて、ロシア系住民の多いウクライナ東部のドンバス地方、とくにクリミア半島では、アゾフ大隊と呼ばれるウクライナ民族派グループがロシア人を襲撃するという事件が頻発しました。真偽は定かではありませんが、多数のロシア人が虐殺されたともいわれています。

クリミアは歴史的に特殊な地域です。クリミア半島は温暖な保養地としても有名でしたが、かつての帝政ロシアが勢力を南下させる足がかりとして重要な軍港セバストーポリを作りました。そして、早い段階からロシア人が移住し、今でも住民の多くがロシア系の人たちです。しかも、ウクライナ語を話すウクライナ人と共に、かつてクリミア半島周辺を広く統治していたモンゴル・タタール人の少数民族も住むなど、ソビエト連邦の時代から他民族によるクリミア・ソ連自治共和国となっていた地域でした。

ところが、第二次世界大戦中にタタール人が追放されて共和国は廃止されます。そして、ソ連・ロシア社会主義共和国直轄のクリミア州となりました。それはクリミア半島の戦略上の重要性を考慮してのことです。その後、ウクライナ出身のフルシチョフがソ連の最高権力者になると、1954年にクリミアはウクライナ・ソ連社会主義共和国に移管されます。これはフルシチョフ自身の故郷であるウクライナへの配慮だとも、豊かで広大な国土をもつウクライナとソ連との結びつきを強固にする狙いがあったのだともいわれています。

しかし、ソ連が瓦解をはじめると、クリミアの住民はソ連からの独立を求めました。そして、1992年になるとウクライナからも独立することを決議し、再びクリミア自治共和国となることを宣言します。以後、クリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立が激化するようになりました。しかし、1996年にウクライナで独立国家としての憲法が制定されると、ウクライナ国内でのクリミア自治共和国の地位が保証されました。このようにクリミアでは常にウクライナからの独立問題がくすぶる状態が続いていました。

ウクライナ国内の親欧米派と親ロシア派の対立は続き、拡大していました。すでに説明したとおり、ポーランドに近いウクライナ北西部の地域はロシアに対する拒否反応が強い地域であり、ウクライナ語を話す人たちが多く住んでいます。一方の南東部はかつて「ノボロシア(新ロシア)」と呼ばれたロシア系住民の多い地域。とくにロシアと国境を接するドンバス地方はロシア語を日常的につかう住民が多く住んでいます。ドンバス地域ではアゾフ大隊によるロシア系住民の襲撃が続いていたともいわれています。

そうしたドンバス地方のロシア系住民を救出する「特別軍事作戦」が今のウクライナ戦争だとプーチン大統領は主張しています。この間、ドンバス地方の独立を承認し、ノボロシア全域をロシアの支配下に置こうとする作戦が進行しています。それに対してウクライナは欧米からの資金と軍事的な援助を得て、ロシア軍を押し返すべく反攻しています。しかし、圧倒的な軍事力をもつロシアに、ウクライナも徐々に劣勢になりつつあるというのが現状です。これまで支援してきた欧米にも次第に「援助疲れ」が見えてきました。

 

こうしたウクライナ戦争のゆくえに大きく影響しているのが、先に述べた「タッカー・カールソンとプーチン大統領の独占インタビュー」です。これまでマスコミが報じてこなかったことがいくつかここで明らかになったのです。例えば、前述したように「ウクライナはロシアにとって特別な場所」とプーチンが考えていること。あるいは「ロシアはなんどかEU加盟、NATO加盟を打診したがアメリカに拒否された」こと。あるいは「プーチンはなんどもNATOの東進をやめてくれと頼んだ」こと、などがそれです。

私もその動画の全編を見ましたが、トランプ大統領のスキャンダルとして報道されてきたことがらのいくつかが、ウクライナ戦争に続く一連の国際情勢の動きと関連していたことがわかりました。まさに今回のインタビューによって「これまで点でしかなかったことが線で結びついた」のです。トランプ氏とヒラリ・クリントン氏との選挙戦はまさに「舌戦」でした。公開討論会ではお互いを口汚く罵り合う場面もあり、「史上最低の討論会」と呼ばれるほどでした。でも、このやりとりの裏には大きな真実が隠されていました。

皆さんは「エスタブリッシュメント」と呼ばれている人たちをご存じでしょうか。エスタブリッシュメントとは社会システムを支配し、自分たちに利益誘導をする構造および既得権益者のことを差します。大企業や有名政治家、大資本家や官僚機構、弁護士会や医師会などをふくめた、社会に働きかけることができる人たちがそれです。最近では、そうしたエスタブリッシュメントを監視するはずのメディア、あるいは、肥大化し、権力をもった社会的弱者団体までの実にさまざまなものがエスタブリッシュメントと化しています。

ヒラリー・クリントンは以前からクリントン財団を作り、アメリカ国内のさまざまなエスタブリッシュメントのみならず諸外国政府や企業とのコネクションを使って多額の寄付を集めていることが知られています。クリントン財団は非営利財団で、もともと「クリントン記念図書館」を設立するために作られ、表向きは「慈善事業」を支援することを目的にしています。しかし、実際には当時の民主党ヒラリー・クリントン国務長官(日本の外務大臣)の職権を利用した多額の寄付金の受け入れ先になっているのです。

アメリカが戦争をするときの歴代大統領に民主党出身者が多いのをご存じでしょうか。第一次世界大戦や第二次世界大戦に参戦したのも民主党の大統領。第二次世界大戦後を振り返っても、朝鮮戦争やベトナム戦争も民主党の大統領のときです。東欧諸国を巻き込んだボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争もそうでした。「革命」によって政府を転覆させようとアメリカが介入したリビアやシリアでの大規模な戦闘も民主党の大統領がサインをしたものです。共和党の大統領が関与したのは湾岸戦争・イラク戦争ぐらいです。

それは民主党が軍産複合体と呼ばれるエスタブリッシュメントと密接な関係にあるからだといわれています。海外で大規模な戦争をし、武器や兵器を消耗すれば軍需産業は潤います。現在のアメリカの軍事費はおよそ8700億ドル(130兆円)、世界の軍事費の約40%を占めます。日本の国家予算にも匹敵する軍事費を背景に、アメリカの軍産複合体とその関連企業は莫大な利益をあげているのです。武器・兵器もやがて老朽化します。戦争には兵器の在庫処分という側面もあるのです。ウクライナへの武器供与もその一例です。

ヒラリーとトランプによる大統領選挙中、「ヒラリー・クリントンのメール問題」というスキャンダルが報じられました。当時、国務長官だったヒラリー・クリントンは、情報の機密性を保持するため政府専用のサーバーを使ってメールのやりとりをしなければなりませんでした。それは在任中のすべてのメールを、後年になって歴史的に検証できるようにするためです。しかし、ヒラリーは個人のサーバーをつかってメールのやりとりをしていたことがわかりました。そのことを暴露したのがウィキリークスです。

ウィキリークスはジュリアス・アサンジ氏(性的暴行容疑でイギリス政府に逮捕され、拘置所に収監されています。現在、アメリカに引き渡しを要求されています)が設立しました。匿名のまま機密情報を公開するウェブサイトです。ヒラリーの個人的サーバーを何者か(ロシアの情報機関ともいわれています)がハッキングしてウィキリークスに投稿したのです。その結果、ヒラリーが中国を含むさまざまな国家や企業とやりとりをし、密かに多額の報酬や寄付を得ていることが明らかになりました。

トランプは繰り返しこの問題をとりあげました。しかし、メディアはその報道には消極的でした。むしろ、トランプ氏とロシアが共謀してヒラリー・クリントンの追い落としを企んでいると思わせるような報道をしたくらいです。ところが、実際には、ヒラリーと民主党がイギリスの諜報機関MI-6の元職員であるクリストファー・スティールに多額の報酬を支払い、「トランプとロシア政府が共謀」という偽報告書を創作させ、報道させていたことがわかっています。そんなことをほとんどの日本人は知りません。

タッカー・カールソンとプーチン大統領のインタビューに関する感想を尋ねられたヒラリーは「(タッカー・カールソンは)子犬のように役に立つバカ」と酷評しました。すでに「歴史の転換点(3)」でもご紹介したバイデンの取り乱したような反応や、このヒラリーのヒステリックな反応はいったい何を意味しているのでしょうか。結局、ヒラリーのメール問題は調査されましたが「重大な嫌疑は見いだせなかった」として処理されました。アメリカのメディアもそれ以上深掘りすることなく沈黙してしまいました。

アメリカのエスタブリッシュメントはウクライナの天然資源をめぐる利権を狙っています。バイデン大統領の息子でもあるハンター・バイデン氏が、ウクライナの大手エネルギー会社ブリスマの役員に就任していたことが知られています。そんな中、ウクライナ検察がそのブリスマの不正の捜査を進めると、当時、オバマ政権の副大統領だった父ジョー・バイデンがウクライナに圧力をかけました。「捜査を中止しなければ、アメリカはウクライナへの軍事援助を中止する」というのです。ウクライナは検事総長を解任しました。

 

正式に報道されないことがあります。そして、それを世間は「フェイクニュース」、あるいは「陰謀論」とかたづけてしまいます。しかし、メディア・報道機関もエスタブリッシュメントのひとつであることを知るべきです。とくにBLM運動以降のアメリカを中心とするメディアのあり方は疑問を持たざるを得ません。それは真実を報道する機関というより、まるでイデオロギーの宣伝機関かのようでもあります。偏向したポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)に支配されているように見えるときさえあります。

そうしたことを考えながら「歴史の転換点(5)」の「ウクライナ戦争に対する総括」をお読みください。

 

歴史の転換点(3)

今、アメリカでは11月の大統領選挙に向け、民主党・共和党両党の候補者を決める選挙がおこなわれています。民主党の候補には現職バイデン大統領が有力とされていますが、アメリカ合衆国大統領として最高齢であり、また、認知症の可能性も指摘されています。そのため、これからさらに4年間、大統領としての職責をバイデンがはたせるか疑問視する意見も少なくありません。「それなのになぜ民主党はそのようなバイデン氏を候補者にするのか?」についてはさまざまな憶測を呼んでいます。

一方の共和党の大統領候補として有力なのがドナルド・トランプ氏です。現状での共和党の候補者はほぼ彼で決まりだと思います。しかし、トランプ氏もすでに77歳であり、決して若い候補者ではありません。2016年の大統領選挙で彼は、事前の予想を覆して第45代合衆国大統領に選ばれました。日本のメディアを通じてアメリカのマスコミ情報を聞かされていた私たちにすれば、当然、民主党のヒラリー・クリントン氏が当選するものと思っていました。それは多くのアメリカ国民も同じだったかも知れません。

トランプ氏には上下院議員の経験はおろか、州知事の経験すらありません。タレントであり、巨額な資産をもつ不動産王にすぎないトランプ氏の政治的手腕を疑問視する意見が大半でした。しかし、そんなトランプ氏への国民の支持は、選挙戦を通じて徐々に拡がっていきました。そうした変化を冷静に見ていた人からすれば、彼が当選したことは決して驚くべき事ではなかったかもしれません。マスコミは予想を大きくはずしましたが、その失態は無視してその後もトランプ氏を否定的に伝えました。

トランプ大統領は、終始、マスコミから批判され続けましたが、彼が在任中の4年間にアメリカは戦争をしませんでした。世界に展開するいくつかのアメリカ軍をも撤収させたほどです。「アメリカ・ファースト」を訴えて臨んだ国内経済も復活しました。国境に高い壁を作って不法移民の流入を防ぎ、BLM運動で悪化した治安も徐々に回復させました。マスコミはトランプ氏をことごとく悪くいいます。しかし、彼のこれまでの実績を冷静に振り返れば、マスコミがかき立てるほど彼の実績は悪くはなかったと思います。

ロシアのプーチン大統領は「次期大統領にはバイデンが望ましい」とコメントしました。反トランプのマスコミはこぞって「トランプはプーチンに酷評された」と大喜び。しかし、プーチンがバイデンを評価したと思ったのもつかの間、タッカー・カールソンにプーチンは、歴代民主党政権が今回のウクライナ戦争にいかに関与してきたかを語りました。会見の感想を聞かれたバイデンは激怒し、「プーチンはクレージーなクソ野郎だ」と口汚く罵ったのです。あの会見はバイデンにとってそれほど衝撃的だったのでしょう。

バイデン氏に激しく批判されたプーチン大統領はいたって冷静でした。バイデンの激しい批判に対する受け止めを尋ねられ、プーチンは「ほら、だから彼は大統領にふさわしいと言ったんだよ」と余裕を見せます。ウクライナ戦争はロシアとアメリカとの戦いでもあります。ブッシュ(共)-クリントン(民)-オバマ(民)-トランプ(共)-バイデン(民)と歴代アメリカ大統領の働きぶりを見てきたプーチン大統領にとって、バイデン氏は取るに足らない大統領だと感じていたのかもしれません。

ウラジーミル・プーチン氏がロシアの大統領になったのは2000年です。ソビエト共産党を崩壊させたエリツィン氏の後継者として彗星のごとく出現した若き大統領プーチンはまだ48歳でした。ソ連が崩壊したとき、プーチン氏はKGB(ソ連のCIA)の職員として東ドイツに駐在していました。彼の父はソ連の海軍の傷痍軍人であり、第二次世界大戦ではドイツ軍と戦いました。また、祖父はプロの料理人としてラスプーチンの給仕をし、レーニンやスターリンにも料理を提供していたといいます。

そうした環境の中で育ったプーチンです。おそらく国際情勢に関する知識は誰よりも深く、ロシアやソ連の歴史にも詳しかったに違いありません。KGBの諜報員としての経験から、アメリカの世界戦略や諜報活動の実態にも精通していたことでしょう。そんなプーチンにとってバイデンがこれから何をしようとしているのかは推して知るべし。むしろ、政治的な経験をもたず、エスタブリッシュメント(既得権益者)とのしがらみのないトランプ氏の方がやりにくい相手だったかも知れません。

 

ウクライナとロシアの関係を考えるとき、とくに近現代の世界史を知ることが大切です。第一次世界大戦の直前、帝政ロシアは、かつてはプロイセンだったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と国境をめぐって緊張状態にありました。そして、皇太子をセルビア人青年に暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると、同じ正教会のロシアがセルビアを支援するために出兵しました。かくして1914年、ロシアと三国協商で同盟を結んでいた英・仏を巻き込んで第一次世界大戦となりました。

しかし、ドイツとの戦費がかさんでロシア国内の経済は悪化。国民の不満はますます高まり、戦場の兵士すら戦意を喪失し、逃げ出す事態になりました。混乱の収拾が付かなくなった帝政ロシアでは、1917年についにロマノフ王朝が終わり、レーニンらが指導する共産主義組織ボルシェビキが実権を握ります。これが十月革命です。ドイツはロシアのさらなる混乱を狙ってウクライナの分離独立を承認。ロシア国内の民族主義を力ずくで抑えきれなかったボルシェビキはバルト三国からウクライナにかけての領土を失いました。

1918年に第一次世界大戦は終わりました。でも、ロシアはかろうじてクリミア半島を確保する戦果しか得られませんでした。そして、ふたたび皇帝一派が勢力を盛り返すのを恐れたボルシェビキは、帝政ロシア時代のニコライ皇帝一家を粛清しました。そして、パリ講和会議で多額の賠償金が課せられ、ドイツ帝国が衰退したのをきっかけに、ロシア派ウクライナやコーカサス地方に赤軍を進めて再び領土としました。その後、ポーランド戦でウクライナの半分を失いますが、1922年、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立します。

レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが権力の座につきました。落ち込んだソ連国内の産業を振興させるため、スターリンはノルマを定めて資源の採掘、農作物の収穫を強力に推し進めました。集団農場での連体責任を強化し、過酷な取り立ては容赦がありませんでした。ヨーロッパ中が飢饉に見舞われた1932年とその翌年の二年間で、穀倉地帯といわれたウクライナでさえも、数百万人の餓死者を出したといわれます。これをホロモドールといい、ウクライナ人に反ソ連(反ロシア)の感情が高まるきっかけになりました。

ヨーロッパは歴史の転換点でも書いたように、ベルサイユ条約のあとのドイツで、ナチス党のアドルフ・ヒトラーが多くの国民の支持を得るようになります。ナチス党は反共産主義を唱え、ユダヤ人とジプシー、有色人種や障害者の排除を訴えました。ユダヤ人とは本来、ユダヤ教を信仰する人たちのことを指します。ユダヤ人は人種ではありません。スペインにはスファラディーと呼ばれるユダヤ人がおり、ヨーロッパにいる白人のユダヤ人はアシュケナージと呼ばれます。その他、有色人種のユダヤ人もいるほどです。

しかし、ヒトラーはユダヤ人を人種とみなして迫害します。彼の祖母がユダヤ人富豪の愛人であり、自分にもそのユダヤの血がながれていることを嫌悪したからだともいわれています。そもそもキリスト教徒にとって、イエス・キリストを十字架に送ったのはパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)だという思いがあります。かつてのキリスト教では金融業などお金をあつかう仕事は卑しい職業と考えられていました。そのような仕事に従事することの多かったユダヤ人たちにはキリスト教徒たちから迫害をうける素地はもともとあったのです。

第二次世界大戦が勃発しようとしていたとき、ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。かつてポーランドの隣国にはユダヤ教を国教としていたハザール国がありました。その影響でポーランドには多くのユダヤ人が住んでいました。しかも、ポーランドは度重なる戦果によって、労働人口が少なかったこともあり、勤勉なユダヤ人を積極的に受け入れていました。しかし、その後、ナチス・ドイツがポーランドを脅かすようになると、たくさんのユダヤ人が迫害を恐れてポーランドを離れていきました。

しかし、イギリスも、アメリカも、そしてソ連もがユダヤ人との関わりを拒みました。唯一、日本だけがユダヤ人の脱出を助けたのです。たくさんのビザを発給してユダヤ人を救った杉原千畝はあまりにも有名です。ところが杉原千畝がユダヤ人達を救う3年も前、数千人にもおよぶユダヤ人のポーランド脱出に尽力した日本人がいます。日本帝国陸軍の樋口季一郎中将です。ドイツと同盟を組む日本の軍人でありながら、満州鉄道に列車を手配し、ロシアのオトポールから租界地のあった上海までユダヤ人を移送したのです。

三国同盟を結んでいたナチスドイツからは日本政府に強い抗議が来ました。そして、政府内でも査問委員会を開いて樋口中将に懲罰を与えることも検討されました。しかし、当時の東条英機関東軍参謀長の裁可もあり、樋口中将の責任は問われなかったばかりか、ドイツに日本政府は「これはまったくの人道上の問題であり瑕疵はない」と回答しました。樋口中将はその後も、終戦間際のアッツ島撤退では多くの日本兵たちの命を救い、占守島の戦いにおいては侵攻してきたソ連を阻止して北海道を守るために指揮をとりました。

多くのユダヤ人たちはポーランドからの逃げ場を失ない、隣国のウクライナに逃げてきました。しかし、ユダヤ人はかつてウクライナ人から重税をとりたててきた人たち。ソ連攻撃のためにポーランドに侵攻してきたドイツ軍は、ウクライナ人にとってユダヤ人に対する恨みを晴らし、自分たちを奴隷のように扱ってきたソ連共産党を懲らしめてくれる英雄に見えたのでしょう。「ユダヤ人狩り」というナチスの要請に積極的かつ自発的に協力したのです。これがプーチン大統領がいう「ウクライナのナチズム」の背景になっています。

 

かくして、第二次世界大戦が終ってみると、ウクライナは独ソ戦の戦場となり、国土は荒廃してしまいました。そして、またもやドイツが降伏してソ連が戦勝国となると、ウクライナはソ連邦のいちぶに戻りました。その後、ウクライナで収穫される小麦は、ソ連の重要な穀物として欠かすことのできない存在となります。しかも、ウクライナをふくむ、北はバルト三国からグルジアなどがあるコーカサス地方にかけての地域は、ソ連をNATOから守る重要な緩衝地帯となり、重視されました。

ロシア、そして、ソ連は戦争を経験するたびに自国の発展の遅れに気がつきました。クリミア戦争では敵対していた英・仏の近代化が敗戦の原因であると気がつき、自国の産業革命を進めるべく政策を転換します。また、第一次世界大戦では自国の軍備が量的に劣っており、それは工業化の遅れからだということを知ります。さらに、第二次世界大戦が終わると、コミンテルン(共産主義インターナショナル)がソ連の国益にかなうよう世界を動かすために重要な役割をはたしたことを実感しました。

第二次世界大戦の前後においては、日本はもちろん、アメリカでさえも、ソ連・コミンテルンのスパイが両国の政策に関与しました。とくに、1933年にアメリカの大統領に当選したルーズベルト大統領が、早々とソビエト社会主義連邦を承認したことは重要な転帰になりました。当時のソ連は満州への南下政策を進めており、日本と対峙していた蒋介石を支援していました。その蒋介石と日本を戦わせ、ついには中国に利権を持とうとしていたアメリカを日本と戦わせることが国益にかなうということをソ連は知っていたのです。

とくに、1930年代までは米ソの蜜月時代でした。ソ連の優秀な若手研究者が多数アメリカに留学しました。そのなかにはスパイも含まれていて、アメリカの最新技術を盗んでいったのです。しかし、第二次世界大戦後になって、そうしたソ連共産党の世界戦略が明らかになると、アメリカとソ連は袂を分かつことになります。そして、両国を中心とした二極化が進み、東西冷戦という硬直化した世界になっていったのです。米ソ両国は軍事力の開発を進め、科学技術においても世界をリードする東西の国家となりました。

こうした世界情勢は、最近の米中関係をみるようです。1979年にカーター大統領と鄧小平の間で米中国交正常化が合意されると、中国からたくさんの若手研究者がアメリカに留学しました。そして、中国は経済大国となり、アメリカを脅かすほどの存在になりました。こうした米中関係は第二次世界大戦前後の米ソ間のそれに似ています。グローバリズムという美名のもとに、国境が不明瞭になった結果です。それにしても、ルーズベルトにせよ、カーターにせよ、世界の変革期にあるときのアメリカ大統領はいつも民主党です。

冷戦時代、ウクライナは、ソ連にとっては地政学的にも、軍事的にも、食糧安全保障という観点からも重要な地域となりました。ウクライナにはソ連の戦略ロケット基地が設置され、世界最新鋭の核兵器が貯蔵されていました。その代償としてウクライナは、ソ連から安価なエネルギーを供給されていたのです。しかし、ソ連が崩壊し、東西冷戦が完全に終結した1994年、ウクライナはブダペスト覚書きでソ連から独立するとともに、核兵器を放棄して「平和国家」を目指す道を選択しました。これは西側につくことを意味します。

今も続いているウクライナ戦争は、EUやNATOというアメリカ・西側陣営と、それら西側国家への猜疑心を捨てきれないロシアとの戦いでもあります。ウクライナは歴史的にも、あるいは地政学的にも、東西陣営の間にはさまれた緩衝国家であり続けるという悲劇から逃れることができません。ウクライナに侵攻したロシアには一義的な責任があります。しかし、ウクライナ自身やアメリカの戦略にも問題があることに気が付かなければなりません。その辺のことは次の「歴史の転換点(4)」で詳しく書きます。

 

歴史の転換点(2)

ウクライナで冷たく凄惨な戦争が今も続いています。この間、ウクライナでは40万人とも、50万人ともいわれる人が命を落としました。祖国をあとにし、他国に避難したウクライナ人は600万人を超えています。ウクライナ国内で避難している人も360万人にのぼるといわれています。戦争前のウクライナの人口は約4000万人ですから、実に国民の4分の1にもおよぶ人たちが避難民となって慣れない地で生活しているのです。こうした事実を知っている日本人がはたしてどのくらいいるでしょうか。

今回の戦争によって、かつて「ノボロシア」と呼ばれたウクライナ南部の美しい風景は一変し、とくに東部ドンバス地方の多くの建物ががれきの山になってしまいました。国際法で認められる戦争では、軍事施設に対する攻撃は許されていますが、一般人を標的にする攻撃は違法です。しかし、ロシアによる無差別攻撃は発電所や駅といった公共施設ばかりではなく、一般住民の住む集合住宅などをも無差別に狙っています。国民に恐怖心を与え、戦意を喪失させることが目的です。戦争の無慈悲さに今も昔もありません。

ウクライナ戦争は2月24日で3年目を迎えました。昨年の10月28日付けの当ブログで、私は歴史の転換点と題した小論を掲載しました。一介の内科医院に過ぎない当院のホームページに、このような政治的な記事を載せるのはどうかと思いました。しかし、マスコミからは正しい情報が流れてきません。また、混沌とした世界情勢にまるで関心がない人たちも少なくありません。私たちのまわりでいつ戦争がおこってもおかしくないのだということを喚起するためにあえてあの記事を掲載しました。

 

先日、アメリカの有名なジャーナリストであるタッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領に単独インタビューしました。西側のジャーナリストが、ロシア軍のウクライナ侵攻が行なわれて初めてプーチンと会見するとあって世界中の人が注目していました。私もこの会見に大きな関心をもっていた一人です。この会見を最後まで聞いてまず感じたことは、「もっと早くあのインタビューがおこなわれていれば、この戦争が早期に終結し、たくさんの犠牲者を出さずに済んだかもしれなかったのに」ということです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領の会見を見てもうひとつ感じたことがあります。それは「ウクライナ戦争に対する私の見方はおおむね間違っていなかった」ということです。拙論歴史の転換点をもう一度読んでみて下さい。私がウクライナ戦争をどう見ていたかがおわかりいただけると思います。偏った情報しかながれてこない日本のメディアからではなく、インターネットをはじめとするさまざまな媒体から得られた情報をもとにものごとを考察することの重要性がよくわかると思います。

それはまた、日本のメディア、アメリカのメディアが必ずしも正しい情報を伝えていない、ということでもあります。アメリカ・メディアが伝える情報をまるで大本営発表かのようにながすだけの日本のメディア。それが意図的なことであれば、それは日本メディアの偏向ぶりを証明することになります。それが意図しないものであったとしても、それは日本のメディアの能力の低さをあらわすものです。タッカー・カールソンとプーチンのインタビューはそんな現実を白日のもとにさらした観があります。

あの会見の冒頭、プーチン大統領はウクライナとロシアとの歴史的関係を説明しました。それは30分近くにおよびました。その概略は拙論歴史の転換点で書いたものとほぼ同じといってもいいと思います。ウクライナになぜロシアが侵攻しなければならなかったのかについては、多少なりとも世界史の知識を理解しなければいけません。今回はその辺のことをもう少し詳しく説明してみたいと思います。ただし、あくまでも私の理解であり、間違っていることがあるかもしれません。そのときは遠慮なくご指摘ください。

 

日本が「鳴くよ(794年)ウグイス、平安京」だったころ、ヨーロッパ、とくに東ヨーロッパには国家らしい国家はほとんどありませんでした。さまざまな部族がまじりあいながら、小競り合いを繰り返しつつもそれなりにのどかな生活を営んでいた時代でした。しかし、当時、スカンジナビア半島に住む北方民族の雄・ノルマン人のバイキングがこの東ヨーロッパに侵入してきました。東欧を南北につなぐドニエプルやボルガなどの川を利用して黒海に出て、バルカン半島のビザンツ帝国と交易をするためです。

スラブ地域と呼ばれる東ヨーロッパに勢力を広げたバイキングでしたが、ここで取れる毛皮や肉ばかりではなく、征服した地域に住む東欧の人々を奴隷にするなどして交易範囲を拡大していきました。スラブ地域の住民を奴隷にしたことから英語では奴隷を「SLAVE」と呼ぶことはよく知られています。やがてバイキングのリューリク王が862年にロシア北西部のノブゴロドという街にノブゴロド国という国家を作りました。王は「ルーシ」と呼ばれましたが、この「ルーシ」が「ロシア」の語源だといわれています。

リューリクの息子たちはノブゴロドからさらに川をさかのぼり、今のウクライナのキエフを征服しました。そして、ここを拠点にノブゴロド国にかわるキエフ大公国を作り、その後、東ヨーロッパの交易の中心として栄えました。しかし、このキエフ大公国はその地政学的な特殊性から、周辺に勃興する国々と争いが絶えませんでした。国の領土を拡大し、ときに奪い取られながら、大公がビザンツ帝国の王女を妃として迎え、東ヨーロッパでの地位を確固たるものにしました。

 

その後、キリスト教がローマ教会とビザンツ帝国の正教会に分裂すると、ビザンツとのつながりのあるキエフ大公国は正教会となりました。しかし、隣国で勢力を増してきたポーランドはローマ教会となったことから、キエフとポーランドの緊張は高まることになります。そんな不安定な情勢のなか、日本で鎌倉幕府が成立するころ、キエフ大公国はかつての首都ノブゴロド付近にノブゴロド共和国が分離・独立。同時に、キエフ大公国の中心がキエフから北東部のウラジーミルに移ろうとしていました。

そんなキエフに襲いかかったのは、当時、最強の帝国といわれたモンゴル・タタール人でした。その頃、モンゴルは朝貢を拒否した日本にも来襲しました。鎌倉武士たちの奮闘と、神風ともいうべき二度の台風によって守られた日本はモンゴルを大陸に押し返しましたが、ヨーロッパにおけるモンゴルの勢いは止まりません。ジンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍がキエフ大公国とポーランド、ハンガリーを征服。これらの国々はモンゴルに朝貢しなければならない属国となりました。

しかし、モンゴルは異教徒を弾圧しなかったため、キリスト正教会はウラジーミルを中心に拡がっていきました。そして、ウラジーミル近郊にあるモスクワにモスクワ大公国が成立します。日本が室町時代になろうとするころのことです。ウクライナ周辺は急速に領土を拡大していたリトアニアに支配されました。リトアニアは隣国ポーランドと姻戚となり、それまでの正教会からローマ・カトリック教会に改宗しました。当然ながら、リトアニアに支配されていたウクライナの人々も改宗を求められました。

ところが、キリスト教正教会の総本山であるコンスタンチノープルとともにビザンツ帝国が滅びると、もともとビザンツ帝国と姻戚関係にあったモスクワ大公国に正教会の中心が移ります。そして、モスクワは「第三のローマ」と呼ばれるようになってキリスト教正教会の後継者であることを宣言します。かくしてキリスト教は、ローマ・カトリックと正教会の二大勢力にわかれます。同じキリスト教であっても互い非なるものとして緊張関係が続き、ローマ教皇とモスクワ総主教がはじめて顔をあわせたのは2016年のことです

ちなみにプーチン大統領は、ノブゴロド国の首都ノブゴロドから100kmほどしか離れていないサンクトペテルブルグの出身です。ですから、プーチンがノブゴロド国やキエフ大公国という国家があったことや、これらの国が今のロシアの源流になっていたことを知らないはずがありません。そして、ウクライナとロシアが言語や民族、信仰や風習などで簡単に線引きできない関係にあることも熟知しています。ましてや近現代にいたってもなお両国が不幸な歴史をひきずっていることも十分知っているのです。

 

ウクライナの特殊性についてもう少し説明します。これまで書いてきたように、ウクライナの地はたびかさなる隣国の侵略によって、民族も、宗教も、国教すらもめまぐるしく変わる地域でした。モンゴルの属国だったモスクワ大公国は次第に国力を高め、日本が戦国時代だったころ、暴君として有名なイヴァンが国の名をロシア・ツァーリと改め、モンゴルを裏切って朝貢を拒否するまでの大国になりました。ツァーリとは皇帝のことであり、その後のロシアは北は北極海、南は黒海近くにまで領土を拡大します。

しかし、日本が江戸時代を迎えるころになると、リューリクから続いてきたリューリク朝のツァーリが途絶えてしまいます。そして、ロシアでは次々とツァーリが代わり、その混乱に乗じてポーランドが侵攻してくるなど、国内は混乱と混沌を極める状況に陥ります。そんな状況を救ったのが、その後、300年も続くロマノフ朝の祖ミハエル・ロマノフです。彼はウクライナやフィンランドなどの周辺の領土をポーランドやスウェーデンに譲歩して和平を進める一方でシベリア征服を進めていきました。

ところが国内の経済は次第に悪化し、たくさんの農民が農地を放棄して暖かい地方に移住しました。そこで、農民が土地を移動するのを禁止し、地元の有力者が税金を徴収する「農奴制」を確立させました。そのころリトアニア・ポーランド共和国の一部だったウクライナでも、国王がローマ・カトリックへの改宗を住民に強制し、しかも奴隷農家として税金を搾取していました。その税金を徴収したのがそのころのポーランドに多くいた異教徒のユダヤ人。ここにウクライナ人たちの反ユダヤの感情が生まれます。

不満を高めたウクライナ人はロシアの力を借りてリトアニア・ポーランドと戦います。ウクライナにはコサックというモンゴルの騎馬戦法を引き継ぐ強力な軍事集団がいました。その活躍もあってロシアとポーランドとの戦争はロシアが勝利しました。かくしてウクライナはロシアの領土となりました。しかし、ウクライナはロシアからの重税に苦しむことになります。なんどか反乱を企てますが失敗。ロシアとスウェーデンとの戦争にも巻き込まれ、平和で安定した国土にはなかなかなれない状態でいたのです。

ロシアが強大な国家となり、広大なユーラシア大陸をおさめるロシア帝国と名を改めたころ、日本はまだ徳川吉宗の時代でした。東方へのさらなる領土拡大を進めるロシアはベーリング海峡を発見。そして、エカチェリーナが女帝となるころにはその領土はアラスカまでに拡がります。ついにはポーランドを属国にするなどロシアの勢力はとどまることを知りません。オスマントルコとの戦いを有利に進め、ロシアはクリミア半島からオデッサまでを領土にし、多くのロシア人が移り住んでノボロシアと呼ばれました。

以上、長々と書いてきた歴史的変遷を、プーチン大統領はタッカー・カールソンとの会見で披露しました。プーチンがウクライナを「特別な場所」と呼び、ウクライナ戦争を「南東部の地域に住むロシア系住民を守るための軍事作戦」と説明するのはそうした背景を知らなければ理解できません。ではなぜ、今、軍事力を行使してまでウクライナ国内に侵攻しなければならなかったのか、については次の歴史の転換点(3)で解説したいと思います。そちらを読めば、私が前拙論「歴史の転換点」で「今回の戦争はプーチンの領土的な野心だけからのものではない」と私が書いた理由がおわかりいただけると思います。

地震災害へのお見舞い

令和6年能登半島地震に際して亡くなられた方のご冥福と、怪我をされ、被災された方たちの日常が一日も早く回復するよう心よりお祈りします。

2023年8月14日に当ブログに掲載した記事「琴線に触れる街」を再掲します。あの街並みは変わってしまったでしょうか。北陸の風景はもちろん、そこに生活する人たちの心も変わりませんように。

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以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

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「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

 

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

 

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。