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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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令和に思う

以下の記事は令和元年5月5日に投稿したものです。さっそく「令和」をキーワードとしてスパムメイルが殺到してきましたので7日にあらためて同じ内容をアップします。

*********** 以下、5月5日投稿文原稿

 

私は個人的には、日本に皇室は必要だと思っています。立憲君主としての天皇の存在も重要だと考えています。令和という新しい元号となり、以下、皇室は存続させるべきだという立場の意見を書いてみました。しかし、これは特定の思想や宗教に基づいた意見ではなく、あくまでもこれまで調べてきたことを通じて、私があれこれと考えてたどりついた自論です。

私の意見とは反対に、皇室や天皇を廃止すべきものだと思っている人もいるでしょう。そうした人たちにとって、これから書く内容は承服できるものではないかもしれません。しかし、皇室に対する個人それぞれの考えは「正しいか正しくないか」の問題ではなく「好き嫌い」の問題です。そのあたりのことを理解した上でお読みいただければ幸いです。

*********** 以下、本文

 

元号が平成から令和にかわりました。明仁天皇陛下の退位と徳仁新天皇陛下の即位により、今年のゴールデンウィークは図らずも9日間の休暇をとらせていただきました。これほどの長期間のお休みは、私にとっても、多くの国民にとってもはじめてだったのではないでしょうか(サービス業の方たちの中にはこのお休み中ずっと働きっぱなしという人もいますけど)。とはいえ、世の中はなんとなく年末年始のような気分になっていて、「令和になって心機一転」という思いを強くした人も少なくないと思います。

天皇陛下の退位の日はおおむね雨でずっと曇り。翌日の即位の日はときおり雨ながら薄日もさすといった天候でした。私にとって天皇陛下といえば昭和天皇のイメージが強かったため、平成になって明仁皇太子殿下が天皇になられてもしばらくは実感がわかなかったものです。しかし、いつしか天皇陛下といえば明仁天皇陛下となり、その天皇が退位するということになると、いかばかりか淋しさのようなものを感じていました。その気持ちが当日の雨模様によってちょっぴり切ないものになりました。

実は平成最後の日、つまり4月30日の夜、父親の夢を見ました。父は昨年10月2日に亡くなったのですが、久しぶりにその父親が夢に出てきたのです。夢の中の私は何人かの親戚があつまる席にいました。場所を移動することになり、私は亡くなった父と一緒に歩いていました。私はその父に語り掛けました。「死んだ下館のじいさん(祖父のこと)と仲良くしてくれよ」と。すると父はニコッと笑って駆け出しました。「オヤジっ!」と後を追おうとしますが、父はあっという間に階段を登ってどこかに行ってしまったのでした。

明仁天皇の退位に対する情感が父親への気持ちに投影されていたのかもしれません。一方で、もしかすると父親が成仏できたってことかもしれないと考えたりしました。いずれにせよ、目覚めたとき、ひとつの時代が終わったという気持ちがしていました。次の時代をどう生きるか、どのような時代にすべきか。そうしたことをちゃんと考えなければいけないと感じたのです。元号という、ひょっとすると面倒で不要にも思える日本の文化を守っていくことにどのような意味があるのかを考えることが今の日本人には必要です。

ところで今回の退位・即位の式典に使われた草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

以前、子どもたちに「天皇陛下の仕事ってなんだか知ってる?」とたずねたことがあります。彼らは「被災地に慰問に行くこと」と答えました。しかし、そうではありません。天皇陛下の仕事の中心は、本来、日本の安全・安寧・豊穣を祈る祭事にあります。戦後、それらの多くは「天皇の私的行事」となり、一般国民にはほとんど知られていません。そして、昔ほどではないによせ、今もなお天皇は多くの時間を割いてその祭事をおこなっています。ご高齢の上皇陛下にとってはとても厳しい勤めを日々こなされていたのです。

日本が近代国家の仲間入りをするにあたり、まず作られたのが大日本帝国憲法です。欧米諸国の法体系を研究し、日本がたどって来た歴史を徹底的に調べて作ったアジアで初めての近代憲法です。当時、世界の名だたる憲法学者からも絶賛されるほどのものでした。それまでの日本は、あらゆる権威は天皇に、そして、その天皇はときの実力者に権力をあたえて国を統治していました。誰が決めるでもなく、営々とその国体を守り続けてきたのです。そのおかげで血を血で洗うような易姓革命は日本では一度も起こりませんでした。

その大日本帝国憲法によって天皇は神的存在から立憲君主となられ、天皇を輔弼(ほひつ)する機関として国会が定められました。天皇は国家の象徴として、まさに「君臨すれど統治せず」という国体が憲法という形で明文化されたのです。と同時に、それまで慣習・慣例で引き継がれてきた皇室・皇族も皇室典範という形で定義され、皇位の継承についての取り決めがなされました。憲法とともに典範の制定にも深く関わった井上毅が「天皇譲位」を定めようとした一方で、伊藤博文が典範からそれを削除させたことは有名です。

このとき「天皇は万世一系男系にかぎる」と正式に定められました。とはいえ、それまでも慣例・慣習として「天皇は男系のみ」であり、いわゆる「女系天皇」はひとりもいなかったとされています。ところで、皆さんは「女系天皇」と「女性天皇」の違いをご存知でしょうか。元号が令和となって、にわかに「女性宮家」や「女性天皇」に関する世論調査がおこなわれています。しかし、その調査に回答している多くの国民が「女性宮家」の意味や、「女系天皇」と「女性天皇」の違いも知りません。それでいいのでしょうか。

男性の遺伝子ではX染色体とY染色体が対になっています。それに対して女性の遺伝子ではX染色体とX染色体の組み合わせになっています。このそれぞれ対になっている染色体が交配して子どもの遺伝子が決まるのです。つまり、生まれた子どもが男性であれば、その対のY染色体は必ず父親由来のものになります。しかし、女の子の遺伝子は父と母両方のX染色体を引き継ぐことになります。以上のように、男の子には父のY染色体が、女の子にも父のX染色体があるため、この子どもは「男系」呼ばれます。

仮にこの「男系女性天皇」が一般民間人との間に子どもをもうけたとします。すると、「男系女性天皇」が産む子の染色体は母親由来のX染色体とその夫である民間人男性のY染色体もしくはX染色体の組み合わせとなります。前者は「女系男性(親王殿下)」、後者は「女系女性(内親王殿下)」です。しかし、成長して民間人と結婚した「女系男性天皇」の子では皇祖皇宗の遺伝子は完全に途切れ、「女系女性天皇」も民間人との夫から生まれる子には皇祖皇宗のY染色体は途絶え、X染色体においても50%の確率で断絶します。

染色体や遺伝子という概念のなかった大昔から「男系」で家系を引き継いでいたのには医学的な根拠があったのです。これは驚くべきことです。この男系継承は古代中国から入って来た制度といわれていますが、世界中どの国でも男系で王朝は継承されています。もちろん、イギリスのように女王が即位することもありますが、こうしたことが起こるのはイギリスでは王朝(血統)がとって替わるから。しかし日本に8人いたとされる「女性天皇」はすべてが男系であり、その子供が皇位を継承することもありませんでした。

そんなことをいうと、ある評論家は「日本には宦官がいなかったし、皇位を継承した子どもがほんとうに先代の天皇の子どもかどうかわからない」といいます。そんなことをいったら、その評論家自身でさえも、彼の実父・実母とされてきた両親の実子である保証はなく、その先祖だってまた同じってこと。問題はその真偽ではなく、「万世一系男系が皇位を継承する」とされてきた慣習・慣例が続いてきたという事実が重いのです。そうすることで欧米で繰り返されてきたような血にまみれた争い・権力闘争を回避してきたのです。

「所詮、男系継承など明治になってから典範で決められたこと」と木で鼻をくくったようなこと言う人もいます。しかし、それまで慣例・慣習でおこなわれてきたことを皇室典範として明文化しただけです。そうすることによって、皇族の定義や根拠となって例外を排除しながら皇室を維持することができます。残念ながら、現行日本国憲法では天皇の地位は「国民の総意にもとづく」ものと規定されています。ですから世の中に「皇室廃止」の機運が高まれば皇室はいとも簡単になくなってしまうのです。

私個人としては天皇あるいは皇室は維持するべきだと考えます。「国民統合の象徴」としての天皇がこれまでの日本においていかに重要だったかは歴史が証明しています。他国のように王朝が代わるたびに繰り返される殺戮や国土の荒廃を日本がほとんど経験していないのは、権威と権力を分離した国家の二重統治があったからです。だからこそ今の日本の素晴らしさがあるのです。皇族お一人お一人が素晴らしい方々だからお守りするのではなく、皇族そのものが日本の国体には不可欠だから守るべき、というのが私の意見です。

今の「女性宮家」の創設や「女性天皇」の容認という安易な空気は危険です。なぜなら、皇室廃止をめざす勢力には格好の口実になるためです。女性宮家の創設は女系天皇の容認を前提としています。また、女性天皇はこれまで2600年続いてきた皇祖皇宗の王朝の交代のきっかけになります。もし女系天皇が現実のものになれば、皇族の定義があいまいとなり、皇室の存在に反対する人たちから皇室の存在意義が問われるようになります。「皇族の正統性」への疑義を指摘し、「そんな皇族はいらない」となるのです。

昭和22年、皇籍を離脱した(させられた)宮家は11家にものぼります。これまでの皇室はこうした複数の宮家の存在によって支えられてきました。宮家の皇籍離脱については昭和天皇は強く反対されたようですが、皇室財産の多くが国庫に帰属することになったことや、ある宮家からも離脱の意志があげられたこともあって昭和天皇のご兄弟のみが皇室に残ることになりました。その結果、今、皇位継承の資格のあるのはご高齢の常陸宮親王殿下および秋篠宮親王殿下、そして悠仁親王殿下の三名になってしまったのです。

しかし、皇籍を離脱した旧宮家が皇族に復活すれば皇位継承権をもつ皇族はさらに増えるとされています。東久邇宮家に限っても、皇位継承権をもつ若年男性が5人いるとのこと。皇位継承問題を解決する方法を十分に模索せず、安易に女性宮家や女系天皇を容認するような議論は乱暴すぎると思います。旧宮家の皇室復帰などの可能性を追求してもなお男系の継承できないのであれば皇室の存続はあきらめるべきだと思います。こうした日本の伝統・文化の問題は、もしこれが継承できないのであれば消えていくほかないのです。

真子内親王殿下の婚約延期の問題はこうした背景もからんでいます。婚約者が内親王殿下の伴侶としてふさわしいかどうかということの他に、女性宮家を容認したときに彼を皇族とするのか、彼らのお子さまを将来の皇位継承者として国民が受け入れるかどうかという観点からも考えなければなりません。皇室を廃止しようとする勢力ほど女性宮家や女系天皇に寛容です。女性宮家や女系天皇の問題は「皇室を存続させるための方策」にならないばかりか、むしろ「皇室を危機にさらす方策」であることを多くの人は知るべきです。

日本史や世界史を勉強すればするほど、日本人として日本に生まれたことを誇りに思います。今、こうして日本で安全で豊かな生活をしていられるのは決して偶然ではありません。我々の祖先が、英知を結集し、大きな犠牲をはらって日本を守り抜く努力を惜しまなかった結果だということを知らなければなりません。歴史を学ぶ意義ということはそういうことです。にも関わらず、日本人は自分たちの国のことをほとんど知りません。日本について間違った知識をもっていることすらあります。

欧米からは「天皇に女性が就けないのは女性差別」という声が聴こえてきます。皇室や皇位継承の問題はあくまでも日本の文化の問題です。「女性差別」などという軽薄なものではありません。それをいうなら、「ローマ法王やイスラム教のカリフに女性がなったことが一度でもあるか」という質問に答えなければなりません。歴代天皇には8人の女性天皇がいました。「天皇に女性が就けない」のではなく、「女系が就けない」のです。以上、令和になった今、皇室の在り方について少し考えてみました。みなさんはどう思いますか。これを機会に改めて皇室の在り方、日本の将来を考えてみてはいかがでしょうか。

 

患者の意志

先月、腎不全の重症患者に対する透析治療を中止した病院・医師のことが話題になっていました。腎臓は全身を循環する血液にとけこんだ老廃物、とくに人間の生命活動にとっては毒物となるさまざまな物質をろ過する器官として、あるいはK(カリウム)やNa(ナトリウム)などの生命活動を維持するために必要な電解質のバランスを保つ機関として重要な臓器です。この腎臓がなんらかの病因で機能を停止した場合、人工透析という治療によって腎臓のはたらきを代替しなければ人間は生きていくことができません。

つまり、重症な腎不全患者にとって人工透析の中止とはすなわち死を意味します。ですから、この治療を中止するという判断は通常はありえず、それでも中止をしなければならないのにはなにかやむを得ない事情があるはずです。ですから、今回の報道を耳にしたとき、私はその「やむを得ない事情」がなんだったのだろううかと思いました。報道によれば、透析中止の主たる理由は、透析装置とからだをつなぐ「内シャント」が使用できなくなったことのようです。しかし、それだけであのような判断を下すものでしょうか。

実際の透析はいろいろな意味で辛い治療です。透析を受けなければ命をながらえることができないということだけでも患者にはプレッシャーですが、透析を受ける前に「ダイヤライザー」と呼ばれる透析装置と血管を接続するための手術をしなければならないのはさらに苦痛で不安なものです。この手術で腕の動脈と静脈をつなぐ(通常はつながっていない血管です)「内シャント」を作ります。そして、そのシャントに針を刺してダイヤライザーとからだをチューブで接続して血液を循環させ、透析をするのです。

私も大学病院の総合内科に所属していた時、その「内シャント」を作る手術の手伝いをしていました。太さも壁の厚さも異なる動脈と静脈をつなぐ手術はとても繊細で、神経を使います。皮膚から露出させた血管は乾燥に弱く、すぐによじれてしまいます。また、人によっては細い枝が多かったりして、手術をする医者にとっては集中力と体力を使う結構大変な手術です。透析を繰り返しているうちにその「内シャント」がつぶれて使えなくなることもあり、そのときは作り直さなければなりません。

今回の患者はこうした「内シャントの閉塞」を繰り返し、もうシャントをつくることができなくなったケースだったようです。両腕の内シャントがもう作れないとなれば別のところにこのシャントと同じ働きをする代替経路を作らなければなりません。おそらくその処置(手術)には高いリスクをともない、透析を中止することのリスクとの天秤をかけての中止の判断だったのではないかと想像します。主治医にとっても、もちろん患者にとっても重い決断だったに違いありません。

ダイヤライザーでの透析によって、本来は尿となるべき水分と老廃物を強力にろ過できます。ですが、その分だけ治療後に倦怠感が強くなる場合があります。毎日、少しづつやればいいのかもしれませんが、それではなんども内シャントに針を刺すことになって血管を痛めます。なにより毎日透析に病院に行くのでは日常生活が制限されてしまいます。だからといって週に一回というわけにもいきません。24時間、365日、私たちのからだの中で働いてくれている腎臓の肩代わりをさせることはそれほどまでにやっかいなのです。

食べるものも、飲水量も厳しく制限されます。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べるという、ごく当たり前と思っていることも、透析を受けるようになるとできなくなります。そうした制限のゆるい腹膜透析という方法もあります。腹膜透析はおなかの中にチューブを通じて直接透析液を入れ、浸透圧の差を利用して透析したあと再びチューブを通してからだの外に廃液するという治療法です。この作業は自宅でできるとはいえ、毎日欠かさず、しかも一日に何回も注入・廃液をやらなければなりません。

ですから、透析治療から逃れたいとどの患者も思っています。逃れるためには腎臓移植のチャンスに恵まれなければなりません。しかし、日本では依然として生体腎移植が盛んになっていません。その順番を何年も待っている患者が多いのです。そんな四面楚歌の状態で気弱になってしまう患者も当然いて、透析医はそうした患者を励ますことに少なからず時間を割かなければなりません。そうした実情が背景にあるだけに、透析の現場では、透析中止の判断はとてもナイーブな問題になっているはずです。

まず私が一番言いたいことは、渦中の医者のあたまの中に「患者の意志は揺れ動く」という現実がしっかり認識されていたかという点です。患者の気持ちはコロコロ変わります。命に関わることゆえそれは当然のことです。あるときは「こんなつらい治療を続けるくらいなら」と否定的な気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。また、あるときには「支えてくれている家族のためにも頑張ろう」と前向きになるときもある。患者の心理状態も大きく変化するのです。そうした現実を医者は認識しなければならないのです。

最近、よく「患者の権利」「患者の意志」という言葉を耳にします。「患者の意志が尊重される」ことは「患者の権利だ」というわけです。確かに、自分の命に関わることは患者に判断させるべきだ、判断したいという気持ちは理解できます。しかし、はたしてそれができるものでしょうか。たとえそれができたとして、その「患者の意志」の名のもとに医療が硬直化する危険性はないのでしょうか。つまり言いかえると、「患者の揺らぐ気持ち」が一切考慮されない医療はおこなわれていないと言い切れるでしょうか。

今回の報道にある透析中止の案件もそこが一番の問題なのではないかと思います。透析をなんらかの理由で中止せざるを得ないとき、最終的には患者に継続するか、それとも中止するかの判断をゆだねることになります。そもそもそんな重大な判断をさせられる患者も気の毒ですが、それでも患者が悩みに悩みぬいて結論を出したとして、その意志を途中で翻意することを許容するような雰囲気がはたしてあったのかということです。「あなたが決めたことでしょ」で片づけられていなかったか。そこです。

癌の治療を開始する際、しばしば医者が治療法を提示して「さあどうしますか?」と患者に問いかけます。「患者の意志」の確認というやつです。「どうしますか?」と聞かれてそれに明確に答えられる患者は多くありません。どれがどの程度いいのか悪いのか、医学的知識も経験もない患者が即答できるはずもありません。しばしば「お任せします」と患者から投げ返されて、当惑してしまう医者も決して少数派ではないはずです。「へたに勧めて、あとで責任を問われてもなぁ」って。今はそういう時代なのです。

昔であれば医者は胸を張って「この方法で行きましょう」と勧めるか、さもなければ具体的な説明もないまま治療をはじめてしまうところです。患者も悩む必要がありませんし、医者にとってもある意味楽なやり方です。しかし、こういうやり方は今は通用しません。これまでのさまざな医療事故を通じて生じてしまった医療不信を背景に、「治療の選択においては患者の意志の尊重を」という社会的なコンセンサスが出来上がったのです。これがよかったのか、悪かったのか、私にはわかりません。

とはいいながら、「患者の意志」というものが、医者が裁判沙汰に巻き込まれないための医療者側の方便になっているという側面も見逃せません。治療を自ら選択した以上は、その選択の結果がどうであれ責任は患者にあるというものです。最近はいろいろな情報が氾濫しています。そして、希望する治療が受けられなかったことに患者から「こんなはずじゃなかった」と言われるケースも増えてきました。この「こんなはずじゃなかった」を言わせないために「患者の意志」が利用されているケースもあるかもしれないのです。

でも、患者の意志や気持ちは揺れ動くものです。「私はいつ死んでもいい」あるいは「死など怖くない」という言葉は、死を具体的に意識していないからこそ出る言葉です。アンケートなどで「あなたはどんな死に方をしたいですか」と問われることがあります。でも、そんなアンケートなどほとんど意味がありません。なぜなら、差し迫った死に戸惑い、不安になっている人でなければリアルな回答などできるはずもありません。死をリアルに感じているときと、無縁なときとで意志や意見は大きく変わります。

このように、人間は自分が置かれた環境によってその「意志」は大きく変化します。そのときはきっぱりと決心したように思えたことでも、次の日には「なんであんな決定をしてしまったのだろう」と後悔することもしばしば。臨床心理学では「気持ちが安定しないとき、落ち込んでいるときは重大な決定は先延ばしにしなければいけない」と教えています。私自身もこれまで、なにかを得られる決断であれば「迷ったらやってみる」としますが、なにかを失うかもしれない決断は「迷ったらやらない」ことにしています。

外来にもこんな人がいます。その方は普段から「私はこれ以上長生きしたいとは思わない」とおっしゃっています。でも、と同時に生きながらえるためのさまざまな薬を飲んでいます。そして、手がしびれたとなれば心配になって救急病院に行くわけです。最近、他院で「腎機能が悪くなっているから生活指導や食事指導を受けるべきだ」と言われたそうです。しかし、「そんなことまでして生きていたくない」と断ったとか。それで、結局のところその医者も「それなら、ご勝手にどうぞ」となってしまったらしいのです。

「食べたいものをやめてまで長生きしたくない」とおっしゃるので、私は「でも腎臓がさらに悪くなって尿毒症になったら食べたいものも食べられなくなりますよ」と説明しました。すると困ったように「それならどうすればいいのか」と。「だからこそそうならないように今から生活指導や食事指導をと先生はおっしゃったのでは?」と私。すると、ふたたび「それほどまでして長生きしたくない」と。私は「0(ゼロ)か100かってことじゃないんですよ」と言ったのですが、ご本人の中では戸惑いと不安が錯綜しているようです。

一方でこういう方もいます。その方は肺癌と診断されたものの、幸い手術を受けることができました。しかし、リンパ節転移の可能性が否定できないため、手術後に抗癌剤治療の追加をするかどうかを決めてほしいと主治医にいわれているのです。ただ、高齢でもあり、術後間もない時期での抗癌剤治療は体力を奪って日常生活の支障となるおそれがある。もし抗癌剤の治療を受けなければ癌が再発してくる不安におびえなくてはならない。どちらがいいのだろう、と。そこで「先生の意見を聴かせてほしい」というわけです。

私はいいました。「自分の命に関わる決断は自分で下すしかない。なぜなら人生観や価値観が関わるから。抗癌剤治療を受けなくても再発しないかもしれないし、治療をうけても体力を奪われた上で再発するかもしれない。私が言えることは、せいぜい『自分だったらこうする』程度のことだ」と。抗癌剤の治療を受けるにせよ、受けないにせよ、その結果は自分で受け止めるしかありません。治療方法についてのスペシャリストも確率でしか将来を予測できないのですから。最後は「患者の意志」で決めるしかないのです。

改めて、冒頭の透析中止の件について考えてみると、問題は三つに絞られると思います。まず、透析を中止するという選択肢の提示は医学的に正しいものだったか、という点。ふたつめは、透析の中止を選択した患者の決定が、真に自分の意志にもとづくものだったのか、という点。そして、三つめは、透析中止を患者が申し入れたとして、その後の状況の変化によって患者が当初の意志をひるがえしたときの病院・主治医の対応が適切だったかという点です。とはいえ、そう整理をしてもなお結論のでない問題だとは思いますが。

一見すると、他人の人生など自分にはほとんど関係ないように思えます。しかし、自分という存在が他人に影響を与えているのと同じように、他人という存在は自分にも影響をあたえています。とくに私のような生き死にと関わる仕事をしていると、人に与える影響とその責任の重さをひしひしと感じます。私のひと言で傷ついたり、勇気づけられる患者がいるのです。今回の透析中止の件において主治医と患者のコミュニケーションが十分だったんだろうかということが気になります。亡くなった患者はもう帰ってきませんけど。

好きな映画(2)

 

私はマニアしか知らないような映画をみる「映画通」ではありません。ですから、「好きな映画」といってもそのときどきの大作や話題になった映画、あるいは偶然目にした映画ばかりです。大作や話題になった映画だからとわざわざ映画館に行っても「観てよかった」と思える作品ばかりではなく、これならテレビで放送されるまで待ってもよかったと思う映画も結構多かったように思います。その一方で、これまで観ていなかったけれども、たまたまTVで見かけたらついつい引き込まれて最後まで観てしまったというものもあります。いずれにせよ、一度観てよかった映画は、それ以降に観たいと思うものに影響を与えるものです。

「好きな映画」に影響を受けるということは、何かしらのキーワードでつながっているということかもしれません。このキーワードはその映画のメッセージ性かもしれません。あるいは使われた演出効果かもしてませんし出演した俳優かもしれません。今日はこの「キーワード」をたどって「好きな映画」をたどってみたいと思います。最初のキーワードは「白黒映画」です。前回のブログに書いた「ローマの休日」は1953年に制作された白黒映画。あの映画が白黒映画になっていることにより、観る者は自然と物語に引き込まれているように思います。白黒の映像が素敵な音楽によってまるで色がついているような効果をもたらします。

それは日本映画でも同じです。私が今でも涙なくして見れないのが「二十四の瞳」という白黒映画。木下恵介監督、高峰峰子主演のこの映画は1952年に作られました。「二十四の瞳」はその後いくつものリバイバル映画が作られましたが、木下恵介監督の作品を超えるものはほとんど皆無といってもいいくらいです。時代背景は戦前と戦後にまたがっていますが、白黒映画で作られることによって時のながれをうまくつないでいます。木下恵介は私の大好きなTVドラマ「三人家族」の監督ですが、その愛弟子でもあった山田太一は私のお気に入りの脚本家のひとり。この辺のことは以前のブログにも投稿しましたので読んでみて下さい。

1955年に制作されたスペイン映画「汚れなき悪戯」も、白黒映画だったからこそ最後の感動的なシーン(ネタばらしはしません)を盛り上げているように感じます。教会に捨てられた赤ん坊が修道士らに育てられ、悪戯好きのマルセリーノに成長します。その微笑ましい光景がしばらく続くのですが、その時のながれは白黒の映像のせいか違和感はまったくありません。そして感動の最後のシーン。マルセリーノのあどけない表情が胸を打ちます。映画を見終えたとき私はしばらく涙がとまりませんでした。そして、この映画を観ながら、神と人間の距離感が欧米人と日本人とではずいぶん違うものだなと感じました。

欧米の歴史がキリスト教と密接に関わっていることは世界史を勉強するとよくわかります。ある意味、欧米の歴史はキリスト教の歴史だといっても過言ではありません。2004年に公開された「パッション」は、封切りされた当時、ゴルゴタの丘で十字架にかけられるイエス・キリストの姿があまりにも生々しいことが物議を呼びました。神に対する冒涜だとの抗議を受けて上映禁止になった映画館も。この映画はメル・ギブソンがさまざまな中傷を受けながら史実に忠実に製作しようとした労作です。イエス・キリストの生涯など知らなかった私にとって、西洋史の根幹にもなっているこの時代が理解できる素晴らしい作品でした。

私はこの映画を観るまで、イエス・キリストはローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトの命令よって十字架にかけられたと単純に思っていました。しかし、よく調べてみると、当初、ピラトは「イエスは法に照らして微罪であり釈放すべきだ」と主張していたのです。ところが、律法学者パリサイ人に煽動された群衆が「イエスに処刑を」と熱狂したのに抗しきれずに処刑を命じたのでした。つまり、キリストは無知で流されやすい群衆によって十字架にかけられたのです。今もなお、自分で調べたり、自分のあたまで考えずに、誰かの意見や扇動者の情報を鵜呑みにして世の中に流される群衆のなんと多いことか。無知は罪を作るのです。

このように、たったひとつの映画を観ることで、それまで知識も興味もなかった時代を理解を深め、今まで以上に関心をもつようになることがあります。もちろん映画は史実に忠実に作られたものばかりではありません。しかし、1956年に制作された「十戒」は私にはなじみの薄い時代を知り、理解するのにとても役に立ちました。「十戒」はヘブライ人を救済するモーセの話しです。エジプトの王子として育てられてきたモーセが、その後神の言葉を伝える預言者となり、ヘブライ人たちに10の戒律を示すという物語です。教科書を読んでもよく覚えられない紀元前12世紀あたりの歴史がとてもわかりやすく描かれています。

「十戒」でモースを演じていたのはチャールトン・ヘストンです。彼は1974年の「エアポート’75」の主役でした。私は中学生の時、いち時、パイロットという職業に憧れを感じた時期があります。それに影響を与えたのはこの映画です。ちょうどこの頃、田宮二郎主演で「白い滑走路」も放映されていましたが、中学生の私はこれにも影響を受けました。田宮二郎といえば映画「白い巨塔」で主人公の財前五郎を演じていましたね。チャールトン・ヘストンはその後、「ベンハー(59年)」に主演したり、何本かの映画でマルクス・アントニウスを演じたりと、彼にとってこの「十戒」のインパクトがいかに大きかったがわかります。

チャールトン・ヘストンといえば、彼が主演した「猿の惑星(68年)」も印象に残る映画です。この映画が封切られたころ私はまだ小学生でしたが、当時話題になっていたこの映画はそれまでの映画とはちょっと違う印象をもっていました。ほんものの猿そっくりな特殊メイク、しかも自由自在に表情が出せるのは驚きでした。ショッキングなラストシーンも話題にのぼっていました。だいぶ後になってTVで放映されましたが、大人の鑑賞にも耐えられる本格的なSF映画だなと思いました。この映画が封切られる2年前にも「ミクロの決死圏」という映画が公開されており、この頃はSF映画の第一次全盛期だったのかもしれません。

SF映画といえば、「猿の惑星」が製作されたのと同じ1968年に封切られた「2001年宇宙の旅」も素晴らしかったと思います。こちらも後にTV放映されたときに観ました。アーサー・C・クラーク原作のこの映画はちょっと哲学的で、単なる娯楽作映画にとどまらない作品だと思います。人間が地球外で生活するようになり、その人間に従属するはずの人工知能「HAL」が暴走をはじめる。この映画には難解さもありますが、それでも現代に通じるなにかを暗示しています。現実の2001年は映画の中の世界のようにはなりませんでしたが、人工知能が人間の手を離れて暴走する恐怖はこれからの時代を先取りしたものかもしれません。

エイリアン(79年)」というSF映画も特筆すべきものです。惑星間を自動航行する輸送船が地球の所属会社の指令によって未知の生命体がいる惑星に向かわされます。乗組員にはそうした指令は知らされませんでした。知っていたのは会社が輸送船に送り込んだアンドロイドのみ。姿を見せないエイリアンに次々と襲われる乗組員。シガニー・ウィーバーが演じるレプリーがたった一人でその星を離れることになるのですが最後までドキドキハラハラさせられます。この映画を観ると、宇宙というだだっ広い世界でたった一人になることの恐怖感を味わうことができます。そして、そのラストシーンで息を飲むこと請け合いです。

その意味で「ゼロ・グラビティ(2013年)」もそのCGの美しさとリアリティによって観る者に「エイリアン」とは違った恐ろしさを体験させてくれます。出演者はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人だけでしたが、ふたりの役がそれぞれの持ち味が生かされていていい映画でした。漆黒の闇。その闇を貫く太陽の光。音のない真空の世界。その空間を漂う完全な孤独。この映画を観ると、本当の絶望ってこんな感じなのかもしれないと思うでしょう。その絶望の中でジョージ・クルーニー演じるマットが希望の光となって主人公を地球に導いていくのですが、スリリングなストーリー展開に引き込まれます。

最近の映画はCGによる映像が売りになっています。とくにSFの世界を描くときはこのCGがとても有効です。多くの怪獣映画や、戦争映画でですらCGを多用してリアルさを高めています。そのような中で、日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃前後を描いた「トラトラトラ(70年)」は、ゼロ戦などの航空機を本物そっくりに作って飛ばしたり、日本映画がお得意だった特撮を駆使してリアルさを表現しようとした大作です。この映画の素晴らしさは、映像のリアルさとともに、日米が開戦にいたるまでの過程をアメリカ側の視点と日本側の視点から描いた点にあります。また、史実に忠実であろうとした点でも価値の高い映画です。

2006年に封切られた「硫黄島からの手紙」もアメリカ側からの視点と日本側からの視点からそれぞれ映画が作られました。硫黄島は日本本土防衛の生命線というよりも日本軍の最後の拠点でした。予想をはるかに上回る犠牲を払って硫黄島を陥落したアメリカ軍。ついに海兵隊員が摺鉢山に星条旗をあげたときの写真はあまりにも有名です。これで勝負は決したわけですが、そこに至るまで、あるいはその後には日米双方にさまざまなドラマがありました。この映画は嵐の二宮君が演じる一等兵の目を通して戦争の意味を問いかけていましたが、二宮君や加瀬亮、松崎悠希などの若手俳優の演技力がとても光っていて素晴らしかったです。

ところで、ソビエト連邦の崩壊とともに「ヴェノナ文書」が公開されました。日米開戦の直接的な原因は「ハルノート」を日本が受諾しなかったこととされてきました。しかし、「ヴェノナ文書」によって、「ハルノート」作成を主導したハリー・D・ホワイトが実はソビエト共産党(コミンテルン)のスパイであり、満州とソ連の国境に集結する日本軍を南方にひきつけるため、日本が受諾できない条件をあえて提示してアメリカとの開戦を誘導した可能性が指摘されています。一方、参戦に否定的だった米国民の意識をかえるため、ルーズベルトは日本軍の真珠湾の奇襲攻撃をあえて見逃したのではないかともいわれています。

戦争にはそうした謀略がつきものです。かつては優秀な諜報機関をもっていた日本であってもなお謀略に負けてしまったのに、諜報機関ももたず「スパイ天国」と揶揄される今の日本はどうなっているんだろうと考えると恐ろしくなります。戦前の日本軍の中にもソ連のコミンテルンの影響を受けた軍幹部が複数いたといわれています。本来であれば戦う理由のなかった日本とアメリカが、ともにコミンテルンのスパイとなった自国の要人たちによって戦わざるを得ない状況にされてしまったわけです。そのことは別の言い方をすれば、日米はともに「後ろから撃たれた」ともいえるわけで、戦争は実に残酷なものだと思います。

そんな戦争の残酷さ・醜さを描いた映画に「プラトーン(86年)」があります。この映画はベトナム戦争を描いた話題作でした。反戦主義者でもあるオリバー・ストーンらしい映画といえるかもしれません。ベトナム戦争に駆り出された兵士の多くが貧しい家庭の出であることに理不尽さを感じて志願したテイラー。彼は着任したベトナムで戦争の残酷な現実を目の当たりにします。私はこの映画を見終わったとき、人はなぜ戦争をするのだろう、しなければならないのだろうと無力感を感じました。テイラーの直属の上司であるエイリアスを演じたウィレム・デフォーが悲しいほどにかっこよかったです。是非観てみて下さい。

戦争映画といっていいのかわかりませんが、「グリムゾンタイド(95年)」もいい映画です。そもそも重くありませんし。私の好きな俳優のひとりであるディンゼル・ワシントンが主演です。主人公ハンター少佐は長期間、深い海底を潜航する攻撃型原子力潜水艦の副艦長。アメリカを守るために原爆を搭載した弾道ミサイルを敵国に発射すべきか。ジーン・ハックマン(この俳優もなかなかしぶくて好きです)演じる艦長と丁々発止の駆け引きが展開されます。この映画は実際におこった原潜事故をもとにしているといわれていますが、「正義とはなにか」について考えさせられました。アメリカ映画らしい映画かもしれません。

ディンゼル・ワシントンの映画は結構好きです。彼は出演オファーを受けるにあたって、脚本の出来をとても重視することで有名です。2004年に制作された「マイ・ボディガード」は彼の持ち味が生かされたいい映画だと思います。兵士として挫折を味わった主人公は知人の子どものボディーガードになります。そして、誘拐事件に巻き込まれた彼は自分の命を投げうって子どもの救出を試みます。手に汗握るストーリーで、ついつい最後まで見てしまいます。その結末は必ずしもハッピーエンドじゃない(ネタバレ?)のですが、それがよかったのか、悪かったのか。結論は皆さん自身が観て決めてください。

この映画をモチーフにしているかのような映画が「イコライザー(2014年)」です。主演のディンゼル・ワシントンが演じるロバート・マッコールはCIAの元工作員。今は一般市民として生活しています。ある事件をきっかけに彼は悪人退治に乗り出します。アメリカ版「必殺仕置き人」みたいなものでしょうか。ドキドキするシーン満載ですが、やはり悪人が退治されていくたびに胸がすっとします。この映画の中で、シンガーになりたいという夢を抱きながら娼婦に身をおとした少女に、静かな口調で「You can be anything you want to be.(君は願いさえすればどんな人間にもなれるんだよ)」と語りかけるマッコールが素敵です。

悪人退治といえば、1987年に制作された「アンタッチャブル」もよかったです。禁酒法があったころのアメリカを舞台に、ギャングの帝王アル・カポネと彼を追う捜査官エリオット・ネスの話しです。アル・カポネを演じたロバート・デ・ニーロはこの役のためにあたまの毛をそって役造りをしました。エリオット・ネスを演じたケビン・コスナーはこの映画が出世作になりましたし、共演のショーン・コネリーはこれでオスカーを受賞しています。かつてアメリカにいた頃、この映画に出てきたシカゴ・ユニオン駅にはお上りさんのように行ってきました。ここで撮影が行われたのかと思ってあのシーンがよみがえり感動しました。

「アンタッチャブル」は禁酒法の時代を描いていますが、ちょうどそのころの日本を舞台にギャングならぬヤクザを主人公とした映画も作られました。中でも私がいち推しなのが、高倉健主演の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(71年)」です。以前にも少し紹介しましたが、高倉健扮する花田秀次郎と三州の親分を演じる鶴田浩二のセリフがものすごく感動的かつ印象的です。この映画は「昭和残侠伝」としてシリーズ化された9本のうちの第8作目。映画のストーリーはいつも同じ(マンネリ?)なのですが、この任侠の世界が当時の日本人の心(とくに私の心)をなぜかつかみました。ちなみに任侠は今の暴力団とはまったく違います。

唐獅子とはライオンのことですが、「アンタッチャブル」に出演していたショーン・コネリーが主演した「風とライオン(75年)」もいい映画でした。中学校3年か高校1年のときに観たのですが、そのストーリーにというよりもショーン・コネリーのカッコ良さと、共演していたキャンディス・バーゲンの美しさに魅了される映画でした。ハリウッド映画のスケールの大きさみたいなものを感じる映画でもありました。この映画で使われていた音楽もよかったです。作曲はジェリーゴールド・スミスです。彼は先の「トラトラトラ」の映画音楽も担当していて、映画を引き立てるとても素晴らしい音楽でした。是非聴いてみて下さい。

風といえば「風と共に去りぬ(39年)」も忘れられない映画です。主人公のスカーレット・オハラを演じるビビアン・リーもとてもきれいでした。ビビアン・リーほどこの役にぴったりの女優さんはいないかもしれません。レッド・バトラー役のクラーク・ゲーブルもはまり役です。だからでしょうか、ふたりともその後の作品にはあまり恵まれなかったようです。映画音楽もスケールが大きくてよかったですね。主題曲を聴くと、タラの丘で再起を誓うスカーレットの姿が目に浮かぶようです。そう考えると、映画にとって映画音楽はものすごく重要です。音楽を聴くだけで映画を見ていた時の感動がよみがえってきます。

映画音楽といえば、88年制作のイタリア映画「ニューシネマパラダイス」もよかったです。イタリア映画独特の雰囲気には好き嫌いがあるかもしれませんが、イタリアの片田舎にある小さな映画館を舞台にした物語になぜかホッとします。音楽を担当したエンリオ・モリコーネは、先ほどご紹介した「アンタッチャブル」の映画音楽をはじめ、南米を布教する宣教師を描いた映画「ミッション」、これまた禁酒法時代のアメリカを舞台にした「ワンスアポンナタイムインアメリカ」などの映画音楽を担当した素晴らしい作曲家です。私は、アメリカの作曲家ジョン・ウィリアムスとともにこのエンリオ・モリコーネは天才だと思っています。

最後に音楽を映画の主人公にしてしまったのが「アマデウス(84年)」です。この映画は天才作曲家アマデウス・W・モーツアルトの半生を、彼の才能を心から尊敬し、また憎んだサリエリの視点から描いたものです。サリエリは天才モーツアルトの出現によって彼の才能に驚嘆します。同時に、自分の凡庸さを思い知らされるのです。軽薄で信仰心のないモーツアルトに才能を与え、敬虔な自分には才能を与えなかった神を彼は憎みました。モーツアルトの名曲をちらばめながら、謎めいた彼の最期をサスペンス調に描いています。とりあわけサリエリを演じたマーリー・エイブラハムという役者が実に素晴らしかったです。

ご紹介したい映画は尽きないのですが、長くなってきたのでこのくらいにしておきます。最近はなかなか観たいと思う映画がありません。歳をとってなかなか感動しなくなったからでしょうか。それとも魅力的な映画が少なくなったからでしょうか。映画を観るときはできるだけ映画館で観たいと思っています。映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てから余計にそう思うようになりました。心に残る作品はその後の人生になんらかの影響を与えます。きっと、映画を観ることで、他人の人生を一緒に「生きる」ことができるからでしょうか。その意味では、なんとなく医者という仕事と似ています。だから好きなのかもしれません。

 

 

好きな映画(1)

生まれてはじめて映画館で観た映画は邦画の「日本沈没」と言う映画でした。私が通っていた中学は御徒町にある、「台東区立御徒町中学校(通称、オカ中といいます。萩本欣一さんや天海祐希さんも同窓)」という公立の中学校でした。どうして私が「東京の中学校に通いたい」と言い出したのかわかりませんが、当時、同じ台東区にある蔵前警察署に勤めていた父親の伝手でオカ中に通うことが決まったのでした。

当時はこうした「越境通学」をする生徒が比較的多く、オカ中では私の学年では5クラスの内のひとクラス分の生徒が近隣の街や他県から通っていました。あのころはまだ「ゼネスト」という国鉄のストライキが春の恒例行事となっていて、ちょうどそのころ中間テストだったりするものですから、私たちのような越境組の生徒は上野の旅館などにとまって試験を受けた楽しい記憶が思い出されます。

オカ中にはいろいろなバックグラウンドを持つ生徒がいて、サラリーマンの子どもはもちろん、実家が商売をしている生徒や在日韓国朝鮮人の生徒も多数いました。同級生には上野の旅館の倅(せがれ)がいて、ゼネストのときは彼の実家に泊まって試験勉強しながら定期試験を受けました。概して越境組の生徒は優秀でしたから、どの子もちゃんと勉強をしていましたが私はと言うと・・・。ご想像のとおりです。

我孫子から満員電車に揺られて上野で乗り換えて御徒町へ。たかだか1時間ほどの通学時間でしたが、今思うと中学生にはずいぶん厳しい通学でした。学生かばんの中には入り切らない教科書やノートは「マジソンバック」と呼ばれる、当時ものすごく流行ったスポーツバックに入れて通うのですが、これがまた半端なく重いのです。それを殺人的な満員電車のなかで持ち続けるのですから本当に大変でした。

この混み方は今の比じゃないくらいすごいものでした。車両の連結部分の扉のガラスがときに割れるくらいでしたから。ですから、座席に腰かけている優しいおじさんなどは同情してか、ときに「持ってあげようか」と言ってくれたりしました。柄の悪いことで有名な常磐線でしたから、押した押さないで喧嘩がはじまることもしばしばで、当時の通学は実に苛酷なものだったのを覚えています。

そんな通学のときに車窓から見える上野の映画館街の大看板は、中学生になった私の目にはとても刺激的でした。いかがわしい映画の看板には絵こそ描かれてはいませんでしたが、なにやら刺激的な言葉が並んでいましたし、ロードショーの大作映画の看板にはワクワクするようなひとコマがまるで写真のように描かれていて、いつも「あの映画、観たいなぁ」と思いながら眺めていました(もちろん超大作映画の方です)。

そんなときに映画「日本沈没」が封切られました。当時、日本には超大型の地震がやってくるということでもちきりでしたから、その地震をきっかけに日本列島が日本海溝に沈んでいくというストーリーは中学生の興味を引き付けるには十分でした。友だちを誘ってその映画を観に行ったとき、私はなんとなく悪いことをしているような、それでいて自分が少し大人になったような気持ちがしていました。

映画の具体的なストーリーは忘れてしまいましたが、それ以来、たまに映画を観に行くようになりました。とくに丸の内の映画館街は、館内の雰囲気といい、映画館周辺の風景といい、歩いているだけでワクワクする特別な場所になりました。そんなこともあって、高校生や大学生になっても映画館に行けるときは直接映画館で、また、ビデオが借りられるようになってからはレンタルでよく映画を見ていました。

決して記憶に残る映画ばかりではありませんが、今見てもなお感動する名作というものがいくつかあります。今回はそんな映画のいくつかをご紹介します。

まず、なんといっても「ローマの休日」ですね。私の中学生の頃といえば、すでに以前のブログでも紹介したように、無気力だった小学生が少しだけ成長して、家庭教師の大学生が作ってくれた「やるきスイッチ」に、ほのかな恋心をいだいていた同級生の女の子がスイッチを入れてくれた時です。このころは思春期だったせいか、「恋に恋する乙女」のように「カーペンターズ」の歌ばかり聴いていました。

その中学生のころにフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」かなにかで放送した「ローマの休日」は中学生だった私の心をがっつりつかんでしまいました。ヘプバーンの美しさやグレゴリーペックのカッコよさ、あるいは大人の恋への憧れというよりも、最後の切ない二人の別れにものすごくインパクトを受けたんだと思います。最後にグレゴリーペックが広い回廊をひとり去っていくシーンは今も素敵だと思います。

宿泊先のお城を抜け出し、窮屈なアン王女を演じることから解放され、新聞記者ブラッドレーとカメラマンのアービングとの三人で過ごしたローマでの休日は、映画を観ている私自身がまるで三人と一緒にローマにいるような気持ちになれる素敵な映画でした。ローマの観光名所をたどりながら、さまざまな事件にまきこまれる珍道中ぶりは観ているすべての人を引き込みます。音楽がまたよかったですよね。

なんといってもグレゴリーペックが演じるブラッドレーがとっても紳士でした。この映画をはじめて観たとき、中学生ながらにブラッドレーって常識をわきまえた大人だなって思ったのを覚えています。映画の最後、帰国会見で目にうっすら涙を浮かべながらなにも言わずにじっと王女を見つめるブラッドレーの姿がとても印象的でした。グレゴリーペックの人間性もにじみ出ていてブラッドレーは彼のはまり役です。

実はカメラマンのアービングも嫌いじゃないんです。はじめは「このスクープ写真はいい金になる」と思って隠し撮りしているのですが、最後は「もうそんなことはどうでもいい」と思ってしまう。最後の王女との会見で彼はすべての写真を渡してしまう。「あなたとの思い出はこの写真だけにとどめておきます」とでもいうように。適当でチャラいようで実は、ってキャラクターがいいですね(実社会にはいませんが)。

もうひとつ好きな映画を紹介するなら「フライド・グリーントマト」。この映画はあまり知られていないのですが、たまたま衛星放送にチャネルをあわせたときに放送していて見入ってしまったものです。医者になって毎日忙しくしていた頃にこの映画を見たからか、あるいはこの映画の挿入曲が懐かしいものばかりだったからか、ノスタルジックなこの映画の独特な世界にはまってしまったことを思い出します。

内容的にはいささか荒唐無稽なところもないわけではないのですが、それでもアメリカ南部の雰囲気が感じられる(とはいえ行ったことはありませんが)いい映画です。主演はジェシカ・タンディーというおばあちゃん女優とキャシー・ベイツというおばちゃん女優のふたりです。ふたりとも、この映画の役柄にぴったりでしたし息もぴったり。他の脇役の人達も魅力的な俳優ばかりで結構楽しめます。

とくにジェシカ・タンディーは、この映画の前に「ドライビング ミス デイジー」という映画でアカデミー賞主演女優賞をとっています。こちらも素晴らしい映画で、この映画の続編が「フライド・グリーントマト」じゃないかと思うほどに役柄が重なります。こんな素敵なおばあちゃんがいたら、どんな相談にも乗ってもらえそう、って思います。なにより彼女の「しわやしみを隠さない美しさ」が素晴らしかった。

老人ホームで偶然このジェシカ・タンディー演じるニニーと偶然出会ったエブリンをキャシー・ベイツが演じています。いつも不満ばかりを抱え、生きることに行き詰っているエブリンは、ニニーの語る物語にどんどん引き込まれていきます。そして、ついに「こうしちゃいられない」と生まれ変わることを誓います。自分を犠牲にして不満ばかりを抱える人生ではいけないことを悟るのです(まるで私の人生のよう)。

結構などんでん返しがあったり、見せ場がいろいろなところに散らばめてあります。私はこの映画を見てから、スクロギンズ牧師を演じた俳優(リチャード・リール)が実はいろいろな映画にちょこっと出演しているのに気がつきました。代表的なのはハリソン・フォード主演の「逃亡者」。この映画で、ハリソン・フォード演じるキンブル医師が移送されるときに護送車に同乗していた警官がリチャード・リールです。

まだまだよかった映画はたくさんありますが、最近観た「ボヘミアン・ラプソディ」もなかなかでした。この映画に出てくるクイーンというロック・グループを私は高校生の頃、リアルタイムで聴いていました。ですから、他の世代の人達以上にそのクイーンにもっているイメージは強固です。そんなこともあって、この映画でフレディ・マーキュリーを演じるラミ・マレックという俳優にどうしてもなじめませんでした

「いい映画だ」「涙がとまらなかった」という高評価を耳にしても、はじめはなかなか観に行こうとは思いませんでした。自分の中でのフレディは、大男で、とても男性的なイメージがありました。しかし、ラミ・マレックは小柄で、男性的なイメージから少し離れている、なよなよっとした、どちらかというとバイセクシャルな印象が強調された、そんなマイナスの印象しかもっていなかったのです。

しかし、上映期間を確認してあと数日で観れなくなるとわかったとたん、突然「映画館に行こう」と思い立ちました。はじめは家内と行こうと思ったのですが、すでに用事が入っていたので断られ、今度はクイーンを聴いていた頃の私と同じ世代の息子に声をかけましたが「なんで俺が行かなきゃいけないんだよ」と断られました。高校生のころの自分の思いが伝わればと思ったのですが、結局ひとりで観に行きました。

もう少しで上映期間が終わるというのに結構な客が入っていました。私よりも少し上の世代の夫婦や、私と同じ世代の父親がこれまた私の息子と同じ年格好の子どもを連れて見に来ているケース、もちろん私のようにひとりで観に来ているおじさんも少なくなく、この映画を支持する年齢層が比較的幅広いことを示していました(その結果、今でもこの映画は上演されていて興行収入も100億円を突破しました)。

実際に見ていると、ラミ・マレックへのネガティブな印象は否めませんでしたが、しかし、それを上回るくらいの感動がありました。フレディがバイセクシャルで、最後はAIDsを発症して亡くなったことは知っていましたが、クイーンというグループの周辺でどのようなことがあったか知らなかっただけに、あの映画ですべての楽曲の雰囲気が自分の中で変わっていき、あらたな感動が生まれてきました。

クイーンの歌の中でもとくに好きなのが「Radio Ga Ga」です。ラジオからながれてくるこの歌を聴いていたときの思いがよみがえってきます。中学校でようやく立ち直れた矢先、進学した高校に失望して無為な2年間を過ごしてなんとか大学へ。そんな中で医学部への再受験を決意し、ようやく「しっかりしなきゃ」という思いになりはじめたころの歌です。改めて聴くとそのときの前向きな気持ちがよみがえってきます。

映画の最後、ばらばらになりそうだったクイーンがまた心をひとつにして「Live Aid」というチャリティライブに挑みます。そのときのシーンで流れたあの「Radio Ga Ga」にはやはり胸に込み上げるものがありました。映画を観る前、前評判を聴いて「クイーンの映画を観て涙なんか出るもんだろうか」と疑っていたのですが、映画でクイーンのバックグランドを知るとはやりあのシーンは感動します。

以前であればそれほどにも思わなかった「Love of my life」という歌もあらためて好きになりました。フレディにはデビュー当時、メアリーという恋人がいました。のちにフレディが男性の恋人に夢中になってしまうのですが、それでも彼女は陰で彼を励まし、支えていました。映画ではそのメアリーを演じるルーシー・ボウイントンがとてもきれいでしたが、そのメアリーに捧げるように歌ったのが「Love of my life」です。

その歌が生まれた背景というものを知ると、その歌のイメージが変わってもっと好きになることがあるんだと改めて実感しました。クイーンのLPレコードは何枚かもっています。「ボヘミアン ラプソディ」という映画を観てそのレコードを今改めて聴いてみると、高校生のころに感じたものとは異なり、なにかもっと深い情感のようなものが湧いてきます。音楽って、また、映画ってやっぱり素晴らしいものですね。

ちなみにフレディはとても日本びいきでした。自宅に庭師を呼んで日本庭園を造っていたくらいですから。クイーンの世界的な人気が日本から火が付いたからかもしれません。フレディは大の猫好きで、日本にお忍びできては骨董品の招き猫を収集していたことが有名です。映画の中でも、フレディの部屋には額に入れられた金閣寺のお札が飾られていたりして、日本人にはとても誇らしい気持ちになれる映画です。

もっといろいろな映画を紹介したいのですが、ついつい長々と書いてしまいますのでまた今度にします。今回はこのぐらいにしておきたいと思います。

 

諸行無常の響き

昨年、父親が亡くなったのをきっかけに、これまでのいろいろな出来事とともに私自身の半生を振り返ることが多くなりました。と同時に、これから自分はどうなっていくのか、家内はどうなっていくのか、そして、息子たちがどうなっていくのかを考える機会も増えました。とくに息子たちはこれからの人間ですから、どんな人生を送ることになるのだろう、どんな人生を送ることが幸せなのだろうとふと考えることもあります。その意味では、彼らにとって私の半生はとても教訓多いものだったと思います。自分で振り返ってみてもドラマチックでスリリングな経験がたくさんありました。一方で、日常の診療の中で見聞きしてきた患者さんの人生そのものが感慨深いものにだったりして、人生は実にいろいろです。

高齢患者の悩みの多くは「老いを受け入れられないこと」に起因していたり、「これから先いつまで生きられるだろう」という漠然とした不安にもとずくものです。「いつまでも若々しいときの自分でいたい」という思いはすべての人の願いです。「死にたくない」という思いだって皆共通です。しかし、この世はすべてが「諸行無常」。つまり、この世の一切のものは同じままの姿で、あるいは、同じ状態でいられないのです。あれほど明晰を誇った記憶力も、若い人達には負けないと思っていた体力も、残念ながら年齢とともに衰えていきます。「最近、俳優の顔は思い浮かぶけど名前が出てこない」ことも、「最近、ふらついて転びやすくなった」こともひとえに諸行無常であることを表しています。

すべての人がはじめて70歳になり、80歳になります。ですから、当然のことながらどのようなものが「70歳らしい」のか、あるいは「80歳らしいのか」を体験できないままに歳を重ねていきます。ところが、鏡の中の自分の変化はものすごくゆっくりなので、どちらかというと精神年齢が進むスピードは実年齢にくらべて遅いのです。しかし、肉体と精神はともに生物学的年齢に応じた曲線をたどって下降していきます。私はよく診療時に、ご高齢の患者さんに「50年前、80歳の人を見てどう感じていたか振り返ってみて下さい」と話すことがあります。「生物学的には今のあなたも同じ80歳。なのにあなたはなんて若々しいのでしょう」、「平均的な80歳のレベルを考えれば、あなたの(若々しさの)偏差値はとても高いのですよ」とも。

「俳優の名前を忘れたっていいじゃないですか。家族の顔がわからなくならなければいいんです」、「ふらつくなら転ばないように生活上の工夫をしたり、杖をついたりすればいいじゃないですか」とお話しすることもあります。「歳をとる辛さを知らないくせに」と心の中でつぶやきながら私の話しを聴いている人もいるかもしれません。しかし、実体験として「歳をとる辛さ」を知らないとはいえ私ももう若くはありません。あと十年もすれば確実にその「歳をとる辛さ」に直面します(今もちらほら「これって老化?」と思うような変化に遭遇していますけど)。でも、私自身、そのときを迎えたら老いは受け入れる覚悟はできています。その変化を受け入れるつもりです。人生の「ながれ」には逆らおうとは思わないのです。

「若々しくありたい」と思うのは誰でも同じです。若い時の写真を見て「あのころに戻りたい」と思うことだってあります。でも、それは所詮かなわぬこと。過去に戻ることも、いつまでも若々しくいることも、現実的には不可能なのです。物忘れは進み、体力は落ち、しわも増えていく。誰一人そうした変化から逃れることはできません。そうであるなら、老いることを恨んで暮らすより、いっそのこと老いを受けれ、工夫しながら暮らした方がましです。「老化」は「成長」「成熟」に続く正常な変化です。若いときを「善」、老いることが「悪」なのではありません。老いてもまた「工夫次第で善なのだ」と考えるべき。老化を「死」という終着点からとらえるのではなく、「生」の延長線上でとらえたいものです。

ときどき「あと何年生きられるだろうか」とこぼす人がいます。そうした人には「将来のある若人は10年後、20年後を見るべきですが、残された人生を生きなければならない人は過去を振り返えってはいけない。遠い将来を考えて不安にさいなまれるのも建設的ではない。一日一日をしっかり生きていければいいのでは?」とお話しします。過去は過去のことであって、これからやってくる未来とはほとんど関係のないこと。輝かしかった、あるいは楽しかった過去を懐かしむのはいいのです。でも、自分の未来は「今の自分」が決めます。過去によって未来はしばられないのです。以前に投稿したブログで紹介したシラーの詩の一節や井上靖の「流星」という詩はともに人生の機微を謳ったいい詩だと思います。

【シラー】

時にはみっつの歩みがある。
未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去っていく。
そして、過去は永遠に、静かにたたずんでいる。

【井上 靖】

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、
仰向けに横たわって星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、
忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、
十一月の日本海の砂丘の上に横たわって長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、
ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のみごとさ、
そのおどろくべき清潔さであった。

人生のすべては夢まぼろしです。どんなに立派な学校に行こうとも、どんなに美しい容姿をしていても、どんなに高い地位につこうとも、どんなに財産を築こうとも、それらはすべてが「まぼろし」なのです。生まれてくるときも裸なら死ぬときも裸。なにひとつあの世にもっていけるものはありません。そんなこと(もの)に固執したところで、死んでしまえばなんの価値もありません。一方で、つらいこと、悲しいこともこの現世でのこと。黄泉の国ではそうした一切の苦からも解放されます。ほとんどの人は自己満足の中で生き、苦から逃れられないまま死んでいくのです。死んでしまえば自分の存在などいつかは忘れ去られ、その人の生きた痕跡などあとかたもなくなくなっていきます。それが人生というものです。

【平家物語】

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

ご存知の通り、これは平家物語の冒頭の一節です。誰もが中学生のときの国語の授業で暗記させられたと思います。当時はこの一節の意味もほとんどわからないまま、ただ言われたとおりに覚えたものです。高校生ぐらいになっても、「すべてが虚しい」という言葉がまるで「生きる価値などない」とでもいっているように聴こえ、当時の私の心には響くものはありませんでした。しかし、大人になっていろいろな経験をし、人生を振り返られるようになるとその言葉の意味がなんとなくわかってきました。平家物語は栄華の極みを誇った平家がほろびる様子を描いたものですが、平家の没落を通じて、人生の無常を語り、日本人の生き方にも影響を与えるこの一節は今の年齢になって心に響いてきます。

「すべてが虚しい」という一文は「価値がない」ということを言っているわけではありません。「すべてが虚しい」がゆえに「今のこの一瞬一瞬に価値がある」ということを意味しています。また一方で、「すべてが虚しい」がゆえに「他人に自分を誇ること」がいかに無意味かをも教えてくれます。自分がこれまでなしてきたことから決別し、今このときをどう生きていくか。人生の一瞬一瞬を自覚しながら生きるにはどうすればいいのか。「他人からどう見えるか」ではなく「自分をどうみせるか」でもない。「自分自身が輝く生き方」とはどのようなものか。先の平家物語の冒頭部分はそうしたことを問いかけているようにも思います。このことにもっと早く気が付いていたら、私は違った人生を歩んでいたかもしれません。

今はとてもいい時代になったと思います。いい学校を出て、いい会社に勤め、偉くなることに価値があった昔とは違って、今はいろいろな意味で「自分らしい生き方」をしやすくなりました。私が若かかったころは、大学を卒業して入った会社に退職するまで勤めあげることが「まっとうな生き方」のように思われていました。しかし、今のサラリーマンはスキルアップのためにあえて転職を繰り返す人も少なくありません。人によっては脱サラして商売をはじめたり、アルバイトで生計を立てること人だっています。そうした多様な生き方が許容されるようになったのです。かつては、私のように、大学を出ても定職に就かず、アルバイトをしながら再受験しようとする人間には肩身の狭い世の中でした。

東京大学を卒業したからといってそれだけで実力を認めてくれるほど今の社会は甘くありません。それがなにより証拠には、「あの先生は東大を出ているから」なんて理由だけで病院を選ぶ患者は少数派です。むしろ、「あれでも東大卒?」だとか「東大出てるくせに」と陰口を叩かれて悔しい思いをしている人もいるほどですし。東大卒にふさわしい実力をもたない人は「単に学歴だけの人間」と見なされ、場合によっては「使いものにならない人」という烙印を押される時代でもあります。でも、ある意味でこうした変化はいいことだと思います。学歴という「過去」ではなく、実力という「今」が評価されることなのですから。どこかの国の国会の、経歴だけは華々しい「使えない議員」を見ればよくわかります。

勲章をつけることで人はモチベーションを高めることができます。しかし、勲章が原動力となって自分自身を高める人がいる一方で、他人に自分を誇示するために勲章をほしがる人もいます。前者はその人のモチベーションを高め、人生の伸びしろともいうべき人間の幅を感じるのに対して、後者は他人を勲章の有無だけで判断したり、人を上からしか見られないような気がします。そういう人は器の小さい人間のように感じます。人間としての器が大きく感じる人は自分が目指す目標に向かって黙々と努力し、周囲にオーラを漂わせています。実際にこれまで私が出会った「器が大きい(と感じた)人」は、他人に自分がどう思われるかなどには関心がなく、自分の目指す高みに向かって淡々と努力していたように思います。

こんなことがありました。医師国家試験にも合格して東京逓信病院で研修することが決まった私は、研修の説明を受けるために事前連絡があった場所を尋ねました。説明会場である病院事務棟のとある会議室に早めに到着した私は、ひとりの若い医師(らしき人)が椅子に腰かけて熱心に文献を読みふけっているのを目にしました。軽く会釈をしてちょっと離れたところに腰かけ、その彼がどんな文献を読んでいるのかのぞいてみました。するとその文献は英語で書かれた学術論文のコピーだということがわかりました。私は、彼は新人研修医を指導する先輩医師なのだと思いました。そのときの私は英語の文献を読みふけるような先輩医師からどんな指導を受けられるんだろうと考えながらワクワクしたのを覚えています。

でも、研修がはじまると、その英語文献を読んでいた彼は私と同じ研修医だったということがわかりました。彼と一緒に研修をしながら、あのとき彼が会議室で英語の文献を読んでいたことなどすっかり忘れてしまいましたが、徐々に彼と仲良くなり、お互いのことを少しづつ話すようになると彼の素性が少しづつわかってきました。彼が「灘高→東大理三→東大医学部」の研修医であること。当時、すでに東大医学部第二内科研究室に所属していて、大学で実験をしながら研修を受けていることなどがわかりました。彼のお姉さんも京都大学の外科医だということもわかりました。いわば彼はエリート中のエリートだったのです。しかし、彼はそれまでそうしたことを私たちにひけらかすことは一切ありませんでした。

彼は今、とある国立大学医学部の教授として活躍しています。研修医当時の彼は「僕は将来、必ずノーベル賞をとる」と語っていました。そうつぶやく彼のまなざしは真剣そのものでした。私のような地方大学卒の研修医に対して威張らないのと同じように、患者さんに対しても、看護婦さんに対しても、自分の学歴や経歴をちらつかせて偉ぶるようなことはありませんでした。当時の私は、本当のエリートってこういうものなんだろうと思いました。真のエリートはそもそも自分のことを他人にひけらかして偉ぶる必要がないからです。自分のめざすところはそんなところにはないからでしょう。彼らにとって重要なのは、あくまでも自分のめざす高みに一歩でも近づくこと。他人が自分をどう思おうと彼らには関係ないのです。

ものすごい努力をして名門中学や有名高校に進学しても、卒業するころにはパッとしなくなる子どもがいます。せっかく偏差値の高い大学を卒業しても、社会にでた途端に自信をなくして脱落する人もいます。そういう人の多くは、勲章を他人に誇示して、人からどう思われるかという価値観でしか頑張れなかった人なのかもしれません。勲章はあくまでも自分だけのもの。誇りと自信、モチベーションとパワーを与える勲章は他人に誇示する必要はないのです。他人にではなく自分自身に向けられた勲章をもっている人は失敗してもそのたびに立ち直ることができます。彼らの中では次に目指すべき目標がたちどころに現れてくるからです。「真のエリート」とはそういう人たちをいうのではないかと思います。

自分の学歴や経歴によらず、自分の目標を常に持ち続けられる人が「(人生の)真のエリート」なのでしょう。そうしたエリート達はきっと「諸行無常」の意味を経験的に知っているのではないか。つまり、過去の栄華がいかに無常であり、今このときにこそ価値があって、その価値ですらいつまでも同じではない。そういうことを知っているのです。人がどう思うかなどに惑わされず、人に自分の価値観をおしつけることもない。自分のなすべきことを淡々とこなしていく人は、自分の人生が終わるときでさえもなんの迷いもないのかもしれません。私が今だに敬愛してやまない俳優 高倉 健さんは晩年、「エリート」の神髄ともいうべき次のような言葉を残しています。それを紹介して今回のブログを結びます。

「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」