現実はあそこにも

私はいわゆる「医療ドラマ」というものを見ません。現実との違いにとても見ていられなくなるからです。三十代そこそこの医者が「天才外科医」と呼ばれたり、出てくる医者が皆判で押したように高級外車を乗り回し、まるで「鳩山御殿」かと見まごうような家に住んでいる。あるいは代々医者の家庭に嫁いだ女性が姑に「○○家の後継ぎを産むのがあなたの使命なのよ」なんてすごまれる。まれにそうしたケースがあるかもしれませんが、そんな話しは私のまわりで見たことも聞いたこともありません。

そもそも三十代そこそこの医者と言えば、後期研修をおえてようやく独り立ちする年齢です。第一術者になれるかどうかって年齢でどうして「天才外科医」なんでしょう。しかもそれで「大学教授」なんてちゃんちゃら可笑しくて見ちゃいられません。高級外車をこれ見よがしに乗り回し、立派なおうちに住んでいる医者だって今どきそういるもんじゃない。いることはいますよ、私たちと別世界の人達は。でもそれは少数派。だって多くの医者はそんな生活するために医者になったわけじゃありませんから。

世の中に幅を利かせているイメージって、実は結構いい加減なものです。私の父は警察官でしたが、刑事ドラマを見ている父を見たことがありません。これもドラマに出てくる警察官の姿と実際があまりにも違いすぎていて、ちゃっちくて見ていられなかったんだと思います。もとより医療の世界はある意味で閉鎖的ですから、そうしたいい加減なイメージが作られやすいのでしょう。逆にいうと、一般の人には知られていない苦労も医者には多い。そんな苦労を知ってもらうためにも医療の本当の姿をドラマ化してほしいのですが、イメージ先行の今の世の中ですからなかなかそんなドラマにお目にかかれません。

僕らのときは、大学病院の研修医の月給は約5万円。市中病院でも月給約15万円ほどでした。私達には労働基準法は適用されません。研修医のほとんどは24時間、365日の勤務みたいなもの。いくら残業してもそのほとんどはサービス残業なのです。それでも指導医には「おまえら研修医は本来給料なんてもらっちゃいけないんだ」と言われたくらいです。でも、研修医は給料をもらえるのでまだましです。医員と呼ばれる大学の医者のほとんどは無給です。それでは食べていけませんから、医員の多くは大学病院での勤務が終わると他所の病院で外来診療をしたり、検査や当直のアルバイトをします。そして、大学に戻れば通常勤務。

私が一人前の医者になったころ、研修医の過労死の問題がクローズアップされて待遇が見直されました。そして、今ではアルバイトを禁止するかわりに給料が増額されたようです。病院によっては朝9時に勤務開始、夕方5時に勤務終了なんて夢のような研修ができるところもあると聞きます(個人的にはそれがいい研修だとは決して思いませんけど)。ですから、その勤務時間をはずれての業務は指導医がやらなければならないとか。僕らの頃は雑務は研修医がやるものだったのですが、そんな時代になっちゃったんですね。もっともそんな病院は現実には少数でしょうけど。

医者になりたてのころ、私がアルバイトに行かされていたのは東京の下町にある小さな病院でした。月に1回だけ土曜日の午後から日曜日の午前中までの日当直が仕事でした。入院中の患者の具合が悪い時に病棟に呼ばれて薬を出したり、あるいは検査をしたり、ときには休日の外来診療もやらなければなりませんでした。その病院の近くにはお寺がいくつかありました。最寄りの駅を出て病院に向かう道は下町の風情を残していて私は嫌いではありませんでしたが、ちょっぴり寂しい雰囲気の場所でした。その道すがら、ひとつのお寺の門前に掲示板があるのに気が付きました。そこはそのお寺の歴史が書かれてありました。

病院の周辺はかつて花街であり、昔はたくさんの女郎さんが働いていました。その女郎さんたちは病気になって働けなくなると故郷に帰されるのですが、中にはその故郷になんらかの事情で戻れない人もいます。そうした人たちが亡くなると、この寺の前に捨てられていったのだそうです。そのお寺はそんな人たちを弔うところだったのです。いつもこのお寺の前を通りながら、私は心の中で手を合わせていました。住宅地のなかにポツンと立っているそのお寺の悲しい歴史を知ると、なおいっそうお寺の界隈が悲しく見えてきて、当直する病院もなんとなく悲しげに見えたものです。

病院はその場所に古くからある個人病院でした。古びた建物は増改築を繰り返して複雑な構造をしていました。曲がりくねった狭い廊下を歩くといろいろな病室が並んでいます。どの病室も畳敷きで、患者はその畳の上に布団を敷いて寝ていました。酸素吸入を必要とする患者の枕元には酸素ボンベが無造作に転がっていて、私はカルテを入れたスーパーのかごをぶらさげながら回診をしました。入院患者は皆高齢者で、かつて花街の女郎さんだった人もいましたし、ヤクザだった人や在日朝鮮人も少なくありませんでした。多くは肝炎を患い、肝硬変となり、中には末期癌となっていた患者もいました。

私は回診をしながら「この人たちにはもうここしか居場所はないんだ」ということを思い知らされました。引き取ってくれる家族もなく、帰る故郷もない。皆うつろな目をして一日中天井を見ている。中には「先生、この病院から出してください」と私の腕を力なくつかんで涙をこぼす人もいました。まるで死ぬのを待っているかのような人たちを見ながら切ない気持ちを抑えて回診をしました。夜になると、病棟からはうめき声が。「苦しい、苦しい。誰か、誰かっ」。それも一人ではありません。消灯後の暗闇の中で助けを求める声がずっと続き、そのたびに私は病棟に呼ばれていました。

あるとき、外来にひとりの高齢のご婦人が急患で来院しました。「胸にできたおできが治らない」ということでしたが、診察室に入った私はすぐにその患者から悪臭が漂っていることに気付きました。その患者の衣服を脱がせ、胸に当てられているタオルをとって私は驚きました。左の乳房に大きなしこりがあり、その表面から血液の混じった浸出液がにじんでいたのです。悪臭はここからのものでした。明らかに末期の乳がんです。聞けば半年以上前からしこりには気が付いていた、と。しかし、そのご婦人は怖かったのか、あるいは貧しい生活に医療機関に受診する余裕がなかったのか、これまで放置していたといいます。

私は言葉を選びながら「これは病院で検査を受けなければなりません」と説明しました。すでに悪性のものであることを察しているのか、それほど驚く様子もありませんでした。でも、その表情からは病院に受診しないだろうことは容易に想像できました。乳房のしこりから滲み出し、悪臭を放っている浸出液をぬぐって、軽く消毒をしてガーゼを当てながら、きっとこの人はもはや死ぬ覚悟をしていると感じました。私は痛み止めと抗生物質を渡しながら、「(経済的な理由で病院に受診できないのであれば)区役所に相談すればいい方法を考えてくれるので、週明けには必ず区役所に連絡してください」と説明しました。

丁寧に礼を言って診察室から出ていくその人の後ろ姿を見ながら無力感を感じていました。普段努めている近代的な病院とはまるで違う医療がここにはある。医療はすべての人に平等だと言われているけど、現実は決して平等なんかじゃない。でも自分にはなにもできない。「社会の吹き溜まり」とも言うべき現実を突きつけられ、その無力感に押しつぶされそうだったのです。陽も満足にあたらない薄暗い病室の布団の上に横になり、ただじっと天井を見ているだけの患者たちを今でも思い出します。なにもできない無力感にうちのめされたあのときの自分と共に。医療の現実はあそこにもあったんだと改めて思います。