何を守るのか

昨年12月、90歳になる母親を連れて映画「Godzilla -1.0(ゴジラ・マイナスワン)」を観ました。ゴジラ映画はあまりにも有名ですが、個人的にはそれほど興味がなかったため、1954年に作られた第一作からこれまで一度も観たことがありません。ただ、2016年に公開された前作の映画「シン・ゴジラ」については、その評判がよかったので、事前に予告などを観ずにDVDを買ってしまいました。しかし、そのストーリー以前に、出演している役者の演技がことごとく下手で、DVDを購入したことを後悔したほどです。

今回の作品については多くの人が高評価をつけており、観た人たちのコメントの多くも「前作をうわまわる出来映え」とのこと。そこで「マイナスワン」は映画館で観てみることにしました。しかし、家内に「一緒に行こう」と誘いましたが、つれなく断られてしまいました。息子達にも冷たくあしらわれた私は、実家で一人暮らしをしている母親を連れて行くことにしました。思えば、母とふたりで映画を観るのははじめてです。脳梗塞を患ってまだ半年。しかも耳の遠い母親でしたが意外と「行く」との返事でした。

映画は1947年(昭和22年)の東京が舞台。母親がまだ女学校の生徒だったころの話しです。米軍の焼夷爆弾によって焦土と化した東京が、再びゴジラに襲われて壊滅的な被害を受けます。「マイナスワン」というタイトルはその惨状を意味しています。人々を恐怖と絶望に陥らせたゴジラにどう立ち向かうか。戦争の傷跡の癒えない人たちの戦いがはじまったのです。その戦いの中心人物が、意志の弱さゆえに攻撃から逃げ帰ってきた若き特攻隊員。ストーリーが進むにつれ彼の負い目が徐々に勇気へと変わっていきました。

事前の評判の通り、なかなか面白い映画でした。ストーリーは比較的単純でしたが、それなりにどんでん返しがあって楽しむことができます。「今回のゴジラはこれまでで一番怖かった」という声にもうなずけます。映像も美しく、迫力があり、音楽もすばらしかったです。演じていた俳優も適材適所といえるでしょう。母親も見終わったとき「面白かったよ」と言ってくれ、連れて行ってよかったと思いました。私などはめずらしくあとでもう一度映画館に足を運んだほどでした(そのときも誰も付き合ってくれなかった)。

私はこの映画を観て改めて感じました。「人には守るべきものがある」ということを。この映画を観に行った頃、私はこのブログに「映画『トラ・トラ・トラ』」と題する小論を掲載するため、ちょうど真珠湾攻撃のことを調べていました。そして、当時の軍人・兵隊たちがどんな気持ちで開戦を迎えたのかをあれこれ考えていたのです。「ゴジラ・マイナスワン」の主人公は自責の念に苦しんだ特攻隊員でした。その彼の思いが真珠湾攻撃に参加した軍人たちの「守るべきもの」と重なって私の心の琴線に触れたのかもしれません。

記事「映画『トラ・トラ・トラ』」でも紹介したように、攻撃を指揮した山本五十六は当初、真珠湾攻撃はもちろん、日米開戦そのものに反対していました。その五十六がなぜ連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案し、実行することになったのか。今も諸説、さまざまな解釈があります。山本五十六には、彼が大きな影響を受けた終生の親友がいました。その人の名は堀悌吉といい、海軍兵学校第32期の同期生。五十六の卒業時の成績は192名中11番。堀悌吉という親友は首席で卒業する優秀な生徒でした。

五十六と堀は在学中から意気投合します。お互いに議論を交わし、切磋琢磨する間柄だったのです。あるとき成績が振るわなかった五十六を、堀は「我々が勉強するのは席次のためではない。立派な軍人になるためだ。精一杯やった結果なのであればそれでいいではないか」と励まします。海軍では兵学校や海軍大学校卒業時の成績が優秀であれば、あとは無難に過ごしているだけで出世の道が保証されます。しかし、優秀な二人ではありましたが、昇っていった高級幹部への階段は決して順調なものにはなりませんでした。

海軍には艦隊派と条約派と呼ばれる、方向性を異とする派閥があって対立していました。第一次世界大戦後の日本は、アジアの一等国入りをした勢いを借りて、欧米列強に負けないほどの軍事力を持つようになりました。日清戦争は明治維新のたった26年後のことであり、日露戦争はそのさらに10年後のことです。清とロシアというユーラシアの大国を相手に、日本は二度の大きな戦争を勝ち抜きました。こうした戦果は軍事力の急速な近代化を背景にしています。しかも、そのスピードは世界でも類を見ない早さでした。

幕末、諸外国からの脅威にさらされた日本は、軍事力の必要性を思い知ります。日本に先立って産業革命をなし遂げ、すでに近代国家となっていた欧米列強は植民地を次々と拡大していきました。江戸幕府は、力なき国家、備えなき国家がいともたやすく欧米の植民地となっていく事例を知っていたのです。まさに欧米の「悪意ある善政」によってなにもかもが強奪・奪取され、現地の人間が奴隷として売られていく。豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタンの布教を禁じたのはそのためでした。

明治維新以来、日本が急速に富国強兵の政策を推し進めたのは、ひとえに日本が欧米列強の植民地にならないため。日本が朝鮮半島の近代化を望み、両班たち(朝鮮の王族)にその意思がないと見るや武力をちらつかせてまで朝鮮半島の近代化を求めたのもそのためだったのです。その一方で、すでにアジアに多くの植民地をもつ欧米にとって、日本の軍事力の増強はアジアにおける自分たちの権益に対する脅威以外のなにものでもありません。彼等はやがて日本を封じ込めるため、海軍の軍縮を求めるようになりました。

ところで、大戦後の平和維持のため、1920年に米国のウィルソン大統領が国際連盟の創設を提唱しました。しかし、アメリカは当初、国際連盟に加盟しませんでした。それはアメリカにはモンロー主義(他国の紛争に関与しないという宣言)があったからですが、もっと大きく根本的な理由がありました。国際連盟の創設に先立つパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃条約」を採択するよう提案しました。アジアやアフリカにおける、欧米列強による非人道的で、きわめて差別的な植民地政策が行なわれていたからです。

国際会議において人種差別の撤廃を訴えたのは日本がはじめてでした。明治維新のたった50年後の日本がこうしたことをするというのは驚きです。しかし、採択に消極的な国は少なくなく、アメリカのように黒人奴隷を制度として残している国は採択に反対しました。日本は条文を修正するなどしてなんとか採択にもちこもうと努力しました。しかし、採決の結果、米・英はもちろんブラジルやポーランドなどが反対票を投じ、議長だったウィルソン大統領が全会一致でなかったことを理由に否決してしまいました

国際連盟が機能不全をおこすであろうことは当初から容易に想像がつくことでした。パリ講和会議後に採択されたベルサイユ条約で戦勝国フランスは、敗戦国ドイツに当時のGNPの20年分を超える1320億マルク(今の400兆円)の賠償をするよう強行に主張しました。それはまるで普仏戦争での恨みをはらすかのようでした。その結果、ドイツの物価は一年で20億倍に跳ね上がり、戦後のドイツ人の暮らしをまさに塗炭の苦しみにしました。その苦しみはやがてドイツ人の不満と復讐心となり、ヒトラーの出現を招来します。

その一方で、イギリスは、中東での支配を確かなものにするため、いわゆる「三枚舌外交」をおこなって、今のパレスチナの混乱につながる火種を作りました。また、イギリスは、アメリカとともに海軍軍縮国際会議を開き、台頭する日本の軍事力を制限しようとしました。徐々に狭まる日本包囲網を警戒した日本帝国海軍は、交渉によって事態を打開しようとする交渉派と、あくまでも欧米の介入を許さずに海軍力を維持しようとする艦隊派とが対立していました。軍縮会議の責任者でもあった堀悌吉は交渉派でした。

アジアでの権益をめぐって欧米と対立する日本は、ソ連の南下にも注意しなければなりませんでした。ソ連とは満州やモンゴルとの国境をめぐってせめぎ合い、ウラジオストクやカムチャッカ半島からソ連が日本の出方をにらんでいるといった状況にありました。折しも1922年に帝政ロシアは共産革命によってソビエト社会主義共和国連邦となっていました。ドイツ帝国も1918年に革命がおこり、皇帝がオランダに逃げて退位。共和国になったばかりです。日本は共産主義という火の粉がソ連から飛んでくることを恐れました。

1934年、軍縮会議をなんとかまとめて帰国した交渉派の堀悌吉らを、艦隊派はもちろんマスコミが「弱腰だ」と強く批難しました。その声はやがて世論となって交渉派を追い落とすことになります。「これでなんとか危機的状況から脱することができた」とほっとして戻ってきた堀たちは、すでに海軍省内に自分の居場所がなくなったことを感じたようです。堀は無役の予備役となり、海軍兵学校の校長に転出します。その一方で堀との親交を深めていた山本五十六は1939年に連合艦隊司令長官に昇進しました。

1940年には日独伊三国同盟が締結されました。世の中は快進撃をつづけるドイツとの同盟に熱狂します。しかし、山本五十六は堀悌吉とともに三国同盟に反対の立場をとりました。五十六が反対するのは「地理的に遠すぎて同盟をむすぶメリットが少ないばかりか、アメリカを無用に刺激する」という合理的な理由からでした。それに対して堀は「ドイツの軍国主義や帝国主義が極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝のありさまを見るとたまらなく不愉快」と述べています。そんな二人の声は海軍には届きません。

自分の信念を曲げず、不本意ながらも出世の道をはずれて退役に追い込まれた堀悌吉。そうした彼の生き様は、学生時代、五十六に言った「自分の本分を尽くせば席次などどうでもいい」という言葉通りのものでした。一方の山本五十六は、堀と同様に三国同盟に反対し、日米開戦にも反対したにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮をとることになりました。五十六がなぜこのような矛盾する行動をとったのか。その答えは、堀悌吉に宛てて書いた無数の手紙の文面にあらわれています。

国、大なりといえども、戦(いくさ)を好めば亡ぶ。
国、安きといえども、戦を忘れれば必ず危うし。

軍隊の本質は、国家の要求に応じて当然の責務を果たすことにある。
敵に向かうべき最高の命令を受け、閫外(こんがい:国の外で敵と対峙すること)の臣として
辞するわけには行かぬ、のふたつにつきる。

山本五十六は日米開戦が決定された以上、自分にあたえられた使命をまっとうするのが軍人だという信念があったのかもしれません。五十六は、アメリカ本土はもちろん、アメリカの利権とかかわる南方を攻撃すれば、アメリカ国民を刺激して日米の全面戦争になる恐れがある。であるならば、太平洋艦隊の基地がある真珠湾を完膚なきにまで攻撃し、アメリカ国民の戦意を喪失させることができれば、それが世論となって日米戦争を早期講和に持ち込むことができるのではないかと考えたのでしょう。

しかし、真珠湾には肝心のアメリカの主力空母がいませんでした。逆にミッドウェー開戦で日本の主力戦艦を多数失ってしまいました。早期講和の道が絶たれてしまったのです。五十六は1943年になるとソロモン・ニューギニア方面にいるアメリカ艦船および航空兵力に打撃をあたえる作戦に赴きます。しかし、その途中、周囲の反対を押し切って連合艦隊の旗艦「武蔵」を離れ、前線の兵士を激励に向かう途中で搭乗機が撃墜され、五十六は戦死します。それはまるで死にに行ったかのような行動でもありました。

五十六はこの作戦を指揮するにあたり、決死の覚悟をもっていたのかもしれません。真珠湾攻撃から2年。山本五十六がときの総理大臣・近衛文麿に「日米が開戦してどこまでやれるだろうか」と問われたとき、「はじめの半年や1年の間は存分に暴れてご覧に入れます。しかしながら、2年、3年となればまったく確信は持てません」と答えたといわれています。まさにその通りになったのです。近衛に「日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と言った五十六は日米が開戦したことにさぞ落胆したことでしょう。

山本五十六も、堀悌吉も、それぞれの信念にもとづいて、日本・日本人を守ろうとしました。軍備だけで国家・国民を守ることはできません。ましてや、軍備を怠るならば弱肉共食の世界にあってはなおさらです。五十六や堀のように、指揮官として命がけで日本や日本人を守ろうとした人たちがいます。また、家族や同胞のために散華された名もなき兵隊たちもたくさんいます。それらの英霊は今の日本をどう思うでしょうか。現代に生きる私たちはいったい何を守るべきなのか、もう一度問い直すときが来ていると思います。

※映画「ゴジラ -1.0」はこの 1月 12日 から「白黒版:ゴジラ -1.0/c(マイナスワン/マイナスカラー)」が封切られます。是非、みなさんもご覧になってください(子どもも楽しめます)。ちなみにゴジラのテーマ曲を作曲した伊福部昭は北海道大学の卒業生です。

※ 1月 14日 に「ゴジラ -1.0/c」も劇場で見てきました。個人的にはむしろこの白黒版の方がよかったと思います。よりリアルに感じられましたし、俳優達が本当に当時の人たちのように見えました。

※1月 24日 、アカデミー賞ノミネート作品が発表され、「Godilla Minus One」が視覚効果賞にノミネートされました。視覚効果賞はこれまで「アバター」や「タイタニック」に代表されるようなアメリカ映画の独壇場でしたが、今回、日本はもとよりアジアからの作品としては初めてのノミネートでした。3月10日にハリウッドのドルビーシアターで本賞受賞作品が発表されます。ノミネートだけでも凄いことですが、是非本賞も受賞してほしいものです。

 

映画「トラ・トラ・トラ」

今年もまた12月8日がやってきました。1941年(昭和16年)の今日は、アメリカ太平洋艦隊の拠点でもあるハワイ州・真珠湾を日本が攻撃した日です。真珠湾攻撃からさかのぼること8ヶ月前、全国から集められた若手研究者による「内閣総力戦研究所」が組織され、日本とアメリカとの戦争が精緻にシミュレーションされました。日本はアメリカと戦って勝算はあるのかについて、若き秀才たちによってあらゆるケースが検討されたのです。日米戦争が日本の運命を大きく変えるものとしてとらえられていた証左です。

第一次世界大戦後の特需が日本を名実ともに「アジアの一等国」に押し上げました。しかし、その特需の熱気が収まると、今度はその反動で、日本はもちろん世界の国々は深刻な経済恐慌におちいりました。欧米先進国は植民地を拡大し、ブロック経済によって国益を確保しようとしました。その一方で、資源のない日本も中国・満州に活路を見いだそうとします。ところが、アジアに植民地を求める欧米諸国と対立し、日本は国際的に徐々に孤立していきました。アメリカと日本はフィリピンや中国での権益をめぐって敵対する関係でした。

折しもアメリカはヨーロッパでの英・独・ソの対立に巻き込まれ、欧州での紛争に不干渉の立場をとるモンロー主義との間に揺れていました。ヨーロッパでの戦火とは無縁だったアメリカ国民に、ヨーロッパにおけるアメリカの参戦をいかにして納得させるか。ときのルーズベルト大統領は腐心したといいます。ドイツ軍を挑発するアメリカ。しかし、ドイツは見透かしたかのように挑発に乗ってきません。アメリカはそのドイツと同盟を結んでいる日本を戦争に巻き込み、アメリカがヨーロッパに参戦する口実を得ようとしました。

第二次世界大戦の直接の引き金となったドイツのポーランド侵攻には石油確保という側面もありました。ドイツも日本と同様に石油資源に乏しかったのです。日本はマッカーサーが後に証言するように、資源らしい資源をほとんどもたない国です。とくに石油の多くはアメリカからの輸入に頼っていました。その石油をアメリカに禁輸されることは国家の存亡に関わります。しかも、中国・満州からの撤退そのものも求められました。そうしたアメリカからの圧力に屈することができなかった日本は開戦を決意します。

開戦当時の日米の国力の差は圧倒的でした。アメリカは大国としての地位を確固たるものにしていました。国民総生産は日本の12倍、石炭の国内産出量は日本の9倍、石油にいたっては日本の780倍です。これといった資源をもたない日本が勝てる相手ではありませんでした。しかし、帝国海軍連合艦隊司令長官となった山本五十六はアメリカに二度も留学経験をもつ知識派。その山本が日米の国力の差を知らないはずがありません。しかし、山本五十六はアメリカの政治に対する世論の影響力の大きさも同時に知っていました。

あれほど日米開戦に反対していた山本が、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮を執ることになったのはそのためです。つまり、全面戦争においては日本に勝ち目はない。しかし、もし日本が真珠湾での圧倒的な勝利をおさめ、アメリカの主力艦隊に大きな打撃をあたえることができれば、アメリカ国民の厭戦気分はさらに高まり、日米戦争を早期終結するための端緒ができるかもしれない、と山本は考えたのです。しかし、真珠湾にはそのアメリカに打撃をあたえるはずだった米海軍の主力空母がいませんでした。

山本五十六は誰よりも早く「これからの戦争はもはや巨大戦艦の時代ではない。圧倒的な航空戦力こそ必要」ということに気が付いていました。ですから、真珠湾にアメリカ海軍の主力となるべき空母がいなかったことに落胆します。しかも、真珠湾に大規模な攻撃を仕掛けてから1時間も経ってようやく米側に宣戦が布告された。山本は懸念していた事態になったことに気づきます。そして、周囲に「不意打ちになってしまった今回の攻撃は、眠れる巨人を起こすことになってしまったかもしれない」と漏らしました。

1970年に公開された映画「トラ・トラ・トラ」では、真珠湾攻撃前後の日米の駆け引きを史実に基づいて描いています。そのリアルさは、実際に攻撃に関わった日米双方の関係者をうならせるものだったといいます。この映画が作成された当時、私は小学生だったため映画館で直接観ることはできませんでした。しかし、その後、中学生になってTVで観て以来、再放映されるたびにテープレコーダーに音声を録音し、気に入った台詞を繰り返し覚えたものです。そのくらいこの映画のスケールの大きさに魅了されました。

「なぜ日本はアメリカとの無謀な戦争をはじめたのか」と疑問に思う日本人は意外と多くはありません。疑問を感じたとしても、真珠湾攻撃がときの大統領ルーズベルトが日本を挑発した結果だという見方を荒唐無稽と一蹴する人もいます。しかし、ルーズベルトの前大統領であるハーバート・フーバーが回想録「裏切られた自由」で日米開戦はルーズベルトに責任があると述懐しています。また、コロンビア大学教授で政治学者のチャールズ・ビアードが著作「ルーズベルトの責任」でも同じような主張を展開しています。

真珠湾攻撃の直前、開戦を回避するための日米交渉が決裂します。それは日本側が明らかに受け入れられない条件をアメリカが突きつけてきたからです。その最後通牒ともいえる公式文書「ハル・ノート」の作成に携わったハリー・デクスター・ホワイトはソ連共産党・コミンテルンのスパイでした。それはソ連崩壊後に公開されたヴェノナ文書で明らかになっています。ドイツと日本による挟み撃ちにあうことを恐れたソ連およびコミンテルンが、日本をアメリカと戦わせるように工作したのではないかと考えられているのです。

近衛文麿も実は(ルーズベルトと同様に)社会主義者だったのではないかと言われています。コミンテルンの間接的な影響を受けていたのではないかというものです。近衛は日米開戦を決断した総理大臣です。また、近衛文麿の側近である尾崎秀実も、日本軍が中国との泥沼の紛争に巻き込まれる大陸進出を推し進めた人物として知られています。尾崎は後にゾルゲ事件で逮捕され、ゾルゲとともにコミンテルンのスパイだったことがわかりました。取り調べは近衛文麿にも及びましたが、日米開戦によってうやむやになっています。

若き日の近衛文麿は、マルクス経済学を学ぶため、進学した東京帝国大学を退学して京都帝国大学に転学しています。また、藤原氏北家につながる名門の出である近衛は、昭和天皇に複雑な感情をもっていたともいわれています。つまり、あえて日本に敗戦をもたらし、天皇を皇室もろとも日本から排除する「敗戦革命」を画策していたのではないか、というのです。事実、日本の敗戦が決定的になったとき、近衛は「天皇には連合艦隊の旗艦に召されて、艦とともに戦死していただくことも真の国体の護持」と側近に語っています。

映画「トラ・トラ・トラ」にはこんなシーンがあります。ハワイ上空で真珠湾をめざす帝国海軍の攻撃隊は、飛行訓練を受ける民間機と遭遇します。日の丸をつけた多数の零戦や九九式艦上爆撃機、そして九七式艦上攻撃機に取り囲まれているのに驚いて急降下する訓練機。それを冷静に見つめる日本軍の搭乗員。日本軍は民間人の犠牲を最小限にとどめつつ最大の戦果を得るため緻密な計画と訓練を繰り返しました。その結果、この攻撃が大規模であったにもかかわらず、民間人の犠牲者は40名足らずだったといわれています。

その第一次攻撃のあと、いつまでも第二陣を発艦させない第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、あらたな攻撃をしないまま日本にもどることを命じます。旗艦で報告を待っていた山本五十六は、参謀に「南雲長官に攻撃命令を」と進言された際に「南雲はやらんだろう」と言ったとされます。そして、ハワイからの日本軍の撤退については南雲中将の判断を尊重します。南雲中将は山本五十六と同じように、もともと真珠湾への攻撃そのものに反対していました。そんな南雲の思いを山本は理解していたのです。

映画「トラ・トラ・トラ」にはそのときのやりとりを描いたシーンがあります。「針路反転帰途につけ」の信号旗を掲げたとき、南雲中将が参謀達に語る、日本の行く末を暗示するかのような台詞です。

南雲忠一(第一航空艦隊司令長官):「残念ながら敵空母は真珠湾にはいなかった。その現在位置がわからない以上、索敵に限られた燃料を消費することはできん。また、敵潜水艦が我々を捜し求めていることも忘れてはならない。今までが幸運だったのだ」

源田実(第一航空艦隊航空参謀):「しかし、攻撃は反復しなければなりません」

南雲:「違う。我々の任務は完全に達成されたのだ。このかけがいのない機動部隊を無傷のまま日本に連れ帰ることは私の義務である。戦いは今はじまったばかり。まだまだ先は長い」

実はここに登場した源田実は、私が大学生のころまで参議院議員をしていました。若いころの私はどちらかというと左翼的な思想を持っていましたが、その私でさえも歯に衣着せない彼の「正論(中国との国交回復の代償として台湾と断交することに毅然と反対した数少ない国会議員でした)」には一目置いていました。源田はこの映画「トラ・トラ・トラ」を制作する際の監修を行なったことでも知られています。実際に真珠湾攻撃に参謀として参加した源田実の監修だったからこそ感じられる緊迫感がこの映画にはあります。

真珠湾攻撃の圧倒的な戦果に沸く司令官達を前に公室を去る山本五十六には笑顔がありませんでした。その彼の表情はまるでこれからの日本を憂うかのように陰鬱でした。このシーンが、当時中学生だった私にとって一番印象的だったことを覚えています。

山本五十六:「私の意図は、宣戦布告の直後、アメリカの太平洋艦隊ならびにその基地を徹底的に叩き、アメリカの戦意を喪失させるにあった。しかし、アメリカの放送によると、真珠湾は日本の最後通牒を受けとる55分前に攻撃されたと言っている。アメリカ人の国民性から見て、これほど憤激させることはあるまい。これでは眠れる巨人を起し、奮い立たせる結果を招いたも同然である」

真珠湾攻撃での大勝利の後、日本は東南アジアの権益を確保することに成功します。それは戦争を継続するための資源を得る重要な戦果でした。ところが、昭和17年6月、真珠湾攻撃で空母を逃した失態を挽回するため、日本軍はミッドウウェーで再びアメリカ海軍に挑みます。しかし日本は大敗北を期し、日本海軍は逆に主力となる複数の空母を失います。それがその後の作戦に大きく影響して、以後、日本はアメリカに苦戦を強いられ、徐々に追い詰められていきます。山本五十六も昭和18年4月に搭乗機が撃墜され戦死します。

日本は総力戦研究所が予想したとおりの末路をたどります。昭和天皇はもちろん、山本五十六や南雲忠一らが反対していた戦争がなぜ起こってしまったのか。当時は戦争をあおるマスコミの世論操作も大きかったと聞きます。とはいえ、国民ひとりひとりが世の中のながれに流されず、自分のあたまで、ことの是非を考えていれば結果は違っていたでしょうか。今振り返ると、全世界を覆い尽くす戦争への大きな時代の波といったものが当時にはあったように思えます。そして、その波は今も影響しているように思えてなりません。

今日はそんなことを考えていました。是非、みなさんも映画「トラ・トラ・トラ」を見て下さい。そして、あらためて昭和天皇の開戦の詔勅を読んでみて下さい。過去を振り返ることは未来を考えることです。

 

歴史の転換点

今回の原稿は、いつも当ブログを読んでいただいている、アメリカ・カリフォルニア州在住の日本人Yokoさんの「短歌通信」に掲載されたものです。
混沌とした現在の世界情勢、ならびに世界各地で勃発する戦争と争いについて感じたことをまとめています。Yokoさんのご了解を得てこれを掲載します。
ご自身の思想・心情と異なった内容によって気分を害された方にはあらかじめお詫び申し上げます。

******************** 以下、本文

1991年も終わろうとする12月末のことでした。札幌のアパートの自室で私は、モスクワ・クレムリン宮殿の丸い屋根に掲揚されていた鎌と槌、五芒星の赤色旗が降ろされるのをTVで見ていました。ソビエト社会主義共和国連邦がついに消滅したのです。人民に自由を許さず、反体制には粛正を繰り返す一方で、政権は腐敗し、経済運営はもはや修復不能なほど深刻になっていたソ連。国民に行き場のない閉塞感をもたらしていたその共産党一党独裁の国家は静かに幕を下ろしました。

ベルリンの壁が崩壊したのはその2年前。あれほど強固で高く、そして冷たい壁が、東西のベルリン市民の手で壊されていく光景に私は心の中で「歴史の転換点だ」とつぶやきました。壁につるはしを振り下ろす人たちのまなざし、そして、分断されてきた東西ベルリンの市民が抱き合って歓喜する姿は、冷戦が終わったことを実感させるものでした。それからほどなく世界中の社会主義諸国を支配していた超大国ソ連が瓦解するとは想像だにしていませんでした。

経済の低迷が続き、人民に厳しい生活が強いられる中、短期間で繰り返される権力闘争。それはまた共産主義の限界をも意味していました。そんなときに「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を掲げ、西側諸国との相互依存、他の社会主義諸国との対等な関係を目指そうとゴルバチョフがソ連共産党の書記長になります。彼にはこれまでのソ連の指導者にはない魅力がありました。ソ連の国民はもちろん、東欧諸国の国民も、西側の指導者たちでさえも期待と希望をもったに違いありません。

しかし、「自由」を知らない共産主義国家の人民にとって、ゴルバチョフが導入しようとした「自由」はまさに「禁断の果実」でした。国民にゴルバチョフは、極楽の蓮池の縁に立って地獄に蜘蛛の糸を垂らす釈迦に見えたかもしれません。自由を求める声はやがて人間の強欲な本性をあらわにし、その大きなうねりを利用して権力を得ようとしたエリツィンが登場。彼は湧き上がる国民のエネルギーを利用し、ゴルバチョフを窮地に追い込みました。そして、ついに世界のスーパーパワー・ソ連が倒れたのです。

ソビエト共産党が消滅し、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊。そして、東欧の独裁国家の指導者が人民の力によって次々と追放されていったとき、私は「これで自由で明るい世界がやってくる」と思いました。世界革命の名のもとに何百万人もの自国民を粛正し、圧政によって人民の自由を奪い、徹底した秘密主義によって西側と対峙していたソ連こそが諸悪の根源だと思っていたからです。ソ連の崩壊によって東西の対立はなくなり、真の民主主義を世界中の人々が享受できるものと楽観していました。

しかし、現実は予想していた以上に厳しいものでした。自由を奪われ、抑圧されてきた国民に鬱積したエネルギーは、一気に国家を飲み込みながら東側社会を大きく揺さぶりました。独裁的な権力によってなんとかまとめられてきた国々の「パンドラの箱」が開けられてしまったのです。ソ連という後ろ盾を失った為政者が消えて国内がまとまるほど問題は単純ではありませんでした。宗教の対立や利害の衝突によって混乱は極まり、社会主義だった国々の多くでは今もなお政治的に不安定です。

 

 

私は「歴史的事実を現在の価値観で判断するのは間違い」だと思います。それは事後法で裁くようなものだからです。人類はこれまでの過ちを乗り越えて進歩していかなければなりません。過去にとらわれることは歩みをとめることです。その一方で、過去を振り返らないことは同じ過ちを繰り返すことにもつながります。最大多数の最大幸福を実現するため、人類が過去に犯した過ちを振り返りながら、英知を集めて過去の過ちを乗り越えていくべきなのです。

今、ウクライナでは大規模な戦争が続いています。ウクライナにはチェルノーゼムと呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「東ヨーロッパの穀倉地帯」ともいわれる世界有数の小麦の大産地になっています。南部のクリミア半島は温暖な保養地であると同時に軍事的な要衝でもあり、東西ヨーロッパの緩衝地帯として政治的に常に不安定な場所となっていました。ウクライナはかつてはキエフ公国という大国として栄えましたが、異民族の侵入をたびたび受け、モンゴル来襲をきっかけにその中心はモスクワに移ったのでした。

ロシアの大統領プーチンがウクライナを「特別な場所」というのはこのような背景があるからです。しかも、歴史的にソ連の一部だったころの影響で、ウクライナの東部にはロシア系の住民が多く住んでいます。東ウクライナに住む住民の30%あまりがロシア人なのです。ウクライナはロシアからヨーロッパに送られる原油や天然ガスのパイプラインの中継基地であり、ソ連時代から天然資源にまつわる利権が存在しています。そして、今般の戦争にその利権が暗い影を落としています。

米国バイデン大統領の息子ハンター氏がそのウクライナの大手資源会社ブリスマの取締役を務めていたことが知られています。しかもそのブリスマの不正を追及しようとしたウクライナ検察にバイデン大統領自身が圧力をかけたともいわれています。ソ連国内の国営天然資源会社の多くが、ソ連崩壊後、米国のユダヤ資本に買収されました。ウクライナに誕生した財閥もその多くがユダヤ系ウクライナ人によるものであり、ウクライナの天然資源の利権にも米国のユダヤ資本が深く関与しているのです。

東西の冷戦が終わろうとしていたとき、ソ連ゴルバチョフと米国ブッシュ(父)との間で「ウクライナにNATOは一切関与しない」との約束が密かにかわされました。しかし、その約束は徐々に反故にされ、近年、ウクライナのEUとNATOへの加盟が検討されるほどになっていました。2000年にロシアの大統領になったプーチンがまず着手したのは、米国のユダヤ資本から旧ソ連の国営企業を取り戻すことでした。それをロシアに対する脅威と感じたからです。

それはまたウクライナのEUやNATOへの接近も同じでした。今のウクライナ戦争にはそうした背景があります。プーチンがあれほどウクライナに執着するのは単なる領土的な野望からではありません。もちろん、武力によって現状の国境を書き換えようとすることは許されません。今回の戦争に対する責任はロシア・プーチンにあることは明らかです。しかも、ロシア軍の非人道的な行為については国際法上も、あるいは近代国家としてのマナーからいっても弁解の余地のない蛮行です。

「ウクライナはもともとロシアの一部」といったところで、現在の国境の適否を歴史に求めても結論は出ません。歴史のどの時点を起点にするかで変わってくるからです。現在の国境をとりあえず保留にした上で、国家間の信頼と友好を築いて平和的に解決するという方法しかないのです。それには長い年月がかかります。もしかすると永遠に解決できないかもしれない。しかし、だからといって国際紛争を解決するために、まるで中世のような野蛮な方法を選ぶのは近代国家ではありません。

 

 

最近再燃したイスラエルとハマスとの戦闘も同じです。ユダヤの人々にすれば、パレスチナはかつての自分たちの王国があった場所。神から与えられた特別な場所、「約束の地」です。エルサレムにはユダヤ王国の城壁の一部が「嘆きの壁」として残っています。一方、イスラム教徒にとってエルサレムはムハンマドが天に昇っていったとされる聖地であり、キリスト教徒にすればイエスが十字架にかけられた聖地でもあります。どの宗教にとってもパレスチナが特別な場所であることにかわりはないのです。

源流は同じとはいえ、今や異なる宗教となってしまったユダヤ教とイスラム教、そして、キリスト教を交えた信者間での争いが絶えません。しかも、信仰の名の下に人の命が軽んぜられているかのような対立は、日本人には理解しがたいところではあります。しかし、今のパレスチナの問題がここまで根深く複雑なものになったのはイギリスの「三枚舌外交」と呼ばれる大国の傲慢さのせいです。アラブ人やユダヤ人と別々に交わした、パレスチナの帰属をめぐるイギリスの不誠実で不道徳な約束が原因なのです。

古代から常に周辺諸国の侵略を受け、異端の奴隷としての身分に甘んじていたユダヤ人。世界中にディアスポラ(離散)して約2000年。第二次世界大戦時のホロコーストを乗り越えて、1947年にようやく自分たちの国家イスラエルを神との約束の地であるパレスチナに建設しました。しかし、それまで住んでいたパレスチナ人、アラブ人との軋轢というあらたな問題に直面するのです。しかも、イスラエルは国連で定めた境界を越えて入植者を次々と送り出します。その数は今や40万人におよびます。

当然、両者の衝突は激化。近代国家としての歩みを進めるイスラエルに、パレスチナ人たちがまともに立ち向かえるはずがありません。イスラエルにゲリラ戦をしかけて対抗するパレスチナ人は次第に過激になっていきました。しかし、長い抗争の末、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長はイスラエルとの和平の道を選択しました。イスラエルと妥協することによってパレスチナ人の土地を守ろうとしたのです。しかし、パレスチナ人の土地とされた地域へのイスラエルの入植は続きました。

徐々に先鋭化し、過激化する反イスラエル運動はハマスに引き継がれました。その一方で、イスラエルとの共存を選択したパレスチナ人はファタハという組織を作ります。ハマスというとパレスチナ人を代表していると漠然と思っている日本人は少なくありません。しかし、ハマスを支持するパレスチナ人は10%足らずにすぎません。ハマスはもはやパレスチナ人を守るのではなく、イスラエルを駆逐するためのテロリストと化しているからです。多くのパレスチナ人は長い戦いに疲弊しています。

ハマスは世界中から集まるパレスチナへの資金で軍備を整え、指令を送る幹部たちは外国で優雅な生活をしているといいます。ガザ地区ではイスラエルからの攻撃に備え、軍事施設を学校や病院に作り、一般市民を人間の盾にしています。先日のイスラエルに対する攻撃でも、多数のイスラエルの一般市民を無差別に、恣意的に殺害しています。婦女子を陵辱し、子どもや幼子を無残な方法で殺している事例すらあります。その目的がどうであれ、一般市民を無差別に狙ったテロ攻撃が容認されるはずもありません。

マスコミの報道を見ていると、しばしばハマスの活動を肯定的に述べる「識者」がいます。それはあたかも「入植を続けるイスラエルが悪い」と述べているかのようです。それは一面で正しいかもしれません。しかし、一般市民を無差別に狙ったテロ行為はその理由、目的、事情の如何を問わず容認してはいけません。ハマスは国家ではありません。パレスチナ人の意思を代表する組織ですらありません。単なるテロリスト集団です。パレスチナに住む人たちとイスラエルの共存を望まない集団でもあります。

ウクライナの問題も、パレスチナの問題も、その正当性を歴史に求めても結論はでません。現在の価値観で過去の史実の善悪、適否を問うことはできないのです。ウクライナがかつてソ連の一部だった事実で今の戦争を正当化することはできません。イギリスの三枚舌外交によってパレスチナの地にイスラエル建国が強行されたからといってテロ行為も正当化されません。現状を現状として棚上げした上で、相互のよりよき未来に向けてどうすることが一番望ましいのか冷静に考えなければならないのです。

 

 

最近頻繁に「多文化共生」という美しいスローガンを見かけます。しかし、歴史的な背景も異なれば、民族としての価値観も異なる異文化が共存することがはたして可能でしょうか。そもそも多文化共生がうまく機能している国家がどこにあるのでしょうか。人種のるつぼと呼ばれるアメリカでさえも、その不幸な歴史を乗り越えることができないまま混迷を深めています。その混迷は今後さらに深刻化するだろうともいわれています。積極的に移民を受け入れてきたヨーロッパも異文化の共存が不可能である事例となりつつあります。

戦争や争いは異文化の衝突でもあります。同じ価値観を有していれば、利害の対立はさほど深刻なものにはならないのです。異文化が共存するのは、どちらかの数が圧倒的に多いときか、さもなければどちらかがどちらかに同化したときです。数が拮抗する異文化は共存できません。共産主義連邦国家・ソ連の崩壊は多文化共生の失敗をも意味しています。冷戦終結後の世界の混乱はグローバリズムの失敗だといえなくもありません。最近の世界に広がりつつある大国の覇権主義はこうした世界史の教訓に学んでいないようです。

今こそ、「多文化共生」という幻想を捨て、国家としての、あるいは民族としてのアイデンティティーを確立することが大切であるように思います。その上で国家同志がウィンウィンの関係を築くためにどのように協調していくかを考えるべきです。世界のこれまでの歴史はその方向性を示しています。また、そうした協調主義がお互いの民族性や文化を尊重することにつながるのではないかと思います。それこそが真の「多文化共生」なのではないでしょうか。

戦後の日本はさまざまな「争い」から逃げてきました。「歴史の転換点」ともいえる今、日本こそが世界の争いを政治的にも軍事的にも積極的に調停する国家として生まれ変わってもいいのではないか。そんなことを夢想する今日この頃です。

琴線にふれる街

以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

************ 以下、本文

「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。

理想の上司

ときどき「理想の上司は?」というアンケートを見かけます。その回答では歴史上の人物が挙げられたり、ドラマの登場人物や芸能人の名前が出てきたりとさまざまな「理想の上司」が登場します。実際に存在する(した)人かどうかはともかく、「理想の上司」とされた人たちにはある特定のイメージができていることがわかります。そして、アンケートがおこなわれた当時の人たちがどんな人物を求めていたのか、また、そのときの時代背景がどのようなものだったかがわかって面白いものです。

私自身、これまで何人かの上司のもとで働いて来ましたが、「理想の上司」といえる人にはなかなか出会うことはありませんでした。むしろ、その上司を物足りなく思ったり、ときにはそれらが無能さに感じられて愚痴ばかりこぼしていたように思います。とはいえ、よくよく考えてみると、現実の世界には「理想の上司」などおらず、「上司」とはそもそも部下が不満を感じる存在であり、煙たがられるような存在なのかもしれません(私自身が今「上司」になってみてそう感じます)。

とはいえ、「もし、あのとき『理想の上司』がいたら、もっといい仕事ができたかもしれない」と思ってしまいます。そんな私にとってNHKドラマ「男たちの旅路」に出てくる「吉岡司令補」は「理想の上司」のひとりかもしれません。吉岡司令補は特攻隊員の生き残り。戦争の傷跡を心に残しながら、若者を前に「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばかりません。このドラマが放映されていた頃、私はその「嫌われる若者」の一人でした。そんな私が吉岡司令補に魅力を感じるのはなぜなのでしょう。

ドラマ「男たちの旅路」の第一部の一話「非常階段」のときの吉岡司令補が一番格好よかったと思います。司令補の警備会社にはさまざまな若者がガードマンに応募してきます。吉岡司令補はある日、新人ガードマンの研修の視察に訪れます。そして、ガードマンという職業を甘く見ている新人たちに、少し手荒い方法でその「現実」を教えようとします。そんな吉岡に反発する若者と、司令補の能力は認めながらも彼のやり方に批判的な部下。彼を理解し、温かく見守るのは吉岡と同じ特攻隊員だった社長だけでした。

その吉岡司令補のもとに、あの研修で一番反発していたふたりの若者(柴田と杉本)が配属されます。仕事の内容は、自殺の名所となってしまったビルの警備。司令補に反感を持ちながらも、なぜか彼のことが気になる柴田は定刻通り、指示通りに警備につきます。一方、杉本はすべてにおいて吉岡のやり方に反発し、指示された通りに警備しようとしません。三人の心のすれ違いが大きくなる中、自殺願望をもった若い女性がビルに侵入してしまいます。三人は女性を必死に探し、ついに彼女を屋上で発見します。

三人をからかうように「自殺させて」とゴンドラを揺さぶる女性。なんとか自殺を思いとどまるように説得する司令補。「そんなに死にたきゃ勝手に死ね」と叫ぶ柴田。吉岡はそれに首を振って言います。「それはいかん。君を死なせるわけにはいかない。それが我々の仕事だからだ」。杉本はその吉岡に「こんなときにそんなずれた話しなんかするな」と怒鳴ります。ゴンドラから落ちそうになった女性に飛びつく吉岡。彼はなんとか女性を助けますが、涙ぐみながらその彼女をなぐりつけるのです。

私は「俺は若いやつが嫌いだ」という吉岡にも、自殺から救った女性をなぐりつける吉岡にもなにか愛情のようなものを感じます。若いころの私はどちらかというと柴田に近い青年だったかもしれません。吉岡司令補のやり方に否定的ではあっても、「吉岡がそうするのにはなにか理由があるはずだ」と感じていたのが柴田だったのではないかと今の私は思います。杉本もその後、徐々に吉岡に惹かれるようになり、その後一番の理解者になっていきます。そうした魅力をもつ人が「理想の上司」かもしれません。

もうひとり思い浮かぶ人がいます。それはドラマ「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵です。平蔵は実在する旗本の三代目。幼名は銕三郎(てつさぶろう)といいました。平蔵は自分の母親が誰かを知りません。そのためか、若いころは酒に溺れ、悪道たちと喧嘩に明け暮れる毎日。巷では「本所の銕(ほんじょのてつ)」として知られた暴れん坊でした。しかし、他の旗本たちとは異なり、火付盗賊改方となった平蔵は与力や同心などの部下たちと酒を酌み交わし、町方がとらえた盗人らに食事を振る舞ったりしたそうです。

ドラマ「鬼平犯科帳」の第一シリーズには第四話「血頭の丹兵衛」という回があります。このときの話しは人間・鬼平の面目躍如ともいえるものです。是非一度観ていただきたいのですが、とくに最後の峠の茶屋でのシーンは秀逸です。かつて血頭の丹兵衛という盗賊に仕えていた粂八。彼は若いころ「犯さず、殺さず、貧しきものからは奪わず」という丹兵衛の掟を破り破門になります。しかし、その丹兵衛が今では急ぎ働き(皆殺しにして手っ取り早く金品を強奪すること)を繰り返しているとの噂を耳にします。

市中では血頭の丹兵衛たちによるものとされる押し込み強盗が次々と起こっています。しかし、長谷川平蔵たち火盗改もその犯人を捕まえられずにいました。そんなとき、牢屋に収監されていた粂八が折り入って平蔵に話しがあると申し出ます。「あの急ぎ働きは丹兵衛の仕業ではない。本当の丹兵衛ならあんなむごたらしいまねは絶対にしない」というのです。そして、「丹兵衛の無実を晴らすため釈放してほしい」と頼みます。周囲が反対する中、鬼平は粂八を牢から解き放つことにします。

粂八の手柄で急ぎ働きの犯人一味が静岡の島田宿で捕まります。その江戸への帰途、平蔵と粂八は峠の茶屋でかつての大物の盗賊と出会います。その老人はすでに盗みからは足を洗っており、「近ごろのむごたらしい殺しや盗みがみんな丹兵衛どんの仕業になっちまって気の毒でしょうがねぇ」と嘆くのです。そして、粂八に「忘れるなよ。犯さず・殺さず・貧しきからは奪わず、だ」と去って行きます。その後ろ姿を見ながら平蔵はしみじみと言います。「おめぇのでぇ好きな血頭の丹兵衛は生きていたなぁ」。

火盗改の諜者(スパイ)になるかどうか迷う粂八。その彼に平蔵は言います。「俺の下で働くってことは、仲間をお上に売ることだ。裏切り者と呼ばれ、犬だとののしられ、正体がばれれば殺される。どこをとったって割にあう話しじゃねぇやな。俺と仕事をする気になったら江戸に尋ねて来い。そうでなけりゃ二度と俺の前に面出すな」。粂八はその言葉に諜者になる決心をします。それはまさしく鬼平の力強さと優しさ、厳しさと義侠心を感じてのことでしょう。リーダーはかくあるべきという見本です。

私は吉岡司令補のように厳しくなれませんし、長谷川平蔵のような包容力の持ち主でもありません。人の上司として働くようになると、人を動かし、使っていくことの難しさがわかります。誰からも好かれる人間が必ずしも魅力的な上司とはなりませんし、「聞く耳」を持っていても部下の言うとおりにしか動くことができず、自分のあたまで考え、想像力を働かして決断を下せない上司は、実は無能なばかりか、組織にとってむしろ有害だという事例があります。皆さんも改めて「理想の上司」について考えてみてはいかがでしょうか。

 

天皇誕生日(2)

 

****************「天皇誕生日(1)」から続く

終戦当時、多くの英霊が祀られていた靖国神社を取り壊し、ドックレースの会場にしようとする案が持ち上がっていました。敗戦後、少なくない日本人も天皇や皇室の廃止を、そして、靖国神社の解体を叫びました。皇室などいらない、国家神道が日本を戦争に導いたのだ、ということなのでしょう。しかし、国のために命を落とした日本兵たちの魂をなぐさめる靖国神社を守ったのは、実は日本人ではなく、他ならぬローマ教皇庁の神父達でした。「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に敬意を払う権利と義務がある。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等でなければならない」。今の日本人に大きく欠ける部分です。

極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で敗戦国日本の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニー少佐のことも忘れてはいけません。彼はアメリカ陸軍の現役軍人でした。勝った国が負けた国を裁くこの裁判は、いわば日本に戦犯国としての烙印を押すための形式的なものにすぎませんでした。ですから、日本人被告を担当する外国人弁護士の仕事ぶりは必ずしも誠実といえるものではありませんでした。裁判が単なる形式的なものであることを悟って帰国した者もいれば、手にすることのできる報酬額を聞いて「そんな額では引き受けられない」と帰国する弁護士もいたほどでした。

東京裁判は「法と正義」という弁護の核心とはまるで無縁であるかのような裁判でした。しかし、ブレイクニーをはじめとする何人かの弁護士達は、つい最近まで敵国の指導者だった人間の弁護のために法律家の名に恥じない活躍をしました。そして、祖国であるアメリカの陸軍長官が原子爆弾の使用を許可した証拠までをも提出しようとしたのです。原子爆弾は非戦闘員である一般市民を標的にする国際法違反の兵器だということの根拠でした。「原爆が国際法に違反するかどうかはこの裁判には無関係である」と却下しようとした裁判長。ブレイクニーらはそうした「不公正」と激しくやりとりをしたのです。

もしアメリカが国際法に違反する兵器を使用したとなれば、日本にはそれに対して報復する権利がある、というのがブレイクニーの主張でした。また彼は、日本が戦争の回避に努力したことも立証しようとしました。しかし、連合国側検事の主張は「日本が侵略戦争をしたという事実が本裁判の論点であり、回避しようとしたかどうか、最後通牒が遅れたかどうかは関係ない」と主張しました。それは、その弁論の過程で、1941年の11月末の時点でアメリカの大統領をはじめとする首脳部が、日本が戦争を企図していることを予測していたのがあきらかになったためでした。

ブレイクニーはさらに主張します。「戦争は犯罪ではない。歴史を振り返ってみても、戦争の計画やその遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。検察はこの裁判であたらしい法律を打ち立てようとしている。平和に対する罪は当法廷によって却下されなければならないのだ」、「国家の行為である戦争に対する個人の責任を問うことは法律として誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは戦争が合法的だからである。つまり、合法的な人殺しとしての殺人行為は正当化されるのである」と。その主張は理路整然として一貫していました。彼の精神は「法と正義」そのものだったといえます。

次の陳述はあまりにも有名です。「キッド提督の死に真珠湾攻撃にともなう殺人罪が問われるなら、我々は広島に原爆を投下した実行者の名前を列挙することができる。原爆の投下を計画した参謀長の名前も知っている。その国の元首の名前すらも、である。しかし、彼等が殺人罪を意識していただろうか。いや、していまい。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵のそれが不正義だからではない。戦争自体が犯罪ではないからだ。原爆の投下を計画し、実行を命じ、これを黙認した者がいる。そして、その者たちが裁いているのだ。彼等も殺人者ではないのか」。この言葉に日本人被告はどれだけ励まされたことでしょう。

東京裁判で弁護団は一貫して「この戦争は日本の自衛戦争だった」と主張します。しかし、連合国側は、「戦争主導者たち」を「平和の罪」と「人道の罪」という事後法(違法でなかった行為を、のちになって処罰するためにあらためて定めた法令)で裁きました。とくに「人道の罪」は、マッカーサーが真珠湾攻撃を「殺人に等しいもの」として追加させた罪状です。その一方で、ニュルンベルク・極東憲章にあった「一般住民に対する」という文言が削除されました。それは一般人を標的にした空襲や原爆投下を正当化するためともいわれています。結局のところ、最終的に7名の被告が死刑になりました。

そんな連合国側の、とくにマッカーサーの復讐劇ともいうべき東京裁判で、死刑の執行はあえて当時の明仁皇太子の誕生日にされました。しかも、被告の遺体は秘密裏に火葬され、その灰は家族にも知らされないまま横浜沖の太平洋上で散骨されました。そうしたことは一切報道されないまま、マッカーサーは戦後の日本が奇跡的な復興を遂げる「恩人」になっていきました。彼が日本を去るとき、沿道にはたくさんの日本人が別れを惜しむために押しかけたといいます。連合国最高司令官として彼が過ごした5年間は、昭和天皇の威厳と日本人の民度の高さに圧倒された期間だったに違いありません。

アメリカに戻ったマッカーサーは、1951年5月3日に米国議会上院の外交軍事合同委員会で次のように証言しました。「彼らは工場を建設することもでき、労働力を有してもいた。しかし、基本的な資材を保有していなかった。日本には蚕を除いて国産の資源というものがほとんど何もなかったのだ。欠乏していた多くの資源はすべてアジア海域に存在していた。もし、これらの供給が断たれれば、一千万人以上の失業者が生まれるということを日本は恐れていた。すなわち、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのである」。日本人として涙がでるような言葉です。

マッカーサーがこのように証言したのも、彼が「日本で最上の紳士」と評した昭和天皇との出会いが大きく影響したに違いありません。「自分はどうなっても構わない。どうか日本国民が飢えないようにしてやってほしい」という陛下の思いがマッカーサーの胸を打ったのかもしれません。その一方で、GHQは皇室と財閥が戦争遂行を支えたとして、それらを解体するために財産法を根拠に莫大な課税をかけました。当時の所有財産に対して90%を超える税率が課される大変厳しいものでした。11宮家が臣籍降下(皇籍を離れて一般国民になること)を余儀なくされた背景にはそうした経済制裁が関係していました。

終戦時の天皇家には当時の貨幣価値で37億円あまりの資産がありました。皇室は自らが所有する御料地(農地や牧場)などで食料を自給自足するとともに、徳川幕府が所有していた広大な土地を引き継いでいたからです。それらのほとんどがこの財産法によって徴収・接収されてしまいました。財産法によって徴収された税額はなんと33億円にもなりました。しかも、天皇家に残された4億円の資産のほとんどは新憲法によって国有となり、自由に使える手元金はたった1500万円ほどです。永きに渡って日本という国家の権威にあった天皇家はこのわずかな資産をもとに戦後の生活をスタートさせたのです。

昭和天皇が崩御されたときにも明仁皇太子殿下には相続税が課されました。その総額は4億円を大きく超えていました。国民と同じ権利ももたず、ある意味、人権すら制限されている皇族にも課税がなされているのです。皇室の資産は今も確実に減っています。ちなみに、皇族には健康保険すらありません。病気となれば、その医療費はすべて自己負担なのです。髭の殿下として有名だった三笠宮寛仁親王殿下が癌の治療をお受けになったとき、請求された多額の費用を退院後の講演料で支払うしかなかったことは有名です。そうした理不尽がおざなりになっていることに国民はもっと関心をもつべきです。

余談ですが、かつて明治天皇は御内帑金(ごないどきん:ポケットマネー)を使って貧しい人たちのための医療事業を興されました。今も全国にある済生会病院のもととなる恩賜財団済生会はそのひとつです。皇后の昭憲皇太后も困窮者のための慈恵病院(今の慈恵医大)の設立にご尽力になったり、赤十字病院の敷地としてご料地を貸し出し、御下賜金をも与えられました。かつて、慈恵医大や日赤病院の看護学校の入学・卒業式には皇族のご臨席があったのはそのためです。また、上野動物園は正式には「恩賜上野動物園」といいますが、1924年に昭和天皇(当時は皇太子殿下)のご成婚を記念して東京市に下賜されたからです。

戦後の昭和天皇は、新憲法にのっとって政治的な発言をお慎みになりました。まさに象徴天皇としてのお勤めをはたしておられたのです。その一方で、日本の安寧と五穀豊穣のため、祭司としてのお勤めも欠かさなかったそうです。国内外の公務と宮中祭事で多忙を極めた昭和天皇は、文字通り日本の復興と発展のために尽くされたといえます。もしかすると、先の大戦に対する国民への贖罪のお気持ちもあったのかもしれません。全国各地への巡幸もなさいました。晩年、病床におられた昭和天皇は、まだ訪れていなかった唯一の地、沖縄への巡幸を願われていたといいます。陛下にとって沖縄は特別な場所だったのでしょう。

昭和天皇の一生は、まさに日本のためにあったと思います。そして、その役割は十分にお果たしになったといえるでしょう。昭和天皇の大喪の礼の大雨といい、現上皇陛下のご結婚のときの晴れ晴れしい天候といい、嵐のあとにまぶしい日差しが差し込んだ今上天皇陛下のご成婚の儀といい、さらには今上陛下が即位された瞬間に突如虹が出現した令和の即位の礼といい、皇室にはいつも神がかった偶然が起こります。天皇陛下の皇祖皇宗は天照大神にさかのぼります。その神々しさの象徴が昭和天皇です。私にとって4月29日は、これからも昭和天皇陛下を追慕する「天皇誕生日」であり続けるのです。

 

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天皇誕生日(1)

今日は「昭和の日」です。「昭和の日」は2007年に、それまで「みどりの日」とされてきた昭和天皇の誕生日を、「昭和という激動の時代を振り返り、日本の将来に思いをめぐらせるため」に再制定された祝日です。現在、「文化の日」とされている11月5日も、昭和のはじめに「明治節」と定められた明治天皇の誕生日。日本にとって昭和以上に激動の時代だった明治を国民そろって追慕しようという祝日が「明治節」です。しかし、私にとっては、11月5日が「文化の日」であっても、4月29日は今でも「天皇誕生日」。「昭和の日」だと言われてもなかなかしっくりきません。

昭和、平成、令和と時代は移り、多くの日本人にとって、昭和という時代がなにか日本史のいちぶに埋もれていく、そんな感覚におちいることがあります。それは私が歳をとるにつれて、敗戦を機に日本の伝統や文化が異質なものに変わっていくような気がしているからかもしれません。現在の徳仁天皇陛下を「令和天皇」と呼ぶ間違いに気が付かない教員がいたり、マスコミは皇族の呼称を安易なものにし、軽々しく「雅子さま」「悠仁さま」と呼ぶ時代になりました。122回目の「天皇誕生日」となった今日、日本人がもっと知らなければならない天皇と皇室のことを少し書きます。

昭和天皇や皇室のことは何度もこのブログで書きました。それほどまでに昭和天皇のご存在は私にとって大きなものなのです。昭和天皇は多くを語らないまま崩御されましたが、その後、さまざまな歴史的評価がなされました。そして、それらを振り返ると、明治から大正、そして昭和という、日本が近代国家として発展していく時代とともに生きてこられた陛下の偉大さがわかります。世界には皇室のように2600年以上もの永きに渡って続いた王朝はありません。それは日本という「国家」がまさに皇室とともにあった証拠であり、と同時に、「権威と権力の分離」という世界でも希有な国家システムが日本に機能してきた証拠です。

昭和天皇がご誕生になった122年前、アジア諸国は次々と欧米列強の植民地になっていきました。また、有色人種が白人よりも劣った民族だとして蔑視されていた時代でもありました。そのような時代にあって、乃木希典が院長だった学習院に学び、東郷平八郎らから帝王学を教育された昭和天皇は、世界が弱肉強食の時代にあったことを理解されていたと思います。そして、日本を統治する天皇としてだけではなく、近代国家日本の国際的な地位を向上させる君主としての意識を高めたのではないでしょうか。その後、日本は文字どおりアジアの一等国として国際社会の表舞台を駆け上っていきました。

幼いときから昭和天皇(当時は皇太子)は、大日本帝国憲法や国際法について徹底的に教育されました。戦後、昭和天皇が記者会見で「自分を神だと思ったことはない」とお述べになったように、当時から天皇という存在は憲法に依拠した立憲君主であると陛下ご自身は理解しておられました。ですから、東京帝国大学の美濃部達吉教授が「天皇機関説」を発表し、ときの政府をはじめ多くの国民がこれを激しく批判して排斥する中、昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して次のように述べられました。「美濃部ほどの者が今、日本にいったい何人おるだろうか。ああいう学者を葬ってしまうことはすこぶる惜しい」。

昭和天皇にとって、天皇という立場は「欧米の国家元首や支配者としてではなく、国家の安全と平和、安寧と秩序を祈り、国民の幸福を願いながら国民を精神的に支える存在」ととらえていたことが「私の履歴書」に書かれています。実は、昭和天皇が若かりし頃、天皇が反対していた中国進出を軍部が強行し、支那事変に突き進んでしまったことに強い不満を表明されました。その責任を負う形で時の総理大臣田中義一が辞職しました。ところが、そうした経緯を西園寺公望は陛下に「立憲君主としていかがなものか」と苦言を呈しました。以後、昭和天皇は政府の方針に明らかな賛否を表明することはしなかったそうです。

しかし、そのことが、かえって日本を国際的に孤立させ、軍部を暴走させることとなったのも事実です。昭和天皇が抑制的な役割をはたす中、「二度だけ積極的に自分の意見を実行させた」と独白録で述べられた出来事がありました。そのひとつが昭和11年2月26日に陸軍若手将校らが決起して起こした「二.二六事件」です。当時の日本は世界的な大恐慌のまっただ中にありました。そして、国民にも鬱積した不満が蓄積していました。貧しい農村地域では娘の身売りがおこなわれ、富める者と貧しき者との格差が顕著になって、社会主義にその活路を見いだそうとする人々が増えていたのです。

軍部の中枢にも社会主義者がかなりいました。軍人だから皆が「右翼」ではなかったのです。二.二六事件を主導した皇道派の青年将校たちの精神的支柱となった北一輝こそまさしく社会主義者でした。彼等は天皇を中心とした社会主義(独裁主義)の国家を築こうとしていました。しかし、昭和天皇はその企ての矛盾を見抜いておられました。クーデターを容認すれば日本は分断され、皇祖皇宗から引き継いだ国体が瓦解してしまうことをご存知だったのです。昭和天皇は鎮圧を渋るいちぶの陸軍幹部に「朕、自ら兵を率いて鎮圧にあたる」と近衛兵(皇居を守る精鋭部隊)までをも動員する覚悟を思し召しになりました。

つい最近も、岸田首相を狙った襲撃事件がありました。昨年は安倍晋三前総理もテロともいえる凶弾に倒れるなど、あってはならないことが起こってしまいました。マスコミはそれらの犯人の背景を同情的に報道し、あたかもテロリストの動機を理解すべきだといわんばかりです。しかし、そうではありません。暴力で政治を変えようとする行為を絶対に認めてはいけません。その動機や理由に対する同情は不要であり、知る必要すらないのです。いやしくも日本が民主主義国家である以上、政治を変えるのは選挙で一票を投じること以外にはありえない。テロリストの不憫な生い立ちや生活環境などまったく関係ないことです。

二.二六事件が起きたとき、昭和天皇に拝謁した川島陸軍大臣は反乱軍の決起趣意書を読み上げようとしました。しかし、陛下は「そのようなものをなぜ読み上げるのだ」と激怒されたといわれています。つまり、昭和天皇ご自身はクーデターにいかなる事情・理由があろうと、これを許すわけにはいかないのだと考えておられたのです。決起趣意書には次のようなことが書かれていました。「思想は一君万民を基礎にし、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶であり、統帥権干犯や天皇機関説一派の学匪などの奸賊を誅滅して大義を正し、、、」。この檄文を無視したのは昭和天皇のまさに慧眼です。

昭和天皇が「自分の意志を実行させた」と述べられたもうひとつの出来事が「終戦の聖断」です。そもそも開戦時の日本と米国の国力の差は12倍と歴然としていました。昭和15年に政府直轄の組織として創設された総力戦研究所の試算でも日本の敗戦は決定的なものでした。常々、昭和天皇は日本とアメリカが協力して太平洋の平和と安全を築きたいとの希望をもっておられました。その意向をくみ、開戦回避に向けて働きかけていた木戸幸一の努力は実を結ばず、当初開戦に反対していた海軍の翻意によって「開戦やむなし」の結論にいたりました。最後までアメリカとの交渉を尽くすようにとの陛下の願いもむなしく、日本からアメリカへの開戦通告が遅れ、日米戦争は「奇襲」という形で始まってしまったのです。

開戦(宣戦)の詔勅を読めばわかるとおり、自分の意志に反して日米が開戦してしまったことを昭和天皇はとても残念に思っておられました。なんども推敲を繰り返した詔勅の文面には、昭和天皇の強い希望によって「今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん:争いごとのはじまり)を開くに至る。まことにやむを得ざるものあり。あに朕の志ならんや」の一文を入れることになりました。こうして始まった戦争は4年におよび、軍人・軍属の戦死者は230万人、国内外で犠牲になった日本人は80万人以上におよびます。しかも国際法に違反する形で一般市民を標的にした原子爆弾が広島と長崎に投下されたのです。

昭和天皇は開戦後に好戦的になったと吹聴する識者がいますがそれは間違いです。開戦直後の華々しい戦果は長くはもちませんでした。事前に総力戦研究所が試算したとおりの経過をたどったのです。戦況が芳しくなくなって、昭和天皇の弟君であられる高松宮もたびたび陛下に終戦の決断を上申されます。しかし、まるでそうした声に耳を貸さなかったかのような昭和天皇。実は陛下は東条首相をはじめとする軍部が内閣と統帥部の両者を抑えてしまった以上、立憲君主としてはなにもできないことをご存じだったのです。やがて誰もが終戦を決断できなくなってようやく昭和天皇の聖断が下ります。

終戦直後、日本にGHQが進駐してきました。そして、日本が二度と武器をとって戦う国にならぬよう、さまざまな方策がとられました。戦力の放棄をはじめとする憲法の改正などによって、教育、皇室のあり方をはじめとする日本の国体が大きく変えられてしまったのです。皇室や財閥の解体もそのひとつです。自身のフィリピンでの権益を奪われ、アメリカに逃げ帰ることを余儀なくされ、プライドを大きく傷つけられたマッカーサーは復讐心をいだいて横田基地に降り立ったといいます。執務室の椅子にふんぞり返えるようにして天皇の訪問を待っていた彼の胸の内はどのようなものだったでしょうか。

しかし、昭和天皇とお会いしたマッカーサーの変貌ぶりはご承知の通りです。かつて、第一次世界大戦でドイツ帝国の王がたくさんの財産を持って命乞いに来たことを彼は知っていました。「昭和天皇もまた同じように助けを乞いにくるはずだ」。そう思っていたことでしょう。しかし、目の前に現れた昭和天皇は違いました。マッカーサーに深々と頭をさげると「戦争の責任はすべて私にあります。将兵や閣僚、官僚などは私が任命した者たちであり、彼等に責任はありません。私の一身はどうなろうと構いません。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いいたします」とおっしゃられたのです。

このお言葉を聞いたマッカーサーは回想録にこう書いています。「死をともなうほどの責任。それも明らかに天皇に帰すべきとは思えない責任を引き受けようとするこのお姿は、私を骨の髄まで揺り動かした。その瞬間、目の前にいる天皇が個人としても日本で最上の紳士であることを私は確信したのだ」と。その一方で、多くの日本国民から、天皇陛下を擁護し、皇室の存続を望む手紙が届きました。それはマッカーサーの日本に対する冷え切った感情を溶かすのに十分だったようです。やがてマッカーサーは昭和天皇の処刑を望む多くの連合国側の意見を抑え、陛下に戦争責任は問わないことを決断します。

 

***********「昭和天皇と皇室(2)」につづく