前回のブログで紹介したゲーム「Ghost of Tsushima」の主人公、境井仁を見ていて脳裏に浮かんだ人物がいます。それは小野田寛郎元陸軍少尉です。皆さんもご存知の通り、小野田さんは陸軍中野学校を卒業し、帝国陸軍の残置諜者としてフィリピンのルバング島に潜入。日本の終戦を信じることなく任務を続けていましたが、1974年に捜索隊に発見されて日本に帰国しました。その小野田さんが、対馬を蒙古から奪還するためにひとり戦った境井仁と重なって見えたのです。
小野田さんが日本に帰国したとき私は中学生でした。当時、ルバング島にまだ日本兵がいるらしいことはニュースでたびたび報じられていました。戦後30年を経て、なおもフィリピンのジャングルに隠れていた日本兵とはどんな人なのだろう。私はある種の興奮を感じながら小野田さんの帰国を見守っていました。羽田空港で飛行機のタラップを降りる小野田氏を見たときの感動は今も忘れません。背筋をピンと伸ばした小野田さんはタイムマシンでやって来た「侍」そのものでした。
「Ghost of Tsushima」の冒頭に次のようなセリフがでてきます。数えきれない蒙古兵を前に、境井仁の叔父・志村候は八十騎の侍たちを鼓舞します。「ならわし、武勇、誉れ。それらが我らが道だ。我らこそ武士(もののふ)だ」と。私はこのセリフを聞きながら、1989年にNHKで放送されたトークドキュメント「太郎の国の物語」という番組で司馬遼太郎が語った「昔の日本人の心の中には身分に関わらず『武士道』という『電流』が流れていた」という言葉が思い浮かびました。
司馬遼太郎は「武士道とは主君(国家)への忠誠ではなく、自分に対する責任感に過ぎない」と言います。その責任感は使命感に裏打ちされたものだと言えるかもしれません。帰国した小野田さんは昭和天皇との謁見を辞退しました。それは「陛下から労いの言葉をかけられたら困る」という理由からでした。一兵卒として日本のために戦っただけだという自負があったからでしょうか。そうしたところに小野田さんらしい気骨さが感じられ、その意味でもまさしく侍だったなぁと思います。
小野田さんらしいエピソードをもうひとつ。日頃、感情を顔にあらわすことの少ない小野田さんが怒りの表情で語ったことがあります。それは平成十七年の終戦記念日に発表された総理大臣談話についてでした。終戦60周年を記念するその談話には「心ならずも命を落とされた多くの方々」という一文がありました。自分自身も戦争で戦い、戦後30年経ってもジャングルで戦闘を続けた小野田さんはその「心ならずも」という部分が受け入れられなかったのです。
***** 以下、小野田さんの言葉(一部修正あり)
一国の首長たるものが「心ならずも」と英霊に対して言葉をかけております。果たして私達は「心ならずも」あの戦争で命を散らしたのでありましょうか。私は国の手違いによってこの靖国神社に15年間お祀りしていただきました。しかし、もし私があのとき本当に死んでいたとすれば、「国のために我々が戦わなければ誰が戦うのか」、そういう自分たちの誇りをもって、力いっぱい笑って死んでいったのであります。私だけでなしに、私の仲間も皆そうであります。それがなんで同情の対象なのでしょうか。誇りをもって死んだ人に対して、なぜ黙って「ありがとうございました」と感謝の念を捧げられないのか。
***** 以上
小野田さんは悔しそうでした。ある人は志願で、またある人は招集によって戦場に駆り出され、南方のジャングルで、あるいは酷寒のシベリアで過酷な戦闘を続けた戦友。そんな彼らを思いながら、「お国のため、あるいは家族のため」に死んでいった英霊の気持ちを代弁していたのかも知れません。戦場に倒れた多くの日本兵にはあの「電流」が流れていたのだと思います。それを安っぽい同情で汚さないでくれと小野田さんは言いたかったのでしょう。
現代の日本人にも確かに「電流」が流れていたことを想起させることがありました。それは東日本大震災による原発事故のときのことです。世間では「東電憎し」「東電バッシング」とも思える心ない報道が繰り返されていました。ちょうどそのころ、原発事故を収束させるため、たくさんの東電社員・作業員が命懸けの作業をしていました。想像をはるかに越える大津波による全電源喪失。誰もが経験したことのないこの原発事故と東電職員・作業員との戦いが続いていたのです。
ある大手の新聞は「多くの職員が現場から逃げ出した」と報じました。その後、事故調査委員会の報告書が公表され、その報道が事実誤認であることが明らかになり、新聞社は記事を誤報として謝罪しました。当時の事故現場では高線量の放射能が飛び交う中で一進一退の状況が続いていました。このままでは職員や作業員全員を危険にさらしてしまう。そう判断した吉田所長は「最少人数を残して退避」と叫んでいたのです。「逃げ出した」という報道は悪意に満ちた表現だったのです。
吉田所長は「一緒に死んでくれる人を募ろうと思った」と後に心情を吐露しています。所長が退避命令を出し、多くの人が退避する中、「私は残ります」「おまえは若いからダメだ」というやりとりもあったといいます。 そんな現場に菅直人総理の非情な怒鳴り声が響きました。「撤退などありえない。覚悟を決めてやれっ」と。 押しつぶされそうな重圧といつ収束するとも知れない放射能の恐怖に耐えながら、吉田所長とともに69人の職員・作業員が現場に残りました。そのときの活躍が映画「Fukushima50」で描かれています。
危険極まりない現場で懸命の作業を続ける「Fukushima50」。責任感と使命感に突き動かされるように、黙々と作業をする東電の社員や作業員、あるいは消防や警察、自衛隊の人たちにもきっとあの「電流」が流れていたに違いありません。しかし、現場から離れた東電本店や政府・官邸の人たちにそうした「現場のリアル」が感じられていたでしょうか。彼らは安全な場所から吉田所長に「早くなんとかしろ」と怒鳴るだけでした。そして、それはあのときの一般国民もまた同じだったと思います。
司馬遼太郎は「太郎の国の物語」の中で「現代の日本人もそれぞれが『微弱なる電流』をもっているはずだ。今の日本には規範というものがない。だからこそ、魂の中にもっている『微弱なる電流』を強くすべき」と言っています。かつて三島由紀夫も「このままではこれまでの『日本』はなくなり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない、ある経済的な大国が極東の一角に残るだろう」と予言しています。司馬遼太郎の言葉は三島のそれと重なります。
「故きを温ねて新しきを知る」とは、年月を経て人間や国家が「進歩」するにはそれまでの歴史を正しく知ることからはじまる、という意味です。歴史を学ぶ意義はそこにあると思います。以前のブログにも書いたように、「歴史を良し悪しでとらえるのではなく、『正しい歴史』の経験と知識を共有し、未来に活かす」ことが大切です。失敗を繰り返すのは、過去(歴史)の失敗を振り返っていないから。明日の社会を今日よりも素晴らしいものにするために、歴史(過去)を振り返ることが必要なのです。