涙なき別れ

10月2日、父が亡くなりました。行年86才でした。
生前、お世話になりましたみなさまには父に代わりまして厚く御礼申し上げます。なお、亡父の葬儀は家族・親族にて執り行いました。
このたび四十九日の法要が済みましたので、今回は父のことを書きます。

3年前に脳梗塞になってからというもの、認知症も進み、父のからだは徐々に弱っていきました。退院して自宅に戻りましたが、杖を使わなければたちまち転びそうになるなど、足腰の衰えは誰が見ても明らかでした。ある日、案の定、散歩中に転倒。救急車でふたたび病院に入院しました。そして、運ばれた病院の検査で偶然「膵臓腫瘍」が見つかりました。その「膵臓腫瘍」は良性か悪性かははっきりしなかったものの、若いころに患った肺結核のせいでほぼ片肺状態だった父は手術ができませんでした。入院先の主治医は「ここまで早いステージで見つかることはあまりなく、肺に問題なければ手術をお勧めするところですが」と言ってくれましたが、年齢を考えれば仮に手術が可能であってもしなかったかもしれません。

「膵臓腫瘍」と診断された病院で主治医からの説明を受けた後、長男とふたりですでに購入してあった墓を掃除に行きました。なぜそんなことを思い立ったのかわかりませんが、この墓は購入してからそのままに放置されており、さぞかし埃をかぶっているだろうと思ってのことでした。でも、お墓は霊園の人が手入れをしてくれていたのか思いのほかきれいでした。息子とふたりで墓石をふきながら「この墓にもうじき父親が入ることになるんだろうか」などと考えていました。膵臓腫瘍の手術をしないという選択をしたこともあり、急性期の病院に入院していた父は別の病院に移らなければなりませんでした。私は自宅で母が面倒を看られるようになるまで父を入院させてくれる病院を探しました。

次の病院に移った直後に不思議なことがありました。「腫瘍が消えてしまった」というのです。この病院の外来に来ている膵臓腫瘍の専門医も「腫瘍はない」という意見でした。自宅に帰ってこのことを家族に伝えると、一緒にお墓を掃除した長男が「お墓をきれいにしたからかな?」と。入院中、何回か腹部CTをやりましたが、やはり父の膵臓に腫瘍はないとのことでした。この病院もまた療養型の病院ではなかったため、膵臓に腫瘍がないということになればいつまでも入院しているわけにはいきません。結局、グループホームに入ることになりました。自宅を離れてグループホームで生活することを父がどう思っていたのかわかりません。しかし、自宅で父親の面倒を看る母親の体調もときに思わしくなく仕方ない選択でした。

幸い、介護のプロのみなさんの力をお借りして、父も施設で穏やかに過ごすことができました。しかし、このころの父はほとんど歩けず、介助なしでは食事すらできなくなっていました。そして、突然、心不全となって再入院となりました。入院直後の父はかなり苦しそうでしたが、治療によって病状は次第に落ち着き、大好きな羊羹をもってきてくれとせがむまでに回復しました。とはいえ、すでに嚥下ができなくなっていたため、口からの飲食が禁止されて点滴のみという状態になりました。急変時の対応を確認する主治医には「蘇生は必要ない」、「苦痛を取り除くことを優先し、積極的な治療は望まない」という希望を伝えました。次第に黄疸と熱がではじめ、肝機能も悪くなりましたが、最小限の治療で経過を見るのみでした。

その後、父は少しづつ衰弱していきました。病室に見舞いに行っても、ほとんど話しをしなくなりました。黄疸が強くなり、どんどん痩せていく父。家族みんなでお見舞いにいっても、声を出したり、目を開けたりすらしなくなりました。それは父の最期が近づいている証拠でもありました。しかし、そうした父親の変わりようを目の当たりにしても私には淋しさや切なさ、悲しさや寂寥感といった情感は湧いてきませんでした。自分が薄情だからだろうかと思ったりもしました。祖父が亡くなったとき、あるいは叔父が亡くなったときには涙をこらえることができなかったのに、父親の死を目前にしてもなお淡々としていられる自分が不思議でした。「“若いころの父親”に復讐しているのだろうか」と思ったりもしました。

若いころの父はとても厳しい人でした。自分にも厳しい分、家族にもとても厳しい人でした。きれい好きで、家の中が散らかっていると仕事から帰宅したばかりであっても怒りながら掃除機をかけたりしていました。父はまた、外で嫌なことがあると家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。子どもの頃の私は帰宅した不機嫌な父親が怒り出さぬよう家中を掃除をして回ったものです。それでも父は「掃除をしていない」と怒鳴り散らし、ときに手を挙げることさえありました。そんな気難しくて自分勝手な父でしたから、一緒に遊んでもらったり、勉強を見てもらったりといった思い出は私の中にはありません。若いころの父は、歳をとるにしたがい丸くなっていった晩年の父からは想像できないほど怖い存在だったのです

「辛かった子供時代」を振り返ると父の嫌な思い出ばかりが浮かんできます。警察官だった父はストレスフルな仕事から解放されて帰宅してもそのストレスを解消することができず、家庭にそのはけ口を求めたのだと思います。父親が帰宅する時間が近づいてくると、いつも不安な気持ちになったものです。月に何回かある父の宿直の日だけは、どんよりとした気持ちから解放されホッとしていたのを思い出します。あのどん底の高校生時代でさえもそうでした。もがき苦しみながら必死に英語を勉強して受験した大学にあえなく不合格。予想はしていたとはいえ落胆していた私に父は「ダメなやつだな」と心ない言葉をあびせました。父なりの叱咤激励だったのかもしれませんが、さすがにこの言葉に私は打ちのめされました。

そんな子供時代、あるいは青年期を過ごしてきたせいか、自分にとっての父の姿は、年老いて穏やかに微笑んでいる父ではなく、かつての厳しくて自分勝手でいつも不機嫌だった父親なのです。だからこそ、父親が今まさに最期を迎えようとしているときにでさえも、喪失感のような淋しさを感じないのではないか、そう思っていたのです。その私を見ていた長男が、あるとき私に尋ねました。「父ちゃん、父親を亡くすときの気持ちってどういうもの?」と。私は息子にこう聴かれてハッとしました。それまであまり深くは考えていなかったからです。でも、この息子からの問いかけに、今まで感じてもいなかったこと、思い出しもしなかったことが次々とあたまに浮かんできました。私は、息子に次のようなことを話しました。

****** 以下、息子に話したこと

子ども時代の俺は本当に大変だったんだよ。もっと大変な子供時代を送った人もいるだろうけど比較の問題じゃないからね。俺がどれほど苦しかったかは誰にもわからないと思う。そんな苦しい中でよくここまで頑張ってきたなって自分で思うもの。そうした思いが強い分だけ親父を恨んでいたのかも。あからさまにそう感じていたわけじゃないけど。だから、親父が死のうとしているのに喪失感というものがないのは「オヤジへの恨み」があるからじゃないかって思ってた。つい最近までね。でも、今はそうではないかもって思うんだ。ほら、以前、親父は君たちに「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」って何度も言ってたでしょ。何度も何度も「すごい人なんだぞ」って。あれって、ひょっとして俺に謝っていたんじゃないかって思うんだよ。親父はこれまで俺をほめたことなど一度もなかった。「頑張れよ」の励ましの言葉さえもね。その親父が君らに繰り返し「お前たちのお父さんはすごいんだぞ」と言うのを聞くにつれて、俺にはだんだん「昔の俺を許してくれ」って謝っているように聴こえてきたんだ。

****** 以上

そういえば、まだ父が元気だったころ、母が昔のとんがっていた頃の父親の思い出話しをすると、父は「昔のことは言わないでくれ」と話しを遮ったそうです。家族に当たり散らしていた若かった頃の自分を思い出すことは、あの親父にとっても辛いことだったのかもしれません。そんな父が、子供時代の苦労や苦難を乗り越えて医者になった私をどう見ていたのか。それを尋ねてみたことはありません。しかし、老いていく父を目の当たりにした私は、その答えが「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」という父の言葉にあるのかもしれないと思うようになったのです。「すごい人なんだぞ」という言葉は、きっと私に向けられた父親なりの詫び方だったのではないか。私は次第にそんな受け取り方をするようになっていきました。

あれほどきれい好きだった父が、晩年、脳梗塞の影響か、はたまた認知症が進んだからか、ボロボロと口からものをこぼしながら食べるようになりました。いつも手元に布巾を置き、魚も身と骨をきれいに分けて食べていた父が、まるで餓鬼が食べものにしゃぶりついているかのような光景でした。そんな父を見て、私はあきれたように「どうしてこうなっちゃんたんだよ、オヤジ」と笑うと、父もまた私を見てゲラゲラ笑い出しました。私と父につられて母も笑いました。父親をふくめて三人で笑うなんて何年ぶりでしょう。今までなかったことかもしれません。私はホッとした気持ちになりました。そして、「これでいいんだ」と思いながら目から涙がこぼれそうになりました。その涙に父に対するわだかまりが消えていくようでした。

父親がそろそろ臨終を迎えようとしているとき、家族みんなで病室に見舞いにいきました。父親は顎で大きく息をしながら目を閉じています。いよいよその時がやってくるのです。でも、そんな気配を感じながらも病室に沈痛な雰囲気はありませんでした。私も、母も、妹も、家内も息子たちも、みんな淡々と父の最期を迎えようとしていました。私は父のまなじりにたまっている涙をふいてやりました。そして、まばたきもせずにうすくあいている眼を閉じてやろうとぬらしたティッシュをあてると父は「余計なことをするな」というように顔を横にふりました。「まだまだ元気はあるみたいだね」。嫌がる父を見ながら一同が笑いました。ベットに横たわる父を中心に、家族みんなが自宅にいるようなそんな錯覚におちいるほどでした。

その二日後、父は黄泉の国に向けて旅立ちました。父が亡くなったと妹から連絡があり、診療を中断して病院に行くと、すでに母親と妹、家内が駆けつけていました。しかし、彼女たちには笑顔がありました。私は父の亡骸に近づき、顔にかけられた白布をとると父が安らかな表情で寝ていました。私はまだぬくもりのある父の胸に手を当てながら「お疲れさまだったね」と言いました。涙はありませんでした。喪失感もありませんでした。でも、「お疲れさま」という言葉は、私の本当の気持ちでした。私はその時あらためて思いました。父の死に喪失感を感じなかったのは、父に対する復讐だったのではなく、年老いて弱っていく父を見ながら心から「お疲れさま」と声をかけてあげられる素直な気持ちになれたからではないか、と。

人の人生の価値は「長さ」ではありません。ましてや私の父親のように、自分の思い通りの人生を歩めた人の最期はまさに「お疲れさま」です。三十歳の人生にはその人なりの、六十歳の人生にはその人なりの、九十歳の人生にはその人なりの価値があり、すべての人が「お疲れさま」なのです。若い人の死にはやはり「無念」の思いは禁じえませんが、すべての人の死は残された人にいろいろな形で言葉を残していきます。生きるということはそれらの言葉を引き継いでいくということかもしれませんし、また、「死ぬ」ということはそういうことなのかもしれません。人の死は淋しいものかもしれませんが、必ずしも悲しいものばかりではありません。たくさんの死を見送って来た私は、自分の父親を亡くした今改めてそう感じます。

父の葬儀で私は会葬してくれた親族に挨拶をしました。しかし、その途中、私は涙がこみあげてきてしまい、しばらく言葉がでませんでした。でも、この涙は亡くなった父に対してではなく、挨拶に出てきた祖父の行(くだり)に感極まった結果です。以前にもお話ししたように、祖父は私にとって特別な存在です。祖父が亡くなったときのことを思い出すと今でも涙があふれてきます。会葬者の皆さんは、さぞかし私が父を亡くして傷心しているんだろうと思ったかもしれません。目の前で息子ももらい泣きをしていましたし。しかし、その時の私は父を穏やかな気持ちで見送ることができていました。泣いてしまったことを恥じながら、葬儀の後で息子達にいいました。「俺もお前たちに『ご苦労さま』って見送ってもらえるよう頑張るよ」と。

涙で途切れ途切れになってしまった挨拶で、私の言いたかったことが伝わらなかったかもしれませんから、改めて会葬者への挨拶を掲載します。

 旅だった父に心から「ありがとう」の合掌

 

************ 以下、葬儀での挨拶

【挨拶】

皆さまには、お忙しい中、父・章の告別式にご会葬くださり、ありがとうございました。

また、〇〇院のご導師さまにおかれましては、父の回向のため、遠くから足をお運びいただき厚く御礼を申し上げます。

父は六月二十日、突然、原因不明の心不全となり、病院に入院しました。

主治医の懸命の治療により一時回復しましたが、もともと膵臓に腫瘍があり、口から食事がとれず点滴管理がつづいたことなどで衰弱が進み、十月二日午前九時五十四分、黄泉の国に向けて旅立ちました。

私も職業柄、いろいろな患者さんを見送ってきました。そして、そのたびに悲しさに涙をこらえることができませんでした。下館のおじいさんを見送るときも、おじさん、おばさんを見送るときももちろんそうでした。

しかし、父の臨終の際には、涙があふれることはありませんでした。また、悲しいといった喪失感もあまり湧きませんでした。

私はふと父への想いを振り返ってみました。

若いころの父は、皆さんもご存知のとおり、とても几帳面で、厳しい人でした。家のなかではいつも不機嫌そうにしており、外で嫌なことがあると、必ず家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。

父の仕事が泊まりで、今日は家に帰ってこないという日は、子どもながらにホッとしたものです。子ども時代の思い出といえば、こうしたつらいことが多かったのです。

父の臨終に涙がなかったのは、このようなつらい過去があったからだろうか、と考えたりもしました。

しかし、その一方で、あのきれい好きだった父が、晩年、ぼろぼろと口から食べものをこぼしながら食べるようになり、それまで私たちと面と向かって話しをすることのなかった父が、一緒になって大笑いしながら話しをするようになるにつれ、これまで私の心の中に重く沈んでいたわだかまりが徐々に消えていくのを感じました。

父自身もまた、「昔のことは言わないでくれ」と、若かりしきころの自分を思い出したくない様子もうかがえました。

いろいろなことがあったにせよ、晩年、かつての厳しさはなくなり、少しづつ穏やかに、そして、おおらかになっていく父を目の当たりにしました。

そして、いいことも悪いこともふくめて、父の人生そのものは全体として幸せだったのではないか、自分の人生に満足しながら父は旅立つことができたのではないかと思えるようになりました。

私は今、ひょっとしてこの式場のどこかにいるかもしれない父に、心から「ごくろうさま」と言ってあげたい気持ちがしています。

そう考えると、父の臨終に涙がなかった本当の理由は、実はそこにあったのではないか。つまり、これまでのわだかまりをすっかり清算してお別れをすることができると私自身が確信したからではないかと思います。

これからは、私と妹、家内と子どもたち、みんなで力をあわせ、残された母を支えていきたいと思っております。

しかし、私達もまだまだ未熟ものばかりです。親戚のみなさま、ならびに〇〇院のご導師さまにおかれましては、どうぞ今後とも、ご指導いただければ幸いです。

以上、簡単ではございますが、家族の代表としてご挨拶とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。

 

 

徒然なるままに

以下の記事は2018年1月7日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。なお、震災時のレジュメの転載部分を除く前半の記事は一部修正してありますのでご了承ください。

******* 以下本文

このブログには努めて政治的なことは書かないようにしてきました。それでも敏感な人にはこのブログを読みながら私の考え方や価値観が鼻につくと思われた方もいるかもしれません。しかし、私は私なりに「イデオロギーによらず、世の中のながれに流されず、自分の手で調べ、自分の頭でなにが正しく、なにが大切かを考える」というスタンスを貫いてきたつもりです。その一方で、他人の考え方にも否定的にはならないようにし、いろいろな政治的スタンスも尊重するようにしてきたつもりでもあります。理想論に走らず、現実から目をそらさず、将来を前向きに考えながら意見を発信してきたとの自負がありますが、それでも人によっては私の言い方(主張の仕方)が独善的だと感じられるかもしれません。

それらを前提に言わせてもらえば、あの豊洲市場移転問題におけるここ数日の動き、あるいは国会で繰り広げられている稚拙な政治ショーには辟易します。あの不毛な騒動を見ながら、「本質的な議論をしろ、建設的で前向きな解決方法を考えろ、責任ある政治をしろ」という思いが込み上げてきます。震災のときの原発事故や放射能の危険性に対する報道もそうでした。国論を二分する課題にぶつかると、日本ではいつも不毛な論争、無意味な批判が繰り返されます。そして、世の中を混乱させ、人々を不安におとしいれるような印象操作があちこちに見られることも。そのたびに「政治や報道という、もっと澄んだ目で、問題を直視しなければならない領域の人達がなぜこうなるのだろうか」と情けなくなります。

以前にも紹介しましたが、あの震災での原発事故発生10日後に、私は「原発事故の危険性、放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけるレジュメを書きました。それはパニックになっていた知り合いの医師仲間や来院患者に配るためでした。ほぼ一週間ないし二週間に一度の割合でネットや本で調べてはまとめたことを彼らに発信したのです。このとき、ちまたを駆け巡る情報の多くがいかに不必要に人を不安におとしいれているか、混乱させているかがわかりました。人々が正しい情報を得るのに、マスコミが流す情報は必ずしも役に立たず、かえって人の不安感や不信感をあおり、人心を惑わしていることがよくわかったのです。正しい情報を得るためには、自分の手で調べ、自分のあたまで考えるしかないことを痛感しました。

自分の考えをもち、主張することには勇気が必要です。世の中のおおかたの意見と異なる場合であればなおさらです。それは人から批判され、ときに罵倒されることをも覚悟しなければならないからです。現に、当時、マスコミを通じて盛んに流されていた放射能の危険性にもっと冷静になるべきだと繰り返していた私は「名もなき批判」を受けたことがあります。ある日、私のクリニックのポストに一枚の紙切れが入っていました。そこには「患者の命を守るべき医者が、放射能の危険性にあまりにも楽観的すぎる。恥を知れ」という一文が殴り書きされていました。そんな投書がくるとは思ってもいなかった私はビックリ。「恥を知れ」という言葉が心にグサリと刺さりました。

それでも私はレジュメを書き続けました。当時のレジュメを今読み返すと、多少の間違いや思い込みはあったかもしれません。しかし、自分で言うのもおかしいのですが、全体的に内容は適切であり、ビックリするくらい冷静に書かれていたと思います。「名もなき批判」の投書はその一回限りでした。投書の主がその後もレジュメを書き続ける私にあきれてしまったからでしょうか。それとも私が書き続けたレジュメの内容を受け入れてくれたからでしょうか。いずれにせよ、あのときの世の中のながれに棹をさすような意見を表明したときの「名もなき批判」は、扇動的な情報を流し続けるマスコミの罪深さとともに、情報に翻弄される一般市民の恐ろしさを私の心に刻み付けることになりました。

振り返って今はどうでしょう。相も変わらずものごとの本質とはずれた扇動的な報道が平然となされ、ものごとの本質を冷静に考えようとせずいともたやすく流される市民。そして、そうしたマスコミと世論に流されるような軽い政治のおかげでいろいろな課題が八方ふさがりになっているように感じてなりません。豊洲市場の地下水問題だって当初から冷静に考えれば大した問題ではないことは明らかだったはずです。なのに、あれだけ世の中を混乱させ、人を不安にさせておいて、10か月を経て「豊洲移転」という当たり前な結論に落ち着くというだらしなさ。この問題もまた何年かすれば「あんなこともあったなぁ」で終わってしまうのかもしれません。こんなことを繰り返していていいのでしょうか。

これからあの震災の時に配布していたレジュメを掲載します。このレジュメを読みながら、今の社会のあり方を振り返っていただければと思います。人によっては不愉快な思いをするかもしれません。あるいは、あのときの不安な気持ちが甦ってくる人がいるかもしれません。しかし、当時の私がなにを考え、なにを伝えたかったを読み取っていただければ幸いです。とくに、あのときクリニックのポストに「恥を知れ」とのメモを投函した主には是非冷静になって読み直してほしい。特定の人や特定の考え方を批判するつもりはありません。私がこのレジュメを紹介するのは、ひとえに情緒的にならずに冷静に考えることの大切さを知ってほしいからです。

なお、批判のメイルをいただいても掲載はしませんし、反応もしませんので悪しからず。

 

***************** 以下、2011年3月19日配布のレジュメ原稿
「冷静になってよ」
▼冷静になってよ~く考えてみよう。現在の福島原発で起こっていることを。まず、原子炉はすでに運転を停止しており、コントロール不能な核融合反応が爆発的に起こった「チェルノブイリ」のようには絶対にならない。これについては一部「チェルノブイリが近づいた」などと民衆の不安を煽るようなことを言ったバカな助教(助教授ではありません)がいたし、彼に乗せられた愚かなマスコミもあった。しかし、すでに制御棒が挿入され、安全に停止した原子炉内では暴走して手が付けられなくなるということはない。問題は、原子炉の停止後も崩壊熱を続け、熱を発している燃料棒をいかに冷却するかと言うこと。むろん、冷却がまったくできなければ燃料棒が溶け出し、燃料棒を閉じこめている圧力容器を損傷して大量の放射線が空気中に放出されることもあるかもしれない。しかし、そのような事が仮にあっても圧力容器の材質が燃料棒と混ざって大規模な再臨界にはいたらないだろうとされている。つまり、ウランが溶けて塊となれば中性子が減速するための水がなく、結果として大規模な再臨界にはならないとされている。もちろん、燃料棒が溶け出す事態となれば、確かに一時的には粉じんのようになった大量の放射性物質が空気中に飛散する可能性はある。しかし、これとて一時的なことであり、拡散する中で放射線量はどんどん低くなって、100kmも離れると10000分の1になっていく。重要なのは一時的であるにせよ、人体にどの程度影響するかだろう。体内に吸引してしまう危険性ももちろん考えなければならないから。しかし、放射性物質を吸入する可能性についても、またその放射線量の問題に行き着くのだ。
▼今回の原発の問題で海外に逃げる、という人がいる。しかし、東京-NY間を往復すればそれだけで200マイクロシーベルトの被曝がある。検診で腹部CTをとれば10000マイクロシーベルトの被曝がある。胸部レントゲン写真1枚撮れば100マイクロシーベルト、胃のバリウム検査で3000マイクロシーベルト。これまで検診でこれらを全て受けてきた人はあっという間に13000マイクロシーベルトを超える被曝をしてきたことに。それなのにマスコミが大々的に報道する「1時間当たり2000マイクロシーベルト」に仰天するなんて。そもそもこの値は「1時間ずっとこの線量を浴びていたらという単位」であって、しかも瞬間最大風速みたいなもの。そう考えれば、この値のイメージがいかに拡大されているかということがおわかりいただけるだろう。もちろん安全だなどという気はさらさらない。24時間こんな環境にいたら健康にはよくないかもしれない。しかし、もしそうであってもせいぜい自然界から1年間に受ける2000マイクロシーベルト程度。ちなみに、一度に100000マイクロシーベルトを大きく超える被爆を受けると胎児に影響が出始め、ガンの発生率が健康な人より高くなり始めるとされている。また、生殖腺に一度に1000000マイクロシーベルトを被曝すると急性の放射線障害が出現し、遺伝病が自然発生率の2倍になるといわれ、2000000マイクロシーベルト以上で死亡者が出るとされている。しかもこれは「一度に被曝した場合」の話しですから念のため。
▼要するに、仮に燃料棒の融解と圧力容器の損傷があっても、それなりの距離で離れていて、常に高濃度の放射線量に暴露されていなければ、花粉症対策でおこなうようなマスクとうがい、できれば帽子をかぶって帰宅後は全身の塵と埃をはらえばいい、ということ。燃料棒の崩壊熱も崩壊するものが少なくなっていけば弱まっていく。要は「自然に温度が下がっていくにせよ、あらゆる方法をつかって燃料棒を冷却し、いかに燃料棒の容器が破損しないように時間稼ぎをするか」にかかっている。東電の職員・自衛隊は文字通り命をかけて、その作業に全力を傾けている。感謝こそすれ、怒鳴りつけるようなものでは決してない。とにかく冷却を、というのが結論。楽観的になれ、と言っているのではない。現状を冷静に、そして、客観的に理解し判断すべきだと言っている。この機に乗じて「反原発」の立場に立つ人達は原発の危機を煽ってくる。それは彼らの信念だから当然のことだろう。しかし、それが真実ではない。事実を見極めようとする姿勢が大事だということを国民として肝に銘じておこう。
***************** 以下、2011年3月26日配布のレジュメ原稿
「内部被爆」
▼連日、放射能の危険性をマスコミがあおっている。だから、雨が降っても、どの食品を見ても、すべてが放射性物質に汚染されているように思えてくる。しかし、放射線はこれまでも空から注がれてきたし、食物を摂取するかぎり微量の放射性物質がからだの中に取り込まれている。我々の日常生活は放射性物質とまったく無縁というわけにはいかないのだ。レントゲン写真やCTなどの医療行為を受ければ、その分放射線による被曝を受けている。飛行機に乗って南国へ飛ぶだけでも、そして、その南国で日光浴を楽しんだだけでも人は放射線を被曝している。第一、からだの中ですら結構な量の放射性元素が毎日生じているのを知らない人は多い。重要なのは「どのくらいの被曝を受ければ健康に問題が生じるか」ということ、その一点に尽きる。
▼放射線を体の外から浴びることを「外部被曝」という。その外部被曝による影響をあらわす単位が「シーベルト」。それに対して、放射性物質を体内に取り込んで放射線を浴びることを「内部被曝」という。その放射線の量をあらわした単位が「ベクレル」。食品の内部被曝許容量は、放射線の影響を受けやすい子どもを基準に決められている。なぜなら、放射線は細胞分裂の際に染色体にダメージをあたえ、細胞分裂の盛んな子どもに放射線の影響が出やすいから。大量の放射性物質をふくむ塵が拡散したチェルノブイリ原発事故では、当初、周辺の子供達の小児癌の発生が心配された。しかし、実際には小児の甲状腺癌だけが増えていた(ちなみに20歳以上で被曝した人では癌の発生は増えていなかった)。甲状腺にはヨウ素が取り込まれやすい。その中でもヨウ素131はウランが核分裂する際に作られる放射性元素で、体内に取り込まれると甲状腺にとどまって放射線を出す。でも、半減期が8日間のヨウ素1313ヶ月もすればどんどん減ってゼロに近づく。だから、一度、ヨウ素131で土壌が汚染されても、その影響がいつまでも残るわけじゃない。
▼先日、空中を拡散していたヨウ素131が雨にまじって降ってきた。それが集まってくる浄水場や河川を測定したからそれなりの濃度になった。でも、不安になる必要なし。地面に降り注いだ放射性物質は次第に拡散し、徐々に消えていくから。つまりは水道水の被曝量はいつも同じではない。一度、高濃度となったとしても、必ず濃度は正常範囲内になっていく。しかし、それは報道されない。被曝量が低いことにマスコミは興味ないから。水道水の放射性物質汚染については日本産婦人科学会が見解を出した。水1リットル当たり200ベクレル前後の軽度汚染水道水を妊娠期間中毎日1リットル飲むと仮定すると、その人が被曝する総量は1232 マイクロシーベルト。胎児に悪影響が出るのは50000 マイクロシーベルト以上。万がいち胎児が100000500000 マイクロシーベルトの被曝を受けても胎児の奇形は増加しない。結局、現時点で妊娠中・授乳中女性が軽度汚染水道水を連日飲んだとしても、母体ならびに赤ちゃん(胎児)に健康被害は起こらない。
▼とはいえ、こうも毎日放射能の話題が続くと「安定ヨウ素剤」を飲みたくなる人が出てくる。でも、ちょっと待て。この薬は被曝の24時間前あるいは被曝直後の服用が原則。おまけに服用して1週間もすれば効果がなくなる。日本人はもともとヨウ素を含む海草の摂取量が多く、ヨウ素131の影響を受けにくいとされる。だから、パニクって安定ヨウ素剤を飲んでも無駄。ましてやうがい薬などを飲めば有害なだけ。「あわてる何とかはもらいが少ない」とはまさにこのこと。発表される内部被曝量も、外部被曝量と同様に「最大瞬間値」。すぐに下がって問題なし、となる。高濃度の放射性物質に毎日24時間さらされているならまだしも、そんな環境は原発事故現場周辺でしかありえない。ましてや230kmも離れた我孫子では。冷静になろう。市販の水は影響を受けやすい乳児へ。子どもは国の宝。大人のあなたが先を争って水を買いに行く必要はないし、そうすべきでもない。
***************** 以下、2011年4月7日配布のレジュメ原稿
「炉心融解」
▼史上最悪ともいわれるチェルノブイリ原発事故では、核分裂反応がコントロールできなくなり暴走した。そして、超高温となって溶解した核燃料が原子炉を溶かして外部に漏れ、大量の放射性物質を土壌や大気にまき散らした。「炉心溶解(メルトダウン)」という言葉はこの事故によって広く知られるようになった。テレビ等での解説を聞いていると、この「メルトダウン」と「核燃料の溶解」を同じようにあつかっているが、あれは誤解や無用な不安を生む。「メルトダウン」と「核燃料の溶解」とは意味が違うからだ。炉心溶解とは臨界により超高温となった核燃料によっておこる炉心構造体(つまり、圧力容器や格納容器)の溶解のこと。つまり、単に核燃料が溶解したからといってメルトダウンになるわけじゃない。
▼核燃料に中性子を当てると核分裂が起こる。このとき、新たに中性子が発生するが、この中性子が新たな核分裂を引き起こす。核分裂と中性子の発生の量がねずみ算式に増えて次々と核分裂を引き起こした状態が「臨界」。ところが、その核分裂を引き起こすには中性子を減速させる必要がある。この減速の度合いを調節するのが中性子の吸収材でできた制御棒。原発ではこの制御棒を核燃料の間に抜き差しし、臨界状態をコントロールして核分裂時の莫大なエネルギーを発電に利用している。福島原発はM9の地震発生時に自動的に制御棒を核燃料の間に挿入して運転を完全に停止している。したがって、現在、原子炉の中にある核燃料はもはや臨界にはないし、制御棒が外れない限り再臨界はない。水はこうした中性子を閉じ込める働きをするが、同時に反射材としても機能する。99年の東海村の事故では核物質の臨界を防ぐ形状をした容器での作業を怠り、核分裂の頻度が高くなる形状の容器で作業。しかもその容器のまわりに置かれた水が中性子の反射材として作用してしまったために再臨界に達した。
▼要するに、簡単に「メルトダウン」といっても、核分裂反応を抑制する制御棒が炉心の核燃料集合体の中に完全に挿入されて運転が停止している福島原発ではそう簡単におこらない。炉心溶解がおこるためには再臨界がおこって爆発的な核エネルギーが生じることが前提となる。福島原発では燃料棒が一時的に水から露出し、再び水をかぶったため破損していると考えられている。そして、燃料棒内のウランの塊(ペレット)が水中に散らばって塊となっている。そして、そのペレットの塊は崩壊熱によって一部は溶解しているが、臨界が起こっていないため、その核燃料の塊の温度は圧力容器の材質の融点よりも低い値にとどまって炉心の溶解はないとされている。ただし、燃料棒が毀損している以上、圧力容器内の水には燃料棒内でできた放射性物質(ヨウ素やセシウム、プルトニウムなど)が大量に混入している。これがおそらくタービン建屋内の放射能汚染を受けた水と関連がある。今、福島原発で問題になっているのは、再臨界や炉心融解のことというよりも、多量の放射性物質が外部に漏れ出ていることそのこと。冷却を継続しないと放射性物質がさらに拡散するから。
▼以前、福島原発敷地内で中性子が検出された。これを再臨界によるものだとする意見もある。しかし、もし再臨界に至っているとすれば中性子がもっと大量かつ恒常的に出てくるはず。不安定なウランは自然に核分裂する(これを自発核分裂という)。現時点での中性子線に関する報道を見る限り、検出された中性子線は微量であり自発核分裂によるものとして矛盾はない。そもそも、福島原発では制御棒が挿入されているうえ、燃料棒が臨界のおこる間隔より狭く並べられ、中性子の減速剤である水に満たされている。再臨界にならない条件がそろっている。もし、水がなくなったとしても臨界に必要な「中性子の減速」がおこらないため核物質は連続的に分裂しにくい。ただし、水がない分だけ今度は中性子が飛んでくるが、それはそれで問題ではある。
▼以上のことから、福島原発では現時点でメルトダウン(炉心溶解)には至らない。結局、大量の放射能をまき散らす状態、つまり、核燃料が格納容器を破って外部に漏れる事態にはならない。問題は冷却水をいかに保つかという点にかかっている。とはいえ、あとで炉心が溶解していたことが明らかになるかもしれない。想定外はいつでもあるから。それでも、現在の情報を総合し冷静に分析すれば安心できる材料の方が多い。
***************** 以下、2011年4月14日配布のレジュメ原稿
「福島とチェルノブイリ」
▼福島原発事故が国際評価尺度の「レベル7」に引き上げられた。これはチェルノブイリ原発事故のレベルに相当する深刻な事態だとマスコミは騒いでいる。だからといって、福島での原発事故がより深刻になったわけじゃない。炉心が吹っ飛び、一気に大量の放射能を大気中にまき散らしたチェルノブイリ原発。炉心から放射能汚染水がダラダラと漏れている福島原発。「レベル7」になったのも、放出された放射性物質の量がレベル7の基準である数京ベクレル(数万兆ベクレル)を超えたから。原子力安全・保安院の推定で福島原発からは37京ベクレル(原子力安全委員会では63京ベクレルと推定)の放射性物質が放出されたという。しかし、チェルノブイリ原発事故はその10倍、しかも、たった2週間の間に放出されたのだから驚きだ。
▼チェルノブイリ原発事故では実験操作のミスで制御棒で核反応を止めることができなくなり暴走。圧力容器の圧力が異常に高まって爆発。1000tもある蓋を、そして冷却系の配管を吹っ飛ばした。そして、水がなくなり、冷却すらできなくなってさらに核反応が高まり、炉心溶解(メルトダウン)と二度目の爆発。炉心に流入した酸素によって火災を起こし、370京ベクレルもの放射性物質を世界中にばらまいた。結局、炉心に中性子の減速材である鉛やホウ酸を大量に投下して2週間ほどで核反応が収束。6ヶ月後に大量のコンクリートで固めた「石棺」が完成した。よく、「チェルノブイリが27年間で370京ベクレル、福島は1ヶ月で37京ベクレル。だから、福島の方が深刻」なんて煽る人もいるが、それは大きな誤り。チェルノブイリは約2週間で370京ベクレル。福島では1ヶ月で37京ベクレル。圧倒的にチェルノブイリの方が大事故だった。IAEAの事務次長も「福島原発事故とチェルノブイリとは別物」と会見でのべている。量的には「レベル7」であっても両者には雲泥の差があり、質的にはまったく異なる事故。
▼よく「原発の安全神話が崩れた」などというが、こんなものいわゆる「想定」の中での「神話」でしょ。科学とは経験を弁証法的に理論化したものだから、経験を超え、理論で予測しえないものを予言するのは無理。先日の国会質疑で、原子力安全委員長が「福島原発事故は想定外」と発言すると、議員席から「その想定が間違っていたんだろっ!」と下品な野次が飛んだ。科学的に想定しえないものの責任を取れといわれてもねぇ。「想定外」と「想定が間違っている」の違いもわからぬ頭の悪い議員にはあきれるばかりだが、福島原発付近ではチリ地震のときの4m弱の津波が最高記録。その記録をふまえて最大波高を5.7mと想定し、防潮堤を設置した上で10mの崖上に原子炉を建設したのに16mの津波が来た。そんな津波が来ると想像した人など誰もいない。「それを想定するのが専門家」などと簡単に言わないでくれ。専門家・科学者だからこその「想定外」。「絶対的な安全性」を強いられて、東電が苦し紛れに「想定内では安全」と言ったことを信じる方がおかしい。というか、みんなこんな神話など信じていなかったくせに。
▼飛んでくるわずかな放射能に大騒ぎしたのはついこの間。今度は「実は炉心溶解しているのを政府は隠している」なんて言っている人も。いくら詮索しても不安になるだけ。なんの役にもたたない。でも、福島原発事故が重大な事故であることにはかわりない。今でも放射性物質が冷却水に混ざって漏れているのだから。だからといって煽られるなんて馬鹿げてる。現時点で空気中に放出されている放射線量は極めて微量であり、これまで放出された放射性物質も日を追うごとに減少。「原発事故の深刻さに煽られるな」と繰り返しているが、「楽観的になれ」とは言ってない。よもや「今回の原発事故は深刻じゃない」などと言っているわけでもない。現状をできるだけ冷静に見て、正しい判断をしようということ。この一点だけ。
***************** 以下、2011年4月21日配布のレジュメ原稿
「放射能の危険性」
▼あまりにも楽観的なことばかりで恐縮だが、今回はちょっとだけ学術的なことをお話ししよう。科学とは客観的な事実(これをエビデンスという)を積み重ね、さまざまな現象を理論化・体系化して想定や予測をおこなう。したがって、エビデンスのない事実については何も語れないし、語るべきでもない。だから、「放射線は危ない」という誰もが疑わないことでさえも、きちんとあエビデンスで考えなければならない。
▼チェルノブイリ原発事故は、今、福島原発で進行中の事故をはるかに上回るほどの深刻な事故。しかし、その事故が周辺住民にどのような影響を与えたかを「エビデンス」という観点から見るとどうなるだろう。実は、事故から20年後におこなわれた国際会議で「いくつかの例外を除いて地域住民に癌の発生や死亡率の上昇を示す科学的証拠は見つからなかった」と報告された。つまり、周辺住民への健康被害は限定的だったのだ。でも、その例外とは何か。それは、事故処理にあたり大量の放射線の被曝を受けた人達と、汚染されたミルクを飲み甲状腺に被曝を受けた乳児。事故処理で大量に被曝し急性放射線障害を受けた人は273人。うち、死亡した人は20年間で47名だった。また、汚染されたミルクを飲んだ乳児は数万人。そのうち4000人ほどが甲状腺癌になった。しかし、その99%以上は治療が可能であって治癒。それ以外の健康被害は、癌をふくめてそのほとんどが証明されなかった。これが科学的事実。
▼今、「放射能は危険」とする根拠として用いられているのが広島・長崎の原爆被害の結果。爆心地で大量の放射線被曝を受けた人達に健康被害が出たことは周知の事実。しかし、日米共同研究では「低線量の被曝では癌の発生リスクはほとんどない」という結果が出た。ならばどこからが「低線量」なのか。それが難しい。なぜなら、「放射線量がゼロから増えるにしたがって正比例で健康被害がでる」という簡単なものではないから。今、もっともらしい指標に「1シーベルト(1000000マイクロシーベルト)=5%が死亡」というモデルがある。でも、これに従えば、人間ドックに行って胸部レントゲンや胃のバリウム検査、腹部CTを撮り、1000マイクロシーベルトの被曝を受けているとどうなるか。年間300万人が人間ドックを受診しているらしいから、もし「1シーベルト=5%死亡」という指標が正比例で成り立つとすれば「300万人×5%÷1000150人」もの人が死んでいることに。これってホント?原発より恐ろしいじゃないか。
▼一方で、飲み込まれたり、吸い込まれたりして、体内に長期的に存在し続ける放射性粒子(「ホットパーティクル」という)こそが本当に危険、という説もある。でも、放射性ヨウ素は1ヶ月もすればゼロになる。放射性セシウムにしても、カリウムやナトリウムと同じ種類の金属なので体から排出されやすく、生物濃縮はないとされている。政府は年間10ミリシーベルト(10000マイクロシーベルト)以上の放射線を浴びる学校での野外活動を制限した。その根拠は毎日8時間もの間3.8マイクロシーベルトの放射線をずっと浴びる量だそうだ。そんな学校どこにあるのだろう。少なくとも、今となっては20km圏内の学校でもなければそんな場所はない。
▼要するに、今、騒いでいることの多くには実は「エビデンス」がない。しかし、「エビデンス」がないから安全だということじゃない。「悲観的なエビデンス」がないのだからもう少し冷静になろう、ということ。こんな風に楽観的に言われるとかえって信じられないって?でも、これまで書いてきたような「これまで炉心溶融(核燃料の溶融はあっても圧力容器は破壊していない狭義のもの)に至っていない」「冷却が今後も続けば炉心溶融にはならない」とそっくり同じ事を官房長官が認めている。ほら、この官房長官の発言で「楽観的なエビデンス」がひとつ増えたじゃないか。煽られて悲観的にばかりなっていたら損ってこと。
***************** 以下、2011年5月17日配布のレジュメ原稿
「正しく怖がる」
▼地震直後の福島原発の状況が少しずつ明らかになってきた。そして、一部の原子炉の炉心が早い段階で「カラ炊き」状態になって、核燃料が溶けて圧力容器の底にたまった状態になっていたようだ。また、圧力容器のどこかに穴があき、そこから高濃度の放射性汚染水が漏れ、格納容器の損傷部分から外部へ流れている可能性が指摘されている。
▼これらの状況が「メルトダウン(炉心溶融)」として新聞やテレビで報道されている。しかし、国民は思いのほか冷静にこれを受け止めている。新聞の見出しの大きさにも関わらず、以前のようなパニックにはなっていない。このことこそがとても重要。地震直後の福島原発が、実はきわめて緊迫した状況だったことは限られた人だけが知っていた。これを情報の隠蔽だと批判する人もいる。しかし、あの騒然とした状況にあって、馬鹿正直に「メルトダウン」などと発表すればまさに「火に油」。それでなくとも混乱していた世の中は間違いなくパニックになっていたはずだ。要は、あのときにその情報を発表するメリットがあったかどうかだ。46日付けで広報した当院のコラムのタイトルは「炉心溶解(メルトダウン)は起こらない」だった。実際には定義からいえば「メルトダウン」になっていた。だから、このタイトルは誤りだったことは認めざるを得ない。しかし、問題はこの「メルトダウン」でなにが起こったか。さらに言えば、「メルトダウン」でどのようなことが起こりそうだったのか、ということ。そこを検証すれば、今回、福島原発の原子炉にメルトダウンが生じていたことの本当の意味が見えてくる。
▼では、今回のメルトダウンでなにが起こったのだろう。原発周辺の地域は今だに放射能汚染による健康被害が懸念されている。しかし、現在、30km圏内を除いて放射能による健康被害を心配しなければならぬほどの大きな影響は出ていない。地震直後の放射性物質の飛散は遠く首都圏までおよんだが、これは原子炉の水素爆発によるものであり、メルトダウンによるものではない。その後の放射性物質飛散の問題は沈静化しているし、今は原子炉から漏れ出る放射能汚染水のみが課題となっている。この漏水の原因にメルトダウンが関係しているかもしれない。しかし、チェルノブイリ原発事故のような深刻な状況にはなっていなかったし、今後もそうなることはない。では、チェルノブイリ原発事故のごとき深刻な状況とはどんなものか。それが「再臨界」の問題。再臨界とは核燃料の中で爆発的に核反応が増えていく状態。こうなれば膨大な核エネルギーによる熱を発生し、核反応で生じたおびただしい量の放射性物質を空気中に吹き上げる。しかも、この反応をコントロールする制御棒がないとなれば、まさにコントロール不能な状態になる。チェルノブイリ原発事故でのメルトダウンはまさにこのような状況だった。
▼しかし、福島原発は全く違う。地震直後に炉心では核燃料棒の間に制御棒が挿入されて原子炉は安全に停止していた。しかも黒鉛型だったチェルノブイリと違って再臨界しにくい設計となっていたこともあって再臨界はおこらなかった。そして、冷却水の注入が続けられた原子炉の温度は順調にさがり、地震直後から「カラ炊き」になった1号炉でさえも核燃料のほとんどが原子炉内にとどまっている。要するに、福島原発でも「メルトダウン」は起こっていたかも知れないが、チェルノブイリとは本質的に異なるということ。それはあたかも、福島原発事故の国際評価尺度がチェルノブイリ並の「レベル7」に引き上げられたが、「チェルノブイリ並の深刻さ」とは質的にも量的にも異なるということと同じ。言葉そのものではなく、その言葉の意味するところを客観的な情報に基づいて判断することが大切。放射能汚染水の問題はこれから徐々に深刻さを増してくるかもしれない。しかし、それとて確かな情報をもとに、その深刻さを冷静に見極めるべき。つまりは「正しく恐がる」ことがなにより重要だということ。

 

思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い(2)

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******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じたがなにかがなにかが違うといつも感じながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、その教授の言葉を遮るように助教授が言いました。「君の意志は固いのかい?」。「はい」、うなづく私。「それだったら再受験すべきだと私は思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくさ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ私の力になったことか。先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば回復手術しか方法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。

トラブルメーカー?

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年はいろいろと忙しく、また、法人の解散やらでバタバタしていたせいか、ブログの更新がなおざりになりがちでした。しかし、患者さんから「ブログを楽しみにしてます」なんてうれしいことをいわれると、定期的に更新しなければと反省することしきりです。今年は最低でも月二回は記事をアップしようと思っていますので、長くて暖かい目で見守っていただければ幸いです。

今、巷では日本相撲協会と貴乃花親方との確執が報道されています。協会に事件を報告しないまま警察に知らせたこと、あるいは協会からの「協力依頼」をひたすら拒否する姿勢をとり続けた親方に対して協会は理事降格の処分を下しました。世間からは親方を「協会からの圧力をはねのけ信念を貫いた無双」と称賛する意見がある一方、「偏屈で頭のかたいトラブルメーカー」と批判する意見も決して少なくありません。どちらかというと貴乃花と同じような頑なさがある私は、これまでの職場でも「組織の論理」に反発してはしばしば上司とぶつかったせいか貴乃花の気持ちがよくわかります。と同時に、「組織の論理」というか、日本相撲協会の立場も今はそれなりにわかるつもりです。

ある病院をやめる直接的なきっかけについては、このブログでもなんどか軽くとりあげました。病院に搬送されてきた救急患者に対する初期治療をめぐって、治療にあたった救急担当医と病棟医として引き継いだ私との間で、いや、その救急担当医をかばう病院とそれを批判する私との間で深刻な衝突・対立・反目があったのです。それが引き金になって私はその病院を退職したのですが、そこに至るまでの間にも、病院の「組織の論理」ともいうべき姿勢に不信感を募らせることがいくつもあったのでした。そのたびに院長や上司とぶつかっていたため、あのときのことをありありと思い出します。そんなこともあってか、相撲協会と貴乃花親方との確執の話しを聞くと、親方が当時の私と重なってどうしても親方の肩を持ちたくなるのです。

その病院に勤務していた頃、私は呼吸器や循環器を中心とした内科医として外来や病棟で診療していました。病棟では各専門領域の先生のアドバイスや指示を受けながら、他の臓器領域の患者の主治医もしていましたから、実際には内科全般の入院患者のマネジメントをしていたことになります。それ以外にも、他科、とくに外科系の病棟から患者の内科的な治療方針について相談を受けたりすることもありました。また、外科系の病棟の患者が急変したとき、たまたま主治医が手術などで対応できないときは私達内科医に対応の要請がくることもありました。あるとき、内科病棟で仕事をしていた私のポケベルがなりました(当時はまだ携帯ではありませんでした)。それは整形外科の病棟からのコールでした。

「整形外科の病棟からいったいなんの用だろう」と思いながら駆け付けると、待っていた看護婦さんがあわてて私を病室に案内してくれました。病室には一人の若い医者がアンビューと呼ばれる人工呼吸をするための道具をもって立っていました。私はその医者に声をかけることもなくすぐに患者の診察をはじめました。患者はすでに意識はなく、呼吸も不規則になっており、かなり緊急性の高い状態だということはすぐにわかりました。枕元に突っ立っている若い医者に私はまくしててるようにいいました。「なぜすぐに挿管しないんだ」。「ぼ、ぼく、挿管したことがないんです」。「したことがあるとかないとか関係ないだろ。しなけりゃ患者は死ぬんだぞ」。その医者は慌てた様子でした。

そんなやりとりをしながら患者の気管に人工呼吸用の管を入れ、アンビューで肺に空気を入れながら患者を急患室に運びました。一段落して主治医から詳細を聴くと、意識を失う前は元気にリハビリをしていたとのこと。これまでの経過からは、整形外科の手術後の安静によって下肢にできた血栓がリハビリによって脳に飛んで梗塞巣を作ったことが考えられました。とくに呼吸がここまで不安定になったところをみると、呼吸をつかさどる脳幹という場所の脳梗塞が疑われました。とすればこれはかなり深刻な状況を意味します。そして、その後の検査によってそうした私の予想は正しかったことがわかりました。

ICU(集中治療室)に移送された患者には人工呼吸器が装着され、血栓を溶かす薬や脳のむくみを軽減させる薬が投与されました。そうした点滴の指示票を書きながら、さっきから私のあとをついてくるだけの整形外科の若い医者にいいました。「先生の患者なんだから、先生が書いてよ」。するとその医者は申し訳なさそうに「こういうケースを経験したことがないので書けないんです」と。経験がないのであれば仕方ありません。「じゃあ、いい機会だから教えてあげるよ」と言って点滴メニューについて説明をしようとするとその医者が言いました。「先生、そろそろバイトに行かなきゃならないんですが」。

私は唖然としました。内科病棟にいる自分の患者のことをあとまわしにして、まさにボランティアでやってあげているのにと思ってもあとの祭り。それ以後、その患者の管理のほとんどは私がやることになりました。まずは患者の家族への説明です。突然のことで心配そうにしている患者の家族に、「かなり重症の脳梗塞です。リハビリの開始をきっかけに足にできていた血栓が脳に飛んだことが原因と考えられます。事前に予測することは難しかったと思われ、現在できるかぎりの治療を開始したところです。ここ数日がヤマだと思われます」と説明しました。動揺していた家族はその説明に神妙な面持ちでうなづいていました。

ところが翌日、ICUに行くと看護婦さんが心配そうな表情で「先生、ご家族が納得できないと怒っているので再度説明してください」と私に耳打ちしてきました。なにが起こったのかわからなかった私は、昨日の説明に納得したと思っていた家族になにがあったのだろうと思いました。そして、会議室で待っていた患者家族から話しを聴いて私は驚きました。その日の朝、整形外科の部長が病室に来て「今回の脳梗塞はリハビリとは関係ない。純粋に内科的な問題なので今後は内科が主科になる」と一方的に説明していったというのです。ボランティアで治療しているつもりだった私の心の中でメラメラと怒りが込み上げてきました。

ICUにもどると前日アルバイトにいったあの若い医者がいました。私はたった今家族から聞いた話しを彼にしました。「どういうこと?僕は君の患者を診てあげているんだよ」と怒りを抑えながら言いました。彼は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた後、いつの間にかICUからいなくなってしまいました。ところが、それから間もなく彼が戻ってきました。そして、「部長が先生と話しがしたいと言っています」とのこと。言いわけでも聞かされるのだろうと思いましたが、「いいですよ。しばらくここにいますから」と私。すると、「いや、部長室に来てほしいということでした」と彼。その言葉で私の怒りは頂点に達しました。

「ふざけるなっ。自分の患者そっちのけで診てやってる私がなんであんたの上司のところに出向かなきゃならないんだ。あんたの上司こそこっちに来るべきじゃないか」。他の先生や看護婦さんたちがいる中で私は大きな声を出していました。ほどなく整形外科の部長が憮然とした表情でやってきました。部長の顔を見るなり私の心の中で収めたばかりの怒りがよみがえってきました。「先生、厚意で診ている私に部長室に来いなんて失礼だと思いませんか。先生が勝手にした家族へのムンテラにも私は納得できません。家族に訂正してください。そもそも整形外科は自分たちで対処できない患者を内科に押し付けておいてなんですか」。

そのときの部長の表情を今でも忘れられません。なにせグウの根もでなかったのですから。すごすごとICUをでていく部長の後ろ姿をにらみつけていると、看護婦さんが手をたたきながら私のところにやって来ました。「先生、よく言ってくれたわ。あの先生、いつも傲慢で勝手だったの。誰も何も言えなかったので、先生が代わりに言ってくれて胸がすっきりしたわ」。私はちょっと恥ずかしい気持ちがしましたが、あの部長のやり方には心底腹が立っていたので、言いたいことが言えて私自身胸がすっきりしていたのでした。それを看護婦さんも支持してくれたのですからなおさら気持ちが晴れました。

以来、その部長は、病院の廊下で私と目と目が合うたびにきびすを返してどこかに行ってしまうようになりました。もともと私は根にもつ質ではないので、あんなことがあったとはいえすれ違うときには挨拶を交わすつもりでしたから部長のその態度はなんだかとても子供じみて見えました。それから間もなく、私は病院長に呼ばれました。なんだろうと院長室に行くと、院長がおもむろに先日のICUでの一件のことを話しはじめました。「先生、腹が立つこともあるでしょうが仲良くやってください」と院長は穏やかな口調で切り出しました。「当院は『和を尊ぶこと』をモットーにしているんですし」とも。今さら話しを蒸し返して弁解しても仕方ないと思った私はしばらく大人しく院長の話しを聴いていました。

「あの先生は本院では『天皇』とも呼ばれているんですよ」と院長は笑いました。なんでも、本院の回診時の部下たちの気の使いようは半端ではないと。それくらい権力は絶大だったのでしょう。そんな部長だからこそ、私みたいな下っ端の内科医に一喝されて面目を失って院長に告げ口でもしたのかもしれません。当時の私は「怖いもの知らず」だったんです。同時に、ある意味でアンタッチャブルだったあの部長もこれまで「怖いもの知らず」だったんでしょう。私は院長の話しを聴きながら「そんなこと俺には関係ねぇよ。こっちに非はまったくないんだから」と心の中でつぶやいていました。私は感情が顔に出やすいので、きっとそのときの不満や怒りはきっと院長にもわかったでしょうね。ときどき苦々しい顔をしていましたし。

こんなことしょっちゅうでした。いつもいつも誰か他の医者とぶつかっていました。当時の私は理想に燃えていましたからいい加減な医者が許せなかったのです。今でもあのときの怒りはもっともだと思っています。ただ、同時に、あのとき私が突っかかっていった医者のことももう少し理解してあげてもよかったのではないかという気持ちもあります。もう少し別の対応があったんじゃないか、と。そうした余裕がないほどに血気盛んだったんです。私には人のことをとやかく言う分だけ自分も後ろ指さされないように、という気持ちもありました。突っかかるのにもそれだけ覚悟もいるのです。「君のことも言わないから、僕のことも放っておいて」といっているような甘っちょろい雰囲気に苛立っていたいたんだと思います。

これを信念というのか、それとも偏屈というのか。正義漢というべきなのか、それともトラブルメーカーというべきなのか私にはわかりません。ですが、当時の病院に蔓延していた「甘っちょろい雰囲気(私自身が当時感じていた雰囲気ですが)」というものが組織を腐らせる、そんな風に感じていたのです。巷間伝えられる今の相撲協会の様子を聞くと、当時のあの病院と重なり心配になります。当時の自分を「若かった。青かった」とは思いませんし、仮にあの当時に戻っても同じことをしていると思います。ですが、貴乃花親方にはもう少し違った方法でなんとか日本相撲協会を改革できないかを考えてもらえればと思います。対立や無視からはなにも生れません。相撲は国技なのですから是非いい方向に変ってくれればと願っています。

あのときの患者は一命はとりとめ、人工呼吸器からも離脱しました。重い後遺症が残りましたが。その後はリハビリの出番となり整形外科が主科になりました。実質的な主治医は整形外科の医師に代わりました。私はホッとすると同時に、なにかモヤモヤした気持ちを拭い去ることができないままいつもの診療に戻りました。とはいえ、その後もいろいろなことがあって私は病院を退職することに。そのときたった一人私を引き留めてくれた先生は「いっしょにこの病院を立て直しましょうよ」と言ってくれました。「院内をかき回すトラブルメーカー」と映っていたかもしれない私を引き留めてくれたことがとてもうれしかったです。でも、「多勢に無勢」と感じましたし、そもそもすでに賽(さい)は投げられていました。

念のために付け加えておきますが、今回の話しは私の武勇伝としてチャラチャラ書いているわけではありません。また、特定の病院を批判するためのものでもありません。誤解のないようにお願いします。