当たるも八卦(はっけ)

この記事は2016年8月21日にアップした原稿を修正・加筆してものです。医師会雑誌への投稿依頼があったのを機に、送られてくるスパムメイルが多かったこの原稿を書き直ししました。細かい部分は一部変更されていますが、大筋ではこれまで通りです。ご了承ください。

人は青年期にいろいろな悩みに直面するものです。そのときの不幸を嘆いたり、うまくいかないことにため息をついたり、そこはかとない不安を感じたりと内容はさまざまです。還暦を迎える私も、青年期には自分の進むべき道に迷っていた時期がありました。もともと悩みを相談できる友達もいませんでしたし、家族に相談したこともありません。ですから、青年期の不安や孤独を感じても、自分の中で出口を探しながらもがくことしかできませんでした。

青年期の悩みを解決する手がかりを求めていろいろな本を読みました。それは亀井勝一郎の人生論だったり、加藤諦三の心理学の本だったり、あるいは当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が書いた「男は20代でなにをなすべきか」だったり。手当たり次第に読んでいました。もともと好きだった山本周五郎や井上靖、石川達三や司馬遼太郎の小説なども、心の琴線に触れる場所を探しながら読み返していました。きっと私なりに試行錯誤していたのだと思います。

そんなとき母親に「よく当たる手相占いをする人がいるから行ってみないか」と誘われました。それまで自分の悩みを親に打ち明けたことはなく、ひょっとして母は私の悩む姿を見かけて心配してくれたのかもしれません。それにしてもはじめは「手相かよ」と思いました。占いなどは抽象的なことを言って当たったように思わせる詐欺みたいなもの、といった印象を持っていたからです。しかし、溺れる者はわらをもつかみたくなるものです。私はその占い師の家に行ってみることにしました。

事前に手相を見てもらっていた母親は「とても当たるんだよ」と興奮気味です。でも、母が前のめりになればなるほど私は懐疑的な気分になりました。東急東横線の「学芸大学駅」で降り、住宅街を歩いていくと、まるでドラマに出てくるような木造モルタルの古いアパートに到着しました。そして、さび付いた外階段を二階へあがったところにその部屋がありました。にこやかに出迎えてくれた占い師は白髪に白いひげをたくわえた老人で、当時すでに80歳を超えているように見えました。

室内は小奇麗に片付いており、六畳ほどの古い部屋の四隅の柱には小さな神棚が祀ってありました。奥さんとおぼしき女性が、私たちが持参した菓子折りの礼を言いながら菓子を神棚にそなえました。母親がいうには、その占い師は商売で見ているのではなく、あくまでも趣味で占っているとのことでした。とはいえ、老人のその風貌といい、住んでいる部屋の雰囲気といい、小机の上の占い道具といい、占い師としては趣味の域を超えているように思えました。

「まずここに生年月日と名前を書いてごらん」。私は老人に言われるままに生年月日と名前を書きました。すると彼は、私が書いた文字を虫眼鏡でのぞきながら、広告チラシの裏紙に計算式を書き込んでは古びた表紙の本をなんども開いてなにかを書きとめていました。私はそんな老人の様子を見ながら「インチキ占い師じゃなさそうだ」と思い始めていました。しばらくして彼は「そろそろ手相を見せてもらおうか」と言いました。私は恐る恐る手を差し出しました。

老人は私の左右の手のひらを何度も見くらべながら、手のひらのしわを伸ばしたり、虫眼鏡をのぞき込んだりしていました。そして、ときどき私の顔を見てはまた手のひらを見るという動作を繰り返しました。まるで儀式のような作業をひととおり終えると、にこやかに私の方を向いて「なにについてお話しすればいいかな?」と自信ありげに言いました。私はすぐに本題に入ることをためらいました。なぜなら「抽象的な言い方でごまかす詐欺」という不信感がまだくすぶっていたからです。

しかし、老人は占い師らしく切り出しました。「なにか悩みがおありのようだが、君の中では結論が出ているんじゃないかな?」。そう言い切った彼は私の悩みを見通しているかのようでした。当時の私は医学部の受験を控えて迷いがありました。落ちたらどうしよう、落ち続けたらどうしよう。失敗したときのことを考えるたびに、医学部以外の無難な道を選んでしまいそうになっていました。でも、この老いた占い師の前に座っている私の中で、それらの不安が薄れていくのがわかりました。

「でも、君が出した結論は正しい。いろいろ悩んだと思うが、再来年にはいい年がやってくるから頑張りなさい」。すべてはこの言葉で決まりました。そして、彼は紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書いて私に渡しました。さらに続けました。「自宅周辺の白地図を買ってきなさい。そして、自宅から西の方角に線を引くと神社がある。そこの湧水をもらってきて飲みなさい」。「神社?湧き水?」。私はすっかり老人の言葉にひきつけられていました。

その占い師の部屋には1時間余りいたでしょうか。帰る途中で白地図を購入し、自宅でさっそく地図上に線を引いてみました。するとどうでしょう。真西に引いた直線のまさに線上、自宅から直線距離にして7㎞あまりのところに神社がありました。今までそんなところに神社があるなんて思ってもいませんでした。それをのぞいていた母は「すごいっ!」と興奮気味。もちろん私も驚いていました。いてもたってもいられなくなりその神社に行ってみることにしました。

その神社は静かな森にかこまれ、厳かな雰囲気の漂う場所にありました。想像していた以上に立派な神社です。私が訪れたとき、参拝者はおらず、ひとりの宮司が竹ぼうきで石畳を掃き清めていました。あたりを見渡しても、あの老人が言った湧き水をもらえそうな場所がありません。私は掃除をしている宮司に尋ねてみました。「すみません。この神社に湧き水はありますか」。するとその宮司は境内の奥を指さして言いました。「それならこの先の突き当りにありますよ」と。

宮司に教えられたとおり、神社の参道をまっすぐ歩き、境内の一番奥まで行ってみました。すると、その片隅にひっそりと湧き水の出る井戸がありました。その水をもらっていくための容器まで置いてあります。私はあの老人の占いが具体的に当たっているのに感心していました。神社の場所も、また、そこで湧き水をもらえることも言われたとおりだったのです。私は指示された通りに飲めばなにかいいことがあるのではないかと思いながら、その水を自宅に持って帰りました。

その後の私の人生はその占いの通りになりました。翌年の受験(北大以外の大学)には失敗したものの、次の年、北海道大学医学部に合格したのです。あのとき老人は私に渡した紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書きました。北大に受かったとき「占いは外れたなぁ」と思いました。札幌は自宅の北に位置していると思ったからです。しかし、よく調べてみると札幌は自宅の北東。最初の受験に失敗することも含めて実は「予言」通りだったのです。

あの時、「なんでもいいから質問しなさい」と言われた私は、真ん中でぷっつりと切れていた自分の生命線を見てもらいました。手相など信じていなかったとはいえ、生命線が途切れていることはやはり気になっていたのです。すると老人は微笑みながら言いました。「手相って変わるんだよ。大丈夫、この線は必ずつながるから」と。その後、ときどき確認していましたが、いつしか生命線はつながって、今では途切れていたことがわからないほどになっています。

今、振り返ると、あの占いはいろいろなことが的中していました。面白半分に「結婚は何歳になりますか」と尋ねてみたときのこと。老人は「一番いいのは40歳ぐらいのとき。だけど、その前に二度チャンスがある」と言いました。当時の若かった私は「40歳なんてオッサンの歳で結婚するのか?」と苦笑いをしたものです。しかし、老人に指摘された年齢にお見合いをしたのも当たりならば(しかも二回とも)、40歳ならぬ38歳で「運命の人(今の家内です)」と結婚したのも不思議な一致です。

人は「占いの結果に引きずられたんじゃないの?」と言います。でも、意識的にそうなろうとしても、なかなかなれるものではありません。思い通りの人生を歩める人もいるかもしれない。でも、ほとんどの人生は思い通りにはならぬもの。岐路に立たされた時の判断がベストだったかどうかはあとになってわかります。その時の判断が適切だったかどうかではなく、ひとつひとつの判断の積み重ねが人生そのものなのです。その意味でもあの占いはすごいと思います。

手相を見てくれた占い師はすでに「鬼籍の人」だと思います。でも、彼は私の記憶に残る「奇跡の人」でもあります。あの後、何人もの知り合いが私の話しを聞いて手相を見てもらいに行きました。しかし、何人かの人は「占いを信じない人の手相は見ない」と追い返されたと聞きます。なのに彼は、占いを信じていなかった私を「面白い人だから連れてきなさい」と母に言ったそうです。もしかするとあの老人は、その後、ほぼ自分が占った通りになる私の人生をすべてお見通しだったのでしょうか。

新型コロナの総括(1)

緊急事態宣言が解除されて一週間が過ぎました。今のところ、散発的なクラスターによる感染者は発生していますが、「第二波」というほどの再流行ではなさそうです。これまでの自粛によって社会のさまざまなところで影響がでました。緊急事態宣言が解除されたからといってそれらの影響がそう簡単に払拭されるわけではありません。以前の生活に一気に戻すのではなく、新型コロナの感染に注意を払いながら、慎重に、そして着実にこれまでの日常を取り戻すことが必要だと思います。

2020年が明けてからのこの半年、個人のレベルのみならず、日本社会というレベルでも、あるいは世界的なスケールにおいてもはじめての連続だったと思います。新興の感染症が一部の限定された地域ではなく、日本のあらゆる場所で拡大するなどということは近年経験したことはありません。外国をふくめてどこかに逃げることもできず、ひたすら自宅に引きこもるしかないという状況は、世界大戦が勃発した80年前以来ではないでしょうか。まさに感染症という人類の敵と全世界が戦った半年間でした(です)。

私たち日本人はこれまでどう行動したのか。今、それを振り返り、混乱と不安に翻弄された半年から学ぶ必要があります。しかし、疫学や感染症の問題は人の価値観だけで善し悪しは判断できません。科学的に正しいか、倫理的に正しいか、あるいは社会的に正しいか、判断する基準は人によって、立場によってさまざまです。これから書くことはあくまでも私個人の見解です。もちろん、私自身は理性的かつ常識的に感じたことを書いたつもりです。それを皆さんがどうお感じになるかはわかりませんが。

昨年の秋、中国の武漢市に発生したといわれる新型コロナウィルス(COVID-19)はまたたく間に中国全土に広がりました。感染拡大を防ぐため、中国共産党は民主主義国家では考えられないような強権を使って都市封鎖をし、患者を収容・隔離しました。その効果があってか、感染拡大はそののち徐々におさまっていきました(あれほど理想的な収束は多くの人に疑われていますが)。その間、新型コロナウィルスは世界中に拡散し、たくさんの人が亡くなりました。そして、それはまだ終わっていません。

幸い、日本は比較的早くから感染者を出したわりには感染者の拡大を抑えることに成功したように見えます。医療崩壊もかろうじて回避することができました。死亡者数もかなり少ないといってもいいと思います。こうした現実を、海外のメディアは「奇跡」と表現していますが、これは単なる「偶然」でも、「奇跡」でもありません。日本人全員がそれぞれの持ち場で努力をした「必然」です。もちろん問題点や課題はありました。第二波が懸念される今、そちらにも目を向けなければなりません。

多くの日本人が新型コロナウィルスが流行する以前から日常的にマスクをしていました。そうした光景は欧米の人たちからは奇異に見えていたようです。日本人が「他から感染症をうつされないようにマスクをしている」だったのに対して、欧米の人たちの目には「マスクをしている人は他の人に感染させるような病気にかかっているから」と映るようです。しかし、今回の新型コロナの流行によって、はからずも日本人の生活習慣がそれなりに有用だったことを全世界の人が知ることになりました。

日本では以前から「手洗いとうがい」というものが日常になっています。大人になるにつれてそうした習慣は薄れていくとしても、多くの日本人にそうした習慣が定着していたことが今回の感染拡大の抑制につながったことは想像にかたくありません。咳エチケットや人前では大声で話しをしないことなど、子どもの頃から躾けられている他人への配慮も感染者数を抑えた理由のひとつかもしれません。欧米のような、キスやハグといった他人との直接的な接触をともなう習慣がなかったのも幸いしました。

日本人に特有な集団性も見逃せません。周囲と強調し、決められたルールは守る。我慢と抑制を美徳と考える日本人の基質が効を奏した形です。ただ、そうした性質が強くなりすぎると、他人がマスクをしていなかったとき、あるいは自粛をしていないと感じたとき、勝手な行動をとっているように見えるとき、それには我慢がならないようです。ともするとそれが極端な同調圧力となって、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる人たちを生み出します。自分とは異なる行動をする人を許せなくなる人たちです。

以前のブログでも書きましたが、原発事故のとき当院では放射能の危険性に不安を感じている患者さんのために、「放射能の危険性は冷静に考えよう。必要以上に怖がりすぎてはいけない」と書いたレジュメを配っていました。しかし、そんなレジュメを渡している私を許せなかったのか、誰かが「医者のくせに楽観的すぎる。恥を知れ」と書いたメモが当院のポストに投げ入れられました。これも「(自分と同じように)放射能を怖がるべきだ」と考えるある種の同調圧力だったと思います。

一方で、社会を支えていくという意識が日本人には希薄です。自らの感染のリスクを負いながら病院に勤める看護師の子どもの登園を断った保育所がありました。病院で診療にあたる医者がタクシーに乗車拒否をされ、自宅に帰れずに病院に寝泊まりしていたケースもありました。物流をになうトラックの運転手や宅急便の配達員に心ない言葉を投げつける人もいました。彼らがいなければ社会生活は維持できないにもかかわらず、彼らをいかにして支えるかという発想のない人が少なくなかったのです。

誰のお陰で社会が支えられているかに思いがいたらないことは悲しいことです。そうした人たちは「社会を支えている人たちを支えること」よりも「自分の身を守ること」でいっぱいいっぱいなのでしょう。他人のことを考える余裕すらない彼らを一方的には責められないかもしれません。しかし、新型コロナウィルスの感染拡大阻止のため、あるいは感染患者の治療・看護のため、さらには国民の日常生活を維持するために働いている人たちを支えることを、本来、私たちは優先的に考えなければならないことです。

感染者数が増えて世の中がにわかに騒がしくなってきたとき、対応にあたっている保健所の所長のメイルが届きました。そこには保健所がどのような厳しい状況に置かれているかが書かれてありました。感染するかもしれないという不安の中で増え続ける検査。陽性患者を収容しようにも病床がなく、患者の受け入れをお願いするためにいろいろな病院を訪問する毎日。自宅待機している陽性患者のフォローアップと急変した患者の対応。保健所全体が疲弊している様子が手にとるようにわかりました。

新型コロナに感染した重症肺炎の患者が収容されている病院の実情はもっと深刻でした。もし院内感染によってスタッフが欠ければ、さらに少ない人数で治療や看護にあたらなければなりません。スタッフの戦線離脱は他のスタッフへのさらなる負担増につながるのです。亡くなっていく患者、次から次へと入院してくる重症患者。いつ尽きるともしれない患者達を前にどんな気持ちで仕事をしていたかを思うと、黙々と働いていた医師や看護師、パラメディカルの人たちには感謝しかありません。

そうした病院の苦悩をよそに、「もっと検査をしろ」「早く検査をしろ」の声はときに強くなりました。現行のPCR検査の精度は決して高くなく、疑陽性や偽陰性の問題が無視できません。入院の必要がない疑陽性の人が病院のベッドを占拠し、本当の患者の治療を妨げます。偽陰性の患者は感染していないと勘違いをして、無自覚に感染を広めてしまいます。PCR検査は他の検査とともに事前確率を高めてから実施するものなのです。いうまでもなく「心配だからするもの」ではありません。

こうしてみると、新型コロナウィルスはまるで原発事故のときと同じ光景を映し出しました。自ら感染する危険性を背負いながら必死に検査をしている保健所の職員に「なんでもっとたくさん検査をしないんだ」と罵倒する国会議員たちは、原発事故の収束に向けて命がけで作業をする東電職員を一方的に怒鳴りつけている総理大臣の姿に重なります。新型コロナ感染患者の治療・看護にあたる人たちを「ばい菌扱い」する市民は、まるで原発事故とは無関係な東電職員に心ない言葉を吐き捨てる市民と重なります。

事態の収拾に奔走する人たちがいなければ社会は支えられないはずです。そうした人たちがいるからこそ私たちは日常と同じような生活を継続することができます。そのような大切なことも忘れ、頑張っている人たちに鞭を打つことができる人たち。「それなら自分でやってみたらどうだ」と言いたくても、彼らには抗議をする方法がありません。そんな理不尽に耐え、黙々と仕事を続ける彼らに私はプロフェッショナリズムを感じます。文句と愚痴とケチをつけてばかりの人間ほど自分からはなにもしないものです。

検査をむやみに増やさなかったからこそ感染拡大を最小限に抑えられたという側面も無視できません。感染の拡大は不正確な検査をふやしてもわかりません。そのかわり重症患者数の変化から推測することはできます。その推移を見れば、4月の下旬には感染は収束しつつあったことがわかります。「検査を増やせ」の声に押し切られ、「検査を受けたい人がいつでも受けられる」ように数を増やしていたらもっと大変なことになっていたかもしれません。それは検査をやりすぎた海外の事例をみれば明らかです。

不必要な検査をたくさん実施することになれば、検査をしている保健所や患者の治療をしている病院の負担を増やし、そこに働く人たちをさらに疲弊させることになります。延いては病院が機能不全をおこして医療崩壊をもたらすことにもつながります。「検査をしなければ感染状況を正確に知ることはできない」という絵空事を繰り返し、「国民の不安を解消するためにもっと検査を」とさけぶド素人の国会議員には困ったものです。検査の原則も知らない「ポピュリズムの政治主導」はただただ迷惑なだけです。

「ポピュリズムの政治主導」は福島原発事故の際にもありました。子どもの甲状腺癌を見つけるためにおこなわれたエコー検査がそれです。このエコー検査もPCR検査と同様に単独で浅く広くおこなう検査ではありません。つまり「癌を見つけるための全数検査」ではないのです。こうしたエコー検査は「甲状腺癌を疑った患者を絞り込むためのもの」です。結果としてわかったことは、「原発事故の影響はなかった」というごくあたりまえなことでした。莫大な費用をかけておこなったわりに、です。

TV局の意向や番組の趣旨を忖度してコメントする人たちを私は「専門家芸人」と呼んでいます。原発事故のときも「専門家芸人」は世の中をかきまわす困った存在でした。権威主義の人たちにとって、「専門家」あるいは「大学教授」という肩書きを持つ人からの情報は、それが正しいかどうかというよりも「権威のある人からの情報」として重要な意味をもちます。視聴者の不安をかき立てる関心事であればなおさらです。でも、不安をあおって視聴率をとっている番組が正しい情報をもたらすはずがありません。

「専門家」と思われている医師にもリテラシーが一般人と変わらない人がいました。新型コロナウィルスの検査で陽性を示した患者が増えたとたんに、慌ただしくクリニックを閉めてしまった医者がいました。あるいは、早々に「熱発患者お断り」の貼り紙をして熱発患者の診療から逃げ出してしまった医者もいました。かかりつけ医に放り出された患者達は、他の病院を受診することになります。それでなくても忙しい病院の負担をさらに増やしてしまうことを「敵前逃亡した医者たち」はどう思っていたのでしょうか。

                             (2)につづく

大好きな風景

いつも新型コロナの話しばかりを読まされては皆さんも気が滅入ってくるでしょうから、今回は「私の好きな風景」についてちょっとお話しします。とはいいながら、これまでのブログにも同じようなことを書いてきましたから、新鮮味はないかもしれませんけど。

すでにおわかりだと思いますが、私は北海道が、札幌が、そして北海道大学が大好きです。もしかすると「愛している」ってレベルかもしれません。なぜそんなに好きなのかわかりません。北大に合格するまで、北海道を訪れたことは高校のときの修学旅行で行っただけなのに、です。「I LOVE 北海道」になったきっかけを振り返ると、思い当たることといえばフジTVで放映されていたドラマ「北の国から」が影響したことぐらいでしょうか。

このドラマはそれまで生活していた東京を離れ、北海道の自然のなかで生活することになった父とふたりの子どもたちの物語。今、「日本映画専門チャンネル」というケーブルTVでデジタルリマスター版が再放送されています。私にとっての北海道の風景の原点はここにあります。東京で生まれ育った子供たちが、北海道の厳しい自然の中で少しづつ成長していく姿とともに、富良野の美しい四季の風景が私の心のなかに深く刻み込まれました。

でも、そんな大好きな北海道が新型コロナウィルスの影響を受け、道民のみなさんが不安な気持ちで生活していることには心が痛みます。心の故郷でもある北海道が一日も早くこれまでの日常生活を取り戻してほしいと思います。同時に、たくさんの人が北海道を訪れ、北海道の素晴らしさを感じてもらえる日がまたやってくることを。とはいえ、最近の感染状況は目に見えて改善しています。ひょっとすると緊急事態宣言が一部解除になる期待がでてきました。

【COVID-19】重症者数の減少はもはや一過性のものではなくなった観がある。死亡者の定義が替わってしまったため、その傾向を確認することはできない。しかし、14日におこなわれる緊急事態宣言の解除に向けての前提はクリアしていると思う。新型コロ…

瀬畠 克之さんの投稿 2020年5月10日日曜日
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これまで説明してきたように、新型コロナウィルスの感染の広まりは重症者の数の推移から予測することができます。そうした観点から今の状況を見ると、すでに感染のピークは過ぎ、病院の機能がマヒする「医療崩壊」の危機はすでに過去のものになりつつあるように感じます。もちろん場所によって、あるいは病院によってはまだまだ深刻な状況が続いているかもしれません。とはいえ、いずれはそうした改善を実感できるようになるのではないかと思います。

そうなれば、またいつもの日常がもどり、たくさんの人が北海道を訪れ、北海道のよさを実感してもらえるときがやってきます。日増しに暖かくなってくる北海道はとても美しいです。でも私は、春や夏よりもあえて北海道の厳しい冬に美しさがあるということも知ってもらいたいと思います。厳しい冬があるから春や夏の美しさがあるのです。北海道はただ単に「寒いだけ」ではありません。「寒いから」こその良さ、美しさがあるのです。

北海道の醍醐味はやはり冬です。例年の札幌は10月に初雪となり、12月下旬に根雪となって街はすっかり冬化粧をします。それから日ごとに気温はさがり、1月の「雪まつり」のころ一時的に寒さがゆるむものの、3月に雪解けを迎えるまでは長い長い冬となります。北海道の真冬の雪はまるで鳥の羽根が舞い降りてくるかのように降ってきます。札幌でも氷点下10℃ほどになって、二重になっている窓ガラスには氷の結晶が美しい紋様を描きます。

寒い朝、夜に積もった新雪をふみしめて歩くのが私は好きです。夜に大雪が降った翌朝は気持ちよく晴れていることが多く、青い空に粉雪がキラキラと舞ってまぶしいくらいです。みなさんは雪の結晶をまじかに見たことがあるでしょうか。一番寒い時期になると雪の結晶がそのままの空から落ちてきます。そして、地面に降り積もった雪の結晶に顔を近づけてよく見ると、陽の光に輝いてものすごくきれいです。そんな雪道を歩くと幸せな気持ちになります。

湿り気のない新雪は踏みしめると「キュッ、キュッ」と音を立てます。降ったばかりの雪道を歩くと、まるで真綿の上を歩いているかのようです。防寒服を着込んで完全武装していますから、「寒い」というよりもむしろ「顔にあたる風が痛い」といった方が正確です。新雪が降った朝はとても静かです。車の通りも少なく、聞こえるのは人の歩く音だけ。真っ白な息を吐きながらまぶしいほどの朝日をあびながら大学に向かうと、不思議とエネルギーがみなぎってきます。

夜の雪道を歩くのもいいものです。昼間とは違った風情があります。夜はいちだんと気温がさがるため人通りはまばらです。その家の窓もカーテンがひかれ、わずかなすきまから室内の光が漏れているだけ。そんな夜道を歩いているとなんとなくロマンチックな気持ちになります。星がまたたく空を見上げながら深呼吸をすると、どこからともなく石油ストーブの香りが漂ってきます。その香りが不思議と私を幸せな気持ちにさせます。

長い冬が終わると北海道には百花繚乱の春がやってきます。冬が厳しい分だけ春はとても華やかなものになります。例年の札幌であれば、ちょうど今頃、桜が満開となります。年によっては肌寒い中でのお花見、となることも少なくないのですが、地面には黄色いタンポポ、場所によっては梅が咲いていてきれいです。北大の構内(中央ローン)では恒例のジンギスカンで飲んだくれている学生たちもいます。新入生を迎えた構内でも春を感じることができます。

春におすすめなのが洞爺湖です。洞爺湖の周辺の桜並木はとても見事です。今年は無理でしょうが、いつか是非行かれるといいと思います。とくに洞爺湖の南側の山の斜面を登る道路から見る洞爺湖の桜は絶景だと思います。見下ろす湖畔の桜並木の向こうには、雪をいただく羊蹄山が遠く見えます。思い出に残る素晴らしい光景を目の当たりにすること請け合いです。洞爺湖周辺のドライブにはもってこいのコースだと思います。

年が明けてから私たちはずっと新型コロナウィルスに振り回されてきました。日本中の人が自粛を余儀なくされ、家のなかでじっと息をひそめる生活を強いられてきたのです。しかし、そうした異常ともいえる日常もいよいよ終わりに近づき、感染の収束に向かいはじめているように感じます。街を歩いている人たちも少しづつ明るく、活動的になってきたように思います。それはあたかも長い冬を経て、百花繚乱の春を迎えた人々のようです。

私はあえて言いたいと思います。これまでの5か月は決して無駄ではなかったと。我々日本人がこれまで経験したことのないこの5ヶ月間の生活はいろいろな教訓をあたえてくれたと思います。今まで気が付かなかったこともたくさん気が付かせてくれました。その意味で「この冬が厳しかった」という現実にも意義を見出したいものです。厳しい冬もよく見れば春や夏にはない美しさがある。それに気づけば冬もまたいいものだと感じることでしょう。

いろいろな場所で行われてきた自粛もすこしづつ解除されていくでしょう。その間、検査の陽性者が一時的に増えたりするかもしれません。しかし、うろたえる必要はありません。高齢者や抵抗力の弱っている人は除き、社会を支える多くの人はむしろいつもの日常にもどる努力をしなければなりません。これまでの生活をとりもどすにはかなりのエネルギーが必要ですが、これまで以上に素晴らしい「風景」を取り戻したいものです。

もうひとふんばりです。頑張りましょう。

心に残る患者(7)

ときどき患者さんから「薬を2ヶ月出してください」と言われます。昔と違って今は1ヶ月という「長期処方」があたりまえで、14日分という本来の投薬日数通りに薬を出すことの方がめずらしくなりました。大きな病院が平気で三ヶ月分の薬を出すことも影響しているかもしれません。三ヶ月という乱暴な処方をするのは、待合室にあふれかえる患者をさばくための方便であることがほとんどです。ともかく、そんな「診療」を受けていれば「2ヶ月ください」となるのも無理はありません。

でも、一か月を大きく超える薬を出す「診療」って本当に「医療」なんでしょうか。何時間も待たされたあげく、ようやく診察室の中に入ったと思ったら、医者はコンピューターの画面を見ながら「変りありませんね」とひと言。そして、聴診器も当てず、血圧も測らずに「ハイっ、いつものお薬を出しておきます」と事務的に終了。受診のたびに繰り返される採血の結果さえほとんど説明なし。たった今椅子に腰掛けたばかりなのにもう終わり?って「診察」などどう考えても「医療」じゃないですよ。

病院の理屈からすれば「そうでもしなけりゃこんなにたくさんの患者を診れないよ」なのでしょう。私も大学病院で診療していましたからよくわかります。でも、その一方で、こんな「診療」でも患者によってはありがたいと思う人もいます。「大きい病院だから安心」、「なんども受診しなくて済む」など、混んで待たされたあげくの「二言三言の診察」を上回る利点があるのでしょう。でも、ちょっと待って下さい。なんのための受診ですか?薬をもらうだけでいいんですか?

医者も患者も納得づくならそれでいいじゃないか、と言う人がいます。しかし、診察でなんらかの病気を見逃してしまった場合を考えて見て下さい。三ヶ月処方なら次回の診察は半年後。癌だったら全身に転移していてもおかしくない期間です。考えてみれば恐ろしいことです。その間、患者が不具合を感じて受診してくれればいいのですが、自覚症状がない場合や、自覚症状があってもその危険性を患者が認識できないこともあります。長期(一か月以上)の処方には長期なりの危険性がつきまとうのです。

Hさんという血圧の薬をもらいに通院していた人がいました。あるとき、いつものように血圧をはかり、聴診をすませると、Hさんは「先生、薬、2ヶ月出してくれねぇか?」と言い出しました。当時、私は二ヶ月処方をすることはほとんどありませんでした(今はケースによっては一か月を超える処方をすることがあります)。たまに状態が安定していて、服用している薬の種類が少ないとき、あるいは、夏休み前や年末など、途中でお薬がなくなってしまうときなどに二ヶ月分の処方をしているにすぎませんでした。

私はHさんのご要望をお断りすることにしました。一ヶ月とはいえ「長期処方」です。薬を服用しているうちに副作用が出るかもしれません。あるいは他の症状が現れているかもしれない。私たちが定期的な診察で問診をおこない、聴打診や触診をし、血圧を測り、ときには採血をするのはそうした変化を見逃さないためです。多くの人は「薬を飲んでいれば安心」と思っているようですが、薬を服用するということは、それなりのリスクを抱えているということを忘れてはいけません。

しかし、Hさんは受診のたびに「2ヶ月処方」を希望しました。いつしか私は繰り返していた説明も面倒になって、とうとうHさんの要望に負けてしまいました。私はHさんに二ヶ月分の薬を処方することにしました。しかし、いったんそうなるとなし崩し的に毎回2ヶ月分を処方するように。私もHさんと同様に「なにも変化がないじゃないか」という予断をもってしまったのです。いつしかHさんには漫然と薬を処方するようになり、ある種の緊張感のようなものがなくなってしまいました。

漫然とした診療には落とし穴があります。あるとき受診したHさんは「咳が出る」と訴えました。診察中に咳をする様子もなく、診察してもなんの異常もなかったことから、急性気管支炎として薬を追加して様子をみることにしました。そして2ヶ月がたちました。私はHさんに「前回の咳はどうなりましたか?」と聞いてみました。「だいぶよくなったがときどきまだ咳がでる」と。やはり聴診では異常がありません。私はHさんに言われるがままに咳止めを追加して診療を終えました。

普段の診療に追われ、Hさんの咳のことなどすっかり忘れていたある日、Hさんが定期受診のために来院しました。そして、今さらながらに「咳がひどくなった」というのです。確かに待合室にいるときから咳をしていました。私はHさんの胸に聴診器をあてて愕然としました。これまで聞こえなかった肺雑音が聞こえるのです。私の胸には暗雲がたちこめてきました。直感的に「これはただの肺炎や気管支炎ではない」と思いました。Hさんに胸部レントゲン写真を撮らせてほしいと頼みました。

できあがった写真を見た私のからだからは力が抜けていきました。肺癌だったからです。しかもかなり進行した肺癌です。すぐに専門的な治療を受けられる病院に紹介しました。病院からの返事には、「肺癌。全身に転移あり、脳の転移巣に対しては放射線治療の予定」と書かれてありました。私は「なぜHさんに咳のことをもっとしつこくたずねなかったのだろう」と後悔しました。ご本人もまさか肺癌だとは思わなかったのかもしれません。結果的に患者の言葉をうのみにした私の落ち度です。

「一ヶ月なんてあっという間」と皆はいいます。私もそう思います。しかし、二ヶ月という日数は癌が成長するのには十分な期間です。しかも、一回見逃せば次回の受診は四ヶ月後です。Hさんのケースのように癌を見逃してしまえば、決定的な失敗を招くことになります。自分が見逃した病気で患者を失うことは医者にとってつらいことです。主治医にとっては打ちのめされるような失敗です。一ヶ月を超える超長期間の処方の恐ろしさはこんなところに潜んでいます。

昨年も「2ヶ月の処方をしてくれ」と執拗に要求する患者さんがいました。しかも「毎回2ヶ月分の薬を出してほしい」というのです。私はきっぱり断りました。「私はそういう医療はやらないので、他の医院で頼んでみてはどうか」と勧めしました。しかし、その患者さんは「(超長期処方を断って)他のクリニックに患者が逃げるより、二ヶ月分出しても患者が定期受診した方が経営的にいいではないか」と引き下がりません。私は「そんなことを言ってるんじゃない」と叫びたい気持ちをこらえていました。

「毎月2ヶ月かそれ以上の処方」を求めてくる患者は、検査を勧めても「いえ、結構です」と拒絶する人が多いように思います。検査はむやみにやっているわけではありません。よもや収入を増やすためにやっているわけでもない。医療用の医薬品は効能と副作用の両面に注意をはらう必要があるのです。その薬を服用するからには、効果判定とともに副作用の有無を検査等で把握しなければならない。薬を服用するということはそういうことなのです。

主治医の指示が絶対だといっているのではありません。医学的な観点から助言しているだけなのですから。だからといって「検査するかしないかは患者の勝手」というわけにはいきません。薬を処方するからにはそれなりの責任が生じます。適当な診療ができる医者とそうではない医者の違いはその責任感の差かもしれません。本来、そうした責任感のない医師から薬をもらってはいけないのです。ただ薬をもらって飲んでいればいいと考えるのは間違いだと思います。

昨年、危うく一命を落とすところだったYさんという患者がいました。Yさんも血圧の薬をもらいに定期的に当院に通院していました。師走に入ったある日、胸の痛みを訴えてやって来ました。看護師がベットに寝かせて問診していると、Yさんは「今までにはない胸の痛み」と症状を訴えました。それまでの血圧のコントロールは良好でしたが、このときばかりはいつもよりも高くなっていました。私は「狭心症?それとも心筋梗塞?」と考えをめぐらせながら心電図をとりました。

心電図はいつもと変わりなく異常ありませんでした。聴診をしましたが心雑音や不整脈など気になる所見も見られません。「今の痛みはいかがですか」とたずねると、「痛みはだいぶ落着いてきたが、まだなにか違和感を感じる」と。いつもよりも高い血圧や「今までにない痛み」「違和感を感じる」という表現に私はなんとなく胸騒ぎがしました。私は直感的に「病院で検査を受けさせた方がいい」と思いました。でも、さしたる根拠はないのにわざわざYさんを病院を受診させることを少し躊躇していました。

「Yさん、今のところ心電図に異常はなく痛みもおさまっていますが、念のために病院に行って検査をしませんか。私を安心させるためと思って」と私。このような言い方をしたのは、Yさんは「自宅で様子をみたい」というのではないかと内心思っていたからです。しかし、Yさんは思いのほかあっさりと「わかりました」と言ってくれました。私はなぜかホッとしました。救急車を要請しようか迷いましたが、結局Yさんはタクシーで紹介先の病院に向かいました。

このような経過をたどるケースの中には、心電図に変化のない心筋梗塞だったり、心筋梗塞になりかけた狭心症という場合があります。医学部を卒業して三十年、これまでに経験したいろいろなケースがあたまをよぎりました。とはいえ、わざわざ病院に受診させてなんの異常もなかったり、結果として救急車を要請するほどのことではなかったりして、結果として過剰診断となることを気にする自分がいました。「やみくもに病院を紹介する医者」と見られたくないからかもしれません。

今回のケースも「病院での検査」を受けさせた方がいいと思いながら、もしYさんが「胸の痛みもおさまってきたので自宅に戻って様子をみる」と強く主張してきたら、薬を処方した上で帰宅させてしまったかもしれません。あえて病院を受診させて「タクシー代や診察代をかけて行ったのになんでもなかったじゃないか」とひんしゅくを買うのを恐れるからです。Yさんが助かったのは、私の勧めを素直に聞いてくれたからだともいえます。命をつなぐ糸は実は細くて危ういものなのです。

Yさんの病気が私の想像を超えていたことを知ったのは翌日の朝のことでした。診療前に紹介先の病院から電話がありました。Yさんを見送った後もなにか胸騒ぎが続いていて、看護婦さんと「Yさんのことが気になるね」と話していたところでした。電話口で紹介先の主治医は少し興奮気味に説明してくれました。「Yさんは実は大動脈瘤でした。先生が素早く対応してくださったおかげで救命できました。ありがとうございました」とお礼を言われました。むしろこちらこそお礼を言わなければいけないのに。

私はまさか大動脈瘤だとは思っていませんでした。背中の強い痛みを訴えていたら疑ったかもしれません。しかし、Yさんの動脈瘤はスタンフォードA型という心臓と大動脈の境界付近に生じる比較的めずらしい動脈瘤でした。背中の痛みにはならない場合があるのです。紹介先の病院で冠動脈CT検査をやってくれたおかげで見つかりました。あのまま自宅に返していたら、そう思うとゾッとします。スタンフォードA型の大動脈瘤は一時間当たり2%ずつ致死率が上昇し、24時間放置すると90%以上が急死するのです。

実はYさんは以前にも幸運なことがありました。通常受診のときの雑談でYさんは冗談めいたように「最近、ちょっと新聞の字が読みづらいんですよ」と笑いました。いつもの私なら「老眼が進んじゃいましたか?」と笑い返すところなのですがこのときは違いました。私は一瞬「脳下垂体腫瘍では?」と思ったのです。私はYさんに「念のために脳のMRI検査を受けてください」と頼みました。「様子を見ますから大丈夫です」といわれるだろうと思いながらですけど。

しかし、Yさんは病院を受診してくれました。そして、心配した通り脳下垂体腫瘍が見つかりました。でも、その後、手術で腫瘍を完全に摘除し、後遺症もなく生活されていました。このときも私がなにげなくお勧めした検査を素直に受けてくれたからこそ命拾いをしたのだと思います。決して私の見立てがよかったのではありません。私を信じて私の助言に耳を傾けてくれたおかげなのです。診療とはそういうものです。このように診療とは医師と患者がお互いの信頼を得てなりたつものだといえます。

このように、診療が単に「薬をもらえばいいもの」ではないということがわかると思います。ひょんなことから一命をとりとめた事例は他にも少なくなく、そうした事例も今後ご紹介できればと思っています。最近のTVでは視聴者の医療不信を高めるような番組が多いように感じます。そうしたことが患者の医療者に対する不信感を高める原因のひとつにもなっているのかもしれません。もちろん患者にとって「自己防衛すること」は大切です。しかし、それには限界があることも知らなければなりません。

一方で、不信感を持たれてもしかたない医療がおこなわれているのも事実です。患者が自己防衛しなければならないのは、そうした質の悪い医療があるからです。でも、質の悪い医療はなにも開業医による診療だけの話しではなく、大学病院をはじめとする大病院でもあります。もちろん医療の良し悪しは素人である患者が見極められるほど簡単ではないかもしれません。しかし、「薬だけもらえばいい(出せばいい)」という医療から抜け出すことはできるはずです。まずはそこからはじめるべきだと私は思います

心に残る患者(6)

インフルエンザのシーズンがやってきたようです。インフルエンザは本来、タミフルなどの抗ウィルス薬などを使わなくても自然に治る感染症です。ですから、もしインフルエンザにかかっても、自宅で安静にしていればいいわけです。しかし、いかんせん普通の風邪とは違って、高熱や全身倦怠感、関節痛、頭痛などの症状をともないます。高熱によって体力が奪われると肺炎になるなど重症化しやすいという特徴もあります。だからこそワクチンでの予防が重要なのです。

高熱を必要以上に怖がり、解熱剤をつかってあわてて体温を下げる必要はありません。むやみに体温を下げてしまうと、重症化、とくに肺炎を合併したときのサインを見逃すことにもなります。インフルエンザ時の高熱はそう簡単には下がらないことが多いのですが、解熱剤で体温が下がってしまうと、患者も、また医者自身も予断をもってしまって重症化を見逃すなんてことにもなりかねません。とにかく、解熱をするのは「高熱のつらさを軽減するため」と思ってください。

私は家族が熱を出しても解熱剤はできるだけ使わないようにしています。熱を下げたところで早く治るわけではありませんから。むしろ、熱が出てはじめて体の免疫力にスイッチが入り、風邪が短期間で治るともいわれています。ですから、子ども達がまだ小さかったときも、つらそうな表情でもしないかぎり解熱剤を使わず、団扇などで軽く扇いで楽にしてやる程度にとどめていました。そちらの方が子ども達も気持ちがいいのか、すやすやと眠ていました。

そんな私には苦い思い出があります。まだ2歳にもならなかったころの次男の話しです。今回の「心に残る患者」はその彼です。次男はそれまで健康そのもので大病をすることもなく過ごしていました。あるとき高熱を出しました。生まれた直後からニコニコして愛想のいい次男でしたが、熱を出したこのときでさえも機嫌が悪くなることはありませんでした。高熱とはいえ、インフルエンザでもなさそうであり、また、咳をするなどの症状もなかったこともあって、私はしばらく様子を見ることにしました。

風邪であるにせよ、なんであるにせよ、熱が出たからといってなにか恐ろしいことがすぐに起こるわけではありません。痰のからむ咳をしながらの高熱でないかぎり、二日か三日は熱が続いてもどうってことはないのです。むしろ、解熱などしないで済むならそうした方がいいくらい。次男もまた熱以外に症状はなく、食欲もあって元気にしていましたから、家内には「暑そうにしているようなら涼しくしてあげて」と伝え、これといってとくに薬を飲ませたりせずに経過観察していました。

ところが、三日目が過ぎ、四日目になっても高熱が下がらないのです。相変わらず食欲はありましたが、いつもの笑顔も心なしか元気がないように見えました。このぐらいの子どもの高熱が続くときは川崎病や膠原病などの可能性を考えなければなりません。さすがの私も少し不安になってきました。そろそろ小児科に連れて行った方がいいと考えた私は、不安げな家内に「ここまで高熱が続くのは変だから小児科に連れて行った方がいいかも」と告げて出勤しました。

しばらくして家内からメイルがありました。「肺炎だった。松戸市立病院に入院になる」と。私は驚きました。肺炎などまるで疑っていなかったのです。高熱以外には症状に乏しく、食欲もあったし、笑顔も見られていましたから。とはいえ、小児の専門医療機関に紹介される肺炎ということは重症だということ。そんな重症な肺炎をこともあろうに内科医である私が見逃してしまうなんて。熱で上気した次男の顔が思い浮かんではなにかとても申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私のクリニックでの診療が終わり、幼稚園に通っていた長男を連れて松戸市立病院に向かいました。なにが起こっているのかを察しているのか、黙っていた長男も少し不安気な表情をしていました。病院の守衛さんに病室の場所を聞き、次男が入院している病室に入りました。次男は酸素テントの中ですやすやと眠っていました。小さな手には点滴のチューブがつながっています。そのチューブをひっぱらないように包帯でぐるぐる巻きにされた細い腕がとても痛々しく感じられました。

重症だということは病室の雰囲気でわかりましたが、どれだけ入院しなければならないのか分かりませんでした。しばらくは家内が付き添うことになりますが、私と長男のふたりきりの生活を思うと長男にも寂しい思いをさせてしまい申し訳ない気持ちがしていました。心の中では「ちゃんと診てあげていたらこんなことにならなかったのに」と次男に何度もわびていました。すやすやと眠っている次男が、自宅で高熱に耐えていたときよりも少しだけ穏やかな表情をしていることが救いでした。

家内の冷ややかな視線を感じながらこれまでの経過を教えてもらいました。それによると、私が出勤したあと家内は次男をかかりつけにしていた小児科に連れて行ったそうです。そして、そこの小児科医は息子の聴診をするなり、「これは大変だ。今すぐ専門の病院にいきなさい」とあわてたように家内に告げたそうです。そして、そのまま松戸市立病院の小児科へ。息子のレントゲン写真は両肺とも「真っ白だった」と。しかも体に取り込む酸素の量が低下していてそのまま入院になったのでした。

家内からそんな緊迫した経過を聴いているとき、次男の主治医が病室に入ってきました。「このたびはいろいろご迷惑をおかけします」と私が深々と頭をさげると、その小児科医は笑みを浮かべながら「お父さんは内科医なんですってね。内科のお医者さんであってもお子さんにはちゃんとステート(聴診器)を当てて下さいね」と。私はなぜあのとき息子に聴診器を当てなかったのかと後悔しました。咳をすることもなく高熱だけだったため「肺炎なし」との予断をもってしまったのです。

その小児科医は続けました。「小さい子どもの中には、お子さんのように咳を我慢してしまう子がいるんです」と。そういえば息子は咳こそしませんでしたが、しゃっくりのように「ヒクッ、ヒクッ」と時々しゃくり上げていたのを思い出しました。あれが咳を我慢している様子だったのです。私は改めて聴診をしなかったことを悔やみました。普段の診療であれば、必ず聴診器をあてていたのに。自分の子どもだったということにも油断してしまった原因でした。

内科での診療の際、聴診をする理由はさまざまです。不整脈や心雑音のフォローアップをするためであったり、それまでになかった不整脈や心雑音が出現していないかを確認するためであったり、肺炎や気管支喘息の可能性を疑うケースやさまざまな症状を裏付ける所見がないかを調べるためだったり。お薬を定期的にもらいに来院される患者に聴診をするのはそのためです。訴えもなく、なんでもなさそうに見えても、なんらかのあらたな所見が見つかるケースは決して少なくありません。

なのに高熱を出した自分の子どもには聴診すらしなかった。小児科の医師にそれを指摘されて、私は自分を恥じていました。自分の家族となるとどうしても緊張がなくなります。そして予断が入りやすくなる。それが見逃しや誤診の原因になることを思い知らされました。ついこの間も、予断をもたなかったために一命をとりとめることができた患者がいました。紹介した病院の主治医から「早めに対応していただいたおかげで大事に至らずに済みました」とお電話をいただいたばかりです。

プライマリ・ケア(初期医療)を担当する私たちが、日頃なにげなく診ている患者の中には重大な病気が隠れていて、その病気を見逃してしまうことが患者の命を左右すると場合があります。砂浜に落としたダイヤを探すような、そんな仕事が私たちプライマリ・ケア医の役割のひとつなのかもしれません。看護婦さんがちょっと血圧を測ってくれたから、あるいは患者が一言だけキーワードを告げてくれたから、あるいは医者のなんのことはない胸騒ぎがあったから救われる命があるのです。

その意味で、次男の肺炎を見逃した「事件」は私にとって重要な教訓になりました。その息子も今は中学生になりました。肺炎になって以降、大きな病気にもならずに成長し、今や私の身長を追い越そうとしています。酸素テントの中で点滴がつながれながらすやすやと寝息を立てながら寝ていた当時の息子を思い出すと今でも可哀そうで涙が出てきます。でも、あのときの経験があったからこそ、今も予断をもたずに診療しようとする意識が保てているのかもしれません。まだまだ修行が足りないと感じるときもありますが。

医学生の頃、病院実習の時に指導教官から「患者を自分の親だと思って診察しなさい」といわれました。当時はその意味を、「(自分の親だと思って)緊張せずに診察しなさい」といわれたのだと思っていました。しかし、その先生はきっと「自分の身内だと思って患者を大切にしなさい」ということを私たち学生に伝えたかったのでしょう。医者は、あるいは医療・診療は「毎日が勉強、日々が経験だ」ということを痛感します。ともすると日常にながされそうな自分を戒めながら。

がんばれ、新人君

先日、今上天皇陛下の祝賀御列の儀がありました。即位礼正殿の儀のときとはうってかわっての晴天で本当によかったと思います。それにしても即位礼正殿の儀の日は朝から大雨。せっかくのおめでたい日だというのにお気の毒に、と思いましたが、式典が始まるころには厚い雲から薄日が差しはじめ、雨がやむと青空となり、場所によっては虹までが見られるようになったのには驚きました。

それにしても、あの即位礼正殿の儀が行われた日の天候の変化は、以前の記事(「令和に思う」)にも書いたような「草薙剣」のいわれを地で行くようなものだったともいえます。つまり、厚い雨雲から出でる水神でもあるヤマタノオロチ。スサノオノミコトはこのオロチを退治するためにオロチに酒を飲ませて切りつけますが、彼が手にしていた十挙剣はオロチの尾の草薙剣にあたって刃こぼれをおこします。

死闘の末にスサノオはオロチを撃ち取り、その体を切り刻むとオロチの尾からは草薙剣がでてきました。すると、空一面をおおっていた厚い雲は切れ、一条の太陽の光が暗かった大地を照らし、ふたたび静かで平和な世の中が戻って来た、というものです。どうでしょう。あの即位礼正殿の儀の日の天候の劇的な変化に、なにか神がかり的なものを感じませんか。皇室の行事ではこうした奇跡がこれまでなんどもありました。

天皇陛下のお仕事は「日本の五穀豊穣と安寧、および国民の幸福と安全を祈ること」です。即位礼正殿の儀で今上陛下が宣明された「国民の幸せと、世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら国民の象徴としての務めをはたす」という誓いは、古来から営々と天皇が繰り返してこられたものです。それは14日からとりおこなわれる大嘗祭が、天皇の役割を天照大神から今上陛下が引き継ぐ祭祀であることからもわかります。

 

***** 以下、「令和に思う」からの引用

草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

***** 以上

 

日本は西暦とは異なる元号を用いており、その時代時代を象徴するイメージを容易にもつことができます。元号など無用の長物だという人もいます。しかし、一連の皇室行事を通じて感じるのは、日本古来から伝わる文化を残すことで日本人としての意識をあらためて確認できるということです。そうすることにより、世界にも類を見ない日本の伝統や文化を維持・発展できるのではないかと思います。

史上はじめて日本の古典である万葉集から採用された「令和」という元号。いったいどのような時代になるのでしょうか。日本をとりまく国際情勢、あるいは国内でのさまざまな軋轢や摩擦は、ともすると日本の誇るべき「仁・義・礼・智・信」の精神をそこなうきっかけにもなりそうで心配です。令和という元号の文字の意味にもあるように「清々しく調和のとれた時代」となればいいのですが。

そんな「令和」の時代に社会人となった人たちが、来院する製薬会社のMRさんにも、あるいは患者さんにもたくさんいます。そうした人たちにはいつも「社会人になって半年。そろそろ疲れていないかな?」と声をかけてみます。社会に出て間もないころは、まだ右も左もわからずにただ仕事をこなすのが精いっぱい。戸惑いながらも無我夢中で働いてきたであろう彼らの中にもなにかの変化が起こっています。

がむしゃらの半年がすぎ、ある程度冷静に周囲を見渡せるようになると、心にも余裕がでてくる反面、会社や仕事の嫌なところが見えてきます。必死だった仕事にも、あるいはそりの合わない先輩や上司にも多少疲れてきて、そろそろ「この仕事(会社)を辞めたい」と思い始める人がでて来る頃です。現に私もそうでしたから。「このままでいいのだろうか」というあせりが襲ってくるのです。

社会人となって半年を経た人たちに私は「そろそろ会社をやめたくなったんじゃない?」と尋ねてみます。すると、「そんなことはありません」ときっぱり答える人よりも、肯定したそうな表情で苦笑いする人の方が圧倒的に多いことに気が付きます。しかし、私はそうした人たちにこういいます。「だからといってすぐに会社を辞めちゃだめだよ」と。これは気休めで言っているのではありません。

その会社(仕事)を辞めたって、他の会社に移ったって、別の仕事に就いたって、結局は同じような状況にぶつかるからです。私は彼らにこう付け加えることも忘れません。「ひとつの場所で頑張れない人間は、よそに行っても頑張れないんだからね」と。他の会社に行けば、あるいは別の仕事をすれば、不満や嫌気から解放されて、自分にふさわしい理想的ななにかに巡り会えるなんてことは稀有なのですから。

最近は「頑張らない」ことが当たり前のようになってきました。「頑張らなくていい」という言葉が人の優しさを表現しているかようです。しかし、そうではありません。「頑張らなくていい」のは心の病気の人。頑張れないからこそ病気になった人がそもそも頑張れるはずがないのですから。頑張るべき人にも「頑張らなくてもいい」と声をかける人がいますがそれは違うと思います。

私は会社(仕事)を辞めたいと思っている新人君たちに、「すぐに辞めちゃだめだよ。辞めることはいつでもできる。そのときまで頑張れるだけ頑張るんだ。そうした頑張りが次の仕事にもつながるんだから。頑張って、頑張って、頑張って、ボロボロになったときに躊躇することなく辞めればいい。私の若いころとは違って、今は転職することのハードルは決して高くないんだからね」と言います。

私たちの時代は、同じ会社に退職まで勤めあげることが当たり前で、途中で他の会社や仕事に移る人はまるで負け犬か何かのように思われました。しかし、今は違います。多くの人にとって働くことは「自分のスキルアップのため」であり、自分のスキルにあわせて転職をすることを後ろめたいと思う必要はなくなりました。途中退社、中途採用であること自体が不利な条件ではなくなったのです。

今は食べていくだけならどんな仕事にもありつけます。より好みさえしなければ仕事は必ず見つかるのです。だからでしょうか、すぐに会社(仕事)を辞めてしまう人が少なくありません。しかし、問題は「働くことの意味」なのです。働くことの必要条件を「食べていけること」とすれば、給料が高いこと、楽しかったり、働き甲斐を感じることなどは十分条件。その必要十分条件をそろえるためには努力が必要です。

理想的な仕事などなかなか見つかるものじゃありません。だから私はあえて言いたいのです。「そんなに簡単に仕事を辞めちゃダメだよ」と。若いころの私は「気に入らない仕事を我慢してやることになんの意味があるのか」と考えていました。医学部の再受験をするため、他の友人たちが皆就職する中、ひとりだけ塾の講師をしながら受験勉強をしていた私ならではの強がりだったのかもしれません。

当時の思いがそのままセリフとなったドラマがありました。そのドラマはNHKで放映された「シャツの店」です。家庭や家族を省みず、仕事一筋に生きてきたシャツ職人にその妻と息子が反旗を翻すというもの。そのドラマの中で、家出をした息子と父親とのやり取りがとても印象的でした。大学卒業をまじかにした息子は会社に勤めず世界を放浪するといいます。それを聞いた職人の父が説教をするシーンです。

 

********** 以下、ドラマのワンシーン

(待ち合わせた川べりの喫茶店。父と息子が向き合って座っている)

父親:働かないでどうやって食べていく?

息子:働かないなんていってません。

決まった会社には入らないと言ったんです。

父親:それで?

息子:金をためて、しばらく世界を歩いてみようって。

特別変わったことじゃないです。

いい会社入った先輩で、1,2年で辞めてそういうことする人一杯いるし。

父親:そんなぐうたらな仲間に入ってどうするっ。

息子:勤めてりゃ満足?

ネクタイ締めて、とりあえずひとつんとこ勤めてりゃいいんですか?

父親:まぁ、そうだ。

息子:むちゃくちゃじゃないっ。

父親:若い時はなぁ、ひとつの仕事を我慢しても続けてみるもんだ。

息子:どうして?

父親:自分がどんな人間かわかってくる。

息子:わかってるつもりだけどな・・・。

父親:わかってるもんかっ。

人間ってものはな、嫌でたまらない仕事を我慢して続けたりして、だんだんに自分が

わかってくる。

我慢しているうちに、だんだん自分がしたいことがわかってくる。

だいたい仕事なんてものは、すぐに辞めては本当のところなどわかるものじゃない。

どんな仕事だって奥行きが深いもんだ。

息子:そりゃ父さん、自分の仕事で考えているんだよ。

だいたいの仕事は奥行きなんてないさ。

ひと月も勤めればわかる。

父親:生意気なことを言うなっ!

息子:むしろ褒めてもらいたいけどな。

人の目を気にしていい会社を狙うより、ずっと健康的なんじゃない?

父親:ふわふわ世界を歩いてなにがわかる?

息子:そんなの会社に勤めたって同じじゃない。

せいぜい人当たりがよくなって、処世術を覚えるくらいで。

父親:高をくくるなっ!

息子:だったら俺の計画にも高をくくるなよっ!

*********** 以上

 

この息子を演じたのは私と同じ年齢の佐藤浩市でした。ドラマのなかの彼も大学を卒業後、塾の講師をして資金をため、世界放浪の旅を計画していると言い出します。このドラマを見ていた当時の私は、この息子に自分自身を重ねていたように思います。私の父もまたこの鶴田浩二が演じる父親と似ていて頑固一徹でしたから、なおさらこのシーンに共感できたのではないでしょうか。

そして今、このドラマの父親と同じ世代となった私は、息子の気持ちというよりも父親の気持ちに共感するようになりました。だからこそ若い人たちに「すぐに辞めちゃだめだよ。どこにいっても同じ壁にぶちあたるんだから。別の会社に行っても、結局は『どこの会社も同じだ』って気が付くんだから」と言いたくなるのです。これは私の半生を振り返っての感想でもあります。

要するに私が若い人たちに言いたいことは、「会社(仕事)を辞めることは悪いことじゃない。いつ辞めてもいい。でも、だからこそ、それまでは今の自分がぶち当たっている壁に立ち向かって、その壁を乗り越える努力をしてごらん。そして、どうしても乗り越えられないことがわかったら、そのときにこそすっぱり辞めればいいんだから」ということ。壁を乗り越えようとする努力は必ずあとで役に立つのです。

誰かに相談することもできず、ひとり悶々と悩み、そして試行錯誤しながらもがいていたあの頃に戻ってみたいと思うときがあります。今度はうまく切り抜けられそうに思えるからです。しかし、現実にはあの頃に戻れるはずがありません。であるなら、自分の経験を伝えることで若い人たちが困難を乗り越えるお手伝いができるかもしれない。それが私たちの世代の役割なのではないかと思っています。

最後にこれからの人たちに贈る応援歌を二曲。これは私が北大の医療問題研究会というサークルで活動していたとき、追い出しコンパ(卒業生を送り出す会)で、先輩たちへの応援歌としてよくかけられていた歌です。ひとつは岡村孝子の「夢をあきらめないで」で、もうひとつは松山千春の「大空と大地の中で」。名曲はいつ聞いても勇気を与えてくれます。若い人達にも是非このエネルギーを感じとってほしいものです。

※ UVERworldの「I LOVE THE WORLD」も若い人たちへの応援歌歌詞がすばらしい)

                  がんばれ!

 

ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。

質的研究(3)

日本とアメリカの両国での集団面接、いわゆるフォーカスグループでは面白い違いが見られました。会場には食べ物や飲物をおき、参加者が話しやすい雰囲気を作ってインタビューをおこないましたが、アメリカでは多くの人が調査開始までの間、コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりしながら参加者同士が談笑しており、皆リラックスしていました。それに対して日本ではほとんどの人がお菓子や飲み物には手をつけませんでした。また、面接が始まるまでは静まりかえっているなど、アメリカでの風景とは異なっていました。

日本での参加者全員が有力者の紹介で集まり、お互いに知り合いだという人もいました。にも関わらず、フォーカスグループが始まってもなかなか発言がありませんでした。ところが、いったんキーワードとなるような話題が出ると話しが多少だけ盛り上がり、日本の参加者は自分の意見を集団の中で発表するのに慣れていないという様子がうかがえました。調査終了後、協力していただいた人には謝礼を支払ったのですが、日本の参加者は全員がその謝礼を受け取るとそのまま会場をあとにしました。

ところがアメリカは違いました。結構な数の人が調査後も残って、私たちを取り囲んでは「とても興味深い調査だね。もっと詳しく教えてくれないか。日本ではどんな話しが出たんだい?」と今回の研究に関心を持ってくれました。しかも何人かの人が「私はこの研究を手助けするために来たのだから謝礼はいらない」と謝金を受け取りませんでした。自発的に参加したか、紹介されて参加したかの違いによるものかもしれませんが、日本人とアメリカ人の社会参加に対する意識の違いを反映しているようにも見えました。

日米での調査がすべて終わるころ、日本での質的調査の結果を論文にして投稿したときある問題が生じました。それは投稿した学術雑誌の編集委員会が、私の質的調査の論文を「原著としては掲載しない。資料としてなら掲載する」と言ってきたのです。科学雑誌に投稿した論文は「査読」と呼ばれるチェックを受け、論文として不適切な部分の修正を求められます。その雑誌の査読を受けていた私の論文はどうやら原著論文にはふさわしくないと判断されたようでした。

「原著論文」というのはその研究の独創性や新規性が学術的に評価されたものであり、「資料」とは興味深い結果ではあるがその価値は参考程度にとどまる論文といったニュアンスがあります。ですから、「この論文は原著ではなく資料として掲載するべき」ということは、科学論文としての価値が不十分だとみなされたのも同然なのです。投稿した雑誌が従来から量的研究の牙城だったからかもしれませんが、原著論文として掲載されないのは質的研究(調査)の論文だったということが大きく影響しているように思えました。

すでにお話ししたように、数値を使って統計学的な有意差を確かめる量的研究とは違って、質的研究はあくまでも分析者の主観を利用しています。主観を利用していますが、「恣意的な研究」ではありません。しかし、「恣意的」だとする誤解(偏見?)が根強く残っている質的研究の論文は、当時、学術雑誌に原著として掲載されることはほとんどありませんでした。しかし、私は「原著論文の価値がある」と確信できる論文を書いたつもりでしたし、ミシガン大学のフェターズ先生からもお墨付きをもらっていました。

一方で私は、質的調査の結果をまとめた自分の論文をあえて量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に「原著」として掲載することを重視していました。それは質的研究も「科学的研究」なのだと認めさせる戦いでもあったからです。それまでさまざまなところで感じてきた質的研究に対する偏見や誤解を払拭し、質的研究も学術的な手法として正当なものであることを主張するためには、量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に質的研究の論文を「原著」として掲載しなければならならなかったのです。

私の論文は三人の編集委員から査読を受けた後、委員が求めた修正コメントとともに戻ってきました。しかし、査読した委員からの修正コメントには、質的研究を方法論として理解しているとは思えないような不適切な修正要求が書かれていました。私は論文の修正すべきところは修正しましたが、納得のいかない修正要求にはひとつひとつに反論を書いて再投稿しました。編集委員のひとりはその後再修正を求めてきませんでした。しかし、他の二人の委員からはなおも前回と同様の修正要求が再び送られて来ました。

私の反論に対して納得のいく回答がないことを指摘するとともに、共同執筆者でもあるフェターズ先生の「原著論文にならないのは納得できない」との意見を添えて再度反論しました。しかし、編集委員会からの査読結果は変わりませんでした。むしろ「資料でであれば掲載するが、あくまでも原著論文としての掲載を求めるなら受理しない」と突き放すような回答が返ってきました。質的研究の論文を原著として雑誌に掲載することの難しさを改めて感じさせられました。

私はフェターズ先生と相談の上、今回は「資料」での掲載で甘んじ、次の論文を原著で掲載することを目指すことにしました。「今度こそ原著論文で掲載させてみせる」との決意も新たに、その後の論文もこの雑誌に原著論文として投稿しました。もちろん納得のいかない査読結果にはしっかり反論して再投稿しました。ところが、そうした私の意気込みをよそに、編集委員会はあくまでも「原著も資料もその価値は同じだから」という理由を繰り返し、続いて投稿した論文もことごとく原著として掲載しませんでした。

質的調査を実際にやってみると、質的研究の課題も明らかになってきました。そうしたことも、他のいろいろな雑誌に論文として投稿していました。するといつしか原著論文として掲載することを拒んでいたあの学術雑誌から質的研究の論文の査読を頼まれるようになりました。おそらくその雑誌にも質的研究の論文投稿が増えてきたからだと思います。それまで納得できない査読結果に不満をもっていた私は、私自身の経験をふまえて執筆者が質の高い論文を書けるよう、執筆者が納得できる査読を心がけました。

そんなときにちょっとした「事件」がありました。それは投稿された論文を査読していたときの話しです。私はその論文の方法論として修正しなければならない点をいくつか指摘して執筆者に送り返しました。ところが、いつまで経っても再投稿がありませんでした。私はいつの間にかその論文のことを忘れていました。あるとき、雑誌を見ていたらなんとあの論文が掲載されているのに気が付きました。私はびっくりしました。あの論文を雑誌に掲載させることを私はまったく了承していなかったからです。

私は編集委員会に連絡しました。ところが「編集委員会の決定にもとづいて掲載したものであり、あなたの査読結果に拘束されない」というのです。「それではなんのための査読なのか」と強く抗議しましたがあとの祭り。あとで調べてみたらすごいことがわかりました。その論文はなんとこの雑誌の編集委員会幹部の研究室の修士論文だったのです。つまり、一刻も早く雑誌に掲載しないと、学位論文の提出に間に合わなかったというわけです。自分が指導する学生へのお手盛りだといわれても仕方のない判断です。

こんな解釈は私の「ゲスの勘繰り」かもしれません。でも、事実を時系列に並べるとそうなるのです。私は「日本のアカデミックはここまで腐っているいるのか」とあきれてしまいました。質が担保されていた(はずの)私の論文を原著論文として掲載することはかたくなに拒みながら、その一方で編集委員会幹部に忖度したかのように基準に満たない論文を掲載してしまうという現実はあまりにも衝撃的でした。それ以来、私には質的研究の論文の査読依頼は来なくなりました。当然のことながら、後日、私は学会を退会しました。

いろいろなことがあった大学院時代でしたが、ついに学位論文をまとめる時期がやってきました。すでに質的研究の方法論について、あるいは実際におこなった質的調査についてまとめた論文が次々と雑誌に掲載されていましたから、あとは形式にしたがって学位論文にまとめるだけでした。当初、「質的研究で学位はとれないのではないか」という陰口も耳にしましたが、私は「それでもできるだけのことはやってみよう」と気にとめないようにしていました。でも、私はついに質的研究で医学博士の学位を取ったのです。

質的手法をもちいた調査研究で医学博士が授与されたのは私が初めてではないかといわれています。大学院に進学したものの、研究の進め方も、論文の書き方も、すべてを自分ひとりで学んできました。正直にいえば、「学位論文にまとめられれば、学位までとれなくてもいいや」と弱気になったこともあります。しかし、ミシガン大学のフェターズ先生の助言と協力と多額の研究助成のおかげもあって私は学位をとりました。ゼロからスタートして学位にまでたどり着けたことはその後の私の大きな自信となりました。

開業医としての仕事をしながら、大学院時代の「プライマリ・ケアに対する患者ロイヤルティの関する研究」はとても役に立っています。患者が私たちになにを求め、なにに不安を感じているのか。患者の「声なき声」ともいうべきニーズを追い求めながら、あるべき医療を考えるとき、あのときの研究が私にヒントを与えてくれます。日本やアメリカでの質的調査、ミシガンで生活した思い出は今でも私の大きな原動力になっています。今の自分は間違いなくあのときの研究、当時の思い出に支えられています。

質的研究(2)

「プライマリ・ケアに対する人々の信頼を醸成する」ためには、まず、患者がプライマリ・ケアをどうとらえているかを調べてみなければいけないと私は思っていました。それらをインタビューをはじめとする質的調査手法で調べてみようと思ったのです。そして、患者がプライマリ・ケアに対して持っているイメージの背景に何があるかを明らかにしてみようと考えました。そのためにまず日米の比較研究をしてみよう。そう思っていたときに巡り会ったのが米国ミシガン大学のマイク・フェターズ先生です。

私は当初、米国留学から帰国したばかりの助教授に、日米比較調査をするアメリカ側の相手を探すため、米国で診療している日本人医師を紹介してもらいました。するとミシガン大学医学部のアメリカ人研究者が質的研究を実際にやったことがあるらしいと教えてくれました。それがフェターズ先生でした。さっそく私はフェターズ先生にeメールを送りました。すると彼も私の研究に関心があるとの返事をもらいました。それ以後、日米比較調査はとんとん拍子に具体化していきました。

問題は研究費をどう捻出するかでした。質的調査、しかも日米両国での調査となればそれなりの経費がかかります。そこで私は受けられそうな研究助成(グラント)に片っ端から応募してみました。小さな額から大きな額まで、応募できる助成のすべてに申請書類を送りました。その中でもとある大手製薬会社の助成金は500万円と多額でした。大学院に進んでからすでに結構な額の自腹を切っていたこともあって、この研究助成金は是非獲得したいものでした。私は祈るような気持ちで応募しました。

しばらくして私の研究が採択される旨の通知が来ました。500万円の助成金が受けられるのです。正直、ほっとしました。この助成金でインタビュー調査に使用するビデオカメラや音声録音機器のほか、質的調査の分析の際に必要となる機材を購入することができます。なにより調査に協力してくれた人たちに謝金が払えます。また、アメリカへの渡航費用や滞在費も捻出できます。私のモチベーションは一気に高まりました。論文を執筆するペースもどんどん進んでいき、日米比較研究をはじめる準備は次第に整っていきました。

そのときの研究室には大学院生の後輩がいました。他大学の歯学部を卒業した彼を、うちの医局の教授が誘って大学院生として入学してきたのです。しかし、彼もまた入学後ずっと教授から指導を受けることもなく、日々を無為に過ごしていました。なにをやればいいのかわからないまま時間だけが去っていく。そんな毎日に彼はどんどん元気がなくなっているように見えました。せっかく期待を胸に入学してきただろうに、なかば「飼い殺し」になっている彼が気の毒でした。

私は彼を共同研究者にして日米比較調査の手伝いをさせようと思いました。500万円もの助成金を得られたのですから、彼をアメリカに連れていく渡航費も出して上げられます。私の調査の手伝いをしながら、彼自身の研究に対するモチベーションを高められればという思いがあったのです。そのことを告げると彼の表情は明るくなりました。これまでたったひとりで頑張ってきた私ですが、共同研究者という心強い仲間もできました。日米比較調査に対する期待はどんどんふくらんでいきました。

フェターズ先生とはeメールで、ときには国際電話でやりとりをしながら日米比較調査を具体化していきました。その一方で、渡米するまでに日本でのインタビュー調査も進めておかなければなりませんでした。北海道大学の倫理委員会に日米比較調査をする申請をしたり、調査に入る地域への挨拶まわりをしたり。調査に協力してくれる人の募集やインタビューガイドとよばれる進行表の作成など、やらなければならないことが目白押しでした。それまでマイペースだった大学院生活は一転してとても忙しいものになりました。

そんなとき、フェターズ先生から私を愕然とさせる連絡が入りました。それは「ミシガン大学との共同研究には約300万円の協力費が必要だ」というのです。今回の日米比較調査は正式に北海道大学とミシガン大学の共同研究になっていました。ですから、北海道大学に対する申請の他に、ミシガン大学でも膨大な申請書類を提出して審査を受けなければなりません。ミシガン大学の施設を使い、私も研究員として調査に加わる以上、それなりの費用がかかるというのがフェターズ先生の説明でした。

500万円の研究助成を受けられると喜んでいたのもつかの間、その多くをミシガン大学に支払わなければならない。フェターズ先生は「これは大学の決まりだから」と言いますが、思いもかけない多額の出費はやはりショックでした。しかし、予算が大幅にオーバーするからといって調査を縮小することもできません。アメリカに連れて行く後輩の渡航費を負担しないわけにもいきません。予想外の出費を自腹でまかなうことにして調査は予定通りに進めることにしました。

アメリカには打ち合わせのために何度か行きました。そのときの珍道中はすでにこのブログでも紹介した通りです。ビデオ機材を担いでなんども「羽田ーデトロイト」を往復したせいか、アメリカでの入管では結構しつこく入国目的をきかれました。二回目の打ち合わせに渡米した帰り、成田空港では珍しくめずらしく手荷物検査も受けました。入管の審査官はビデオの三脚を中心に細かく調べていましたが、おそらく麻薬の密売人を疑われていたんだと思います。三脚に麻薬を隠すことが多いのでしょう。

日米比較調査というビックプロジェクトを進めているというやりがいを感じながら毎日が充実していました。日本での調査も順調に進み、あとは渡米するのみとなりました。アメリカでの長期滞在のために用意したどでかいトランクの中には、日本での調査結果とともに私の夢と希望が詰まっていました。成田で共同研究者である後輩と合流し、「羽田発デトロイト行きのノースウェスト機」に搭乗しました。打ち合わせに初めて渡米したときの失敗を繰り返さないためデトロイトへの直行便を選びました。

デトロイト空港での入国審査ではかなり入念に質問されました。「入国の目的は?」「どのような研究?調査の内容は?」「共同研究者の所属と名前?」「その間の生活費はどうする?」「どこに住む?」などなど矢継ぎばやにきかれました。きっと観光ビザで入国しても実は労働目的ってアジア人が多いからなんでしょう。ようやくアメリカに入国できたのもつかの間、レンタカー会社に行き、慣れない英語で車を長期間借りる手続きをしてようやくアン・アーバー市へ。

アン・アーバーに着いてミシガン大学へ。まずは大学の留学生用の宿舎を借りなければなりません。広い大学構内にレンタカーを走らせ、あちこち迷いながらようやく事務所にたどり着きました。英語での手続きは思いのほか簡単ですぐに終わりました。ミシガン大学の広さは日本の大学の比ではありません。構内にひとつの街が存在するかのような広さ。無料の巡回バスが定期的に走っているくらいですから。校舎を移動するときはそのバスに乗っていきます。アメリカでは車なしでは生活できないのです。

大学の構内には至るところに掲示板があり、ボランティアの募集やなにかのレッスンの勧誘チラシがぎっしり貼られています。例えば、転居かなにかで車が不要になった人は「車売ります」と書いた紙を貼っていきます。そのチラシには電話番号が書かれた小さな紙片がぶらさがっていて、その車に興味をもった人たちがその小さな紙きれをちぎって持って帰るのです。アメリカに何年も留学する人たちはこうして中古の車を手に入れます。アメリカならではの合理的なシステムです。

私たちが借りた留学生用の宿舎は二階建ての建物の二階にあって、20畳ほどのリビングと8畳の寝室、そして、台所とバスルームという家内とふたりで生活するにはちょうどいい広さでした。週末には掃除や洗濯をしてくれるハウスキーパーが来てくれました。一方で、一緒に連れて行った大学院の後輩は、発展途上国からの留学生などが格安で住むことができるアパートに部屋を借りました。そのアパートは大学からは少し離れていましたが、私の宿舎に来るときは大学の無料バスで来ることができました。

フェターズ先生は家庭医療学講座の准教授でした。平日は彼のオフィスがある大学の施設に通い、アメリカで行なう調査の計画と準備をしました。オフィスには長崎大学医学部から留学していた先生や公衆衛生学部の日本人留学生などがいて、私たちの調査に協力してくれました。24時間英語で話さなければならない環境は私にとってはそれなりにストレスでした(家内によれば、寝言すら英語だったそうですから)が、日本語が通じる日本人留学生が身近にいることはとても心強かったです。

準備万端でおこなったアメリカでの調査はとても興味深いものでした。アメリカ人の成熟した社会性に感心したといってもいいかもしれません。調査はまずインタビューに協力してくれる人を探すことから始めました。当初、誰かからの紹介ではなく、調査に興味を持ち、自発的に応募してくる参加者を集めることにしていました。そこで、アン・アーバー市とその周辺地域にある教会やスーパー、床屋さんなどをまわって、掲示板にチラシを貼らせてもらい協力者を募集しました。

アメリカでは協力的な人ばかりでした。調査の目的と概要を説明して「貼り紙をさせてもらえないか」と頼むとほとんどの人が好意的でした。「とても大切な調査だね。好きなところに貼っていっていいよ」といってくれます。とくに教会などでは「他の教会、知り合いの人にも貼り紙を頼んであげましょうか」と申し出てくれるなどとても協力的でした。ときには私の英語が下手で困ることもありましたが、貼り紙をさせてもらうのに苦労することはほとんどありませんでした。

一方、日本ではこうはいきませんでした。同じように貼り紙をお願いしても、「それはちょっと勘弁してください」と拒否されたり、「責任者の許可をとらなきゃならない」と言われてその後返事がないまま、といったことがしばしばでした。日本では調査の目的や内容の問題というよりも、「協力する」ということ自体が嫌厭されていたように思います。結果として、アメリカでは貼り紙を見て自発的に応募して来た人が多かったのに対して、日本の参加者はその全員が紹介してもらって集めた人という結果になりました。

 

********* 「質的研究(3)」に続きます。

質的研究(1)

私がまだ医学部の学生のころ、「全人的医療を考える会」というセミナーが開かれていました。「全人的医療」とは「人の疾患を診るのではなく、病気を抱える患者を診る」をスローガンとする医療をいいます。その医療を実践する運動で中心的な役割を果たしたのが今は亡き大阪大学の中川米蔵教授です。セミナーでは座学や講演、体験学習がおこなわれましたが、私はその会自体よりも体験学習に興味があり、その方法論をめぐって中川教授となんどか手紙のやりとりをしたほどでした。

当時から私は「医者には面接技法が必要」と思っていました。そんなこともあって、カウンセリングを治療法としてもちいる臨床心理学を中心に勉強していました。セミナーでの体験学習の方法論につながっているように思えたからでもあります。エンカウンターグループという集団面接によるカウンセリングは、医者になったとき、外来での患者とやりとりに活かせるのではないか。そんなことを考えながら勉強していましたが、後に私が学位をとった質的研究にもつながっていきました。

私は特定の臓器を専門とする医者(一般的にいう「専門医」)になろうとは思っていませんでした。当初からプライマリ・ケアを担当する「プライマリ・ケア医」としてできるだけ患者を幅広く診ることができる医者になろうと考えていました。病気を治療・管理するだけではなく、患者の不安や悩み、健康相談までトータルにサポートできる医者になりたかったのです。専門医になることよりもプライマリ・ケア医として患者を診ることの方が医者としてやりがいがあると思っていたのかもしれません。

しかし、「プライマリ・ケア医(開業医)を信用していない国民は決して少なくない」ということはうすうす感じていました。「開業医」や「町医者」といった言葉には、どこかその医者を軽蔑するような響きがあります。大学病院の医者は優秀で、町医者はあてにならない、そんなイメージがあるのかもしれません。開業医の多くはかつて大学病院の医者だったのに、町医者になったとたんになぜそのようなイメージにかわるのか。私は以前からその理由が知りたいと思っていました。

専門診療をする医者には当然専門性がなければなりません。その専門医が持つ高度で専門的な技術と知識はプライマリ・ケア医にはないものかもしれません。しかし、その一方でプライマリ・ケア医には患者をトータルに診ていく医師としての守備範囲の広さが必要です。特定の臓器をあつかう専門医にはこの守備範囲の広さがありません。つまり、それぞれの医者にはそれぞれの専門性があるのです。専門医の「深さ」とプライマリ・ケア医の「広さ」を「どちらが有能か、優秀か」と比較すること自体が無意味なのです。

にもかかわらず、一般の人たちの中にはプライマリ・ケア医に対する根強い不信感がありそうです。それがどう形成されてきたかを知ることは、プライマリ・ケア医への信頼をとりもどすことにつながるかもしれません。しかし、そうした調査や研究をした文献はこれまでほとんどありませんでした。プライマリ・ケアに関する研究はそれだけ遅れているということでもあり、私は大学院で「国民の信頼を得られるプライマリ・ケアのあり方」について研究をしてみたいと思いました。

といいながら、私が調べたいと思っていた領域の研究の指導をしてくれる場所がありません。仕方なく当時所属していた医局の教授を指導教官にして大学院に進むことにしました。「仕方なく」と書いたのは、当時の医局の教授はあまり研究に関心がなく、適切な指導を受けることは期待できなかったからです。しかし、それは逆に自由に研究をさせてもらえることでもあります。なにはともあれ、とにかく大学院に進んでやれるだけのことはやってみようと思ったのでした。

大学院に進んでみると、予想したとおり指導教官の「指導」はありませんでした。何をどうしたらいいのか、私は手探りで研究を始めなければなりませんでした。でも、自分で選んだ道です。同じ研究室の仲間達に愚痴をこぼしながらも、とりあえず「プライマリ・ケアへの信頼を取り戻すにはどうしたらいいか」という大テーマに関連する本を私は片っ端から読んでみました。また、これまでの先行研究もできるかぎり取り寄せて読みることにしました。はじめの1年はこの作業に明け暮れました。

すると、やらなければならないテーマが次々と浮かんできました。その領域もどんどん広がっていきます。それほどまでに医師・患者関係に関する研究はほとんどが手つかずだったのです。それには理由がありました。まず、医者はそのような事柄に関心がなかったこと。そして、「どのような方法論」で調べていくかについて限界があったからです。多くの研究はアンケートに頼ることがほとんどでしたが、アンケート調査を繰り返してもそれまでの研究成果をブレイク・スルーするような結果は得られなかったのです。

研究課題を明らかにするのにふさわしい方法論が見つからない。そんな現実に行き詰まっているうちにあっという間に2年が経とうとしていました。あと2年で成果を出さなければいけないというプレッシャーを感じるようになったとき、アメリカでの留学を終えて助教授に赴任してきた先生に「アメリカでは『質的研究』というものがあるようだから勉強してみたら」とアドバイスされました。「質的研究」という耳慣れない言葉に興味をもった私はさっそく調べてみることにしました。

試験管を振ったりして実験的に調べる研究を自然科学といいますが、人々がどう考えているのかをアンケートなどの手法を使って調べる研究を社会科学調査といいます。アンケートでは統計学的な手法を使って回答の傾向を調べますが、社会調査ではときにアンケートではなく、観察調査やインタビュー調査などによって人間の行動や意識の深い部分を探ろうとするものがあります。これらの手法はアンケートでは知ることのできないような事象の意味などを調べるときに有用な方法論です。

このように、社会調査の中でアンケート調査のようにデータを数値化して統計処理するものを「量的研究」、インタビューなど非数値化データを利用して解析するものを「質的研究」といいます。従来の「量的研究(調査)」に慣れた人たちからすると、数値や統計処理に頼らずに解析する質的研究は客観性に欠けた「いい加減な調査」に見えるようです。質的研究に向けられる批判の多くはまさしくその「客観性がない(に欠ける)」という点(ある意味でこれは無知から来る誤解なのですけど)でした。

でもよく考えてみて下さい。アンケート調査はデータを数値化して統計理論を背景に客観性が担保されているように見えます。しかし、アンケートの回答がきちんと対象者の意見や考えを反映しているとどうしていえるでしょう。アンケートの内容、設問の妥当性が担保されているかという点は重要です。しかし、そこは皆目をつぶっています。アンケートの選択肢にはない回答は「その他」として処理されますが、「その他」の回答の中にこそ重要な情報があるといった場合もあります。

つまり、「量的研究」と「質的研究」のどちらが優れているかという問題ではないのです。その調査に適している方法論はなにか、というところが大切なのです。たしかに質的研究は恣意的なもの、あるいは作為的なものになる危険性はあります。しかし、調査プロセスをしたがって、調査の質を担保する工夫を施し、論理的に結論を見いだす努力によって科学性はある程度担保されます。そのことを私は、質的研究の方法論をその根本から学びながら実感しました。

私はまず「恣意的だ、主観的だ」といわれる質的研究の方法論を一度整理してみようと考えました。質的調査の正当性・妥当性を統計学的に調べようと思ったのです。学生アルバイトを募って、質的研究でおこなう分析の妥当性を検討する実験をしてみました。たった8人ほどの学生を使ったものでしたが、事前に分析のプロセスを決め、複数の分析者による確認作業を併用すれば、「人間の主観はいい加減だ」と一方的に批判されるべきではないことがわかりました。

こんなことがありました。ちょうどこの頃、長男は2歳ぐらいでいろいろなものを口にするので困っていました。携帯電話を手にしてボタンを押すことを覚えて、いろいろなところに電話をかけてしまい、その都度私たちが謝りの電話をかけるといったことがしばしばありました。私のところにもなんどか電話がかかってきて、「もしもし」と呼びかけても返事なし。何度も呼びかけるうちに「スーハー、スーハー」と鼻息だけが聞こえてきます。なにやら「変態電話」のようなコールでした。

あるとき私の携帯をなにげなく見たら、方法論に関する実験を手伝ってくれた女子学生の連絡先に電話をかけた痕跡がありました。若い女子学生のところに用もないのに私が電話をするはずがありません。私はとっさにあの「スーハー、スーハー」という息子の鼻息を思い出しました。私の携帯からの電話を受取って、その「スーハー、スーハー」を聴いて女子学生が勘違いしていないか心配になりました。私は勇気を出してその女子学生にかけ直し、息子が間違ってかけてしまった電話だったとお詫びしました。

彼女たちのような学生を使って質的研究の方法論を検討してみると、質的な調査手法が私がこれからやろうとしている研究に役立つことを確信しました。しかし、指導教官にそうした進行状況を報告しましたが反応はありませんでした。また、医局の中ですら私の研究に向けられる冷ややかな目を感じていました。統計調査に慣れた人たちからすれば、質的研究という聞き慣れない方法論は「統計学的に意味のない調査」に見えたのかもしれません。私はそうしたまるで偏見のような逆風を感じながら研究を続けました。

 

****** 「質的研究(2)」につづくに続く