心に残る患者(8)

私はかつて総合診療部という部署に所属していました。「総合診療」という言葉を聞いたことがある人は多くないと思います。聞いたことがある人でも、それがどのような機能をもっているかまでを知っている人はごく少数でしょう(「総合診療など『なんでも内科』どころか『なんでもない科』だ」などと揶揄されたこともあります)。私がまだ医学生だった頃、「全人的医療」という言葉がいちぶの学生の間に広まりました。全人的医療とは「単に病気を診るのではなく、悩めるひとりの人間として理解して診療をしよう」というスローガンです。

総合診療部が全国の大学病院に設立されたのにはそうしたながれと無関係ではありませんでした。専門化、細分化した医療のなかで、適切な医療を受けられずに悩んでいる患者をあつかう診療科が求められるようになってきたためです。専門的な診療が集約された大学病院では、どの専門診療科が担当するのかはっきりしない患者がいます。どこにいっても「我々が診療する患者ではない」と、いわばたらい回しになる患者が少なからずいたのです。そうした患者の受け皿として総合診療部ができた「はず」でした。しかし、実際にはそれぞれの大学のさまざまな思惑で総合診療は作られていきました。

ある総合診療部ではアメリカの家庭医のごとく、内科・外科・小児科はもとより、産婦人科や耳鼻科、皮膚科といった幅広い臨床能力を有する医者を養成しようとしました。またある総合診療部は心療内科のような、心身症といった心理的な背景をもとにした身体的症状をあつかう診療を目指しました。さらにある総合診療部では単に大学のポストを増やす方策として利用され、実質的になにをやっているのかわらない総合診療部すらありました。結局、総合診療の必要性が叫ばれながらも、社会的なニーズとの整合性がとれないまま、総合診療部がタケノコのように次々とできていったというのが実情です。

私が所属していた北海道大学医学部附属病院総合診療部も、当時大学病院での位置づけがはっきりしていませんでした。総合診療部としての明確な理念がないまま、各専門診療科が「うちの患者ではない」と紹介してくる患者をあつかう心療内科のような診療に甘んじていました。私は学生のころから臨床心理学や精神療法に関心を持っていたので、その関連書籍をいろいろ読んできました。しかし、それらを実際の診療に活かすとなると具体的な指導が必要です。 私のいた総合診療部では、心療内科的なトレーニングも経験もない医者それぞれが自己流の診療をしている、という状態でした。

あるときは「手のひらから虫がでてくる」と訴えて皮膚科から回されてくる患者が来ました。またあるときは「私は昭和天皇の隠し子だ」と言っている患者が送られてきたこともありました。どちらも本来は精神科が担当すべき患者です。しかし、さまざまな理由で患者に「精神科に受診しなさい」と言えないケースはまず総合診療部にまわすという暗黙のルールができていました。精神科の診療など未経験の私にとって、そうした患者を診療するのは正直しんどいことでした。私は、総合診療部の運営に明確なビジョンをもたず、こうした現状を放置している上司に不満を持っていました。

「心療内科的な患者」をどう扱うべきなのか、迷いながら忙しくしていたある日、ひとりの外国人が私の外来を受診しました。彼は工学部の大学院にサウジアラビアから留学してきた男子学生でした。問診票に彼が書いた文字はなく、受付スタッフの字で「消化器科からの紹介」とだけ書かれていました。診察室に入ってきた彼は、学生とはいえすでに30歳を超えているように見えました。私は英語で「日本語は話せますか?」と聞いてみましたが、彼は顔を横に振り、身振り手振りで日本語は話せないと伝えているようでした。

しかし、話せないのは日本語だけでなく、英語での会話も十分にはできないようでした。簡単な英単語は通じても、コミュニケーションがとれるほどの会話にはならないのです。はじめは「留学生のくせに英語も話せないのか」とあきれていましたが、自分の思いを必死に伝えようとする彼の姿を見てなんとなく気の毒になってきました。そして、彼の話しに耳を傾けるうちに、どうやら数か月前から胃の痛みと食欲不振が続き、消化器内科を受診したがよく話しを聴いてもらえないまま「総合診療部に行くように」といわれた、ということがわかりました。

はじめは緊張して表情に余裕がない彼でしたが、簡単な日本語と英単語を使って「会話」を続けていると、彼の表情が徐々に緩んでくるのが見て取れました。ときに冗談を交わしながら、今の彼にとって必要なのは、胃カメラなどの検査ではなくこうしたコミュニケーションなのではないかと思いました。とりあえず、胃の負担を軽減する薬を処方し、その効果を見ながら必要に応じて検査をすることにしました。診察室を出ていくときの彼には笑顔がありました。そのとき私は大学に総合診療部がある意味のひとつはこういうことかもしれないと思ったのでした。

一週間ほどして彼はまた外来にやってきました。私は薬を飲んでみて症状はよくなったかと尋ねてみました。すると彼は「症状の改善はあるがまだ十分ではない」と答えました。そこで今回は前回よりも少し立ち入った話しを聴くことにしました。暖かい中東とはまったく環境の異なる北海道での生活は、彼にとってはさぞかしストレスなのではないかと思ったからです。すると彼はいろいろなことを話してくれました。彼がサウジの王族の一員であり、妻と子供を母国に残してやってきたこと。今回の留学は「箔付け」のための遊学だったことなどが明らかになりました。

言葉の問題で大学院の授業にも、また実習にも支障がでていた彼にはそれなりにプレッシャーだったに違いありません。しかも、所属する研究室の教授は、一日に五回、メッカの方角に向けて礼拝しなければならないムスリムの務めに対しての配慮がなく、彼は自分にとってはそれが一番つらいことだと言いました。多くの日本人は信仰というものを日頃意識していません。ましてや、ムスリムの独特な日常に知識のある日本人など少数だと思います。教授がそんな典型的な日本人であれば、拝礼に対する配慮など想像もつかなかったのかもしれません。

私は工学部に電話をして、ムスリムである彼に礼拝するためのスペースと時間を設けてやってもらえないか頼みました。彼の症状を治すためには、薬を処方することよりも今の環境を整えてあげることの方が大切だと思ったからです。彼はその後しばらく外来に来ませんでした。私は彼のことをすっかり忘れていて、数か月ぶりに彼のカルテが私の手元に来たときになってようやく長期間来院がなかったことに気がつきました。彼が診察室に入って来るまでの間、私は「症状がよくならず別の病院に行ってしまったのだろうか」と思いをめぐらしていました。

診察室に入ってきた彼は笑顔でした。久しぶりに私と会った照れくささからか、それとも症状が良くなったからかわかりません。しかし、私の前に座った彼は「教授が礼拝する場所と時間を作ってくれた」とうれしそうでした。「胃の調子は?」と尋ねると、彼は「オーケイ、ダイジョウブ」とにこやかです。その様子を見て私はなぜかほっとしました。胸のつかえがとれたという感覚といってもいいでしょう。彼が胃の不調を訴えたのは、慣れない環境に住むストレスだけではなく、ムスリムとしての務めができなかったことに対するストレスが大きな原因だったのかもしれません。

だいぶ経って、彼はもう一度私の外来にやってきました。今度は付き添いの人と一緒でした。それは奥さんと小さな息子さんでした。二人は彼と日本で生活するために中東からやってきたのです。奥さんはヒジャブと呼ばれるスカーフをかぶっていました。サウジアラビアは中東でもとくに戒律の厳しい国であり、女性はアッバーヤという黒いマントを頭からすっぽりとかぶって顔を隠さなければいけないことを知っていた私は、奥さんのヒジャブを指さして「アッバーヤ、オーケイ?」と言いました。すると彼はとびっきりの笑顔で答えました。「ココ、ニホン。ダイジョウブ」。

美人の奥さんとかわいい坊ちゃんとの三人で暮らすことになった彼は、それ以来、私の外来を受診することはありませんでした。私が北大の総合診療部に入局したのは、特定の臓器・疾患に偏らない総合内科的な診療を身に着けたいと考えたためです。また同時に、そうした能力を身に着けた医師の養成が総合診療部の役割だとも思っていました。しかし、あの中東からの留学生を診療する経験を通して、心理的な側面から患者を理解し、問題解決の糸口を模索することも総合診療の重要な役割だと感じました。そしてその経験は今の私の診療にも生きています。

全国に次々と設立された総合診療部でしたが、その後、多くが大学病院の中での位置づけが定まらないまま統合あるいは廃止されてしまいました。北大の総合診療部もそのひとつです。それは総合診療の概念を具体化できなかった当時の指導的立場にある人たちの責任です。私は総合診療部に籍を置いていたときから「このままでは総合診療がなくなってしまう」と危惧していました。そしてそれは現実のものとなってしまいました。今でも「病気を診ずして病人を診よ」という言葉が恥ずかしくなるような医療をしばしば目にします。そのたびに総合診療部がなくなってしまった事実の重さを痛感します。

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