やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

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