傲慢な診療

医師という仕事はものすごく地味です。とくに我々のような患者との接点となるプライマリ・ケアの仕事の多くは生活習慣病の管理であり、風邪や花粉症に対する投薬だったり、患者となにげない話しをしながら不安を軽減することだったりと、救急救命医や専門医療のような仕事とは違って、テレビにしばしば出てくる華々しいシーンはほとんどありません。いろいろな訴えを抱えて来院する患者の多くは大きな病気ではなく、経過観察とすべきものがほとんどであり、医学的な説明をしてお帰りいただくことが多いのです。

しかし、私たちの仕事でもっとも大切なことは患者の健康の「管理」ですから、ともすると日常になりがちな診療の中でいかに患者の変化を見落とさないかが重要です。私自身がとくに留意しているのは、ありふれた症状や病気の中にかくれた重大な疾患を見逃さないことです。ともすると「こんな症状」と簡単に片づけてしまうようなありふれた症状の中に、実は重大な病気が隠れていることがあります。それを見逃さないアンテナを張っておくこと。それはとても難しいことですが、私たちには欠くことのできない要素です。

ただ、「言うは安し」です。ありふれた症状から重大な病気が見つかることはそれほど多くはありません。ほとんどは特にどういうこともなく自然に治ってしまいます。どこぞの医療番組にでてくるような実は「診断の裏をかく病気」だったなんてことはほとんどありません。そんな病気まで想定して検査するわけにもいかず、やはりこういう場合は臨床医としての勘ばたらきと注意深い観察眼が頼りということになります。日常のなにげない診療の中で大きな病気を見落とさないことは意外と難しいことです。

一方において、日常生活の中でありふれた病気をきちんと診るということも大切です。「単なる風邪」と一言でいっても、その症状のバリエーションはさまざまです。ある人には辛くなくても、他の人には辛い症状だってあります。そうしたバリエーションの中でどう薬を出し、あるいは薬を出さずに済ますかというところにアートがあります。アートというのは「技術」あるいは「技」という意味ですが、経験を積んだ有能な医師はまさに職人技のようなアートをもっています。

 私などはそんなアートにはまだまだ程遠いのですが、それでも研修医を終えたころの青い時代と比べれば多少アートらしきものを身に着けているでしょうか。若いころは理想に燃えています。というか、理想ででしか行動できないところもあります。臨床経験が浅い分だけ教科書に書かれていることを妄信しているからです。場合によっては傲慢と思えるようなところもあります。振り返れば、私もかつてはずいぶんと傲慢な医療をしていた時代がありました。その傲慢さに気が付かせてくれたのは他でもない患者さん自身でした。

 当時、私には「風邪に薬はいらない」という「信念」がありました。のどが痛かろうかが、鼻水が落ちてこようが、あるいは咳をしていようが、自宅で寝ていればじきに治るものだし、薬など飲むべきではないという「信念」です。ですから、風邪症状で来院した患者には「あなたがいかに薬を飲む必要がないか」を詳しく説明し、薬を処方せず、患者に自宅で経過を見させることが「よい医療」だと思っていました。とあるクリニックでアルバイトの診療をしていたころの私はそこでもそんな診療をしていました。

 その患者は咳が止まらないという訴えで来院しました。診察を待っている廊下からはときどき咳の音が聞こえてきました。診察室に入ってきたその患者は60歳代のご婦人。症状の経過と現在の状況をお聞きしてから一般的な診察をしましたが、とくに薬を出すほどの症状とは思えませんでした。私はいつものように「いかに薬を必要としていないか」を説明しました。患者は神妙な面持ちで、私の話しを最後まで聞いていました。そして、笑顔で「とてもよくわかりました」と深々と頭をさげて診察室を出て行きました。

 診察を終えた私は悦に入っていました。「いい医療をした」「患者の意識を変えることができた」と満足していたのです。ところが、ふと我に返ると、受付の方から怒鳴り声が聞こえてくるのに気が付きました。耳を澄ますと、ついさっき、私の説明に納得し、薬をもらわずに帰るものと思っていた患者がなにやら窓口で抗議していたのです。耳をそばだてて聞いていた私は完全に打ちのめされました。「咳がつらいからわざわざこの病院に来たのに、なにも薬を出さないで帰れってどういうことですか」というのです。

 私はこのとき、自分がいかに傲慢な診療をしていたのかということに気がつきました。私が「いい医療」と考えていた診療がその患者に完全に否定されてしまったからです。思えばクリニックにやって来ることは面倒なことです。それなのにあえて来院したのはそれほどにこの咳はつらかったのでしょう。そこで咳を止めてもらおうとわざわざ来たのに、「薬を飲むよりも自宅で安静にしていろ」と言われれば誰だって怒鳴りたくもなります。そんな当たり前なことすら、当時の私は気が付いていなかったのです。

 以来、私は医学的に間違っていることでなければ、できるだけ患者の訴えに耳を傾け、患者が求める方向で処方をすればいいと考えるようになりました。咳が出るのであれば咳止めを出せばいい(もちろん肺炎でないことが前提です)し、鼻水が出るのであれば鼻水止めを出せばいい。患者さんはそれらがつらくてわざわざ来ているんですから。そうした患者の求めるものに向き合ったうえで処方することにしたのです。深々と頭をさげて診察室を出て行ったあの患者の怒りが私の思いあがりに気付かせてくれたのかもしれません。

 もちろん患者の言いなりに薬を出すという意味ではありません。医学的に出せないものは出せないし、患者さんの不利益になることでも希望さえあればそうするということでもありません。そのような場合はきちんと患者さんに説明してお断りします。そのようにちゃんと説明すればほとんどの患者はわかってくれますから。そうではなくて、患者の苦痛にすら思いが至らないままに「医療はこうあるべきだ」などと思い上がってはいけなかったという意味です。それはひとえに私が「青かったから」にほかなりません。

医療の現場で働いているとなかなか理想通りにはいきません。抗生物質の投与の仕方もそうです。教科書的には「起因菌を同定してから使用せよ」、つまり原因となった細菌を特定し、その細菌に合った抗生物質を使いなさいということが書かれてあります。そんなことは百も承知なのですが、同定をしてからだと「受診して、検査して、結果がわかって処方」となり、その分だけ治療が遅くなります。高熱と咳で受診した人にそんなことできません。どうしたって経験的にふさわしいと思われる抗生物質を出してしまいます。

 「抗生物質は安易に使うな」とも書かれています。抗生物質を処方する身とすれば安易に出しているつもりはありません。それでも「抗生物質は肺炎になってから投与せよ」と、肺炎になったことが確認されてから抗生物質を投与された患者さんはどう思うでしょうか。「私のことを考えてくれている」と思ってくれるでしょうか。多くの人は「なぜ肺炎になるまえにちゃんと対処してくれなかったんだ」と不信感をもつのではないでしょうか。私たち、いや少なくとも私はそう考えてしまうのです。

そんな先走りをするせいか、多くの場面で「これは肺炎、もしくはこのままでは肺炎に移行するだろう」と判断した時点で経験的に抗生物質を出してしまいます。ましてや私は喀痰検査や胸部レントゲン検査、あるいは採血といったものは、入院すべきかどうかを判断しなければならない限られたケースでなければやりません。ですから、その分だけ他の先生よりも早い段階で抗生物質を処方しているかもしれません。そうしたことは批判されるべきことかもしれませんが、私としてはそれはそれで覚悟の上です。

 アメリカではすべてではないにしろ、治療を受けた病院に医療費を支払う保険会社が定めた薬や治療法でなければなりません。それ以外の薬や治療法には医療費が支払われないのです。すなわち、患者が受ける医療の内容は保険会社が決めているのです。そういう社会にあっては、我々医師はその善し悪しとは無関係に治療方法を選択するしかありません。そこには患者のニーズなど無縁です。傲慢だとか、教科書的とか、理想主義とかいう以前に経済原理にのっとって決められた治療法が優先されるのですから。

 最近では医療の世界にも経済原理が導入され、コスト削減だとか、費用対効果だとか、経営効率だとかいう経済用語が盛んに使われるようになってきました。でも考えてみて下さい。医療はなにかを具体的に生産する業種ではありません。何かを生み出すという側面よりも、なにかを消費する側面が大きいのです。消費することで人間の健康を守るとでもいいましょうか。どうしても非効率な部分が出てしまいます。そうしたところが一般的な産業と違うところであり、そもそもが経済的原理をあてはめるのには無理があるのです。

 時代は変わりました。医療も変わりました。「患者さん」を「患者様」と呼び、患者さんの名前を呼ぶと個人情報の保護に反するといわれる。最近では点滴を詰めたり、薬を調合する場所に防犯カメラを置けと言われる時代です。「病気を治してやっている」という意識が強かった昔の医療は論外ですが、ある意味でそうした傲慢な医療ですらしようにもできない時代になりました。それだからこそ、医療者も患者がお互いに卑屈にならずに協力的に健康を考えていける時代であることが必要です。コストや効率性に振り回されない、患者のニーズをふまえた自由度が確保された医療を守りたいものです。

 

 

わが心の故郷「逓信病院」(2)

これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。

今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。

そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。

ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。

医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした

でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。

のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。

国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。

もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。

当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。

それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。

実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。

私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。

まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。

ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。

そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。

先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。

たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。