がんばれ、日本(3)

ついに新たなステージに入ってしまったのでしょうか。これまで落着いていた陽性者数が、とくに東京を中心にここ数日で増えています。世の中は「すわ、オーバーシュート(感染爆発)か?」と浮足立ってきましたがまさに正念場かもしれません。小池百合子都知事から都民に「週末は不要不急の外出をしないように」と呼びかけがありました。周辺の県でも東京への出入りはしないように県民に呼びかけており、東京をできるだけ封鎖に近い状態にしようということなのでしょう。

最近、新型コロナウィルスへの警戒心が緩み始めているように感じていました。「このくらいならいいだろう」「この程度ならだいじょうぶ」などといった甘えが人々の心の中に芽生え始めていたかのようです。休校やさまざまな行事の自粛などで疲れてしまったのでしょうか。また、最近の特徴は海外からの帰国者の陽性者が目立つという点です。今や中国以上に感染が広がっている海外に出張させる会社も会社ですが、のこのこ海外旅行に出かける人の気持ちも理解に苦しみます。

検査の数が増えていることも影響しているかもしれません。新型コロナウィルスの検査は誤差が大きいことが知られています。対象者をしぼりこむことなく検査をすれば、たくさんの偽陽性・偽陰性の人が出ます。実際には感染していないのに陽性と判定された人々は「自宅には高齢者がいるから入院させてくれ」となるはず。一方、感染しているのに陰性と判定された人は、感染していないと誤解して普段通りに生活し、まわりの人に無自覚にうつしてまわるかもしれません。

この手の検査は「希望する人全員に実施するもの」ではないのです。検査対象者をしぼり、できるだけ誤判定が出ないようにしなければなりません。にもかかわらず、3月4日から検査数はどんどん増えて、最近ではついに一日2万件を越えています。医学的知識もないど素人の政治家が「感染者が少ないのは検査数が少ないから。もっと検査を増やせ!」と大騒ぎです。厚労省がそれに抵抗し切れなかったのでしょうか。いずれにせよ、最近の検査数を増やし方は普通ではありません。

とはいえ、検査を増やしても陽性と判定される人の数はそれほど増えませんでした。これは、検査が少ないから「感染者数」が少なかったのではないという証拠です。計量数学的にこれを検証した人もいます。その難しい説明を聴かぬとも、陽性者数を検査の数で割った数値が急速に低下し、最近まで低い値で安定していたことを見ればわかります。対象者の絞り込みを緩和して検査数を増やしても、陽性者の割合が低かったということは、実際の感染者もそれほど多くないという証拠です。

新型コロナウィルスに感染した患者の一定の割合が重症になります。つまり、感染の広がりは重症者数の推移を見て推測することができるのです。その重症者数の変化もグラフにすれば一目瞭然。この一週間は落着いていてほぼ横ばいだったのです。これらが意味することは「日本における感染者数はそろそろ頭打ちかもしれない」ということ。感染拡大の状況が落ち着いてきていたともいえます。前回のブログで私が「ピークアウトは近いかも」と期待した理由がそこです。

ところがその期待は希望にすぎなかったかもしれません。東京での陽性者が急増しているのです。この急増は検査数を増やしはじめてからちょうど2週間目にあたります。この間、さまざまな自粛や休校などの措置がとられてきました。急に陽性者が増える理由がありません。新型コロナウィルスの潜伏期間は14日ほどということを考えると、はやり増やされた検査によって感染が広がっていると考えるのが普通です。だとすると、このあと1,2週間もすれば重症者の数が増えてくるでしょう。

東京都の感染症指定医療機関のベット数は118床です。今後、感染の拡大がとまらなければ、これらの病床がどんどん埋まっていきます。諸外国を見ても、必要以上に検査の数が多い国々に感染者が多い事実を見れば、検査をむやみに増やしてはいけないことはわかったはずです。心ある医師たちも繰り返し「検査をむやみに増やしてはいけない」と警告してきました。検査は今日も増えています。数を増やせば増やすほど感染が広がるという悪循環に無力感すら感じます。

検査数のみならず、スーパースプレッダーが出現した可能性も無視できません。3月9日の専門家会議では「患者の80%は他の人に感染させていない」と指摘しています。それなのに今陽性者が急増している背景に「一人でたくさんの人にうつしてしまうスーパースプレッダー」が影響しているかもしれません。もしそうであればオーバーシュート(感染爆発)が現実味をおびてきます。もう少しだけ警戒心をゆるめないでほしいと思うのですが、もはや後戻りできない段階に来てしまったのでしょうか。

実効再生産数(Re)とは「病気をうつしてしまう人の数(二次感染者数)の平均値」のことです。つまり「うつしやすさ」を表しています。季節性のインフルエンザは1.5~1.8、エボラ出血熱で1.5~2.5、SARSでは2~5、風疹で6~7、麻疹(はしか)では12~18とされています。ウィルスの種類によってReが異なることがわかります。とくに麻疹(はしか)は空気感染するといわれており、かなり感染しやすい疾患です。そのような感染症はワクチンを接種して予防しなければなりません。

ワクチンについては19世紀のエドワード・ジェンナー(英)の実験が有名です。当時、天然痘が流行していました。しかし、牛痘(牛が感染する天然痘)にかかった人は天然痘になりにくいことが経験的に知られていました。ジェンナーは牛痘にかかった牛からにじみでる少量の滲出液を人に接種することを思い立ちました。そして、この接種によって天然痘にかかりにくくなることを証明しました。これをきっかけにワクチンによる感染症予防、すなわち「防疫」がはじまりました。

その後のワクチン接種の歴史は決して平坦ではありませんでした。副作用の問題や効果への不信感を背景に、さまざまな紆余曲折をへて今日にいたっています。すべてのウィルスや細菌のワクチンが作れるわけではありません。たとえば、多くの子どもたちが感染するRSウィルスや熱帯地方で今も問題になっているデング熱ウィルスに対するワクチンはまだできていません。もちろん、今、流行しているコロナウィルスのワクチンも急ピッチで開発が進められていることろです。

ワクチンの効果は「ワクチンを接種していない集団での発生率」と「接種を受けた集団での発生率」との比較として定義されます。有効なワクチンがたくさんの人に接種されれば、ワクチンを受けた人ばかりではなく、接種していない人や接種はしたが免疫ができなかった人も感染から免れることができます。こうした効果を「集団免疫」といいます。

今、感染者の増加がとまらないイギリスでは、集団免疫によって感染拡大を抑制する選択をとろうとしています。具体的にはある程度の国民が新型コロナに感染することを容認するというものです。感染してもおよそ80%の人は軽症のまま治癒するといわれています。こうした人たちは新型コロナのワクチンを接種したことと同じ状態になっています。こうした人を増やし、高齢者や基礎疾患のある人といった重症化する可能性のある人たちへの感染を防ごうということです。

しかし、それにはある程度の死者がでることを容認しなければなりません。「集団免疫」をするには人口の60%の感染が必要になる。イギリスの人口は約6600万人。つまり、4000万人ほどの感染が必要だということになります。さらに死者は数十万人以上になるかもしれないというもの。結局、国民の反対が予想以上に強く、新型コロナウィルスに対する抗体(抵抗力)を国民のどのくらいの人がもっているかを調べてから再検討するということになったようです。

ワクチンによって感染症の拡大を阻止するためにはどのくらいの人が接種を受ければいいのでしょうか。その接種率を「集団免疫閾値」といいます。たとえば、感染力の強い麻疹(はしか)を予防するためにはワクチン接種率を90%を超えるものにしなければなりません。今、壮年男性に対する風疹の抗体価検査が推奨されています。この年代の男性たちが子どもの頃はちょうどワクチン接種が中断していた時期にあたり、接種率が極端に低いことが社会的な問題になったからです。

 

資料)集団免疫閾値

流行性耳下腺炎(おたふく):75~86%   風疹:80~85%   ポリオ:80~86%

天然痘:83~85%   麻疹(はしか):83~95%   百日咳:92~94%

 

このように、できるだけ多くの人がワクチンを接種しなければ集団免疫のはたらきを期待することはできません。集団免疫は「フリーライダー」によっていとも簡単に危機にさらされるのです。フリーライダーとは集団免疫にただ乗りする人、すなわち、予防接種を受けないことを選択した人あるいは接種によって免疫がつかなかった人たちのことを指します。集団免疫にとってはこのフリーライダーをいかに減らすかが課題です。アウトブレイクが起こりやすくなるからです。

2018年にアメリカで麻疹(はしか)のアウトブレイクが起こりました。日本ではあまり知られていないようですが、医療制度が不完全で、国民の8.8%にあたる2800万人が健康保険に未加入というアメリカにとって感染症のアウトブレイクは大きな問題でした(そして、現在もその危機にさらされています。もっと大きな問題として)。アメリカでは2000年に「麻疹撲滅宣言」がなされています。それまで毎年50万人の国民が麻疹に感染し、毎年500人あまりの人が死亡していました。

そのアウトブレイクは、麻疹ワクチンを接種していなかったひとりの子どもがアメリカに帰国したことから始まりました。その結果、麻疹の感染が終息するまでに564名の感染が確認され(そのうちワクチンを接種していた人は85名・15.0%でした)、840万ドル(約9億2千万円)のコストがかかったとされています。フリーライダーの問題は単に「(打つか打たないかという)個人の問題」にとどまらず、感染拡大の収束までにたくさんの感染者とさまざまなコストという社会の問題に発展します。

確かに、日本が今直面している事態は予断を許さないものです。東京や千葉で院内感染クラスターによって感染者が急増しているのですから。しかし、その一方で少しだけ安心できる情報がありました。コロナの感染の拡大とBCGの接種率との間にはなんらかの相関があるのではないかというものです。つまり、日本のようにBCG接種が義務化されている国ほど感染の広がりが緩やかだというのです。そして、医療を支える医療従事者に対してそのBCG接種をする試みがはじまっています。

東京あるいは千葉での感染拡大が一日も早く収まることを願うばかりです。とくに東京に通勤・通学する人も多く、東京での感染拡大の影響は甚大です。私たちにできることは限られています。無駄な検査はしない。軽い症状のときは自宅で安静。うがいと手洗いのを励行。不要不急の外出を控える。物不足を助長するような買い占め・買いだめはしない。ごく当たり前なことを、着実にやっていくこと。それだけです。つとめて理性を働かせ、冷静に行動するのみです。

がんばれ、日本(2)

オリンピックが延期されました。正直、ホッとしています。準備に奔走してきた人たちやオリンピックの開催を心待ちにしていた人々、もちろんオリンピックでの試合に照準をあわせて練習してきた選手の皆さんもふくめて多くの人達が落胆しただろうと思います。しかし、よく考えてみてください。日本あるいは東アジアだけの感染であればまだしも、今の感染状況といったら「世界的なパンデミック」なのです。世界各国ともに選手団を日本に送り出せる状況でないことは火を見るよりあきらかです。

しかも、東京オリンピックへの盛り上がりも今回の新型コロナウィルスのせいですっかり色あせてしまいました。それどころではないということなのでしょう。このままオリンピックを強行しても、世界の強豪が集まらない、そして、観客すらまばらな試合を「消化」するだけの大会に終わっていたでしょう。私自身はオリンピックは延期するしかないと思っていましたが、それでも「決定されたこと」として馬鹿正直に突き進む日本のことです。これまでの「予定通り」という政府発表に冷や冷やしていました。

感染の拡大も今のところ大規模な「爆発的拡大」にはなっていないようです。むしろ、私が期待しているように今月末のピークアウトに向けて順調な陽性者数ならびに重症者数の推移をしているように見えます。それなりの数の検査数をやっても、その検査で陽性と判定されるケースがきわめて低い状況が続いています。これは専門家会議で発表された「実効再生産数(ひとりの患者がうつしてしまう人の数)がしばしば1を下回っている」ことを反映してのことこもしれません。

一方で重症者の数もそろそろ頭打ちになって来ているように見えます。これは重症患者が次々と発生していたこれまでとは異なり、重症化する患者そのものが少なくなってきたこと。あるいは重症患者の治療がスムーズにいき、回復する患者がふえてきていることをあらわしているのかもしれません。これらのことは、日本では感染患者が爆発的に増えていないということを意味しているとも解釈できます。と同時に、日本の医療がまだ崩壊していないこともあらわしていると思います。

こうした楽観的な変化が見えてくる中で、人々のこれまでの警戒心が徐々に薄くなってきたことを想像させるような変化も見られます。それは最近の感染患者に「海外からの帰国者」が多くなってきたという点です。日本にいると感染拡大の恐れをあまり感じないですむかもしれません。しかし、海外は違います。「世界的なパンデミック」が宣言される中、国際的な関心は、これまで感染の中心だった中国から、欧州、とくにイタリアやスペイン、フランスやドイツといった国々に移っています。

これらの国々では感染者数もさることながら、死者の急増が目立っています。もともと金融不安をおこしかねないほどの財政状況の悪さが指摘されてきたイタリア。EUはイタリアに財政の「健全化」をもとめ、イタリアは医療の「効率化」をおこないました。つまり、国立病院の統廃合をおこなったのです。「効率化」という言葉はきれいですが、要するに「合理化」です。日本とおなじように高齢化の進むイタリアにおいて、この合理化が正しかったかどうかは今回の感染拡大が答えを出したようです。

イタリアの医療水準は決して低くはありません。近代医学の発展をささえた国ですし。そんな国がなぜこれほどまでいとも簡単に医療崩壊してしまったのか。その要因はさまざまでしょうが、やはり感染者が発生した初期の対応の誤りが大きく影響しているようです。イタリアは当初、「全数検査」「全感染者の隔離」を進めました。そうしたことがあっという間に病院の収容能力を低下させました。医療の「合理化」がこれに拍車をかけ、重症者の治療に支障がでてしまったのです。

また、医療従事者への感染拡大も深刻でした。患者の治療の際にも感染の危険性があるのに、検査をもとめて病院に押し掛ける人から検体を採取する業務が重なればなおさらです。なにせ「全数検査」ですから。検査に不慣れな医療従事者もいたかもしれません。これまでも説明してきたように、この検査には「偽陰性」と「偽陽性」の問題が無視できません。検査を受けた人がその後どのような行動を取るかも影響します。そうしたことが相乗効果となって今のイタリアの感染拡大、医療崩壊をもたらしています。

ひるがえって日本はどうでしょうか。「コロナをうつしてやる」と飲食店をまわっていた不届きな陽性患者はあっという間にこの世を去りました。今頃はきっとあの世で後悔と反省の日々をおくっているかもしれませんがあとの祭りです。しかし、同じような思慮のない行動をする人があとを絶ちません。「パンデミック」を宣言されている状況で海外旅行をしたあげくに、新型コロナ検査の結果を待つように要請されながらも帰宅してしまう家族などはその典型例です。

中止要請を無視して格闘技の大会を強行した例も同じです。たしかにそれぞれの事情があるだろうと思います。中止の要請は強制力をもつものではないかもしれません。しかし、日本における新型コロナウィルスの感染状況は今が重要な局面を迎えているのです。今の安定した感染の様相はとてももろいものです。感染がなにかをきっかけに爆発的なものに変化する(オーバーシュート)かもしれません。そして、それを機会に医療崩壊が一気に進むかもしれないのです。そのことをもっと認識してほしいと思います。

そうならないでいられるのは、ひとえに日本全国でおこなわれている自粛や活動の抑制という国民の努力によるものです。その努力によってかろうじて保たれている今の状況はものすごくもろいものです。「ワクチンを打ってもどうせなるから」「これまでかかったことがないから」という理由でワクチンを撃たないでいるフリーライダー(ただ乗りをしている人)は、たくさんの人がワクチン接種することによって自分自身が守られ、大規模な感染拡大に至らずにすんでいるという自覚がないということに気が付くべきです。

この辺のことはあとでもう少し詳しくお話ししたいと思っていますが、要するにもう少しの間、今の警戒心をゆるめないでほしいということを伝えたいと思います。最近、病院に「(新型コロナウィルスの)陰性証明」をもらいに来る人がふえていると聞きます。こんなときになんでそんなバカげたことをするのでしょうか。陰性を証明できるはずもありませんし、また、のこのこ病院へ検査を受けにいくべきでもありません。それ自体に意味がないばかりが医療機関の負担を増やすだけだということを知ってください。

繰り返しますが、検査は必要な人がするものです。必要かどうかは医師あるいは保健所の担当者の判断にゆだねるべきです。検査は「誰でもがすべきもの」では決してありません。これまでたくさんの検査をおこなってきたアメリカも、最近、「必要な人にかぎって検査をする」という方針に転換しました。日本は原理原則にしたがって検査をおこなってきましたし、その適切性は今の日本の感染が落ち着いていることが証明しています。理性を働かせながら、みんなでもうひと息頑張りましょう。

がんばれ、日本

中国・武漢発の新型コロナウィルス(COVID-19)は、2019年から2020年に代わるころから中国全土で爆発的に感染が拡大しました。ちょうどそのころ、「おもてなしの国」の日本で旧正月を祝うためにたくさんの中国人が訪れました。そして、その結果、日本でもかなり早い段階から感染者が発生し、患者の数は今もなお増え続けています。個人的には、あのときに入国制限をしておけばという思いはありますが、日本はそうした「インバウンド」を受け入れながらの観光立国に舵を切ったのです。外国に依存する経済を目指す以上、ある意味、仕方ないことかもしれません。

ともかく、今は感染拡大の収束に向けて国民が一体となって頑張らなければなりません。まさに踏ん張りどころです。統計上、中国の感染者数はピークアウトになった(感染拡大の峠を越えた)ことになっています。共産国家中国の統計の確からしさを疑問視する有識者もいますが、1月の時のようなパニックともいえる状況からは脱していることはまちがいないようです。そのかわり、欧州を中心にアメリカにまでも感染はひろがり、WHOはようやく世界的なパンデミックを宣言しました。汚染国とされた日本がいつの間にかその指定からはずれ、今や日本よりも欧米での感染がどこまで広がるのかが注目の的です。

日本での感染拡大はこれからどうなっていくのでしょうか。そうしたことはこれまでの感染の様子を振り返ってくると見えて来るかもしれません。厚生労働省ではこれまでのCOVID-19に対するPCR検査の結果と死亡者数、患者の重症度に関する統計データを公開しています。先日のブログで紹介した東洋経済のホームページもその資料をグラフしたものです。このグラフを見ただけでも陽性患者数の推移や、「検査を増やせ」との世論を反映して検査数が急速に増加していることがわかります。今回、私はこれらとはことなる、日本における今後の感染拡大を予測できそうなものをグラフ化してみました。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これは陽性者の数を検査数で割った数字をグラフ化したものです。データの数字を見ていただければわかるのですが、3月4日に突然3倍ほどに検査数が増えていました。これは検査の意味をしっかり理解していない国会議員の声や、医学統計の知識のないTVコメンテーターが連日「検査を希望する人全員に検査ができるように数を増やせ」と叫び続けた結果なのかもしれません。その後も検査の数は増え続け、3月13日にはついに10000件を突破。17日には15000件を越えるまでになりました。こうしたことは決していいことだとは思いませんが、これも「仕方ないこと」ととらえるべきなのでしょうか。

陽性者の数を検査数で割った数字は、「検査した患者のなかにどのくらいの陽性者がいたか」をあらわします。それを見ると、2月のころの値よりも徐々に低下し、最近になって低い値が続いていることがわかります。その傾向の意味を考えると次のようなことが予想されます。

●当初は検査の対象をかなりしぼって実施していた(最近は対象のしぼりこみが甘くなっている)

●COVID-19感染者が実際にはそれほど増えていない

こうした検査はめったやたらに実施するものではありません。検査対象をしぼって(このことを「事前確率を上げる」といいます)からやるものです。どうしてかというと、こうした検査は「白黒をつけられるもの」ではなく、どうしても偽陽性(病気ではないのに陽性がでるケース)や偽陰性(病気なのに陰性がでるケース)がでてきてしまうためです。とくに有病率(病気のめずらしさ)が低い疾患ほどそうした不正確さがめだちます。その意味で検査対象者の絞り込みができていたことは保健所の努力の成果です。

その一方で、検査の数が増えているにも関わらず陽性にでる患者の割合はここ2週間は横ばいになっています。こうしたことは患者数が増えている(つまり患者の人口密度が高くなっている)場合には見られない傾向です。言いかえると、患者はほぼ全国均一になりつつあることを示しているかもしれません。人口が多いところには患者は多いが、人口が少ないところにはそれなりにいるようになった、というわけです。毎日、TVや新聞では「感染者がまた出ました」と報道していますがあれではこうした傾向はわかりません。

次のグラフを見てください。ひとつは検査数の推移、もう一つは陽性患者の変化を示したものです。今月になって急速に検査数が増えているのがよくわかると思います。その検査の多さにも関わらず、陽性者の数そのものが減少しているように見えますがそれは私の「希望」でしょうか。一方、それらのグラフと共に、重症患者と死亡者のグラフも作ってみました。COVID-19に感染した患者の数は、検査が陽性になった人の数だけでは推測できません。検査を増やせば増やしただけ数が増えるからです。実際の患者数を推測するには、患者の一定数が重症になると考えて、この重症者の数を見た方が推測しやすいと思います。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これらのグラフからは、一週間ほど前から重症者が、10日ほど前から死亡者が急増しているような傾向が見てとれます。これらは、重症化する患者が徐々に累積し、日本の医療技術をもってしても重症者がだんだん力尽きはじめていることを意味しているのではないかと思います。ただ、重症者の増え方がほぼ直線状であることからいえば、感染拡大がどんどんと広がって重症者が増えているわけではないことを意味します。こうしたことから感染が爆発的に増えていないことがわかります。

資料)各国の死亡者数(対人口10万人あたり:日本は3月17日現在、他は3月14日現在)

日本  0.022人 、中国  0.236人 、韓国  0.150人 、米国  0.014人

イタリア 2.093人 、イラン 0.695人 、スペイン 0.263人 、フランス 0.126人

この資料を見てもわかるように、日本の死亡者数は中国や韓国とくらべても数字がひとケタ低くなっています。イタリアをくらべればフタケタも違う。こうした日本の死亡者の少なさは前回のブログからまったくかわっていません。つまり、重症者にせよ、死亡者にせよ、日本では他国にくらべてその増加の仕方がきわめてなだらかだということです。これは日本の医療技術の高さもさることながら、医療機能が十分に機能していることも意味します。感染の爆発的流行には至っていない成果だといえます。

ではこれからどうなっていくのでしょうか。3月9日に開かれた政府の「新型コロナウィルス感染症対策専門家会議」では次のような見解を発表しました。

●爆発的な感染拡大には進んでおらず、一定程度持ちこたえている

●国内感染状況:重症・軽症にかかわらず約80%は他に感染させていない

●一人の患者から二次感染させた人の数(実効再生産数といいます)はおおむね1程度

●今後、流行がいったん抑制できても、いつ再流行してもおかしくない

●長期的には海外からの持ち込みが繰り返されるだろう

今の現状から、「ほら、検査数を増やしても感染は拡大しないじゃないか」という声があがるかもしれません。現時点ではそのような意見があがってもおかしくありません。しかし、安定した今の感染状況はとてもあやういものだということを肝に銘じなければなりません。検査の数がふえたといっても、まだ保健所がきちんとトリアージ(振り分け)をしてくれています。意味のない検査はできるだけ排除してくれているのです。「不安だから検査」という不適切事例を除外してくれているからこそ今の安定があります。

保健所にはたくさんの問い合わせと、苦情や抗議が寄せられていると思います。おそらく職員は毎日くたくたに疲れ果てているはずです。そうした人たちのおかげで感染拡大が抑えられていることを理解しなければなりません。現在おこなわれているCOVID-19のPCR検査も不必要に増やされているように見えます。にもかかわらず、臨床検査技師の皆さんも感染の危険性と背中合わせの中、たくさんの検体を調べてくれています。検査するときは重装備をしなければなりません。その暑さ、息苦しさを思うとほんとうに頭がさがります。マスコミには是非こうした人たちにももっと光を当ててほしいと思います。

もう少しデータがなければ明確には言えませんが、個人的には今月末には感染はピークアウトするのではないかと思っています。でもこれはあくまでも私の憶測です。もしかすると「希望」かもしれません。先のデータを見ているとそんな希望が見えてくるのです。ただし、これ以上の検査数の拡大がなければの話しですけど。それほどまでに今の状況はあやういものです。もし私の「希望」のとおりになっても、そのまま収束に向かうとは限りません。依然として国民一人一人の努力と抑制が不可欠なのです。感染拡大をおさえるためにたくさんの人が懸命に仕事をしています。そのことを常に意識してこれからも頑張りましょう。

 

 

検査の真実(2)

3月に入ってほぼすべての学校が休校となり、国内のさまざまなイベントが自粛されるなど、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響はじわじわと日本の社会に影響をあたえています。これまで私が言い続けてきたように、COVID-19の感染はまだ流行の域に達してはいませんが、日本でもこのまま感染者の数が増え続ければ「流行宣言」がなされる事態になるかもしれません。その意味でも、今のこの時期こそ、感染拡大をおさえるための重要な局面に入ってきたといえるでしょう。

 

「希望するすべての人に検査」?

TVでは何の医学的知識もないコメンテータが、あいもかわらず「希望するすべての人に検査を」などとしたり顔です。それでも素人のコメンテータならまだご愛敬と笑っていられますが、医師という肩書をもったコメンテータ(医学系芸人)ですら同じようなことを言っているのは困ったものです。困る以上に迷惑です。彼らが感染症の専門家ではないにせよ、多少なりとのも医学統計学を勉強した人ならそんなことは言わないだろうと思うことを真顔で言っているのですからあきれます(不勉強にもほどがある)。

私自身、診療していると、患者さんの中には「先生も大変ですね」と心配してくれる人がいます。心配してくれるのはありがたいのですが、そうした患者さんには「心配はしていますが、まだ大変ではないですよ」とお話ししています。「だってまだ流行してませんから。これからどうなるかわかりませんけど。アウトブレイクさせないためにも今の状況を正しく理解する必要があります」と説明して、現在の日本におけるCOVID-19の感染状況および今なすべきことをお話しするようにしています。

前回のブログにも書いたように、今、検査のあり方について誤った情報が広まっています。そのひとつが国会議員の先生の発言です。よりによって国会のお偉い方が「検査を希望する人全員に実施しろ」と絶叫していますが、そんなことをすればどうなるかわかって言っているのだろうかと心配になります(どうせわかってない)。今回はそれらのことをわかりやすくお話しします。私見もふくまれていますが、なんの根拠もない憶測ではありません。多少難しいかもしれませんが、最後まできちんと読んでください。

ここ数日、COVID-19に感染した患者の数がにわかに増えたような気がしませんか。確かに「感染が確認された人」の数は以前よりも増えています。だからといって「ほら、やっぱり増えている。これからどんどん増えて中国のようになるんだ」なんて不安にならないでください。実は、3月4日から検査の件数がこれまでの2倍以上に増えているのです。検査の数が増えれば「感染が確認された数」が増えるのはあたりまえ。でも、検査件数の数が2倍以上になったから「感染者」の数も2倍以上になったでしょうか。答えは否です。

東洋経済のホームページを見てください。ここを見ればわかるように、検査数が2倍以上になったわりには新たに見つかった感染者の数がそれほど増えていないのです。それはなにを意味しているのでしょうか。実は感染者がそれほど多くはないということを示しています。しかも、検査件数が増える直前の感染者数を見るとだんだん頭打ちになっているようにも見えます。そうです。日本におけるCOVID-19の感染者数はそろそろピークアウト(峠を越す)を迎えようとしているのです。

 

「検査をもっと増やせばもっと感染者が見つかる」?

そんな楽観的なことを言うと標題のような反論が聞こえてきそうです。なぜそんなに感染者数が多くあってほしいのかわかりませんが、検査をもっと増やして「希望する人すべてに検査」をしたらどうなるでしょう。前回のブログにも書いたように、偽陽性(感染していないのに陽性となること)がめちゃくちゃ増えて、偽陽性の人と本当の感染患者が病院で錯綜して感染を拡大させてしまう危険性があるのです。そして、治療を要しない患者にも医療資源が使われ、治療が必要な重症患者の診療に支障がでてしまうのです。

しかも、検査をむやみに行えば、COVID-19に実際には感染しているのに陰性と判定してしまう偽陰性も増えます。つい最近も、陽性と判定された患者がスポーツクラブや保養所、あるいは飲食店などに立ち寄って問題になりました。陽性と判定されてもこんなことをする不届き者がいるのですから、偽陰性と判定された患者が「陰性というお墨付きをもらった」といろいろな場所に行き来して感染を広めることは想像にかたくありません。検査のやりすぎはメリットよりもデメリットの方が大きいのです。

それは今の韓国やイタリアが証明しています。韓国の感染拡大の原因のひとつに検査のしすぎがあるといわれています。COVID-19のPCR検査は痰や鼻水を検体として採取する際に医療従事者あるいはその周囲に感染を広げてしまう危険性があります。したがって、検査の際は完全防護のうえで、適切な場所で実施しなければなりません。その辺のクリニックで安易に実施できる検査ではないのです。しかも、検査センターに輸送する際には講習を受けた人がしっかり三重に梱包しなければならないと規定されています。

そんな検査をドライブスルーなどで安易に実施していいはずがありません。誰が考えてもわかることを韓国はやってしまったというわけです。単純に「検査件数が多いから感染者数が多くなった」のではなく、安易な検査のために感染を広げてしまったという側面も無視できないのです。韓国は今、患者あるいは感染を心配した人たちが医療機関に押し掛けて「医療崩壊」の危機にあるといいます。この韓国の例を見ただけでも「希望する人すべてに検査」をすればいいというものではないことがわかります。

一方のイタリアでも医療崩壊が懸念されています。感染者数とともに死亡者の数も増加の一途です。この原因のひとつに「検査陽性患者全員を病院に収容したこと」が指摘されています。つまり、重症でもない患者を病院に収容することによって医療機関の機能を低下させてしまったというわけです。イタリアでも日本と同様にクルーズ船の扱いに困りました。しかし、イタリアでは日本とは違って早期に乗客を下船させてしまい、これが感染を広げる端緒になったともいわれています。

 

「検査しても正しく感染者を選別できないならどうしたらいい」?

標題のように言う人もいるかもしれません。しかし、現在のCOVID-19の検査の目的は、一義的には「重症患者の肺炎の原因がCOVID-19なのかを鑑別するため」というところにあり、もうひとつには「感染状況を概観するため」というところに目的があります。COVID-19に感染した患者の80%は軽症で治ります。つまり、ほとんどの患者は風邪症状で治ってしまうのです。重症になるのは5%にも満たない人達です。「軽い風邪症状の人は自宅で安静にしていましょう」と推奨されているのはそのためです。

つまり、検査の目的は単に「感染しているかどうか」を調べることにあるのではなく、重症肺炎の患者におけるCOVID-19の感染の有無の確認なのです。ですから、症状が軽微であればあえて検査を受ける必要はなく、感染者との接触があった場合に限って念のために検査、というものなのです。「PCR検査に健康保険がきくようになったが、まだ検査できる医療機関が限られている」なんてピント外れな新聞の記事がありました。しかし、検査の目的を理解せずに記事を書くとこうなるといういい例です。

「たくさん検査をしなければ感染の実態がわからないじゃないか」と思う人がいるかもしれません。しかし、感染の実態は統計学的な理論にもとづいておこなわれた検査であれば推測することは可能です。つまり、検査対象者を適切に選択して検査をおこなえば感染の実態を把握することはできるのです。でも、その統計では軽症が多いのか重症が多いのかまではわかりません。ここで重要なのが重症者、とくに死亡者数の推移です。感染症対策の要諦は感染拡大の防止と重症者への対応です。

そういう観点から眺めてみると、3月7日現在の日本でのCOVID-19による死者数は6名(クルーズ船の乗客分は除く)。しかも3月1日に6名になってから死亡者数は増えていません。日本は世界でも比較的早期から感染患者を出しています。にもかかわらず、他の国々とくらべて見ても重症患者の発生数は少ないのです(資料1)。それは日本の医療レベルの高さによるものかもしれません。あるいは清潔な日本の環境の良さからかもしれません。いずれにせよ日本の死亡者数が少ないことは特筆に値します。

資料1)COVID-19による死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

日本:0.005人    韓国:0.068人   イラン:0.11人

イタリア:0.17人   中国:0.22人    米国:0.003人

                         (池田正行先生まとめ

私が今回の記事で言いたかったのは、日本での感染もいよいよピークアウトか?というときに、検査の対象をむやみに拡大し、検査を増やすことによって逆に感染拡大を招く危険性があるということです。繰り返しますが、COVID-19に感染しても軽症であれば風邪症状だけで治ります。高熱と咳が続く肺炎合併例にこそ感染の有無を確認し、真に入院加療を必要とする感染患者に医療資源を集中することがもっとも重要なのです。そのためにも不要不急な検査による医療崩壊は絶対におこしてはいけません。

今日の外来にも「コロナに感染していないでしょうか」と心配して来られた患者さんがいました。その人は熱もなく、咳もしていませんでした。インフルエンザのワクチンを接種していないその患者さんに私は笑いながら言いました。「新型コロナの感染を心配する前にインフルエンザに感染することを心配した方がいいんじゃないですか」と。でも、それは決して嫌みではなく、資料2にあるように本当にそうなのです。日本におけるインフルエンザによる死亡者数はCOVID-19での死亡者数の20倍から500倍も多いのです。

資料2)日本における主要感染症の死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

2009年に流行した新型インフルエンザ   0.16人 

2009年~2018年の季節性インフルエンザ   0.12~2.63人

※ちなみに、前出のようにCOVID-19  0.005人

池田正行先生まとめ

あおられてはいけません。こういう非常事態にこそその人の本性が見えてきます。普段は紳士でも、実は人を押しのけてまで商品を奪い取る人かも知れません。普段は冷静でも、実はパニックになってデマを言ってまわる人かも知れません。普段は優しそうに見えても、実は傲慢な差別主義者かも知れません。TVをはじめとするマスコミの本性もそこにあります。本来であればこのブログで取り上げたようなことを報道しなければいけないのに、国民の不安や不満をあおることばかりを垂れ流すのはなぜでしょうか。

与野党を問わず国会で新型コロナの感染拡大阻止に向けて協力すべきときに、ついこの間まで「桜を観る会」のことばかりでした。そして、ようやく新型コロナのことがとりあげられたかと思ったら今度は「政府の責任の追及」なんだそうです。一方で超党派の議員の間では、1000人の患者を収容できる病院船の建造を検討しているといいます。250億円の建造費もさることながら、係留費、維持費、人件費、使用頻度のことも考えないこんな愚策が飛び出してくるなんて。もっとやることがあるでしょうに。

こうした国会議員の先生方の脳天気にもあきれますが、いまだに買い占めなんてやってる国民にもあきれます。TVのワイドショーばかりを見ていると、ものごとの本質を見失い、理性的でいられなくなるのかもしれません。しかし、震災・放射能騒動のときもああだったのに、あのときの教訓はどこにいったのでしょう。せめてこのブログを読んでくださった皆さんだけは理性を働かせて行動してください。そして、まわりの理性を失った人たちに呼びかけてください。「もう少し冷静になりましょう」と。

検査の真実

明日から春休みまで全国の小中高校が休校します。新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大を防ぐための措置だそうです。でも、おかしくないですか?学校の休校って構内での感染拡大を防ぐものなのに。なんで感染が拡大していない学校もふくめてすべてが休校しなければならないのでしょう。いろいろな社会的損失があってもやることなのでしょうか。感染症の専門家が進言したことには到底思えません。一般国民と同様に政権の内部さえもCOVID-19の感染者の増加に浮足立っているようにも見えます。

しかし、2月27日現在、クルーズ船での感染者を除くと日本の感染者数は186名(チャーター便での帰国感染者15名を含む)。このうち無症状者は19名、死亡者3名です。これって「流行」なんでしょうか。浮足立つほどの「急速な感染拡大」なんでしょうか。世の中には「感染者の少なく見えるのはCOVID-19の検査を大々的にやってないからだよ。検査をすればもっと感染者数がふえるはず」と叫びまわっている人がいます。こうした理性的になれない人がTVのワイドショーにたくさんいるからこれまたやっかいです。

「検査をもっと大々的にやればいい」と考える人は多いかもしれません。人によっては「無症状の人もふくめて希望すればすぐに検査ができる体制を」なんてしたり顔でコメントするもんですから、TVばかり見ている国民はどうしても「そうだ、そうだ。政府はなにをやっている」となるのですが事実は少し違います。検査についてはその利点と欠点をわかっていなければなりません。なのに医者ですらそんな基本を知らない人が少なくなく、ワイドショーにでてる医者(医学系芸人?)もめちゃくちゃを言っています。

今日は少しわかりにくいかも知れませんが、この検査のことについて書きますので一緒に勉強してみましょう。まずは基本的な用語についての説明です。検査はある病気を見つけるために行うのですが、すべての検査が百発百中ではなく、病気であることを見逃してしまったり、病気ではないのに病気だと誤診してしまうことがおこりえます。そのため、検査においては「病気の人を病気だと診断できる的確性」を感度、また、「病気でない人を病気なしと正しく診断できる確実性」を特異度と定義してその正しさを評価します。

次に本当の患者を陽性と判断した場合を「真の陽性」といい、患者ではないのに陽性としてしまった場合を「偽陽性」といいます。一方で、患者ではない人を陰性と判断した場合を「真の陰性」、患者なのに見落としてしまった場合を「偽陰性」といいます。ですから、「いい検査」とは偽陽性や偽陰性が極力低いものと定義できます。つまり、感度と特異度が高い検査ほど「いい検査」となり、現在の診療で広くおこなわれているインフルエンザの検査の感度や特異度はともに97%か98%とかなり高くなっています。

そんな検査だからさぞかし「正確」だろうと思いきや、必ずしもそうではありません。検査で見つけようとしている病気の頻度(有病率)がどの程度のものか。あるいは検査をしようとする集団にどの程度の患者がいるのか(事前確率)によっても検査の「精度」がかわってきます。これらはベイズ統計学という統計学的な理論にもとづいているのですが、私たちが医学生のころに「EBM(Evidence Based Medicine:根拠にもとづいた医療)」として広く知られるようになった学問です。

少し難しいので、まずこの感度、特異度について一般的にいわれている特徴を列挙します。

●めずらしい病気を見つけるためにたくさんの検査をすると偽陽性が増える
●患者がたくさんいる集団に検査をすると偽陰性が増える

これらの例を実際の数字をあてはめて考えてみましょう。ここでは感度99%、特異度99%という「精度の高い検査」を仮定します。感度99%とは本当の患者の99%を陽性とする確率であり、特異度99%とは患者ではない人の99%を陰性にできる確率を意味します。

例1)1000人の中に100人の患者がいる場合(患者ではない人は900人)

陽性適中 99人・・・偽陽性(過剰診断)9人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)1人

 

例2)1000人の中に10人の患者がいる場合(患者ではない人は990人)

陽性適中 9.9人・・・偽陽性(過剰診断)9.9人

陰性適中 980.1人・・・偽陰性(見落とし)0.1人

病気があることを的中させる確率(陽性適中率)を計算すると、例1)では91.7%であるのに対して例2)では50.0%と大幅に低下してしまいます。その一方で、病気ではないことを的中させる確率(陰性適中率)は例1)で99.9%、例2)では100%となります。つまり、感度99%・特異度99%という「精度の高い検査」をしても、患者の少ない集団を調べれば病気を正しく見つけ出すことができないのです。そして、その検査をたくさんの人に実施すればたとえ陰性適中率が99.9%だとしても偽陽性を増やすだけです。

具体的に今のCOVID-19にあてはめて考えてみましょう。COVID-19という新興感染症はまだ流行という状況にはなく、有病率もおそらくかなり低い状況にあると考えていいと思います(対人口比:0.0002%)。そんなときに「検査をしたいという人が全員検査できること」って重要なのでしょうか。「検査をして陰性だった人に感染確認」などというニュースを聴いて、「なにをやっているんだ」と検査の実施方法を批判する人もいます。しかし、検査には偽陽性とともに偽陰性もあることを知った上で議論しなければいけません。

現在のCOVID-19感染の拾い上げはPCRという方法でおこなわれています。これはウィルスの遺伝子を大量に増幅して検出しようというものです。遺伝子を使うのだからさぞかし正確だろうと思われるかもしれませんが、COVID-19はRNAウィルスであり、通常のDNAを使うPCRよりもあつかいが難しいようです。したがって、感度は40%、特異度は90%といわれており、精度的にも決して正確な検査とはいえないのが実情です。そんな検査を対象もしぼらずにおこなえば防疫という観点から大きな問題が生じてしまいます。

例3)1000人の中に10人の患者がいる集団に感度40%・特異度90%の検査をする場合

陽性適中 4人・・・偽陽性(過剰診断)99人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)6人

陽性適中率:3.9%

陰性適中率:99.3%

  例4)人口1億人の国に1000人の患者がいて、感度40%・特異度90%の検査を国民全員におこなう場合

     陽性適中率:0.004%

     陰性適中率:99.9%

現在おこなわれているPCR検査の信頼性が本当に例3)だと仮定すると、検査を希望する国民に幅広くおこなえば、むやみに偽陰性の患者を増やしてしまいます。そして、その患者は「検査に異常がなかった」と判断して、行動制限をやめてしまうかもしれません。また、検査数そのものが増えていけば、偽陽性の患者も増えていき、無駄な診療がおこなわれ、患者を収容できる病院の数と機能を低下させて、重症患者の治療に差し障りがでるかもしれません。例4)からもわかるように、PCR検査は病気を否定する検査ではないのです。

クルーズ船の乗客に対する検査はいろいろな制約の中でよくやったと思います。下船時の検査で陰性だった人が、その後、感染していたことがわかったケースもあります。しかし、これはある意味で仕方のないことなのです。乗客を早期に下船させなかったことも適切です。むしろ、1月下旬の段階で中国からの入国制限をしなかったことがおかしいと思います。すくなくともこの時期に封じ込めをすれば、今の感染者数を抑制し、拡大のスピードをもっと遅くできたかもしれないからです。

私はよく日常の診療において、まだ軽症であるにもかかわらずインフルエンザの検査を希望する人に、「一番怪しいと思うときに検査をするべき」だと説明します。それは以上のような理由があるからです。検査はすればいいというものではありません。「意味のある検査」をしなければならないのです。あれもこれもと一時の不安にかられて検査を求めることは診断を誤り、混乱と不安を拡大させるだけです。繰り返しますが、COVID-19はまだ流行していません。もちろんこれからどうなるかは別問題ですが。

今年の季節性インフルエンザの流行は収束したようだ、と報じられました。これまでに今年度も累計3万7198人の感染者がいました。インフルエンザに関連した死者も2018年度に3325人、2017年度で2569人と決して少ない数ではありませんでした。インフルエンザはまだまだ「死ぬ感染症」なのです。にもかかわらずワクチンの接種をしないでも平気な人がいます。しかも、そうした人の多くもまた「流行もしていない新型コロナウィルスの感染を恐れている」という事実をどう考えたらいいのでしょうか。

※今回の統計学の説明に間違いがあったら下記のコメント欄でご指摘ください

 

 

 

「新型肺炎」(2)

このブログで新型肺炎について書いたのはつい1か月前のことです。あのとき私が懸念したことが現実のものとなり、新型コロナウィルス(正式呼称は「COVID-19」)に感染した人は今も増加を続けています。感染源である中国での感染者は2月21日現在で75000人を超え、死者もついに2200人を上回っています。前回のブログで警告しましたが、COVID-19に感染した人をふくめたたくさんの中国人が来日したこともあり、2月21日現在で感染者93名(うち無症状病原体保有者14名:15%)であり、死亡した人は1名です。なお、ここにはクルーズ船での感染に関わる数字ははいっていません。

さて、今回のCOVID-19の感染患者に関しては、2月11日時点での疫学調査結果が中国から発表されました。いかんせん彼の国のことですから、これらの統計データにどの程度の信頼性があるのかは定かではありません。統計の基準がなんどか変更されていますから。おそらく中国共産党政府への批判につながらないことを優先してのことでしょう。ですから、今後、WHOなどの国際機関が正式に調査をすれば多少の訂正があるかもしれません。とはいいながら、現時点で発表された結果をみれば、COVID-19の姿をおおざっぱに垣間見ることができます。「正しく恐れる」ためにもこれらの数値を眺めてみましょう。

ながながと数字を並べてもわかりずらいので要点を列挙します。

●中国全土でCOVID-19の感染が確定された44000例を超える患者のデータ解析結果
●19歳以下の患者が2.1%、20~59歳は66.7%、60歳以上は31.2%(うち80歳以上は3.2%)
●患者の80.9%が軽症、中等症は13.8%、重症例は4.7%
●死者数は19歳以下で0.2%(うち9歳以下なし)、20~59歳は2.1%、60歳以上は26.4%
●致死率は全体で2.3%(武漢市で3%、その他の地域では0.6%)

つまり、若年者と高齢者は感染しにくいようです。しかし、高齢者、あるいは基礎疾患をもっている人は死亡する割合が高いという傾向があります。また、このウィルスに感染した多くの人は比較的軽症で、重症になる割合は5%以下です。一方、致死率2.3%という数字については、インフルエンザでの0.2%とくらべれば確かに怖い数字ですが、かつて流行したSARSは10%程度、MERSは35%、エボラ出血熱においては50%と、これらの感染症の方がはるかに恐ろしいようです。ちなみに、「移りやすい感染症の致死率は低く、致死率が高いものほど感染死にくい」という一般的な傾向が知られています。

季節性インフルエンザでは、ひとりの患者が感染させてしまう人の数は2~3人とされており、COVID-19もほぼこれと同じ感染力を有していると言われています。その意味で言うと、今、ちまたで広がっている「感染しやすい危険なウィルス」というイメージとは多少異なるのかもしれません。むしろ、まだ流行という状況からはほど遠い今の現状からいえば、今年になってすでに日本では1000名、アメリカにいたっては14000名あまりが亡くなっているインフルエンザの方が恐ろしい伝染病だということになります。季節性インフルエンザに対する認識の甘い人が多いのですが、日本では毎年約3000人の人が亡くなっています。

今回のウィルス感染がこれからどのくらい拡大するのかは未知数です。今後、中国のように全土に広がって日本でもアウトブレイク(大流行)が宣言されるかもしれません。もしそうなれば世界各国は日本を「感染国」として指定し、日本への渡航制限をかけてくるでしょう。となれば各国はオリンピックの選手団を日本には派遣しないという事態となってオリンピックは中止になるかもしれません。あれほどの費用と時間をかけて準備してきた東京オリンピックがまぼろしに終わり日本の国際的な信頼は失墜します。そうならないようにしっかり対応してもらいたいのですが今の対応はなんとも頼りない限りです。

COVID-19の感染拡大は、日本にとって、あるいは日本人にとって教訓にしなければならない経験です。なぜなら、近い将来、高病原型鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の大流行があるかもしれないからです。H5N1インフルエンザの致死率は60%とエボラ出血熱を上回わる恐ろしい伝染病です。幸い、このウィルスではまだ人から人への感染は確認されておらず、中国のごく一部の地域で鳥から人に散発的に感染するだけにとどまっています。しかし、その遺伝子は変異しやすいことが知られており、近い将来、人から人への感染が成立するだろうと言われています。もしそうなれば今回のCOVID-19と同様にいっきに感染が拡大します。

ところが日本人の危機意識はどうでしょう。年間3000人もの死者を出している季節性インフルエンザでさえワクチンも接種せず、「どうせ打ってもなるから」と高をくくっている人のなんと多いことか。ワクチンはもちろん感染予防のためでもありますが、感染しても重症化しないためのものでもあります。重症化すれば命に関わるばかりか、たくさんの人にも移してしまうことになります。ワクチンを接種しなかったばかりに死んでしまうのは自己責任だからよいとして、他人に感染させてその人を死なせてしまったらどう責任をとるのでしょうか。ワクチン接種は「自分のためであり、また周囲の人達のため」でもあるのです。

日本人にとっての教訓はまだあります。それは解熱剤(あるいはカゼ薬)の濫用です。風邪やインフルエンザを広げる原因のひとつが、解熱剤、あるいは解熱剤入りのカゼ薬を飲みながら勤務・登校する人たちの存在なのです。意外と多くの人がいまだに「カゼ薬は風邪を治す薬」と信じています。しかし、カゼ薬は風邪を治す薬ではありません。カゼ薬は風邪症状を軽くする薬にすぎません。発熱があっても、カゼ薬の解熱成分によって熱を抑えてしまうのです。今の季節、製薬会社は「熱があっても休めないときは」というキャッチフレーズでカゼ薬を売ろうとします。しかし、そこに落とし穴があります。

発熱はからだの免疫力にスイッチをいれるきっかけにもなります。今回のコロナウィルスに限らずすべてのウィルスには特効薬はありません。結局はからだの免疫力でウィルスを退治するしかないのです。ところが解熱剤で熱を下げてしまえば、たよりの免疫力にスイッチが入りにくくなり、結果として風邪がこじれるか、治りが悪くなるわけです。カゼ薬の「風邪をひいたら○○3錠」というキャッチフレーズは実は風邪を長引かせて薬をたくさん売るため、といってもいいものなのです。これらのことは普段の診療でいつも患者にいってきたことです。「解熱剤を一日三回なんて飲んじゃダメですからね」と。

熱があがらなければ、患者自身も、また医師も重症度の判断に予断をもってしまいます。「高熱だから重症?」と疑うチャンスを失ってしまうのです。中国であれだけあっという間に感染を広げてしまった原因にもカゼ薬(あるいは解熱剤)の濫用があったのではないか、と指摘する人もいます。解熱剤を服用しても熱を抑えきれなくなり、ようやく受診した患者に肺炎を合併していることがあります。「なんでこんなになるまで我慢したんですか?」と尋ねると、患者は「大した熱ではなかったので様子を見ていた」と答えます。そんなとき心の中で「カゼ薬なんてなくなってしまえっ!」と叫んでしまいます。

医者も悪いのです。風邪で受診するたびに解熱剤を出す医者がいるからです。確かに「熱がある」「頭痛がする」「のどが痛い」と患者が訴えれば解熱剤(=痛み止め)をだしてあげたくなるのは人情です。しかし、だからといって無頓着に一日三回の解熱剤(=痛み止め)を処方するのはどうかと思います。多少なりとも症状を軽減できても、風邪症状を長引かせたり、重症化を見逃しかねない処方は避けるべきなのです。風邪のとき、あるいはインフルエンザのときは本来つらいもの、と割り切ることも大切です。苦痛から逃れたいという気持ちはわかりますが、少なくとも発熱に関していえばこういうときは仕方ないともいえます。

検査もそうです。以前のこのブログでも書きましたが、インフルエンザの検査は絶対的なものではありません。検査結果は診断するためのひとつの情報ではありますがすべてではありません。場合によっては検査で陰性の判定が出ても、インフルエンザだと診断して抗ウィルス薬をお勧めすることもあります。この検査は、インフルエンザに感染し、からだの外にあふれ出てきたウィルスを検出するものです。ですから、うまくそのウィルスを拾えなかったり、まだあふれてきていないときに実施しても陰性になってしまうのです。この検査は「インフルエンザであることを確認するもの」ですが、あくまでも参考にすぎません。

今回のCOVID-19でも同じです。検査で陰性が出てもそれで「新型ウィルスに感染していない」ということにはなりません。ニュースでは「検査陰性だった人が発症した」と大騒ぎですが、我々医者にすれば「そんなことあたりまえなこと」なのです。もちろん逆に陽性であってもウィルスに感染していない場合もあります。それを擬陽性といいますが、COVID-19の感染患者とされている人たちのなかにはそうした擬陽性の人がいるはずです。今、日本には14名の「無症状病原体保有者」がいますが、その人たちにもおそらくこの擬陽性の人がふくまれているのではないかと思います。

「それならどうやって診断すればいいのか」と疑問に思うかもしれません。私をはじめ、多くの医者は検査はあくまでも参考にして診断しています。検査の結果だけを根拠にインフルエンザかどうかと判断するのではなく、その人の症状の経過や全身状態、あるいは診察所見などを総合的に判断するのです。ですから検査が陰性でも症状の勢いが強ければインフルエンザと診断して薬をお勧めすることもありますし、陽性でも症状が軽い場合はあえてお薬はお勧めしない場合もあります。COVID-19は未知のウィルスであり、今後の感染がどのように展開していくのかわかりません。だからこそ今は厳しめに判断しているのだと思います。

結局のところ今回の新型コロナウィルスは恐ろしいのでしょうか。結論からいえば、その判断をするのはまだ時期尚早だと思います。今の私自身は楽観的でもありませんし、悲観的でもありません。しかし、感染が拡大していくことだけは間違いないでしょう。なぜなら、中国との人的交流は続いており、感染者が日本に入国してくることは否定できないからです。政府も入国制限をしないという方針はしばらく変更するつもりはなさそうです。とはえ、1か月前に「新型肺炎について」とタイトルをつけた原稿をこのブログに掲載したとき、アメリカやカナダなどと協調して入国制限していればまた違った展開になっていたかもしれません。

しかし、そんなことを今さらいっても仕方ありません。これからどうするかについて、専門家の意見をまじえて真剣に考えるしかありません。ついこの間、「はじめての専門家会議が官邸で開かれた」というニュースを聴いたとき私は耳を疑ってしましました。とっくの昔に専門家の助言を得て対策をとってきたとばかり思っていたからです。厚生労働省には医系技官という医学部を卒業した官僚がいます。しかし、彼らのほとんどは感染症の専門家ではありません。感染症を専門にした大学の研究者とてその多くは感染症対策の実務を経験していません。大規模な感染症の対策がなおざりにされてきた証拠です。

アメリカには感染症の研究と対策の専門機関であるCDC(米国疾病管理予防センター)があります。また、感染症の拡大を安全保障の一環ととらえてDHS(国土安全保障省)が対応することもあると聞きます。しかし、日本にはこうした組織がなく、一朝有事となったときに政府の各機関が統合して動くことができないのです。とすればやはり生物・化学兵器の対策を専門にしている部署がある防衛省が国家安全保障会議の中心メンバーとして対応すべきです。今回もそうした案が政府内にはあったはずですが、軍組織に対する旧態以前とした頭の固い抵抗勢力のせいで封印され、それぞれの組織がバラバラで活動しているのが現状です。

私は新型コロナウィルスの感染拡大そのものよりも、日本のこれからがとても心配です。1か月前に感じていた胸騒ぎはきっとそれだったのではないかと思います。つまり、昨年10月の消費税増税で日本経済は少なからずダメージを受けました。多少のダメージがあることは多くの人達が予想していましたが、COVID-19による影響がそこに加わることになるとは誰も想像していなかったでしょう。中国発の新型コロナウィルスによってサプライチェーンが寸断され、今、日本の産業に大きくて暗い影を落としています。一方で、国内のさまざまな自粛によって観光客が激減し、国民の購買意欲を低下させています。

日本での感染患者がどんどん増え、国際社会から信頼を失なえばオリンピックは中止または延期になるかもしれません。もしそうなったらどうなるでしょう。インバウンド頼みとはいえ、なんとか堅調さを保ってきた日本の景気は一気に吹っ飛んでしまいます。私が警告してきた、日本の景気に対する懸念が現実のものとなってしまうのです。私が今回の新型コロナウィルスの感染拡大を不安に思う主要な原因がここにあります。そのときの責任は誰がとるのでしょうか。総理大臣や現在の政府が変わったところでいったん奈落におちた日本の経済を回復させることは容易ではないのです。

とはいえ、今すべきこと、これからすべきことを真剣に考えるべきです。いつか発生するであろう高病原性インフルエンザの流行も念頭におかなければなりません。だからこそ現在進行中のCOVID-19の感染拡大に対しては慎重かつ適切に行動しなければなりません。手洗いとうがいの価値、あるいは今まで軽視してきたワクチン接種の意義を見直すべきです。検査至上主義の風潮、あるいは風邪薬への過信をあらためなければいけません。部活優先のために学級閉鎖を躊躇するような学校運営をあらためなければなりません。新型コロナウィルスの感染拡大はこれからが正念場。「正しく恐れる」とは根拠なく楽観視することでもなければ、目をそむけることでも、取り乱すことでもないのです。

【追記】
 新型コロナウィルスに感染した人、あるいは感染拡大の阻止に力を尽くしている人たちへの差別的な
 言動が報道されています。すべての人がいつ感染者の立場になるかわかりません。また、感染拡大の
 阻止に向けて尽力する人たちがいなければすべての国民が危険にさらされます。ですから、こうした
 人たちへの偏見あるいは差別的な言動は絶対に許してはなりません。あの原発事故のときもそうでし
 た。被爆被災した地域の住民、あるいは原発事故の収束、停電の復旧に向けて頑張っていた東京電力
 社員への心ない言葉が飛び交っていました。本来、被災住民にも、あるいは東京電力社員にも責任は
 ないはずです。なぜなら原発を破壊したのは、想像をはるかに超えた津波なのですから。今回の新型
 ウィルス感染に関しても原発事故の当時と同じような差別や偏見があるとすれば、実になげかわしく、
 恥ずべきことです。そうした人の道にはずれるような行為がなくなることを願ってやみません。

 

 

そろそろインフル

これまでなんどもTVで「インフルエンザの流行がはじまりました」といってきたのに、またもや同じことをニュースでいってます。視聴者をあおることが彼らの商売なのでしょうが、もっと正確で冷静な報道をしてもらいたいものです。とはいえ、今度は本当のようです。我孫子、とくに当院のある船戸地区ではまだ流行のきざしはありませんが、保健所からの情報によれば松戸ではにわかに流行が拡大しているとのこと。我孫子でもそろそろインフルエンザの患者が増えてくるかもしれません。そこで、インフルエンザの流行を前に、2018年2月に投稿した記事を再掲しておきますので参考にしてください。

***************************** 以下、2018年2月の記事

 

ひとときのインフルエンザの勢いも落ち着きはじめ、患者の数もだいぶ少なくなってきました。とはいえ、これまでの流行では、B型が70%、A型が20%、残りがA・B混合型というようにB型が主流だったため、今後は従来のようなA型の流行があるかもしれませんので注意が必要です。例年にないこの流行の形態は、おそらくB型が比較軽症であったため、患者も医者も普通の風邪と判断して感染を広めたのはないかと思います。

この流行の拡大と軽症例の多さが診療の現場が混乱する原因にもなりました。わずかばかりの風邪症状があり、体温も平熱にすぎない患者が「TVで『隠れインフル』っていうのがあるといっていたので検査をしてください」と受診してきたり、きわめて軽症のインフルエンザの患者までもが抗ウィルス薬を求めてきたりと、必ずしも適切な医療とはいえない診療をいつになく求められたのも今年の特徴だといえるでしょう。

インフルエンザ検査や抗ウィルス薬投与の適否については、我が家でも私と家内との論争の原因にしばしばなっていました。検査や抗ウィルス薬を安易に(というとまた怒られるのですが)考えている家内と、必要性に応じて検査や投薬を考えるべきとする私とはまったく議論がかみあいません。こうした光景は当院の外来でもしばしば見られ、私の説明に不満げに帰っていく患者が少なからずいます。

こうした現状をふまえ、私が皆さんにいいたいことを、想定問答のような形でご説明したいと思います。もちろん考え方にはいろいろあって、私の言い分がすべて正しいと主張するつもりもありません。また、私の考えに賛同できない方たちを全否定するつもりもありません。ですが、私の言いたいことを通じて、皆さんにもこの問題を冷静に考えていただければ幸いです。

   【私の基本的スタンス】

○検査や投薬は「実施すべきケース」「実施してもいいケース」および「実施すべきではないケー
 ス」で考えるべきである

○医療に関しては「医学的に正しいかどうか」という観点とともに「医療費の支出として適切かど
 うか」という観点も考慮すべき

○インフルエンザが流行する前にすべての国民はワクチンを接種し、「インフルエンザに感染しに
 くい環境を作る」とともに「かかっても軽症ですみ、抗ウィルス薬を必要としない状況を作るこ
 と」が重要である

○インフルエンザはすべてがおそろしい結果をもたらすわけではなく、「重症例をはやく見つけて
 対処すること」が重要であり、「軽症例は安静を基本として、適宜、症状を薬で緩和すること」
   でいいと認識すべき

○インフルエンザの流行シーズンに入った場合は、「急に高熱となったケース」や「高熱にはなっ
 ていなくても、強い関節痛や悪寒、頭痛をともなう発熱のケース」は検査の有無をとわずインフ
 ルエンザとして学校や仕事を休んで自宅安静あるいは経過観察とするべき

これらのことをこれから具体的な想定問答として記述してみたいと思います。こうしたやりとりは当院の診察室でも同じようになることがあります。このやりとりの結末は残念ながらいつもunhappyです。ただし、ここでの想定問答では症状もなく「念のために検査」といって来院したケースを想定しています。また、当院ですべてのインフルエンザ検査・抗ウィルス薬の投与をお断りしているわけではありません。

念のために申し上げておきますが、インフルエンザの検査や抗ウィルス薬を希望される方は私に伝えてください。適宜、それぞれの患者の状況に応じて検査・投薬の適否を考え、「検査が必要な場合」はもちろん、「検査をしてもいい場合」であれば検査も投薬もご希望に応じておこなっています。

 

*****************以下、想定問答

患者:TVで「『隠れインフル』っていうのがある」といっていたので検査してください。

医師:でも、あなたは今、平熱ですよ。検査、必要ないと思いますけど。

患者:うちの夫が先日「B型インフル」って診断されたので感染していないかと思って。

医師:まだ検査してもでてきてない可能性が高いですよ。

患者:夫は熱が出てなくてもインフルエンザだったんです。

医師:それでなぜ検査をしたのかわかりませんが、なにかお辛い症状でもあったんですか?

患者:ちょっと頭痛が。でも今は元気ですけど。

医師:ですよね。ご主人は軽症だったんですよね。

患者:インフルエンザの薬をもらいましたからすぐによくなったんです。

医師:えっ?熱がなくて軽症だったのにインフルエンザの薬をもらったんですか?

患者:はい。だって早くよくなりたかったんで。出かけなきゃいけない用事もあったし。

医師:もしかして、薬飲んですぐに外出されたんですか?

患者:はい。薬を飲んだ翌日には平熱になって元気になったから。

医師:インフルエンザのときは解熱してもしばらくは人に移す可能性があるので外出はだめですよ。

患者:それじゃインフルエンザの薬を使う意味がないじゃないですか。

医師:インフルエンザの薬を飲む目的は「熱が出ている期間を1日程度短縮するため」なんです。

患者:よくなってるじゃないですか。

医師:そうです。改善はします。高熱の期間は短縮しますから。でも、しばらくは人にうつすんです。

患者:うちの夫は熱がなかった場合でもうつすんですか。

医師:だから「必要だったんでしょうか?」と申し上げたんです。自宅でしばらく安静にして・・・

患者:でも、普段のように元気でしたよ。

医師:いや、自宅安静の目的はご本人の療養という意味と他人に移さないという意味があるんです。

患者:うちの孫もインフルになったけど、すぐに熱がさがって元気になったので学校へ行ったけど。

医師:それが学校でインフルエンザを広めてしまう原因のひとつなんです。

患者:うちの嫁も働いているし、孫もゲームばっかりやってるから。

医師:ご家庭によって事情はあるでしょうが、やはり感染を広めないという意味では・・・。

患者:じゃあ、私の検査もインフルエンザを広げないために早めにやった方がいいんじゃない?

医師:いや、この検査は「インフルであることを確認する検査」なんです。

患者:「確認検査」?

医師:そう。陽性であれば「インフルです」って言えますが、陰性でも「違います」とは言えない。

患者:それじゃあ意味ないじゃない。

医師:意味はあります。インフルエンザだと確認はできますから。

患者:なら、今検査してもいいじゃないですか?

医師:確認だからこそ、怪しげなときにやるべきなのです。今のあなたは違います。

患者:とりあえず今やっておくっていうのはダメですか?もしかしてってこともあるし。

医師:今回が陰性でも、明日に陽性になるかもしれないし、あさってかもしれません。

患者:そのときにまたやればいいんじゃない。

医師:そんなことをしていたら医療費がもたないし、そもそも保険組合がそれを認めないのです。

患者:早期発見、早期治療は必要ないってこと?

医師:風邪やインフルエンザに関していえば「重症化を防ぐこと」が重要なのです。

患者:早期に治療すれば重症化だって防げるじゃないですか。

医師:それはそうですが、風邪やインフルエンザは本来なにもしなくても治る病気です。

患者:治療はいらないってこと?

医師:本来はそうです。でも、なかには重症化するケースがあり、その場合は早期発見。早期治療。

患者:なら、なんでインフルエンザの薬があるんですか。

医師:このまま放置していたら重症化しそうな人や高熱で辛そうな人のための薬として考えてください。

患者:検査もそうですか?

医師:明らかにインフルエンザと思われる人は検査をしなくてもいいってことになっています。

患者:検査しないで「インフルエンザ」って診断してもいいってこと?

医師:だって検査が「陰性」だからといって「インフルじゃない」って言えないんですから。

患者:それなら検査はまったく不要ってわけ?

医師:いえ、たとえば肺炎を思わせる患者が来たとき、肺炎治療を優先させるか、インフル治療を併用する
   かの判断にはとても重要です。そこまでいわないにせよ、怪しげなケースでれば検査はします。

患者:私、職場の方からも「検査をやってこい」っていわれるんですよ。

医師:インフルエンザが疑われるケースであっても検査が陰性なら仕事にいってもいいのですか?インフル
   エンザかもしれないと思ったら仕事はやはり休むべきでしょう。検査なんて補助的なものですし。

患者:でも、「A型?B型?」って聞かれるし。

医師:型なんてわかっても対応はかわりません。インフルエンザなんだし。ワクチンを打ってなければ重症
なることだってあるし。

患者:いずれにしても、今の私には検査はやってもらえないってことでしょうか。

医師:必要性はないですよ。あなたのようなケース全員に検査をやっていたら医療費が大変ですから。

患者:患者の命よりも医療費の方が重要ってことですね。

医師:いえ、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。

患者:でも、そう聞こえますよ。

医師:つまり、この検査をしないからといって今のあなたに大きな不利益はないが、あなたと同じケース全
   員にこの検査をやった場合の医療費の無駄は計り知れないってことです。

患者:・・・・。

医師:もちろん、今後、あなたになんらかの症状が出てきてインフルエンザであることを確認する必要がで
   てきたらちゃんと検査します。うちも検査すればそれだけもうかります。検査をするのが嫌で言って
   いるのではないのです。決して安い検査ではなく、あなたも無駄をお金を出さないで済むし。

患者:自分の財布から出すので心配いただかなくても結構ですよ。

医師:あなたの財布からも三割は支払われますが、残りの七割は医療費から支払われるんです。

患者:わかりました。別のクリニックでやってもらいますからもう結構です。

 

ほら、やっぱりunhappyだったでしょ。でも、実際はこうはいきません。インフルエンザ検査や抗ウィルス薬を希望される方についてはそのご希望を尊重しながらも、本当に必要かどうかに関して疑問に思う場合はその必要性は説明した上で「どうしても」という場合は検査もしますし、投薬もします。ただし、「してもいいケース」に関してです。「すべきではないケース」に関しては当然のことですがお断りしていますので悪しからず。医療と医療のバランスって難しいですよね。

でも、誰かが言ってました。「そんな固いこといってないで、言われるがままに検査をし、抗ウィルス薬を処方していれば患者は満足するし、医療機関や薬局、製薬会社ももうかる。すべてがハッピーじゃないか」って。私が「でも医療費が・・・」と言いかけたら「それも結局は国民の負担になるんだしいいんじゃないの」とも。しかし、それで医療保険制度が崩壊してしまったら元も子もないって考えないのでしょうか。きっと彼は言うでしょうね。「そんなこといち医療機関のひとりの医者が心配することじゃない。それは偉い政治家が考えること」ってね。う~ん、あたまの固い自分には実に悩ましい・・・。

 

 

患者の意志

先月、腎不全の重症患者に対する透析治療を中止した病院・医師のことが話題になっていました。腎臓は全身を循環する血液にとけこんだ老廃物、とくに人間の生命活動にとっては毒物となるさまざまな物質をろ過する器官として、あるいはK(カリウム)やNa(ナトリウム)などの生命活動を維持するために必要な電解質のバランスを保つ機関として重要な臓器です。この腎臓がなんらかの病因で機能を停止した場合、人工透析という治療によって腎臓のはたらきを代替しなければ人間は生きていくことができません。

つまり、重症な腎不全患者にとって人工透析の中止とはすなわち死を意味します。ですから、この治療を中止するという判断は通常はありえず、それでも中止をしなければならないのにはなにかやむを得ない事情があるはずです。ですから、今回の報道を耳にしたとき、私はその「やむを得ない事情」がなんだったのだろううかと思いました。報道によれば、透析中止の主たる理由は、透析装置とからだをつなぐ「内シャント」が使用できなくなったことのようです。しかし、それだけであのような判断を下すものでしょうか。

実際の透析はいろいろな意味で辛い治療です。透析を受けなければ命をながらえることができないということだけでも患者にはプレッシャーですが、透析を受ける前に「ダイヤライザー」と呼ばれる透析装置と血管を接続するための手術をしなければならないのはさらに苦痛で不安なものです。この手術で腕の動脈と静脈をつなぐ(通常はつながっていない血管です)「内シャント」を作ります。そして、そのシャントに針を刺してダイヤライザーとからだをチューブで接続して血液を循環させ、透析をするのです。

私も大学病院の総合内科に所属していた時、その「内シャント」を作る手術の手伝いをしていました。太さも壁の厚さも異なる動脈と静脈をつなぐ手術はとても繊細で、神経を使います。皮膚から露出させた血管は乾燥に弱く、すぐによじれてしまいます。また、人によっては細い枝が多かったりして、手術をする医者にとっては集中力と体力を使う結構大変な手術です。透析を繰り返しているうちにその「内シャント」がつぶれて使えなくなることもあり、そのときは作り直さなければなりません。

今回の患者はこうした「内シャントの閉塞」を繰り返し、もうシャントをつくることができなくなったケースだったようです。両腕の内シャントがもう作れないとなれば別のところにこのシャントと同じ働きをする代替経路を作らなければなりません。おそらくその処置(手術)には高いリスクをともない、透析を中止することのリスクとの天秤をかけての中止の判断だったのではないかと想像します。主治医にとっても、もちろん患者にとっても重い決断だったに違いありません。

ダイヤライザーでの透析によって、本来は尿となるべき水分と老廃物を強力にろ過できます。ですが、その分だけ治療後に倦怠感が強くなる場合があります。毎日、少しづつやればいいのかもしれませんが、それではなんども内シャントに針を刺すことになって血管を痛めます。なにより毎日透析に病院に行くのでは日常生活が制限されてしまいます。だからといって週に一回というわけにもいきません。24時間、365日、私たちのからだの中で働いてくれている腎臓の肩代わりをさせることはそれほどまでにやっかいなのです。

食べるものも、飲水量も厳しく制限されます。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べるという、ごく当たり前と思っていることも、透析を受けるようになるとできなくなります。そうした制限のゆるい腹膜透析という方法もあります。腹膜透析はおなかの中にチューブを通じて直接透析液を入れ、浸透圧の差を利用して透析したあと再びチューブを通してからだの外に廃液するという治療法です。この作業は自宅でできるとはいえ、毎日欠かさず、しかも一日に何回も注入・廃液をやらなければなりません。

ですから、透析治療から逃れたいとどの患者も思っています。逃れるためには腎臓移植のチャンスに恵まれなければなりません。しかし、日本では依然として生体腎移植が盛んになっていません。その順番を何年も待っている患者が多いのです。そんな四面楚歌の状態で気弱になってしまう患者も当然いて、透析医はそうした患者を励ますことに少なからず時間を割かなければなりません。そうした実情が背景にあるだけに、透析の現場では、透析中止の判断はとてもナイーブな問題になっているはずです。

まず私が一番言いたいことは、渦中の医者のあたまの中に「患者の意志は揺れ動く」という現実がしっかり認識されていたかという点です。患者の気持ちはコロコロ変わります。命に関わることゆえそれは当然のことです。あるときは「こんなつらい治療を続けるくらいなら」と否定的な気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。また、あるときには「支えてくれている家族のためにも頑張ろう」と前向きになるときもある。患者の心理状態も大きく変化するのです。そうした現実を医者は認識しなければならないのです。

最近、よく「患者の権利」「患者の意志」という言葉を耳にします。「患者の意志が尊重される」ことは「患者の権利だ」というわけです。確かに、自分の命に関わることは患者に判断させるべきだ、判断したいという気持ちは理解できます。しかし、はたしてそれができるものでしょうか。たとえそれができたとして、その「患者の意志」の名のもとに医療が硬直化する危険性はないのでしょうか。つまり言いかえると、「患者の揺らぐ気持ち」が一切考慮されない医療はおこなわれていないと言い切れるでしょうか。

今回の報道にある透析中止の案件もそこが一番の問題なのではないかと思います。透析をなんらかの理由で中止せざるを得ないとき、最終的には患者に継続するか、それとも中止するかの判断をゆだねることになります。そもそもそんな重大な判断をさせられる患者も気の毒ですが、それでも患者が悩みに悩みぬいて結論を出したとして、その意志を途中で翻意することを許容するような雰囲気がはたしてあったのかということです。「あなたが決めたことでしょ」で片づけられていなかったか。そこです。

癌の治療を開始する際、しばしば医者が治療法を提示して「さあどうしますか?」と患者に問いかけます。「患者の意志」の確認というやつです。「どうしますか?」と聞かれてそれに明確に答えられる患者は多くありません。どれがどの程度いいのか悪いのか、医学的知識も経験もない患者が即答できるはずもありません。しばしば「お任せします」と患者から投げ返されて、当惑してしまう医者も決して少数派ではないはずです。「へたに勧めて、あとで責任を問われてもなぁ」って。今はそういう時代なのです。

昔であれば医者は胸を張って「この方法で行きましょう」と勧めるか、さもなければ具体的な説明もないまま治療をはじめてしまうところです。患者も悩む必要がありませんし、医者にとってもある意味楽なやり方です。しかし、こういうやり方は今は通用しません。これまでのさまざな医療事故を通じて生じてしまった医療不信を背景に、「治療の選択においては患者の意志の尊重を」という社会的なコンセンサスが出来上がったのです。これがよかったのか、悪かったのか、私にはわかりません。

とはいいながら、「患者の意志」というものが、医者が裁判沙汰に巻き込まれないための医療者側の方便になっているという側面も見逃せません。治療を自ら選択した以上は、その選択の結果がどうであれ責任は患者にあるというものです。最近はいろいろな情報が氾濫しています。そして、希望する治療が受けられなかったことに患者から「こんなはずじゃなかった」と言われるケースも増えてきました。この「こんなはずじゃなかった」を言わせないために「患者の意志」が利用されているケースもあるかもしれないのです。

でも、患者の意志や気持ちは揺れ動くものです。「私はいつ死んでもいい」あるいは「死など怖くない」という言葉は、死を具体的に意識していないからこそ出る言葉です。アンケートなどで「あなたはどんな死に方をしたいですか」と問われることがあります。でも、そんなアンケートなどほとんど意味がありません。なぜなら、差し迫った死に戸惑い、不安になっている人でなければリアルな回答などできるはずもありません。死をリアルに感じているときと、無縁なときとで意志や意見は大きく変わります。

このように、人間は自分が置かれた環境によってその「意志」は大きく変化します。そのときはきっぱりと決心したように思えたことでも、次の日には「なんであんな決定をしてしまったのだろう」と後悔することもしばしば。臨床心理学では「気持ちが安定しないとき、落ち込んでいるときは重大な決定は先延ばしにしなければいけない」と教えています。私自身もこれまで、なにかを得られる決断であれば「迷ったらやってみる」としますが、なにかを失うかもしれない決断は「迷ったらやらない」ことにしています。

外来にもこんな人がいます。その方は普段から「私はこれ以上長生きしたいとは思わない」とおっしゃっています。でも、と同時に生きながらえるためのさまざまな薬を飲んでいます。そして、手がしびれたとなれば心配になって救急病院に行くわけです。最近、他院で「腎機能が悪くなっているから生活指導や食事指導を受けるべきだ」と言われたそうです。しかし、「そんなことまでして生きていたくない」と断ったとか。それで、結局のところその医者も「それなら、ご勝手にどうぞ」となってしまったらしいのです。

「食べたいものをやめてまで長生きしたくない」とおっしゃるので、私は「でも腎臓がさらに悪くなって尿毒症になったら食べたいものも食べられなくなりますよ」と説明しました。すると困ったように「それならどうすればいいのか」と。「だからこそそうならないように今から生活指導や食事指導をと先生はおっしゃったのでは?」と私。すると、ふたたび「それほどまでして長生きしたくない」と。私は「0(ゼロ)か100かってことじゃないんですよ」と言ったのですが、ご本人の中では戸惑いと不安が錯綜しているようです。

一方でこういう方もいます。その方は肺癌と診断されたものの、幸い手術を受けることができました。しかし、リンパ節転移の可能性が否定できないため、手術後に抗癌剤治療の追加をするかどうかを決めてほしいと主治医にいわれているのです。ただ、高齢でもあり、術後間もない時期での抗癌剤治療は体力を奪って日常生活の支障となるおそれがある。もし抗癌剤の治療を受けなければ癌が再発してくる不安におびえなくてはならない。どちらがいいのだろう、と。そこで「先生の意見を聴かせてほしい」というわけです。

私はいいました。「自分の命に関わる決断は自分で下すしかない。なぜなら人生観や価値観が関わるから。抗癌剤治療を受けなくても再発しないかもしれないし、治療をうけても体力を奪われた上で再発するかもしれない。私が言えることは、せいぜい『自分だったらこうする』程度のことだ」と。抗癌剤の治療を受けるにせよ、受けないにせよ、その結果は自分で受け止めるしかありません。治療方法についてのスペシャリストも確率でしか将来を予測できないのですから。最後は「患者の意志」で決めるしかないのです。

改めて、冒頭の透析中止の件について考えてみると、問題は三つに絞られると思います。まず、透析を中止するという選択肢の提示は医学的に正しいものだったか、という点。ふたつめは、透析の中止を選択した患者の決定が、真に自分の意志にもとづくものだったのか、という点。そして、三つめは、透析中止を患者が申し入れたとして、その後の状況の変化によって患者が当初の意志をひるがえしたときの病院・主治医の対応が適切だったかという点です。とはいえ、そう整理をしてもなお結論のでない問題だとは思いますが。

一見すると、他人の人生など自分にはほとんど関係ないように思えます。しかし、自分という存在が他人に影響を与えているのと同じように、他人という存在は自分にも影響をあたえています。とくに私のような生き死にと関わる仕事をしていると、人に与える影響とその責任の重さをひしひしと感じます。私のひと言で傷ついたり、勇気づけられる患者がいるのです。今回の透析中止の件において主治医と患者のコミュニケーションが十分だったんだろうかということが気になります。亡くなった患者はもう帰ってきませんけど。

徒然なるままに

以下の記事は2018年1月7日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。なお、震災時のレジュメの転載部分を除く前半の記事は一部修正してありますのでご了承ください。

******* 以下本文

このブログには努めて政治的なことは書かないようにしてきました。それでも敏感な人にはこのブログを読みながら私の考え方や価値観が鼻につくと思われた方もいるかもしれません。しかし、私は私なりに「イデオロギーによらず、世の中のながれに流されず、自分の手で調べ、自分の頭でなにが正しく、なにが大切かを考える」というスタンスを貫いてきたつもりです。その一方で、他人の考え方にも否定的にはならないようにし、いろいろな政治的スタンスも尊重するようにしてきたつもりでもあります。理想論に走らず、現実から目をそらさず、将来を前向きに考えながら意見を発信してきたとの自負がありますが、それでも人によっては私の言い方(主張の仕方)が独善的だと感じられるかもしれません。

それらを前提に言わせてもらえば、あの豊洲市場移転問題におけるここ数日の動き、あるいは国会で繰り広げられている稚拙な政治ショーには辟易します。あの不毛な騒動を見ながら、「本質的な議論をしろ、建設的で前向きな解決方法を考えろ、責任ある政治をしろ」という思いが込み上げてきます。震災のときの原発事故や放射能の危険性に対する報道もそうでした。国論を二分する課題にぶつかると、日本ではいつも不毛な論争、無意味な批判が繰り返されます。そして、世の中を混乱させ、人々を不安におとしいれるような印象操作があちこちに見られることも。そのたびに「政治や報道という、もっと澄んだ目で、問題を直視しなければならない領域の人達がなぜこうなるのだろうか」と情けなくなります。

以前にも紹介しましたが、あの震災での原発事故発生10日後に、私は「原発事故の危険性、放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけるレジュメを書きました。それはパニックになっていた知り合いの医師仲間や来院患者に配るためでした。ほぼ一週間ないし二週間に一度の割合でネットや本で調べてはまとめたことを彼らに発信したのです。このとき、ちまたを駆け巡る情報の多くがいかに不必要に人を不安におとしいれているか、混乱させているかがわかりました。人々が正しい情報を得るのに、マスコミが流す情報は必ずしも役に立たず、かえって人の不安感や不信感をあおり、人心を惑わしていることがよくわかったのです。正しい情報を得るためには、自分の手で調べ、自分のあたまで考えるしかないことを痛感しました。

自分の考えをもち、主張することには勇気が必要です。世の中のおおかたの意見と異なる場合であればなおさらです。それは人から批判され、ときに罵倒されることをも覚悟しなければならないからです。現に、当時、マスコミを通じて盛んに流されていた放射能の危険性にもっと冷静になるべきだと繰り返していた私は「名もなき批判」を受けたことがあります。ある日、私のクリニックのポストに一枚の紙切れが入っていました。そこには「患者の命を守るべき医者が、放射能の危険性にあまりにも楽観的すぎる。恥を知れ」という一文が殴り書きされていました。そんな投書がくるとは思ってもいなかった私はビックリ。「恥を知れ」という言葉が心にグサリと刺さりました。

それでも私はレジュメを書き続けました。当時のレジュメを今読み返すと、多少の間違いや思い込みはあったかもしれません。しかし、自分で言うのもおかしいのですが、全体的に内容は適切であり、ビックリするくらい冷静に書かれていたと思います。「名もなき批判」の投書はその一回限りでした。投書の主がその後もレジュメを書き続ける私にあきれてしまったからでしょうか。それとも私が書き続けたレジュメの内容を受け入れてくれたからでしょうか。いずれにせよ、あのときの世の中のながれに棹をさすような意見を表明したときの「名もなき批判」は、扇動的な情報を流し続けるマスコミの罪深さとともに、情報に翻弄される一般市民の恐ろしさを私の心に刻み付けることになりました。

振り返って今はどうでしょう。相も変わらずものごとの本質とはずれた扇動的な報道が平然となされ、ものごとの本質を冷静に考えようとせずいともたやすく流される市民。そして、そうしたマスコミと世論に流されるような軽い政治のおかげでいろいろな課題が八方ふさがりになっているように感じてなりません。豊洲市場の地下水問題だって当初から冷静に考えれば大した問題ではないことは明らかだったはずです。なのに、あれだけ世の中を混乱させ、人を不安にさせておいて、10か月を経て「豊洲移転」という当たり前な結論に落ち着くというだらしなさ。この問題もまた何年かすれば「あんなこともあったなぁ」で終わってしまうのかもしれません。こんなことを繰り返していていいのでしょうか。

これからあの震災の時に配布していたレジュメを掲載します。このレジュメを読みながら、今の社会のあり方を振り返っていただければと思います。人によっては不愉快な思いをするかもしれません。あるいは、あのときの不安な気持ちが甦ってくる人がいるかもしれません。しかし、当時の私がなにを考え、なにを伝えたかったを読み取っていただければ幸いです。とくに、あのときクリニックのポストに「恥を知れ」とのメモを投函した主には是非冷静になって読み直してほしい。特定の人や特定の考え方を批判するつもりはありません。私がこのレジュメを紹介するのは、ひとえに情緒的にならずに冷静に考えることの大切さを知ってほしいからです。

なお、批判のメイルをいただいても掲載はしませんし、反応もしませんので悪しからず。

 

***************** 以下、2011年3月19日配布のレジュメ原稿
「冷静になってよ」
▼冷静になってよ~く考えてみよう。現在の福島原発で起こっていることを。まず、原子炉はすでに運転を停止しており、コントロール不能な核融合反応が爆発的に起こった「チェルノブイリ」のようには絶対にならない。これについては一部「チェルノブイリが近づいた」などと民衆の不安を煽るようなことを言ったバカな助教(助教授ではありません)がいたし、彼に乗せられた愚かなマスコミもあった。しかし、すでに制御棒が挿入され、安全に停止した原子炉内では暴走して手が付けられなくなるということはない。問題は、原子炉の停止後も崩壊熱を続け、熱を発している燃料棒をいかに冷却するかと言うこと。むろん、冷却がまったくできなければ燃料棒が溶け出し、燃料棒を閉じこめている圧力容器を損傷して大量の放射線が空気中に放出されることもあるかもしれない。しかし、そのような事が仮にあっても圧力容器の材質が燃料棒と混ざって大規模な再臨界にはいたらないだろうとされている。つまり、ウランが溶けて塊となれば中性子が減速するための水がなく、結果として大規模な再臨界にはならないとされている。もちろん、燃料棒が溶け出す事態となれば、確かに一時的には粉じんのようになった大量の放射性物質が空気中に飛散する可能性はある。しかし、これとて一時的なことであり、拡散する中で放射線量はどんどん低くなって、100kmも離れると10000分の1になっていく。重要なのは一時的であるにせよ、人体にどの程度影響するかだろう。体内に吸引してしまう危険性ももちろん考えなければならないから。しかし、放射性物質を吸入する可能性についても、またその放射線量の問題に行き着くのだ。
▼今回の原発の問題で海外に逃げる、という人がいる。しかし、東京-NY間を往復すればそれだけで200マイクロシーベルトの被曝がある。検診で腹部CTをとれば10000マイクロシーベルトの被曝がある。胸部レントゲン写真1枚撮れば100マイクロシーベルト、胃のバリウム検査で3000マイクロシーベルト。これまで検診でこれらを全て受けてきた人はあっという間に13000マイクロシーベルトを超える被曝をしてきたことに。それなのにマスコミが大々的に報道する「1時間当たり2000マイクロシーベルト」に仰天するなんて。そもそもこの値は「1時間ずっとこの線量を浴びていたらという単位」であって、しかも瞬間最大風速みたいなもの。そう考えれば、この値のイメージがいかに拡大されているかということがおわかりいただけるだろう。もちろん安全だなどという気はさらさらない。24時間こんな環境にいたら健康にはよくないかもしれない。しかし、もしそうであってもせいぜい自然界から1年間に受ける2000マイクロシーベルト程度。ちなみに、一度に100000マイクロシーベルトを大きく超える被爆を受けると胎児に影響が出始め、ガンの発生率が健康な人より高くなり始めるとされている。また、生殖腺に一度に1000000マイクロシーベルトを被曝すると急性の放射線障害が出現し、遺伝病が自然発生率の2倍になるといわれ、2000000マイクロシーベルト以上で死亡者が出るとされている。しかもこれは「一度に被曝した場合」の話しですから念のため。
▼要するに、仮に燃料棒の融解と圧力容器の損傷があっても、それなりの距離で離れていて、常に高濃度の放射線量に暴露されていなければ、花粉症対策でおこなうようなマスクとうがい、できれば帽子をかぶって帰宅後は全身の塵と埃をはらえばいい、ということ。燃料棒の崩壊熱も崩壊するものが少なくなっていけば弱まっていく。要は「自然に温度が下がっていくにせよ、あらゆる方法をつかって燃料棒を冷却し、いかに燃料棒の容器が破損しないように時間稼ぎをするか」にかかっている。東電の職員・自衛隊は文字通り命をかけて、その作業に全力を傾けている。感謝こそすれ、怒鳴りつけるようなものでは決してない。とにかく冷却を、というのが結論。楽観的になれ、と言っているのではない。現状を冷静に、そして、客観的に理解し判断すべきだと言っている。この機に乗じて「反原発」の立場に立つ人達は原発の危機を煽ってくる。それは彼らの信念だから当然のことだろう。しかし、それが真実ではない。事実を見極めようとする姿勢が大事だということを国民として肝に銘じておこう。
***************** 以下、2011年3月26日配布のレジュメ原稿
「内部被爆」
▼連日、放射能の危険性をマスコミがあおっている。だから、雨が降っても、どの食品を見ても、すべてが放射性物質に汚染されているように思えてくる。しかし、放射線はこれまでも空から注がれてきたし、食物を摂取するかぎり微量の放射性物質がからだの中に取り込まれている。我々の日常生活は放射性物質とまったく無縁というわけにはいかないのだ。レントゲン写真やCTなどの医療行為を受ければ、その分放射線による被曝を受けている。飛行機に乗って南国へ飛ぶだけでも、そして、その南国で日光浴を楽しんだだけでも人は放射線を被曝している。第一、からだの中ですら結構な量の放射性元素が毎日生じているのを知らない人は多い。重要なのは「どのくらいの被曝を受ければ健康に問題が生じるか」ということ、その一点に尽きる。
▼放射線を体の外から浴びることを「外部被曝」という。その外部被曝による影響をあらわす単位が「シーベルト」。それに対して、放射性物質を体内に取り込んで放射線を浴びることを「内部被曝」という。その放射線の量をあらわした単位が「ベクレル」。食品の内部被曝許容量は、放射線の影響を受けやすい子どもを基準に決められている。なぜなら、放射線は細胞分裂の際に染色体にダメージをあたえ、細胞分裂の盛んな子どもに放射線の影響が出やすいから。大量の放射性物質をふくむ塵が拡散したチェルノブイリ原発事故では、当初、周辺の子供達の小児癌の発生が心配された。しかし、実際には小児の甲状腺癌だけが増えていた(ちなみに20歳以上で被曝した人では癌の発生は増えていなかった)。甲状腺にはヨウ素が取り込まれやすい。その中でもヨウ素131はウランが核分裂する際に作られる放射性元素で、体内に取り込まれると甲状腺にとどまって放射線を出す。でも、半減期が8日間のヨウ素1313ヶ月もすればどんどん減ってゼロに近づく。だから、一度、ヨウ素131で土壌が汚染されても、その影響がいつまでも残るわけじゃない。
▼先日、空中を拡散していたヨウ素131が雨にまじって降ってきた。それが集まってくる浄水場や河川を測定したからそれなりの濃度になった。でも、不安になる必要なし。地面に降り注いだ放射性物質は次第に拡散し、徐々に消えていくから。つまりは水道水の被曝量はいつも同じではない。一度、高濃度となったとしても、必ず濃度は正常範囲内になっていく。しかし、それは報道されない。被曝量が低いことにマスコミは興味ないから。水道水の放射性物質汚染については日本産婦人科学会が見解を出した。水1リットル当たり200ベクレル前後の軽度汚染水道水を妊娠期間中毎日1リットル飲むと仮定すると、その人が被曝する総量は1232 マイクロシーベルト。胎児に悪影響が出るのは50000 マイクロシーベルト以上。万がいち胎児が100000500000 マイクロシーベルトの被曝を受けても胎児の奇形は増加しない。結局、現時点で妊娠中・授乳中女性が軽度汚染水道水を連日飲んだとしても、母体ならびに赤ちゃん(胎児)に健康被害は起こらない。
▼とはいえ、こうも毎日放射能の話題が続くと「安定ヨウ素剤」を飲みたくなる人が出てくる。でも、ちょっと待て。この薬は被曝の24時間前あるいは被曝直後の服用が原則。おまけに服用して1週間もすれば効果がなくなる。日本人はもともとヨウ素を含む海草の摂取量が多く、ヨウ素131の影響を受けにくいとされる。だから、パニクって安定ヨウ素剤を飲んでも無駄。ましてやうがい薬などを飲めば有害なだけ。「あわてる何とかはもらいが少ない」とはまさにこのこと。発表される内部被曝量も、外部被曝量と同様に「最大瞬間値」。すぐに下がって問題なし、となる。高濃度の放射性物質に毎日24時間さらされているならまだしも、そんな環境は原発事故現場周辺でしかありえない。ましてや230kmも離れた我孫子では。冷静になろう。市販の水は影響を受けやすい乳児へ。子どもは国の宝。大人のあなたが先を争って水を買いに行く必要はないし、そうすべきでもない。
***************** 以下、2011年4月7日配布のレジュメ原稿
「炉心融解」
▼史上最悪ともいわれるチェルノブイリ原発事故では、核分裂反応がコントロールできなくなり暴走した。そして、超高温となって溶解した核燃料が原子炉を溶かして外部に漏れ、大量の放射性物質を土壌や大気にまき散らした。「炉心溶解(メルトダウン)」という言葉はこの事故によって広く知られるようになった。テレビ等での解説を聞いていると、この「メルトダウン」と「核燃料の溶解」を同じようにあつかっているが、あれは誤解や無用な不安を生む。「メルトダウン」と「核燃料の溶解」とは意味が違うからだ。炉心溶解とは臨界により超高温となった核燃料によっておこる炉心構造体(つまり、圧力容器や格納容器)の溶解のこと。つまり、単に核燃料が溶解したからといってメルトダウンになるわけじゃない。
▼核燃料に中性子を当てると核分裂が起こる。このとき、新たに中性子が発生するが、この中性子が新たな核分裂を引き起こす。核分裂と中性子の発生の量がねずみ算式に増えて次々と核分裂を引き起こした状態が「臨界」。ところが、その核分裂を引き起こすには中性子を減速させる必要がある。この減速の度合いを調節するのが中性子の吸収材でできた制御棒。原発ではこの制御棒を核燃料の間に抜き差しし、臨界状態をコントロールして核分裂時の莫大なエネルギーを発電に利用している。福島原発はM9の地震発生時に自動的に制御棒を核燃料の間に挿入して運転を完全に停止している。したがって、現在、原子炉の中にある核燃料はもはや臨界にはないし、制御棒が外れない限り再臨界はない。水はこうした中性子を閉じ込める働きをするが、同時に反射材としても機能する。99年の東海村の事故では核物質の臨界を防ぐ形状をした容器での作業を怠り、核分裂の頻度が高くなる形状の容器で作業。しかもその容器のまわりに置かれた水が中性子の反射材として作用してしまったために再臨界に達した。
▼要するに、簡単に「メルトダウン」といっても、核分裂反応を抑制する制御棒が炉心の核燃料集合体の中に完全に挿入されて運転が停止している福島原発ではそう簡単におこらない。炉心溶解がおこるためには再臨界がおこって爆発的な核エネルギーが生じることが前提となる。福島原発では燃料棒が一時的に水から露出し、再び水をかぶったため破損していると考えられている。そして、燃料棒内のウランの塊(ペレット)が水中に散らばって塊となっている。そして、そのペレットの塊は崩壊熱によって一部は溶解しているが、臨界が起こっていないため、その核燃料の塊の温度は圧力容器の材質の融点よりも低い値にとどまって炉心の溶解はないとされている。ただし、燃料棒が毀損している以上、圧力容器内の水には燃料棒内でできた放射性物質(ヨウ素やセシウム、プルトニウムなど)が大量に混入している。これがおそらくタービン建屋内の放射能汚染を受けた水と関連がある。今、福島原発で問題になっているのは、再臨界や炉心融解のことというよりも、多量の放射性物質が外部に漏れ出ていることそのこと。冷却を継続しないと放射性物質がさらに拡散するから。
▼以前、福島原発敷地内で中性子が検出された。これを再臨界によるものだとする意見もある。しかし、もし再臨界に至っているとすれば中性子がもっと大量かつ恒常的に出てくるはず。不安定なウランは自然に核分裂する(これを自発核分裂という)。現時点での中性子線に関する報道を見る限り、検出された中性子線は微量であり自発核分裂によるものとして矛盾はない。そもそも、福島原発では制御棒が挿入されているうえ、燃料棒が臨界のおこる間隔より狭く並べられ、中性子の減速剤である水に満たされている。再臨界にならない条件がそろっている。もし、水がなくなったとしても臨界に必要な「中性子の減速」がおこらないため核物質は連続的に分裂しにくい。ただし、水がない分だけ今度は中性子が飛んでくるが、それはそれで問題ではある。
▼以上のことから、福島原発では現時点でメルトダウン(炉心溶解)には至らない。結局、大量の放射能をまき散らす状態、つまり、核燃料が格納容器を破って外部に漏れる事態にはならない。問題は冷却水をいかに保つかという点にかかっている。とはいえ、あとで炉心が溶解していたことが明らかになるかもしれない。想定外はいつでもあるから。それでも、現在の情報を総合し冷静に分析すれば安心できる材料の方が多い。
***************** 以下、2011年4月14日配布のレジュメ原稿
「福島とチェルノブイリ」
▼福島原発事故が国際評価尺度の「レベル7」に引き上げられた。これはチェルノブイリ原発事故のレベルに相当する深刻な事態だとマスコミは騒いでいる。だからといって、福島での原発事故がより深刻になったわけじゃない。炉心が吹っ飛び、一気に大量の放射能を大気中にまき散らしたチェルノブイリ原発。炉心から放射能汚染水がダラダラと漏れている福島原発。「レベル7」になったのも、放出された放射性物質の量がレベル7の基準である数京ベクレル(数万兆ベクレル)を超えたから。原子力安全・保安院の推定で福島原発からは37京ベクレル(原子力安全委員会では63京ベクレルと推定)の放射性物質が放出されたという。しかし、チェルノブイリ原発事故はその10倍、しかも、たった2週間の間に放出されたのだから驚きだ。
▼チェルノブイリ原発事故では実験操作のミスで制御棒で核反応を止めることができなくなり暴走。圧力容器の圧力が異常に高まって爆発。1000tもある蓋を、そして冷却系の配管を吹っ飛ばした。そして、水がなくなり、冷却すらできなくなってさらに核反応が高まり、炉心溶解(メルトダウン)と二度目の爆発。炉心に流入した酸素によって火災を起こし、370京ベクレルもの放射性物質を世界中にばらまいた。結局、炉心に中性子の減速材である鉛やホウ酸を大量に投下して2週間ほどで核反応が収束。6ヶ月後に大量のコンクリートで固めた「石棺」が完成した。よく、「チェルノブイリが27年間で370京ベクレル、福島は1ヶ月で37京ベクレル。だから、福島の方が深刻」なんて煽る人もいるが、それは大きな誤り。チェルノブイリは約2週間で370京ベクレル。福島では1ヶ月で37京ベクレル。圧倒的にチェルノブイリの方が大事故だった。IAEAの事務次長も「福島原発事故とチェルノブイリとは別物」と会見でのべている。量的には「レベル7」であっても両者には雲泥の差があり、質的にはまったく異なる事故。
▼よく「原発の安全神話が崩れた」などというが、こんなものいわゆる「想定」の中での「神話」でしょ。科学とは経験を弁証法的に理論化したものだから、経験を超え、理論で予測しえないものを予言するのは無理。先日の国会質疑で、原子力安全委員長が「福島原発事故は想定外」と発言すると、議員席から「その想定が間違っていたんだろっ!」と下品な野次が飛んだ。科学的に想定しえないものの責任を取れといわれてもねぇ。「想定外」と「想定が間違っている」の違いもわからぬ頭の悪い議員にはあきれるばかりだが、福島原発付近ではチリ地震のときの4m弱の津波が最高記録。その記録をふまえて最大波高を5.7mと想定し、防潮堤を設置した上で10mの崖上に原子炉を建設したのに16mの津波が来た。そんな津波が来ると想像した人など誰もいない。「それを想定するのが専門家」などと簡単に言わないでくれ。専門家・科学者だからこその「想定外」。「絶対的な安全性」を強いられて、東電が苦し紛れに「想定内では安全」と言ったことを信じる方がおかしい。というか、みんなこんな神話など信じていなかったくせに。
▼飛んでくるわずかな放射能に大騒ぎしたのはついこの間。今度は「実は炉心溶解しているのを政府は隠している」なんて言っている人も。いくら詮索しても不安になるだけ。なんの役にもたたない。でも、福島原発事故が重大な事故であることにはかわりない。今でも放射性物質が冷却水に混ざって漏れているのだから。だからといって煽られるなんて馬鹿げてる。現時点で空気中に放出されている放射線量は極めて微量であり、これまで放出された放射性物質も日を追うごとに減少。「原発事故の深刻さに煽られるな」と繰り返しているが、「楽観的になれ」とは言ってない。よもや「今回の原発事故は深刻じゃない」などと言っているわけでもない。現状をできるだけ冷静に見て、正しい判断をしようということ。この一点だけ。
***************** 以下、2011年4月21日配布のレジュメ原稿
「放射能の危険性」
▼あまりにも楽観的なことばかりで恐縮だが、今回はちょっとだけ学術的なことをお話ししよう。科学とは客観的な事実(これをエビデンスという)を積み重ね、さまざまな現象を理論化・体系化して想定や予測をおこなう。したがって、エビデンスのない事実については何も語れないし、語るべきでもない。だから、「放射線は危ない」という誰もが疑わないことでさえも、きちんとあエビデンスで考えなければならない。
▼チェルノブイリ原発事故は、今、福島原発で進行中の事故をはるかに上回るほどの深刻な事故。しかし、その事故が周辺住民にどのような影響を与えたかを「エビデンス」という観点から見るとどうなるだろう。実は、事故から20年後におこなわれた国際会議で「いくつかの例外を除いて地域住民に癌の発生や死亡率の上昇を示す科学的証拠は見つからなかった」と報告された。つまり、周辺住民への健康被害は限定的だったのだ。でも、その例外とは何か。それは、事故処理にあたり大量の放射線の被曝を受けた人達と、汚染されたミルクを飲み甲状腺に被曝を受けた乳児。事故処理で大量に被曝し急性放射線障害を受けた人は273人。うち、死亡した人は20年間で47名だった。また、汚染されたミルクを飲んだ乳児は数万人。そのうち4000人ほどが甲状腺癌になった。しかし、その99%以上は治療が可能であって治癒。それ以外の健康被害は、癌をふくめてそのほとんどが証明されなかった。これが科学的事実。
▼今、「放射能は危険」とする根拠として用いられているのが広島・長崎の原爆被害の結果。爆心地で大量の放射線被曝を受けた人達に健康被害が出たことは周知の事実。しかし、日米共同研究では「低線量の被曝では癌の発生リスクはほとんどない」という結果が出た。ならばどこからが「低線量」なのか。それが難しい。なぜなら、「放射線量がゼロから増えるにしたがって正比例で健康被害がでる」という簡単なものではないから。今、もっともらしい指標に「1シーベルト(1000000マイクロシーベルト)=5%が死亡」というモデルがある。でも、これに従えば、人間ドックに行って胸部レントゲンや胃のバリウム検査、腹部CTを撮り、1000マイクロシーベルトの被曝を受けているとどうなるか。年間300万人が人間ドックを受診しているらしいから、もし「1シーベルト=5%死亡」という指標が正比例で成り立つとすれば「300万人×5%÷1000150人」もの人が死んでいることに。これってホント?原発より恐ろしいじゃないか。
▼一方で、飲み込まれたり、吸い込まれたりして、体内に長期的に存在し続ける放射性粒子(「ホットパーティクル」という)こそが本当に危険、という説もある。でも、放射性ヨウ素は1ヶ月もすればゼロになる。放射性セシウムにしても、カリウムやナトリウムと同じ種類の金属なので体から排出されやすく、生物濃縮はないとされている。政府は年間10ミリシーベルト(10000マイクロシーベルト)以上の放射線を浴びる学校での野外活動を制限した。その根拠は毎日8時間もの間3.8マイクロシーベルトの放射線をずっと浴びる量だそうだ。そんな学校どこにあるのだろう。少なくとも、今となっては20km圏内の学校でもなければそんな場所はない。
▼要するに、今、騒いでいることの多くには実は「エビデンス」がない。しかし、「エビデンス」がないから安全だということじゃない。「悲観的なエビデンス」がないのだからもう少し冷静になろう、ということ。こんな風に楽観的に言われるとかえって信じられないって?でも、これまで書いてきたような「これまで炉心溶融(核燃料の溶融はあっても圧力容器は破壊していない狭義のもの)に至っていない」「冷却が今後も続けば炉心溶融にはならない」とそっくり同じ事を官房長官が認めている。ほら、この官房長官の発言で「楽観的なエビデンス」がひとつ増えたじゃないか。煽られて悲観的にばかりなっていたら損ってこと。
***************** 以下、2011年5月17日配布のレジュメ原稿
「正しく怖がる」
▼地震直後の福島原発の状況が少しずつ明らかになってきた。そして、一部の原子炉の炉心が早い段階で「カラ炊き」状態になって、核燃料が溶けて圧力容器の底にたまった状態になっていたようだ。また、圧力容器のどこかに穴があき、そこから高濃度の放射性汚染水が漏れ、格納容器の損傷部分から外部へ流れている可能性が指摘されている。
▼これらの状況が「メルトダウン(炉心溶融)」として新聞やテレビで報道されている。しかし、国民は思いのほか冷静にこれを受け止めている。新聞の見出しの大きさにも関わらず、以前のようなパニックにはなっていない。このことこそがとても重要。地震直後の福島原発が、実はきわめて緊迫した状況だったことは限られた人だけが知っていた。これを情報の隠蔽だと批判する人もいる。しかし、あの騒然とした状況にあって、馬鹿正直に「メルトダウン」などと発表すればまさに「火に油」。それでなくとも混乱していた世の中は間違いなくパニックになっていたはずだ。要は、あのときにその情報を発表するメリットがあったかどうかだ。46日付けで広報した当院のコラムのタイトルは「炉心溶解(メルトダウン)は起こらない」だった。実際には定義からいえば「メルトダウン」になっていた。だから、このタイトルは誤りだったことは認めざるを得ない。しかし、問題はこの「メルトダウン」でなにが起こったか。さらに言えば、「メルトダウン」でどのようなことが起こりそうだったのか、ということ。そこを検証すれば、今回、福島原発の原子炉にメルトダウンが生じていたことの本当の意味が見えてくる。
▼では、今回のメルトダウンでなにが起こったのだろう。原発周辺の地域は今だに放射能汚染による健康被害が懸念されている。しかし、現在、30km圏内を除いて放射能による健康被害を心配しなければならぬほどの大きな影響は出ていない。地震直後の放射性物質の飛散は遠く首都圏までおよんだが、これは原子炉の水素爆発によるものであり、メルトダウンによるものではない。その後の放射性物質飛散の問題は沈静化しているし、今は原子炉から漏れ出る放射能汚染水のみが課題となっている。この漏水の原因にメルトダウンが関係しているかもしれない。しかし、チェルノブイリ原発事故のような深刻な状況にはなっていなかったし、今後もそうなることはない。では、チェルノブイリ原発事故のごとき深刻な状況とはどんなものか。それが「再臨界」の問題。再臨界とは核燃料の中で爆発的に核反応が増えていく状態。こうなれば膨大な核エネルギーによる熱を発生し、核反応で生じたおびただしい量の放射性物質を空気中に吹き上げる。しかも、この反応をコントロールする制御棒がないとなれば、まさにコントロール不能な状態になる。チェルノブイリ原発事故でのメルトダウンはまさにこのような状況だった。
▼しかし、福島原発は全く違う。地震直後に炉心では核燃料棒の間に制御棒が挿入されて原子炉は安全に停止していた。しかも黒鉛型だったチェルノブイリと違って再臨界しにくい設計となっていたこともあって再臨界はおこらなかった。そして、冷却水の注入が続けられた原子炉の温度は順調にさがり、地震直後から「カラ炊き」になった1号炉でさえも核燃料のほとんどが原子炉内にとどまっている。要するに、福島原発でも「メルトダウン」は起こっていたかも知れないが、チェルノブイリとは本質的に異なるということ。それはあたかも、福島原発事故の国際評価尺度がチェルノブイリ並の「レベル7」に引き上げられたが、「チェルノブイリ並の深刻さ」とは質的にも量的にも異なるということと同じ。言葉そのものではなく、その言葉の意味するところを客観的な情報に基づいて判断することが大切。放射能汚染水の問題はこれから徐々に深刻さを増してくるかもしれない。しかし、それとて確かな情報をもとに、その深刻さを冷静に見極めるべき。つまりは「正しく恐がる」ことがなにより重要だということ。

 

熱中症になった

先日、私は熱中症になってしまいました。実は、熱中症になったのはこれで二度目で、この二回の経験を通じて感じたことがあったのでご報告します。

はじめて熱中症になったのは今から5年ほど前のこと。夏休みを利用して家族で日光に旅行した時のことでした。本当に久しぶりの日光でしたから、東照宮の奥宮にある徳川家康のお墓にお参りにいこうということになりました。その場所までは長い山道をしばらく歩き続けなければなりませんでした。当時、長男はまだ小学生でしたし、次男も小学校にあがるかあがらないかのころ。次男はいかにも体力がなさそうにガリガリやせていて、家康の墓まではとても耐えられなさそうに見えました。

子どもたちがその途中で「帰りたい」などと言い出すと厄介だと思ったこともあり、次男を私がおぶっていくことに。まだまだ軽かった体重を背中に感じながら黙々と階段と坂道を登り続けました。はじめはそれほど暑いとも感じませんでしたが、軽かった次男の体重がずっしりと感じるようになるころには私の額や脇の下からは汗がにじみ始めました。「いい運動だ」とたかをくくっていたのもつかの間、やがて私の全身から汗が噴き出す頃になるととても子供を背負ってはいられなくなりました。

途中で次男を下して歩かせるようになると、身軽になった勢いでついペースをあげてしまいました。汗は相変わらず噴き出すようにながれでています。しかし、息はそれなりに荒かったものの、さほどきつくは感じませんでした。ところが、あと十数段の階段を登れば目的地というところで急に全身が思ったように動かなくなりました。しかも、生あくびと共になんとも言えない嫌な感覚(軽い嘔気というか、倦怠感というか、脱力感といった感じ)に襲われました。

私はたまたま目の前にあった岩でできたベンチに倒れ掛かるように横になりました。直感的に熱中症だと思い、水分補給もせずに黙々と登って来たことを後悔しました。「冷たい飲み物がほしい」と思いましたが、そんな私を置いて家内や子供たちは先に行ってしまいました。助けてくれる人は誰もいません。幸い意識は保たれていましたから重症ではないことはわかりました。こうした苦しい状況はたった数分だったでしょうが、私にはものすごく長く感じたのでした。

顔をしかめながら息を荒げていた私も、家内たちが家康の墓にお参りにいって戻ってくる頃にはなんとか動くことができるようになっていました。「だいじょうぶ~?」と笑いながらのぞきこむ家内たちに私は笑顔でうなづくのがやっと。それでも濡らしたタオルをわたされて額や首のまわりをぬぐうと少し起き上がれるようになりました。「無理してマサをおんぶなんかするからだよ」と家内は笑っていますが、この尋常ではない熱中症の辛さは経験したことのない人間にはわからないだろうな、と思いました。

そして、先日、二回目の熱中症になりました。その日は年に一度の人間ドックの日。前日の夕食時から、食べものはもちろん水分でさえもほとんどとらずにいました。検査当日の朝、コップ一杯の水は飲みほしたものの、すぐに検査にでかけてしましました。ひととおりの検査をして、最後に胃の内視鏡検査が終わったとき、少しのどの乾きを感じていました。でも、のどの麻酔がまだ効いていたせいもあって水分をとらないままに検診センターをあとにしたのでした。

健診センターを出て最寄りの駅につくころにはもううだるような暑さ。それでも健診が終わった開放感もあったからか、水分補給をしなければという発想はまったくありませんでした。しかも、それまでのダイエットの成果もあって、健診で測定した体重はこれまでで一番低い値になっていました。私は「いい運動だ」とばかりに自宅まで徒歩で帰ろうとしました。それが悪かったようです。暑い、暑い、アスファルトの上をテクテクと歩いて25分。その角を曲がればすぐに自宅というところで体に変調が生じました。

額といわず、脇の下といわず、全身の毛穴から汗が噴き出してきたのです。と同時に、5年前の日光で感じたあの嫌な感覚と息苦しさが私を襲いました。私はとっさに「熱中症だ」と思いました。しかし、あと10mで自宅の玄関というところで全身の力が急速に抜けていくのを感じました。明らかに日光のときよりも重症です。私は「家の中に入ればエアコンの涼しい風が待っているんだ」「冷たいコーラを飲み干すぞ」と自分を励ましながらなんとか自宅にたどり着きました。

私は部屋に入るなり、倒れるようにしてエアコンの風の当たる場所に横になりました。家内がびっくりして私の顔をのぞき込んでいます。私はかすれる声で「冷たいポカリスエットを2杯ちょうだい」といいました。そして、家内から冷たいポカリスエットの入ったコップを受け取ると一気に飲み干しました。そして、エアコンの冷たい風で体を一気に冷やさぬよう、家内に靴下とズボンだけを脱がしてほしいと頼みました。寝ていた床は汗でびっしょり。そうこうしているうちにポカリスエットが効いてきました。

日光のときもそうですが、汗がひいてくるにつれてだいぶ楽になっていきました。冷たい風で直接皮膚を増やしてはいけないことを知っていたので、上半身は肌に直接ではなく、服の上から冷風をかけていました。少し体を動かせるようになったのでシャワーをあびることにしました。体全体がとても重く感じました。筋肉の痛みやこむら返りはありませんが、熱けいれんのせいでそう感じるのだと思いました。そして、いつもよりも少しぬるい程度の暖かい温度にしたシャワーを全身にかけながら体を少しづつ冷やしました。

シャワーから出るころにはほとんどいつもの体調に戻りました。そして、これまでを冷静に振り返ることができるようになっていました。これは明らかに水分や塩分の補給を怠ったまま暑い道のりを歩いて帰って来たためにおこった熱中症です。それにしても、熱中症がこれほど急に重症化するとは思ってもいませんでした。道すがら、私にはなにかキツさを我慢して歩いてきたという感覚がまったくないのです。体調が変だなと思った途端、急に事態が悪化していったのです。これは私にとってとても貴重な経験でした。

これまで私は、「熱中症によって畑で死亡」というニュースを聴きながら、「なんでそんなになるまで我慢するのだろう」と思っていました。しかし、今回の自分自身の経験から考えると、熱中症で死亡した人たちの多くも「我慢していた」という意識はなかったのではないかと思うのです。「ちょっと変だな」と思っているうちに急速に状態が悪くなり、炎天下で体が動かなくなって倒れこんでしまったのではないでしょうか。今回の私の経験は熱中症で重症化した人たちにも共通していたのではないかと思います。

私の父も、以前、炎天下に家族の忠告も聞かずにジョギングに行き、道で倒れて病院に救急搬送されました。きっと私と同じように突然力尽きたのでしょう。こうしたことを是非皆さんにも知っていただきたく、今回、ブログに記事にしてみました。

要点をまとめますと・・・、

●熱中症は「水分」と「塩分」の不足よっておこる「体温調節障害」である
●発汗が多くなるような環境、あるいは体温が上昇する環境に長時間さらされると生じる
●熱中症は突然症状が悪化する(決して我慢しているうちに悪くなるわけではない)
●「熱中症かな?」と思ったら直ちに「冷たい水分を飲む。塩分も適宜とる」
●万が一、変調を感じたら、ただちに涼しいところ(かつ湿度の低いところ)に避難する
●冷たい風や冷たい水を直接皮膚に吹き付けない(かえって体の深部に熱がこもるから)
●意識がないとき、はっきりしないときはすぐに救急車を呼ぶ
●湿度の高い環境においては扇風機では必ずしも体温はさがらず、熱中症を予防できない

熱中症の危険性が高い季節です。「冷房は嫌い」だとか「冷房はもったいない」なんて言っている場合ではありません。寒く感じることと体温が上昇しないということは必ずしも同じことではないのです。少なくともエアコンの除湿を利用して室内の湿度を下げること。できれば冷房を併用して室温をさげるように心がけてください。熱中症は決して「我慢しているうちに徐々に重症化する病態」ではないのです。ましてや暑い環境の中で我慢をしても体は鍛えることはできないことを知ってください。