アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。

医者の専門性

この記事は平成27年1月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。それにしても、最近、スパムが多くて嫌になります。

 

「大病院指向」という言葉があります。これは「開業医よりも大病院を指向する患者の行動パターン」のことをいいます。そして、ここには「大病院に通院する必要がないにもかかわらず」という意味が秘められています。受診した方はおわかりだと思いますが、大病院の待合室はあふれんばかりの人です。その人たちすべてが大病院での治療やフォローアップが必要な人たちとはいえないのが現状です。本来、大病院への通院が必要な人たちが何時間も待たされたり、受診がほとんど一日がかりになる原因のひとつが「本来、大病院に通院する必要がないにもかかわらず大病院を受診・通院する人たち」というわけです。

この「大病院指向」はどうして生まれたのでしょう。もちろん、専門医のレベルが高いと思われているからですが、それ以上に私たち「プライマリ・ケア医(開業医)」のレベルが多くの患者にとって信頼に足るものではないと思われているという点も見逃せません。日本では「開業医だから」という言葉は「レベルの低い医者」というニュアンスをもっています。我々医者の世界でも「あいつは開業医に身を落とした」と言われることがあります。患者の側にも、あるいは医者の側においてですら「大病院の専門医」のレベルが高く、「開業医」のレベルが一段も二段も低く見られている部分があるのです。

でも、我々開業医の多くはそれまで働いていた大学病院などの大病院を退職して開業するパターンが多い。それなのに、「大病院指向」の人たちの中で、なぜ大病院の「有能」だった医者が開業したとたんに「能力の低い医者」になってしまうのでしょう。それには患者の深層心理があります。つまり、大病院にはさまざまな診療機器があって、たくさんの診療科もあり、おなじ病気を何人もの医師たちが見逃しのないように見張っていてくれる、という期待があるから。つまり、言い換えると、ひとりひとりの医者のレベルというよりも、システムとしての大病院の機能に期待しているからです。

私が大学にいたころ、ある先生が診療中に「(大学病院は混むから)私が出張している病院の外来に来ないか」と患者にいったところ、「私はこの病院に来ているのであって、先生の外来に来ているわけではない」といわれてショックを受けていました。これは極端な例としても、少なからずこのような傾向が「大病院指向」の人たちにはあります。もちろん、優れた「大病院の医師」に通院している患者もいるでしょう。そうした医師が開業してもその方は主治医についていくのかもしれませんし、そうした医師は「たかが開業医」とは言われないのかもしれません。

一方で、「開業医」と呼ばれる、いわゆるプライマリ・ケア医にも患者から不信感をもたれても仕方がない部分があります。診れもしない疾患を無責任に診てしまいがちなのもプライマリ・ケア医の陥りやすいところです。あるいは、特定の専門領域を標榜していることを言いわけにして、それ以外には興味も関心もありませんという医療をやっているプライマリ・ケア医もいます。本来、プライマリ・ケアを担っている以上、「専門」以外は興味がないなどということがあってはいけないと思いますが、「自分の範囲外のことは知りません。自分でどこか診てもらえるところに行ってくれ」というプライマリ・ケアが行われていることも残念ながら事実です。

あくまでも私の個人的な考えですが、プライマリ・ケア医の仕事は専門的な治療を必要としない安定した疾患を管理し、ふだんの日常生活によく見られる疾患を治療し、ごくまれに出現する重大疾患を見落とさず、専門医に紹介するタイミングを逸さないこと、だと思っています。普段、診ている患者の99%は問題のない患者です。しかし、その中に潜むごくいちぶの重大な疾患を見逃さない眼と勘をもっていること。それが私たちの重要な仕事であり、また、もっとも大切な役割だと思っています。

深さの専門性があるなら、広さを専門性とする医療もあります。プライマリ・ケア医にはそうした「広さの専門性」がなくてはいけないと思います。と同時に、診れる疾患とそうでない疾患をしっかりわきまえることも大切だと思います。周囲に医療機関がない医療過疎地ではそんな悠長なことをいってはいられませんが、首都圏の都市であれば専門の診療科に任せた方がいい場合はそうするべきです。自分の力量において診れるものは診る。その上で、専門医療機関に任せるべきケースを見落とさないこと。この要素がプライマリ・ケア医には不可欠です。

日本では標榜診療科目に制限がありません。内科医でなくとも開業するときは「内科」を標ぼうできる。それは医師の裁量権を侵すものとしてアンタッチャブルになっている部分です。しかし、医学部卒業後、ずっと内科をやってきた人間から言わせてもらえば、そんなに簡単に「内科」を標ぼうできるほど内科は浅くない。ただ血圧やコレステロールの薬を出していればいいってものじゃないのです。逆を考えてみればわかります。そもそも内科医が「外科」を標ぼうするなんてことはあり得ないし、患者自身もそんなことを望まないはず。それこそまわりに医療機関のない医療過疎地じゃないんですから。

私は「小児科」を標ぼうしていません。もちろん、風邪ぐらいのお子さんは診ます。でも、所詮は「なんちゃって小児科」です。お話しができて、コミュニケーションがとれるような年齢のお子さんじゃなければ責任をもって診ることはできません。どこにどういう症状があるのかが表現できない小児は、小児科の先生の「勘働き」が重要になることがあるのです。ですから、風邪ぐらい(それも内科医としての判断)でお話しのできる小児患者は診ますが、小児科受診がいいと思った場合は「小児科を単独で標ぼうしている医院(つまり、なんちゃって小児科じゃないところ)」を受診するようにおすすめしています。

とはいえ、患者にはどこの医者がどんな医者かなんてことはわからないと思います。その医者の経歴や職歴が詳細に開示されているとは限りませんから。内科医といいながらとても内科医とは思えない医師もいます。逆に、内科以外の医者なのに、その辺の内科医よりもよっぽど内科的な知識や経験をもっている医師もいます。そうなるとどう医師の専門性を考えればいいのか、素人にはわからないかもしれません。ただ、唯一いえることは、普段かかっていて「主治医としての責任感」をその医師に感じるか、が重要だということです。患者としての「勘」っていうのも結構あてになったりするものです。

「じゃあ、おまえはどうなんだ」と言われるかもしれません。胸に手を当ててみれば、正直、後ろめたくなる部分もあります。でも、日々、最新の医学情報を収集し、患者からも、他の医師からも後ろ指をさされない医療をしようと心がけています。私は患者さんにはどんどん「ドクターショッピング」をしてほしいと思っています。主治医を離れて別の医師の診療を受けてはじめて主治医の良さ・悪さがわかりますから。そして、そのことをできれば主治医にフィードバックしてほしい。そうすることで医師も進歩すると思います。「患者は医師の教科書」っていいますし。それでもし、主治医と方向性があわないと思ったら別の医者を探す。今はいくらでも医者がいますから。私もそんな緊張感をもって診療しているつもりです。

 

 

 

 

 

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば回復手術しか方法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。