今回はちょっと雑ぱくなことをだらだら書きます。
昭和レトロがいちぶの人たちの間でブームになっているというニュースを目にしました。その「いちぶの人たち」とはおそらく私のような「昭和ど真ん中の世代」なのでしょう。今よりも不便なことも、理不尽なことも、残念なことも多かった時代ではありましたが、昭和には多くの人たちに夢や希望があり、「明日は今日よりいい日になるかも」という思いがあったように感じます。
今という時代はいろいろな意味で社会が成熟しているといえなくもありません。機会の平等や豊かな生活が世の中の隅々に行き渡り、多様な生き方さえもが許容される寛容な社会になったともいえます。しかし、その一方で「義務よりも権利」という意識が強くなり、昭和以来の価値観が徐々に変質して、「社会よりも個人」「自由から混沌へ」と大きな振れ幅で変化しつつあることに戸惑うことも少なくありません。
現代社会は自由と平等が尊重される一方で「格差社会」をも生み出しました。チャンスも努力次第で平等になりましたが、富は富める者に集まる傾向がさらに強まっているように思います。富める人たちがその経済力にふさわしいお金の使い方をするかといえば決してそうではありません。デフレの時代に染みついた「節約・倹約・清貧」「よいものをより安く」という価値観は富裕層にまで浸透しています。
大量消費社会を必ずしもいいとは思いません。と同時に、SDGs(持続可能な開発目標)というスローガンも素直に受け入れることができません。今の日本に広く漂っている「閉塞感」は、社会にながれるお金が一部の人たちに偏在し、流動性が阻害されていることから生じているように思えます。お金のある人がもっとお金を使い、「良いものがより高く売れる社会」にしていかなければならないと個人的には思います。
イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会のあり方を主張しました。多くの人が幸福感を感じる社会を善とするこの考え方を功利主義といいますが、この思想はあたかも今の社会のあり方を批判しているかのようです。なぜなら現代は「上位1%の富裕層が世界の個人資産の40%近くを所有する社会」であり、「コロナ禍にあって富裕層はさらに裕福になっている」という矛盾をかかえているからです。
昭和は「みんなが貧しかったが、みんなが明日を信じていた時代」だったように思います。いろいろな不自由さに我慢を強いられることもありましたが、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが幅を効かせる今より人々の心の中はもっと自由だったかもしれません。その意味で昭和は「各人が少しづつ我慢をしながら全体として調和をとっていた功利主義的な時代」だったといえるかもしれません。
これまでの歴史を振り返ると、民主主義が発達していない独裁国家は、自国民の幸福よりも国家の覇権を求めます。それはフランスのナポレオンも、先の大戦のナチス・ドイツもそうでした。プーチンは「ウクライナのネオ・ナチを掃討する」とウクライナに侵攻しました。しかし、彼のやっていることはナチズムそのものです。真の民主主義が育っていないロシアの国民にはそれを止めるすべがありません。
ロシアがはじめた戦争は、ウクライナからの予想外の反撃によって長期化する気配です。武力による国境の変更という暴挙はヨーロッパのみならず全世界にも暗い影を落としつつあり、まさに第三次世界大戦さながらといえるかもしれません。先の大戦でたくさんの自国民を犠牲にし、その後も決して国民を幸福にはしなかったソビエトの地に人権を尊重する真の民主主義はなかなか育たないようです。
先日の新聞に昭和天皇に仕えた武官の日記が公開されたという記事が掲載されていました。敗戦が濃厚となったころの日本は、まるで今のウクライナと同じように、国土は荒廃し、たくさんの国民が犠牲になっていました。その時の昭和天皇のご様子を記録した日記は「昭和天皇実録」にも収載されていないらしく、これまで知られていたものとは異なる陛下のご心情を垣間見ることができます。
その日記によれば、このまま戦争を継続すれば、さらに多くの国民を失い、国土を荒廃させ、戦後の復興が困難になることを昭和天皇が憂いておられたとのこと。また、出撃する若い特攻隊員たちが辞世の寄せ書きをする様子を紹介したニュース映画をご覧になりながら涙をぬぐっておられたそうです。皇祖皇宗から引き継いできた国民・国土のことを考えて忸怩(じくじ)たる思いだったに違いありません。
以前のブログにも書きましたが、昭和天皇は皇太子になられてすぐ第一次世界大戦直後の荒廃したヨーロッパを歴訪されました。これは「将来の国家元首として戦争がいかに悲惨なものかを知っておくべきだ」と考えた西園寺公望や東郷平八郎たちの発案だったとされています。西園寺や東郷自身も幕末から明治にかけて全国で勃発した内戦の厳しい現実を身をもって体験してきたからだと思います。
当時、皇太子だった昭和天皇の目には、破壊の限りをつくした町並みはどのように映ったでしょうか。また、戦禍を乗り越え、復興に向けて立ち上がろうとするヨーロッパの人々の姿をどう思ったでしょうか。陛下は中国大陸への戦線拡大に反対しました。しかし、そのご意志に反して日本は日華事変に突入してしまいました。それほどまでにソ連の南下政策が日本の安全保障を脅かしていたからです。
少し話しはそれますが、戦後、GHQの最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥も第一次世界大戦のときヨーロッパにいました。アメリカ軍の参謀だった父親とともにヨーロッパに滞在していたのです。モンロー主義という孤立主義に徹していたアメリカは、それまでヨーロッパの戦争には関与しない態度をとっていました。しかし、大戦がはじまるとアメリカはその方針をひるがえして参戦を決めたのです。
マッカーサーは第一次世界大戦末期のヨーロッパにおいて、敗戦の色濃いドイツ帝国からほうほうの体でオランダに亡命する皇帝ウィルヘルム2世の姿を目の当たりにしました。自らの責任を放棄し、何両もの貨車に財産を積み込んで逃げていく国王。彼はオランダへの亡命後もしばらく皇帝からの退位をも拒否しました。亡命の責任は自分にはないというのが理由でした。そんな国王をマッカーサーは軽蔑しました。
第二次世界大戦後、日本に着任したマッカーサーは、昭和天皇から面会を求められたとき第一次大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世を思い出したといいます。陛下が自分の命乞いと財産の保護を求めてやって来るのだと確信していたのでしょう。だからこそ陛下を玄関で出迎えもせず、ノーネクタイで面会するという非礼をあえてしたのです。しかし、実際に目の前にした昭和天皇は違いました。
「天皇の名の下で戦った人々に寛大な措置をお願いしたい。そして、戦争で疲弊し、満足に食べることすらできない日本国民を飢えから救ってほしい。そのためであれば私はいかなる責任をも負うつもりである」と昭和天皇は震えながらマッカーサーに語ったといいます。マッカーサーはそんな陛下に衝撃を受けながら、かくも尊敬すべき天皇であるがゆえに日本人は敬愛してやまないのだと理解したといいます。
マッカーサーは父親の代からフィリピンに利権と財産を所有していました。しかし、南進する日本軍の攻勢にマッカーサーはフィリピンから脱出せざるを得なくなりました。たくさんのアメリカ兵を残して去って行く彼は、自らの莫大な財産とともにアメリカ国民からの尊敬を失ったのです。マッカーサーはこのとき日本への復讐を誓いました。「I shall return(私は必ずここに戻ってくる)」という言葉とともに。
日本への復讐を誓ったはずのマッカーサーの気持ちが変わったのは、昭和天皇のお人柄に触れたところも大きかったのでしょう。また、荒廃した国土を立て直すために黙々と努力する日本人を間近で見てきたからかもしれません。マッカーサーは朝鮮戦争の処理をめぐってトルーマン大統領と対立し、6年でGHQ最高司令官の任を解かれましたが、帰国後の1951年米国議会上院軍事外交合同委員会で次のように証言しました。
「日本には蚕を除いて国産の資源はほとんどない。彼らには綿も、羊毛も、石油製品もなく、スズも、ゴムも、その他の多くの資源がないのだ。それらのすべてのものはアジアの海域に存在していた。もしこれらの供給が断たれれば一千万人から一千二百万人の失業者が生まれることを日本政府は恐れていた。以上のように、彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」。
マッカーサーのこの証言は、サンフランシスコ平和条約の締結を後押しし、早期に日本の主権が回復することに貢献しました。ちなみに、マッカーサーは東京裁判で強まる天皇への戦争責任論を一蹴しました。また、靖国神社を焼き払うという計画が検討された際にも、ローマ教皇庁代表でもあったビッテル神父の「排除すべきは国家神道制度であり靖国神社ではない」という意見を聞き入れ神社の存続を決めたとされています。
1926年からの「昭和」は激動の時代でした。第一次世界大戦後の好景気は長続きせず、世界は大恐慌におちいります。日本は台湾と朝鮮を併合し、満州国を建国し、それらの地域のインフラを整備するために多額の投資をしました。それは日本本国にとってあたかも「母屋で粥を食い、離れですき焼きを食らう」と揶揄されるほどの負担でした。その結果、もともと資源も産業もない日本は世界恐慌の影響をもろに受けました。
そんな世界情勢の中で、日本は南下するソ連と対峙するべく大陸に進むか、東南アジアの資源を確保して来たる戦争にそなえるかを決められないまま米国との戦争に突き進みます。これはソ連がドイツ戦に集中するため、日本とアメリカとを戦わせるようコミンテルンが工作した結果だといわれています。日本の中枢にも、あるいは米国の閣僚にもソ連のスパイが少なからずいたことが今では知られています。
話しはだいぶそれましたが、思えば、こうした近現代史のなかの出来事も、私が生まれた1960年のたった15年前かそこらのこと。そう考えると、大東亜戦争(太平洋戦争)は私の知らない遠い昔のできごとではないことを実感します。私が生まれるたった100年前の日本だってまだ江戸時代。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたころです。教科書のなかでしか知らない歴史が意外に自分と近いことに驚きます。
そういえば、私がまだ小学校にもあがっていなかったころ、東京都葛飾区の亀有にあった警察の家族寮に住んでいました。父が警視庁に務めていたからですが、その寮には我が家と同じような警察官の家族が同じ屋根の下に暮らしていました。決して広くもない部屋にひと家族が肩を寄せ合うように生活していたのです。部屋に台所はなく、一階に共同で使う台所があって床は土間になっており、スノコが敷き詰められていました。
トイレはくみ取り式で共同。キンカクシには木でできた蓋がいつもかぶせてありましたが、用を足すときには落ちそうな気がしてとても怖かったことを覚えています。このころの道路はまだ舗装されておらず、各戸の塀はおおむね木の板でつくられた簡単なものでした。そして、街のいたるところにこれまた木製のゴミ箱が設置してあり、ときどき「くず屋さん」と呼ばれる人が回収に来ていました。
私の住んでいた警察寮は古く、ちょっとした強風でも壊れてしまいそうな建物でした。そのためか、台風が近づいてくると寮の近くにあった大きな民家に子ども達は避難させられました。このお宅は広いお庭があるしっかりした建物でしたので、外で強風が吹いていても安心感がありました。子ども達みんなでろうそくの火を囲んで台風が過ぎるのを待っていたときの光景を今でも思い出します。
当時はまだ机と椅子の生活ではなく、狭い部屋の真ん中には丸いちゃぶ台が置いてありました。私の両親は新しいもの好きだったので、当時は高価だった白黒テレビとステレオがありました。テレビで放送される「怪傑ハリマオウ」や「ビックエックス」、「エイトマン」といった子ども向け番組に夢中でしたし、四本足のステレオから流れるクラッシックを聴きながら指揮棒をふっていたことを思い出します。
私が小学生のころにはまだ「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいました。戦地で大きな怪我を負い、腕をなくしたり、義足をつけていたり、なかには目や顔を負傷していたりと、ハンディを抱えながら生きている元兵士が道行く人たちに義援金を求めるのです。繁華街で軍帽と白い着物の人たちが自分の障害をさらしながら地面に四つん這いになっている姿は子どもの目には恐ろしく映ったものです。
繁華街にでたり、お祭りにでかけると、こうした傷痍軍人をよく見かけました。高度経済成長の時代となった当時の風景に「戦争」を感じるものはほとんどありませんでした。でも、街角に立っているこの傷痍軍人だけは暗くて悲しい戦争の痕跡を子どもたちに感じさせるのに十分でした。そして、その光景は、私の心のなかに戦争の勇ましさではなく、戦争のみじめさを植え付けたように思います。
1955年の国民総生産が戦前の水準を超え、翌年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれたことはよく知られています。私たちの世代は、先の大戦がまだ影を落とす中、経済大国へと成長を続ける日本とともに子ども時代を過ごしました。やがて日本は「ジャパン・アズ・ナンバー1」となり、バブル景気を迎えたのです。しかし、そんなときに昭和天皇が崩御されると、日本は一転して長いデフレの時代に突入します。
振り返ってみると、私のなかの昭和にはいつも昭和天皇がおられたように思います。昭和のどの時代を思い出しても、当時の昭和天皇のお顔が浮かぶのです。無知蒙昧だった高校生のころ、私は「天皇は国民の象徴なんだから、国民から選んだらいい」と言ってはばかりませんでした。天皇陛下や皇室が日本にとってどのようなご存在かを考えたこともなかったからです。今思うと本当に恥ずかしいことでした。
大人になっていろいろな本や資料を読み、日本の歴史を調べれば調べるほど、昭和天皇がいかに偉大な方だったかがわかりました。「激動の昭和」と簡単にいいますが、その大きな歴史の渦のなかで生きてこられた陛下の87年間がいったいどのようなものであられたのかは想像を絶します。「皇族もひとりの人間」という人がいますが、昭和天皇のご生涯は皇族が決してそんな卑俗な存在ではないことを示しています。
今の皇族のあり方については私なりに疑問に感じる部分があります。それはまたの機会に開陳しようと思っています。それはともかく、私は昭和を単なるノスタルジーとしてではなく、日本人としての誇りを覚醒させる時代として好きです。天皇というとてつもない重圧のかかる地位でありながら、不平も不満ももらさずに務めあげられた昭和天皇がおられたからこそ、私の中の昭和がいつまでも輝いているのかもしれません。