まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。
明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。
社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。
この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。
************** NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)
1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。
松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。
アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。
1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。
ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。
さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。
長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。
松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。
それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。
しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。
条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。
処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。
令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。
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父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。
「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。
主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。
********************** 以上
私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、期待していることは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。
「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」
松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。
「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」
安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで104代の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の多くの人に知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。
今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。
有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。
我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)
ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。
このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。
※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、なにか因縁めいた
ものを感じます。