考察「STAP事件」

STAP細胞なる言葉が世の中を駆け巡ったのはほんの11か月前。それが今やすべてが否定され、「すわノーベル賞候補か?」とまで言われた現象がこの世の中から消え去ろうとしています。STAP細胞とはいったいなんだったのでしょうか。なぜあれだけ注目を浴びなら、こんなにもあっさりと否定される結果になったのでしょうか。

実は、「STAP細胞」という言葉、あるいは現象を私は知りませんでした。そのせいか、マスコミが連日大騒ぎする中で私自身はいつものように「STAP細胞」とは違った側面を強調する報道ぶりに辟易していました。割烹着がどうの、理系女子がどうの、はたまた冷蔵庫の扉に描かれたムーミンの絵までもが紹介され、肝心のSTAP細胞がどのようなもので、この細胞の出現がいったいどんな意味を持つのかがわからないまま、シニカルに見ていたといってもいいでしょう。

STAP細胞には山中先生のiPS細胞とは違った感覚を私は感じていました。iPS細胞なる研究成果が出てきたとき、同年代の山中先生の業績を誇らしく思いました。そして、これから再生医療が現実のものとして人類に貢献できる時代がやってくることに興奮したものです。しかし、STAP細胞にはこうした感動がありませんでした。むしろ、「iPS細胞よりもさらに進化した細胞」と称され、あたかも「時代はSTAP細胞」といわんばかりのフィーバーぶりに少し反感を持ちました。

山中先生と笹井先生の確執をでっちあげるマスコミもありました。ノーベル賞を受賞して京都大学の教授になった山中先生は神戸大学出身です。そのことを京都大学出身の笹井先生が嫉妬し、このSTAP細胞で反転攻勢にでた、と書き立てる週刊誌もありました。そんな中でも山中先生は「これから再生医療のために、協力できるところは協力してやっていきたい」と冷静にお話ししておられ、決してマスコミの論調に流されない姿に「さすがだなぁ」と思ったものです。

時の寵児ともてはやされた者のその後は悲惨なことが多いのですが、STAP細胞もその例にもれませんでした。次々と問題点が指摘され、論文掲載を取り下げ、検証実験でそのすべてが否定されてしまいました。しかも、単に誤りだったわけではなく、どうやらねつ造だったとまで言われようとしています。どうしてこんなことが起こったのでしょう。うっかりミスならまだしも、ねつ造などしてもいつかばれるはずなのに。誰が考えても、故意にねつ造するなんてことあり得ない話しです。

私個人としては、今回のSTAP細胞の事件(あえて「事件」と呼びますが)の原因は教育にあるのではないかと思っています。小保方さんが受けてきた教育、とくに研究者を養成する大学院研究の貧困さにその原因があると思うのです。特定の大学・大学院の教育がどうこう言っているのではありません。どの教育機関にも「教育機関としての自覚」が欠如していると思うのです。

かつて「もう大学生なんだから、教わるのではなく、自ら学んでほしい」とある恩師にいわれたことがあります。しかし、そうした学生としての自覚も大切ですが、一方において大学・大学院の教員にも教育者としての自覚が必要だと思います。学生が「優れた研究者の背中を見て育つ」ということは理想ですが、そこには教育的配慮というものもまた必要です。一部の優れた研究者を除いて、研究者である前に優れた教育者であるべきなのです。

私も大学院を修了しました。しかし、大学院でまともな教育を受けた記憶がありません。研究の基本から研究費の獲得、調査・分析、論文作成、そして学会発表とすべて自分で学び、身に付けてきました。まさに試行錯誤でした。それは私の指導教官に指導する能力も意欲もなかったからですが、手さぐりで研究を進めていく中で感じたのは、研究者としての姿勢は優れたアカデミックの中でしか育たないということです。質の高いアカデミックには厳しさがあります。その厳しさによってしか育たないものがあるのです。

その意味で、小保方さんはそうした環境に恵まれなかったのだと思います。優れた教育者・研究者に巡り合わなかったために自己流で、甘っちょろい研究者もどきになってしまったのだと思います。研究者として欠くべからざる「データを客観視する目」「真実を追求する厳しさ」が彼女の中では「データを都合よく解釈する甘え」と「目の前にあるものを真実と思い込む甘さ」になっていた。これはきちんとした教育を受けていなかったからです。

今回のSTAP細胞の問題は小保方さんが故意ででっちあげたのではなく、彼女の都合のよさと思い込みが作り出した虚像だったのではないかと思います。彼女は知らないうちにES細胞で実験をしていたにも関わらず、本当にSTAP現象を見ていると思い込んでいたのではないでしょうか。ですから、彼女の中では本当に「STAP細胞はあります」と思っている(いた)んだと思います。

教育は大切です。しかし、ともすると「詰め込み」が否定され「問題解決能力」が重視される世の中になっています。また、一発勝負のペーパー試験が否定され、多角的に評価するAO入試が広まってもいます。しかし、その弊害も最近明らかになってきています。これらのどっちが正しいのではなく、どちらも大切だということに気が付くべきです。多角的に評価することも大切ですが、一発勝負のペーパー試験の厳しさも一方においては必要なのです。

今の小学校六年生が大学を受験するときから大学入試制度がかわります。でも、教育問題の根幹は入試制度にあるのではなく、教育の内容にあることを偉い先生たちには気づいてほしいものです。どうせ無理でしょうけど。

「処方」の根拠

医者が薬を処方するときに一番重要なのは「その処方内容に科学的な効果が確かめられていること」だと思います。つまり、「効果があるのかないのかわからない処方」はダメだ、ということです。そんなことを言うと、「効果がない処方なんてしているのだろうか」と疑問に思われる方がいるかもしれません。しかし、少なからず、「効果があるのかどうかわからない処方」をしているケースはあります。

医者が薬を選ぶときは当然のことながら「この薬が効くだろう(あるいは効くかもしれない)」と思って処方します。それは薬の添付文書を読んだり、製薬会社のMR(営業担当)からの説明を聞いたり、あるいは病気のガイドラインを読んでそう思うわけですが、実は自分の経験に基づいて処方するケースも少なくありません。実際に薬を出しているうちに、「この薬はあまり効かないなぁ」と感じたり、「実はこの薬はよく効く」と思ったりして処方することも結構あるのです。

「結構ある」なんて言い方をしましたが、もしかするとほとんどの処方は経験に影響を受けているといえるかもしれません。他の先生たちが好んで使っている薬があまりいいとは思えなかったり、なんでこんなにいい薬なのに他の先生は使わないんだろうと思ったりすることってしばしばあります。副作用と思われる症状の出る人が多かった薬(もちろん他剤に変更してその症状はなくなりました)が実はシェア・ナンバーワンで、「どうしてあんな薬をみんなは使うんだろう」と思っていたら案の定その薬はある事件で社会的制裁を加えられることになったりしたこともありました。

もちろん、その薬に有効性がなければいけないということは当然ですが、どの薬を選ぶかということになるとそうした医者個人の経験が影響するのです。それを悪いことだと思いません。自分の経験を帰納法的な確信にしていく作業は医者にとっては重要な所作のひとつだと思います。しかし、今はEBM(根拠に基づいた医療)というものが重視され、こうした経験がともすると無視されがちです。「(経験に頼っていた)昔の医者はめちゃくちゃやってたからなぁ」とうそぶく若手の医者もいるくらいです。

しかし、それは本当でしょうか。経験に基づくことはそんなに「めちゃくちゃなこと」でしょうか。逆にいえば、EBMにのっとっていればそれは「科学的なこと」なんでしょうか。でも考えてみてください。そのEBMの根拠になっている学術論文の信頼性に問題があったらどうでしょう。あるときはEBMによって「定説」となっていることが、その根拠を覆す事実が見つかってその定説が書き換えられたら。要するに根拠といっても絶対ではない、というか、その根拠もまた事実によって根拠を失うことがあるということです。

経験がすべてだといっているわけではありません。医者はひとりひとりがまったく違った経験をしています。その経験のとらえ方、影響の受け方もまたさまざまです。思い込みもあるでしょうし、間違った解釈をしている場合もあります。ですから、いろいろな経験を経て、その医者個人がいかに合理的な演繹を積み重ねていけるかにかかっているのです。(薬を)出してみる。効果を確認し、なにか副作用がでていないかを確かめる。EBMにとらわれず、だからといって経験だけに頼らずに処方する。なんだか禅問答のようになってしまいましたが、そうした態度が我々には必要だと思います。

そんな私が「風邪」についていつも患者に説明していることをいくつか列挙してみます。
1.かぜ薬は「風邪を治す薬」ではなく、症状を隠してしまう薬
2.かぜ薬は「早めに飲む薬」ではない。早めに服用するなら漢方薬を
3.かぜ薬のような「症状をおさえるだけ」の薬は、症状が治まったら中断してもいい
4.とくに熱を下げる薬(痛み止めも同じ薬)は一日三回定期的に服用せずに必ず頓服で
5.むやみに熱をさげると風邪は治りにくくなり、重症化しても見つけにくくなる

これらはそれなりに根拠があきらかになっていますが、私の経験に基づくものでもありますので、皆さんの主治医の処方の仕方とは違うかもしれません。そのときはあしからず。