考察「STAP事件」

STAP細胞なる言葉が世の中を駆け巡ったのはほんの11か月前。それが今やすべてが否定され、「すわノーベル賞候補か?」とまで言われた現象がこの世の中から消え去ろうとしています。STAP細胞とはいったいなんだったのでしょうか。なぜあれだけ注目を浴びなら、こんなにもあっさりと否定される結果になったのでしょうか。

実は、「STAP細胞」という言葉、あるいは現象を私は知りませんでした。そのせいか、マスコミが連日大騒ぎする中で私自身はいつものように「STAP細胞」とは違った側面を強調する報道ぶりに辟易していました。割烹着がどうの、理系女子がどうの、はたまた冷蔵庫の扉に描かれたムーミンの絵までもが紹介され、肝心のSTAP細胞がどのようなもので、この細胞の出現がいったいどんな意味を持つのかがわからないまま、シニカルに見ていたといってもいいでしょう。

STAP細胞には山中先生のiPS細胞とは違った感覚を私は感じていました。iPS細胞なる研究成果が出てきたとき、同年代の山中先生の業績を誇らしく思いました。そして、これから再生医療が現実のものとして人類に貢献できる時代がやってくることに興奮したものです。しかし、STAP細胞にはこうした感動がありませんでした。むしろ、「iPS細胞よりもさらに進化した細胞」と称され、あたかも「時代はSTAP細胞」といわんばかりのフィーバーぶりに少し反感を持ちました。

山中先生と笹井先生の確執をでっちあげるマスコミもありました。ノーベル賞を受賞して京都大学の教授になった山中先生は神戸大学出身です。そのことを京都大学出身の笹井先生が嫉妬し、このSTAP細胞で反転攻勢にでた、と書き立てる週刊誌もありました。そんな中でも山中先生は「これから再生医療のために、協力できるところは協力してやっていきたい」と冷静にお話ししておられ、決してマスコミの論調に流されない姿に「さすがだなぁ」と思ったものです。

時の寵児ともてはやされた者のその後は悲惨なことが多いのですが、STAP細胞もその例にもれませんでした。次々と問題点が指摘され、論文掲載を取り下げ、検証実験でそのすべてが否定されてしまいました。しかも、単に誤りだったわけではなく、どうやらねつ造だったとまで言われようとしています。どうしてこんなことが起こったのでしょう。うっかりミスならまだしも、ねつ造などしてもいつかばれるはずなのに。誰が考えても、故意にねつ造するなんてことあり得ない話しです。

私個人としては、今回のSTAP細胞の事件(あえて「事件」と呼びますが)の原因は教育にあるのではないかと思っています。小保方さんが受けてきた教育、とくに研究者を養成する大学院研究の貧困さにその原因があると思うのです。特定の大学・大学院の教育がどうこう言っているのではありません。どの教育機関にも「教育機関としての自覚」が欠如していると思うのです。

かつて「もう大学生なんだから、教わるのではなく、自ら学んでほしい」とある恩師にいわれたことがあります。しかし、そうした学生としての自覚も大切ですが、一方において大学・大学院の教員にも教育者としての自覚が必要だと思います。学生が「優れた研究者の背中を見て育つ」ということは理想ですが、そこには教育的配慮というものもまた必要です。一部の優れた研究者を除いて、研究者である前に優れた教育者であるべきなのです。

私も大学院を修了しました。しかし、大学院でまともな教育を受けた記憶がありません。研究の基本から研究費の獲得、調査・分析、論文作成、そして学会発表とすべて自分で学び、身に付けてきました。まさに試行錯誤でした。それは私の指導教官に指導する能力も意欲もなかったからですが、手さぐりで研究を進めていく中で感じたのは、研究者としての姿勢は優れたアカデミックの中でしか育たないということです。質の高いアカデミックには厳しさがあります。その厳しさによってしか育たないものがあるのです。

その意味で、小保方さんはそうした環境に恵まれなかったのだと思います。優れた教育者・研究者に巡り合わなかったために自己流で、甘っちょろい研究者もどきになってしまったのだと思います。研究者として欠くべからざる「データを客観視する目」「真実を追求する厳しさ」が彼女の中では「データを都合よく解釈する甘え」と「目の前にあるものを真実と思い込む甘さ」になっていた。これはきちんとした教育を受けていなかったからです。

今回のSTAP細胞の問題は小保方さんが故意ででっちあげたのではなく、彼女の都合のよさと思い込みが作り出した虚像だったのではないかと思います。彼女は知らないうちにES細胞で実験をしていたにも関わらず、本当にSTAP現象を見ていると思い込んでいたのではないでしょうか。ですから、彼女の中では本当に「STAP細胞はあります」と思っている(いた)んだと思います。

教育は大切です。しかし、ともすると「詰め込み」が否定され「問題解決能力」が重視される世の中になっています。また、一発勝負のペーパー試験が否定され、多角的に評価するAO入試が広まってもいます。しかし、その弊害も最近明らかになってきています。これらのどっちが正しいのではなく、どちらも大切だということに気が付くべきです。多角的に評価することも大切ですが、一発勝負のペーパー試験の厳しさも一方においては必要なのです。

今の小学校六年生が大学を受験するときから大学入試制度がかわります。でも、教育問題の根幹は入試制度にあるのではなく、教育の内容にあることを偉い先生たちには気づいてほしいものです。どうせ無理でしょうけど。

「処方」の根拠

医者が薬を処方するときに一番重要なのは「その処方内容に科学的な効果が確かめられていること」だと思います。つまり、「効果があるのかないのかわからない処方」はダメだ、ということです。そんなことを言うと、「効果がない処方なんてしているのだろうか」と疑問に思われる方がいるかもしれません。しかし、少なからず、「効果があるのかどうかわからない処方」をしているケースはあります。

医者が薬を選ぶときは当然のことながら「この薬が効くだろう(あるいは効くかもしれない)」と思って処方します。それは薬の添付文書を読んだり、製薬会社のMR(営業担当)からの説明を聞いたり、あるいは病気のガイドラインを読んでそう思うわけですが、実は自分の経験に基づいて処方するケースも少なくありません。実際に薬を出しているうちに、「この薬はあまり効かないなぁ」と感じたり、「実はこの薬はよく効く」と思ったりして処方することも結構あるのです。

「結構ある」なんて言い方をしましたが、もしかするとほとんどの処方は経験に影響を受けているといえるかもしれません。他の先生たちが好んで使っている薬があまりいいとは思えなかったり、なんでこんなにいい薬なのに他の先生は使わないんだろうと思ったりすることってしばしばあります。副作用と思われる症状の出る人が多かった薬(もちろん他剤に変更してその症状はなくなりました)が実はシェア・ナンバーワンで、「どうしてあんな薬をみんなは使うんだろう」と思っていたら案の定その薬はある事件で社会的制裁を加えられることになったりしたこともありました。

もちろん、その薬に有効性がなければいけないということは当然ですが、どの薬を選ぶかということになるとそうした医者個人の経験が影響するのです。それを悪いことだと思いません。自分の経験を帰納法的な確信にしていく作業は医者にとっては重要な所作のひとつだと思います。しかし、今はEBM(根拠に基づいた医療)というものが重視され、こうした経験がともすると無視されがちです。「(経験に頼っていた)昔の医者はめちゃくちゃやってたからなぁ」とうそぶく若手の医者もいるくらいです。

しかし、それは本当でしょうか。経験に基づくことはそんなに「めちゃくちゃなこと」でしょうか。逆にいえば、EBMにのっとっていればそれは「科学的なこと」なんでしょうか。でも考えてみてください。そのEBMの根拠になっている学術論文の信頼性に問題があったらどうでしょう。あるときはEBMによって「定説」となっていることが、その根拠を覆す事実が見つかってその定説が書き換えられたら。要するに根拠といっても絶対ではない、というか、その根拠もまた事実によって根拠を失うことがあるということです。

経験がすべてだといっているわけではありません。医者はひとりひとりがまったく違った経験をしています。その経験のとらえ方、影響の受け方もまたさまざまです。思い込みもあるでしょうし、間違った解釈をしている場合もあります。ですから、いろいろな経験を経て、その医者個人がいかに合理的な演繹を積み重ねていけるかにかかっているのです。(薬を)出してみる。効果を確認し、なにか副作用がでていないかを確かめる。EBMにとらわれず、だからといって経験だけに頼らずに処方する。なんだか禅問答のようになってしまいましたが、そうした態度が我々には必要だと思います。

そんな私が「風邪」についていつも患者に説明していることをいくつか列挙してみます。
1.かぜ薬は「風邪を治す薬」ではなく、症状を隠してしまう薬
2.かぜ薬は「早めに飲む薬」ではない。早めに服用するなら漢方薬を
3.かぜ薬のような「症状をおさえるだけ」の薬は、症状が治まったら中断してもいい
4.とくに熱を下げる薬(痛み止めも同じ薬)は一日三回定期的に服用せずに必ず頓服で
5.むやみに熱をさげると風邪は治りにくくなり、重症化しても見つけにくくなる

これらはそれなりに根拠があきらかになっていますが、私の経験に基づくものでもありますので、皆さんの主治医の処方の仕方とは違うかもしれません。そのときはあしからず。

高倉 健、永遠なれ

11月10日に日本映画界を代表する俳優「高倉 健」が亡くなりました。

このニュースを耳にしたとき、なんだか不思議な感覚になりました。なくしてしまって初めてそれが自分にとっていかに大切なものだったかに気が付いたような喪失感、とでもいいましょうか。ああ、これで二度と健さんには会えないんだなぁと思うとなんだか体中の力が抜けてくるような感覚でもある。これが「心にぽっかりと穴があいた感じ」というものなのかもしれません。

健さんは以前から大好きな俳優さんのひとりでした。「高倉 健」が任侠映画で一世を風靡していたころ、私は小学生でした。世の中は学生運動で騒がしくなり始めたころです。私は少し変わった小学生で、子供向けの番組よりも大人の見るテレビ番組を見るのが好きでした。「ひょっこりひょうたん島」よりも「木下恵介アワー(この中でも竹脇無我と栗原小巻が主演した「三人家族」がとくに好きでした)」や「国盗り物語」を夢中で見ているような子供でした。

当時住んでいたオンボロアパートにはお風呂がなかったので父親に連れられて銭湯に通っていたのですが、その銭湯の壁にはいつも「総天然色」のポスターが貼ってありました。「ゴジラシリーズ」や東映のまんが映画などのポスターの中にあったのが任侠ものの映画のポスターでした。そのポスターで健さんは背中に唐獅子牡丹を彫り、さらしを胴に巻いてドスを握って立っている。私は当時、この健さんのポスターを見ながら、子供ながらに「こんなかっこいい大人になりたいなぁ」と思ったものです。

そんな影響からか、好きな俳優といえば「高倉 健」と「鶴田浩二」でした。このふたりはよく同じ任侠映画に出演することが多いのですが、中でも「昭和残侠伝 吼えよ唐獅子」は今でも印象にのこる映画のひとつです。一宿一飯の恩義のために自分を陰で支えてくれた親分(鶴田)を手にかけなければならない渡世人・花田秀次郎(健さん)。心ならずも切ってしまった彼は親分に駆け寄ります。親分は息も絶え絶えに言います。「切るもいいが、切られるもいいんだ」と。しびれるセリフです。

その後、健さんは任侠映画から路線を変え、いろいろな映画に挑戦します。しかし、どの役を演じるときにも、人間の心の機微を表現するときは任侠映画のときの健さんです。ストイックなまでに自分を追い込み、情に厚く、しかし情に流されず。それは実生活でも同じだったといいます。あくまでも自分のスタイルを貫くその姿はまさしくあのときの花田秀次郎のままです。そんな俳優「高倉 健」が私は大好きでした。

思えば、昭和62年に鶴田浩二が亡くなったときも同じような喪失感を感じていました。鶴田浩二主演のNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズに出てきた吉岡司令補も、同じくNHKドラマ「シャツの店(このドラマも大好きです)」の磯島周吉も、健さんが演じた花田秀次郎のように世の中に迎合せずに自分を貫く役柄。その主役たちが鶴田浩二のはまり役だっただけに、彼が63歳で逝去したときも結構ショックでした。

しかし、今回、とうとう健さんも亡くなってしまい、ついに憧れの対象がいなくなってしまったようでとても淋しい。その寂しさは同時に、自分の憧れの対象が実は確実に年をとっていて、その分、自分自身も年齢を重ねていることを思い知らされたものでもあります。

健さんに関するいろいろな動画を見ながら、彼の偉大さ、存在感の大きさをあらためて感じます。そして、そんな彼を失った悲しみに自然と涙が込み上げてきます。健さんは生前、「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉が好きだったようです。その言葉通りに生きた健さんに一歩でも近づけるよう頑張ろうという思いが心に芽生えてくる。そう思うと、健さんは多くの日本人に大切なものを残していってくれたのかもしれません。

ありがとう、健さん。どうぞ安らかにおやすみ下さい。      合掌

※「健さんに想いは届いたか?」もご覧ください。

エボラが来たら

エボラ出血熱の感染者と死者が増え続け、世界各地にも広がりつつあります。日本にその感染者が現れるのも時間の問題だと思います。私が懸念するのは、感染者が現れたときの国民の動揺です。エボラ出血熱患者が発生すればマスコミはその恐ろしさを繰り返し報道し、国民はその偏った情報に煽られ過剰に反応するという事態になるでしょう。間違いなく。でも、考えてみてください。あのデング熱はどうだったでしょう。放射能の場合はどうだったでしょう。マスコミが煽ったようになったでしょうか。人間は学ばなければなりません。人の恐怖心を煽るだけの偏った情報に振り回されるのではなく、正しく中立的な情報を求め、理性的な行動をとることがいかに重要かはこれまで何度も経験してきたはずです。そのためにも、もしもの時にどう行動すればいいのかを今から考えておかなければいけません。

エボラ出血熱患者を救うために西アフリカに渡り、感染・発症したにもかかわらず、幸いにも一命をとりとめたイギリス人男性看護師が「私は西アフリカに戻る」と発表したことが報じられていました。エボラ出血熱から生還したからと言って絶対に再感染がないとはいえないにもかかわらず、です。この病気の恐ろしさは彼が一番知っているはずです。しかし、彼は再び西アフリカに戻る理由を、「今、患者たちを救うために奮闘している人たちよりも感染しにくいことだけは間違いないから」と述べています。一方で、日本の製薬メーカーが開発した抗ウィルス薬がエボラウィルスの増殖を抑制するのに有効らしいと、国際的な治験が開始されるとともに、メーカーではその薬の生産を急ピッチで増やしています。

翻って我々には何ができるでしょう。医師である私自身も西アフリカに行き、患者を治療し、感染の拡大を防ぐために活動するなんてことは現実的にできません。私がまだ独身で、英語に堪能であれば、もしかして志願したかもしれませんが、そんな条件を言っている時点でもはや「腰抜け医者」のひとりです。先のイギリス人看護師の足元にもおよびません。ましてや医学的知識や経験のない一般国民にできることといえば、エボラ出血熱に感染しない、あるいは感染を拡大させないためにすべきことを確実に実行していくこと、さらには、不安にかられて理性を失わないこと、なにより他人を自分の不安に巻き込まないこと、デマを流さないことです。

そこで、現在、知られているエボラ出血熱に関する情報をまとめておきます。これらをもとに、近い将来、日本にエボラ出血熱患者が発生しても過剰な反応をしないようにしていただきたいと思います。

初期症状でエボラ出血熱かどうかを区別することはまず不可能です。なぜなら、初期症状はインフルエンザあるいはウィルス性胃腸炎とほとんど変わらないからです。

【初期症状】
(1)高熱(38℃以上が一般的):出現率92%、(2)下痢・嘔吐:68%、(3)頭痛・筋肉痛:47%
(4)食欲不振:39%

その他、原因不明の出血(鼻:11%、膣:11%、歯肉:8%)がありますが、ここまでくれば誰でも怪しいと思うでしょうが、医療機関にすぐに受診できる日本においてはまずは上記の【初期症状】で鑑別しなければならないので、症状は目安にできません。とすれば何が重要か。それはひとえに感染してもおかしくない場所に行ったことがあるか。あるいはそれらの地域にいたことのある人と接触していないかどうか、という情報でしょう。エボラ出血熱の潜伏期間は平均7~10日です(最長でも3週間)。ですから、さかのぼること「約1か月以内に流行地域に滞在したか、患者に接触したか」という情報が重要ということになります。

【疑うべき情報】
①先の【初期症状】があり
②一か月以内にエボラウィルスに感染しても不思議ではないところ(※)に行ったことがある

(※)現時点で流行している地域・・・ギニア、シェラレオネ、リベリア
注意すべき地域・・・上記のほか、ウガンダ、スーダン、ガボン、コートジボアール、コンゴ

これらの情報がはっきりしている人は絶対に一般の医療機関に行ってはいけません。おそらく、一般医療機関に受診してこれらのことを伝えれば、まず間違いなく診療を拒否されます(これは正当な診療拒否にあたるか否かはわかりませんが、他の患者への感染の可能性を考慮すれば当然の対応と考えます)。その場合はかかりつけの医療機関に電話をして相談するか、各地域の保健所に連絡して相談してください。その間、患者は自宅で隔離する必要があります。もちろん家族との接触もいけません。ちなみに、エボラ出血熱は、先の【初期症状】の出ない潜伏期間では感染力がありません。ですから、感染が疑わしい場合でも、無症状のときは、念のため、保健所に相談しておけばいいでしょう。

エボラ出血熱は現時点で接触感染ということになっています。主に患者の吐物や便、血液を介して感染します。コンゴで発生したエボラ出血熱は、死亡したサルを食べようと解体した際に感染した人が発端者(妊婦)だということがわかっています。そして、この地域の風習で、死亡した発端者を何人かの人が帝王切開して胎児を取り出そうとしたことから、一気に感染がひろまったといわれています。エボラ出血熱を発症した人の体液に触れなければ感染することはないとされていますが、体液は血液にかぎりません。つばや痰、鼻水、母乳、精液なども体液に含まれます。それから、エボラウィルスはアルコール消毒や石鹸による洗い流しが容易だとされています。マスクもN95マスクではなく、一般のサージカルマスクで十分だといわれています。

【疑いがある場合の対応】
自宅内に隔離し、地域の保健所またはかかりつけ医に電話で相談する(無症状の場合も同様)

以上、エボラ出血熱のことをまとめてみましたが、まだ日本に患者が出現していない以上、今から先走って心配する必要はありません。しかし、日本でその患者が見つかるのも時間の問題です。今回の流行で運よく患者が発生しなくても、次の流行で発生するかもしれません。現在、流行地域で文字通り命がけで活動している人たちがいることはもちろん、日本で患者が発生した場合も同じように懸命な治療をしてくれる人たちがいることに思いをはせながら、我々一般国民はせめて冷静に事態を受け止める努力をしなければなりません。「正しく怖がる」ことが大切です。デマや偏った情報に煽られない、流さない。そして、自分の不安に他人を巻き込まないことが重要だということを今から肝に銘じていただければと思います。

知るべきこと

今、御嶽山では残された行方不明者の捜索が続いています。立て続けにやってくる台風と、迫りくる冬の間隙をぬって自衛官や警察官・消防士の皆さんが懸命の捜索活動を続けています。

御嶽山の標高は約3000m。気温は晴れていても10℃を超えることはなく、日差しがなければ0℃近く、風が吹けば体感気温は氷点下になります。寒いだけでも大変なのに、御嶽山の山頂の酸素濃度は地上の70%しかありません。空気がかなり薄いのです。そのため、捜索隊員の中には高山病になる人が結構いるようです。そりゃそうです。普通、3000mの山頂には時間をかけてゆっくり登るのに、彼らはごくごく短時間で、しかも重い装備を身に着けて山頂に向かい、到着後すぐに捜索活動を始めるんですから。

人間の体に取り込まれた酸素の量は「酸素飽和度」という指標で測定します。通常は99%とか98%です。ところが激しい運動をするとこの酸素飽和度は下がっていきます。その酸素不足を補うために呼吸が荒くなるわけですが、山の頂のような空気の薄いところではいくら呼吸をしても酸素量は増えません。それはまるでビニール袋を口にあてて呼吸しているみたいなもの。相当苦しいものです。御嶽山で捜索している人たちはそんな環境の中で、寒さと戦い、その上、重い装備を身に着けながら頑張っています。

ところが、ネットでは「自衛隊員なのに高山病になるなんて情けない」みたいな心無いコメントが見られるとか。感謝しこそすれ、批判するようなことではないのに。

一方、自衛隊のヘリコプターがこの隊員たちを輸送しているのですが、実は、このヘリコプターの活動も人知れずすごいことなのです。ヘリコプターはプロペラを回して空気を下に送って上昇します。ですから、空気が薄いところでは挙動が不安定になったり、墜落したりする恐れがあります。そこでヘリコプターには活動できる限界高度が定められています。現在、活動している自衛隊のヘリコプターは警察や消防のヘリコプターよりは限界高度は高いものの、それでも御嶽山の山頂の標高よりも低い2700mあまりが限界と定められています。つまり、あのヘリコプターは限界高度を300mも超える危険な場所で作業をしているのです。

ヘリコプターに詳しい人に言わせると「人命救助だから仕方ないが、信じられない」とのこと。しかも、不安定な挙動になってもおかしくない空中での安定したホバリングをしているのは、相当の操縦技術の持ち主でなければできないとか。そうした卓越した技術と強い使命感でこの捜索活動が続けられています。

私たちには知らされていないことが多い。それが意図的なのか、それともたまたまなのかはわかりませんが、人知れず行われていることには多くの人が知っておくべきこともある。報道されていることの多くは表面的な現象です。その裏側に何があるのかは報道されないことが多い。今、御嶽山でどんな過酷な捜索活動が行われているかを、我々は報道だけに頼らずにもっと知ろうとするべきです。その意味で、今のネット社会を大いに活用したい。自らリテラシーを高めなければ、真実は見えない時代になっているのです。

すべての行方不明者の一刻も早い救出と、捜索にあたる多くの人々の健康と安全をお祈りします。

宗教? 医学? 

あらかじめ申し上げておきますが、いかなる人であれ信仰は自由ですし、他人からとやかくいわれる筋合いのものではありません。ただし、他人に強要したり、他人を傷つけたりしない範囲で、ですけど。

健康に関しては、これまでの常識が覆されたり、思いもしなかった発見がなされたりと、いつも話題に事欠きません。「STAP細胞なんて…(あるはずがない)」と密かにささやかれていたのに、著名な海外雑誌にたった一本の論文が掲載されただけで一躍世間の注目の的になったり。これまで医者に「コレステロールが高いから」と言われて薬を飲んでいたのに、「コレステロールの基準はもっとゆるくていい」と発表する学会があったり。もっとすごいのは、「血圧の薬は飲まない方が長生きできる」と断言する医者が現れたり、と今は何を信じていいのかわからない世の中になりました。

でもよく考えてください。人間のからだ、あるいは人間の精神は複雑な物理現象の集積ではあっても物理現象そのものではありません。インプットされたデータが同じであれば、必ず答えが同じになるブラックボックスではないのです。人間のすべての活動には「傾向」やなんらかの「法則」はあっても、必ず「揺らぎ」や「特異点(はずれ値)」を包含しています。ですから、人間が人間の活動を予測し、コントロールするためには「統計」というものを駆使する必要があるのです。つまり、人間活動は「平均値」や「標準偏差」でものをいうしかなく、そこでは残念ながら平均から大きく外れる値は無視されてしまいます。

しかし、人間は平均を大きく離れたものにとらわれます。「数百年に一度」の事象などはその典型です。一生に二度も経験することなどまずないにもかかわらず、「ゼロではない」などという言葉を聞かされると、その「数百年に一度」の事象がまたすぐにやってくるように感じます。そして、それにとらわれた人間の基準はもはや平均にではなく、平均から「はずれ値」にひっぱられたところに「標準」が移動します。今の「大地震神話」「原発事故神話」がまさしくそれです。しかも、それらの主張の多くは情緒性をまとっているため、「統計学的にいえば」などと説明しようものなら感情的な批判が返ってくること必至です。

昨日、一切のがん治療を否定するK先生がTV出演されたようです。私は見ていないのですが、この先生は我々の業界では恐ろしく有名なので、どんなことを主張していたかは想像できます。先ほども申しあげたように、医学は「平均」でものを言わざるを得ないのですが、K先生はいくつかのはずれ値を寄せ集めてものをいいます。しかも、自分の主義や主張に合ったはずれ値を、です。そして、その寄せ集めたものを情緒に包んで紹介するものだから素人はすっかり納得させられ、いくら周囲から「それは違う」と説明されても聞く耳を持たなくなります。そう、これは洗脳そのものです。

確かに、がん治療をしない方がいい場合もあるでしょう。しかし、あたかも「がん治療をしないことが標準」といわんばかりのK先生の主張に合理性はありません。よく考えてみてください。K先生に放射線治療の経験があるとしても、がんを外科的に治療したり、抗がん剤を駆使して治療をする専門家ではありません。「抗がん剤の治療で患者を死なせてしまった経験から治療に否定的になった」とTVで告白していたそうですが、もし本当に「(思いがけずに)死なせてしまった」のだとすれば、それは抗がん剤が悪かったのではなく、自分の能力を超える抗がん剤の使い方をしたことを反省すべきでしょう。

今の医学は膨大なデータを利用し、統計学によって適切な介入の仕方が決められています。どの程度のものを、どの薬によって、どう管理すれば目的を達成できるかを決め、これをガイドラインとしています。もちろん、この通りに管理してもうまくいかない場合もあります。このガイドライン通りにできないこともあります。でも、この標準的な方針があってはじめて統計学的に「意味のある管理」ができるようになります。以前は、医師の経験にもとづいて、医師の好みに応じた治療がおこなわれていました。今から振り返るとずいぶん乱暴だと思われる医療もあったのです。

とはいえ、医学も絶対ではありません。10年前に標準だった治療が否定されることもあります。しかし、その否定には明確な根拠がなければいけません。よもや、個人的な見解で否定されるべきではありません。根拠が希薄であってもいけません。今のような情報化社会ではセンセーショナルな情報は一瞬にして社会をかけめぐります。その分だけインパクトの大きさにひかれて誤った研究報告がなされたり、誤報や記事のねつ造がおこなわれます。この情報化社会に生きる私たちは、伝えられた情報が正しいものなのか、操作されたものではないのかに常に神経を使わなければなりません。

そうした中、それでも世の中のスタンダードや「常識」から外れるものを信じるというのであれば、それはもはや「宗教」です。血圧を下げる薬を飲みたくないというのであれば、それはそれでその人の信条でしょうから、その結果がどのようなものであっても本人が責任を負えばいいわけです。ただ、それは医学そのものではありません。ある種、個人的な信仰のようなものです。ただ、医療が悩ましいのは、高血圧を放置した結果として発症してしまった脳出血に莫大な医療費を費やさなければならないからです。医療が降圧剤の服用を進めるのは、防げるはずであった脳出血に費やされる医療費を抑制するためなのです。

それにしても、こうしたことすべてを自己責任の名のもとに知識も経験もない患者やその家族に判断させるというのは間違いです。私たち、プライマリ・ケア医の仕事はこうした情報提供にあるといっても過言ではないのですが、次から次へとカルト集団のような連中があらわれて患者の心を惑わせます。我々にはカルトのように思える主張であってもTVや書籍などで紹介されると権威性を持ちます。ましてや有名新聞にその記事がのればなおさら。そうなると患者はもはや我々の忠告には耳を貸しません。私はそんな頑なになってしまった患者を前にしたときは、いつも「信仰なのだから仕方ない」と思うようにしています。

思えば、健康のことだけではありません。放射能や原発事故のこともまったく同じです。理性的に説明して納得できる人はまだいいのですが、それでも特定の考えにとらわれている人になにを言っても無駄です。低線量の放射能の危険性はゼロじゃない。巨大津波が発生する可能性はゼロではない。原発事故がおこる可能性はゼロじゃない。統計学的な評価などに意味を感じていないからこそ出てくる言葉です。そうなるともはや宗教の世界です。信仰の自由はありますが、あくまでも他人に強要したり、他人を傷つけない範囲内でお願いしたい。なのにカルトまがいの人たちは世の中を巻き込まないではいられないらしい。

自分のことだけでとどまっていればいいのですが、ひとりでそっと信仰することがどうしてもできない人たちがいる。自分の信仰を広めたいのでしょうが、それは余計なおせっかいというもの。少なくとも責任あるマスコミにはその片棒を担ぐようなことはやめていただき、「裏のとれない記事は書かない」という大原則は守ってほしい(とまたマスコミ批判)。とはいえ、ここまで話しを広げると、私の考えと対立する人たちからは「おまえこそ洗脳されている」といわれそうですけど。

 

デング熱について

最近、デング熱がマスコミを賑わせています。海外渡航のない人にデング熱が発生したのは日本では久しぶりのようです。私も医学部を卒業してからデング熱などまったくの他人事でしたから、あらためてデング熱のことを調べてしまったほどです。しかし、個人的には、久しぶりにデング熱患者が発生した、というよりは、久しぶりにデング熱の診断が下された、という方が正しいのではないかと思っています。

というのも、デング熱の症状を調べてみると、「はしか」や「風疹」と間違うような症状だからです。もし、デング熱の患者が私のところを受診していたらまず「風疹?」なんて思ってしまいますね(今だから疑いますけど)。これはまったくの想像ですが、デング熱だったにも関わらず、インフルエンザだとか、風邪だとか、風疹だとか、はしかだとかに診断されてよくなってしまっているケースが少なくないと思います。もちろん、私もこれまで見逃してきたかもしれません。

【デング熱の症状】
①突然の高熱(発生頻度:99%) ②頭痛(58%) ③発疹(53%)④筋肉痛(29%)

ここでデング熱を強く疑うのは、上記の症状のほかに「血小板減少」や「白血球減少」が見られ、なにより流行している地域を訪れたことのある場合です。もちろん採血で確定すれば確実です。
ただ、誤解を恐れずにいえば、デング熱だからといっても多くの場合は風邪のように治っていきます。特効薬はないので、症状に対してそれぞれ薬を出すのみです。ですから、マスコミは「デング熱を疑ったら早めに医療機関を受診した方がいい」といいますが、重症化のおそれがなければ医療機関のなすべき「治療」は風邪の時と変わりません。あくまでも、医療機関では「重症化の恐れがあるか」を確認し、場合に応じて「デング熱であるかどうかを採血で調べる」だけです。不必要に心配する必要はないのです。あくまでも蚊を通じて感染患者が広がってしまうことが問題なのです。

もちろん、重症化する恐れがあることも念頭におかなければなりません。

【重症化を疑う兆候】
(1) 腹痛 (2) 持続的な嘔吐 (3) 粘膜出血 (4) 不穏

これらの症状が見られるようであれば、やはり命にかかわる状態に移行するかもしれませんので注意が必要です。ちなみに重症型デングとなる割合は数%といわれており、重症化を放置した場合の致死率は10~20%ですが、適切な治療を受ければこの致死率は1%に低下するといわれています。ですから、マスコミで大騒ぎするほど命にかかわる感染症ではないことがわかると思います。ただし、重症化するのは二度目の感染のときとされており、重症化の90%が再感染時といわれています。

これほど騒がれるようになると、マスコミにいろいろな医者が知ったかぶりをしてコメントします。しかし、マスコミがいつも正しい情報を提供するとは限らないことは最近の新聞の誤報騒ぎをみればわかります(この新聞社はあまりにも前科が多すぎますが)。世の中にインパクトを与えること(もっと言えば、世の中を騒然とさせること)を目的にしている報道もあるのです。何が正しいのか、何が真実なのかは皆さんの目で確かめ、理解できないことは真の「専門家」に聴く。できるだけ自分の頭で理性的に判断していきたいものです。

「熱中症」を再確認する

猛暑が続くと「熱中症」のことがしばしば報道されます。しかし、改めて「熱中症とはなんですか?」と質問されると意外とわかっていないことが多いようです。

熱中症とは、暑い環境にさらされて水分と塩分を失い、筋肉がつったり、強い倦怠感におそわれたり、体温調節ができなくなってショック状態にもなったりする病態です。単に水分が失われてへばった感じになる「日射病」とは異なり、命にも関わる事態が熱中症です。

ですから、「暑い環境、または大量に発汗する環境」に身を置いて調子が悪くなったら、熱中症の可能性を考えなければなりません。とくに体温調節ができなくなり高熱になっていると重症になっている可能性があります。脇の下が異常に熱く(体表面は意外に熱くないことがあります)、苦しそうなのに発汗がほとんどないときは直ちに救急車を呼んでください。

予防はなんといっても「汗を大量にかく環境にいない」ということです。これは一義的には「暑い場所にいない」ということですが、たとえ気温がそれほど高くなくても「湿度が高い場所」であれば同じことです。湿度が高いところは汗が蒸発せず体温がさがらないからです。ですから、夜、窓を開けたり、扇風機をつけて寝たとしても汗が蒸発して涼しいと感じなければ熱中症になる可能性があります。

第二の予防は水分と塩分の補給です。私は個人的に「薄めた味噌汁を冷蔵庫に冷やしておくこと」をお勧めしています。そして、汗をたくさんかいたときに補給するといいでしょう。ただし、血圧が高めの人や心臓や腎臓の悪い方は水分と塩分のとりすぎが体に悪さをする可能性がありますから、できるだけ汗をたくさんかかないようにして水分と塩分をとりすぎないようにすべきです。

よくスポーツドリンクをこまめに飲む、という方がいます。しかし、スポーツドリンクの中には50gを超える糖分が入っています。したがって、血糖値の高い人は要注意ですし、そもそも肝心の塩分はそれほど含まれていません。ですから、血糖値の高い人にとって、また、そうでない人にとってもスポーツドリンクは「こまめに補給する飲み物ではない」ことは確かだと思います。

ちなみに「ゼロカロリーだから大丈夫」という方もいますが、そういう飲み物はカロリー(ブドウ糖)はゼロでも、スクラロースやアセスルファムカリウムなどの人工甘味料がたくさん含まれています。これらは一度にたくさん摂取すると肝機能が悪くなることがあるといわれており、「ゼロカロリー=健康にいい」ということにはならないということに注意をはらう必要があります。

まとめると、熱中症はまずは予防。そのためにたくさん発汗するような環境(気温と湿度が高いところ)にはいないようにすること。万が一、汗をたくさんかいたときは薄めた味噌汁などで水分と塩分を補給すること。それでも熱中症かな?と思うような倦怠感がある場合は病院を受診すること。とくに発汗がなく重症感をともなう熱中症や意識がはっきりしない場合はすみやかに救急車を要請してください。

放射能と喫煙

とある有名な音楽家が中咽頭癌になり、その音楽家が反原発運動を推進してきたことから放射線治療をうけるかどうかが話題になっています。当初、彼が「反原発運動を進めてきた立場から主治医に勧められている放射線治療を拒否した」と報道されましたが、後に「治療法をどうするかは主治医と相談中」と訂正されました。

彼はかつてヘビースモーカーでした。中咽頭癌は喫煙や飲酒との関連も指摘されている病気であり、今回の癌の発症が喫煙と少なからず関係があるだろうということは想像に難くありません。「発癌性」という放射能の危険性を強調してきた彼が、喫煙によって癌になってしまうなどということは夢にも思っていなかったにちがいありません。しかも、その彼の癌を治療する主役が放射線になるかもしれないとはなんとも皮肉な話しです。

「喫煙は自己判断。放射能の被害は不可避」とその音楽家を擁護する声もあります。しかし、喫煙はタバコを吸っている本人だけではなく周りにも受動喫煙として影響します。さらに、喫煙には低線量の放射能の危険性をはるかに上回る発癌性があります。そうしたことを考えれば、彼には、この際、喫煙が持つ負の側面を総括し、社会に喫煙の危険性や恐ろしさを説明するべきでしょう。

一方で、彼は放射能の恐怖をことさらに強調してきました。「たかが電気のために(人間を放射能の危険にさらしてもいいのか)」とも言いました。しかし、科学的には低線量の放射能の危険性は証明できず、また、福島原発事故後、放射能による医学的影響は現時点で確認されていません。にも関わらず、放射能に関して一方的で情緒的で煽動的な活動をしてきた彼に影響を受けた人は決して少なくないと思います。

そんな彼が今になって放射線治療を選択するのは不合理だと言っているのではありません。それこそ「命に関わること」なのですから、放射能そのものを否定してきた彼であっても放射線治療を受ける権利は当然ありますし、また、放射線治療を受けるべきかもしれません。人類が科学の恩恵にあずかるためには、その危険性を乗り越え、可能な限り危険性をコントロールしながら科学を発展させなければならないのです。今回の病気を機に、彼にはこのことに気がついてほしいのです。

私は福島原発事故直後から放射能の危険性については冷静に判断すべきだと繰り返し強調してきました。そのことをレジュメにまとめて患者さんにも説明してきました。当時のマスコミは国民の不安を煽る情報ばかりを報道していました。その傾向は今も残っています。その意味で、中咽頭癌になってしまった彼が、これまでの、そしてこれからの自分を考える中で、「真に命を守る」ということがどういうことだったのかを改めて見つめ直してもらいたいと思います。

健康番組の功罪

「昨日、TVでやってたんですけど・・・」、そう言って受診される患者さんは少なくありません。どの患者さんも「もしかして自分もこの病気じゃないか」「この薬を飲めばよくなるんじゃないか」と、不安や期待を胸にして来院します。しかし、その多くの方はその不安が杞憂であることにホッとして、また別の人達は期待がはかなく裏切られてお帰りになります。

こんなことを言うとマスコミ関係の方に叱られてしまうかもしれませんが、所詮はマスコミの作った健康番組です。視聴者にチャンネルを合わせてもらえるように、あるいはチャンネルを変えられないように面白おかしく番組を作ってあります。普段、第一線で診療している身としては「そんなレアケース(まれな病気)をいちいち心配していたら時間も医療費もいくらあっても足りない」って思うことだって決して少なくありません。

健康への関心を喚起するのは大変いいことなのですが、ともするとマスコミは「煽るだけ、煽る」というような番組でセンセーショナルで一方的な情報を垂れ流します。原発事故や放射能のときもそうだったように、見る側にも「この情報は正しいのか」といった意識を常に持つべきです。その意味で、我々医療従事者も正しい情報を提供できるよう日々の勉強は欠かせません。

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