わが心の故郷「逓信病院」(2)

これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。

今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。

そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。

ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。

医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした

でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。

のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。

国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。

もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。

当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。

それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。

実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。

私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。

まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。

ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。

そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。

先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。

たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。

 

 

 

 

 

 

 

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