心に残る患者(4)

母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。

入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。

この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。

とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。

M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。

ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。

「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。

ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。

そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。

ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。

M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。

「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。

実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。

でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。

人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。

幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。

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