天皇誕生日(2)

 

****************「天皇誕生日(1)」から続く

終戦当時、多くの英霊が祀られていた靖国神社を取り壊し、ドックレースの会場にしようとする案が持ち上がっていました。敗戦後、少なくない日本人も天皇や皇室の廃止を、そして、靖国神社の解体を叫びました。皇室などいらない、国家神道が日本を戦争に導いたのだ、ということなのでしょう。しかし、国のために命を落とした日本兵たちの魂をなぐさめる靖国神社を守ったのは、実は日本人ではなく、他ならぬローマ教皇庁の神父達でした。「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に敬意を払う権利と義務がある。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等でなければならない」。今の日本人に大きく欠ける部分です。

極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で敗戦国日本の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニー少佐のことも忘れてはいけません。彼はアメリカ陸軍の現役軍人でした。勝った国が負けた国を裁くこの裁判は、いわば日本に戦犯国としての烙印を押すための形式的なものにすぎませんでした。ですから、日本人被告を担当する外国人弁護士の仕事ぶりは必ずしも誠実といえるものではありませんでした。裁判が単なる形式的なものであることを悟って帰国した者もいれば、手にすることのできる報酬額を聞いて「そんな額では引き受けられない」と帰国する弁護士もいたほどでした。

東京裁判は「法と正義」という弁護の核心とはまるで無縁であるかのような裁判でした。しかし、ブレイクニーをはじめとする何人かの弁護士達は、つい最近まで敵国の指導者だった人間の弁護のために法律家の名に恥じない活躍をしました。そして、祖国であるアメリカの陸軍長官が原子爆弾の使用を許可した証拠までをも提出しようとしたのです。原子爆弾は非戦闘員である一般市民を標的にする国際法違反の兵器だということの根拠でした。「原爆が国際法に違反するかどうかはこの裁判には無関係である」と却下しようとした裁判長。ブレイクニーらはそうした「不公正」と激しくやりとりをしたのです。

もしアメリカが国際法に違反する兵器を使用したとなれば、日本にはそれに対して報復する権利がある、というのがブレイクニーの主張でした。また彼は、日本が戦争の回避に努力したことも立証しようとしました。しかし、連合国側検事の主張は「日本が侵略戦争をしたという事実が本裁判の論点であり、回避しようとしたかどうか、最後通牒が遅れたかどうかは関係ない」と主張しました。それは、その弁論の過程で、1941年の11月末の時点でアメリカの大統領をはじめとする首脳部が、日本が戦争を企図していることを予測していたのがあきらかになったためでした。

ブレイクニーはさらに主張します。「戦争は犯罪ではない。歴史を振り返ってみても、戦争の計画やその遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。検察はこの裁判であたらしい法律を打ち立てようとしている。平和に対する罪は当法廷によって却下されなければならないのだ」、「国家の行為である戦争に対する個人の責任を問うことは法律として誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは戦争が合法的だからである。つまり、合法的な人殺しとしての殺人行為は正当化されるのである」と。その主張は理路整然として一貫していました。彼の精神は「法と正義」そのものだったといえます。

次の陳述はあまりにも有名です。「キッド提督の死に真珠湾攻撃にともなう殺人罪が問われるなら、我々は広島に原爆を投下した実行者の名前を列挙することができる。原爆の投下を計画した参謀長の名前も知っている。その国の元首の名前すらも、である。しかし、彼等が殺人罪を意識していただろうか。いや、していまい。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵のそれが不正義だからではない。戦争自体が犯罪ではないからだ。原爆の投下を計画し、実行を命じ、これを黙認した者がいる。そして、その者たちが裁いているのだ。彼等も殺人者ではないのか」。この言葉に日本人被告はどれだけ励まされたことでしょう。

東京裁判で弁護団は一貫して「この戦争は日本の自衛戦争だった」と主張します。しかし、連合国側は、「戦争主導者たち」を「平和の罪」と「人道の罪」という事後法(違法でなかった行為を、のちになって処罰するためにあらためて定めた法令)で裁きました。とくに「人道の罪」は、マッカーサーが真珠湾攻撃を「殺人に等しいもの」として追加させた罪状です。その一方で、ニュルンベルク・極東憲章にあった「一般住民に対する」という文言が削除されました。それは一般人を標的にした空襲や原爆投下を正当化するためともいわれています。結局のところ、最終的に7名の被告が死刑になりました。

そんな連合国側の、とくにマッカーサーの復讐劇ともいうべき東京裁判で、死刑の執行はあえて当時の明仁皇太子の誕生日にされました。しかも、被告の遺体は秘密裏に火葬され、その灰は家族にも知らされないまま横浜沖の太平洋上で散骨されました。そうしたことは一切報道されないまま、マッカーサーは戦後の日本が奇跡的な復興を遂げる「恩人」になっていきました。彼が日本を去るとき、沿道にはたくさんの日本人が別れを惜しむために押しかけたといいます。連合国最高司令官として彼が過ごした5年間は、昭和天皇の威厳と日本人の民度の高さに圧倒された期間だったに違いありません。

アメリカに戻ったマッカーサーは、1951年5月3日に米国議会上院の外交軍事合同委員会で次のように証言しました。「彼らは工場を建設することもでき、労働力を有してもいた。しかし、基本的な資材を保有していなかった。日本には蚕を除いて国産の資源というものがほとんど何もなかったのだ。欠乏していた多くの資源はすべてアジア海域に存在していた。もし、これらの供給が断たれれば、一千万人以上の失業者が生まれるということを日本は恐れていた。すなわち、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのである」。日本人として涙がでるような言葉です。

マッカーサーがこのように証言したのも、彼が「日本で最上の紳士」と評した昭和天皇との出会いが大きく影響したに違いありません。「自分はどうなっても構わない。どうか日本国民が飢えないようにしてやってほしい」という陛下の思いがマッカーサーの胸を打ったのかもしれません。その一方で、GHQは皇室と財閥が戦争遂行を支えたとして、それらを解体するために財産法を根拠に莫大な課税をかけました。当時の所有財産に対して90%を超える税率が課される大変厳しいものでした。11宮家が臣籍降下(皇籍を離れて一般国民になること)を余儀なくされた背景にはそうした経済制裁が関係していました。

終戦時の天皇家には当時の貨幣価値で37億円あまりの資産がありました。皇室は自らが所有する御料地(農地や牧場)などで食料を自給自足するとともに、徳川幕府が所有していた広大な土地を引き継いでいたからです。それらのほとんどがこの財産法によって徴収・接収されてしまいました。財産法によって徴収された税額はなんと33億円にもなりました。しかも、天皇家に残された4億円の資産のほとんどは新憲法によって国有となり、自由に使える手元金はたった1500万円ほどです。永きに渡って日本という国家の権威にあった天皇家はこのわずかな資産をもとに戦後の生活をスタートさせたのです。

昭和天皇が崩御されたときにも明仁皇太子殿下には相続税が課されました。その総額は4億円を大きく超えていました。国民と同じ権利ももたず、ある意味、人権すら制限されている皇族にも課税がなされているのです。皇室の資産は今も確実に減っています。ちなみに、皇族には健康保険すらありません。病気となれば、その医療費はすべて自己負担なのです。髭の殿下として有名だった三笠宮寛仁親王殿下が癌の治療をお受けになったとき、請求された多額の費用を退院後の講演料で支払うしかなかったことは有名です。そうした理不尽がおざなりになっていることに国民はもっと関心をもつべきです。

余談ですが、かつて明治天皇は御内帑金(ごないどきん:ポケットマネー)を使って貧しい人たちのための医療事業を興されました。今も全国にある済生会病院のもととなる恩賜財団済生会はそのひとつです。皇后の昭憲皇太后も困窮者のための慈恵病院(今の慈恵医大)の設立にご尽力になったり、赤十字病院の敷地としてご料地を貸し出し、御下賜金をも与えられました。かつて、慈恵医大や日赤病院の看護学校の入学・卒業式には皇族のご臨席があったのはそのためです。また、上野動物園は正式には「恩賜上野動物園」といいますが、1924年に昭和天皇(当時は皇太子殿下)のご成婚を記念して東京市に下賜されたからです。

戦後の昭和天皇は、新憲法にのっとって政治的な発言をお慎みになりました。まさに象徴天皇としてのお勤めをはたしておられたのです。その一方で、日本の安寧と五穀豊穣のため、祭司としてのお勤めも欠かさなかったそうです。国内外の公務と宮中祭事で多忙を極めた昭和天皇は、文字通り日本の復興と発展のために尽くされたといえます。もしかすると、先の大戦に対する国民への贖罪のお気持ちもあったのかもしれません。全国各地への巡幸もなさいました。晩年、病床におられた昭和天皇は、まだ訪れていなかった唯一の地、沖縄への巡幸を願われていたといいます。陛下にとって沖縄は特別な場所だったのでしょう。

昭和天皇の一生は、まさに日本のためにあったと思います。そして、その役割は十分にお果たしになったといえるでしょう。昭和天皇の大喪の礼の大雨といい、現上皇陛下のご結婚のときの晴れ晴れしい天候といい、嵐のあとにまぶしい日差しが差し込んだ今上天皇陛下のご成婚の儀といい、さらには今上陛下が即位された瞬間に突如虹が出現した令和の即位の礼といい、皇室にはいつも神がかった偶然が起こります。天皇陛下の皇祖皇宗は天照大神にさかのぼります。その神々しさの象徴が昭和天皇です。私にとって4月29日は、これからも昭和天皇陛下を追慕する「天皇誕生日」であり続けるのです。

 

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