今日は「昭和の日」です。「昭和の日」は2007年に、それまで「みどりの日」とされてきた昭和天皇の誕生日を、「昭和という激動の時代を振り返り、日本の将来に思いをめぐらせるため」に再制定された祝日です。現在、「文化の日」とされている11月5日も、昭和のはじめに「明治節」と定められた明治天皇の誕生日。日本にとって昭和以上に激動の時代だった明治を国民そろって追慕しようという祝日が「明治節」です。しかし、私にとっては、11月5日が「文化の日」であっても、4月29日は今でも「天皇誕生日」。「昭和の日」だと言われてもなかなかしっくりきません。
昭和、平成、令和と時代は移り、多くの日本人にとって、昭和という時代がなにか日本史のいちぶに埋もれていく、そんな感覚におちいることがあります。それは私が歳をとるにつれて、敗戦を機に日本の伝統や文化が異質なものに変わっていくような気がしているからかもしれません。現在の徳仁天皇陛下を「令和天皇」と呼ぶ間違いに気が付かない教員がいたり、マスコミは皇族の呼称を安易なものにし、軽々しく「雅子さま」「悠仁さま」と呼ぶ時代になりました。122回目の「天皇誕生日」となった今日、日本人がもっと知らなければならない天皇と皇室のことを少し書きます。
昭和天皇や皇室のことは何度もこのブログで書きました。それほどまでに昭和天皇のご存在は私にとって大きなものなのです。昭和天皇は多くを語らないまま崩御されましたが、その後、さまざまな歴史的評価がなされました。そして、それらを振り返ると、明治から大正、そして昭和という、日本が近代国家として発展していく時代とともに生きてこられた陛下の偉大さがわかります。世界には皇室のように2600年以上もの永きに渡って続いた王朝はありません。それは日本という「国家」がまさに皇室とともにあった証拠であり、と同時に、「権威と権力の分離」という世界でも希有な国家システムが日本に機能してきた証拠です。
昭和天皇がご誕生になった122年前、アジア諸国は次々と欧米列強の植民地になっていきました。また、有色人種が白人よりも劣った民族だとして蔑視されていた時代でもありました。そのような時代にあって、乃木希典が院長だった学習院に学び、東郷平八郎らから帝王学を教育された昭和天皇は、世界が弱肉強食の時代にあったことを理解されていたと思います。そして、日本を統治する天皇としてだけではなく、近代国家日本の国際的な地位を向上させる君主としての意識を高めたのではないでしょうか。その後、日本は文字どおりアジアの一等国として国際社会の表舞台を駆け上っていきました。
幼いときから昭和天皇(当時は皇太子)は、大日本帝国憲法や国際法について徹底的に教育されました。戦後、昭和天皇が記者会見で「自分を神だと思ったことはない」とお述べになったように、当時から天皇という存在は憲法に依拠した立憲君主であると陛下ご自身は理解しておられました。ですから、東京帝国大学の美濃部達吉教授が「天皇機関説」を発表し、ときの政府をはじめ多くの国民がこれを激しく批判して排斥する中、昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して次のように述べられました。「美濃部ほどの者が今、日本にいったい何人おるだろうか。ああいう学者を葬ってしまうことはすこぶる惜しい」。
昭和天皇にとって、天皇という立場は「欧米の国家元首や支配者としてではなく、国家の安全と平和、安寧と秩序を祈り、国民の幸福を願いながら国民を精神的に支える存在」ととらえていたことが「私の履歴書」に書かれています。実は、昭和天皇が若かりし頃、天皇が反対していた中国進出を軍部が強行し、支那事変に突き進んでしまったことに強い不満を表明されました。その責任を負う形で時の総理大臣田中義一が辞職しました。ところが、そうした経緯を西園寺公望は陛下に「立憲君主としていかがなものか」と苦言を呈しました。以後、昭和天皇は政府の方針に明らかな賛否を表明することはしなかったそうです。
しかし、そのことが、かえって日本を国際的に孤立させ、軍部を暴走させることとなったのも事実です。昭和天皇が抑制的な役割をはたす中、「二度だけ積極的に自分の意見を実行させた」と独白録で述べられた出来事がありました。そのひとつが昭和11年2月26日に陸軍若手将校らが決起して起こした「二.二六事件」です。当時の日本は世界的な大恐慌のまっただ中にありました。そして、国民にも鬱積した不満が蓄積していました。貧しい農村地域では娘の身売りがおこなわれ、富める者と貧しき者との格差が顕著になって、社会主義にその活路を見いだそうとする人々が増えていたのです。
軍部の中枢にも社会主義者がかなりいました。軍人だから皆が「右翼」ではなかったのです。二.二六事件を主導した皇道派の青年将校たちの精神的支柱となった北一輝こそまさしく社会主義者でした。彼等は天皇を中心とした社会主義(独裁主義)の国家を築こうとしていました。しかし、昭和天皇はその企ての矛盾を見抜いておられました。クーデターを容認すれば日本は分断され、皇祖皇宗から引き継いだ国体が瓦解してしまうことをご存知だったのです。昭和天皇は鎮圧を渋るいちぶの陸軍幹部に「朕、自ら兵を率いて鎮圧にあたる」と近衛兵(皇居を守る精鋭部隊)までをも動員する覚悟を思し召しになりました。
つい最近も、岸田首相を狙った襲撃事件がありました。昨年は安倍晋三前総理もテロともいえる凶弾に倒れるなど、あってはならないことが起こってしまいました。マスコミはそれらの犯人の背景を同情的に報道し、あたかもテロリストの動機を理解すべきだといわんばかりです。しかし、そうではありません。暴力で政治を変えようとする行為を絶対に認めてはいけません。その動機や理由に対する同情は不要であり、知る必要すらないのです。いやしくも日本が民主主義国家である以上、政治を変えるのは選挙で一票を投じること以外にはありえない。テロリストの不憫な生い立ちや生活環境などまったく関係ないことです。
二.二六事件が起きたとき、昭和天皇に拝謁した川島陸軍大臣は反乱軍の決起趣意書を読み上げようとしました。しかし、陛下は「そのようなものをなぜ読み上げるのだ」と激怒されたといわれています。つまり、昭和天皇ご自身はクーデターにいかなる事情・理由があろうと、これを許すわけにはいかないのだと考えておられたのです。決起趣意書には次のようなことが書かれていました。「思想は一君万民を基礎にし、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶であり、統帥権干犯や天皇機関説一派の学匪などの奸賊を誅滅して大義を正し、、、」。この檄文を無視したのは昭和天皇のまさに慧眼です。
昭和天皇が「自分の意志を実行させた」と述べられたもうひとつの出来事が「終戦の聖断」です。そもそも開戦時の日本と米国の国力の差は12倍と歴然としていました。昭和15年に政府直轄の組織として創設された総力戦研究所の試算でも日本の敗戦は決定的なものでした。常々、昭和天皇は日本とアメリカが協力して太平洋の平和と安全を築きたいとの希望をもっておられました。その意向をくみ、開戦回避に向けて働きかけていた木戸幸一の努力は実を結ばず、当初開戦に反対していた海軍の翻意によって「開戦やむなし」の結論にいたりました。最後までアメリカとの交渉を尽くすようにとの陛下の願いもむなしく、日本からアメリカへの開戦通告が遅れ、日米戦争は「奇襲」という形で始まってしまったのです。
開戦(宣戦)の詔勅を読めばわかるとおり、自分の意志に反して日米が開戦してしまったことを昭和天皇はとても残念に思っておられました。なんども推敲を繰り返した詔勅の文面には、昭和天皇の強い希望によって「今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん:争いごとのはじまり)を開くに至る。まことにやむを得ざるものあり。あに朕の志ならんや」の一文を入れることになりました。こうして始まった戦争は4年におよび、軍人・軍属の戦死者は230万人、国内外で犠牲になった日本人は80万人以上におよびます。しかも国際法に違反する形で一般市民を標的にした原子爆弾が広島と長崎に投下されたのです。
昭和天皇は開戦後に好戦的になったと吹聴する識者がいますがそれは間違いです。開戦直後の華々しい戦果は長くはもちませんでした。事前に総力戦研究所が試算したとおりの経過をたどったのです。戦況が芳しくなくなって、昭和天皇の弟君であられる高松宮もたびたび陛下に終戦の決断を上申されます。しかし、まるでそうした声に耳を貸さなかったかのような昭和天皇。実は陛下は東条首相をはじめとする軍部が内閣と統帥部の両者を抑えてしまった以上、立憲君主としてはなにもできないことをご存じだったのです。やがて誰もが終戦を決断できなくなってようやく昭和天皇の聖断が下ります。
終戦直後、日本にGHQが進駐してきました。そして、日本が二度と武器をとって戦う国にならぬよう、さまざまな方策がとられました。戦力の放棄をはじめとする憲法の改正などによって、教育、皇室のあり方をはじめとする日本の国体が大きく変えられてしまったのです。皇室や財閥の解体もそのひとつです。自身のフィリピンでの権益を奪われ、アメリカに逃げ帰ることを余儀なくされ、プライドを大きく傷つけられたマッカーサーは復讐心をいだいて横田基地に降り立ったといいます。執務室の椅子にふんぞり返えるようにして天皇の訪問を待っていた彼の胸の内はどのようなものだったでしょうか。
しかし、昭和天皇とお会いしたマッカーサーの変貌ぶりはご承知の通りです。かつて、第一次世界大戦でドイツ帝国の王がたくさんの財産を持って命乞いに来たことを彼は知っていました。「昭和天皇もまた同じように助けを乞いにくるはずだ」。そう思っていたことでしょう。しかし、目の前に現れた昭和天皇は違いました。マッカーサーに深々と頭をさげると「戦争の責任はすべて私にあります。将兵や閣僚、官僚などは私が任命した者たちであり、彼等に責任はありません。私の一身はどうなろうと構いません。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いいたします」とおっしゃられたのです。
このお言葉を聞いたマッカーサーは回想録にこう書いています。「死をともなうほどの責任。それも明らかに天皇に帰すべきとは思えない責任を引き受けようとするこのお姿は、私を骨の髄まで揺り動かした。その瞬間、目の前にいる天皇が個人としても日本で最上の紳士であることを私は確信したのだ」と。その一方で、多くの日本国民から、天皇陛下を擁護し、皇室の存続を望む手紙が届きました。それはマッカーサーの日本に対する冷え切った感情を溶かすのに十分だったようです。やがてマッカーサーは昭和天皇の処刑を望む多くの連合国側の意見を抑え、陛下に戦争責任は問わないことを決断します。
***********「昭和天皇と皇室(2)」につづく