涙なき別れ(2)

今年の正月に入院し、病気療養中だった母が7月28日に亡くなりました。行年92歳でした。半年あまりの闘病生活でしたが、痛みなどのつらい症状に苦しむこともなく、ロウソクの火が消えるような大往生でした。先日、四十九日の法要が終わりましたので、今回は母のことを書きます。

もともと母はたくさんの病気を抱えていました。まるで「病気のデパート」といってもいいほどです。高血圧や高脂血症、糖尿病はもちろん、気管支喘息や狭心症、心房細動の既往があり、心筋梗塞・脳梗塞で何回か入院もしました。自分で車を運転していたころには、二度も自損事故を起こしたりもしました。いずれの事故も乗っていた車が廃車になるほど大きなものでしたが、幸いにも怪我は骨折程度で済みました。そうした中で長生きできたのですから、まさに「誰かに守られていた」のかもしれません。

母は幼い頃に実母を病気で亡くしました。母の実父、つまり、私の祖父は優しい人でしたが、いろいろな商売をやってもうまくいかず、五人兄弟の長女だった母は子どもの頃から苦労が絶えなかったと思います。母が結婚した私の父はわがままで厳しい人でしたから、結婚生活も必ずしも幸せなものとはいえなかったかもしれません。戦後まもなく建てられたバラックのような官舎の狭い一室で私たちの生活ははじまりました。小さい頃を思い出すと、裸電球がぶら下がった粗末で小さな部屋の光景が必ず浮かんできます。

母と父は同じ歳の幼なじみでした。七人兄弟の末弟だった父の長兄と母の叔母(母の父親の妹)が結婚した関係で小さいころからの知り合いだったのです。なにかの行事で親戚が集まったとき、叔父が「君たちの両親は恋愛結婚なんだよ」と教えてくれました。喧嘩ばかりしている両親を見てきた私にはにわかに信じられなかったのですが、そのことを両親はあえて否定も肯定もしなかったのをみるとそうだったのかも知れません。私の両親は喧嘩ばかりする友達のままだったのでしょう。

父が亭主関白だったかというと必ずしもそうではありませんでした。母は口うるさい父に服従することは決してなかったのです。父親はいつも同じ時間に帰宅します。帰宅した父がすぐにはじめるのは掃除。ずぼらな母の掃除が父には気に入らなかったからです。文句を言いながら掃除機をかけはじめる父。仕事で何かあって機嫌が悪いときは、怒りだして母に手をあげることすらありました。そんなとき、子どものころの私は部屋の中でじっと耐えていましたが、中学生ぐらいになると仲裁に入り、暴れる父を止めたりしました。

母はそんな父にはお構いなしに、あくまでもマイペースでした。私は子どもながらに「文句を言われないようやればいいのに」と思ったものです。こんなことがありました。そろそろ父が帰ってくるという時間なのに、母は近所のおばさんと楽しそうに台所でお茶を飲んでいます。でも、父が帰ってきて怒りながら掃除をはじめることを知っていた私は気が気ではありません。だからといってご近所さんとの話しに夢中な母親に、「そろそろ掃除をした方がいいよ」と耳打ちすることもできません。

私は仕方なく、母の茶飲み話しの邪魔にならぬよう、台所以外の部屋を片付け、簡単に掃除をすることにしました。父が帰ってきても機嫌が悪くならないようにするためです。私はいつしか毎日掃除をするようになりました。父親が文句をつける点はどんなところか。短時間で掃除を済ませるためにはどんなところを重点的にやればいいのか。そんなことを考えながら掃除をしていると、父が文句をいいながら掃除をすることが少なくなりました。以来、夕方になると当たり前のように私が掃除をしていました。

そうした子ども時代を過ごしたせいか、私は今でも掃除機の音が苦手です。あの当時のことを思い出すからです。ですから、私の家内にも、また、クリニックのスタッフにも、「散らかっていなければ掃除はそこそこでいいよ」と頼みます。結婚した当初、家内は母に「あまり掃除をしなくてもいい」と私が言っていると話したそうです。それを聞いた母は不思議そうに、「あら変ね。あれだけ掃除が好きだったのに」と言ったとか。子どものころの私の苦労や心の内など、母はまるでわかっていなかったようです。

でも、母は誰かのために何かをしたい人でした。今ではすっかり見かけなくなりましたが、昔は浮浪者が家々をまわって施しものを乞うことがありました。我が家にも一度そうした浮浪者が来たことがあります。どこの誰かもわからないその浮浪者に、母は気の毒そうに食べ物を分けていました。また、実家の裏の公園で、平日にもかかわらず毎日一人で遊んでいる女の子がいたときのこと。母はその子を見かけると、彼女を家にあげ、話しを聴いてあげ、励ましたりもしていました。母はそんな人でした。

その一方で、こんなこともありました。幼かったとき、暖かくて格好のいい上着を母に買ってもらいました。私はそれをとても気に入っていたのです。あるとき、私と同じ年代の子のいる叔母がその上着を褒めてくれました。私はそれがうれしく、また、誇らしくもありました。しかし、母は「そう?じゃあ、これ、あげるわ」と。あっけにとられているうちに上着を脱がされた私は、悲しいような、くやしいような気持ちになったことを覚えています。褒められるとすぐにあげたくなるという母の性格は最期までかわりませんでした。

晩年の母はいろいろな料理に挑戦するのが好きでした。「おいしかった」と言ってもらえることがなによりもうれしかったのです。ご近所の友達にはもちろん、いつも買い物に通っているお店にも、あるいは入院した病院の職員にもカステラを焼いてもっていきました。「コロナのこともあって、食べ物をもらうのを嫌がる人もいるんだから」と注意しても聴く耳をもちません。その後も、餃子を皮から作って「ちょっと工夫してみたから食べてみて」ともっていくことも。人が喜ぶのを見るのが好きだったのです。

母は交際範囲が広く、友だちがとても多い人でした。先に逝った父もまた仕事関係の交際範囲が広かったため、父の葬儀にはたくさんの参列者が来て下さいました。母も父も実は「似たもの夫婦」だったのでしょう。父が亡くなったとき、「家族葬」でひっそりやろうと思っていました。葬儀社にはそう伝えていましたが、実際には「大企業の社長でもこんなには来ない(葬儀社談)」と驚くほどの参列者が来場しました。火葬場に向かう霊柩車の中でも「これは家族葬ではありません(同)」と笑われるほどでした。

父の葬儀のとき、いろいろな人たちに迷惑をかけてしまい、母の葬儀こそ、本当の家族葬で静かに見送ってやろうと思っていました。大家族で育ち、たくさんの友人がいたとはいえ、一人暮らしをする母を見ていると、本当は賑やかなことがあまり好きではないのかもしれない、と思えたからです。好きなときに起き、好きなときに食事を取り、好きな時間に寝ることに安らぎを感じ、気心の知れた人たちと時々お茶を飲んで談笑することを幸せだと思っていた母。そんな素朴な生活が母には合っているようでした。

母が徐々に弱っていき、食事もほとんどとれなくなって、妹が「もうダメみたい」と泣きそうな声で電話をしてきました。残された時間が長くないことはわかっていても、やはり今生の別れとなればつらいものです。でも、私は妹にいいました。「母親が後ろ髪引かれぬよう、淡々と見送ってやろうぜ」と。「あの人も亡くなった。この人も認知症になってしまった」と嘆く母に、「長生きは修行なんだよ。長く生きられなかった人たちの悔しさを背負いながら生きていくのだから」と諭していた私の最後の親孝行のつもりでした。

母は私が言ってきたとおりの晩年を過ごし、そして、ついに鬼籍に入りました。その最期はとても静かなものでした。亡くなる二日前、一緒に見舞いに行った家内とふたりで冷たくなりかけた母の両足をさすってやりました。「どこか痛いところはない?」と聞くと、母はうなづきながら、手のひらを胸におきました。私も母の胸に手を重ね、鼓動を刻むように軽く胸を叩いてやりました。すると母は安心した表情になって、静かに目を閉じました。私はこのとき、母の命がもうじき尽きるだろうと思いました。

母は満足して旅立っていったと思います。幼い頃から苦労は絶えなかったかもしれませんが、息子は医師に、娘は看護師になりました。そして、晩年、「なにも心配事がないことが一番幸せ」、「気ままな一人暮らしができるのはお父さんのお陰よ」と繰り返し言っていました。脳腫瘍になったことを知ったときはショックだったに違いありません。しかし、その後は、愚痴をこぼしたり、泣きごとを言ったりすることは一度もありませんでした。不安そうな表情すらしませんでした。

本来であれば、いろいろな人達に母が亡くなったことをお知らせすべきだったかもしれません。でも、母を静かに見送ってやりたいと思っていた私たちは、ごく近しい人だけで葬儀をすることにしました。母のことを誰かから聞いたとご挨拶をいただいた方もあります。香典やお花などはお断りしていましたから、そうした人たちにも失礼・無礼をしてしまったと思います。母もそれを不義理だ、礼儀に欠けると怒っているでしょう。でも、すべては母を静かに見送るため。どうかお許しください。

四十九日の法要が終わり、まさに母の遺骨が墓に納められようとしたとき、突然、どこかにいた鳥の鳴き声が霊園に響き渡りました。それはまるで母が最期のありったけの声で別れを告げたかのようでした。私はこれで母が仏になったことを確信しました。人間の命には限りがあります。永遠ではないのです。人間の一生にはそれぞれの長短があるにせよ、「人生を生ききる」ことにこそ意味があります。「生・老・病・死」を見守り、寄り添うことが医師の仕事。今、あらためて医師になれて本当によかったと思っています。

行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし   合掌

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