医学部での講義でしばしば「患者は生きた教科書」という言葉を耳にします。その意味は、医学書に書いてある知識だけでなく、目の前の「病んだひとりの人間」と向き合いなさいという意味をもっています。なるほど医学書にはいろいろな疾患に関する知識が網羅されています。しかし、現実の診療の現場でそれらの病に苦しむ患者は必ずしも教科書通りではなく、ひとりひとりのバリエーションがあることに気が付きます。それぞれの患者がどんなことに苦しみ、悩んでいるかについては当然教科書には書かれていません。そうしたことすべてが先ほどの「患者は生きた教科書」という言葉には込められています。
私自身も振り返ってみると、医学書から学んだことよりも、実際に患者さんから学んだことの方が多かったかもしれません。さまざまな患者と接してみて、医者として成長していったという側面もあります。もちろんいい思い出ばかりではありません。苦い経験や悲しい思いもたくさんしました。医者としてはそうした思い出の方が多いようにも感じます。しかし、そのような経験や思い出、履歴を重ねていくうちに医師として洗練されていくのかもしれません。その意味でたくさんの患者さんの思い出は私にとって財産です。
(1)研修医としての試練をあたえてくれたTさん
Tさんは当時80歳を超えていました。いわゆる江戸指物の職人で東京都から表彰されたということを誇りにしている人でした。職人としてはかなりの腕前なのでしょうが、その分だけ厳しい人でもありました。まだ医者になりたての新人研修医であった私が慣れない手つきで点滴をしようと苦戦していると、眉をひそめながら痛そうに私をにらみつけている、そんな人でした。よりによってTさんは誰よりも針刺しが難しい血管をしていました。点滴に慣れている看護婦さんでさえも一度では成功しないのですから新人研修医にうまく針が入るはずがありません。何度刺しても針は血管に当たらず、針先をさぐっているとTさんは「いててて、痛った~っ。お~痛てっ」と大声で叫びます。ちょっと大げさだなと思うくらいの痛がり方でしたが、こっちは冷汗をかきながら心の中で「早く血管にあたってくれ」と祈るような気持ちで処置をしていました。しかし、結局はあえなく失敗。するとTさんはため息をつきながら「ま~たダメか。おまえは下手くそだな~」と憎々しくつぶやきました。「すみません。もう一度やらせてください」と病室を逃げ出したい気持ちを抑えての再チャレンジ。ところが、針が血管に入っても、点滴を流すと血管の外に漏れだしてまた失敗。「もういい。点滴はやめてくれっ」と私をにらみながら吐き捨てるようにTさんは言いました。誰も代わってくれませんから、「またあとでもう一回やらせてください」といって部屋を逃げるように退散。そんなことの繰り返しでした。でも、毎日、そして何度もそんなことをやっていくうちにだんだん点滴の針がうまく入るようになってきます。一発で針が血管を当てたときなどは、Tさんは私以上にうれしそうでした。「だいぶうまくなったじゃないか」と。あの厳しかったTさんがそういってくれるようになったころには、Tさんの点滴をしに行くのが楽しみなくらいになりました。そのときは気づきませんでしたが、患者の苦痛を乗り越えて医者は成長するんだと今改めて思います。Tさんには申し訳なかったのですが、本当に感謝、感謝です。
(2)思い上がりを静かに叱ってくれたMさん
研修医2年目となった私はそれなりに医者らしくなり、少し自信を持ち始めたころでした。新人の研修医も入っていっちょ前に指導医のようなこともやっていました。新人研修医と一緒に担当していたMさんは肺癌の脊椎転移でほぼ寝たきりでした。原疾患である肺癌のせいもあってだいぶやせてはいましたが、それでもかつては「大いに飲み、大いに働く」といったモーレツサラリーマンだったことを思わせるのに十分な雰囲気をMさんは持っていました。脊椎に転移した癌による痛みもあるでしょうに、私達が点滴をしに病室に入ると張りのある元気な声であいさつをしてくれました。それはあたかも研修医に「頑張れよ」といってくれているようで、むしろ病室を訪れる私の方が元気をもらっていました。2年目の研修医となり、それなりにある程度のことができるようになっていた私は、あるときMさんの点滴をするのにまごつく新人にイライラしていました。そして、何度もしくじるその新人研修医をMさんの前で叱ってしまったのです。Mさんがその様子をどう見ていたのかはわかりませんが、そのときの私はさぞかし傲慢に見えていたんだと思います。そのあと、なにかの用事で私ひとりでMさんの病室を訪れたとき、Mさんは静かに私に言いました。「先生、あの先生を叱るのはやめてください」。私はハッとしました。「彼もなにをどうしたらいいのかまだわからないのです。私も部下をさんざん怒鳴ってきましたが、なんて傲慢だったんだって今頃になってわかりました。もう遅すぎますけどね」。私はなんとか笑顔を作ってお礼を言いましたが、心の中は恥ずかしい思いでいっぱいでした。そのときはじめて自分の傲慢さに気が付いたからです。しかも、Mさんは新人研修医と一緒のときではなく、私ひとりのときにそんなことを話してくれたのでいっそう心に響きました。以来、私はいつも謙虚であろうと思いました。そして、研修医を指導するのではなく、一緒に学ぼうと心に誓いました。それに気が付かせてくれたMさんにも感謝、感謝です。
(3)明治生まれの気骨と品を教えてくれたKさんとSさん
研修医の時に担当したふたりの明治生まれの患者も思い出深い方々です。ひとりは元関東軍参謀だったKさん。関東軍とは大東亜戦争(第二次世界大戦)のとき、遼東半島から満州を守っていた帝国陸軍の総軍のことです。その後、日本が戦争にひきづりこまれるきっかけとなった満州事変にも関与したとされる歴上有名な軍隊です。その参謀をしていたというので、はじめはどれだけ厳しくて怖い人かと思っていたのですが、Kさんはいつももの静かで優しい「おじいちゃん」でした。私が研修していた東京逓信病院は、昔、関東軍の作戦参謀をしていた石原莞爾中将が入院していた病院でもありました。Kさんが石原中将と知り合いだったのかどうかはわかりませんが、そのこともあっての入院だったのかもしれません。お見舞いにくる人たちは皆そうそうたる人ばかりで、来客は皆、Kさんの前では直立不動で話しをしていました。いつもは「優しいおじいちゃん」だったKさんも来客のときばかりは背筋をピッと伸ばしていて、その姿はまさしく関東軍の参謀そのものといった雰囲気を漂わせていました。幕末から明治維新にかけての歴史が好きで、今の日本の礎を築いた明治の人々に特別な思いをもっている私にとってKさんはまさしく「尊敬すべき明治人」。明治の気骨を感じる人でした。
思い出に残る明治生まれのSさんも忘れられません。Sさんは明治生まれにして横浜の女学校に通ったという才女でした。品のよい顔立ちもいかにも横浜生まれの「おばあさま」。Sさんのふたりの息子さんも大手企業の社長と重役でした。担当した私は折に触れてSさんとする世間話しがとても楽しみでした。どんなときでも穏やかに語りかけるようにお話しするSさんはなんとなく皇族の方々のように見えました。あるとき、Sさんが私に言いました。「先生は結婚してらっしゃるのかしら」。世間話しのときのことですから、私はさらっと「いいえ」と受け流したのですが、Sさんはさらに「お付き合いしている方は?」と尋ねてきました。「いえ、研修医はそんな身分じゃありませんから」と言うと、突然「うちの孫娘とお見合いしてみません?」と。あまりにも突然だったのですが、ずいぶん前から私にお孫さんの話しを切り出すタイミングを探っていた、とのこと。私は「Sさんのお孫さんとなんてめっそうもない」と丁重にお断りしましたが、粗雑に育ったきた私にとっては謙遜ではなく、心底そう思っていました。あんなに品のある人の孫娘さんってどんな人だろうと関心はありましたけど。Sさんは女学生が袴をはいて自転車に乗った主人公が出てくる「はいからさんが通る」という漫画の世界を彷彿とさせる上品で明るい人でした。私がもの心ついたころにはもうふたりの祖母は亡くなっていたので、その分だけ心に残る「おばあさま」でもありました。
今の自分につながっている記憶に残る人たちはまだまだたくさんいます。でも、その多くはもうこの世にはいません。そうした人たちが今の私を見てなんというでしょうか。褒めてくれるでしょうか。それとも、ダメ出しされてしまうでしょうか。研修医と言う感受性の強い時期に巡り合った人たちは今の私の財産です。今でもときどきあのときに戻りたいと思うことがあります。いろいろな可能性を秘め、希望にあふれ、なにもかもが新鮮だったあのころ。苦労をひとつひとつ乗り越えては成長を実感できたあのときの胸のときめきが今はとても懐かしく感じます。そんなことを考えるのも私が歳をとった証拠でしょうけど。