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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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「裏口」のウラ

東京医科大学でおこなわれた「裏口入学」のことが話題になっています。昭和40年代に医師不足を解消するために医科大学や医学部が次々に新設されたころ、こうした私立医大の「裏口入学」の問題は「入試での総得点が30点でも合格」などという見出しで新聞報道されるほどに社会問題化した出来事でした。そのころをよく知っている私からすれば、この「裏口入学」は昭和という時代の香りがする懐かしい話題です。

私が高校生のころ、何人かの同級生が当時の新設された医学部や医大に入学しました。彼らからは、入試のとき面接官に「君の成績だとこのぐらい(の金額)になる」と指で寄付金の額を提示されたとか、「君のお父さんの収入で六年間学費を払うことができるかな?」と言われたという話しを聞かされましたが、当時は、私立なんてそんなものだろうと思っていましたから特段驚きはしませんでした。

あの頃の受験票には堂々と「本学を卒業した家族や知人の名前と卒業年度」を書く欄があったりしましたし、「どこどこ大学は同窓生の子弟を優先的に合格させる」なんて噂も広まっていました。医学部受験専門の予備校に裏口入学のブローカーがいるなんてこともまことしやかに言われていて、現に開業医の親を持つ同級生がそこに通って私立医大に合格していました。昭和ってそういう時代でした。

でも、なんとなく「まだあんなことがあるんだろうな」とは思っていたことが、平成になった今もなかば公然とおこなわれていると聞きいて「まさか?ほんと?」って感じがします。しかし、よくよく考えてみると、二次試験の面接などというあいまいな制度はこうした合格操作をおこなう温床にもなるわけで、どこの私立大学でも密かにおこなわれていても不思議ではないのかもしれません

最近の「女子受験生の合格調整」の話しだってずいぶん前から噂されていたことです。とある大学では、きっちり成績順に合格者を決めてしまうと女子学生が全体の六割を超えてしまうとのこと。そもそも女子学生は外科系に進む者が少ないので、外科系の診療科によってはこれは死活問題です。入局者が少なければ関連病院にも医者を派遣できませんし、そうなると地域医療を維持することも難しくなるのです。

だからこそ男子学生に加点して合格者の調整をするのです。こうした事情は医者であれば誰でもがうすうす気が付いていたことです。東京医大で「合格調整」がおこなわれていると聞いてもとくに驚きませんでしたし、だからこそ女医もふくめて多くの医者がこうした事情を「やむを得ないもの」として理解を示しているのです。ましてや、女性蔑視とか差別の問題だと考えている医者はおそらく少数派です。

私個人は、私立大学なのだからある程度のこうした合格者の調整がおこなわれてもいいと思っています。あのハーバード大学でさえも有力者や大金持ちの子弟が優先されていることは有名です。アメリカは完全な私立大学であり、日本のように私立大学にも税金が投入されているケースと同列には語れないと思いますが、それでもプライベートスクールにはそれぞれの特別な事情があっても仕方ありません。

今回の東京医科大学の問題は、文科省の補助金との引き換えでおこなわれた「不正」であり、逸脱した不透明な「不正」であったことが問題なのです。むしろ、「この金額の寄付金を支払えば何点加算」だとか、「有力者の子弟を優先させて合格させる枠は何名」だとか、「男子何名、女子何名をそれぞれ募集」いうように、合格の基準を明確に公開すればいいだけの話しだと思います。

ただし、学力以外の要素を重視して入学者を増やせば、求められる学力を満たさない学生も多くなります。そうなれば大学の質を維持することもまた難しくなるという問題も生じます。とくに医学部は入学後の学習意欲がものをいうため、学力の低下は大学の質の低下に直結します。つまり、在学中の試験や実習、あるいは、医師国家試験での落伍者を大学は覚悟しなければならないのです。

その一方で、医学部の学生の質は入学時の学力だけでは決まりません。所詮は数学や物理ができたところで優秀な医者になれるわけではないのです。これまでもブログに書いてきたように、「医者になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということと「医学部に入りたい」ということは必ずしも同列には語れません。医者になるという点においては、入学するときの学生の偏差値などはなんの関係もないのです。

今回の「裏口」に関しては「一生懸命に勉強をして医学部に入って来た学生が可哀想」という意見があります。しかし、極論をいえば、「ろくすぽ勉強もせずに医学部に合格したとしても、入学してからしっかり医学を勉強してくれればいい」のです。むしろ大学は「入試の偏差値が高い学生」よりも「入学後にしっかり学習してくれる学生」がほしいというのが正直なところかもしれません。

「親の経済力の差が不平等を生むのはけしからん」という意見も耳にします。でも、経済的に私大に行けないのであれば国立大学を選択すればいいのです。国立と私立の学費格差がときどき問題視されますが、私立にいく経済的余裕がない人のためにあるのが国立大学。その意味で、国立と私立の学費の格差を解消することはむしろ教育の平等をそこねると思います(国立大学の学費を値上げするための方便なのです)。

ある私立大学の医学部に合格すると、入学時に900万円ほどのお金がかかり、その後も毎年500万円あまりの学費がかかります。しかし、国立であればたとえ医学部であっても入学時に80万円ほどで(私のときは30万円もかかりませんでした)、その後の学費は50万円あまりと私立の十分の一です。お金がないなら国立へ。経済的に余裕があるなら私大へ。平等ってことはそういうことだと思います。

2020年度から大学入試制度が大きくかわります。「学力だけでなく、人間性や適性を考慮した入試」にするのだそうです。しかし、人間性や適性を誰が評価するのでしょう。どのように評価するのでしょう。そう考えると、公平かつ客観的に評価できないもので選別されるなんて私はごめんです。入試は学力試験の点数で選抜すべきです。そうでなければ国立でも今回のような「不正入試」の温床になります。

憧れる大学だからこそ挑戦しようと思うのです。そして、努力に努力を重ねてようやく入学できた学校だからこそ愛校心をもてるのでしょう。たとえその努力が合格という形で実を結ばなくとも、「実力が足らなかった」と納得できることが大切。にも関われず、「人間性や適性」などというあいまいでくだらない評価基準に満たなかったからという理由で合格できなかった場合、受験生は納得できるでしょうか。

文部行政はどうかしています。「ゆとり教育」で日本の教育をめちゃくちゃにして、今度は国語教育をおろそかにしておきながら英語やプログラミング的教育を小学校に導入、だそうです。ガールズバー通いを叱責された事務次官にいたっては「面従腹背」がモットーなんだそうで、天下りあっせんの責任を取らされて辞めさせられたのを逆恨みして倒閣運動、なのですから。子どもたちに道徳を教える以前の問題です。

一方で、マスコミは事実を淡々と報じるべきです。また、事実を深く掘り下げて報道するべきです。なのに、報道ときたら世の中を煽るだけの薄っぺらなものばかり。今回の「裏口入学」や「合格者調整」に関しても、どこが、どう問題なのかさっぱりわかりません。マスコミに煽られ、感情的になって「けしからん」と断罪するのではなく、社会現象の「ウラ」に隠れている本質を見ようとする目を持ちたいものです。

熱中症になった

先日、私は熱中症になってしまいました。実は、熱中症になったのはこれで二度目で、この二回の経験を通じて感じたことがあったのでご報告します。

はじめて熱中症になったのは今から5年ほど前のこと。夏休みを利用して家族で日光に旅行した時のことでした。本当に久しぶりの日光でしたから、東照宮の奥宮にある徳川家康のお墓にお参りにいこうということになりました。その場所までは長い山道をしばらく歩き続けなければなりませんでした。当時、長男はまだ小学生でしたし、次男も小学校にあがるかあがらないかのころ。次男はいかにも体力がなさそうにガリガリやせていて、家康の墓まではとても耐えられなさそうに見えました。

子どもたちがその途中で「帰りたい」などと言い出すと厄介だと思ったこともあり、次男を私がおぶっていくことに。まだまだ軽かった体重を背中に感じながら黙々と階段と坂道を登り続けました。はじめはそれほど暑いとも感じませんでしたが、軽かった次男の体重がずっしりと感じるようになるころには私の額や脇の下からは汗がにじみ始めました。「いい運動だ」とたかをくくっていたのもつかの間、やがて私の全身から汗が噴き出す頃になるととても子供を背負ってはいられなくなりました。

途中で次男を下して歩かせるようになると、身軽になった勢いでついペースをあげてしまいました。汗は相変わらず噴き出すようにながれでています。しかし、息はそれなりに荒かったものの、さほどきつくは感じませんでした。ところが、あと十数段の階段を登れば目的地というところで急に全身が思ったように動かなくなりました。しかも、生あくびと共になんとも言えない嫌な感覚(軽い嘔気というか、倦怠感というか、脱力感といった感じ)に襲われました。

私はたまたま目の前にあった岩でできたベンチに倒れ掛かるように横になりました。直感的に熱中症だと思い、水分補給もせずに黙々と登って来たことを後悔しました。「冷たい飲み物がほしい」と思いましたが、そんな私を置いて家内や子供たちは先に行ってしまいました。助けてくれる人は誰もいません。幸い意識は保たれていましたから重症ではないことはわかりました。こうした苦しい状況はたった数分だったでしょうが、私にはものすごく長く感じたのでした。

顔をしかめながら息を荒げていた私も、家内たちが家康の墓にお参りにいって戻ってくる頃にはなんとか動くことができるようになっていました。「だいじょうぶ~?」と笑いながらのぞきこむ家内たちに私は笑顔でうなづくのがやっと。それでも濡らしたタオルをわたされて額や首のまわりをぬぐうと少し起き上がれるようになりました。「無理してマサをおんぶなんかするからだよ」と家内は笑っていますが、この尋常ではない熱中症の辛さは経験したことのない人間にはわからないだろうな、と思いました。

そして、先日、二回目の熱中症になりました。その日は年に一度の人間ドックの日。前日の夕食時から、食べものはもちろん水分でさえもほとんどとらずにいました。検査当日の朝、コップ一杯の水は飲みほしたものの、すぐに検査にでかけてしましました。ひととおりの検査をして、最後に胃の内視鏡検査が終わったとき、少しのどの乾きを感じていました。でも、のどの麻酔がまだ効いていたせいもあって水分をとらないままに検診センターをあとにしたのでした。

健診センターを出て最寄りの駅につくころにはもううだるような暑さ。それでも健診が終わった開放感もあったからか、水分補給をしなければという発想はまったくありませんでした。しかも、それまでのダイエットの成果もあって、健診で測定した体重はこれまでで一番低い値になっていました。私は「いい運動だ」とばかりに自宅まで徒歩で帰ろうとしました。それが悪かったようです。暑い、暑い、アスファルトの上をテクテクと歩いて25分。その角を曲がればすぐに自宅というところで体に変調が生じました。

額といわず、脇の下といわず、全身の毛穴から汗が噴き出してきたのです。と同時に、5年前の日光で感じたあの嫌な感覚と息苦しさが私を襲いました。私はとっさに「熱中症だ」と思いました。しかし、あと10mで自宅の玄関というところで全身の力が急速に抜けていくのを感じました。明らかに日光のときよりも重症です。私は「家の中に入ればエアコンの涼しい風が待っているんだ」「冷たいコーラを飲み干すぞ」と自分を励ましながらなんとか自宅にたどり着きました。

私は部屋に入るなり、倒れるようにしてエアコンの風の当たる場所に横になりました。家内がびっくりして私の顔をのぞき込んでいます。私はかすれる声で「冷たいポカリスエットを2杯ちょうだい」といいました。そして、家内から冷たいポカリスエットの入ったコップを受け取ると一気に飲み干しました。そして、エアコンの冷たい風で体を一気に冷やさぬよう、家内に靴下とズボンだけを脱がしてほしいと頼みました。寝ていた床は汗でびっしょり。そうこうしているうちにポカリスエットが効いてきました。

日光のときもそうですが、汗がひいてくるにつれてだいぶ楽になっていきました。冷たい風で直接皮膚を増やしてはいけないことを知っていたので、上半身は肌に直接ではなく、服の上から冷風をかけていました。少し体を動かせるようになったのでシャワーをあびることにしました。体全体がとても重く感じました。筋肉の痛みやこむら返りはありませんが、熱けいれんのせいでそう感じるのだと思いました。そして、いつもよりも少しぬるい程度の暖かい温度にしたシャワーを全身にかけながら体を少しづつ冷やしました。

シャワーから出るころにはほとんどいつもの体調に戻りました。そして、これまでを冷静に振り返ることができるようになっていました。これは明らかに水分や塩分の補給を怠ったまま暑い道のりを歩いて帰って来たためにおこった熱中症です。それにしても、熱中症がこれほど急に重症化するとは思ってもいませんでした。道すがら、私にはなにかキツさを我慢して歩いてきたという感覚がまったくないのです。体調が変だなと思った途端、急に事態が悪化していったのです。これは私にとってとても貴重な経験でした。

これまで私は、「熱中症によって畑で死亡」というニュースを聴きながら、「なんでそんなになるまで我慢するのだろう」と思っていました。しかし、今回の自分自身の経験から考えると、熱中症で死亡した人たちの多くも「我慢していた」という意識はなかったのではないかと思うのです。「ちょっと変だな」と思っているうちに急速に状態が悪くなり、炎天下で体が動かなくなって倒れこんでしまったのではないでしょうか。今回の私の経験は熱中症で重症化した人たちにも共通していたのではないかと思います。

私の父も、以前、炎天下に家族の忠告も聞かずにジョギングに行き、道で倒れて病院に救急搬送されました。きっと私と同じように突然力尽きたのでしょう。こうしたことを是非皆さんにも知っていただきたく、今回、ブログに記事にしてみました。

要点をまとめますと・・・、

●熱中症は「水分」と「塩分」の不足よっておこる「体温調節障害」である
●発汗が多くなるような環境、あるいは体温が上昇する環境に長時間さらされると生じる
●熱中症は突然症状が悪化する(決して我慢しているうちに悪くなるわけではない)
●「熱中症かな?」と思ったら直ちに「冷たい水分を飲む。塩分も適宜とる」
●万が一、変調を感じたら、ただちに涼しいところ(かつ湿度の低いところ)に避難する
●冷たい風や冷たい水を直接皮膚に吹き付けない(かえって体の深部に熱がこもるから)
●意識がないとき、はっきりしないときはすぐに救急車を呼ぶ
●湿度の高い環境においては扇風機では必ずしも体温はさがらず、熱中症を予防できない

熱中症の危険性が高い季節です。「冷房は嫌い」だとか「冷房はもったいない」なんて言っている場合ではありません。寒く感じることと体温が上昇しないということは必ずしも同じことではないのです。少なくともエアコンの除湿を利用して室内の湿度を下げること。できれば冷房を併用して室温をさげるように心がけてください。熱中症は決して「我慢しているうちに徐々に重症化する病態」ではないのです。ましてや暑い環境の中で我慢をしても体は鍛えることはできないことを知ってください。

気楽に行こうぜ

この記事は2016年11月20日に投稿されたものですが、最近、この記事にスパムメールが多数送られてくるようになったため、改めて投稿しなおします。なお、元原稿のタイトルは英語でしたが、今度はこの英語のタイトルを頼りにメールを送ってくるようになったので日本語にしました。

********* 以下、本文

このブログを読んでくださっている方はすでにおわかりだと思いますが、私はおさないころから少し変わった子どもでした。テレビっ子だったとはいえ、子供番組よりも大人が見るようなドラマが好きでしたし、子ども同士でわーわー遊ぶよりも一人で遊ぶことを好む子供らしくない子どもでした。今でもはっきりおぼえているのは、私が小学校に上がる前のこと。なにげなく見ていた新聞の大見出しの文字をまねて字を書いてみた私はなにか新聞の見出しと違うことに気が付きました。「なにが違うんだろう」。そう思った私は自分の書いた文字列と新聞の大見出しを何度も比べてみました。そしてついに気が付いたのです。私が書いていた文字列は漢字だけだったということに。当時は漢字もひらがなも同じ文字に見えていたのかもしれません。そこで今度は漢字とひらがなを適当に混ぜて書いてみました。すると今度は新聞の大見出しのように見えてきてすっきり。そんなことをひとりでやっているのが好きな子どもでした。

ですから、友達と遊ぶこともそれほど楽しいとも思いませんでした。たまに私の家に友達が遊びに来ても、友達は友達だけで遊び、私は自分の興味のある遊びをしているということがしばしばありました。親戚の家に行って「みんなでトランプをやろう」と誘われても、興味がないものには「僕はやらない」といって見物するだけということもあったり。親には「みんながやるときは一緒にやらなければだめじゃないか」といわれましたが、やりたくもないことをなぜやらなければならないのか、子どもながらにその理由がわからず納得できませんでした。今思うと、人から「こうしなければならない。こうするのが当然だ」と他人の価値観を押し付けられるのが嫌だったんだと思います。そんな風でしたから、親からは私はいつも「かわり者だ」と言われていました。きっと親戚の人達にも同じように思われていたでしょうね。でも、私の心の中では子どもながらの価値観と言うものがあって、それを否定されたくないと考えていたんだと思います。

そんな私の偏屈なところがふたりの子供達にも引き継がれていて、頑なな性格とわが道を行く姿にはちょっと複雑な思いがします。私がこれまで歩んできた半世紀を振り返ると、子供達が私から引き継いでいるものは決していい面ばかりではないからです。確かに、自分の信念や価値観に忠実だというのも悪くはありませんが、それはときとして他人との価値観の軋轢(あつれき)を生みます。他の価値観とぶつかったとき、調整が必要となる場面でトラブルのもとになるのです。その結果、自分に不利益が生じることだってあります。私自身、これまでそうした場面に何度も遭遇しました。そのときには深く考えませんでしたし、損得勘定で自分の価値観をねじまげるなんてことは考えられませんでしたから。でも、齢(よわい)五十路を超えて、これまでの人生を振り返る年齢に差し掛かると、はたしてそれでよかったのかとときに思ったりします。そして、自分の性格を引き継いでしまった子供達には同じ苦い経験をさせてはいけないと思うのです。その意味で、職場での経験はとても教訓に満ちています。

ある病院に勤務していたときのことです。私は主治医とトラブルとなったある患者を引き継ぐことになりました。そのトラブルに関しては私も詳細を知っていたのですが、このケースはどう考えても主治医に非があることを私は確信していました。しかし、病院は主治医の側に立ってこのトラブルを解決しようとしている。私はそれにどうしても納得できませんでした。上司に呼ばれて意見を求められた私は率直に言いました。これはどう考えても主治医の対応に問題がある、と。すると上司は「君はいったい誰の側にたってものを言っているんだ」と顔を真っ赤にして私を叱責しました。意外だったその言葉をきいて、私は「どちらかの立場に立って発言しているわけではありません。客観的に見て彼に問題があると言っているんです」。私はそう反論しましたが、私の意見はまったく受け入れてもらえませんでした。結局、私はこの一件があって病院を退職することになりました。先輩の医師に「おまえの言うことは正論だよ。でも、言っても変わらないことを言うのは言うだけストレス。辞めるしかないよ」との忠告を受け、それに納得してのことでした。

でも、他の職場に移っても、結局は同じなのです。上司との価値観の対立はもちろん、職場の価値観が合わないっていう場合もあります。要するに、組織とはそういうものなんだと思います。社会に、あるいは組織に身を置くということは、自分の価値観をそうした組織のそれに調整するということなんでしょうね。当時の私はそれを十分に認識することもできませんでしたし、その意志もなかったため、結果的に自分がめざしていた方向性が少しづつ変わってしまいました。大学に残っていろいろやりたかったことがあったにも関わらず、図らずも地元に戻って開業医をすることになったのです。あのときもっと柔軟にできれば、また別の人生を歩んでいたかもしれません。そう思うと、私の性格を引き継いでしまった子供達が私と同じ轍(てつ)を踏まないように…と思ってしまいます。子供が成長して私の話しがわかる年齢となり、かつての私と同じような失敗を子供が繰り返しそうになれば、ことあるごとに自分の性格がどういう結果をもたらしたのか。その結果がどう今につながっているのか。私なりに話しをするようにしていますがなかなか素直に受け入れてもらえませんね。

結局は子供は子供の人生を歩むことになるんでしょう。自分の子どもの頃を振り返ってみても、親の経験談など素直に耳を傾けようなんて気持ちはありませんでしたから。でも、それでいいんだと思います。人間の人生はその人のものであり、その人生の価値など他人が評価するもんじゃないんですから。人がうらやむような人生を送ったとしても本人には満たされなかったこともあるでしょうし、他人にとってはちっぽけでも人知れず幸せな人生をまっとうできた人だってたくさんいるのです。人間の一生なんてそんなもんです。自己満足できればそれでいいんだと思います。だから、私は子供たちには他人の価値観に振り回されることなく、自分の信じる道を歩んでほしいと思っています。私の後継ぎとして医師になってほしいとは思いませんし、一流大学を出て一流企業に入ることが目的になってほしくありません。こうしたことは長い人生においては単なる手段にすぎないのですから。目的はもっと別なところにあるんだと思うんです。自分の力で生き抜くことができ、自己実現できるような人生が理想なんです。

家庭を犠牲にして会社のために突っ走る人もいなければならない。名誉や富を求めて世の中を引っ張っていく人もいなければならない。世のため人のために無私の心で社会に奉仕し、活動する人もいなければならない。そのすべての人の総体が社会なんだと思います。あくまでもその社会の中でひとりひとりが自己実現をしていくことが大切なのでしょうし、私の子供達にもそうしたことに意識的になってほしいのです。勝海舟が咸臨丸でアメリカに渡ったときに感心したことのひとつが、アメリカ人は歴史的な人物の子孫がその後どうしているかにまるで関心がないということでした。日本に戻り、将軍に訪米の感想を尋ねられたとき、このことを話したそうです。そして、「アメリカで偉くなった人はそれ相応に優秀だというところは日本と大きく違うところ」と付け加えることも忘れなかったらしいです。勝のこうしたところが私は好きなのですが、それはともかくいろいろな価値観を認め、個人主義・自由主義を守るために国民が一致団結するところがアメリカのいいところなんだと思います。「和して同せず」って奴ですね。

これまでの自分の人生を振り返ると、運命的な人との出会いがあったからこそ今があると思います。機会があればそのあたりのことも書きますが、こうした人から問いかけられたことが今につながっていると感じます。生きるってことはそういうことなのかも。つまり、自分自身に突き付けられた人生の転換期に、いかに冷静に答えを見出すか。そのために、いかにして運命的な出会いに気が付くか、ということ。人間は悩めば悩むほどものごとを深く考えることができます。ものごとを深く考えればその意味になんとなく気が付きます。その積み重ねが生きることなのでしょう。なにが幸せで、なにが不幸かではなく、なにに価値があり、なにに価値がないということでもない。いいことも悪いことも、心地よいことも不快なことも、全部をひっくるめてその意味に気が付くこと。それが深く生きることなんだと思います。そして、神の定めた寿命が尽きるとき、自己実現できたかどうかに結論がでればそれでいい。たくさんの生老病死を身近に見てくると、「人生は気楽にいこうぜ」だってつくづく思います。

思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い(2)

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******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じていたがなにかが違うと思いながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、じっと私の話しを聞いていた助教授がその教授の言葉を遮るように言いました。「君の意志は固いの?」。「はい」、きっぱりうなづく私。「だったら再受験すべきだと思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくよ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその助教授の言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ励みになったことか。この先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。