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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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気楽に行こうぜ

この記事は2016年11月20日に投稿されたものですが、最近、この記事にスパムメールが多数送られてくるようになったため、改めて投稿しなおします。なお、元原稿のタイトルは英語でしたが、今度はこの英語のタイトルを頼りにメールを送ってくるようになったので日本語にしました。

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このブログを読んでくださっている方はすでにおわかりだと思いますが、私はおさないころから少し変わった子どもでした。テレビっ子だったとはいえ、子供番組よりも大人が見るようなドラマが好きでしたし、子ども同士でわーわー遊ぶよりも一人で遊ぶことを好む子供らしくない子どもでした。今でもはっきりおぼえているのは、私が小学校に上がる前のこと。なにげなく見ていた新聞の大見出しの文字をまねて字を書いてみた私はなにか新聞の見出しと違うことに気が付きました。「なにが違うんだろう」。そう思った私は自分の書いた文字列と新聞の大見出しを何度も比べてみました。そしてついに気が付いたのです。私が書いていた文字列は漢字だけだったということに。当時は漢字もひらがなも同じ文字に見えていたのかもしれません。そこで今度は漢字とひらがなを適当に混ぜて書いてみました。すると今度は新聞の大見出しのように見えてきてすっきり。そんなことをひとりでやっているのが好きな子どもでした。

ですから、友達と遊ぶこともそれほど楽しいとも思いませんでした。たまに私の家に友達が遊びに来ても、友達は友達だけで遊び、私は自分の興味のある遊びをしているということがしばしばありました。親戚の家に行って「みんなでトランプをやろう」と誘われても、興味がないものには「僕はやらない」といって見物するだけということもあったり。親には「みんながやるときは一緒にやらなければだめじゃないか」といわれましたが、やりたくもないことをなぜやらなければならないのか、子どもながらにその理由がわからず納得できませんでした。今思うと、人から「こうしなければならない。こうするのが当然だ」と他人の価値観を押し付けられるのが嫌だったんだと思います。そんな風でしたから、親からは私はいつも「かわり者だ」と言われていました。きっと親戚の人達にも同じように思われていたでしょうね。でも、私の心の中では子どもながらの価値観と言うものがあって、それを否定されたくないと考えていたんだと思います。

そんな私の偏屈なところがふたりの子供達にも引き継がれていて、頑なな性格とわが道を行く姿にはちょっと複雑な思いがします。私がこれまで歩んできた半世紀を振り返ると、子供達が私から引き継いでいるものは決していい面ばかりではないからです。確かに、自分の信念や価値観に忠実だというのも悪くはありませんが、それはときとして他人との価値観の軋轢(あつれき)を生みます。他の価値観とぶつかったとき、調整が必要となる場面でトラブルのもとになるのです。その結果、自分に不利益が生じることだってあります。私自身、これまでそうした場面に何度も遭遇しました。そのときには深く考えませんでしたし、損得勘定で自分の価値観をねじまげるなんてことは考えられませんでしたから。でも、齢(よわい)五十路を超えて、これまでの人生を振り返る年齢に差し掛かると、はたしてそれでよかったのかとときに思ったりします。そして、自分の性格を引き継いでしまった子供達には同じ苦い経験をさせてはいけないと思うのです。その意味で、職場での経験はとても教訓に満ちています。

ある病院に勤務していたときのことです。私は主治医とトラブルとなったある患者を引き継ぐことになりました。そのトラブルに関しては私も詳細を知っていたのですが、このケースはどう考えても主治医に非があることを私は確信していました。しかし、病院は主治医の側に立ってこのトラブルを解決しようとしている。私はそれにどうしても納得できませんでした。上司に呼ばれて意見を求められた私は率直に言いました。これはどう考えても主治医の対応に問題がある、と。すると上司は「君はいったい誰の側にたってものを言っているんだ」と顔を真っ赤にして私を叱責しました。意外だったその言葉をきいて、私は「どちらかの立場に立って発言しているわけではありません。客観的に見て彼に問題があると言っているんです」。私はそう反論しましたが、私の意見はまったく受け入れてもらえませんでした。結局、私はこの一件があって病院を退職することになりました。先輩の医師に「おまえの言うことは正論だよ。でも、言っても変わらないことを言うのは言うだけストレス。辞めるしかないよ」との忠告を受け、それに納得してのことでした。

でも、他の職場に移っても、結局は同じなのです。上司との価値観の対立はもちろん、職場の価値観が合わないっていう場合もあります。要するに、組織とはそういうものなんだと思います。社会に、あるいは組織に身を置くということは、自分の価値観をそうした組織のそれに調整するということなんでしょうね。当時の私はそれを十分に認識することもできませんでしたし、その意志もなかったため、結果的に自分がめざしていた方向性が少しづつ変わってしまいました。大学に残っていろいろやりたかったことがあったにも関わらず、図らずも地元に戻って開業医をすることになったのです。あのときもっと柔軟にできれば、また別の人生を歩んでいたかもしれません。そう思うと、私の性格を引き継いでしまった子供達が私と同じ轍(てつ)を踏まないように…と思ってしまいます。子供が成長して私の話しがわかる年齢となり、かつての私と同じような失敗を子供が繰り返しそうになれば、ことあるごとに自分の性格がどういう結果をもたらしたのか。その結果がどう今につながっているのか。私なりに話しをするようにしていますがなかなか素直に受け入れてもらえませんね。

結局は子供は子供の人生を歩むことになるんでしょう。自分の子どもの頃を振り返ってみても、親の経験談など素直に耳を傾けようなんて気持ちはありませんでしたから。でも、それでいいんだと思います。人間の人生はその人のものであり、その人生の価値など他人が評価するもんじゃないんですから。人がうらやむような人生を送ったとしても本人には満たされなかったこともあるでしょうし、他人にとってはちっぽけでも人知れず幸せな人生をまっとうできた人だってたくさんいるのです。人間の一生なんてそんなもんです。自己満足できればそれでいいんだと思います。だから、私は子供たちには他人の価値観に振り回されることなく、自分の信じる道を歩んでほしいと思っています。私の後継ぎとして医師になってほしいとは思いませんし、一流大学を出て一流企業に入ることが目的になってほしくありません。こうしたことは長い人生においては単なる手段にすぎないのですから。目的はもっと別なところにあるんだと思うんです。自分の力で生き抜くことができ、自己実現できるような人生が理想なんです。

家庭を犠牲にして会社のために突っ走る人もいなければならない。名誉や富を求めて世の中を引っ張っていく人もいなければならない。世のため人のために無私の心で社会に奉仕し、活動する人もいなければならない。そのすべての人の総体が社会なんだと思います。あくまでもその社会の中でひとりひとりが自己実現をしていくことが大切なのでしょうし、私の子供達にもそうしたことに意識的になってほしいのです。勝海舟が咸臨丸でアメリカに渡ったときに感心したことのひとつが、アメリカ人は歴史的な人物の子孫がその後どうしているかにまるで関心がないということでした。日本に戻り、将軍に訪米の感想を尋ねられたとき、このことを話したそうです。そして、「アメリカで偉くなった人はそれ相応に優秀だというところは日本と大きく違うところ」と付け加えることも忘れなかったらしいです。勝のこうしたところが私は好きなのですが、それはともかくいろいろな価値観を認め、個人主義・自由主義を守るために国民が一致団結するところがアメリカのいいところなんだと思います。「和して同せず」って奴ですね。

これまでの自分の人生を振り返ると、運命的な人との出会いがあったからこそ今があると思います。機会があればそのあたりのことも書きますが、こうした人から問いかけられたことが今につながっていると感じます。生きるってことはそういうことなのかも。つまり、自分自身に突き付けられた人生の転換期に、いかに冷静に答えを見出すか。そのために、いかにして運命的な出会いに気が付くか、ということ。人間は悩めば悩むほどものごとを深く考えることができます。ものごとを深く考えればその意味になんとなく気が付きます。その積み重ねが生きることなのでしょう。なにが幸せで、なにが不幸かではなく、なにに価値があり、なにに価値がないということでもない。いいことも悪いことも、心地よいことも不快なことも、全部をひっくるめてその意味に気が付くこと。それが深く生きることなんだと思います。そして、神の定めた寿命が尽きるとき、自己実現できたかどうかに結論がでればそれでいい。たくさんの生老病死を身近に見てくると、「人生は気楽にいこうぜ」だってつくづく思います。

思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い(2)

(注)赤字の部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます。

******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じたがなにかがなにかが違うといつも感じながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、その教授の言葉を遮るように助教授が言いました。「君の意志は固いのかい?」。「はい」、うなづく私。「それだったら再受験すべきだと私は思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくさ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ私の力になったことか。先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

神さま、お願い

久しぶりの投稿です。忙しかったこともありますが、書くに足るネタがなくなってしまったのです。もともと筆不精で、文章を書くのも苦手だってこともあります。このブログでの文章も結構苦労しながら書いているくらいですし。このブログがここまで続いたことだけでも奇跡的なのかもしれません。でも、久しぶりに書いてみようと思うものがありましたので投稿します。ちょっと変わった内容です。人によって好き嫌いがありますが読んでみて下さい((注)赤字部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます)。

******** 以下、本文

私には信仰している特定の宗教はありません。でも、心の中ではなんとなく「神さま」というものはいるのではないかと思っています。私にとっての「神さま」は、ある意味「ご先祖様」かも知れません。神社や寺院でも手をあわせますし、お地蔵さまやお稲荷さまにも手をあわせます。しかし、具体的に「神さま」という対象として手をあわせるのは私の「ご先祖様」でしょうか。具体的には私の母方の祖父の顔を思い浮かべながら手を合わせているような気がします。

たくさんの孫たちのなかで、祖父がとりわけ私を可愛がってくれていたのかどうかはわかりません。しかし、私の心の中には不思議といつも祖父がいます。今でもときどき夢にでてきます。祖父は昔、商売をしていました。私がまだ幼稚園児ぐらいのときに、オート三輪に乗せられて一緒に集金にまわったことがあります。得意先をまわりながら、私に「ほら、こんにちわは?」と挨拶を促しながら目を細めていた祖父のことを今でも思い出します。そんな優しかった祖父がいつも私の心の中にいるのです。

祖父が亡くなる数日前、私は祖父が入院している病院にお見舞いに行きました。そのときはまだそんなに急に亡くなるとは思えないほど元気だった祖父でしたが、「じゃあ帰るよ」と部屋を出ていこうとする私を祖父は呼び止めて「元気でな」とひと言。なんでこんなことを言うんだろう。そう思いながらも「また来るから」と笑って病室を後にした数日後に祖父は亡くなりました。思いがけずに祖父が亡くなってしまいましたが、その一報を受けたと聞いたとき、私はすぐにあのとき交わした言葉を思い出しました。

祖父の葬儀のとき、私は葬儀を終えたお寺から祖父の家まで参列客を車で送迎しなければなりませんでした。お寺で数名の参列客を車に乗せてまさに出発しようとしたとき、私の車を追いかけてくるお坊さんがバックミラーに映りました。その僧侶はついさっき祖父の葬儀でお経を唱えてくれた方でした。私はなんだろうと思って車を止めました。車の窓ガラスを開けるとそのお坊さんが私に言うのです。「気を付けて行くんだよ」と。「はい、わかりました」と軽く会釈をして私はふたたび車を発進させました。

田んぼの中の見晴らしのいい道路を走って、正面のT字路を左折しようとスピードを落としました。左右を確認して左にハンドルを切った瞬間、突然赤い車が目の前に現れました。「あっ!」と言う間もなく、私の車は相手の車の側面に衝突。なにが起こったのかわかりませんでした。幸い怪我人はひとりもおらず、車の損傷も思ったほどではありませんでした。私も相手もはじめは混乱していましたが、二人とも落ち着くとお互いに謝り合っていました。相手がとても優しい人だったので助かりました。

私は思いました。あのとき、お坊さんがわざわざ私を追いかけてきて言った「気を付けて行きなさい」の言葉。あれは祖父が言わせたのではないか、と。実はその僧侶は私の母とは幼稚園での幼馴染でもありました。そして、祖父とは一緒に旅行に行くほど懇意にしていただいていた人でした。祖父が入院する数日前にも、近くを散歩したからと祖父の家に立ち寄ってくれたほど。このことを後日このお坊さんにお話ししたら、「なんとなく声をかけた方がいいと思ったから」と笑みを浮かべながらおっしゃいました。

ときどき自分の半生を振り返ると、まさに「神がかり」あるいは「神さまのお導き」、ひょっとすると「神さまに守られていた」と思えるようなことがいくつもあったことに気がつきます。神さまへの願い事がかなったということはもちろん、決して自分の力や努力だけではどうにもならないことがなんとかなった。あるいは誰かのひと言が私の人生を大きく変えた、なんてことが何度もありました。これらはまさに「神さま」のなせる業だったのではないかと思えるほどです。

息子が第一志望の高校に不合格になって落胆しているとき、「神さまに願いを聴いてもらえなかったなぁ」と彼がつぶやくのを私は耳にしました。でも、私は言いました。「それは違うと思うよ。神さまは単に願いを聴いてくれるとか、聴いてくれないとか、そんなちっぽけなことを考えているわけじゃないんだよ」と。実は、息子ばかりではなく、私も家内も息子の第一志望の高校の合格発表を前にして、神社に願掛けにいったり、先祖の墓参りに行って合格をお願いしたりしていました。ところが結果は不合格。

息子にとってはその渾身の願掛けがかなわなかったことが恨めしかったのでしょう。でも私は息子を諭したのです。「神さまを恨むのではなくて、自分自身のこれまでの至らなさはどこだったのかを振り返るべきだ」ってことを。事実、反省すべき点はたくさんありましたから。「神さまを恨むべきじゃない」という思い。それは私の本当の気持ちであり、私自身の経験から日頃から思っていることでもあります。それはこれまで私がたどってきた人生をプレイバックするとよくわかります。

私が進学した高校には自由な校風がありました。でも、自分にはその校風がまったくなじめませんでした。入学早々「なんでこんな高校に来てしまったのだろう」といつもいつも後悔ばかりしていました。そして、小学校のときのような無気力な生徒に逆戻り。結局のところ、高校2年まではほとんど無気力で無為な学校生活を送ってしまいました。しかも、入学当初から第一外国語にドイツ語を選んでしまった私は、高校3年になってドイツ語ではなく英語で大学受験することを決心。まったく無謀な決断でした。

その結果、周りの同級生たちが医学部に合格していく中、私は当然の結果として浪人することになりました。翌年、なんとか理工系の大学に合格しました。あのような高校生生活を送っていたので、当然のことながら医学部には遠く及ばなかったのです。そのときの私は傲慢にも「なんであんな(医者に向かない)奴らが医学部に受かって自分は合格できないんだ。いい医者になる自信は誰にも負けないのに」と神さまを恨みました。自分のふがいなさと無謀さを棚に上げて「神さまのせい」にしていたのです。

ところが、その後、いろいろなことがあって、あるいはいろいろな人との出会いがあって、大学を卒業後にふたたび医学部を受験することに。そして、今があるのです。そうしたひとつひとつを振り返って思うのは、「神さまは願い事をかなえるか否かといったちっぽけなことを考えているのではない。この結果をふまえてその人がどう行動するのかを神さまは見守っているのだ」ということ。息子にも「願いがかなっても、かなわなくても、その後のおこないによって道はかわっていくんだよ」と言いました。

幸福の種類は人間の数だけあります。人があわれむような人生であっても、その人には幸せだったという場合だってあります。幸福な人生は、どこかにあって手に入れられるものではなく、ひとつひとつの積み重ねそものの総体を幸福な人生というんだと思っています。だから、有名大学に受かることそれ自体が幸福なのではなく、また、希望する仕事に就けなかったことが不幸なのではない。素敵なつれあいに恵まれたことそれ自体が幸福なのではなく、大病をしてしまったことが必ずしも不幸ではないということです。

どんな人にも守ってくれている神さまがいるんだと思います。そして、なんらかの出来事を通して、あるいは他人の言葉を通して語り掛けているのです。「こうした方がいいよ」と。視線を未来に向け、過去にとどまらないこと。こうした神さまの言葉に耳を傾けられるかどうか。今の息子に重ねて言えば、第一志望の高校の一次試験に合格したことにも意味があり、また、最終的に不合格になったことにも意味がある。そして、今の高校に通っていることにだって。きっとそのことを今の息子は実感していると思います。

人は「困ったときの神頼み」になりがちです。しかし、それでもいいのです。神さまはそんなささいなことをどうとも思っていないと思います。特定の「神さま」を信仰しているかどうかも無関係です。毎日手を合わせても、ときどきしか手を合わせなくても、「神さま」の存在を心のどこかにとどめながら、その声に耳を傾けようとすることが大切なのです。「神さま」がご先祖様であれ、なんであれ、「神さま、お願い」とは、神さまの言葉に耳を傾けることに他ならない。神さまは常に皆さんのそばにいるのです。

アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。