学ぶ姿勢

医学部を卒業して初期研修の2年間が終わっても、まだ医者になったという自信は生まれません。だって「研修医に毛がはえた程度」なんですから。なにをやっても研修医の時とそれほど変わってはいません。せいぜい採血をするときの度胸が多少ついた程度でしょうか。研修医時代、指導医から「おまえは医者になったんだ。だから看護婦さんにできることはすべてできなければいけない」と言われたことがあります。点滴を作ることも、そして、その点滴にルートをつなぐことも、あるいは刺した点滴針を固定することも、日常の業務で看護婦さんがしていることすべてをできるようにしろ、ということです。

言われた当初、それにどんな意味があるのか具体的にはわかりませんでした。しかし、通常、医師は点滴の内容を指示し、点滴針を刺すことしかしません。点滴針を刺す際も、介助の看護婦さんとペアでなければルートのつながった点滴を完成させることはできないのです。でも私は、細かい作業の手順を看護婦さんに教わり、その上で自分なりの工夫をすることで点滴をひとりでできるようにしました。しかも、自分でオーダーした点滴のメニューを混合し、ルートをつなぐことまで、です。私は単に指導医が言ったとおりのことをしたまでですが、そのことの意味が後にわかってきました。

病棟は忙しいです。医者も忙しいのですが、看護婦さんはもっと忙しい。いろいろな場所からナースコールがなるからです。そのたびに通常業務が中断します。そこにもってきて患者が急変したりすると、それはもうからだがいくつあっても足らないという状況になります。急に点滴が必要になったにも関わらず、なかなか看護婦さんがつかまらず、ナースステーションでただウロウロする研修医をよく目にします。しかし、私は違いました。自分で処置台の上に点滴や薬剤、ルートを並べててきぱきと点滴を作り、包交車をひとりガラガラとひっぱっていってささっと患者に点滴をしてしまう。そして、ナースステーションには「実行者 セバタ」と書かれた指示伝票だけが置かれている。「く~っ、かっこいい~」ってなもんです。

でも、医療安全管理の点からいうとあまりいただけないんでしょうね。だって、使用される薬剤と投薬量の確認が実質的になされませんし、医療行為がなされている状況を第三者によって確認していませんから。なにせ「医療安全管理」なんて言葉はほとんど出てこない時代でしたから。経験の浅い研修医だった私はとにかく指導医が言う通りに「なんでもできるスーパー研修医になろう」と思っていました。思い上がりですけど。先輩医師の経験談を聴いては「臨床上のコツ」みたいなものを片っ端からメモ帳に書いて覚えていました。経験の不足をこうして補おうとしていたのです。今では「経験より根拠」って時代になってしまいましたけど。医療安全だとか、根拠だとか、いい世の中になったのか、世知辛い世の中になったのか、私にはわかりませんが。

そんな中、別の科のある指導医のことは今でも忘れません。実は、その指導医と私ははじめからそりがあわず、彼が言うことなすことすべてに棘(とげ)があるように私には感じられました。彼は感情の起伏がはげしく、機嫌の悪い時などはどのように接すればいいのか戸惑うばかりでした。私たち研修医は、早朝、病棟にやってきて患者の採血をしてまわります。本来、夜勤の看護婦さんがやるのですが、採血の練習もかねて私たち研修医がはやらせてもらっていました。そして、担当患者を診察してまわり、病棟に届いた採血結果を確認して検査方針を修正したり、治療方針を決めたりします。一方、指導医は午前中の外来に行く前に病棟に寄って研修医から患者の報告を受け、どのような検査をするのか、あるいはどのような治療をするのかを研修医に指示します。とある朝のあわただしい風景のワンシーンです。

研修医(私):「というわけでどうしましょうか?」
指導医:「どうすればいいと思う?」
私:「え~と、抗生剤を投与して・・・」
指:「ほう。なにを出すのよ」
私:「なにがいいんでしょうか?」
指:「ええっ?なにがいいって、あなたが主治医でしょ」
私:「はあ・・・」
指:「・・・(なんか微妙な沈黙)」
私:「なにを出すのかっていわれても・・・(そんなのわかるわけねぇだろ)」
指:「好きなの出しなよ、好きなの」
私:「はぁ?はぁ・・・(それでいいのかなぁ)」

経験も、実際的な知識も不足している私は言われるがままに「好きな抗生物質」を患者に投与するべく指示伝票に記入しました。「好きな抗生物質」と言いながら実際には「知っている抗生剤」だったんですけど。しかし、そんな抗生剤を伝票に書いたことも忘れて仕事をしていた私は、突然、指導医の怒鳴り声で呼び出されました。「せばたっ、ちょっと来いっ!」。なんのことだろうと指導医のところにいくと、彼はさっきの点滴の指示伝票を片手に鬼のような表情で立っていました。「おまえよ~、なんでこんな抗生剤を出してんだよ、バカっ」。なんのことだろうと思えば、例の「好きな抗生剤」のことでした。

私:「いや、先ほど先生は『好きな抗生剤を』と言われたので・・・」
指:「おまえなぁ、あの患者にこんな抗生剤出したら腎臓ダメになっちゃうでしょ」
私:「はぁ・・・(「好きなやつ」って言ったじゃないか)」
指:「腎臓の悪いあの患者に投与すべき抗生剤かどうか調べたか?」
私:「いえ、調べてませんでした」

私は「それなら『好きな抗生剤』なんて言うなよ」と怒り心頭で輸液の本や薬の本をめくっていました。「腎機能の低下と抗生剤」について調べたのです。そして、腎機能が落ちている患者にふさわしい種類と量に修正して点滴伝票を書き直しました。指導医は「好きな抗生物質で」と言っておきながら、他方で私の伝票を密かに確認していたのです。適切な抗生剤を出していたかどうかを確認するために。きっと何かの意図があってあんなことを言ったんでしょうね。当時はそんなことを考えてもみなかったので、なんでこんな意地の悪い指示の出し方をするんだろう、「性格の悪い奴だ」ぐらいにしか思っていませんでした。一事が万事こんな調子でしたから、研修中はまさに「胃に穴があくか」と思うほどにストレスフルでした。消化器内科の先生に頼んで胃カメラをやってもらったことも。

病棟の医師控室で患者のカルテを書いていたときのこと。日常業務をようやく終え、すでに遅い時間になって今日一日の記録をまとめてカルテに記載をしていました。そこへあの指導医がやってきました。そして、おもむろに患者のCT写真を撮り出して、ひとりで黙々といろいろな場所を見比べていました。私は素知らぬ顔でカルテ記載を続けていたのですが、指導医はふと私の方を見て言いました。

指:「せばた、このリンパ腺は何番だと思う?」
私:「はい?え~と(わ、わからん。リンパ腺の番号なんて知らないよ)」
指:「何番よ。好きな番号言ってみな」
私:「ええっ?(また「好きな番号」かよ)」
指:「知らないものをいくら考えたって仕方ないんだから」
私:「じゃあ、6番でしょうか」

すると、それを聞いた指導医は「フフっ」っと鼻で笑って医師控室から出ていきました。私はもう頭にきてしまって、「くっそ~っ!」と怒り心頭で画像診断の教科書をめくりました。

そうなんです。指導医は負けず嫌いの私の性格を知ってか知らずか、結果として彼のあのような態度が私に自発的な学習を促していたんです。それに気が付いたのは2年間の研修がもう終わろうとしたときでした。こんな指導方法にはよしあしもあるでしょうし、好き嫌いもあるでしょうが、私はあの指導医のおかげで自分で調べることの大切さを知りました。なにより、ひとつひとつ確認することの重要性を知りました。人の命に関わることですから当たり前なことですが、ともすると研修医は受け身で指示待ちに陥りやすいもの。研修を実りの多いものにするためには能動的に動かなければならないんだということをあの指導医は教えてくれたのです。

もちろん、彼がそれを意図的にやったかどうかはわかりません。彼の中では「熱心にやっている研修医の鼻っ柱を折ってやろう」と思っていたに過ぎないかもしれません。しかし、私にとってそんなことはどちらでもいいのです。今でもあのときの経験がいかに貴重だったかを思い出します。だからといって私は彼のようにはなれませんでした。後輩たちのお世話係(これをオーベンといいます)になった私は自分を悪者にしてまで指導はできなかったのです。それだけにあのときの指導医のやり方はとても印象的です。昔ながらの教育って奴なんでしょうね。

労働基準法が守られている今の研修医。夕方5時には仕事終了で、残業は指導医がやるなんて病院のうわさも聞きます。恵まれているようで、実は大切なものが教育されていないような気がします。早朝から深夜まで、文字通り労働基準法もへったくれもない研修でした。それでも「今の自分のスタンスは、あの研修医時代に培われた」と胸を張れます。ですから、私自身はまた研修医をするなら、いろいろな面で恵まれた今の研修よりも、毎日胃に穴があくほどの思いをしたあの時の頃をまた選びたいです。絶対。とはいえ、この「昔はよかった」というノスタルジーは今の若い人たちに一番嫌われるんでしょうけど。それでも「昔の研修医」の多くは私の意見に賛同してくれるのではないでしょうか。「今の研修医にも是非経験させたい」って。「余計なお世話」って声が聴こえてきそうですが・・・。

 

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。

医者になる

よく、「なぜ医者になったのですのですか?」と聞かれることがあります。直接的には小学校に入学するときに親戚の人からお祝いにもらった「野口英世」の伝記がきっかけです。当時はまだ字も満足に読めませんでしたから、「伝記を読んだ」というよりも「本の挿絵を見た」というべきかもしれません。貧しさの中で重いやけどを負うという恵まれない境遇から世界的な医学者にまで登りつめた偉人伝は小学生の私に強烈な印象をあたえたのでしょう。

ここまではよくある話しです。でも、私の場合、ここからが他の人とは違います。「野口英世」が「医者になりたい」と思うきっかけになったとはいえ、それから猛勉強をして医者になったというわけではないからです。小学校のころは無気力な子供でした。なんとなく学校には通っていましたが、授業では先生の話しもろくすぽ聞いていませんでしたし、板書をノートすることもない。おまけに与えられた宿題すらやろうとしないような、勉強にはまるで縁のない子供だったのです。

世間では「ろくに勉強もしなかったのにテストの成績はよかった」なんて自慢話しもよく耳にしますが、現実はそんなに甘くはありません。勉強もせず、宿題すらやってこないのにテストの点数がいいはずがありません。いつも低空飛行の結果を家に持って帰ることはさすがの私も気が重いことでしたが、さりとて点数の悪さに奮起するなんてこともありませんでした。両親も「しょうがないねぇ」とあきれた表情でテスト用紙を見ていましたが、怒るでもなく、励ますでもなく、なかば諦めていたのかも知れません。

今でも覚えているのは、小学校の卒業式のこと。同級生に超有名私立中学(K成中学というところ)に合格した子がいました。彼が卒業式の当日に何をしていたと思いますか?なんと中学で使う数学の教科書を予習していたのです。彼が熱心に勉強している教科書をのぞいて私は驚きました。だって「ゼロより小さな数」があったからです。マイナスの概念がほとんどなかった当時の私にとって、そんな数を勉強している彼は雲の上の人。さすがK成中学は違うなぁと子供ながらに感心したものです。

劣等生とまではいかなかったにしろ、いつも低空飛行していた私がその後医学部に入学し、今こうして医者をしているのは不思議な気がします。私以上に当時の私を知っている人はびっくりしているのではないでしょうか(私の親でさえもそうですから)。医学部時代の私の同級生たちは皆小学校のころから常に優等生で、私のような小学校時代を過ごした人はまずいないと思います。彼らのほとんどは名門高校のトップクラスの生徒たちですし、私にとっては多少なりとも別世界の人たちなのでしょう。

ただ、医学部に入ってきた連中が全員「医者になりたくて、あるいは医学を学びたくて入学してきた」とは限りません。「成績がよかったので医学部を受験した」と思われる人が少なからずいます。世の中の風潮として「テストの成績がいい」と「医学部をめざす」という傾向にあります。「テストの成績がいい」ということは必ずしも「地あたまがいい(天才的頭脳を持っている)」ということではありませんが、逆に「地あたまがいい人」はおおむね「テストの成績がいい」という傾向はあります。

いつだったか、数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとってきた東大や京大の医学生がテレビ番組で数学や物理の難問に挑戦していました。そうした様子を見て、私はせっかくの頭脳を持ちながらなんで医学部などに入ってしまったんだろうと思ってしまいます。医学部であれば中の上以上の学力があれば十分。彼らがそのまま数学や理論物理学などの科学の道を進んでくれれば日本にとってどれだけ科学レベルを引き上げることになったことか。せっかくの頭脳を無駄にしてしまうようなもの。もったいないことです。

一方、最近、文部科学省の方針で「学力重視だった大学入試を人物本位」にする方針が発表されました。これは日本の科学の根幹をゆるがすいち大事です。人物を評価しても学問にふさわしいかどうかがを測れるわけではないのですから。そもそも人物をどう評価するのでしょう。よく、「医者は人間を相手にする仕事。だから医学部の入試こそ人間性を重視した合否判定を」なんてことがいわれます。テストの成績がいい学生は人間性が劣っているんでしょうか。人間性なんてものは学力とはなんの関係もないのです。

話しは戻りますが、テストの成績がいいということは「地あたまがいい」ということではありません。でも、それでいいのです。なぜなら「テストの成績がいい」ということは、少なくとも学習意欲はある程度期待できますから。医者にとって重要なのは学習意欲です。日進月歩の医学についていき、最新の医学的知識をもとに診療することはとても大切だからです。そもそも学習意欲がなければ医学部を卒業することも、国家試験に合格することもできないでしょうし。

医学部では基礎教養科目からはじまって、解剖学や病理学、薬理学などの基礎医学科目。そして、内科学や外科学、小児科学や産婦人科学、眼科や耳鼻科、皮膚科にいたるすべての診療科目を学びます。医学部の6年間に学ぶ学科は50種類にもおよぶのです。これらのすべての科目の試験に合格し、卒業試験をクリアしてようやく医師国家試験を受験します。学習意欲がなければとても「医師免許」にたどりつけないのです。私は今でもときどき「国家試験が目の前にせまっているのにまったく勉強しておらずあせりまくる」という夢を見るほどのプレッシャーの連続でした。

医者という仕事には向き・不向きがあります。決して楽しいばかりの仕事ではありませんし、創造的な仕事ができるともかぎりません。なにより、人の生老病死を見守る仕事ですから、気持ちを切り替えられる人間でなければとても辛い(とくに内科は)。人間の人生は長いようで短いのですから、この限られた人生をどう生きるかはとても重要です。その人が幸せなのは、人生を通して自己実現できたと実感できるときだと思います。その意味で、成績だけで選んでしまった人にとって医師という仕事ははたして人生を自己実現する仕事になるのでしょうか。

ひるがえって私にとって医師という仕事はどうだったでしょうか。おこがましいようですが、私自身は天職だったのではないかと思っています。私は組織の一員としてその歯車として働くということが苦手です。いつかこのブログで書く機会もあると思いますが、これまでいろいろな上司とぶつかってきましたし、組織の論理というものの理不尽さに歯ぎしりしてきました。その結果、大学という組織を去り、病院を離れることにつながりました。おそらく普通のサラリーマンとして働いていたらものすごいストレスを抱えて文句ばかりいいながら仕事をしていたんだろうと思います。

小学生の頃、およそ医者になれるはずもなかった自分が、人生を変えるような人との出会いがあり、運命的とも思える偶然が重なって医師になった。もちろん努力はしました。他のひとよりもスタートは遅かったですけど。中3になって突如として勉強に対する姿勢がかわりました。その辺のことはまた機会があればお話ししますが、結局のところ、その後、紆余曲折がありながらも子供のころの夢を実現できた。まさに神の見えざる手が導いてくれた、と言ってもいいような経過だったと思います。そう考えると、医師という職業は自分にとっては天職だと思うのです。

医師という職業は免許をとって完成するものではありません。まさしく「医師になっていく」ものであり終点はないのです。教科書に学び、症例にまなび、患者に学びながらなっていく。誰もが見逃していた病気を見つけ、未然に大きな病気を防いだり、病に悩む人の支えのひとつになる。そうしたことすべてによって「医師になっていく」んだと思います。まだまだ自分にはその修業が足りません。まだ、学びの徒なのだということなのですが、くれぐれも小学生の時のような無気力でぼんやりとした学徒にもどらぬよう気合をいれていきたいと思います。この職業を「天職」とまで言い切ったのですから。

※「内科を選んだ理由」もご覧ください。

考察「STAP事件」

STAP細胞なる言葉が世の中を駆け巡ったのはほんの11か月前。それが今やすべてが否定され、「すわノーベル賞候補か?」とまで言われた現象がこの世の中から消え去ろうとしています。STAP細胞とはいったいなんだったのでしょうか。なぜあれだけ注目を浴びなら、こんなにもあっさりと否定される結果になったのでしょうか。

実は、「STAP細胞」という言葉、あるいは現象を私は知りませんでした。そのせいか、マスコミが連日大騒ぎする中で私自身はいつものように「STAP細胞」とは違った側面を強調する報道ぶりに辟易していました。割烹着がどうの、理系女子がどうの、はたまた冷蔵庫の扉に描かれたムーミンの絵までもが紹介され、肝心のSTAP細胞がどのようなもので、この細胞の出現がいったいどんな意味を持つのかがわからないまま、シニカルに見ていたといってもいいでしょう。

STAP細胞には山中先生のiPS細胞とは違った感覚を私は感じていました。iPS細胞なる研究成果が出てきたとき、同年代の山中先生の業績を誇らしく思いました。そして、これから再生医療が現実のものとして人類に貢献できる時代がやってくることに興奮したものです。しかし、STAP細胞にはこうした感動がありませんでした。むしろ、「iPS細胞よりもさらに進化した細胞」と称され、あたかも「時代はSTAP細胞」といわんばかりのフィーバーぶりに少し反感を持ちました。

山中先生と笹井先生の確執をでっちあげるマスコミもありました。ノーベル賞を受賞して京都大学の教授になった山中先生は神戸大学出身です。そのことを京都大学出身の笹井先生が嫉妬し、このSTAP細胞で反転攻勢にでた、と書き立てる週刊誌もありました。そんな中でも山中先生は「これから再生医療のために、協力できるところは協力してやっていきたい」と冷静にお話ししておられ、決してマスコミの論調に流されない姿に「さすがだなぁ」と思ったものです。

時の寵児ともてはやされた者のその後は悲惨なことが多いのですが、STAP細胞もその例にもれませんでした。次々と問題点が指摘され、論文掲載を取り下げ、検証実験でそのすべてが否定されてしまいました。しかも、単に誤りだったわけではなく、どうやらねつ造だったとまで言われようとしています。どうしてこんなことが起こったのでしょう。うっかりミスならまだしも、ねつ造などしてもいつかばれるはずなのに。誰が考えても、故意にねつ造するなんてことあり得ない話しです。

私個人としては、今回のSTAP細胞の事件(あえて「事件」と呼びますが)の原因は教育にあるのではないかと思っています。小保方さんが受けてきた教育、とくに研究者を養成する大学院研究の貧困さにその原因があると思うのです。特定の大学・大学院の教育がどうこう言っているのではありません。どの教育機関にも「教育機関としての自覚」が欠如していると思うのです。

かつて「もう大学生なんだから、教わるのではなく、自ら学んでほしい」とある恩師にいわれたことがあります。しかし、そうした学生としての自覚も大切ですが、一方において大学・大学院の教員にも教育者としての自覚が必要だと思います。学生が「優れた研究者の背中を見て育つ」ということは理想ですが、そこには教育的配慮というものもまた必要です。一部の優れた研究者を除いて、研究者である前に優れた教育者であるべきなのです。

私も大学院を修了しました。しかし、大学院でまともな教育を受けた記憶がありません。研究の基本から研究費の獲得、調査・分析、論文作成、そして学会発表とすべて自分で学び、身に付けてきました。まさに試行錯誤でした。それは私の指導教官に指導する能力も意欲もなかったからですが、手さぐりで研究を進めていく中で感じたのは、研究者としての姿勢は優れたアカデミックの中でしか育たないということです。質の高いアカデミックには厳しさがあります。その厳しさによってしか育たないものがあるのです。

その意味で、小保方さんはそうした環境に恵まれなかったのだと思います。優れた教育者・研究者に巡り合わなかったために自己流で、甘っちょろい研究者もどきになってしまったのだと思います。研究者として欠くべからざる「データを客観視する目」「真実を追求する厳しさ」が彼女の中では「データを都合よく解釈する甘え」と「目の前にあるものを真実と思い込む甘さ」になっていた。これはきちんとした教育を受けていなかったからです。

今回のSTAP細胞の問題は小保方さんが故意ででっちあげたのではなく、彼女の都合のよさと思い込みが作り出した虚像だったのではないかと思います。彼女は知らないうちにES細胞で実験をしていたにも関わらず、本当にSTAP現象を見ていると思い込んでいたのではないでしょうか。ですから、彼女の中では本当に「STAP細胞はあります」と思っている(いた)んだと思います。

教育は大切です。しかし、ともすると「詰め込み」が否定され「問題解決能力」が重視される世の中になっています。また、一発勝負のペーパー試験が否定され、多角的に評価するAO入試が広まってもいます。しかし、その弊害も最近明らかになってきています。これらのどっちが正しいのではなく、どちらも大切だということに気が付くべきです。多角的に評価することも大切ですが、一発勝負のペーパー試験の厳しさも一方においては必要なのです。

今の小学校六年生が大学を受験するときから大学入試制度がかわります。でも、教育問題の根幹は入試制度にあるのではなく、教育の内容にあることを偉い先生たちには気づいてほしいものです。どうせ無理でしょうけど。