院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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早いもので健さんが亡くなって1年になります。1年経っても「俳優 高倉 健」がいなくなってしまった喪失感はそう簡単には癒えそうにありません。健さんは私の父親の世代ですから、もはや超高齢者になろうとする世代なのですが、思い出す「高倉健」はいつも「昭和残侠伝 吠えよ唐獅子」の中の花田秀次郎、若かりし頃の健さんです。実生活でもその秀次郎そのままを生きた健さんは私の心の中でも永遠に秀次郎のままです。
ところで私は「俳優 高倉 健」ともうひとり、鶴田浩二という俳優も好きです。鶴田浩二も健さんとともに東映黄金時代の任侠映画によく出演していました。しかし、任侠映画の人気に陰りが出始めると、映画だけではなくTVドラマにも出演して活躍の場を広げました。それまではずっとスクリーンの中の俳優さんだったので、TVに出てきた鶴田浩二にちょっと違和感を感じていました。しかし、そこは大物俳優。優れた作品を選んで出演していたせいか、鶴田浩二の魅力は決して色あせることはありませんでした。
その鶴田浩二が出演したドラマの中でも、私はNHKで放映された「男たちの旅路シリーズ」と「シャツの店」が好きです。このドラマの中で鶴田浩二はいずれも頑なに自分の価値観を貫く戦中世代を演じていました。戦後、価値観が一変しまったかのような社会にあえて逆らって生きる頑固なオヤジが鶴田浩二の役どころです。戦争を生き残った戦中派には理解しがたい現代の若者に眉をひそめながら、「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばからない中年とでもいいましょうか。当時のその「若い奴」のひとりが私なのですが、そんな「頑固な説教おやじ」のような吉岡司令補に惹かれていました。高倉健も鶴田浩二もいわゆる寡黙な「男のなかの男」って感じの役が多いのですが、健さんが演じる花田秀次郎はどちらかというと背中でものをいうタイプ。鶴田浩二演じる吉岡司令補は「俺は甘っちょろい若い奴らが大嫌いなんだ」と明確に自分を主張します。若者に厳しい分、自分にも厳しい。今のおやじ達にはいないタイプですよねぇ。
一方の「シャツの店」は、下町の頑固なシャツ職人の「親方」が突然奥さんに家出されるところから物語がはじまります。はじめは「あいつが許せねぇ」と言っていた親方も、一人息子の思いもよらない離反を通じて自分を振り返り、夫婦を振り返るというもの。このドラマのところどころに印象的なセリフがあります。今でも印象的なのは、お見合いがうまくいかず「独身を貫いてシャツ職人を極める」と言いだした弟子にしみじみと語り掛けるときのセリフ。「そりゃとんだ了見違いだ。ひとりじゃなにをやったってうれしいことがあるか。客がついた、シャツの評判がいい。ひとつひとつ喜びを分かち合うことができる」。自分に従順だと思っていた妻や息子に家出され、ひとりの生活を強いられてはじめて家族の意味を知ります。そして弟子には「いいか。見合いをやめるな」とまでいうのです。当時、独身だった私の胸にもグッとくるものがありました。この頑固な親方の説教も、吉岡司令補とはまた違った魅力があって私は大好きです。
これらのふたつのドラマは、今でもDVDで見直すことがあります。ふたつとも山田太一が脚本を書いているのですが、鶴田浩二の魅力をひきだすセリフにあふれています。そして、今もそのセリフは輝きを失っていないと思います。是非、皆さんも機会があればこれらのドラマをご覧になってみてください。
私が子どものころ、夏になるとテレビで「あなたの知らない世界」と題した番組がよく放送されていました。心霊スポットや怪奇現象を紹介する番組でした。夏の風物詩みたいなものですが、私は怖いもの見たさで必ずチャンネルをあわせていました。その後、大人になるにつれその手の番組にはだんだん興味を持たなくなっていきましたが、一方で不思議な体験を何度かするようになりました。
勤務医をしていたとき、「俺には霊が見える」と公言する先輩医師がいました。「病院には霊がうろつく場所が決まっていて、あそこにはこんな霊がいるんだ」といつも得意そうに話していました。その先生によれば、「霊が見えるかどうかは、その人間がもっている霊的パワーの強さが影響する。そのパワーが強い人間に霊は寄ってくる」のだそうです。人が集まるとその先輩は必ず自分の不思議体験を話してくれましたが、多くの同僚は冷ややかな目でその話しを聞いていました。
私自身は医学部に入るころから、不思議な体験をするようになっていました。一番強烈な体験は解剖実習の初日に起こりました。緊張のせいか、要領を得なかった実習の初日は夕方遅くまでずれ込み、疲れてアパートに帰ってきた私はいつもより早めに布団に入りました。肉体的にも精神的にも疲れていたのであっという間に寝てしまったのでした。ところが、何時ごろかふと目が覚めてしまいました。そのとき、あたまの中はすっきりと覚醒していましたが、目を開けることはできるものの手足はまったく動きません。瞬間的に私は「金縛りだ」と思いました。
金縛りなんてそれまで経験したことがありませんでした。そのときははっきり覚醒していて、恐怖心というよりも、なんだか新鮮な気持ちがしました。「これが金縛りかぁ」なんてちょっぴり感動するような気持ちとでもいいましょうか。しかし、そんな甘っちょろい気持ちはすぐに吹っ飛んでしまいました。なぜなら、私の枕元に置いてあった小さな冷蔵庫の脇に、白い着物を着た老人がこちらに背を向けて正座していたからです。私はド近眼なので、眼鏡をかけなければ布団の中からははっきりは見えないのですが、白い着物の老人は確かにそこにいました。
なにせ体が動かないものですから逃げようにも逃げることもできず、声を出そうにも出せない状態でした。そこで私はとっさに目を閉じて念仏を唱えることにしました。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心の中で繰り返してみました。ところが、念仏をなんども唱えてもその老人は姿を消すことはありません。身じろぎひとつせず後ろを向いてじっと座っているのです。ところが、うっかり「この後ろ姿の老人が私の方に振り返ったら」などと想像してしまいました。すると、なんとなくその老人が振り向きそうに思えてきて、私は恐怖のどん底へ突き落されてしまいました。私はただその恐怖に耐え、目を固く閉じて何度も念仏を唱えることしかできませんでした。そのうち私はいつの間にか眠ってしまいました。
翌日、友人にこのことを話すと、友人はゲラゲラ笑いながら私の話しを聞いていましたが、ふと真顔になってこう言いました。「それ、この解剖体の霊かも?」。そういわれてみると確かに今解剖をしている解剖体と年格好が同じです。私たちは目を丸くしてお互いの顔を見合わせました。解剖実習は自ら献体を申し出られた篤志家のみなさんのご厚意によるものです。当然のことながら、実習期間中、毎日合掌することになっていました。この一件があってからというもの、私はそれまで以上に熱心に手を合わせ、解剖体に心から感謝の気持ちを捧げながら実習を続けました。以後、あの老人が再び姿を現すことはありませんでした。
強烈な体験がもうひとつあります。それは勤務医をしていたころのお話しです。病院での仕事はまず入院患者の朝の回診から始まります。そして、検査の追加をオーダーしたら外来に行って診療をします。外来ではたくさんの患者を診なければならず、午前中の診療が午後遅い時間までずれ込むことも少なくありませんでした。その日もいつものように長い外来を終え、医局で簡単な昼食を済ませて病棟に向かいました。医局を出て、エレベータに乗り込み、担当している階のボタンを押して壁に寄りかかって目を閉じるともう病棟に到着です。
エレベータの扉の向こうからナースコールの音やモニター(重症患者の心臓の動きを監視する装置)の音、あわただしく人が行きかう音が聴こえてきます。当時、私が担当していた病棟にはさまざまな患者が入院していました。病気の種類も重さもさまざまです。ですから、いつもどこかで患者の容態が急変し、せわしくスタッフが動き回っていました。ほどなくして扉が開くとナースステーションの奥にある処置室を頻繁に人が出入りしていました。容態が急変した患者でもいるのかな、と思った瞬間、誰かとぶつかりそうになりました。
「すみません」。そう言ってぶつかりそうになったその相手を見ると、私が担当する患者と同室の若い女性患者でした。血液疾患の治療のため入院していたのですが、骨髄移植後の経過が良くなく、いつも深々と帽子をかぶり、マスクをしてベットに横になっていました。今日は調子がいいのか、いつもの帽子とマスク姿でどこか売店にでも行くようでした。彼女とは直接話しをしたことはありませんでしたが、私が「こんにちは」と声をかけて道をあけると、彼女は軽く会釈をしてエレベータに乗り込んでいきました。
私はナースステーションの奥のあわただしさが気になり、そちらの方に歩いて行きました。処置室の中をのぞいた私は「急変ですか?」と尋ねました。処置室では救命措置がおこなわれているようで、医師が心臓マッサージを続けており、狭い処置室は緊張感が漂っていました。私が加わったところで邪魔になるだけのようにも思えましたが、「なにかお手伝いしましょうか?」と患者に近づこうとした瞬間、私は愕然としました。なんと、その救命措置を受けている患者はついさっきエレベータの前ですれ違ったあの患者だったのです。
「○○さんとはさっきエレベータの前ですれ違ったばかりですよっ!」。救命処置中にもかかわらず思わず私はそう叫んでしまいました。みんなはびっくりしたようにこちらを見ました。それから私も加わって救命処置が続けられましたが、結局彼女を助けることはできませんでした。その後、しばらくはさっきのエレベータ前での風景が私のあたまから離れませんでした。そのときの彼女の表情はうかがい知ることはできませんでしたが、それでも苦しい病気から解放され、天国に旅立って行ったのかもしれません。
まだまだ不思議な体験はあります。なかには私の勘違いや思い込みもあるんでしょうけど。でも、やはり科学では証明できない「私たちの知らない世界」があると思います。私がはじめて当直に行った病院では、いつになく急変が多くなるそうです(ちなみに私の医療行為が原因ではありませんので誤解なきよう)。我々はこういう状態を「荒れる」というのですが、そうした現象は既出の先輩医師的にいえば、「おまえの霊的エネルギーが強いから」ということになるのかもしれません。そういえば、今でもうちの医院で患者を診ていると時々・・・。もうこのくらいでやめておきます。
みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。
とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。
つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。
以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。
かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。
ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。
「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。
「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。
ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。
あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。
倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。
だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。
「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。
医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。
教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。
今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。
医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。
医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。
当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。
ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。
「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。
そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。
そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。
大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。
結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。
しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。
シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。
女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。
結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。
内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。
今日は久しぶりの晴天です。今までどんよりとした景色が続いていただけに爽やかな気分で過ごすことができました。ただ、晴れ渡った分だけ気温が上昇しましたから、暑さが苦手な私としては涼しい北海道の気候を思いださずにはいられません。
北海道の夏は爽やかです。こちらでいう真夏日はお盆前後の2週間ほどしかありませんし、湿度が低いので日陰に行けば結構涼めます。私は札幌の中央区というど真ん中のマンションに住んでいました。11階でもありましたので、夏は東西の窓をあければ心地よい風が入ってきてエアコンいらず。夜、うっかり窓を開けたまま寝てしまえば風邪をひきそうなときさえあります。おまけに人を刺す蚊も入ってきませんでしたから、ほんとうに申し分のない夏を過ごすことができました。
北海道の夏を涼しく感じるもうひとつの要因は至るところに咲いている花の美しさにあると思います。北海道の春は、梅と桜、タンポポが一斉に咲きだして始まります。とくに桜は、うすピンクの花びらと若葉が同時に我々の目を楽しませてくれます。道路脇に積み上げられた雪がすっかり溶けると、まさに百花繚乱の春を迎えるのです。しかも、北海道の春はまだ昼夜の気温差が大きいため、花の色はとても鮮やかです。そんな花々がまるで春の訪れを讃えるかのように路地のいたるところに植えられています。
札幌では5月に桜が満開になるのでこのころにお花見があります。お花見とはいえ、まだ冬のような寒さは続いています。とくにGWのころはまだ開花したばかりです。それでなくても寒いのに桜がちらほらしかほころびていない寒々とした光景の中での花見となります。北大の構内には中央ローンというちょっとした広場があり、北大生は生協でコンロとジンギスカン用の独特の形をした鉄板を借り、ラム肉を焼きながらお花見をします。お酒が入るので多少寒くても、あるいは桜が咲いていなくても関係ありません。
北海道には梅雨はないといわれますが、正確には「蝦夷梅雨」というものがあります。6月のライラックが咲くころ、大雨にこそなりませんが天候が悪くて肌寒い日が続きます。これが「蝦夷梅雨」です。このころに「よさこいソーラン祭り」が開催されます。この祭りは私が北大にいたころにはじまりました。高知県のよさこい祭りで使われる鳴子を手に北海道の民謡ソーラン節にあわせて踊るのです。北大の学生が企画したものからはじまったといわれていますが、今や札幌の代表的なお祭りになりました。
夏は北海道の魅力を存分に楽しめる季節です。私のお勧めは7月下旬に行く富良野と美瑛です。札幌にいたころ、家内と早起きをして車で富良野によくでかけました。午前中の早い時間帯に富田ファームを訪ね、ラベンダーアイスを頬張りながらラベンダー畑を歩く。そして、色とりどりの花が一面に咲くフラワーランドに立ち寄り、丘陵地帯を車でぬけてお昼過ぎには札幌に戻る。帰りには対向車線には延々と渋滞の車列が続いています。札幌に帰るとなんか休日の時間を有効に使えた気持ちになったものです。
私が一番好きな北海道の季節は秋です。9月も下旬ともなればだいぶ涼しくなり、大雪山系では紅葉がはじまります。そして、10月になると街に紅葉がおりてきます。紅葉とはいえ、北海道の紅葉は赤くありません。赤く発色するモミジはほんの1週間ほどで葉を落としてしまうからです。ほとんどの紅葉は黄色と深緑。しかし、それでも色鮮やかで実にみごとです。私のお勧めは北大の13条門から構内に入ったところの銀杏並木と札幌郊外にある豊平峡ダムです。とくに豊平峡の紅葉を初めて見た父は「極楽黄土とはこういう感じなんだろうなぁ」と感心していました。
北海道の秋の紺碧の空はとても美しい。ひんやりと頬をなでる秋風を感じながら見上げる抜けるような紺碧の空はまさに心洗われるようです。このころになると、各家庭ではストーブを炊き始めます。洗面道具をカタカタいわせながらの銭湯の帰りしな、ストーブの煙突から漂ってくる香りに「秋が来たんだなぁ」ってほっこりした気分になったことを思いだします。6畳一間のアパートに帰ってストーブをつけ、コタツに入ってのんびりすると、もう「ちょ~しあわせ~」って感じでした。
11月も下旬になると結構頻繁に雪が降ります。ただ、まだ根雪にはなりません。根雪になるのは12月後半です。ですから、クリスマスの頃にはすっかり雪景色。まさに「ホワイトクリスマス」。学生時代に私はそのクリスマスの日に讃美歌を聴きに教会へ出かけたことがありました(ちなみに私はクリスチャンではありません)。冬ともなれば夕方とはいえ外は真っ暗。しかも氷点下。吐く息はすっかり白くなっています。ひとりで訪れた私を快く歓迎してくれた教会からの帰り道、雪あかりの中で踏みしめる雪の「キュッ、キュッ」という音を聴きながら、ふとさっき教会で流れていた「神の御子は」を口づさんでいました。
なんかとっても幸せな気持ちになって、ちょっと立ち止まって深呼吸をしてみました。するとどうでしょう。雪の香りがするじゃありませんか。乾いた香り。うまく表現ができないんですけど。見上げるともう雪雲はすっかり消えて、キラキラと星が輝いていてとてもきれい。そこは住宅街でしたが、あたりは一面の雪。ほとんど人影もありません。そのときになぜかとても幸わせな気持ちになりました。「北海道に来てよかったなぁ」って。この話しを人にすると、そこには誰か「髪の長い人」が寄り添っていたのでは?と言われるのですが、残念でした。冬の夜道でひとり感傷にひたる男って不気味でしょうけど。
私は北海道が大好きです。仕事を引退したらまた札幌に住みたいと思うほどです。気候が自分にあっているんでしょうね。北海道大学で学べたことも自分にとってはなにものにも代えがたいほど大切な思い出です。生活の場としても素晴らしいところですし、休みの日に遊びに行くところにも事欠きません。のんびりと自分のペースで大学生活を送れたという意味で北海道は自分に一番合っていたんだと思います。北海道は第二のふるさと。札幌駅周辺も北大構内も随分と変わってしまいましたが、私の心の中の北海道はいつまでも私に勇気と力を与えてくれます。