心に残る患者(5)

実は、今、ちょっとへこんでます。

それは先日往診した患者が亡くなったからです。その患者さんは当院が開院したころから通って下さった92歳の方。膝を悪くして歩くのもようやくという状況にも関わらず、いつもご主人とお元気な顔を外来で見せてくれていました。膝の悪いのを除けばいつもお元気そうで、「この分だと軽く100歳までいけそうですね」などと笑いあったのがついこの間でした。ですから、突然の訃報は主治医をしていた私にとってはショックなことには違いないのですが、しかしそれが私が往診をした直後だったのでなおさらでした。

ご主人から「お母さんが急に歩けなくなった。足が動かないようなので往診してほしい」と依頼を受けたのは午前中の診療が終わろうとしているころのこと。数日前に訪問診療をしている別の患者でも、同じように「歩けなくなった」という訴えのあとに高熱が出て、結局インフルエンザだったというケースを経験していた私はすぐに「インフルエンザ」を疑いました。しかもご主人自身が数日前からインフルエンザの抗ウィルス薬を飲んでいたこともあって「インフルエンザだろう」という予断をもってしまったのです。

その日は午前中の診療後にクリニックで新薬の説明会が開かれることになっていました。さしたる根拠もないまま緊急性がないと即断してしまった私は、ご主人に「午後1時過ぎにうかがうます」と告げて帰ってもらいました。しかし、たまたま診療待ちの患者がいなかったことと、なんとなく「早く行った方がいいかも」と胸騒ぎのような気持ちがしたものですから(こういう胸騒ぎがえてして当たるのです)、新薬の説明会が多少遅れてもいいから患者さんのご自宅に行ってみようと思ったのでした。

ご自宅まで行って呼び鈴を押すとご主人がすぐに出てこられました。部屋にいくと患者さんが畳の上に横になっていて、体の上に布団がかけれていました。呼びかけるとすぐに返事が返ってきました。いつもよりも少し元気がなさそうな声でしたが、構語障害(ろれつが回らないこと)はなさそうでした。状況を簡単にうかがうと、「トイレに行きたくなって下痢をした。そして、ちょっと吐いたら足が動かなくなった」というのです。正直、緊急性がなさそうな様子に少しホッとしたのでした。

ひとときのインフルエンザの猛威をおさまりましたが、胃腸炎を合併しているインフルエンザの患者も何人か診ていたこともあり、「やっぱりご主人のインフルエンザがうつったかな?」と思っていました。そして、血圧や脈拍、経皮的酸素飽和度を測りましたが、いつもよりは血圧が低めだった以外に大きな異常はありませんでした。聴診でも肺や心臓の雑音はなく、脈の不整や促迫もありません。「仰向けになれますか」と声をかけると自力で仰向けになりました。手足もゆっくりながら問題なく動かせました。

布団から出ている手を握ってみると冷たかったのですが、「気持ち悪いですか?」とたずねると、「今は吐き気はない」といいます。私はこの時点でご主人に「インフルエンザかもしれません。これから高熱がでてくるサインかも」とお話しして、「救急車を呼んで詳しく調べてみますか?」とたずねました。ご主人は困ったように「救急車はどうも・・・」と下を向かれるので、「それなら3時ぐらいまで少し様子をみましょう。3時にまたクリニックの方に電話してください」と言ってクリニックに戻って来ました。

クリニックでは予定通り薬の説明会が開かれ、遅くなったお昼ご飯を食べて午後の診療がはじまるころに娘さんが来院されました。「救急車を呼ばなくて大丈夫だろうか」というご相談でした。私は「これから高熱が出てくる前兆かもしれないのでもう少し様子をみてはどうか」とお話ししました。しかし、お嬢さんはなにか不安げで、救急病院に受診させたい様子でした。そこで「原因は検査をしなければわからないので病院を受診してもいいと思いますがご紹介しますか?」と言いました。お嬢さんは安心したようでした。

ところが、タイミングが悪いことに、いつも紹介している病院からは「救急医が手術に入ってしまった。内科も患者が多いので・・・」と断られてしまいました。要するに、私の紹介状からは「緊急性は感じられない」ということだったのです。そこでお嬢さんには、「紹介状はもう書きましたから、救急車を呼んで、救急隊に収容先を見つけてもらってください」と頼みました。これは「たらい回し事件」の影響か、最近は我々が病院に直接頼むよりも、救急隊経由の方が病院は急患を受け入れてくれることが多いのです。

救急車が来たのは、くしくも私が様子を見ましょうといった「午後3時」を過ぎた頃でした。あれから3時間以上がたっていたのです。このとき私の心の中では、紹介先の病院から「検査をしてみたけど、ただのインフルエンザだった(大騒ぎした割には大した緊急性のない患者じゃないか)」と書かれた返事がくるのではないかと思っていました。そうであってほしいような、そうであってほしくないような複雑な気持ちでした。しかし、救急車のサイレンが聴こえなくなってからは患者さんのことはすっかり忘れていました。

二日後、そのご主人が「いったん下がった熱がふたたび高熱になった」とクリニックにやってきました。ご主人も超高齢でしたから、初診時の高熱の時点でインフルエンザの抗ウィルス薬を処方してあります。ですが、下がって来た体温がふたたび急に高熱になったとなると「インフルエンザ後肺炎」を心配しなければなりません。この肺炎が一番心配なのです。でも胸部レントゲン写真をとりましたが明らかな陰影はありませんでした。抗生物質を追加して様子をみようと思ったとき、ふと奥さまのことを思い出しました。

「ところで奥さまはその後どうされましたか?」。思い出したように私がおききすると、付き添ってこられたお嬢様が「母はあれからすぐに亡くなりました」と。私はびっくり。私はインフルエンザ後肺炎かもしれないご主人のことをすっかり忘れて「ええ、ほんとですかっ!」と声をあげてしまいました。しかも「腹部大動脈破裂だったようです」との言葉に二度びっくり。往診した私の頭の中にはそんな病態などまったくなかったからです。驚きと同時になんともいえない無力感がそのときの私をうちのめしていました。

ご主人とお嬢さんに私は謝りました。「まったく想定もしていませんでした。申し訳ありません」と。お嬢さんは「でも、早く見つかったとしても手術に耐えられたかどうかわかりませんから」と言ってくださいましたが、結果的に見逃がしたことには違いなく、また、往診にうかがった時点で救急車を要請していたらもっと違う展開になっていたのではないかと思うとなんともいえない後悔の念と申し訳なさでいっぱいになりました。予断をもって対応してしまったのではないかという思いがさらに自分を苦しめたのです。

結局、ご主人も「インフルエンザ後肺炎」で病院に入院。レントゲン写真でははっきりしなかった影が胸部CTで見つかったとのこと。つくづくあのまま抗生物質を処方して自宅で様子を見てもらわなくてよかったと思いました。おそらく奥さまの件がなければそうしていたかもしれません。咳嗽もそうひどくはなく、聴診所見でもレントゲン写真でも肺炎を思わせる明らかな異常はなかったのですから。つくづく診断とは難しいものです。と同時に、自分のふがいなさになんだかちょっと自信をなくします。

ご家族には「仕方ないことですから気にしないでください」「苦しまずに逝けたのでよかったです」と慰められてはみても、そうしてもらえばもらうほど、往診にいっておきながら見逃してしまったというか、手際よく対応できなかったことにへこんでしまいます。と同時に、きちんと検査ができない往診の難しさも思い知らされます。いつもの様子との違いに敏感なご家族の不安を、医療者が共有できないとこういうことが起こるんだということを改めて痛感します。

最近、救急車の使用については「重症の場合」という制限をかけるべきだという意見がしばしばでてきます。自分で受診できるのにタクシーのように利用するのはもちろん論外です。でも、「重症かどうか」ということを誰が決めるのでしょう。往診した医者でもない、電話口の向こうにいる救急隊員が決めるのでしょうか。そして、その決定の責任は誰がとるのでしょう。救急隊員なんでしょうか。そもそも救急車の要請を遠慮して患者に不利益をもたらすようなことにならないという保証があるでしょうか。

診断はときとして難しい場合があります。いや、診断は難しいものなのです。それなりの経験のある医者ですらそうなのに、緊急性の判断を素人がするのはとても危険です。そう考えると、救急車を要請しようかどうかについて腰がひけてしまうことは決していいことではないと思います。「いつもと違う」「なんとなく心配だ」。こうした家族の直感というものを軽視すべきではないのです。救急車で病院に行ったけれどなんでもなかったでもいいではありませんか。私は今回の痛い経験でそのことを学びました。

自分を信じて通院してきてくれた患者を、主治医が不本意に感じることで亡くすこのはとても辛いことです。ただ、辛いことながらも、今回のことは「私に別れを告げるために私を往診で呼んでくれたのかも」という思えなくもない。であるならもっと明確なかたちでお別れが言いたかったと思います。主治医としてやるべきことはやったといえる最期であってほしかった。だからこそ今回の苦い経験は悔やまれることばかりなのです。いずれせねよ、しばらくはこのショックから立ち直れそうにありません。

再びインフルエンザ

ひとときのインフルエンザの勢いも落ち着きはじめ、患者の数もだいぶ少なくなってきました。とはいえ、これまでの流行では、B型が70%、A型が20%、残りがA・B混合型というようにB型が主流だったため、今後は従来のようなA型の流行があるかもしれませんので注意が必要です。例年にないこの流行の形態は、おそらくB型が比較軽症であったため、患者も医者も普通の風邪と判断して感染を広めたのはないかと思います。

この流行の拡大と軽症例の多さが診療の現場が混乱する原因にもなりました。わずかばかりの風邪症状があり、体温も平熱にすぎない患者が「TVで『隠れインフル』っていうのがあるといっていたので検査をしてください」と受診してきたり、きわめて軽症のインフルエンザの患者までもが抗ウィルス薬を求めてきたりと、必ずしも適切な医療とはいえない診療をいつになく求められたのも今年の特徴だといえるでしょう。

インフルエンザ検査や抗ウィルス薬投与の適否については、我が家でも私と家内との論争の原因にしばしばなっていました。検査や抗ウィルス薬を安易に(というとまた怒られるのですが)考えている家内と、必要性に応じて検査や投薬を考えるべきとする私とはまったく議論がかみあいません。こうした光景は当院の外来でもしばしば見られ、私の説明に不満げに帰っていく患者が少なからずいます。

こうした現状をふまえ、私が皆さんにいいたいことを、想定問答のような形でご説明したいと思います。もちろん考え方にはいろいろあって、私の言い分がすべて正しいと主張するつもりもありません。また、私の考えに賛同できない方たちを全否定するつもりもありません。ですが、私の言いたいことを通じて、皆さんにもこの問題を冷静に考えていただければ幸いです。

   【私の基本的スタンス】

○検査や投薬は「実施すべきケース」「実施してもいいケース」および「実施すべきではないケー
 ス」で考えるべきである

○医療に関しては「医学的に正しいかどうか」という観点とともに「医療費の支出として適切かど
 うか」という観点も考慮すべき

○インフルエンザが流行する前にすべての国民はワクチンを接種し、「インフルエンザに感染しに
 くい環境を作る」とともに「かかっても軽症ですみ、抗ウィルス薬を必要としない状況を作るこ
 と」が重要である

○インフルエンザはすべてがおそろしい結果をもたらすわけではなく、「重症例をはやく見つけて
 対処すること」が重要であり、「軽症例は安静を基本として、適宜、症状を薬で緩和すること」
   でいいと認識すべき

○インフルエンザの流行シーズンに入った場合は、「急に高熱となったケース」や「高熱にはなっ
 ていなくても、強い関節痛や悪寒、頭痛をともなう発熱のケース」は検査の有無をとわずインフ
 ルエンザとして学校や仕事を休んで自宅安静あるいは経過観察とするべき

これらのことをこれから具体的な想定問答として記述してみたいと思います。こうしたやりとりは当院の診察室でも同じようになることがあります。このやりとりの結末は残念ながらいつもunhappyです。ただし、ここでの想定問答では症状もなく「念のために検査」といって来院したケースを想定しています。また、当院ですべてのインフルエンザ検査・抗ウィルス薬の投与をお断りしているわけではありません。

念のために申し上げておきますが、インフルエンザの検査や抗ウィルス薬を希望される方は私に伝えてください。適宜、それぞれの患者の状況に応じて検査・投薬の適否を考え、「検査が必要な場合」はもちろん、「検査をしてもいい場合」であれば検査も投薬もご希望に応じておこなっています。

 

*****************以下、想定問答

患者:TVで「『隠れインフル』っていうのがある」といっていたので検査してください。

医師:でも、あなたは今、平熱ですよ。検査、必要ないと思いますけど。

患者:うちの夫が先日「B型インフル」って診断されたので感染していないかと思って。

医師:まだ検査してもでてきてない可能性が高いですよ。

患者:夫は熱が出てなくてもインフルエンザだったんです。

医師:それでなぜ検査をしたのかわかりませんが、なにかお辛い症状でもあったんですか?

患者:ちょっと頭痛が。でも今は元気ですけど。

医師:ですよね。ご主人は軽症だったんですよね。

患者:インフルエンザの薬をもらいましたからすぐによくなったんです。

医師:えっ?熱がなくて軽症だったのにインフルエンザの薬をもらったんですか?

患者:はい。だって早くよくなりたかったんで。出かけなきゃいけない用事もあったし。

医師:もしかして、薬飲んですぐに外出されたんですか?

患者:はい。薬を飲んだ翌日には平熱になって元気になったから。

医師:インフルエンザのときは解熱してもしばらくは人に移す可能性があるので外出はだめですよ。

患者:それじゃインフルエンザの薬を使う意味がないじゃないですか。

医師:インフルエンザの薬を飲む目的は「熱が出ている期間を1日程度短縮するため」なんです。

患者:よくなってるじゃないですか。

医師:そうです。改善はします。高熱の期間は短縮しますから。でも、しばらくは人にうつすんです。

患者:うちの夫は熱がなかった場合でもうつすんですか。

医師:だから「必要だったんでしょうか?」と申し上げたんです。自宅でしばらく安静にして・・・

患者:でも、普段のように元気でしたよ。

医師:いや、自宅安静の目的はご本人の療養という意味と他人に移さないという意味があるんです。

患者:うちの孫もインフルになったけど、すぐに熱がさがって元気になったので学校へ行ったけど。

医師:それが学校でインフルエンザを広めてしまう原因のひとつなんです。

患者:うちの嫁も働いているし、孫もゲームばっかりやってるから。

医師:ご家庭によって事情はあるでしょうが、やはり感染を広めないという意味では・・・。

患者:じゃあ、私の検査もインフルエンザを広げないために早めにやった方がいいんじゃない?

医師:いや、この検査は「インフルであることを確認する検査」なんです。

患者:「確認検査」?

医師:そう。陽性であれば「インフルです」って言えますが、陰性でも「違います」とは言えない。

患者:それじゃあ意味ないじゃない。

医師:意味はあります。インフルエンザだと確認はできますから。

患者:なら、今検査してもいいじゃないですか?

医師:確認だからこそ、怪しげなときにやるべきなのです。今のあなたは違います。

患者:とりあえず今やっておくっていうのはダメですか?もしかしてってこともあるし。

医師:今回が陰性でも、明日に陽性になるかもしれないし、あさってかもしれません。

患者:そのときにまたやればいいんじゃない。

医師:そんなことをしていたら医療費がもたないし、そもそも保険組合がそれを認めないのです。

患者:早期発見、早期治療は必要ないってこと?

医師:風邪やインフルエンザに関していえば「重症化を防ぐこと」が重要なのです。

患者:早期に治療すれば重症化だって防げるじゃないですか。

医師:それはそうですが、風邪やインフルエンザは本来なにもしなくても治る病気です。

患者:治療はいらないってこと?

医師:本来はそうです。でも、なかには重症化するケースがあり、その場合は早期発見。早期治療。

患者:なら、なんでインフルエンザの薬があるんですか。

医師:このまま放置していたら重症化しそうな人や高熱で辛そうな人のための薬として考えてください。

患者:検査もそうですか?

医師:明らかにインフルエンザと思われる人は検査をしなくてもいいってことになっています。

患者:検査しないで「インフルエンザ」って診断してもいいってこと?

医師:だって検査が「陰性」だからといって「インフルじゃない」って言えないんですから。

患者:それなら検査はまったく不要ってわけ?

医師:いえ、たとえば肺炎を思わせる患者が来たとき、肺炎治療を優先させるか、インフル治療を併用する
   かの判断にはとても重要です。そこまでいわないにせよ、怪しげなケースでれば検査はします。

患者:私、職場の方からも「検査をやってこい」っていわれるんですよ。

医師:インフルエンザが疑われるケースであっても検査が陰性なら仕事にいってもいいのですか?インフル
   エンザかもしれないと思ったら仕事はやはり休むべきでしょう。検査なんて補助的なものですし。

患者:でも、「A型?B型?」って聞かれるし。

医師:型なんてわかっても対応はかわりません。インフルエンザなんだし。ワクチンを打ってなければ重症
なることだってあるし。

患者:いずれにしても、今の私には検査はやってもらえないってことでしょうか。

医師:必要性はないですよ。あなたのようなケース全員に検査をやっていたら医療費が大変ですから。

患者:患者の命よりも医療費の方が重要ってことですね。

医師:いえ、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。

患者:でも、そう聞こえますよ。

医師:つまり、この検査をしないからといって今のあなたに大きな不利益はないが、あなたと同じケース全
   員にこの検査をやった場合の医療費の無駄は計り知れないってことです。

患者:・・・・。

医師:もちろん、今後、あなたになんらかの症状が出てきてインフルエンザであることを確認する必要がで
   てきたらちゃんと検査します。うちも検査すればそれだけもうかります。検査をするのが嫌で言って
   いるのではないのです。決して安い検査ではなく、あなたも無駄をお金を出さないで済むし。

患者:自分の財布から出すので心配いただかなくても結構ですよ。

医師:あなたの財布からも三割は支払われますが、残りの七割は医療費から支払われるんです。

患者:わかりました。別のクリニックでやってもらいますからもう結構です。

 

ほら、やっぱりunhappyだったでしょ。でも、実際はこうはいきません。インフルエンザ検査や抗ウィルス薬を希望される方についてはそのご希望を尊重しながらも、本当に必要かどうかに関して疑問に思う場合はその必要性は説明した上で「どうしても」という場合は検査もしますし、投薬もします。ただし、「してもいいケース」に関してです。「すべきではないケース」に関しては当然のことですがお断りしていますので悪しからず。医療と医療のバランスって難しいですよね。

でも、誰かが言ってました。「そんな固いこといってないで、言われるがままに検査をし、抗ウィルス薬を処方していれば患者は満足するし、医療機関や薬局、製薬会社ももうかる。すべてがハッピーじゃないか」って。私が「でも医療費が・・・」と言いかけたら「それも結局は国民の負担になるんだしいいんじゃないの」とも。しかし、それで医療保険制度が崩壊してしまったら元も子もないって考えないのでしょうか。きっと彼は言うでしょうね。「そんなこといち医療機関のひとりの医者が心配することじゃない。それは偉い政治家が考えること」ってね。う~ん、あたまの固い自分には実に悩ましい・・・。

心頭滅却すれば

人は青年期にいろいろな悩みをかかえます。私にも人並みにその悩みにさいなまれた時期がありました。進学とはある意味で人生を選択することでもあります。ですから、思ったような成績が得られず、希望するような進路に進めそうにないときは、なおさら「生きる意味」みたいなものをひとりあれこれと考え、自分はこれからどんな人生を歩んでいくんだろうと不安な気持ちになったものです。

人生はなかなか思うようにはなりません。今、改めてこれまでの自分の人生を振り返ってもそう思います。決して一本道ではなく、紆余曲折を経ながら今がある。なんとなく医者になりたいと思いながらも最後までパッとしなかった小学生時代から、家庭教師の大学生に勉強の面白さを教えられた中学時代。理想と現実という大きな壁にぶち当たった高校時代。自分にとってはこの高校時代が一番つらい時期でした。

そんな苦しい時期に私はいろいろな本を読みました。一番読んだのが亀井勝一郎です。彼の人生論に影響を受けていたこともあって彼の著作を片っ端から読みあさりました。その他、亀井勝一郎に限らずいろんな本を読みましたが、一方で心理学に関わる本もしばしば手にしていました。きっとこれから自分はどうなるんだろうという不安な気持ちが、自分の関心を自身の心に向けていたのかもしれません。

そうした背景もあって、北大に入ってからも相変わらず心理学や精神分析に関わる本を読んでいました。以前にも書いたように、医学部に進学する前の2年間は教養学部医学進学課程の学生として医学とはまったく関係のない教養科目ばかりで退屈にしていました。そんなモラトリアムの時期に私は、病める人を相手にする医師に心理学や精神分析学の知識は絶対に必要だという信念のようなものを持っていたのです。

とくにこの時期にのめりこんでいたのはカール・ロジャースの「クライエント中心療法」です。その内容はかなり難しくなるため省略しますが、カール・ロジャースを知ったのは大段智亮先生が書かれた「人間関係の条件」という本を読んでからです。ロジャースの理論を紹介しながら論を進めるこの本のなかで大段先生は「積極的傾聴」という作法を提示しました。「積極的傾聴」とは次のようなものです。

【ケース】
  翌日の手術をひかえて不安で仕方ない患者が回診に来た医者に不安を打ち明けます。「先生、明日
  の手術はうまく行くんでしょうか。不安で不安で眠れないんです」と。

さて、あなたが回診に来た医者だったらなんと答えるでしょうか。「だいじょうぶですよ。目を閉じたらあっという間に手術が終わっていますから」と励ましますか?「なにを弱気になっているんですか。こういうときこそしっかりしなければいけないのに」と檄を飛ばしますか?「まぁ、手術を受ける人はみんなそういいますよね」とさらりと流しますか?そもそもあなたが患者なら医者になんて言ってほしいでしょうか。

大段智亮先生が提唱する積極的傾聴では〝患者の言葉を評価せず、言葉をそのまま傾聴して気持ちに共感せよ”と勧めます。共感を受けた患者は自分自身の心の中で気持ちを整理して解決方法を探っていく。その心理的成長の手助けをするのが積極的傾聴の目的であると指摘しています(30年も前の知識ですから間違っているかもしれませんが)。カール・ロジャースの「クライエント中心療法」もその核となるものは同じです。

私はその後、発達心理学やフロイト心理学、ゲシュタルト療法などにも興味が広がりました。交流分析や脚本分析といったものまで勉強してみました。そのどれもがとても面白く、医者になったらすぐに役に立つ実践的なもののように感じました。しかし、学部にあがり、医学・医療の実際に触れるにしたがって、学生のときに考えていた理想とは異なり、現実はそうたやすいものではないことに気が付きました。

そのことに気づかされたのは精神科の授業ででした。講義をしていた当時の精神科の教授はとても高名な先生でした。授業も刺激的でしたし、人間的にも尊敬できる先生でした。私は授業が終わってからその先生に質問に行きました。「精神科の診療において精神分析や心理学はどの程度重要なのでしょうか」。そう質問する私に先生は優しい笑みを浮かべながらこういいました。「君をがっかりさせる状況かもね」と。

もちろん当時は大学の医学教育の中で「患者にどう接するべきか」といったコミュニケーション論を教える講座はありませんでした。「患者が病む疾患」に対応する術は教育しても「疾患を病んだ患者」に対応するスキルを教えるまでに当時の医学教育は追いついていませんでした。最近ではそれなりに改善されて講義や実習が組まれているようで、興味深い授業・実習がおこなわれていると噂には聞きますけど。

そんなお寒い医学教育を受けて医療の現場に送り出された私は、精神科の教授に言われた「君をがっかりさせる」ような現実を目の当たりにしました。積極的傾聴をしようにもその時間もない。毎日が忙しく通り過ぎていくからです。不治の病と対峙して心が折れそうな患者に対して我々がしてあげられる精神的サポートはほんとにわずかです。本来、担当すべき当時の精神科は内科以上にそうしたことに無関心でしたし。

一方で、積極的傾聴が役に立たない場面も少なくないことにも気が付きました。本来、クライエント中心療法は「来談者中心療法」と訳され、「なにか解決法をもとめてやってきた人」に対しておこなわれる心理療法です。しかし、日常の現場で接する患者のすべてがそうした「来談者」ではなく、ある種「病をもって現れる受け身の人たち」です。そうした人たちに心理的成長を促す作業はそう簡単ではないのです。

欧米人は概して日本人よりも社会的に成熟していますし、個人の精神のよりどころに関しても日本人とはことなります。宗教的な背景の違いも無視できません。しかも、書物でかじった程度の技術で有用な積極的傾聴ができるはずもなく、患者の心理的な成長につなげていくことなどなかなかできなかったのです。日々、こうしたことに意識的になって診療をしていても厳しい現実が目の前に立ちはだかっていたのでした。

とはいえ、今、学生のときに勉強した心理学や精神療法が役に立っているときもあります。それは子どもに注射を打つときです。私は注射を嫌がり泣き叫んで抵抗する子どもを力づくで押さえてワクチンを接種したりしません。子どもに注射をするとき、心理学的な知識を利用してみるとそんな強引なやり方をしなくても済むからです。そのせいか子供たちは「船戸内科の注射は痛くない」と言ってくれます。

子どもが注射を嫌がる主な理由は、痛いからではなく、怖いからです。ですから注射をするときは恐怖心を煽るようなことはできるだけしません。注射を極端に怖がって抵抗する子どもは、えてしてそれまでにとても怖い思いをしているものです。その最たるものが「押さえつけられて注射をされること」です。自分の恐怖心も理解してもらえずに、むりやり注射をされる恐怖。大人だって人によってはトラウマになります。

診察に入って来た子どもを見て、私はまずどの程度の恐怖心をもっているかを推察します。その恐怖心の程度によって、その恐怖心に「寄り添う」ということからはじめます。積極的傾聴です。そして、その恐怖心の中核になっている部分を「明確化」します。怖いのは「実態がわからないから」だからです。お化けが怖いのと同じ理由ですね。「君が怖いと思っているところは実はこうなってるんだよ」と。

ですから、子どもが納得するまで(針を刺させてくれるようになるまで)はなんどもなんども説明します。実物を見せたり、子どものあたまの中で恐怖心が明確な像として浮かび上がるように具体的な話しをします。こういうプロセスを経てようやく恐怖心が薄まるのです。無理やり押さえつけられないことを悟れば、たいがいの子どもは針を刺すところまではやらせてくれるようになります。

あとは冗談をまじえて会話をしながら、子どもが「この医者は信頼できるかも」と思ってくれればあとは簡単です。「この針は一番細い針だからね」と針先を見せると、多くの子どもは「ほんとだ」と言ってくれます。そして、刺入部をちょっと強めにつまんで「ここが一番痛くないところだってことを先生は知っているんだよ」と得意げに。ちなみに、強めにつまむのは針を刺したときの痛みを軽く感じさせるためです。

そして、「はい、息を吸って~」の「て」のときに針を刺してしまいます。人は息を吸うとき意識的になります。「吸って~」と言われて意識が呼吸にそれた瞬間に針を刺してしまえば痛みはあまり感じないのです。と同時に「ほら、もう針がはいってるよ。痛くないでしょ」と暗示にかけながら、「ゆっくりお薬をいれるからね」、「もう半分終わったよ」と矢継ぎ早に声をかけます。目標の明確化ってやつです。

最後は、注射の時間を長く感じさせない話術が必要。「あと3つ数をかぞえたら終わりだよ。さ~ん、に~い、い~ち」とゆっくり語りかければ。これだけで10秒はかせげます。注射液が入っていくときの痛みはこれでなんとか軽減できます。こうした打ち方をすると、多くの子どもは注射が終わった後、「ほんとだ。ぜんぜん痛くない」と言ってくれます。でも、実際は痛いんです。「思ったより痛くなかった」だけ。

いちど痛くないと感じた子どもは次からそれほど大騒ぎをしないで打たせてくれます。安心するのです。こうしたところに心理学的な作法が役に立っていることを実感できます。だからといって、押さえつけて注射をする医療機関を責めてはいけません。そうしなければたくさんの患者をさばけないのですから。ずいぶん昔になりますが、当院では注射を嫌がって30分以上も診察室でねばった子がいました。

そうはいっても心理学の手法を利用することは結構難しいです。診療時間の問題もありますし、こちらの心構えの問題もあります。スキルの錬度の問題もありますから。でも、学生時代に勉強したこと、青年期に読んだいろいろな本が診療のあちこちで役立っているなぁと思える場面があります。なにより、これまでの自分の精神的な成長にも役立っています。家庭円満のひけつにもなっているかもしれません。そう考えると青年期の悩みは長い人生を乗り越えるための貴重な財産だといってもいいでしょう。

「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、み~んな悩んで大きくなった」ってとこかな。

 

【追記】
 「岩樹荘のおじさん(こちらのブログをご覧ください)」が4月18日に98歳で永眠されました。
  いろいろお世話になったことはすでにこのブログでもなんどかご紹介しました。
  あらためて「岩樹荘のおじさん」に感謝を申し上げたいと思います。
  安らかにお休みください。ありがとうございました。

                                         合掌

 

 

「死ぬ」ということ

「死ぬ」ことを英語では婉曲的な表現で「pass away(亡くなる)」といいます。「die(死ぬ)」という直接的な表現もありますが、あいまいさを嫌う英語においてですら「亡くなる」という柔らかい表現があるのは「死」が持つマイナスの印象を物語ってのことだろうと思います。人の心の細かいひだを表現することが得意な日本語では「死ぬ」「亡くなる」「旅立つ」「永眠する(永遠の眠りにつく)」「天国に行く」「お隠れになる」「逝去する」「死亡する」「絶命する」「薨去する」「冷たくなる」「神に召される」などの多様な表現があり、私たちの祖先が「死」をどのように見てきたかがよくわかります。

死ぬことは怖いことです。とはいいながら、今の私が死を実感として恐れているかと言えばそれは怪しい。今、私が死ぬことによって、「家内や子供たちを残していかねばならない」ことに対する不安感のようなものはありますが、実際のところ、死ぬということがどのようなものなのかは今の私にはまるでわかっていないといっても過言ではありません。これまでたくさんの「死」と関わってきたこともあって、一般の人に比べれば「死」を比較的身近に感じているかもしれません。でも、命に関わるような大病をしているわけでもなく、「死」というものを自分の問題として感じてはいないからでしょう。

先日、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が亡くなりました。マスコミを通じて報じられる先生はいつもお元気だったので、日野原先生が亡くなるなんてことは想像もしていませんでした。ですから、逝去されたというニュースを聞いたときはなんとなく意外でした。しかし、先生が百歳を超えて近づく自分の死を達観していたかといえばそうではなく、亡くなる何か月か前のインタビューで「死ぬことは怖い。死の話しをストレートに言われると恐ろしい」と答えていたようです。とても正直な感想であり、たくさんの死を看取って来たクリスチャンでありながらも素直に答えるこの姿はさすがだと思いました。

私のクリニックに通って下さる患者さんの多くは高齢者です。これは当院担当の会計士も繰り返し指摘するのですが、当院の通院患者に占める高齢者の多さは特徴的です。したがって、毎年、何人かの通院患者が亡くなります。ある人は長年患ってきた病気の悪化によって。ある人は突然の病によって。また、ある人は理由もわからず朝冷たくなっていたなんていうことすらあります。ですから、外来で患者さんとちょっとした会話をしたときに「死」に関する話題が出てくることだって決して珍しくはありません。今も、手術不能で緩和ケアを受けるようにと宣告されて途方に暮れている患者さんが何人かいます。

ただ、そうした患者さんとの間で、直接的に「死」について話しをすることはあまりありません。患者さん自身がそのような「死」に関する話題を望んでいない限り私の方からお話しを振るようなことはありません。ですから、患者さんに対して本当は「死」に関するもっと突っ込んだお話しをしたいと思っていても、そのようなお話しができないまま亡くなってしまうケースがほとんどです。私はなにか特定の信仰をもっているわけではありません。また、「死」について達観した確固たる確信や信念をもっているわけでもありません。「死」の話しを積極的にできないのは、本来私にとって避けたくなる話題だからかもしれません。

医者になってこれまでたくさんの死を看取ってきました。以前、このブログでも紹介した高校生大学生といった若い人の死もあれば、百歳近い大往生ともいえる人の死までさまざまな経験をしてきました。お坊さんがすでに亡くなった人の魂を慰めるのだとすれば、臨床医は死にゆく人々の魂を慰めるのが仕事だといっても過言ではありません。しかし、現実はどうかと言えば、臨床医は「これから生きていける人」の相手はしても、「死にゆく人々」をしっかり看ているかといえばそうではないように思います。「治療しない(できない)なら退院してくれ」といわんばかりの医療が行われているのもまた事実です。

もちろん私もそうした医療をしてきたのかもしれません。とくに大学病院にいたときはそうかもしれない。しかし、私は私なりに戸惑いながら、そして、悩みながら「死にゆく人たち」に寄り添おうと思ってきたつもりです。そうした気持ちが患者さん自身に伝わっていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼ら彼女らの気持ちを理解したいと思っていました。でも、患者さんがそれぞれ置かれている立場や心のありようが異なり、また毎日の忙しさに立ち止まって患者のことを考えることができなかったことも多く、死にゆく患者のために十分なことをしてあげられたと胸を張れる自信はまったくありません。

とはいえ、今の私なりにいえることは、人間の「死」の意味は年齢によって違うということです。高齢者が大往生ともいえる生の終焉を迎えるとき、人は「長い間ご苦労さま」「今までありがとう」「ゆっくり休んでください」と声をかけます。もちろん、二度と戻っては来れない旅に出発するわけですから、その別れは淋しいものであり、悲しいものです。しかし、そこには一抹の安ど感があるものです。出棺のときにひとしきり流した涙も、時間と共に笑顔になれるのが高齢者の死です。生あるものはいつか必ず死にます。その限られた命が燃え尽きるように消えていくのは決して悲しいことだけではありません。

しかし、若い人の死はそうではありません。本人にはやり残したことがたくさんあったはずです。生きていれば輝くような幸福も手に入ったかもしれません。しかし、その死によってすべてが奪われてしまったのですから本人の無念はいかばかりのものでしょう。若い人の死を看取る家族の心に残す傷もまた決して浅くはありません。自分たちのかけがえのない子供の、あるいは孫の死を看取らなければならないことがどれほど辛いことかは想像を超えます。若い人の死は何回経験しても嫌なものです。主治医の私たちでさえ時に逃げ出したくなるような気持ちになります。

ただ、そんな死に際してなお残された者がしなければならないことがあります。死にゆく人たちが「生きざま」や、あるいは「死にざま」を通じて残された人たちになにかを残していきます。それは思い出かもしれませんし、財産かもしれません。あるいは勇気かもしれませんし、癒しかもしれない。後悔と反省を残す場合もあるでしょう。いずれにせよ、残された人たちは死にゆく人たちから贈られた「無言のメッセージ」ともいうべき遺志を感じ取り、その思いを引き継いでいかなければならないのです。死にゆく人は死ぬこと、生きることを通じて残された者たちへメッセージを託しているのです。

人は誰も死から免れることはできません。そのなかでどう生きるかということは、どう死ぬかということにつながります。死を宣告された人間がどう生きるかはもちろん、一見して健康的な生活をしているかのように見える人にとっても、生きることは実は死への道をどう歩くかということなのです。これまでの私の臨床経験の中で、いろいろな人の死を看取ってきましたが、やはり「立派な死に方」をした人からはたくさんのメッセージを受け取ったように感じます。「傲慢になるなよ」「肩書なんて人間にとってなんの価値もないんだよ」「家族を大切にせよ」「こだわりなんてものは邪魔なだけ」、などなど。

医者になってよかったと思うことはそれほどないのですが、それでもたくさんの患者さんから得られた無言のメッセージは今に自分に役立っていると思います。考えてみると人生は短いものです。生まれてくるのも一人なら死んでいくのもひとり。おもしろ可笑しく生きるのも人生なら、自分を鼓舞しながらストイックに生きるのも人生。人知れず死んでいくのも人生ですし、他人の注目をあびるような華々しい人生を生きていくのもまたひとつの人生です。なにをどう生きようが、それぞれの人生は他者に無言のメッセージを残していきます。生きる者、残された者はそうしたものに意識的になりたいものです。

死ぬことは確かに怖いことです。でも、絶望することではありません。たとえ死ぬまで苦痛に七転八倒した人でも、死ぬ瞬間は安堵の表情になります。魂が肉体を抜けだすとき、あらゆる苦痛や不安から解放されるからです。魂になったときすべての人は仏になります。その瞬間まで、人の人生は修業なのかもしれません。「早く死にたい」と思っていても、人はその修業に耐えねばなりません。「死にたくない」と思いながら往かねばならない場合もまた同様です。それが仏への道だからです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、同じような宗教観を説教・宣教していることは興味深いことです。

なにかとりとめのない内容になってしまいましたが、「死」に悩み、苦しんでいる人になにかを訴えるものになっていれば幸いです。

現実はあそこにも

私はいわゆる「医療ドラマ」というものを見ません。現実との違いにとても見ていられなくなるからです。三十代そこそこの医者が「天才外科医」と呼ばれたり、出てくる医者が皆判で押したように高級外車を乗り回し、まるで「鳩山御殿」かと見まごうような家に住んでいる。あるいは代々医者の家庭に嫁いだ女性が姑に「○○家の後継ぎを産むのがあなたの使命なのよ」なんてすごまれる。まれにそうしたケースがあるかもしれませんが、そんな話しは私のまわりで見たことも聞いたこともありません。

そもそも三十代そこそこの医者と言えば、後期研修をおえてようやく独り立ちする年齢です。第一術者になれるかどうかって年齢でどうして「天才外科医」なんでしょう。しかもそれで「大学教授」なんてちゃんちゃら可笑しくて見ちゃいられません。高級外車をこれ見よがしに乗り回し、立派なおうちに住んでいる医者だって今どきそういるもんじゃない。いることはいますよ、私たちと別世界の人達は。でもそれは少数派。だって多くの医者はそんな生活するために医者になったわけじゃありませんから。

世の中に幅を利かせているイメージって、実は結構いい加減なものです。私の父は警察官でしたが、刑事ドラマを見ている父を見たことがありません。これもドラマに出てくる警察官の姿と実際があまりにも違いすぎていて、ちゃっちくて見ていられなかったんだと思います。もとより医療の世界はある意味で閉鎖的ですから、そうしたいい加減なイメージが作られやすいのでしょう。逆にいうと、一般の人には知られていない苦労も医者には多い。そんな苦労を知ってもらうためにも医療の本当の姿をドラマ化してほしいのですが、イメージ先行の今の世の中ですからなかなかそんなドラマにお目にかかれません。

僕らのときは、大学病院の研修医の月給は約5万円。市中病院でも月給約15万円ほどでした。私達には労働基準法は適用されません。研修医のほとんどは24時間、365日の勤務みたいなもの。いくら残業してもそのほとんどはサービス残業なのです。それでも指導医には「おまえら研修医は本来給料なんてもらっちゃいけないんだ」と言われたくらいです。でも、研修医は給料をもらえるのでまだましです。医員と呼ばれる大学の医者のほとんどは無給です。それでは食べていけませんから、医員の多くは大学病院での勤務が終わると他所の病院で外来診療をしたり、検査や当直のアルバイトをします。そして、大学に戻れば通常勤務。

私が一人前の医者になったころ、研修医の過労死の問題がクローズアップされて待遇が見直されました。そして、今ではアルバイトを禁止するかわりに給料が増額されたようです。病院によっては朝9時に勤務開始、夕方5時に勤務終了なんて夢のような研修ができるところもあると聞きます(個人的にはそれがいい研修だとは決して思いませんけど)。ですから、その勤務時間をはずれての業務は指導医がやらなければならないとか。僕らの頃は雑務は研修医がやるものだったのですが、そんな時代になっちゃったんですね。もっともそんな病院は現実には少数でしょうけど。

医者になりたてのころ、私がアルバイトに行かされていたのは東京の下町にある小さな病院でした。月に1回だけ土曜日の午後から日曜日の午前中までの日当直が仕事でした。入院中の患者の具合が悪い時に病棟に呼ばれて薬を出したり、あるいは検査をしたり、ときには休日の外来診療もやらなければなりませんでした。その病院の近くにはお寺がいくつかありました。最寄りの駅を出て病院に向かう道は下町の風情を残していて私は嫌いではありませんでしたが、ちょっぴり寂しい雰囲気の場所でした。その道すがら、ひとつのお寺の門前に掲示板があるのに気が付きました。そこはそのお寺の歴史が書かれてありました。

病院の周辺はかつて花街であり、昔はたくさんの女郎さんが働いていました。その女郎さんたちは病気になって働けなくなると故郷に帰されるのですが、中にはその故郷になんらかの事情で戻れない人もいます。そうした人たちが亡くなると、この寺の前に捨てられていったのだそうです。そのお寺はそんな人たちを弔うところだったのです。いつもこのお寺の前を通りながら、私は心の中で手を合わせていました。住宅地のなかにポツンと立っているそのお寺の悲しい歴史を知ると、なおいっそうお寺の界隈が悲しく見えてきて、当直する病院もなんとなく悲しげに見えたものです。

病院はその場所に古くからある個人病院でした。古びた建物は増改築を繰り返して複雑な構造をしていました。曲がりくねった狭い廊下を歩くといろいろな病室が並んでいます。どの病室も畳敷きで、患者はその畳の上に布団を敷いて寝ていました。酸素吸入を必要とする患者の枕元には酸素ボンベが無造作に転がっていて、私はカルテを入れたスーパーのかごをぶらさげながら回診をしました。入院患者は皆高齢者で、かつて花街の女郎さんだった人もいましたし、ヤクザだった人や在日朝鮮人も少なくありませんでした。多くは肝炎を患い、肝硬変となり、中には末期癌となっていた患者もいました。

私は回診をしながら「この人たちにはもうここしか居場所はないんだ」ということを思い知らされました。引き取ってくれる家族もなく、帰る故郷もない。皆うつろな目をして一日中天井を見ている。中には「先生、この病院から出してください」と私の腕を力なくつかんで涙をこぼす人もいました。まるで死ぬのを待っているかのような人たちを見ながら切ない気持ちを抑えて回診をしました。夜になると、病棟からはうめき声が。「苦しい、苦しい。誰か、誰かっ」。それも一人ではありません。消灯後の暗闇の中で助けを求める声がずっと続き、そのたびに私は病棟に呼ばれていました。

あるとき、外来にひとりの高齢のご婦人が急患で来院しました。「胸にできたおできが治らない」ということでしたが、診察室に入った私はすぐにその患者から悪臭が漂っていることに気付きました。その患者の衣服を脱がせ、胸に当てられているタオルをとって私は驚きました。左の乳房に大きなしこりがあり、その表面から血液の混じった浸出液がにじんでいたのです。悪臭はここからのものでした。明らかに末期の乳がんです。聞けば半年以上前からしこりには気が付いていた、と。しかし、そのご婦人は怖かったのか、あるいは貧しい生活に医療機関に受診する余裕がなかったのか、これまで放置していたといいます。

私は言葉を選びながら「これは病院で検査を受けなければなりません」と説明しました。すでに悪性のものであることを察しているのか、それほど驚く様子もありませんでした。でも、その表情からは病院に受診しないだろうことは容易に想像できました。乳房のしこりから滲み出し、悪臭を放っている浸出液をぬぐって、軽く消毒をしてガーゼを当てながら、きっとこの人はもはや死ぬ覚悟をしていると感じました。私は痛み止めと抗生物質を渡しながら、「(経済的な理由で病院に受診できないのであれば)区役所に相談すればいい方法を考えてくれるので、週明けには必ず区役所に連絡してください」と説明しました。

丁寧に礼を言って診察室から出ていくその人の後ろ姿を見ながら無力感を感じていました。普段努めている近代的な病院とはまるで違う医療がここにはある。医療はすべての人に平等だと言われているけど、現実は決して平等なんかじゃない。でも自分にはなにもできない。「社会の吹き溜まり」とも言うべき現実を突きつけられ、その無力感に押しつぶされそうだったのです。陽も満足にあたらない薄暗い病室の布団の上に横になり、ただじっと天井を見ているだけの患者たちを今でも思い出します。なにもできない無力感にうちのめされたあのときの自分と共に。医療の現実はあそこにもあったんだと改めて思います。

 

心に残る患者(4)

母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。

入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。

この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。

とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。

M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。

ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。

「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。

ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。

そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。

ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。

M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。

「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。

実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。

でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。

人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。

幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。

心に残る患者(3)

医学部での講義でしばしば「患者は生きた教科書」という言葉を耳にします。その意味は、医学書に書いてある知識だけでなく、目の前の「病んだひとりの人間」と向き合いなさいという意味をもっています。なるほど医学書にはいろいろな疾患に関する知識が網羅されています。しかし、現実の診療の現場でそれらの病に苦しむ患者は必ずしも教科書通りではなく、ひとりひとりのバリエーションがあることに気が付きます。それぞれの患者がどんなことに苦しみ、悩んでいるかについては当然教科書には書かれていません。そうしたことすべてが先ほどの「患者は生きた教科書」という言葉には込められています。

私自身も振り返ってみると、医学書から学んだことよりも、実際に患者さんから学んだことの方が多かったかもしれません。さまざまな患者と接してみて、医者として成長していったという側面もあります。もちろんいい思い出ばかりではありません。苦い経験や悲しい思いもたくさんしました。医者としてはそうした思い出の方が多いようにも感じます。しかし、そのような経験や思い出、履歴を重ねていくうちに医師として洗練されていくのかもしれません。その意味でたくさんの患者さんの思い出は私にとって財産です。

(1)研修医としての試練をあたえてくれたTさん
Tさんは当時80歳を超えていました。いわゆる江戸指物の職人で東京都から表彰されたということを誇りにしている人でした。職人としてはかなりの腕前なのでしょうが、その分だけ厳しい人でもありました。まだ医者になりたての新人研修医であった私が慣れない手つきで点滴をしようと苦戦していると、眉をひそめながら痛そうに私をにらみつけている、そんな人でした。よりによってTさんは誰よりも針刺しが難しい血管をしていました。点滴に慣れている看護婦さんでさえも一度では成功しないのですから新人研修医にうまく針が入るはずがありません。何度刺しても針は血管に当たらず、針先をさぐっているとTさんは「いててて、痛った~っ。お~痛てっ」と大声で叫びます。ちょっと大げさだなと思うくらいの痛がり方でしたが、こっちは冷汗をかきながら心の中で「早く血管にあたってくれ」と祈るような気持ちで処置をしていました。しかし、結局はあえなく失敗。するとTさんはため息をつきながら「ま~たダメか。おまえは下手くそだな~」と憎々しくつぶやきました。「すみません。もう一度やらせてください」と病室を逃げ出したい気持ちを抑えての再チャレンジ。ところが、針が血管に入っても、点滴を流すと血管の外に漏れだしてまた失敗。「もういい。点滴はやめてくれっ」と私をにらみながら吐き捨てるようにTさんは言いました。誰も代わってくれませんから、「またあとでもう一回やらせてください」といって部屋を逃げるように退散。そんなことの繰り返しでした。でも、毎日、そして何度もそんなことをやっていくうちにだんだん点滴の針がうまく入るようになってきます。一発で針が血管を当てたときなどは、Tさんは私以上にうれしそうでした。「だいぶうまくなったじゃないか」と。あの厳しかったTさんがそういってくれるようになったころには、Tさんの点滴をしに行くのが楽しみなくらいになりました。そのときは気づきませんでしたが、患者の苦痛を乗り越えて医者は成長するんだと今改めて思います。Tさんには申し訳なかったのですが、本当に感謝、感謝です。

(2)思い上がりを静かに叱ってくれたMさん
研修医2年目となった私はそれなりに医者らしくなり、少し自信を持ち始めたころでした。新人の研修医も入っていっちょ前に指導医のようなこともやっていました。新人研修医と一緒に担当していたMさんは肺癌の脊椎転移でほぼ寝たきりでした。原疾患である肺癌のせいもあってだいぶやせてはいましたが、それでもかつては「大いに飲み、大いに働く」といったモーレツサラリーマンだったことを思わせるのに十分な雰囲気をMさんは持っていました。脊椎に転移した癌による痛みもあるでしょうに、私達が点滴をしに病室に入ると張りのある元気な声であいさつをしてくれました。それはあたかも研修医に「頑張れよ」といってくれているようで、むしろ病室を訪れる私の方が元気をもらっていました。2年目の研修医となり、それなりにある程度のことができるようになっていた私は、あるときMさんの点滴をするのにまごつく新人にイライラしていました。そして、何度もしくじるその新人研修医をMさんの前で叱ってしまったのです。Mさんがその様子をどう見ていたのかはわかりませんが、そのときの私はさぞかし傲慢に見えていたんだと思います。そのあと、なにかの用事で私ひとりでMさんの病室を訪れたとき、Mさんは静かに私に言いました。「先生、あの先生を叱るのはやめてください」。私はハッとしました。「彼もなにをどうしたらいいのかまだわからないのです。私も部下をさんざん怒鳴ってきましたが、なんて傲慢だったんだって今頃になってわかりました。もう遅すぎますけどね」。私はなんとか笑顔を作ってお礼を言いましたが、心の中は恥ずかしい思いでいっぱいでした。そのときはじめて自分の傲慢さに気が付いたからです。しかも、Mさんは新人研修医と一緒のときではなく、私ひとりのときにそんなことを話してくれたのでいっそう心に響きました。以来、私はいつも謙虚であろうと思いました。そして、研修医を指導するのではなく、一緒に学ぼうと心に誓いました。それに気が付かせてくれたMさんにも感謝、感謝です。

(3)明治生まれの気骨と品を教えてくれたKさんとSさん
研修医の時に担当したふたりの明治生まれの患者も思い出深い方々です。ひとりは元関東軍参謀だったKさん。関東軍とは大東亜戦争(第二次世界大戦)のとき、遼東半島から満州を守っていた帝国陸軍の総軍のことです。その後、日本が戦争にひきづりこまれるきっかけとなった満州事変にも関与したとされる歴上有名な軍隊です。その参謀をしていたというので、はじめはどれだけ厳しくて怖い人かと思っていたのですが、Kさんはいつももの静かで優しい「おじいちゃん」でした。私が研修していた東京逓信病院は、昔、関東軍の作戦参謀をしていた石原莞爾中将が入院していた病院でもありました。Kさんが石原中将と知り合いだったのかどうかはわかりませんが、そのこともあっての入院だったのかもしれません。お見舞いにくる人たちは皆そうそうたる人ばかりで、来客は皆、Kさんの前では直立不動で話しをしていました。いつもは「優しいおじいちゃん」だったKさんも来客のときばかりは背筋をピッと伸ばしていて、その姿はまさしく関東軍の参謀そのものといった雰囲気を漂わせていました。幕末から明治維新にかけての歴史が好きで、今の日本の礎を築いた明治の人々に特別な思いをもっている私にとってKさんはまさしく「尊敬すべき明治人」。明治の気骨を感じる人でした。

思い出に残る明治生まれのSさんも忘れられません。Sさんは明治生まれにして横浜の女学校に通ったという才女でした。品のよい顔立ちもいかにも横浜生まれの「おばあさま」。Sさんのふたりの息子さんも大手企業の社長と重役でした。担当した私は折に触れてSさんとする世間話しがとても楽しみでした。どんなときでも穏やかに語りかけるようにお話しするSさんはなんとなく皇族の方々のように見えました。あるとき、Sさんが私に言いました。「先生は結婚してらっしゃるのかしら」。世間話しのときのことですから、私はさらっと「いいえ」と受け流したのですが、Sさんはさらに「お付き合いしている方は?」と尋ねてきました。「いえ、研修医はそんな身分じゃありませんから」と言うと、突然「うちの孫娘とお見合いしてみません?」と。あまりにも突然だったのですが、ずいぶん前から私にお孫さんの話しを切り出すタイミングを探っていた、とのこと。私は「Sさんのお孫さんとなんてめっそうもない」と丁重にお断りしましたが、粗雑に育ったきた私にとっては謙遜ではなく、心底そう思っていました。あんなに品のある人の孫娘さんってどんな人だろうと関心はありましたけど。Sさんは女学生が袴をはいて自転車に乗った主人公が出てくる「はいからさんが通る」という漫画の世界を彷彿とさせる上品で明るい人でした。私がもの心ついたころにはもうふたりの祖母は亡くなっていたので、その分だけ心に残る「おばあさま」でもありました。

 

今の自分につながっている記憶に残る人たちはまだまだたくさんいます。でも、その多くはもうこの世にはいません。そうした人たちが今の私を見てなんというでしょうか。褒めてくれるでしょうか。それとも、ダメ出しされてしまうでしょうか。研修医と言う感受性の強い時期に巡り合った人たちは今の私の財産です。今でもときどきあのときに戻りたいと思うことがあります。いろいろな可能性を秘め、希望にあふれ、なにもかもが新鮮だったあのころ。苦労をひとつひとつ乗り越えては成長を実感できたあのときの胸のときめきが今はとても懐かしく感じます。そんなことを考えるのも私が歳をとった証拠でしょうけど。

※「心に残る患者(4)」もお読みください。

良きサマリア人

みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。

とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。

つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。

以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。

かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。

ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。

「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。

「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。

ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。

あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。

倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。

だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。

 

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。

わが心の故郷「逓信病院」

医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。

その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。

当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。

この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。

研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。

東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。

ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。

そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。

ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。

ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)