思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い(2)

(注)赤字の部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます。

******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じていたがなにかが違うと思いながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、じっと私の話しを聞いていた助教授がその教授の言葉を遮るように言いました。「君の意志は固いの?」。「はい」、きっぱりうなづく私。「だったら再受験すべきだと思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくよ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその助教授の言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ励みになったことか。この先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば開復手術しか治療法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

トラブルメーカー?

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年はいろいろと忙しく、また、法人の解散やらでバタバタしていたせいか、ブログの更新がなおざりになりがちでした。しかし、患者さんから「ブログを楽しみにしてます」なんてうれしいことをいわれると、定期的に更新しなければと反省することしきりです。今年は最低でも月二回は記事をアップしようと思っていますので、長くて暖かい目で見守っていただければ幸いです。

今、巷では日本相撲協会と貴乃花親方との確執が報道されています。協会に事件を報告しないまま警察に知らせたこと、あるいは協会からの「協力依頼」をひたすら拒否する姿勢をとり続けた親方に対して協会は理事降格の処分を下しました。世間からは親方を「協会からの圧力をはねのけ信念を貫いた無双」と称賛する意見がある一方、「偏屈で頭のかたいトラブルメーカー」と批判する意見も決して少なくありません。どちらかというと貴乃花と同じような頑なさがある私は、これまでの職場でも「組織の論理」に反発してはしばしば上司とぶつかったせいか貴乃花の気持ちがよくわかります。と同時に、「組織の論理」というか、日本相撲協会の立場も今はそれなりにわかるつもりです。

ある病院をやめる直接的なきっかけについては、このブログでもなんどか軽くとりあげました。病院に搬送されてきた救急患者に対する初期治療をめぐって、治療にあたった救急担当医と病棟医として引き継いだ私との間で、いや、その救急担当医をかばう病院とそれを批判する私との間で深刻な衝突・対立・反目があったのです。それが引き金になって私はその病院を退職したのですが、そこに至るまでの間にも、病院の「組織の論理」ともいうべき姿勢に不信感を募らせることがいくつもあったのでした。そのたびに院長や上司とぶつかっていたため、あのときのことをありありと思い出します。そんなこともあってか、相撲協会と貴乃花親方との確執の話しを聞くと、親方が当時の私と重なってどうしても親方の肩を持ちたくなるのです。

その病院に勤務していた頃、私は呼吸器や循環器を中心とした内科医として外来や病棟で診療していました。病棟では各専門領域の先生のアドバイスや指示を受けながら、他の臓器領域の患者の主治医もしていましたから、実際には内科全般の入院患者のマネジメントをしていたことになります。それ以外にも、他科、とくに外科系の病棟から患者の内科的な治療方針について相談を受けたりすることもありました。また、外科系の病棟の患者が急変したとき、たまたま主治医が手術などで対応できないときは私達内科医に対応の要請がくることもありました。あるとき、内科病棟で仕事をしていた私のポケベルがなりました(当時はまだ携帯ではありませんでした)。それは整形外科の病棟からのコールでした。

「整形外科の病棟からいったいなんの用だろう」と思いながら駆け付けると、待っていた看護婦さんがあわてて私を病室に案内してくれました。病室には一人の若い医者がアンビューと呼ばれる人工呼吸をするための道具をもって立っていました。私はその医者に声をかけることもなくすぐに患者の診察をはじめました。患者はすでに意識はなく、呼吸も不規則になっており、かなり緊急性の高い状態だということはすぐにわかりました。枕元に突っ立っている若い医者に私はまくしててるようにいいました。「なぜすぐに挿管しないんだ」。「ぼ、ぼく、挿管したことがないんです」。「したことがあるとかないとか関係ないだろ。しなけりゃ患者は死ぬんだぞ」。その医者は慌てた様子でした。

そんなやりとりをしながら患者の気管に人工呼吸用の管を入れ、アンビューで肺に空気を入れながら患者を急患室に運びました。一段落して主治医から詳細を聴くと、意識を失う前は元気にリハビリをしていたとのこと。これまでの経過からは、整形外科の手術後の安静によって下肢にできた血栓がリハビリによって脳に飛んで梗塞巣を作ったことが考えられました。とくに呼吸がここまで不安定になったところをみると、呼吸をつかさどる脳幹という場所の脳梗塞が疑われました。とすればこれはかなり深刻な状況を意味します。そして、その後の検査によってそうした私の予想は正しかったことがわかりました。

ICU(集中治療室)に移送された患者には人工呼吸器が装着され、血栓を溶かす薬や脳のむくみを軽減させる薬が投与されました。そうした点滴の指示票を書きながら、さっきから私のあとをついてくるだけの整形外科の若い医者にいいました。「先生の患者なんだから、先生が書いてよ」。するとその医者は申し訳なさそうに「こういうケースを経験したことがないので書けないんです」と。経験がないのであれば仕方ありません。「じゃあ、いい機会だから教えてあげるよ」と言って点滴メニューについて説明をしようとするとその医者が言いました。「先生、そろそろバイトに行かなきゃならないんですが」。

私は唖然としました。内科病棟にいる自分の患者のことをあとまわしにして、まさにボランティアでやってあげているのにと思ってもあとの祭り。それ以後、その患者の管理のほとんどは私がやることになりました。まずは患者の家族への説明です。突然のことで心配そうにしている患者の家族に、「かなり重症の脳梗塞です。リハビリの開始をきっかけに足にできていた血栓が脳に飛んだことが原因と考えられます。事前に予測することは難しかったと思われ、現在できるかぎりの治療を開始したところです。ここ数日がヤマだと思われます」と説明しました。動揺していた家族はその説明に神妙な面持ちでうなづいていました。

ところが翌日、ICUに行くと看護婦さんが心配そうな表情で「先生、ご家族が納得できないと怒っているので再度説明してください」と私に耳打ちしてきました。なにが起こったのかわからなかった私は、昨日の説明に納得したと思っていた家族になにがあったのだろうと思いました。そして、会議室で待っていた患者家族から話しを聴いて私は驚きました。その日の朝、整形外科の部長が病室に来て「今回の脳梗塞はリハビリとは関係ない。純粋に内科的な問題なので今後は内科が主科になる」と一方的に説明していったというのです。ボランティアで治療しているつもりだった私の心の中でメラメラと怒りが込み上げてきました。

ICUにもどると前日アルバイトにいったあの若い医者がいました。私はたった今家族から聞いた話しを彼にしました。「どういうこと?僕は君の患者を診てあげているんだよ」と怒りを抑えながら言いました。彼は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた後、いつの間にかICUからいなくなってしまいました。ところが、それから間もなく彼が戻ってきました。そして、「部長が先生と話しがしたいと言っています」とのこと。言いわけでも聞かされるのだろうと思いましたが、「いいですよ。しばらくここにいますから」と私。すると、「いや、部長室に来てほしいということでした」と彼。その言葉で私の怒りは頂点に達しました。

「ふざけるなっ。自分の患者そっちのけで診てやってる私がなんであんたの上司のところに出向かなきゃならないんだ。あんたの上司こそこっちに来るべきじゃないか」。他の先生や看護婦さんたちがいる中で私は大きな声を出していました。ほどなく整形外科の部長が憮然とした表情でやってきました。部長の顔を見るなり私の心の中で収めたばかりの怒りがよみがえってきました。「先生、厚意で診ている私に部長室に来いなんて失礼だと思いませんか。先生が勝手にした家族へのムンテラにも私は納得できません。家族に訂正してください。そもそも整形外科は自分たちで対処できない患者を内科に押し付けておいてなんですか」。

そのときの部長の表情を今でも忘れられません。なにせグウの根もでなかったのですから。すごすごとICUをでていく部長の後ろ姿をにらみつけていると、看護婦さんが手をたたきながら私のところにやって来ました。「先生、よく言ってくれたわ。あの先生、いつも傲慢で勝手だったの。誰も何も言えなかったので、先生が代わりに言ってくれて胸がすっきりしたわ」。私はちょっと恥ずかしい気持ちがしましたが、あの部長のやり方には心底腹が立っていたので、言いたいことが言えて私自身胸がすっきりしていたのでした。それを看護婦さんも支持してくれたのですからなおさら気持ちが晴れました。

以来、その部長は、病院の廊下で私と目と目が合うたびにきびすを返してどこかに行ってしまうようになりました。もともと私は根にもつ質ではないので、あんなことがあったとはいえすれ違うときには挨拶を交わすつもりでしたから部長のその態度はなんだかとても子供じみて見えました。それから間もなく、私は病院長に呼ばれました。なんだろうと院長室に行くと、院長がおもむろに先日のICUでの一件のことを話しはじめました。「先生、腹が立つこともあるでしょうが仲良くやってください」と院長は穏やかな口調で切り出しました。「当院は『和を尊ぶこと』をモットーにしているんですし」とも。今さら話しを蒸し返して弁解しても仕方ないと思った私はしばらく大人しく院長の話しを聴いていました。

「あの先生は本院では『天皇』とも呼ばれているんですよ」と院長は笑いました。なんでも、本院の回診時の部下たちの気の使いようは半端ではないと。それくらい権力は絶大だったのでしょう。そんな部長だからこそ、私みたいな下っ端の内科医に一喝されて面目を失って院長に告げ口でもしたのかもしれません。当時の私は「怖いもの知らず」だったんです。同時に、ある意味でアンタッチャブルだったあの部長もこれまで「怖いもの知らず」だったんでしょう。私は院長の話しを聴きながら「そんなこと俺には関係ねぇよ。こっちに非はまったくないんだから」と心の中でつぶやいていました。私は感情が顔に出やすいので、きっとそのときの不満や怒りはきっと院長にもわかったでしょうね。ときどき苦々しい顔をしていましたし。

こんなことしょっちゅうでした。いつもいつも誰か他の医者とぶつかっていました。当時の私は理想に燃えていましたからいい加減な医者が許せなかったのです。今でもあのときの怒りはもっともだと思っています。ただ、同時に、あのとき私が突っかかっていった医者のことももう少し理解してあげてもよかったのではないかという気持ちもあります。もう少し別の対応があったんじゃないか、と。そうした余裕がないほどに血気盛んだったんです。私には人のことをとやかく言う分だけ自分も後ろ指さされないように、という気持ちもありました。突っかかるのにもそれだけ覚悟もいるのです。「君のことも言わないから、僕のことも放っておいて」といっているような甘っちょろい雰囲気に苛立っていたいたんだと思います。

これを信念というのか、それとも偏屈というのか。正義漢というべきなのか、それともトラブルメーカーというべきなのか私にはわかりません。ですが、当時の病院に蔓延していた「甘っちょろい雰囲気(私自身が当時感じていた雰囲気ですが)」というものが組織を腐らせる、そんな風に感じていたのです。巷間伝えられる今の相撲協会の様子を聞くと、当時のあの病院と重なり心配になります。当時の自分を「若かった。青かった」とは思いませんし、仮にあの当時に戻っても同じことをしていると思います。ですが、貴乃花親方にはもう少し違った方法でなんとか日本相撲協会を改革できないかを考えてもらえればと思います。対立や無視からはなにも生れません。相撲は国技なのですから是非いい方向に変ってくれればと願っています。

あのときの患者は一命はとりとめ、人工呼吸器からも離脱しました。重い後遺症が残りましたが。その後はリハビリの出番となり整形外科が主科になりました。実質的な主治医は整形外科の医師に代わりました。私はホッとすると同時に、なにかモヤモヤした気持ちを拭い去ることができないままいつもの診療に戻りました。とはいえ、その後もいろいろなことがあって私は病院を退職することに。そのときたった一人私を引き留めてくれた先生は「いっしょにこの病院を立て直しましょうよ」と言ってくれました。「院内をかき回すトラブルメーカー」と映っていたかもしれない私を引き留めてくれたことがとてもうれしかったです。でも、「多勢に無勢」と感じましたし、そもそもすでに賽(さい)は投げられていました。

念のために付け加えておきますが、今回の話しは私の武勇伝としてチャラチャラ書いているわけではありません。また、特定の病院を批判するためのものでもありません。誤解のないようにお願いします。

 

過ぎ行く夏に

子どもたちがあれほど楽しみにしていた夏休みがもう終わってしまいます。待ちこがれているものはなかなかやって来ないのに、ようやくやって来たと思ったらすぐに終わってしまう。私の小学生の頃を思い出してみても、夏休みまでカウントダウンという時期になると胸がわくわくしたものです。とはいえ、私の場合、夏休みになったからといってなにをするわけでもなく、ゴロゴロダラダラするだけなんですけど。そして、あっという間に夏休みは終わってやりかけの宿題だけが残っているということに。
 
それにしてもなぜ夏休みの宿題があるんでしょうね。しかもそれなりにたくさんの宿題が。「休みが長いか
ら」であろうことは想像に難くないのですが、私にいわせると「長いとなんで宿題?」って感じです。夏休みにいろんなことをやりたい子どもも多いと思います。あるいは「なにもしないでゴロゴロするぞ」と考えている子どもたちや、ひょっとすると「たくさん勉強するぞ」と思っている子どもたちにとっても学校から課されるたくさんの宿題は迷惑な代物です(こんなの見つけました)。
 
私の父は家庭を大切にする人ではなかったので、夏休みに家族でどこかに旅行するなんてことはありませんでした。当時はまだめずらしかった自家用車を所有していた叔父一家に海に連れて行ってもらったことぐらいでしょうか。みんなでなにかをする(大勢でどこかに行く)なんてことが苦手な私でさえ、そうした夏休みの記憶は四十年以上を経てなお楽しいものとして心に残っているのです。自分の家族だけでも大変なのに私達も連れて行ってくれた叔父(もう鬼籍に入っていますが)にはほんとに感謝です。 

ですから、私もこれまで夏と年末には家族でちょっとした小旅行をするのが年中行事にしていました。子どもたちの思い出作りのためではなく、息子たちには私と同じような子ども時代を送らせたくないと思っていましたから。でも、なぜ「年中行事にしていました」と過去形にしたかというと、最近では子ども達が親と歩くのを嫌がって旅行に一緒に行ってくれないからです。どこかに食事に行くことですら「俺は家で適当に食うよ」となるのですから旅行となれば言わずもがなです。
 
長男が来年受験なのですがみんなで旅行をしたいという私の気持ちはかわりません。今年の春のゴールデン ・ウィークに横浜に一泊したときも、「受験生の俺を連れて旅行だなんて信じられないよ」と長男は文句タラタラでした。家内に諭されてしぶしぶ旅行に来ることになったのはいいのですが、彼はなんと夕方にひとりで宿泊先にやってきて、次の日午前中にひとりで自宅に戻っていったのでした。「そんなに勉強が大事なのか」であればいいのですが、そうではなくて「親と一緒に歩けるか」なので困ったものです。
 
話しは少し変わりますが、私のクリニックには毎日製薬会社の MR(営業の担当者)さんがやってきます。 彼らは新しい薬に関する情報を私たちに説明するためにやって来ます。彼らを相手に、話しをするのが好きな私は北海道の素晴らしさをひとりで熱く語ってしまうことがしばしばあります。北海道の四季折々の美しさと良さを MR さん達に熱心に話しをしてしまうのです。そんなときはいつも「先生は北海道が好きなんですねぇ」とあきれられてしまいますが、事実、私は北海道が大好きです。 

そんな私の熱いメッセージが彼らの心に伝わったのか、今年の夏休みに何人かの MRさんが北海道を旅行しました。ゴールデンウィークにも何人かのMRさんが北海道にいっていますから、私自身、北海道の観光PRにひと役かってますね(笑)。彼らから事前に北海道に行く日程を聞いているときは、天気が心配になって何度も北海道の天気をチェックしてしまいます。まるで自分が旅行するような気分になって、「せっかくの北海道旅行だからいい天気になってほしいなぁ」と思うのです。
 
何年か前のこと。ゴールデンウィークに「北海道を満喫してきます」と旅立っていった MR さんがいました。そして、帰って来て「北海道を十分満喫してきました」と私の前に現れた彼の表情はちょっと複雑でした。なんでも、レンタカーで道内を回っているとき、ゴールデンウィークであるにも関わらず大雪に見舞われてしまったというのです。本州に比べてまだ肌寒い北海道とはいえ、ゴールデンウィークにこれほどまでの大雪はめずらしいのですが。とはいえ、これもまさに「北海道を満喫」です。
 
ところで、夏が終わった北海道には秋が駆け足でやってきます。日中は夏のなごりでまだ暑い日も少なくないのですが、朝晩はめっきり涼しくなって長袖でも少し寒いくらいになります。そしてじきに大雪山系に紅葉がはじまります。本州では紅葉(こうよう)というと紅葉(もみじ)の赤を連想します。しかし、紅葉(もみじ)そのものも少ない北海道では紅葉(もみじ)が赤い色を発色する期間がさらに短く、赤い紅葉はあっという間に過ぎて黄色い紅葉がそれにとってかわります。北海道の紅葉は黄色なのです。
 
しかし、大雪山の紅葉はどちらかというと本州の紅葉に近く赤い色合いをしています。おそらくこのときの大雪の気温が本州の紅葉の頃の気候に近いからかもしれません。ですから、黄色い紅葉に見慣れている北海道においては大雪山の紅葉はとても新鮮に映ります。見頃は 9 月の中旬から下旬です。北海道に住み、温泉巡りで秋の北海道らしさに目覚めるまで、紅葉狩りにいくなんてことを考えたことはありませんでした。せいぜい北大構内の銀杏の紅葉をちらと横目で見る程度でしょうか。
 
秋らしくなってくると、朝晩、ストーブを炊こうかどうか迷うようになります。そんなときに行きたくなるのが温泉。とくに露天風呂に行きたくなります。気楽な学生の頃のこと、サークル仲間と私は週末の休みを利用して阿寒湖に行くことにしました。小さな車に男五人が長時間詰め込まれてついたところは雌阿寒岳・雄阿寒岳近くの露天風呂。ひんやりとした爽やかな空気が漂う中で、見上げると見事なほどに紺碧の空が広がっていました。その青く澄んだ空とコントラストを際立たせていてみごとな紅葉でした。
 
私はこのとき初めて紅葉を美しいと心から思いました。それまでは興味そのものがなかったのですから当然ですが、このとき眼前に広がっていた景色は私にとってはまさに「心洗われる」ものでした。以来、私は秋が一番好きな季節になりました。秋の紺碧の空と身と心をシャキッとさせるひんやりとした空気。そして、家に帰れば暖かい部屋が待っている。このときの気持ちはなかなか正確に伝えられないのが残念ですが、この感覚は千葉に住んでいては決して味わうことのできないものです。
 
今年の関東地方の夏は、恒例の大雨にならないうちにいつの間にか梅雨が終わってしまった感じがします。夏本番となっても暑い日もあれば、異様に涼しい日もあったりと、なんだか季節感が安定しませんでした。私が北海道が好きな理由は四季がはっきりしているところにあります。北海道の冬は当然厳しい。しかし、百花繚乱の春を経てときに本州よりも暑い夏となり、一瞬で通り過ぎていく秋を感じながらまた冬を 迎える。冬には冬の、夏には夏のよさが実感としてわかる北海道の生活は私に合っていました。
 
「秋は物悲しいから嫌いだ」という人がいます。でも、私の場合は、秋になってひんやりとした空気を感じながら紺碧の空を見上げるとなぜか「やるぞっ」と力が湧いてきます。なにをやるというわけでもないのに不思議と力がみなぎってくるのです。こういう感覚になったのも、あの秋の露天風呂巡りをしたとき以の紺碧の空を見て以降です。私にとって夏が終わるということは決して淋しいことではなく、いよいよ自分のシーズンがはじまるんだというような感じになります。秋に生まれたからでしょうか。 
 
また、新入生が本格的にドロップアウトするのもこの夏休みです。以前にも書いたように、私たちの時代は「医学部に入学」ではなく「教養学部医学進学課程に入学」。教養学部の 2 年間はまったく医学に接することはありません。医学を学ぶんだと心勇んで入学しても、医学部の学生だということを忘れてしまうような生活が続きます。そのためか、すっかり勉学意欲を消失して大学に来なくなる奴がぽつりぽつりでてきます。そうやって教養学部の2年間に何人もの同級生が退学・留年で消えていきました。
 
私が学生の頃にちょうど「宅配」がはじまったのですが、一緒に入学した学生の一人がアルバイトでその宅配便の配達をしていました。でも、大学での勉学よりもそちらの方が面白くなったのか、いつの間にか大学に来なくなって、結局、退学してしまいました。彼は最初からほとんど大学の授業に顔を出さなかったので印象は薄かったのですが、風の便りに彼はその宅配会社の正社員になったと聞きました。自分に合った仕事が見つかったのであればそれはそれで幸せなことではありますが、当時はびっくりしたものです。
 
欧米では 9 月が新学期。秋は気持ちも新たに勉学に取り組む季節です。私はもうすっかり「勉強」というものとは縁遠くなり、学生のころのように「やるぞっ」って気持ちにはなりません。一方、「勉強」の真っただ中にいる我が家の子どもたちは、夏休みが終わろうとしている今ブルーになっています。毎日、「あ~あ、もうすぐ夏休みも終わりかよ」だなんて愚痴ってますから。学校から出された宿題も終わったのかどうかもわからない状態で新学期に突入・・・。

おおっと。息子たちは、結局、今回のブログの冒頭で書いた私の子どものころと同じになっているではありませんか。DNAとはおそろしいものです。

(追記)
  この歌を聴くと「北海道の秋の紺碧の空」を思い出します。あのときの気持ちが伝わるでしょうか。

         Ruben Studdard  : 「Home」

  素敵ですよね。この歌声も、また、歌詞も。大好きです。

人生の転換点

人は生きていく中で、なんどか人生の転換点ともいうべき時を経験します。私にもそうしたときが何回かありました。中学生のときがそうでしたし、大学生の時期もそうでした。また研修医のときもまたそうだったと思います。中でもとりわけ中学生の頃は今の自分につながる大きな転換点だったと思います。

以前にもお話ししたように(「医者になる」もご覧ください)、小学生のころはまるで勉強には縁がなく、怠惰に6年間を過ごしてしまいました。中学校は地元には行かず、東京のとある区立中学校に入学しました。地元の中学校ではなく東京の区立中学校への越境は私の希望でしたが、なぜ越境を私が望んだのかは実は今をもってしても不明です。ともあれ、この中学校での三年間がなかったら今の私はなかったといっても過言ではなく、今さらながら運命的な出会いというものはあるんだなぁと実感します

でも、中学に進学しても生活態度は小学校のそれとはほとんど変わらず、電車通学するだけの生活が始まっただけで、進学を期に勉強に目覚めるなんてことは依然としてありませんでした。板書をノートすることもなければ、宿題をきちんとやっていく生徒ではなく、学校でただただボーっと過ごして家に帰ってくる毎日でした。中学1年生のときの担任との面談で母は「このままでは相当頑張らないと高校へ行けない」と冗談とも本気ともわからない指摘を受けてショックを受けて帰ってきたことがあるくらいです。

さすがにそんな私に危機感をもったのか、中学2年生の冬だったか、母親は近所に住んでいた大学生のお兄さんに私の家庭教師を頼んだのでした。数学と英語を教わりましたが、その大学生のお兄さんも教え始めたときの私の出来の悪さにびっくりしたに違いありません。それでもそのお兄さんが根気強く教えてくれたおかげで私自身は学ぶことの楽しさに少しづつ気づきはじめました。決してまじめな教え子ではありませんでしたが、授業がわかるようになるともっと勉強をしたいと思いはじめるようになったのでした。

中3になってこれまでとは多少内容が高度になるにつれて、授業中に先生が出題する問題に食らいつくことが面白く感じるようになってきました。とくに、私が心ひそかに好意を寄せていた女の子が席替えで私の隣になり、わからない問題の解き方をたずねてくるようになって俄然勉強に身が入るようになってきました。そして、授業中に先生が出題する問題にクラスの秀才よりも私の方が早く解けたり、彼よりもスマートな解き方をして先生に褒められるようになるとさらに勉強への意欲がわいてきたのでした。

私が通った中学校は下町にありましたが、文武両道をモットーとしていて、先生たちも熱心に生徒を指導してくれた素晴らしい学校でした。部活にも熱心で区内の中学校との陸上大会でも何度も優勝していましたし、学区内の他の中学校との進学実績でも競い合っていました。春になると「今年はどこどこ高校に何人合格した」ということが話題になり、中学3年生になった私達生徒も「来年はあの中学校には負けないぞ」という気持ちが自然と高まるような雰囲気の学校でした。

その反面、生活指導も厳しく、生徒には今であれば体罰だと騒がれるような指導も行われていました。しかし、そんな指導に反抗するような生徒はいませんでした。むしろ、そうした指導を面白がっていたようなところもありました。恐らく先生たちの愛情を生徒たちが感じていたからだと思います。あまり生活態度のよくなかった私はたびたびこの「指導」を受けていましたが、今となってはどの指導もいい思い出として残っています。今であれば大騒ぎになっているでしょうけど。

私がいつも受けていた指導は「おしゃもじの刑」。授業中におしゃべりをしていたり、宿題を忘れたりすると先生に「はい、おしゃもじ。昼休みに体育館に集合」と宣告されます。宣告を受けた生徒は昼食後、体育館に集合して「おしゃもじの刑」が執行されるのを待ちます。しばらくすると、屈強な体育の先生が給食で使う大きなおしゃもじを肩にかついで体育館に入ってきます。そして、私達生徒は一列に並ばされ、いよいよその刑の執行がはじまるのです。

「はい、壁に手をついてケツを突き出せ」。先生がいうとおりに両手を壁に尻を突き出すと、先生は助走をつけ、振り上げたおしゃもじをお尻めがけてふり下ろします。「パーンっ」。体育館に大きな音を響かせると、生徒は尻を抱えながら体育館を走り回るのです。「イテテ・・・」。それを見て笑い転げる生徒、次は自分かと恐れおののく生徒。体育館の中は阿鼻叫喚の世界と化します。でも、誤解のないようにいっておきますが、これは遠い昔の話し。決して体罰という意識は先生の側にも、生徒の側にもありませんでした。

私はこの他にも、「石抱きの刑」や「重力の刑」も受けたりしていました。前者は掃除用のほうきを二本並べ、その上に正座をさせられることからはじまります。そして、生徒の後ろにまわった先生は、「よく宿題を忘れるな、セバタは」と私の両肩に全体重をかけます。ほうきの上に正座した脛の痛いこと痛いこと。後者の刑は、クラスの出欠を記録する出欠簿の隅を指でつまみ、そこを中心に相対する角をあたまに自然落下させる刑。「ま~たお前か」と言われながらわられるのを生徒は面白がっていたようです。

髪の毛の長さにも校則に決まりがあって、朝の登校時に校門のところに週番の生徒と立っている生活指導の先生が髪の長い生徒を見つけ出します。そして、「昼休みに理科室ね」と声をかけます。そして、先生に指名された生徒は昼休みに理科室に集合。すると腕に自信のある先生が待っていて、髪の長い生徒は先生にバリカンで髪を切られるのです。うまくいかないときはときどき虎刈りのようになりますが、できあがった髪型に一喜一憂する生徒、そしてその生徒を面白がる生徒の姿は今はいい思い出です。

当時は「ゼネスト」とよがれる年中行事がありました。春になると旧国鉄(今のJR)の労働組合が大規模なストライキをして鉄道が全面的に止まるのです。止まらないまでも「順法闘争」と称してノロノロ運転をしてダイヤが大幅に乱れます。そのせいで首都圏の交通機能が完全にマヒ。今思うとよくそんなことがまかり通っていたものだと思いますが、年中行事みたいになっていたのでサラリーマンも私達学生・生徒も仕方ないとなかば諦めムードでなんとか工面をつけて会社や学校に通っていたのです。

ゼネストがあるちょうどその時期に学校では定期試験があります。ですから私のように電車を使って通学している生徒は、親が旅館業を営んでいる同級生の家に泊まり込んでテスト勉強、そして受験をしたのでした。同じ越境入学の友達と一緒に旅館にとまってのテスト勉強は楽しかったのですが、私は同級生たちが試験勉強する中あいかわらずのマイペースでボーっとしていました。それにしても先生も同じようになんとか都合をつけて学校に来なければならなかったのですから先生もずいぶん大変だっただろうと思います。

私の中学校は下町にありましたから、いろいろな生徒がいました。サラリーマンの子よりも親が商店を営んでいる子が多かったように思いますし、在日韓国・朝鮮人の子もたくさんいました。中にはヤクザの子もいました。でもみんな仲が良かった。先生も分け隔てなく生徒全員を同じように扱っていたのです。中にはいつも警察(少年係)のお世話になる生徒もいたりして、ある同級生は最終的に練馬鑑別所に収監されましたが、それでも先生たちは決して我々の前で彼を悪く言うことはありませんでした。

また同じように少年係によくお世話になった生徒の中には、その後、警視庁の警察官になった者もいます。卒業文集の「後輩に残すことば」に彼は「正義なき力は暴力。力なき正義は無力」と書いていました。今頃その生徒はどうしているんだろうとときどき思ったりします。このようにいろいろな生徒がいましたが、学校の中が荒れるなどということはありませんでした。生徒は先生を敬い、素行のよくない生徒ですら先生に手をあげるなど皆無でした。他の学校の不良とトラブルを起こすことはしばしばありましたけど。

このような中学校に通い、さまざまな友人をつくる中で、私は少しづつ変わっていきました。そして、先ほども述べたように、近所の大学生に家庭教師になってもらい、3年生になって密かに心を寄せていた女の子が隣の席になったのをきっかけに、私は勉強することの面白さを実感するようになりました。少なくとも数学と英語はそれなりにできるようになり、夏休みには難関校をめざす塾の入塾テストにも合格するまでになっていました。1年のとき、担任の先生に「このままでは高校に行けない」と言われていた私だったのに。

それでも私は、その塾では深い海底を漂う潜水艦のような生徒でした。みんな一流校と呼ばれる学校を目指す生徒ばかりでしたから私は少しばかり場違いだったのでしょう。先生にあてられてもまともに答えらえず、できるだけ目立たないようにしていました。あるときテキストの英文を訳すように指示されました。そこには「Glasses」という単語があり、これは「メガネ」と訳さなければ意味が通らないところを「草(こちらはgrass)」と訳してしまい、教室中の生徒に大爆笑されたこともありました。

それなりに成績は伸びました。それなりの高校にも受かりました。残念ながら私が思いを寄せていた隣の席の女の子は商業高校に進学して離れ離れになり、最後まで胸をときめかせるだけで終わってしまいました。卒業アルバムを開くと今でも当時の気持ちがよみがえりますが、そのアルバム写真に一緒に写っていた先生方もすでに亡くなられた方も少なくありません。一番私を気にかけて下さった1年生のときの担任の先生も何年か前にお亡くなりになり、教え子が主催したお別れ会が開かれ、私も出席してきました。

そのお別れ会にはたくさんの教え子が集まりました。そして、演壇ではその教え子たちが口々に昔の懐かしい思い出話しを披露していました。そのどれもが今では話すことがはばかられることばかりでした。でも、そのすべてがいい思い出として教え子たちの心の中に残っているんだということがわかるほどに会場は盛り上がりました。千葉の我孫子という田舎から東京の中学校に通っていた私をその先生は「かっぺ(いなかっぺ)」と呼んでいましたが、その先生自身も福島出身でいつもなまっていたのでした。

その先生は私が医学部に合格したとき、長い手紙を送って下さいました。そこには自分のことのように喜んでくれた先生のあふれんばかりの気持ちが綴られてありました。そして、自分の従弟も北大の医学部出身で眼科医だったことが書かれてありました。また、私が数学を教わった先生が、授業中に「教え子が医者になった。頑張ればみんなも夢をかなえることができる」と私のことをうれしそうに生徒に話しをしていることも伝えてくれました。このときばかりは本当にうれしかったです。

当時の中三の学年だよりに、英語の先生が次のような文章を寄稿しました。「人生には踏ん張らなければならないときが何回かある。ここぞというときにどれだけ踏ん張れるかにその人の価値はかかっている。みんなもそのことをいつも胸にして巣立ってほしい」と。私はこの言葉がとても心に残り、今でも自分の心の支えになっています。この中学校でのいろいろな先生との出会い、友人との関わりが今の自分を作っているんだということを実感しています。その意味で、自分の人生の大きな転換期となったいい中学時代を過ごせて本当に幸せだったと思っています。

ネボケルワタシ

札幌での学生時代の多くを過ごしたのは「岩樹荘(いわきそう)」というアパートでした。北大に合格してまずやらなければならなかったのは自分の住処をさがすことでした。それまでずっと両親の住む自宅から学校に通っていましたからはじての一人暮らしです。うれしいような不安なような複雑な気持ちだったのを覚えています。入学試験のころはまだ一面に雪が積もっていたのに、アパート探しに札幌を再訪したときにはもうだいぶ雪解けが進んでいました。日中はもはや氷点下になることはないため、道路や歩道の雪は融雪水となってどんどん側溝に流れていきます。そんな市内を札幌在住の知り合いの車に乗せてもらって探し回ったのでした。

除雪が進んでいる大通りは車のながれが多いせいかすっかり雪も姿を消していましたが、ちょっと辻通りに入ると結構な雪がまだ残っていました。私がアパートを探していた地域は学生用のアパートが多く、卒業式を終えて引っ越しをする学生が荷物を運び出している光景も見られました。こんな通りを知り合いの車に乗せられて走っていると、窓ガラスに「空き室あり」の張り紙をした一軒のアパートが目に入りました。それが「岩樹荘」でした。「ここ、どう?」。そう言う知り合いのおばさんの後ろをついていき、玄関の呼び鈴を押すと管理人室から厳格そうな初老の男性が出てきました。それがこのアパートの管理人でもある「岩樹荘のおじさん(「謹賀新年(平成29年)」もご覧ください)」でした。

管理人室でその「岩樹荘のおじさんやおばさん」と話しをして、すぐにこのアパートが気に入ってしまいました。薄暗い廊下はひんやりとしてまだ寒かったのですが、管理人室はストーブがたかれていてポカポカしていました。ごくごく普通の家庭の居間という雰囲気でしたから、なにかとてもアットホームな感じがして他人の部屋と言う感じがしませんでした。このアパートで医学部に進学する前の教養学部医学進学課程の2年間と医学部の2年間の合計4年を過ごしましたが、いろいろな思い出とともに「岩樹荘のおじさんとおばさん」によくしてもらった記憶が今も自分の心の中に生きています。

学生のころは決してまじめな学生ではありませんでした。つまらない授業はさぼっていましたし、代返(本人に代わって出席をとってもらうこと)が効く授業は代返を頼んだりしてアパートでダラダラ。あるとき、私はいつものようにつまらない授業をさぼって自室にこもっていたのですが、多少の後ろめたさを感じながらもいつの間にか寝てしまったのでした。そんなとき突然自室の電話が鳴りました。このアパートに入居してしばらくは電話がなく、管理人さんのところにある公衆電話を使ったり、呼び出しをしてもらったりしていたのですが、しばらくするとそれも不便になって固定電話を自室に引いたのです。

突然鳴り出した電話。私はちょうどそのとき夢のなかで留学生となにか会話をしているところでした。あまりにも急に夢から覚めた私は、受話器をとってもしばらくは夢と現実の間にいるようでした。受話器の向こうからは友人の声。授業に出てこなかった私を心配してくれての電話だったようです。「今日、講義に来ないみたいだけどどうかした?」。そう聞かれてもなんだかうまく言葉がでてきません。友人は「今、何をやってるの?」と。私はそんな受話器の向こうの彼を夢の中で会話をしていた留学生と混同したのか、「Oh、I’m スイミン(睡眠) now.」と答えてしまいました。電話の彼は驚いて、「えっ?なにっ?swimmingだって?」とびっくり。

ねぼけ話しは他にもあります。それは、まだ自室に固定電話をひいていなかったころのこと。外部から私のところに電話がかかってくると、管理人室から私の部屋に設置してあるベルが鳴ります。そのベルが鳴ったら管理人室に「了解しました」のベルで返事をし、電話のところにいって話しをするという仕組みになっていたのです。部屋でコンビニ弁当を食べ、満腹になって横になって寝ていたときのことでした。突然部屋のベルが鳴りました。びっくりした私は熟睡していたときに眠りを妨げられたせいか、「部屋のベル=管理人室に返事のベル」という反応をしなければいけないのに、そのふたつの事柄を結びつけることができず、なにをどう反応すればいいのかわからなくなってしまいました。

動揺した私は、なにを血迷ったのか、テレビのリモコンのボタンをいろいろ押してみたり、ガスコンロをガチャガチャとつけたり消したり、部屋の中をなにをしたらいいのかわからないままウロウロするだけでした。しばらくしてすっかり目が覚めて、ことの顛末を自ら振り返ることができるようになりました。そのとき私は思いました。「痴ほう症の患者ってこんな感覚を経験しているのではないか」と。人間って無意識にやっていることが結構多いということも、無意識のうちにいくつかの事柄を結びつけて行動しているということを実体験したのです。痴ほう症とは、そうした「いくつかの事柄を結びつけることができなくなる状態」ってことだとこのとき知りました。

岩樹荘では嫌な思い出ってまったくありませんでした。静かでしたし、管理人さんがいろいろと配慮してくれたせいか生活する場としては結構快適でした。他の入居者との交流こそありませんでしたが、周囲に迷惑をかける入居者もなく、生活音が気になるということも皆無でした。ただ、いちどだけびっくりしたことがあります。私の部屋のふたつ隣があるときから急ににぎやかになり、夜中までガヤガヤとたくさんの人の声が廊下まで聞こえてくるようになりました。しかも、夕食時になると部屋からはもうもうと煙までがもれてくるのです。しばらくは「友人を呼んで食事会でもしているんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたが、あまりにもそうしたことが続くのでなんだろうと。

ある晩のこと、いつものように夕食後にウトウトしていると、突然、ふたりの男性がたくさんのコンビニ袋をもって私の部屋に入ってきました。あまりにも突然のことだったので、お互いに顔を見つめ合うだけで言葉がでませんでした。これまでなんどか寝ぼけたことがある私はとっさに「この事態を冷静に判断しよう」とあせっていました。「まずはここは自分の部屋だろうか」「さっきまで自分はなにをしていただろうか」「このふたりに悪意や敵意はあるだろうか」、いろいろなことがあたまをよぎりました。結局、彼らは頭を下げるでもなく、バツが悪そうな表情をしながら部屋を出ていきました。

実は、あの騒がしい部屋にはとある外国人が入居したのですが、その後、次々と友人が寝泊まりするようになり、多い時は六畳に5人の人間が住み着くようになったのでした。しかし、そんなことが一か月も続くようになったこと、その部屋の住民はいつのまにかいなくなってしまいました。管理人のおじさんに聞くと、どうやらあまりにも度が過ぎるので退室してもらったとのこと。大陸的といえば大陸的な大胆さ、おおざっぱさですが、日本人の節度とはあまりにも相いれない振る舞いに、おじさんは「もうこりごり」と顔を曇らせていました。

「岩樹荘」での思い出(「X’マスは雪がいい」もご覧ください)は、私の北大時代の思い出でもあります。4年間の医学部の前半の2年までを過ごしましたが、親元を離れ、講義に出席することもふくめて、食事をとるのも、風呂にはいるのも、あるいは寝ることも誰にも束縛されない自由な時間であふれていました。医学部に入学するまではいろいろなことに悩み、不安を感じながら時間を過ごすことが多かったので、この岩樹荘での時間はなによりもゆったりとした幸福なものでした。その分だけ、部屋でゴロゴロと怠惰な時間を過ごしましたし、その思い出が強く私の記憶に残っていますが、そのときのゆったりとした記憶が今の安らかな気持ちにつながっているような気もします。ちなみに、医学部後半の2年間はちゃんと勉強して医者になりましたから誤解ないよう。