トランプ登場の影響

1985年、まだ東西に分かれていたドイツ(西ドイツ)のワイツゼッカー大統領が、第2次世界大戦後40周年にあたって「荒れはてた40年」と題する演説をしました。「過去に目を背ける者は、現在にも目をつぶるであろう」というフレーズを耳にしたことのある人は少なくないと思います。北大生になった私がふたたび第二外国語に選んだのはドイツ語。その授業でこの演説の原文が教材として使用されました。なかなか難しい文章でしたが、当時の私にとって、その演説の内容はあまり心に響くものではありませんでした。「自分のあたまで考える若者」ではなかったからです。ワイツゼッカー大統領の演説は次のようなものです。

*********** 以下、演説の要旨

先の戦争と暴力支配で斃(たお)れたすべての人に、今、あらためて哀悼の意を表します。ことに収容所で命を落とした600万人のユダヤ人。ならびにこの戦禍に苦しみ、殺されたソ連とポーランドの無数の人々。ジプシーや同性愛者、精神障害者、また、宗教上・政治上の立場ゆえに殺されなければならなかった人たちのことを追悼します。また、ドイツ兵として斃れた同胞、空襲で、あるいは避難の途中で命を失った同胞の哀しみも同時に思い浮かべたいと思います。

戦時中の犯罪に手をくだしたのはごく少数の者です。しかし、ユダヤ人たちに非寛容な態度、あからさまな憎悪が向けられていたことはどのドイツ人も実際に目にし、耳にしていました。人間の尊厳に対するとどまることを知らぬ冒涜があったことに目をつぶろうとしていたのです。人々にとって、ユダヤ人の絶滅をはかるということは想像を超えていたかもしれません。とはいえ、そうした犯罪が起こっていたであろうことや、実際に起こっていたこと自体に多くの人が気づかぬふりをしていました。良心を麻痺させ、自分の関知することではないと沈黙していた事例がたくさんあるのです。

戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全容があきらかになったとき、一切なにも知らなかった、気配すら感じなかったと言った人が多くいました。人間の罪には、露見したものもあれば、隠し通せたものもあります。大切なのは、十分自覚しながらあの当時を生きていた人ひとりひとりが今日、どう関わっていたかを静かに自問することです。罪の有無、また、年齢を問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。当時を知る人であれば全員が、過去からの帰結に関わっており、その過去に対する責任をおわされているのです。

問題は過去を克服することではありません。そんなことなどできるはずもないのですから。過去を変えたり、なかったことにすることはできないのです。大切なのは、過去に目をつぶる人間は、結局、現在のことにも目を覆っているのだということです。非人間的な行為を心に刻むことのできない人は、またそうした危険を犯すもの。ユダヤ民族は今も、そして、これからも起こってしまったことを心に刻みつけることでしょう。私たちドイツ人は、ユダヤ民族との心からの和解を求めています。私たちがユダヤ民族と和解するためには、事実を心に刻むことなしにはありえません。

ポーランドのゲットーやチェコで虐殺された人々がいます。ロンドンやロッテルダムでは空から無数の爆弾が落とされました。敗戦によってそれまでの故郷を追われ、悲嘆と甚だしい不正にさらされたドイツ人もいます。何百万人ものドイツ人が西に追いやられ、たくさんのポーランド人やロシア人が戻ってきました。そうした人たちも、かつては不正に耐えかね、自らの意志に反して故郷を離れざるを得なかった人たちでした。ヨーロッパの諸国民は故郷を愛しています。平和はそのためにあるのであって、決して復讐主義におちいることではありません。

われわれのもとで、新しい世代が成長し、政治的な責任をとれるようになりました。若い人たちに過去に起こったことの責任はありません。歴史の結果から生じた出来事に責任があるのみです。われわれ年長者は、若者がユートピアの救済論に逃避したり、道徳的に傲慢・不遜になることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう手助けしようではありませんか。人間がなすことは歴史から学ばねばなりません。人間は必ずしもより良くなっていくわけではないのです。道徳は完成することがありません。道徳的危機を乗り越えていくだけです。しかし、私たちにはそれが可能です。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

*************** 以上

今、改めて読むと素晴らしい演説です。ユダヤ人に対する民族浄化という戦争犯罪を背負うことになったドイツ国民として、自虐史観に陥らず、だからといって言い訳に逃げず、未来への展望をもってほしいと若者に語りかける内容に感動します。当時の私がこの演説に共感することはおろか、理解もできなかったのは、ひとえに社会的に未熟で、世界の歴史に対しても、また、地球上で起きているさまざまな変化にも関心がなかったからです。しかし、それなりの知識と教養を身につけた今であればこの演説の価値がわかります。と同時に、今の若い人たちには是非とも読んでほしい内容です。

これまで何度も繰り返してきたように、世界は大きな「歴史の転換点」にあります。その世界の様相(とくにアメリカの変貌)については、これまでの記事を読み返していただくとして、地殻変動のような世界的な変化のうねりが顕著になったのは、ドナルド・トランプというひとりの不動産王がアメリカの大統領になってからのことです。それはまるで、トランプ大統領という存在が、世界を密かに動かしている人たちをあぶりだしているかのようです。その人たちをディープ・ステート(闇の国家)と呼ぶかどうかはともかく、エスタブリッシュメントと化した大きな力が世界に影響を及ぼしていることが明らかになりつつあります。

40年前の若き日のトランプ大統領のインタビューを動画でみることができます。世界的な好景気にアメリカ経済が支えられているときのものです。不動産業によって莫大な資産を築き、成功した若き経営者としてインタビューを受けるドナルド・トランプ。当時のアメリカ社会を次のように表現します。「アメリカはずる賢い連中に盗まれている。アメリカ国内にいる連中にばかり盗まれているわけではない。日本やドイツ・ヨーロッパなどの賢い国家によってもアメリカは盗まれているのだ。しかし、彼等は悪くはない。アメリカを動かしている指導者、官僚たちのあたまが悪いからこうなるのだ」と。

今の主張と寸分もかわらないトランプ節です。「それではあなたが大統領になってはどうですか?」と問われたトランプは言います。「なるかもしれない。しかし、今はそのときではない。私が大統領になることよりも、アメリカをよい方向に導こうとする大統領に協力したいと思う」。トランプ氏はかつて民主党員でした。民主党に多額の献金をする大口のスポンサーだったのです。ところが、ソビエトにゴルバチョフという新たな指導者があらわれ、東西の冷戦構造が崩壊して世界は「素晴らしい状況」になるとトランプは思ったかも知れません(当時の私と同じように)。でも、その頃からアメリカが暴走をはじめました。

1993年に民主党のビル・クリントンがアメリカ大統領になりました。軍事バランスで平和がなりたっていた東西冷戦時代が終わって、東側諸国が次々と西側陣営に加わっていきます。しかし、ビル・クリントンは外交には無関心で、自他ともに認める外交能力に劣る大統領でした。在任中、中国に近づきすぎて「チャイナ ゲート」と呼ばれる不正資金供与疑惑も追及されました。その疑惑はビルの妻でもあるヒラリー・クリントンが原因だといわれています。クリントン氏は、その他にも、金にまつわるさまざまな疑惑を招きながら、大きく報道されることのなかった大統領だったのです。

クリントン大統領がもっとも批判されたのはさまざまな女性関係に関するものでした(そして、それは今も「エプスタイン・スキャンダル」として尾をひいています)。大統領就任前から多数の不倫関係を持ち、モニカ・ルインスキーという東欧系ユダヤ人との「不適切な関係」が大きく報道されました(東欧系ユダヤ人という存在は、今のウクライナ戦争でも影を落としています)。モニカ・ルインスキーとのスキャンダルはクリントン大統領の政治力を急速に低下させるものでしたが、それ以外にも女性問題によっていくつかの裁判で訴えられ、合衆国の国際的な地位と名誉そのものが地に落ちていきました。

その一方で、クリントン大統領はパレスチナにおけるアラファトPLO議長とイスラエルのラビン首相との和平合意をまとめることに失敗しました。ヨーロッパにおいては東欧のコソボでの民族紛争に介入し、アメリカ軍が一般市民を狙ったユーゴ空爆(国際法違反)を承認したのもクリントンです。イラクのバクダッドへの大規模なミサイル攻撃「砂漠の狐作戦」や、スーダンの医薬品を生産する工場にミサイル攻撃することをも承認しました。あるいは、ソマリアの内戦にアメリカ軍を投入し、部隊の撤退に失敗してウガンダでの虐殺を黙認するなど、クリントンは世界各地の紛争にアメリカを介入させた大統領なのです。

リベラルで穏健であると思われていた民主党が、実はさまざまな疑惑にまみれ、世界各地で戦争を繰り返していました。それに嫌気がさしたのかどうかはわかりませんが、トランプ氏は合衆国大統領が民主党のクリントンから共和党のジョージ・ブッシュに替わった2001年に民主党を離れました。無所属になったトランプ氏は、その後もさまざまな政治の腐敗、アメリカという国家の闇を見てきたに違いありません。民主党のバラク・オバマが2008年にアメリカの大統領になって、ノーベル平和賞を受賞してもそれはかわらなかったのです。むしろ、オバマ大統領のときの方が実はさらに深刻な事態になっていました。

オバマが大統領に再選された2012年、よほど民主党に失望したのでしょう。トランプは共和党に入党します。それはオバマ政権のときの国務長官(日本での外務大臣)だったヒラリー・クリントンが密かにしていたことを振り返るだけでもわかります。そのことは、2016年におこなわれたニューヨーク司教主催の慈善イベント「アル・スミス・ディナー」でトランプ氏が辛辣な言葉で語っています。しかし、会場にいた聴衆たちは当時、トランプ氏のぶしつけな放言ととらえ、苦々しい表情で聞き流していました。しかし、今、改めて聞くと、トランプ氏の指摘がいかに正しかったかがわかります。

大金持ちのドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領になぜなったのか。第一次トランプ政権時の4年間、合衆国大統領として受け取るはずの40万ドル(約6000万円)の年俸全額を、トランプ氏は退役軍人の支援のために、国立公園の自然保護のために、麻薬や薬害の被害者のために寄付しています。トランプ氏に対して「大統領になった理由は、金の次は名誉、にすぎない」と酷評する人がいます。しかし、名誉を得るためだけに大統領になる人がいるでしょうか。しかも、自分の資産を大きく減らしてまで。いや、いたとして、そんな人が暗殺されるのも覚悟の上で、アメリカがかかえるさまざまな問題の矢面に立つでしょうか。

トランプ氏がやってきたこと、そして、これからやろうとしていることを見誤ってはいけません。その隠れたメッセージを正しく読み取るべきです。もし、彼がやろうとしていることが、アメリカ合衆国という場所で成就したとしたら世界も大きくかわります。日本の「あたまの悪い政治家」や「天下・国家のことよりも選挙のことしかあたまにない政治家」であれ、その大きな世界的変化についていかなければなりません。そのときこそ若者の出番です。日本の将来は「今だけ、金だけ、自分だけ」のジジィとババァのためにあるわけではありません。これからの日本を担う若い人たちのためにあるのです。

冒頭のワイツゼッカーの言葉を繰り返します。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

私がとくに伝えたいことは「できるだけ真実に目を向けること」という部分です。前回の投稿「価値観の違い(2)」にも書いたように、真実かどうかは自分の理性を働かせて判断するしかありません。その情報が正しいかどうかは国家が示すことでもなければ、誰かに指示されることでもないのです。その意味で、今、新聞やTVといった、いわゆるオールド・メディアがさかんにキャンペーンを張っている「SNSの誤情報」という言葉に騙されてはいけない。オールド・メディア自身がこれまで誤情報や世論を誘導するための偏った情報を流してきたという事実を忘れてはいけません。

東日本大震災にともなう原発事故の時、放射能に対する過剰な報道に疑問を感じた私はなにが真実かを自分の手で探し、自分のあたまで判断することの重要性を学びました。そして、放射能の危険性に冷静になるべきだというレジュメを作って来院患者に配っていました。しかし、そうした私の行動に批判的な人もいました。「患者の命を守るべき医者として放射能の危険性を軽視しすぎだ」というのです。でも、さまざまな情報が飛び交うことは決して悪いことではありません。情報の正しさが後になってわかることがあるからです。原発事故の際に私が書いたレジュメの正しさはそのことを物語っています。

第二次トランプ政権の副大統領であるJ・D・バンスがミュンヘン安全保障会議で演説しました。そこで彼は「いろいろな意見が表明され、議論が交わされることが真の民主主義である」と語っています。また、価値観のなにが正しく、なにが間違っているかはもとより、人の心のありようを法律で断罪することの恐ろしさを指摘しています。その動画の中で、聴衆が「???」としているのは興味深い光景です。バンス副大統領は、私がこのブログで繰り返してきたことを、わかりやすく、簡潔に述べています。是非、最後まで見て下さい。そして、今の社会の動きを振り返って下さい。あとは皆さんがどう行動するかにかかっています。

 

 

価値観の違い(2)

以前の投稿「価値観の違い」にも書いたように、人の価値観は国柄や民族によって異なります。個人のレベルにおいてもさまざまです。それぞれの価値観の溝を埋めようにも難しいことがあります。それは、価値観の多くが必ずしも「良し、悪し」の問題ではなく、「好き、嫌い」の問題だからです。かつて、旧ツイッター(現在、X)で、音を立てながらそばを食べる日本人の姿に、外国人観光客が「あの下品な音はどうにかならないか」とつぶやいたことが話題になりました。生活の中でのなにげない音ですら、その印象は生まれ育った環境によってずいぶん違うものだということを実感させられます。

「音を立ててそばを食べること」が下品かどうか、が問題なのではありません。音を立てて食べるのが当たりまえの国にやって来て、「その下品な音をなんとかしてくれ」と言われても、ということ。それはまるで、寺の周辺に住む住民が「除夜の鐘がうるさい」と苦情をいうのと似ています。以前からそこに寺があって、年末の行事として除夜の鐘を鳴らしてきただけなのに、あとから寺の周辺に住むようになった人間に「うるさい」と言われても困るのです。嫌ならそこに住まなければよい。それだけのことです。しかし、最近は、なかなか「嫌なら住むな」とはっきり言い切れない時代になりました。

「価値観の多様性」という言葉の主旨は、いろいろな人が住む現代社会において、個人のもつ価値観を認め合おうというものです。価値観の多様性を認め合うことそのものはすばらしいのですが、言うほど簡単なことではありません。その理由が二つあります。ひとつは「価値観は好き嫌い」であり、理屈ではないがゆえに、対立する価値観を共存させることが困難だからです。もうひとつの理由は、「多様性を認め合う」ことがともすると強制になって、「多様性は認めない」という考えそのものを拒絶することになるからです。価値観の多様性を認めることにはそんな禅問答のような難しさがあります。

こうした現実的な難しさを抱える社会を維持するためには価値観を調整しなければなりません。「調整する」という意味にもふたつの解釈があります。ひとつは「対立する個々の価値観を調整する」という狭義の意味です。その一方で、「【すべての多様性を認める】とする考えと【一切の多様性は認めない】という考えを調整する」という広義の意味もあるのです。その狭義・広義の意味の間において、どの程度の振れ幅で価値観の違いを調整していくかが重要です。どちらが正しく、どちらが間違っているかの問題ではありません。しかし、最近の価値観の調整が、私には少し性急すぎて、なにか意図的であるようにも見えます。

 

価値観の調整が乱暴になったのは、ソ連をはじめとする東側諸国が崩壊し、アメリカ一極主義の時代となったころからのように感じます。それまでの世界は、アメリカを中心とする自由主義陣営とソビエトなどの全体主義(共産主義)陣営とが、バランス・オブ・パワーを維持しつつ安定が保たれてきました。若いころの私はそうした世界情勢を日々感じていたものです。しかし、東西の国家を隔てる壁が崩れると、世界中の全体主義国家が次々と「民主化」されていきました。当時の私は「これで世界は平和になる」と思ったもの。しかし、世界は安定するどころか、むしろ混乱から混沌へと変化していきました。

2012年にアメリカのバージニア州で黒人青年が白人の自警団員によって射殺される事件が起きました。この事件をきっかけにBLM(Black Lives Matter)運動がはじまりまったのです。BLM運動とは、アメリカ社会に根深く存在している黒人差別を批難する社会運動で、三人の黒人女性がソーシャルメディアを通じて全米に拡散したとされています(この運動には中国から多額の資金が投入されていたことが後でわかりました)。しかし、この事件の犯人だった自警団員がヒスパニック系で、黒人の大統領であるオバマ氏が国民に冷静になるよう呼びかけたこともあってやがて収束しました。

しかし、2020年、ミネソタ州で黒人被疑者を白人警官があやまって死亡させたのをきっかけに、再びBLM運動に火がつくこととなり、全米で大きな抗議運動がおこる事態にまで発展しました。当時のマスメディアが、トランプ大統領を差別主義者だと扇動的に報道していたこともあって、アメリカ社会の秩序を大きく混乱させる暴動事件に拡大したのです。そして、この社会運動は、いつしかアメリカ建国の歴史をも否定する運動に変わり、建国の父とされる多くの偉人たちの銅像を撤去させることにもなりました。この騒乱は、結果として警察活動を萎縮させ、犯罪を助長して、アメリカ社会を今も混乱させています。

こうした混乱の背景に、2016年の大統領選挙でトランプ氏が当選したことが無関係ではありません。トランプ氏は「今のアメリカがいちぶのエスタブリッシュメント(既得権益者)に牛耳られ、ごく一部の富裕層の金儲けに利用されている。世界から尊敬されていた、かつてのアメリカの栄光を取り戻そう」と主張して大統領選挙に立候補しました。当初、ほとんどのマスコミは彼を泡沫候補として注目していませんでした。民主党の大統領候補者からはもちろん、共和党の候補者たちからも批判されていたトランプ氏を多くのメディアが「きわもの」として報道していたのです。

メディアはトランプ氏の女性問題を繰り返し報道し、彼に差別主義者としての印象を植え付けようとしました。政治家としては州知事の経験すらなく、タレントであり、不動産で築いた大金持ちにすぎない。しかも、下品で無教養、常識も通用しないトランプがアメリカの大統領になったら大変なことになる、と騒ぎ立てたのです。そうしたトランプ氏に対する逆風は、アメリカ国内外を問わず吹き荒れていました。そんな四面楚歌の中、選挙直前の予想では、ヒラリー・クリントン氏が当選する確率は71.4%、トランプ氏は28.6%と報じられました。圧倒的にヒラリー優勢と報道される中で投票がはじまったのです。

開票作業がはじまると、いくつかのメディアがすぐにヒラリーに当確を打ちました。ところが、開票が進むにつれ、トランプ氏が得票を増やしていったのです。終わってみればトランプ氏が選挙人の55%を獲得して当選。世論を読み間違えたマスメディアは意気消沈しました。それでは、トランプ氏が第45代大統領になった2016年からのアメリカの4年間はどうだったでしょう。はじめこそ重要閣僚が次々と交代し、政治的経験がほとんどないトランプ氏に対する懸念が現実のものとなったかのようでした。しかし、その後、政権は安定し、アメリカの秩序と経済は回復しました。アメリカが関与した戦争すら起きませんでした。

トランプ氏が大統領になってからの変化はそれだけではありません。彼がこれまで、そして、今もなお繰り返し批判している、マスメディアの偏向があぶり出される結果になりました。メディアは必ずしも「真実」を伝えているわけではありません。詳しくは「歴史の転換点(4)」に書きましたが、トランプのスキャンダルとして報じられたロシア疑惑が、むしろ民主党オバマ政権のバイデン副大統領によるウクライナ汚職とつながっていることが明らかになりました。ヒラリー・クリントンのメール問題も単なるミスではなく、クリントン財団が世界中から不当な資金を集める団体だったことをも明らかにしたのです。

メディアによるトランプ氏に対する印象操作、恣意的な報道内容が深刻な問題だと私が思うのは、彼を政治的におとしめ、大統領の座から葬り去ろうとする策略に、個人レベルではなく、FBIやCIA、あるいは国務省や司法省などの政府機関が組織的に関与していたからです。これまで我々が映画の中での出来事だと思ってきたことが現実に存在していたのです。アメリカという国家のゆくえが、一般国民の選挙の結果ではなく(その選挙結果さえもが「盗まれたもの」といわれています)、エスタブリッシュメントたちの意志が影響していた。トランプ大統領の登場は、そうした現実に国民が気づき始めるきっかけになりました。

昨年の大統領選挙戦の過程で、ロバート・ケネディ・ジュニアやタルシー・ギャバードといった民主党の大物政治家がトランプ陣営に加わりました。その一方で、共和党の大統領候補だったトランプ氏自身が、共和党内部の抵抗勢力と戦いながら勝ち上がってきたという事実にも目を向けなければなりません。このような異例の出来事が、今のアメリカをとりまく政治問題の深刻さ、あるいは、アメリカ社会の異常さを表しているからです。それはまるで、自由と民主主義の国・アメリカが、社会的に真の自由を失い、いまや民主主義すらなくしかけたぎりぎりのところで踏みとどまっているかのようです。

 

アメリカのみならず、日本をふくむ世界が今大きな変革期を迎えています。これまでの社会のあり方を見直すと同時に、今のこの変革が社会をどのようなものに変えていくのかを冷静に見つめなければなりません。世界は東西冷戦の時代からアメリカ一極主義にながれがかわりました。そして、アメリカが牽引するグローバリズムの波が世界中をかけめぐるようになってからというもの、国境という壁すら必要がないかのような「国際化」があらゆる分野に求められました。しかし、それは一方において弱肉強食の社会を受け入れることを意味していました。強いものが弱いものから奪いとっていく世界観でもあったのです。

世界の1%の超富裕層が全資産の37%を独占しているといわれています。そうした超富裕層の三分の一がアメリカ人です。アメリカでの1%の富裕層が全米資産の30%を所有しています。中国のような共産国ですら、100万米ドル以上の資産をもつ富裕層は人口の0.3%ですが(共産国にこんな富豪が存在していることが異常)、富裕層の平均年収は約3000万円である一方で、年収20万円以下で生活している人民は全人口の40%だと推定されています。自由主義のアメリカであれ、全体主義(共産主義)の中国であれ、真の民主主義のない国家では富の独占が合法的におこなわれるのです。そして、これがグローバリズムの正体です。

日本にも押し寄せてきたグローバリズムの結果がどうだったのか。いわゆる「世界標準」は日本国民のために、ひいていえば日本のためになったのでしょうか。大規模なスーパーによって商店街は次々と姿を消し、もの作りの伝統が先細りとなり、日本の土地が外国資本に買い取られ、不良外国人による犯罪によって治安が悪化しています。もちろん日本の国際化によって、世界中で日本の強みを生かしているという側面もあります。しかし、日本でも「強いものが、弱いものから奪う」ことが合法的におこなわれ、最近では「社会的な弱者を装って公金(補助金)を盗み取る」ということすら横行するようになりました。

「持続可能な社会(SDGs)」というキャッチフレーズで進められている環境問題がいい例です。環境保護の名のもとに、環境の保護にはつながらない価値観を喧伝し、社会のあり方を誘導して公金を盗み取るのです。「脱炭素による地球の温暖化防止」のための再生可能エネルギーの推進もそのひとつ。太陽光発電パネルや電気自動車などは、その生産過程において二酸化炭素を大量に放出します。太陽光発電や風力発電のために、二酸化炭素を大量に吸収する広大な森林が伐採されています。レジ袋だって有料化が脱炭素につながらず、マイクロチップによる海洋汚染すら阻止しないことも今ではあきらかです。

脱炭素の問題に関しては客観的で科学的なデータで検証することができるはずです。それでも現在のSDGsという社会運動は、科学的な検討結果ではなく「環境保護」といういささか情緒的なムーブメント(しかも誰かの思惑によるもの?)に偏りすぎています。「本当にその対策が目的達成のために有効なのか」を考えて脱炭素を主張している人は多くはありません。「なんとなくそう言われているから」「それが企業イメージをあげるから」というあいまいな気持ちでながされている場合が少なくない。それが間違っているということがわかっても、なかなか以前の社会行動に戻せないことがほとんどです。

LGBTやフリージェンダーの人たち、または少数民族に対する差別の問題も同じです。現在の日本に本当の差別が存在するのか。あるとすればどんな差別が存在しているのか。そうした検証なくして具体的な対策は取れないはずです。そもそも日本における差別の問題は、文化的にも、宗教や信仰という観点からも大きくことなる欧米や他のアジア諸国のそれと単純に比較できません。ましてや、日本における差別の問題を、諸外国からとやかくいわれる筋合いはないのです。突っ込んだ国民的議論が国内にないまま、アメリカの政権から指示されたかのように拙速に「解決」しようとするのは間違いです。

差別の問題は、なにをもって差別とするかが情緒的・主観的なものであり、複雑模糊として単純ではありません。いろいろな考え方があるだけに、解決が難しいことなのです。昨日までなんの問題もなかった人間関係が、あらためて差別の問題を提起されてぎくしゃくすることもあります。あえて隠しておきたい人にとって、「カミングアウトして胸を張って生きろ」と強制するのも筋違いです。ひとの心の奥にある問題を単純に善悪という観点であつかえないのです。ましてや精神的にも、社会的にも未発達である子ども達の世界にもちこむべきテーマではありません。その意味で、今の教育は間違っています。

 

人の価値観の問題は拙速に結論を出してはいけません。社会の安定を維持するためには、人々の価値観を調整しなければなりませんが、価値観の問題は単純に「多様性の問題」として解決できないものでもあります。「多様性を認めることのどこがいけないのか」と思う方もいるでしょう。しかし、前述したように、「多様性を認めるべき」という考え方は、ともすると「認めなければならない」ととらえられがちです。そうではなく、「多様性をどう認めていくべきなのか」についての社会的な合意を築くプロセスそのものが重要。必ずしも「認めること」が絶対的な善ではなく、「認めないこと」が絶対的悪ではないからです。

ところが、今の日本において、価値観の問題が拙速に決めつけられているように思います。「基本法」という法律によって、簡単に「いい、悪い」が判断され、学校においても基本法にそった「洗脳」が子ども達におこなわれているのです。これまでの日本人の価値観を修正するような問題は、日本の伝統や歴史、文化や価値観に基づく広汎な議論が必要です。ましてや、特定の人たちの思惑による作為があってはなりません。社会の価値観の変更は、ひとりひとりの生活や人生に関わること。社会は「最大多数の最大幸福」のためにあるべきで、そうした理想を実現するためにも、さまざまな人たちによる深い議論が不可欠です。

アメリカや日本では、自由主義・民主主義を国是として掲げています。国家の役割のひとつは、すべての国民の自由と権利を調整すること。そして、その国家の方向性は国民の総意を反映したものでなければなりません。その国民の意思がいかなるものであれ、尊重されなければならない。それが自由主義の基本です。一方、国民の意思を国政に反映させる手段は選挙結果です。それが民主主義の基本なのです。ところが、最近のアメリカ、あるいは日本においては、そうした自由主義、民主主義を揺るがす構造的な問題が浮き彫りになっています。エスタブリッシュメント(既得権益者)という存在がそれです。

もっと具体的にいうと、国民の意思よりも、エスタブリッシュメントの思惑が政治に反映され、国のゆくすえに影響を与えている点を私は懸念しています。このことが深刻なのは、本来、権力を監視すべきマスメディア自体が権力と化し、エスタブリッシュメントそのものになっていることです。そうした社会の構造的な問題が放置されると、人々の知る権利が制限され、特定の人たちにとって都合のいい情報だけが社会にながされます。そして、国民の意思が操作され、それがまた世論調査の結果となって上書きされていく。そうなればもはや自由主義は全体主義に、民主主義は独裁主義へと変質しかねないのです。

古くは「大本営発表」といわれた情報統制がおこなわれ、国民の戦意高揚に都合のよいことだけが報道されました。また、つい最近まで、TVや新聞などのオールドメディアから発信された情報が世論を支配していました。メディアから伝えられたことを額面通りに受け取った国民だけではなく、他国の国民感情をも動かしてしまう力をメディアはもっているのです。「従軍慰安婦」や「福島原発事故調査報告書」に関する報道がそれでした。間違った記事が書かれたのではなく、世論の誘導を目的としたねつ造記事がよりによって「クオリティ・ペーパー(有力紙)」に掲載され、日本の国際関係にまで悪影響をおよぼしたのです。

メディアからの情報が必ずしも真実ではなく、民意を誘導する手段となっていたことが明らかになったのはソーシャルメディアが発達したからです。確かに、ソーシャルメディアに飛び交う情報は玉石混淆です。受け手による情報の選び方によっては間違った世論を形成する危険性があります。しかし、その一方で、情報が受け手に向けての単方向となれば、その情報は民意を容易に操作できてしまいます。自由な情報が交叉するからこそ、その情報の真実性が見えてくる。社会にあふれる情報を選別するためにも、ソーシャルメディアなどを通じて情報を自由に発信・受信できることは大切です。

ところが、そのソーシャルメディアの利用を制限するべきだという意見が、おもにメディアや政治家という権力者の間から出始めています。そうした動きに我々国民は警戒しなければなりません。国民の知る権利は「正しい情報」を知る権利。どの情報が正しく、どの情報が間違っているのかについては、個々人がリテラシーを総動員し、理性を働かせ、自分自身で判断するしかありません。人々の「価値判断」という「好き、嫌いの問題」を、いかにして「いい、悪い」に近づけるか。そのための指標は個人の理性と良識でなければならない。価値観の違いを超えた「真理」は、多くの人たちによる終わりのない対話によってでしか得られないのです。

※ 下記の動画は、今回の原稿をアップした後に配信されました。私の主張ととても重なるので、是非みなさんにもご覧になっていただきたいと思います。

 【そうきチャンネル】ザッカーバーグ・言論の自由陣営への参加表明