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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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暑い夏に思うこと

まだ6月だというのに、あっという間に梅雨が明けてしまいました。例年であれば毎日うっとうしいくらいに雨雲が垂れ込め、地方によっては連日の大雨に警戒警報がでるほどなのに今年はどうしたのでしょうか。この降雨量の少なさはお米の生育に影響するかもしれません。米は高温・多湿の地域に生育する食物。降るべきときに雨が降らなかった今般の気象が秋の収穫にどのような形で現れるかとても気になります。

そしてこの暑さです。「夏は暑ければ暑い方がいい」と考える私でさえ、このところの連日の暑さは心配になるほど異常です。実は私は二度ほど熱中症になったことがあります。しかもそのときの様子を思い出せば、それなりに重症だったと思います。テレビなどでも「熱中症」というワードをよく耳にするようになりましたが、多くの人は熱中症を身近なものと思っていないのではないでしょうか。

はじめて熱中症になったのは次男がまだ幼稚園にあがるかあがらないかのころ。夏休みに家族旅行で日光に行き、家康がまつられている史跡を見ようと山道を登っているときのことでした。からだが小さかった次男を背負ってしばらく歩いていると、突然大量の汗が噴き出してきました。山の中ですからそれほど暑かったわけでもなかったのですが、私は「滝のような汗」をそのままにして山道を歩いていました。

はじめはとくにツラいという感覚もなく、冗談をいいながら私は道を登り続けました。ところが、もう少しで目的地というところで急にからだが重くなってきました。子どもには「あと少しだから自分で歩いて」と背中から降りてもらい、身軽になったと思ったとき全身から力が抜けていくのを感じました。「どうしても横になりたい」という気持ちにかられた私は周囲の目もはばからず通路に横になったのでした。

横にはなりましたが、なんとも言えない倦怠感と軽い嘔気はなかなか改善しませんでした。心臓もバクバクいっていて、私は「これが熱疲労なのかぁ」と考えていました。地べたにダウンしている私を見下ろす家内と長男はゲラゲラと笑っています。彼らを心配させてはいけないと私もなんとか微笑みを返しましたが、内心「この脱力感と動悸は血圧がさがっている証拠。ちょっとやばいな」と思っていました。

しかし、山の中でのことですから直射日光が当たっているわけではありません。気温だってそれほど高くはありません。体が冷えてくるにしたがって徐々に回復していきました。家内と子ども達はそんな私をおいたままさっさと家康のお墓へと登っていきました。熱疲労は大量の水分と塩分を失って起こります。夏場は「たくさんの汗をかいたら水分と塩分を補給する」ことが大切。決して水分だけではいけません。

二度目の経験も夏でした。人間ドックで胃カメラ検査を受けたあと、水分の摂取もそこそこに帰宅を急いだのでした。最寄りの駅から自宅までは徒歩で30分ほど。健診が終わった安堵感か、気分も少し高揚していたこともあって、「暑い中を歩いて帰ろう」と考えてしまいました。照りつける日差しも、吹き出す汗も、心なしか気持ちよく感じていて、以前、日光で熱中症になったことなどすっかり忘れていました。

全身に太陽が照りつけ、途中、「自販機でなにか冷たいものでも買おうか」と考えましたが、家に帰って、シャワーをあびて、冷たいものを一気に飲んだらどんなに気持ちいいだろうなどと想像しているうちに自宅まであと少しというところまで来ました。「滝のように流れ落ちる汗」もそのままに私は歩き続けました。角をまがってあと数十メートルもすれば自宅、というところで熱中症の症状は突然やってきました。

日光のときのような全身の強い倦怠感が襲ってきたのです。私はあのときの体験を思い出しました。吹き出す汗、すぐにでも横になりたい気だるさ、激しい動悸と軽い嘔気。あのときとまるで同じ症状です。私は自宅を目の前にして歩けなくなってくるのを感じました。「家にたどりつけないかもしれない」と思いました。なんとなくもうろうとしてきたのを自覚しながら、倒れ込むようにして玄関に入りました。

驚いて駆け寄ってきた家内に、冷たいタオルと冷たいスポーツ飲料をもってくるように頼みました。日光のときよりも重症のように感じました。日光の山の中と違ってさえぎるもののない炎天下。気温も湿度も、また失う汗の量も全然違うのです。回復したあとで私は思いました。1984年のロサンゼルスオリンピックの女子マラソンで熱中症となったアンデルセン選手に近い状況だったのではないかと。

あのときのアンデルセン選手は「労作性(運動性)熱中症」だったといわれています。激しい運動により水分と塩分を失い、上昇した体温がさがらなくなる「労作性熱中症」になっていたのです。運動による体温上昇がはげしく、冷却されにくい環境であれば、必ずしも気温が高くなくても熱中症にはなります。そして、横紋筋融解症(筋肉が壊れる病態)や中枢神経障害をも引き起こすこともあるとされます。

このとき私は学びました。「熱中症は突然やってくる」のだと。畑仕事をしていた高齢者が熱中症で亡くなったというニュースをよく耳にします。かつて私は「そんなになるまでなぜ仕事をしていたんだろう」と疑問でした。しかし、違うのです。亡くなった人たちは「滝のような汗」をかきながら「もう少しできる」と思っているうちに、突然、熱中症の強い倦怠感に襲われ、地べたに倒れ込んだまま亡くなったのです。

今回のブログを読んでくださっている方の多くも、心の底では熱中症と自分は縁遠いものと思っているかもしれません。そして、「熱中症になりそうになったら休むから大丈夫」だと思っているはずです。しかし、「熱中症になったかな?」と思ったときではもう遅いのです。熱中症は突然やってくるのです。しかもその症状は私ですら立っていられないほど強い倦怠感なのだということを知ってください。

「滝のような汗」がではじめたらただちに涼しい場所に移動してください。そして、水分と塩分を補給してください。高温あるいは多湿の環境に長時間身をおかないことが大切です。「エアコンの冷房は嫌いだからつけない」という人がいます。しかし、「好き、嫌い」の問題ではありません。熱射病で亡くなる人の多くが冷房をつけていません。窓を開けて風通しのよい室内であっても、湿度が高ければ除湿が必要です。

政府は国民に電力の消費を抑えるよう要請しています。要するに冷房の使用を控えるようにということです。節電した国民にはポイントを付与し、節電に協力しなかった企業には罰則をもうけるという話しもあります。しかし、そのポイントも実はひと家庭あたり一ヶ月で数十円程度だということがばれ、急遽一回だけ2000円分の追加付与が決まりました。節電しない企業には罰則だなんて愚策は論外もいいとこです。

今、原油が高騰しています。それでなくても日本は、なんの法的根拠もなく、科学的根拠もないままに原発が止められています。史上類を見ない大地震が発生するリスクが低下しているのにまだ原発を停止しているのです。しかも、その原発での発電量をカバーするためにこれまで何兆円もの燃料費を余分に支払って火力発電をフルに稼働させているのです。今の原油高は円安でさらに燃料コストをつり上げています。

原子力発電所の多くが停止していますが、そのリスクは発電しているときとほとんどかわりません。発電はやめても原子力の火は灯っているからです。遠いヨーロッパでの戦争がアジアに飛び火し、日本に原油が入ってこなくなる事態も想定して、原発再稼働の必要性が議論されないのは実にゆゆしきことです。先の震災での原子力発電所事故の原因は、想像を超える津波が原因だということをあらためて考えるべきです。

新型コロナに対する政府の対応は、ずっと「検査、検査」「ワクチン、ワクチン」、そして「マスク、マスク」でした。この幼稚で、単調で、ピントはずれな無策ぶりはこれからも続くでしょう。この猛暑で電力が不足しブラックアウトが起こるかもしれないのに、国民に節電要請を繰り返すだけというのは実にお粗末な話しです。そんな小手先のことではなく、国民の命を守るために今こそ原発を再稼働させるべきです。

批判を恐れてなにも言わない、あるいは小手先の政策を小出しすることしかできない政治家たちにはあきれるばかりです。その一方で、理想論を繰り返すだけでなにもしない政治家はもとより、根拠希薄な週刊誌ネタを国会に持ち込んで騒ぎ立てるだけの政治家は不要です。この猛暑が続く中、参院選挙があります。国民には世界の現実に目を向け、日本の未来のために賢明な一票を投じてほしいものだと思います。

政治家の質は国民の民度を反映しています。いろいろな意味で今年の夏はいつになく暑いようです。

 

昭和、大好き。

今回はちょっと雑ぱくなことをだらだら書きます。

昭和レトロがいちぶの人たちの間でブームになっているというニュースを目にしました。その「いちぶの人たち」とはおそらく私のような「昭和ど真ん中の世代」なのでしょう。今よりも不便なことも、理不尽なことも、残念なことも多かった時代ではありましたが、昭和には多くの人たちに夢や希望があり、「明日は今日よりいい日になるかも」という思いがあったように感じます。

今という時代はいろいろな意味で社会が成熟しているといえなくもありません。機会の平等や豊かな生活が世の中の隅々に行き渡り、多様な生き方さえもが許容される寛容な社会になったともいえます。しかし、その一方で「義務よりも権利」という意識が強くなり、昭和以来の価値観が徐々に変質して、「社会よりも個人」「自由から混沌へ」と大きな振れ幅で変化しつつあることに戸惑うことも少なくありません。

現代社会は自由と平等が尊重される一方で「格差社会」をも生み出しました。チャンスも努力次第で平等になりましたが、富は富める者に集まる傾向がさらに強まっているように思います。富める人たちがその経済力にふさわしいお金の使い方をするかといえば決してそうではありません。デフレの時代に染みついた「節約・倹約・清貧」「よいものをより安く」という価値観は富裕層にまで浸透しています。

大量消費社会を必ずしもいいとは思いません。と同時に、SDGs(持続可能な開発目標)というスローガンも素直に受け入れることができません。今の日本に広く漂っている「閉塞感」は、社会にながれるお金が一部の人たちに偏在し、流動性が阻害されていることから生じているように思えます。お金のある人がもっとお金を使い、「良いものがより高く売れる社会」にしていかなければならないと個人的には思います。

イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会のあり方を主張しました。多くの人が幸福感を感じる社会を善とするこの考え方を功利主義といいますが、この思想はあたかも今の社会のあり方を批判しているかのようです。なぜなら現代は「上位1%の富裕層が世界の個人資産の40%近くを所有する社会」であり、「コロナ禍にあって富裕層はさらに裕福になっている」という矛盾をかかえているからです。

昭和は「みんなが貧しかったが、みんなが明日を信じていた時代」だったように思います。いろいろな不自由さに我慢を強いられることもありましたが、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが幅を効かせる今より人々の心の中はもっと自由だったかもしれません。その意味で昭和は「各人が少しづつ我慢をしながら全体として調和をとっていた功利主義的な時代」だったといえるかもしれません。

これまでの歴史を振り返ると、民主主義が発達していない独裁国家は、自国民の幸福よりも国家の覇権を求めます。それはフランスのナポレオンも、先の大戦のナチス・ドイツもそうでした。プーチンは「ウクライナのネオ・ナチを掃討する」とウクライナに侵攻しました。しかし、彼のやっていることはナチズムそのものです。真の民主主義が育っていないロシアの国民にはそれを止めるすべがありません。

ロシアがはじめた戦争は、ウクライナからの予想外の反撃によって長期化する気配です。武力による国境の変更という暴挙はヨーロッパのみならず全世界にも暗い影を落としつつあり、まさに第三次世界大戦さながらといえるかもしれません。先の大戦でたくさんの自国民を犠牲にし、その後も決して国民を幸福にはしなかったソビエトの地に人権を尊重する真の民主主義はなかなか育たないようです。

先日の新聞に昭和天皇に仕えた武官の日記が公開されたという記事が掲載されていました。敗戦が濃厚となったころの日本は、まるで今のウクライナと同じように、国土は荒廃し、たくさんの国民が犠牲になっていました。その時の昭和天皇のご様子を記録した日記は「昭和天皇実録」にも収載されていないらしく、これまで知られていたものとは異なる陛下のご心情を垣間見ることができます。

その日記によれば、このまま戦争を継続すれば、さらに多くの国民を失い、国土を荒廃させ、戦後の復興が困難になることを昭和天皇が憂いておられたとのこと。また、出撃する若い特攻隊員たちが辞世の寄せ書きをする様子を紹介したニュース映画をご覧になりながら涙をぬぐっておられたそうです。皇祖皇宗から引き継いできた国民・国土のことを考えて忸怩(じくじ)たる思いだったに違いありません。

以前のブログにも書きましたが、昭和天皇は皇太子になられてすぐ第一次世界大戦直後の荒廃したヨーロッパを歴訪されました。これは「将来の国家元首として戦争がいかに悲惨なものかを知っておくべきだ」と考えた西園寺公望や東郷平八郎たちの発案だったとされています。西園寺や東郷自身も幕末から明治にかけて全国で勃発した内戦の厳しい現実を身をもって体験してきたからだと思います。

当時、皇太子だった昭和天皇の目には、破壊の限りをつくした町並みはどのように映ったでしょうか。また、戦禍を乗り越え、復興に向けて立ち上がろうとするヨーロッパの人々の姿をどう思ったでしょうか。陛下は中国大陸への戦線拡大に反対しました。しかし、そのご意志に反して日本は日華事変に突入してしまいました。それほどまでにソ連の南下政策が日本の安全保障を脅かしていたからです。

少し話しはそれますが、戦後、GHQの最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥も第一次世界大戦のときヨーロッパにいました。アメリカ軍の参謀だった父親とともにヨーロッパに滞在していたのです。モンロー主義という孤立主義に徹していたアメリカは、それまでヨーロッパの戦争には関与しない態度をとっていました。しかし、大戦がはじまるとアメリカはその方針をひるがえして参戦を決めたのです。

マッカーサーは第一次世界大戦末期のヨーロッパにおいて、敗戦の色濃いドイツ帝国からほうほうの体でオランダに亡命する皇帝ウィルヘルム2世の姿を目の当たりにしました。自らの責任を放棄し、何両もの貨車に財産を積み込んで逃げていく国王。彼はオランダへの亡命後もしばらく皇帝からの退位をも拒否しました。亡命の責任は自分にはないというのが理由でした。そんな国王をマッカーサーは軽蔑しました。

第二次世界大戦後、日本に着任したマッカーサーは、昭和天皇から面会を求められたとき第一次大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世を思い出したといいます。陛下が自分の命乞いと財産の保護を求めてやって来るのだと確信していたのでしょう。だからこそ陛下を玄関で出迎えもせず、ノーネクタイで面会するという非礼をあえてしたのです。しかし、実際に目の前にした昭和天皇は違いました。

「天皇の名の下で戦った人々に寛大な措置をお願いしたい。そして、戦争で疲弊し、満足に食べることすらできない日本国民を飢えから救ってほしい。そのためであれば私はいかなる責任をも負うつもりである」と昭和天皇は震えながらマッカーサーに語ったといいます。マッカーサーはそんな陛下に衝撃を受けながら、かくも尊敬すべき天皇であるがゆえに日本人は敬愛してやまないのだと理解したといいます。

マッカーサーは父親の代からフィリピンに利権と財産を所有していました。しかし、南進する日本軍の攻勢にマッカーサーはフィリピンから脱出せざるを得なくなりました。たくさんのアメリカ兵を残して去って行く彼は、自らの莫大な財産とともにアメリカ国民からの尊敬を失ったのです。マッカーサーはこのとき日本への復讐を誓いました。「I shall return(私は必ずここに戻ってくる)」という言葉とともに。

日本への復讐を誓ったはずのマッカーサーの気持ちが変わったのは、昭和天皇のお人柄に触れたところも大きかったのでしょう。また、荒廃した国土を立て直すために黙々と努力する日本人を間近で見てきたからかもしれません。マッカーサーは朝鮮戦争の処理をめぐってトルーマン大統領と対立し、6年でGHQ最高司令官の任を解かれましたが、帰国後の1951年米国議会上院軍事外交合同委員会で次のように証言しました。

「日本には蚕を除いて国産の資源はほとんどない。彼らには綿も、羊毛も、石油製品もなく、スズも、ゴムも、その他の多くの資源がないのだ。それらのすべてのものはアジアの海域に存在していた。もしこれらの供給が断たれれば一千万人から一千二百万人の失業者が生まれることを日本政府は恐れていた。以上のように、彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」。

マッカーサーのこの証言は、サンフランシスコ平和条約の締結を後押しし、早期に日本の主権が回復することに貢献しました。ちなみに、マッカーサーは東京裁判で強まる天皇への戦争責任論を一蹴しました。また、靖国神社を焼き払うという計画が検討された際にも、ローマ教皇庁代表でもあったビッテル神父の「排除すべきは国家神道制度であり靖国神社ではない」という意見を聞き入れ神社の存続を決めたとされています。

1926年からの「昭和」は激動の時代でした。第一次世界大戦後の好景気は長続きせず、世界は大恐慌におちいります。日本は台湾と朝鮮を併合し、満州国を建国し、それらの地域のインフラを整備するために多額の投資をしました。それは日本本国にとってあたかも「母屋で粥を食い、離れですき焼きを食らう」と揶揄されるほどの負担でした。その結果、もともと資源も産業もない日本は世界恐慌の影響をもろに受けました。

そんな世界情勢の中で、日本は南下するソ連と対峙するべく大陸に進むか、東南アジアの資源を確保して来たる戦争にそなえるかを決められないまま米国との戦争に突き進みます。これはソ連がドイツ戦に集中するため、日本とアメリカとを戦わせるようコミンテルンが工作した結果だといわれています。日本の中枢にも、あるいは米国の閣僚にもソ連のスパイが少なからずいたことが今では知られています。

話しはだいぶそれましたが、思えば、こうした近現代史のなかの出来事も、私が生まれた1960年のたった15年前かそこらのこと。そう考えると、大東亜戦争(太平洋戦争)は私の知らない遠い昔のできごとではないことを実感します。私が生まれるたった100年前の日本だってまだ江戸時代。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたころです。教科書のなかでしか知らない歴史が意外に自分と近いことに驚きます。

そういえば、私がまだ小学校にもあがっていなかったころ、東京都葛飾区の亀有にあった警察の家族寮に住んでいました。が警視庁に務めていたからですが、その寮には我が家と同じような警察官の家族が同じ屋根の下に暮らしていました。決して広くもない部屋にひと家族が肩を寄せ合うように生活していたのです。部屋に台所はなく、一階に共同で使う台所があって床は土間になっており、スノコが敷き詰められていました。

トイレはくみ取り式で共同。キンカクシには木でできた蓋がいつもかぶせてありましたが、用を足すときには落ちそうな気がしてとても怖かったことを覚えています。このころの道路はまだ舗装されておらず、各戸の塀はおおむね木の板でつくられた簡単なものでした。そして、街のいたるところにこれまた木製のゴミ箱が設置してあり、ときどき「くず屋さん」と呼ばれる人が回収に来ていました。

私の住んでいた警察寮は古く、ちょっとした強風でも壊れてしまいそうな建物でした。そのためか、台風が近づいてくると寮の近くにあった大きな民家に子ども達は避難させられました。このお宅は広いお庭があるしっかりした建物でしたので、外で強風が吹いていても安心感がありました。子ども達みんなでろうそくの火を囲んで台風が過ぎるのを待っていたときの光景を今でも思い出します。

当時はまだ机と椅子の生活ではなく、狭い部屋の真ん中には丸いちゃぶ台が置いてありました。私の両親は新しいもの好きだったので、当時は高価だった白黒テレビとステレオがありました。テレビで放送される「怪傑ハリマオウ」や「ビックエックス」、「エイトマン」といった子ども向け番組に夢中でしたし、四本足のステレオから流れるクラッシックを聴きながら指揮棒をふっていたことを思い出します。

私が小学生のころにはまだ「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいました。戦地で大きな怪我を負い、腕をなくしたり、義足をつけていたり、なかには目や顔を負傷していたりと、ハンディを抱えながら生きている元兵士が道行く人たちに義援金を求めるのです。繁華街で軍帽と白い着物の人たちが自分の障害をさらしながら地面に四つん這いになっている姿は子どもの目には恐ろしく映ったものです。

繁華街にでたり、お祭りにでかけると、こうした傷痍軍人をよく見かけました。高度経済成長の時代となった当時の風景に「戦争」を感じるものはほとんどありませんでした。でも、街角に立っているこの傷痍軍人だけは暗くて悲しい戦争の痕跡を子どもたちに感じさせるのに十分でした。そして、その光景は、私の心のなかに戦争の勇ましさではなく、戦争のみじめさを植え付けたように思います。

1955年の国民総生産が戦前の水準を超え、翌年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれたことはよく知られています。私たちの世代は、先の大戦がまだ影を落とす中、経済大国へと成長を続ける日本とともに子ども時代を過ごしました。やがて日本は「ジャパン・アズ・ナンバー1」となり、バブル景気を迎えたのです。しかし、そんなときに昭和天皇が崩御されると、日本は一転して長いデフレの時代に突入します。

振り返ってみると、私のなかの昭和にはいつも昭和天皇がおられたように思います。昭和のどの時代を思い出しても、当時の昭和天皇のお顔が浮かぶのです。無知蒙昧だった高校生のころ、私は「天皇は国民の象徴なんだから、国民から選んだらいい」と言ってはばかりませんでした。天皇陛下や皇室が日本にとってどのようなご存在かを考えたこともなかったからです。今思うと本当に恥ずかしいことでした。

大人になっていろいろな本や資料を読み、日本の歴史を調べれば調べるほど、昭和天皇がいかに偉大な方だったかがわかりました。「激動の昭和」と簡単にいいますが、その大きな歴史の渦のなかで生きてこられた陛下の87年間がいったいどのようなものであられたのかは想像を絶します。「皇族もひとりの人間」という人がいますが、昭和天皇のご生涯は皇族が決してそんな卑俗な存在ではないことを示しています。

今の皇族のあり方については私なりに疑問に感じる部分があります。それはまたの機会に開陳しようと思っています。それはともかく、私は昭和を単なるノスタルジーとしてではなく、日本人としての誇りを覚醒させる時代として好きです。天皇というとてつもない重圧のかかる地位でありながら、不平も不満ももらさずに務めあげられた昭和天皇がおられたからこそ、私の中の昭和がいつまでも輝いているのかもしれません。

 

がんばれ、新人君(2)

地元の桜並木に薄桃色の花がまだ咲いていなかったころ、地球の反対側のヨーロッパで戦争がはじまりました。戦争なんてものは発展途上国の内戦だったり、名前も知らないような小国同士の小競り合いだったりするだけで、それなりの経済規模を有するまっとうな国が戦争など始めるはずがないと思っていました。しかし、そんな「常識」はあっさり裏切られ、「先進国」のひとつにも数えられるようになった国が、武力による国境線の書き換えをおこなおうとしている現実を世界中の人は目の当たりにしています。

戦後80年を経て、日本人はすっかり平和ボケしていました。敗戦後、「平和憲法」という新たな錦の御旗をあたえられた日本は、「戦争・戦力を放棄し、交戦権を否認すれば戦争に巻き込まれない」という夢を見続けていました。それが理想論にすぎず、絵空事であろうことはうすうす感じていながら、厳しい国際社会の現実にはずっと目をつぶってきたのです。しかし、今、自国の安全と生存は「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼する」だけでは保持できないという現実を突きつけられたといっても過言ではありません。

もちろんロシアが武力をもちいてウクライナとの国境を変更しようとするのにはそれ相応の理由があるのでしょう。そこにはウクライナとロシア両国の長くて悲しい歴史が影響しているのかもしれません。あるいは、オリガルヒやアメリカのエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちの思惑や、あるいはNATOによる安全保障上の戦略に両国がまんまと利用されているのかもしれません。とはいえ、いかなる理由があろうとも、人権を一顧だにせず、国際法に明らかに違反するロシアの暴挙を正当化することは到底できません。

たくさんの命が失われているウクライナでの絶望的にも見える惨状は日本人に多くのことを教えています。人類はなんどもこうした過ちを繰り返してきました。そのたびにあらたな平和を誓ったはずなのに、です。日本や日本人は、ウクライナのために、また日本自身のためになにをすればいいのでしょう。遠い東欧で起こっていることだと他人事にしてはいけません。戦争がもたらすものは恐怖と絶望、悲しみと憎しみです。この愚かな戦争を一日も早く終わらせ、二度と繰り返さないためにも今の現実に顔をそむけてはいけません。

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気分を取り直して、今日の話題をあらためて書きます。

春、進学したり、就職したりと、あらたな第一歩を踏み出す人も多いことでしょう。期待と不安の入り交じったスタートになっているに違いありません。先日、私のクリニックに、高校の後輩で、今春、北海道大学医学部を卒業したばかりの新人君が遊びに来てくれました。もはや後輩というよりも自分の息子のような彼も、この春から研修医としての厳しい修練がはじまります。その彼には研修医のころの思い出をいろいろ話しました。失敗も、ツラいことも、悲しかったことでさえも今の自分に活きていることを伝えたかったからです。

研修医だった私の一日は、朝早く病院に来て患者の採血をすることから始まりました。前日にオーダーしていた検査のための採血をするのです。そして、それが終わると、つい数時間前までカルテ記載していた担当患者の情報をまとめます。やがて病棟にあがって来る指導医に患者情報を報告し、その日にやっておくべきこと(検査あるいは処方)の指示をもらうためです。その後は、指導医と一緒に患者の回診にまわり、検査・処方のオーダーをしたり、注射箋で点滴を指示したりとあわただしく午前中が過ぎていきます。

昼食を済ませると、午後は検査に入ったり、カンファレンスと呼ばれる症例検討会があったりと忙しさは続きます。興味深い疾患をもっている患者やなかなか診断のつかない患者を検討会に提示するときはその準備もあるのでとくに忙しくなります。東京逓信病院では院内での勉強会が多いため、研修医は学会発表の練習も兼ねて頻繁に発表させられます。発表のためには他の診療科のカルテを取り寄せるために病歴室に通ったり、文献を調べるために病院の図書館に行ったりしなければならないので大変です。

夕方になると日中にオーダーしておいた検査の結果があがってきます。その結果を見ながら、治療薬の効果を判定したり、病気の原因を絞り込むのですが、研修医にはそれらの結果に一喜一憂するのが精一杯。自信満々で指導医に結果を報告したのに、検査や治療内容の不備などを指摘されてヘコムなんてことも少なくありません。そんなときは、カルテを記載する医師記録室で他の研修医と愚痴をこぼしあったり、指導医への不満を聞いてもらったりしたものです。このときの研修医同士の連帯感はなにより心強いものでした。

私が研修医の頃はまだ紙カルテで、検査結果も紙に印刷されてあがってきます。検査結果をカルテに貼りながらその日一日の患者の変化や今後の方針を記入するのですが、そうこうしているとあっという間に夜もふけ、いつの間にか深夜遅くになっています。しかし、当時の逓信病院には夜になると我々研修医に陣中見舞いを持ってきてくれる先輩医師がいました。深夜にもかかわらず記録室にケーキなどの差し入れを買ってきてくれるのです。「お疲れ~っ!」と入ってくるその先輩医師にどれだけ励まされたことでしょう。

夜遅く(朝?)までカルテ記載をしていると、記録室のラジオからはよく「Jwave」の「singing clock」という時報がながれてきました。夜勤の看護婦さん達も仮眠に入ったのか、静まりかえっている病棟。ときどき鳴るナースコールと看護婦さんの足音だけが聞こえる夜の「singing clock」は、疲れ果てていた私を生き返らせる呪文のようなものでした。ちょうど私が研修医だった頃に開局したFMラジオ局のJwaveからはいつも洗練された音楽がながれてきて、札幌から上京したばかりの私にとっては心の清涼剤だったのでしょう。

研修を終えて勤務した大学病院では、今度は新人看護婦さんたちの奮闘ぶりを見ていました。今でも思い出すのはGさんのことです。彼女は地方の看護学校を卒業して就職してきた人でした。人懐っこい笑顔と元気さが取り柄とでもいうような明るい新人さんでした。やる気満々、物怖じせず、なんでも頑張るぞという本人の意気込みとは裏腹に、ミスをすることも少なくなく、上司である主任さんはもちろん、他の先輩看護婦さん達からも注意を受けていました。そんな彼女を私はなにかとても懐かしく感じました。

注意された彼女はちょっとだけ落ち込んだように表情を曇らせますが、すぐに舌をペロっとだしてはいつもの元気なGさんに戻ります。ところが、彼女がめげなければめげないほどまわりの先輩看護婦さんからは集中砲火のように怒られ、ついに主任さんから厳重注意を受けることになりました。私は少し離れた場所でカルテ記載をしながら、二人のやりとりに聞き耳を立てていました。「もっと考えて行動しなさいっ!」と主任さんは強い口調でいいました。それは少し感情的になっているようにも思える言い方でした。

Gさんは主任さんの話しにうなづきながら聴いていました。「お説教タイム」が終わって仕事に戻った彼女は、少し打ちのめされているように見えました。いつものはつらつさがすっかりなくなってしまったGさん。翌日になっても、また、その翌日になっても彼女らしい元気さを取り戻すことはありませんでした。しかも、それでも彼女はミスをしてしまいます。そのたびに先輩方から怒られるGさんに、今までのような笑顔はみられませんでした。私は彼女がいたたまれなくなり、周りに誰もいないときを見計らって声をかけました。

「ゴンちゃん(私はいつもそう呼んでいました)、元気ないね。主任さんは『もっと考えて行動しろっ』って言ってたけど、知識も経験もない新人に『考えて行動する』なんてことができるはずがないんだからね。ミスをしないに超したことはないけど、注意していてもミスってしまったことは仕方ないんだよ。それが新人なんだから。ただ、そのミスを絶対に繰り返さないぞ、って気持ちだけは忘れないでね」と。それ以上言うのはやめました。彼女が今度は主任さんや先輩達に悪い感情を持ち始めてはいけないからです。

ときどき「ゴンちゃん、がんばれ」と励ましているうちに、徐々に彼女にはいつもの明るさが戻ってきました。「めでたし、めでたし」と思っていたのもつかの間、今度は私が主任さんに叱られることになりました。「職場でGさんを『ゴンちゃん』と呼ぶのはやめてください」とのことでした。学校でさえ先生が生徒を呼び捨てにしたり、愛称で呼ぶことは禁止されているんだとか。「~君」ですらダメで、「~さん」なんだそうです。せちがらい時代になったものです。でも、その後、Gさんはすっかり立ち直ったように見えました。

私自身、たくさんの間違いをしてきました。後悔することもいっぱいあります。しかし、前回のブログでも書いたように、それらすべてを含めての「今」なのです。新人だからこそできる失敗があります。新人だからこそ挑戦できることもあります。頑張って、頑張って、それでもダメならやり直すことでさえも新人には可能なのだということを忘れないでください。振り返ればあっという間の人生です。マイナス思考で無為な時間を過ごすより、プラス思考をしながらとにかく前に進むことの方が建設的な時間の使い方です。

人生の価値はひとつではありません。その一方で、ひとつの目標に向かって頑張り続けることにも意味があります。どちらにせよ、頑張れるかぎりはその歩みをとめてはいけないということです。人生の歩みは振り返ることしかできません。結果として自分の望む方角には進めないことだってあります。しかし、人生の岐路に立たされたとき、その都度、自分が後悔しない選択を繰り返していけば、必ずや満足のいく人生を送れるのだと私は信じています。また、それは私の半生が証明しています。

新人の皆さん、がんばりましょう。

※「がんばれ、新人君」も読んでみてください

万事塞翁が馬

新型コロナウィルスに感染した人の数は、その後、前回のブログで私がいった通りの推移を示しているように見えます。東京都のみならず、多くの都道府県で減少の一途をたどり、最近では死亡者の数もそのピークが過ぎたかのような状況にあります。あれだけ感染力が強いと吹聴されてきたオミクロン株による第六波も、三回目のワクチンのブースト接種がはじまってついにこのまま収束していくでしょうか。

そもそもオミクロン株に感染しても、ワクチンさえ接種してればほとんどがただの風邪のような症状です。そのせいか、喉の痛みや熱があっても自分が新型コロナウィルスだと思わず、風邪薬を飲みながら仕事をしたり、学校にいっている人(これは絶対にやらないでほしいと繰り返してきました)があまりにも多かったのではないかと想像します。感染拡大の大きさにはこうしたことも影響していたはずです。

BA.2株」と呼ばれる新たな変異株の出現で、検査が陽性となった感染患者の減少が鈍化しているように見えます。しかし、何度もいっているように、これからの推移は重症患者と亡くなった人の数で評価すべきです。私は予想屋でも予言者でもありません。客観的事実を冷静な判断(と自分では思っているのですが)で導いた結論を言っているに過ぎません。極端な意見にはひきづられないようにしましょう。

インフルエンザのこともそうです。「来年は流行しそうだ」などとTVでいわれていました。しかし、実際はどうだったでしょうか。「なんの根拠もありませんが、インフルエンザは流行しないと思います」と以前のブログに書きましたが、これとて一昨年の状況を見ればあたりまえと思える結論でした。インフルエンザワクチンを多くの人が受けてくれたこともこのインフルエンザの少なさに影響しているかもしれません。

「客観的な事実と冷静な判断」などと偉そうなことを言っていますが、私自身はなにごとも理性的に考える人間ではありません。どちらかというと理性よりも情緒に流されやすい人間かもしれません。「文系人間」という人がいるとすれば、むしろ私はそちら側の人間だと思います。だからといってそれが欠点だとは思っていません。私にとって大切なのは理性と情緒のバランスなのだと考えています。

医学は理系の学問とされていますがもっとも文系にちかい領域だと思います。そんなことをいうと不思議に思う人もいるかもしれません。しかし、医学には数値だけでは解決できない部分が少なからず存在するのです。血圧や脈拍数、検査値などのような数字もよりどころにしますが、患者さんとの問診の内容、あるいはそのときの表情や仕草といった非数値的な情報も病気を診断する際に重要となります。

以前にも言ったように、医者になるのに数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとる必要はありません。メダルをとるほどの秀でた能力はあって悪いわけではありませんが、有能な医者になるのにそれらの能力が直接必要なものかといわれれば必ずしもそうではありません。医者になるためにはせいぜい中ぐらいの学習能力があれば十分なのです。ただ競争率が高くて合格するのが大変だというだけの話しです。

医学は日進月歩です。20年前の常識が今は否定されているなんてことも結構あります。ですから、医者にとって日々変化する医学についていけるだけの学習意欲は必要です。入学したときはものすごく勉強ができたのに、その後、医学を学ぶモチベーションがあがらず、医師国家試験に合格したときの「知識の断片」だけでずっと診療をしている医者は決して少なくありません。そういう医者ほど自分の学歴だけが自慢です。

「医学部に入学する生徒にはことさらに人間性が必要」などというステレオタイプな主張も間違いです。極端なことをいえば、患者の病気を治せる医者なら人間性なんて十分条件にすぎません。病気を見つけることも、治すこともできないのに人間性だけは非の打ちどころのない医者にどれだけの価値があるのでしょう。入試での短時間の面接で数人の面接官が受験生の人間性を評価しようなんてことがそもそも不遜なのです。

世の中の「常識」とはちょっとずれたことをいう私なので、診察をしながら「医者らしからぬこと」を言うときがあります。診療中の私は「この人は誰かに守られている」と感じる場面にでくわすことがあるのです。普通であればこんな症状でそんな検査はしないのに、なぜかその検査をしたことによって重大な病気を見つけられたという経験をします。あとで「よく考えたらなぜこの検査をしたんだろう」って具合に。

なんとなく胸騒ぎがして患者を病院に紹介することもあります。そんなときは「無駄足になるかもしれませんが」といいわけをして病院に行かせます。でも、案の定大きな病気が見つかって患者が命拾いしたというケースが何度もあります。そのような経験をしたときはいつも「この患者さんには誰か守っている人がいる」と感じます。もちろんすべての患者さんに感じるわけではありませんから誤解なきようにお願いします。

「(普段であれば見つからなかっただろう病気が見つかるなんて)きっと誰か守ってくれている人がいたのですよ」と患者に告げると、「ああ、それは母かもしれません」とおっしゃる人もいます。また、別の方はうれしそうに天井を見上げたりします。しかし、中には「医者なのにそんなことをいうなんてヤバイんじゃないの」といぶかしげな人もいます。医者なのにそんな非合理的なことを、という意味なのでしょう。

私は医学部に入学する前後ぐらいから何度も不思議な体験をしてきました。大学病院で夜間救急をしていたある夜、休憩室で北大の先輩だった先生に「おまえ、幽霊をみたことあるだろ?」と言われたことがあります。何度かそれらしき体験をしていたので、「なぜわかるんですか?」とたずねました。すると、先輩はまじめな表情でいいました。「おまえみたいな霊的エネルギーの強い人間には霊が近づいてくるんだよ」と。

解剖実習から帰宅して寝ていた私の枕元に白い着物を着た老人が座ったのは私の「霊的エネルギー」が呼び寄せたのでしょうか。アルバイト先の当直病院での勤務初日、必ずといっていいほど急変する患者や亡くなる患者が多かったのは私の「霊的エネルギー」が影響しているのでしょうか。そこにいるはずもない人を病院で見かけたことも何度もあります。それも先輩が言うように私の霊的エネルギーが強いせいなのでしょうか。

こんなこともありました。子どもができないまま結婚4年目を迎えたある日の夜。当直病院で仮眠をとっていると突然「赤ちゃんができましたよ」という女性の声が聞こえてハッと目を覚ましました。そのときは夢でも見ていたのだろうと気にもとめませんでしたが、自宅に戻ってみると家内から妊娠したことを知らされました(ちなみにこの息子の誕生日は私と同じ)。これも私の「霊的エネルギー」のなせる業だったのでしょうか。

職業柄、人の生き死にを見てくると、自分なりの死生観というか、人生観といったものを持つようになります。希望する学校に合格しながら、制服に一度も袖を通すことなく亡くなった高校生がいました。銀行で働くことを夢見ながら就職活動の直前に入院。そして、失意のまま亡くなった大学生がいます。そうした人々の悲しさや悔しさ、むなしさは私にいろいろなことを教えてくれましたし、今の診療に役立ってもいます。

私の半生は他の人とは大きく異なります。小学校の入学祝いにもらった「野口英世」の伝記本をきっかけに「自分は医者になるんだ」と思うようになりました。でも、だからといって小学校のころの私は医者になるために努力する子どもではありませんでした。勉強をしなくても成績のいい子どもですらありませんでした。学校に行ってはいてもただ通学しているだけ。ボーッと窓の外を見ているような小学生だったのです。

それでも不思議と「医学」にはなんとなく興味を持っていました。おもちゃ屋で見かけた「人体模型」のプラモデルをねだって買ってもらったりしました。中学生のときは日曜日の朝になると東京12チャンネルの「話題の医学」という医学番組を欠かさず観ているという変わった子どもでした。とはいえ、肝心の勉強にはまるで関心がなく、医学部に入らなければ医者になれないことに気がついたのは高校生のときでした。

一度は医者になることをあきらめましたが、ひょんなことで医学部を再受験して医者になりました。いろいろな人との出会いがあり、さまざまな偶然がまさに糸をつむぐようにして再び医学部に挑戦することになったのです。こうしたことも私の「霊的エネルギー」のおかげなのでしょうか。科学や理性では説明できない非合理性の中で生きてきたことが、私を「怪しいことをいうヤバい医者」にしているのかもしれません。

子ども達には日頃、「神様はいつも見ているんだよ」と諭しています。「人の見ていないところで努力することは大切」ということをわかってほしいからです。悩みや苦しみを訴える高齢者には「長生きは修行です」とお話ししています。これは「長生きするということは、長生きできなかった人たちの思いを背負いながら生きることだ」ということを心にとどめてほしいからです。これは私が常に実感していることです。

幸せの基準は異なります。人のいう「よい、悪い」の多くは、実は「好き、きらい」だったりします。ものの見方を少しだけ変えてみるだけで、違った見え方をしますし、心のあり方もずいぶんと変わってきます。「人間万事塞翁が馬」という言葉は私が一番好きな故事ことわざです。吉事も戒めにしなければならない場合もあるし、凶事もよいことにつながるきっかけになる。いっときの吉凶ですべてを語るな、ということです

そろそろ卒業シーズンです。新型コロナのせいで楽しい学校生活が十分に送れなかった生徒・学生のみなさんにとって、なにか不完全燃焼のような中途半端さのまま卒業するのは淋しいことかもしれません。しかし、あなた達の人生はこれからです。むしろ、これからの未来にこそ、本当の山あり、谷あり、なのです。山があっても、谷があっても、常に視線は未来に向けて下さい。それがみなさんの特権でもあります。

いっときの良し悪しがすべてではない、ということは意外と気がつかないものです。うまくいくこともあるでしょう。失敗することもあるかもしれません。病気になったり、なにかをあきらめなければならないときだってある。でも、それが人生です。ひとつひとつの山や谷に一喜一憂せず、それらをひとつひとつ誠実に乗り越えていく、その総体が「幸福」につながっていくのだということをどうか忘れないでください。

私のお気に入りの歌(小田和正「東京の空」)に次のような歌詞があります。最後にそれを紹介します。

「がんばっても がんばっても うまくいかない

でも、気づかないところで 誰かがきっと見てる」

神様はいつもあなたを見ています。頑張りましょう。

 

バカなんですか?

今ほど「理性」が必要なのに、どうしてこうも理性的になれないのでしょうか。

一か月前のブログにも書いたように、新年早々新型コロナウィルスの感染が拡大し、第六波となって全国を席巻しています。今日の東京都の陽性患者は一日で1万4千人を超え、これまでで最多の感染者だと大々的に報じられています。全国を見渡してみても、どの都道府県も軒並み感染患者数が急増していてこれからどうなってしまうのだろうと不安に思う人も少なくないはずです。

しかし、オミクロン株のウィルスとしての毒性はデルタ株よりも明らかに軽く、入院を要する患者の割合や、重症化する割合、そして死亡する割合のいずれもが限定的です。これはすでにワクチン接種を済ませた人の割合が8割近くになっていることも影響しているでしょうが、前回のブログに書いた「変異を繰り返すにつれて毒性は低下する」ということを証明しているのだと思います。

感染拡大が急なのは、もちろんオミクロン株の感染力が強いからですが、それ以上にオミクロン株に感染しても軽症にとどまるため、風邪薬を飲みながら仕事や学校に行っている人が少ないことがあげられるでしょう。しかも、新型ウィルスの検査を「誰もが、いつでも、無料で受けられる」ようになって検査の数がこれまで以上に増えていることも無視できません。

検査はPCR検査といった精度の比較的高いものから、精度的にはPCR検査より劣っている市販の抗原検査などがあります。検査は本来、「一番怪しいとき」におこなうものです(これも今までなんども強調してきましたから耳にタコですね)。しかし、安易ともいえる今の検査のやりすぎは、偽陰性をたくさん生むことになり、偽陰性に安心した人はあらたな感染源となるのです。

オミクロン株に感染した人たちがこうも軽症ならば、今もなお2類相当のままの感染症から、季節性インフルエンザのように通常診療が可能な5類に一刻も早く変更すべきです。2類相当の感染症はその診断が確定した段階で入院することが原則となっています。その入院もふくめてすべての局面で保健所が関与するわけで、最近の陽性者の急増により保健所のマンパワーは限界になっています。

もちろん、2年前のように、ワクチンもなく、治療方法もないまま多くの人が入院し、亡くなる人も少なくなかったときであれば2類相当に指定し、保健所が管理するのは当然でしょう。しかし、感染者が多くても、軽症となって自宅療養が可能なオミクロン株感染においては、できるだけ早く5類に変更して、通常の季節性インフルエンザのときのように対応・対処できるようにすべきです。

私のクリニックにも風邪症状の方から問い合わせがあります。そして、新型コロナ感染を強く疑わせる人は発熱外来への受診を勧め、その可能性を否定できない人は来院させずに薬のみを処方します(可能性が低いケースは受診させて診察します)。そうするのは、診察をした患者が新型コロナに感染していると、私や職員が濃厚接触者となってクリニックを長期間閉めなければならないからです。

施設の広さという面でも、マンパワーという点でも、病院に発熱外来を設置した場合と、当院のような小さなクリニックが熱発患者を診療するリスクは大きく異なります。「職員や他の診察待ち患者を感染させてしまったら」という懸念を払拭する工夫ができればいいのですが、限られた室内で熱発患者と通常の患者を空間的にも時間的にも隔てることはできないのです。

もしオミクロン株が5類となれば「濃厚接触者」がなくなり、通常の医療機関での診療がより容易になります。そうすれば大きな病院の発熱外来の負担を軽くすることができます。また、保健所が対応しなければならないケースも大幅に減り、保健所が本当に対応しなければならない患者の入院先の調整に専念できます。今の状況は病院と保健所に不必要で大きな負担を強いています。

にもかかわらず、政府・厚労省は、オミクロン株を2類相当にしたまま、検査なしで医師の判断で「新型コロナ感染」と診断することを認めるのだそうです。そんなことをすれば、むやみに濃厚接触者を増やすだけです。そして、多くの人たちの行動を制限し、職場や学校、社会に混乱をもたらすだけです。そんなこと誰が考えてもわかるでしょうに。あまりにも「理性」がなさすぎです。

新型コロナウィルスワクチンのブースター接種がはじまりました。しかし、このワクチンも不足気味なのは否めず、じきに接種できる人の数も制限されてくるでしょう。感染症対策として打ち出されてくる方策はどれもが場当たり的で、計画性が感じられません。しかも、これだけ軽症の感染者が増えてもなお「自粛」と「水際対策」で切り抜けようとするとは。「バカ」なんでしょうか。

ひとりの感染者が何人の人に感染を広げるかをあらわす数を「実効再生産数」といいます。この数の推移を見ればわかるように、どの都道府県もとっくの昔に減少に転じています。あれほど感染者の急増に大騒ぎしていた沖縄ですら陽性者数が減少しているのです。南アフリカでの感染者が急増したのち速やかに減少したのと同じ。全国の感染者がピークを越えるのも時間の問題です。

現時点の重症者数や死亡者の数を観ても、感染者数が急増している割には大した数字ではありません(重症者の方や亡くなられた方には失礼な言い方ですが)。そうした事実ひとつとっても、今すべきことはあきらかです。「必要以上に自粛や制限を求めるのはやめろ」。「オミクロン株感染症は5類にさげろ」。理性的であるべき日本医師会は少なくともそう主張しなければならないはず。

私自身、地元の医師会から「検査の数を増やすこと」を要請されています。しかし、当院では検査はしていません。検査は「一番怪しいときにおこなうべき」だからです。しかも、大切なのは「肺炎などの重症化をした(しそうな)ケース」を見つけること。しかし、その場合はCT検査を受けなければなりません。したがって現在2類相当のままの新型コロナの検査は病院でおこなうべきなのです。

5歳以上へのワクチン接種を政府は急いでいるといいます。健康な小児は重症化するリスクも低くいのに、心筋炎などの重い副反応が懸念されている小児へのワクチン接種をそれほどまでに急ぐのはなぜでしょう。しかも厚労省の中では保護者に対して「努力義務」を課すことも検討されているとか。やることなすこと首をかしげるようなことばかり。もしかしてホントに「バカ」なんですか?