院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年はいろいろと忙しく、また、法人の解散やらでバタバタしていたせいか、ブログの更新がなおざりになりがちでした。しかし、患者さんから「ブログを楽しみにしてます」なんてうれしいことをいわれると、定期的に更新しなければと反省することしきりです。今年は最低でも月二回は記事をアップしようと思っていますので、長くて暖かい目で見守っていただければ幸いです。
今、巷では日本相撲協会と貴乃花親方との確執が報道されています。協会に事件を報告しないまま警察に知らせたこと、あるいは協会からの「協力依頼」をひたすら拒否する姿勢をとり続けた親方に対して協会は理事降格の処分を下しました。世間からは親方を「協会からの圧力をはねのけ信念を貫いた無双」と称賛する意見がある一方、「偏屈で頭のかたいトラブルメーカー」と批判する意見も決して少なくありません。どちらかというと貴乃花と同じような頑なさがある私は、これまでの職場でも「組織の論理」に反発してはしばしば上司とぶつかったせいか貴乃花の気持ちがよくわかります。と同時に、「組織の論理」というか、日本相撲協会の立場も今はそれなりにわかるつもりです。
ある病院をやめる直接的なきっかけについては、このブログでもなんどか軽くとりあげました。病院に搬送されてきた救急患者に対する初期治療をめぐって、治療にあたった救急担当医と病棟医として引き継いだ私との間で、いや、その救急担当医をかばう病院とそれを批判する私との間で深刻な衝突・対立・反目があったのです。それが引き金になって私はその病院を退職したのですが、そこに至るまでの間にも、病院の「組織の論理」ともいうべき姿勢に不信感を募らせることがいくつもあったのでした。そのたびに院長や上司とぶつかっていたため、あのときのことをありありと思い出します。そんなこともあってか、相撲協会と貴乃花親方との確執の話しを聞くと、親方が当時の私と重なってどうしても親方の肩を持ちたくなるのです。
その病院に勤務していた頃、私は呼吸器や循環器を中心とした内科医として外来や病棟で診療していました。病棟では各専門領域の先生のアドバイスや指示を受けながら、他の臓器領域の患者の主治医もしていましたから、実際には内科全般の入院患者のマネジメントをしていたことになります。それ以外にも、他科、とくに外科系の病棟から患者の内科的な治療方針について相談を受けたりすることもありました。また、外科系の病棟の患者が急変したとき、たまたま主治医が手術などで対応できないときは私達内科医に対応の要請がくることもありました。あるとき、内科病棟で仕事をしていた私のポケベルがなりました(当時はまだ携帯ではありませんでした)。それは整形外科の病棟からのコールでした。
「整形外科の病棟からいったいなんの用だろう」と思いながら駆け付けると、待っていた看護婦さんがあわてて私を病室に案内してくれました。病室には一人の若い医者がアンビューと呼ばれる人工呼吸をするための道具をもって立っていました。私はその医者に声をかけることもなくすぐに患者の診察をはじめました。患者はすでに意識はなく、呼吸も不規則になっており、かなり緊急性の高い状態だということはすぐにわかりました。枕元に突っ立っている若い医者に私はまくしててるようにいいました。「なぜすぐに挿管しないんだ」。「ぼ、ぼく、挿管したことがないんです」。「したことがあるとかないとか関係ないだろ。しなけりゃ患者は死ぬんだぞ」。その医者は慌てた様子でした。
そんなやりとりをしながら患者の気管に人工呼吸用の管を入れ、アンビューで肺に空気を入れながら患者を急患室に運びました。一段落して主治医から詳細を聴くと、意識を失う前は元気にリハビリをしていたとのこと。これまでの経過からは、整形外科の手術後の安静によって下肢にできた血栓がリハビリによって脳に飛んで梗塞巣を作ったことが考えられました。とくに呼吸がここまで不安定になったところをみると、呼吸をつかさどる脳幹という場所の脳梗塞が疑われました。とすればこれはかなり深刻な状況を意味します。そして、その後の検査によってそうした私の予想は正しかったことがわかりました。
ICU(集中治療室)に移送された患者には人工呼吸器が装着され、血栓を溶かす薬や脳のむくみを軽減させる薬が投与されました。そうした点滴の指示票を書きながら、さっきから私のあとをついてくるだけの整形外科の若い医者にいいました。「先生の患者なんだから、先生が書いてよ」。するとその医者は申し訳なさそうに「こういうケースを経験したことがないので書けないんです」と。経験がないのであれば仕方ありません。「じゃあ、いい機会だから教えてあげるよ」と言って点滴メニューについて説明をしようとするとその医者が言いました。「先生、そろそろバイトに行かなきゃならないんですが」。
私は唖然としました。内科病棟にいる自分の患者のことをあとまわしにして、まさにボランティアでやってあげているのにと思ってもあとの祭り。それ以後、その患者の管理のほとんどは私がやることになりました。まずは患者の家族への説明です。突然のことで心配そうにしている患者の家族に、「かなり重症の脳梗塞です。リハビリの開始をきっかけに足にできていた血栓が脳に飛んだことが原因と考えられます。事前に予測することは難しかったと思われ、現在できるかぎりの治療を開始したところです。ここ数日がヤマだと思われます」と説明しました。動揺していた家族はその説明に神妙な面持ちでうなづいていました。
ところが翌日、ICUに行くと看護婦さんが心配そうな表情で「先生、ご家族が納得できないと怒っているので再度説明してください」と私に耳打ちしてきました。なにが起こったのかわからなかった私は、昨日の説明に納得したと思っていた家族になにがあったのだろうと思いました。そして、会議室で待っていた患者家族から話しを聴いて私は驚きました。その日の朝、整形外科の部長が病室に来て「今回の脳梗塞はリハビリとは関係ない。純粋に内科的な問題なので今後は内科が主科になる」と一方的に説明していったというのです。ボランティアで治療しているつもりだった私の心の中でメラメラと怒りが込み上げてきました。
ICUにもどると前日アルバイトにいったあの若い医者がいました。私はたった今家族から聞いた話しを彼にしました。「どういうこと?僕は君の患者を診てあげているんだよ」と怒りを抑えながら言いました。彼は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた後、いつの間にかICUからいなくなってしまいました。ところが、それから間もなく彼が戻ってきました。そして、「部長が先生と話しがしたいと言っています」とのこと。言いわけでも聞かされるのだろうと思いましたが、「いいですよ。しばらくここにいますから」と私。すると、「いや、部長室に来てほしいということでした」と彼。その言葉で私の怒りは頂点に達しました。
「ふざけるなっ。自分の患者そっちのけで診てやってる私がなんであんたの上司のところに出向かなきゃならないんだ。あんたの上司こそこっちに来るべきじゃないか」。他の先生や看護婦さんたちがいる中で私は大きな声を出していました。ほどなく整形外科の部長が憮然とした表情でやってきました。部長の顔を見るなり私の心の中で収めたばかりの怒りがよみがえってきました。「先生、厚意で診ている私に部長室に来いなんて失礼だと思いませんか。先生が勝手にした家族へのムンテラにも私は納得できません。家族に訂正してください。そもそも整形外科は自分たちで対処できない患者を内科に押し付けておいてなんですか」。
そのときの部長の表情を今でも忘れられません。なにせグウの根もでなかったのですから。すごすごとICUをでていく部長の後ろ姿をにらみつけていると、看護婦さんが手をたたきながら私のところにやって来ました。「先生、よく言ってくれたわ。あの先生、いつも傲慢で勝手だったの。誰も何も言えなかったので、先生が代わりに言ってくれて胸がすっきりしたわ」。私はちょっと恥ずかしい気持ちがしましたが、あの部長のやり方には心底腹が立っていたので、言いたいことが言えて私自身胸がすっきりしていたのでした。それを看護婦さんも支持してくれたのですからなおさら気持ちが晴れました。
以来、その部長は、病院の廊下で私と目と目が合うたびにきびすを返してどこかに行ってしまうようになりました。もともと私は根にもつ質ではないので、あんなことがあったとはいえすれ違うときには挨拶を交わすつもりでしたから部長のその態度はなんだかとても子供じみて見えました。それから間もなく、私は病院長に呼ばれました。なんだろうと院長室に行くと、院長がおもむろに先日のICUでの一件のことを話しはじめました。「先生、腹が立つこともあるでしょうが仲良くやってください」と院長は穏やかな口調で切り出しました。「当院は『和を尊ぶこと』をモットーにしているんですし」とも。今さら話しを蒸し返して弁解しても仕方ないと思った私はしばらく大人しく院長の話しを聴いていました。
「あの先生は本院では『天皇』とも呼ばれているんですよ」と院長は笑いました。なんでも、本院の回診時の部下たちの気の使いようは半端ではないと。それくらい権力は絶大だったのでしょう。そんな部長だからこそ、私みたいな下っ端の内科医に一喝されて面目を失って院長に告げ口でもしたのかもしれません。当時の私は「怖いもの知らず」だったんです。同時に、ある意味でアンタッチャブルだったあの部長もこれまで「怖いもの知らず」だったんでしょう。私は院長の話しを聴きながら「そんなこと俺には関係ねぇよ。こっちに非はまったくないんだから」と心の中でつぶやいていました。私は感情が顔に出やすいので、きっとそのときの不満や怒りはきっと院長にもわかったでしょうね。ときどき苦々しい顔をしていましたし。
こんなことしょっちゅうでした。いつもいつも誰か他の医者とぶつかっていました。当時の私は理想に燃えていましたからいい加減な医者が許せなかったのです。今でもあのときの怒りはもっともだと思っています。ただ、同時に、あのとき私が突っかかっていった医者のことももう少し理解してあげてもよかったのではないかという気持ちもあります。もう少し別の対応があったんじゃないか、と。そうした余裕がないほどに血気盛んだったんです。私には人のことをとやかく言う分だけ自分も後ろ指さされないように、という気持ちもありました。突っかかるのにもそれだけ覚悟もいるのです。「君のことも言わないから、僕のことも放っておいて」といっているような甘っちょろい雰囲気に苛立っていたいたんだと思います。
これを信念というのか、それとも偏屈というのか。正義漢というべきなのか、それともトラブルメーカーというべきなのか私にはわかりません。ですが、当時の病院に蔓延していた「甘っちょろい雰囲気(私自身が当時感じていた雰囲気ですが)」というものが組織を腐らせる、そんな風に感じていたのです。巷間伝えられる今の相撲協会の様子を聞くと、当時のあの病院と重なり心配になります。当時の自分を「若かった。青かった」とは思いませんし、仮にあの当時に戻っても同じことをしていると思います。ですが、貴乃花親方にはもう少し違った方法でなんとか日本相撲協会を改革できないかを考えてもらえればと思います。対立や無視からはなにも生れません。相撲は国技なのですから是非いい方向に変ってくれればと願っています。
あのときの患者は一命はとりとめ、人工呼吸器からも離脱しました。重い後遺症が残りましたが。その後はリハビリの出番となり整形外科が主科になりました。実質的な主治医は整形外科の医師に代わりました。私はホッとすると同時に、なにかモヤモヤした気持ちを拭い去ることができないままいつもの診療に戻りました。とはいえ、その後もいろいろなことがあって私は病院を退職することに。そのときたった一人私を引き留めてくれた先生は「いっしょにこの病院を立て直しましょうよ」と言ってくれました。「院内をかき回すトラブルメーカー」と映っていたかもしれない私を引き留めてくれたことがとてもうれしかったです。でも、「多勢に無勢」と感じましたし、そもそもすでに賽(さい)は投げられていました。
念のために付け加えておきますが、今回の話しは私の武勇伝としてチャラチャラ書いているわけではありません。また、特定の病院を批判するためのものでもありません。誤解のないようにお願いします。
人は青年期にいろいろな悩みをかかえます。私にも人並みにその悩みにさいなまれた時期がありました。進学とはある意味で人生を選択することでもあります。ですから、思ったような成績が得られず、希望するような進路に進めそうにないときは、なおさら「生きる意味」みたいなものをひとりあれこれと考え、自分はこれからどんな人生を歩んでいくんだろうと不安な気持ちになったものです。
人生はなかなか思うようにはなりません。今、改めてこれまでの自分の人生を振り返ってもそう思います。決して一本道ではなく、紆余曲折を経ながら今がある。なんとなく医者になりたいと思いながらも最後までパッとしなかった小学生時代から、家庭教師の大学生に勉強の面白さを教えられた中学時代。理想と現実という大きな壁にぶち当たった高校時代。自分にとってはこの高校時代が一番つらい時期でした。
そんな苦しい時期に私はいろいろな本を読みました。一番読んだのが亀井勝一郎です。彼の人生論に影響を受けていたこともあって彼の著作を片っ端から読みあさりました。その他、亀井勝一郎に限らずいろんな本を読みましたが、一方で心理学に関わる本もしばしば手にしていました。きっとこれから自分はどうなるんだろうという不安な気持ちが、自分の関心を自身の心に向けていたのかもしれません。
そうした背景もあって、北大に入ってからも相変わらず心理学や精神分析に関わる本を読んでいました。以前にも書いたように、医学部に進学する前の2年間は教養学部医学進学課程の学生として医学とはまったく関係のない教養科目ばかりで退屈にしていました。そんなモラトリアムの時期に私は、病める人を相手にする医師に心理学や精神分析学の知識は絶対に必要だという信念のようなものを持っていたのです。
とくにこの時期にのめりこんでいたのはカール・ロジャースの「クライエント中心療法」です。その内容はかなり難しくなるため省略しますが、カール・ロジャースを知ったのは大段智亮先生が書かれた「人間関係の条件」という本を読んでからです。ロジャースの理論を紹介しながら論を進めるこの本のなかで大段先生は「積極的傾聴」という作法を提示しました。「積極的傾聴」とは次のようなものです。
【ケース】
翌日の手術をひかえて不安で仕方ない患者が回診に来た医者に不安を打ち明けます。「先生、明日
の手術はうまく行くんでしょうか。不安で不安で眠れないんです」と。
さて、あなたが回診に来た医者だったらなんと答えるでしょうか。「だいじょうぶですよ。目を閉じたらあっという間に手術が終わっていますから」と励ましますか?「なにを弱気になっているんですか。こういうときこそしっかりしなければいけないのに」と檄を飛ばしますか?「まぁ、手術を受ける人はみんなそういいますよね」とさらりと流しますか?そもそもあなたが患者なら医者になんて言ってほしいでしょうか。
大段智亮先生が提唱する積極的傾聴では〝患者の言葉を評価せず、言葉をそのまま傾聴して気持ちに共感せよ”と勧めます。共感を受けた患者は自分自身の心の中で気持ちを整理して解決方法を探っていく。その心理的成長の手助けをするのが積極的傾聴の目的であると指摘しています(30年も前の知識ですから間違っているかもしれませんが)。カール・ロジャースの「クライエント中心療法」もその核となるものは同じです。
私はその後、発達心理学やフロイト心理学、ゲシュタルト療法などにも興味が広がりました。交流分析や脚本分析といったものまで勉強してみました。そのどれもがとても面白く、医者になったらすぐに役に立つ実践的なもののように感じました。しかし、学部にあがり、医学・医療の実際に触れるにしたがって、学生のときに考えていた理想とは異なり、現実はそうたやすいものではないことに気が付きました。
そのことに気づかされたのは精神科の授業ででした。講義をしていた当時の精神科の教授はとても高名な先生でした。授業も刺激的でしたし、人間的にも尊敬できる先生でした。私は授業が終わってからその先生に質問に行きました。「精神科の診療において精神分析や心理学はどの程度重要なのでしょうか」。そう質問する私に先生は優しい笑みを浮かべながらこういいました。「君をがっかりさせる状況かもね」と。
もちろん当時は大学の医学教育の中で「患者にどう接するべきか」といったコミュニケーション論を教える講座はありませんでした。「患者が病む疾患」に対応する術は教育しても「疾患を病んだ患者」に対応するスキルを教えるまでに当時の医学教育は追いついていませんでした。最近ではそれなりに改善されて講義や実習が組まれているようで、興味深い授業・実習がおこなわれていると噂には聞きますけど。
そんなお寒い医学教育を受けて医療の現場に送り出された私は、精神科の教授に言われた「君をがっかりさせる」ような現実を目の当たりにしました。積極的傾聴をしようにもその時間もない。毎日が忙しく通り過ぎていくからです。不治の病と対峙して心が折れそうな患者に対して我々がしてあげられる精神的サポートはほんとにわずかです。本来、担当すべき当時の精神科は内科以上にそうしたことに無関心でしたし。
一方で、積極的傾聴が役に立たない場面も少なくないことにも気が付きました。本来、クライエント中心療法は「来談者中心療法」と訳され、「なにか解決法をもとめてやってきた人」に対しておこなわれる心理療法です。しかし、日常の現場で接する患者のすべてがそうした「来談者」ではなく、ある種「病をもって現れる受け身の人たち」です。そうした人たちに心理的成長を促す作業はそう簡単ではないのです。
欧米人は概して日本人よりも社会的に成熟していますし、個人の精神のよりどころに関しても日本人とはことなります。宗教的な背景の違いも無視できません。しかも、書物でかじった程度の技術で有用な積極的傾聴ができるはずもなく、患者の心理的な成長につなげていくことなどなかなかできなかったのです。日々、こうしたことに意識的になって診療をしていても厳しい現実が目の前に立ちはだかっていたのでした。
とはいえ、今、学生のときに勉強した心理学や精神療法が役に立っているときもあります。それは子どもに注射を打つときです。私は注射を嫌がり泣き叫んで抵抗する子どもを力づくで押さえてワクチンを接種したりしません。子どもに注射をするとき、心理学的な知識を利用してみるとそんな強引なやり方をしなくても済むからです。そのせいか子供たちは「船戸内科の注射は痛くない」と言ってくれます。
子どもが注射を嫌がる主な理由は、痛いからではなく、怖いからです。ですから注射をするときは恐怖心を煽るようなことはできるだけしません。注射を極端に怖がって抵抗する子どもは、えてしてそれまでにとても怖い思いをしているものです。その最たるものが「押さえつけられて注射をされること」です。自分の恐怖心も理解してもらえずに、むりやり注射をされる恐怖。大人だって人によってはトラウマになります。
診察に入って来た子どもを見て、私はまずどの程度の恐怖心をもっているかを推察します。その恐怖心の程度によって、その恐怖心に「寄り添う」ということからはじめます。積極的傾聴です。そして、その恐怖心の中核になっている部分を「明確化」します。怖いのは「実態がわからないから」だからです。お化けが怖いのと同じ理由ですね。「君が怖いと思っているところは実はこうなってるんだよ」と。
ですから、子どもが納得するまで(針を刺させてくれるようになるまで)はなんどもなんども説明します。実物を見せたり、子どものあたまの中で恐怖心が明確な像として浮かび上がるように具体的な話しをします。こういうプロセスを経てようやく恐怖心が薄まるのです。無理やり押さえつけられないことを悟れば、たいがいの子どもは針を刺すところまではやらせてくれるようになります。
あとは冗談をまじえて会話をしながら、子どもが「この医者は信頼できるかも」と思ってくれればあとは簡単です。「この針は一番細い針だからね」と針先を見せると、多くの子どもは「ほんとだ」と言ってくれます。そして、刺入部をちょっと強めにつまんで「ここが一番痛くないところだってことを先生は知っているんだよ」と得意げに。ちなみに、強めにつまむのは針を刺したときの痛みを軽く感じさせるためです。
そして、「はい、息を吸って~」の「て」のときに針を刺してしまいます。人は息を吸うとき意識的になります。「吸って~」と言われて意識が呼吸にそれた瞬間に針を刺してしまえば痛みはあまり感じないのです。と同時に「ほら、もう針がはいってるよ。痛くないでしょ」と暗示にかけながら、「ゆっくりお薬をいれるからね」、「もう半分終わったよ」と矢継ぎ早に声をかけます。目標の明確化ってやつです。
最後は、注射の時間を長く感じさせない話術が必要。「あと3つ数をかぞえたら終わりだよ。さ~ん、に~い、い~ち」とゆっくり語りかければ。これだけで10秒はかせげます。注射液が入っていくときの痛みはこれでなんとか軽減できます。こうした打ち方をすると、多くの子どもは注射が終わった後、「ほんとだ。ぜんぜん痛くない」と言ってくれます。でも、実際は痛いんです。「思ったより痛くなかった」だけ。
いちど痛くないと感じた子どもは次からそれほど大騒ぎをしないで打たせてくれます。安心するのです。こうしたところに心理学的な作法が役に立っていることを実感できます。だからといって、押さえつけて注射をする医療機関を責めてはいけません。そうしなければたくさんの患者をさばけないのですから。ずいぶん昔になりますが、当院では注射を嫌がって30分以上も診察室でねばった子がいました。
そうはいっても心理学の手法を利用することは結構難しいです。診療時間の問題もありますし、こちらの心構えの問題もあります。スキルの錬度の問題もありますから。でも、学生時代に勉強したこと、青年期に読んだいろいろな本が診療のあちこちで役立っているなぁと思える場面があります。なにより、これまでの自分の精神的な成長にも役立っています。家庭円満のひけつにもなっているかもしれません。そう考えると青年期の悩みは長い人生を乗り越えるための貴重な財産だといってもいいでしょう。
「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、み~んな悩んで大きくなった」ってとこかな。
【追記】
「岩樹荘のおじさん(こちらのブログをご覧ください)」が4月18日に98歳で永眠されました。
いろいろお世話になったことはすでにこのブログでもなんどかご紹介しました。
あらためて「岩樹荘のおじさん」に感謝を申し上げたいと思います。
安らかにお休みください。ありがとうございました。
合掌
「死ぬ」ことを英語では婉曲的な表現で「pass away(亡くなる)」といいます。「die(死ぬ)」という直接的な表現もありますが、あいまいさを嫌う英語においてですら「亡くなる」という柔らかい表現があるのは「死」が持つマイナスの印象を物語ってのことだろうと思います。人の心の細かいひだを表現することが得意な日本語では「死ぬ」「亡くなる」「旅立つ」「永眠する(永遠の眠りにつく)」「天国に行く」「お隠れになる」「逝去する」「死亡する」「絶命する」「薨去する」「冷たくなる」「神に召される」などの多様な表現があり、私たちの祖先が「死」をどのように見てきたかがよくわかります。
死ぬことは怖いことです。とはいいながら、今の私が死を実感として恐れているかと言えばそれは怪しい。今、私が死ぬことによって、「家内や子供たちを残していかねばならない」ことに対する不安感のようなものはありますが、実際のところ、死ぬということがどのようなものなのかは今の私にはまるでわかっていないといっても過言ではありません。これまでたくさんの「死」と関わってきたこともあって、一般の人に比べれば「死」を比較的身近に感じているかもしれません。でも、命に関わるような大病をしているわけでもなく、「死」というものを自分の問題として感じてはいないからでしょう。
先日、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が亡くなりました。マスコミを通じて報じられる先生はいつもお元気だったので、日野原先生が亡くなるなんてことは想像もしていませんでした。ですから、逝去されたというニュースを聞いたときはなんとなく意外でした。しかし、先生が百歳を超えて近づく自分の死を達観していたかといえばそうではなく、亡くなる何か月か前のインタビューで「死ぬことは怖い。死の話しをストレートに言われると恐ろしい」と答えていたようです。とても正直な感想であり、たくさんの死を看取って来たクリスチャンでありながらも素直に答えるこの姿はさすがだと思いました。
私のクリニックに通って下さる患者さんの多くは高齢者です。これは当院担当の会計士も繰り返し指摘するのですが、当院の通院患者に占める高齢者の多さは特徴的です。したがって、毎年、何人かの通院患者が亡くなります。ある人は長年患ってきた病気の悪化によって。ある人は突然の病によって。また、ある人は理由もわからず朝冷たくなっていたなんていうことすらあります。ですから、外来で患者さんとちょっとした会話をしたときに「死」に関する話題が出てくることだって決して珍しくはありません。今も、手術不能で緩和ケアを受けるようにと宣告されて途方に暮れている患者さんが何人かいます。
ただ、そうした患者さんとの間で、直接的に「死」について話しをすることはあまりありません。患者さん自身がそのような「死」に関する話題を望んでいない限り私の方からお話しを振るようなことはありません。ですから、患者さんに対して本当は「死」に関するもっと突っ込んだお話しをしたいと思っていても、そのようなお話しができないまま亡くなってしまうケースがほとんどです。私はなにか特定の信仰をもっているわけではありません。また、「死」について達観した確固たる確信や信念をもっているわけでもありません。「死」の話しを積極的にできないのは、本来私にとって避けたくなる話題だからかもしれません。
医者になってこれまでたくさんの死を看取ってきました。以前、このブログでも紹介した高校生や大学生といった若い人の死もあれば、百歳近い大往生ともいえる人の死までさまざまな経験をしてきました。お坊さんがすでに亡くなった人の魂を慰めるのだとすれば、臨床医は死にゆく人々の魂を慰めるのが仕事だといっても過言ではありません。しかし、現実はどうかと言えば、臨床医は「これから生きていける人」の相手はしても、「死にゆく人々」をしっかり看ているかといえばそうではないように思います。「治療しない(できない)なら退院してくれ」といわんばかりの医療が行われているのもまた事実です。
もちろん私もそうした医療をしてきたのかもしれません。とくに大学病院にいたときはそうかもしれない。しかし、私は私なりに戸惑いながら、そして、悩みながら「死にゆく人たち」に寄り添おうと思ってきたつもりです。そうした気持ちが患者さん自身に伝わっていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼ら彼女らの気持ちを理解したいと思っていました。でも、患者さんがそれぞれ置かれている立場や心のありようが異なり、また毎日の忙しさに立ち止まって患者のことを考えることができなかったことも多く、死にゆく患者のために十分なことをしてあげられたと胸を張れる自信はまったくありません。
とはいえ、今の私なりにいえることは、人間の「死」の意味は年齢によって違うということです。高齢者が大往生ともいえる生の終焉を迎えるとき、人は「長い間ご苦労さま」「今までありがとう」「ゆっくり休んでください」と声をかけます。もちろん、二度と戻っては来れない旅に出発するわけですから、その別れは淋しいものであり、悲しいものです。しかし、そこには一抹の安ど感があるものです。出棺のときにひとしきり流した涙も、時間と共に笑顔になれるのが高齢者の死です。生あるものはいつか必ず死にます。その限られた命が燃え尽きるように消えていくのは決して悲しいことだけではありません。
しかし、若い人の死はそうではありません。本人にはやり残したことがたくさんあったはずです。生きていれば輝くような幸福も手に入ったかもしれません。しかし、その死によってすべてが奪われてしまったのですから本人の無念はいかばかりのものでしょう。若い人の死を看取る家族の心に残す傷もまた決して浅くはありません。自分たちのかけがえのない子供の、あるいは孫の死を看取らなければならないことがどれほど辛いことかは想像を超えます。若い人の死は何回経験しても嫌なものです。主治医の私たちでさえ時に逃げ出したくなるような気持ちになります。
ただ、そんな死に際してなお残された者がしなければならないことがあります。死にゆく人たちが「生きざま」や、あるいは「死にざま」を通じて残された人たちになにかを残していきます。それは思い出かもしれませんし、財産かもしれません。あるいは勇気かもしれませんし、癒しかもしれない。後悔と反省を残す場合もあるでしょう。いずれにせよ、残された人たちは死にゆく人たちから贈られた「無言のメッセージ」ともいうべき遺志を感じ取り、その思いを引き継いでいかなければならないのです。死にゆく人は死ぬこと、生きることを通じて残された者たちへメッセージを託しているのです。
人は誰も死から免れることはできません。そのなかでどう生きるかということは、どう死ぬかということにつながります。死を宣告された人間がどう生きるかはもちろん、一見して健康的な生活をしているかのように見える人にとっても、生きることは実は死への道をどう歩くかということなのです。これまでの私の臨床経験の中で、いろいろな人の死を看取ってきましたが、やはり「立派な死に方」をした人からはたくさんのメッセージを受け取ったように感じます。「傲慢になるなよ」「肩書なんて人間にとってなんの価値もないんだよ」「家族を大切にせよ」「こだわりなんてものは邪魔なだけ」、などなど。
医者になってよかったと思うことはそれほどないのですが、それでもたくさんの患者さんから得られた無言のメッセージは今に自分に役立っていると思います。考えてみると人生は短いものです。生まれてくるのも一人なら死んでいくのもひとり。おもしろ可笑しく生きるのも人生なら、自分を鼓舞しながらストイックに生きるのも人生。人知れず死んでいくのも人生ですし、他人の注目をあびるような華々しい人生を生きていくのもまたひとつの人生です。なにをどう生きようが、それぞれの人生は他者に無言のメッセージを残していきます。生きる者、残された者はそうしたものに意識的になりたいものです。
死ぬことは確かに怖いことです。でも、絶望することではありません。たとえ死ぬまで苦痛に七転八倒した人でも、死ぬ瞬間は安堵の表情になります。魂が肉体を抜けだすとき、あらゆる苦痛や不安から解放されるからです。魂になったときすべての人は仏になります。その瞬間まで、人の人生は修業なのかもしれません。「早く死にたい」と思っていても、人はその修業に耐えねばなりません。「死にたくない」と思いながら往かねばならない場合もまた同様です。それが仏への道だからです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、同じような宗教観を説教・宣教していることは興味深いことです。
なにかとりとめのない内容になってしまいましたが、「死」に悩み、苦しんでいる人になにかを訴えるものになっていれば幸いです。
子どもたちがあれほど楽しみにしていた夏休みがもう終わってしまいます。待ちこがれているものはなかなかやって来ないのに、ようやくやって来たと思ったらすぐに終わってしまう。私の小学生の頃を思い出してみても、夏休みまでカウントダウンという時期になると胸がわくわくしたものです。とはいえ、私の場合、夏休みになったからといってなにをするわけでもなく、ゴロゴロダラダラするだけなんですけど。そして、あっという間に夏休みは終わってやりかけの宿題だけが残っているということに。
それにしてもなぜ夏休みの宿題があるんでしょうね。しかもそれなりにたくさんの宿題が。「休みが長いか
ら」であろうことは想像に難くないのですが、私にいわせると「長いとなんで宿題?」って感じです。夏休みにいろんなことをやりたい子どもも多いと思います。あるいは「なにもしないでゴロゴロするぞ」と考えている子どもたちや、ひょっとすると「たくさん勉強するぞ」と思っている子どもたちにとっても学校から課されるたくさんの宿題は迷惑な代物です(こんなの見つけました)。
私の父は家庭を大切にする人ではなかったので、夏休みに家族でどこかに旅行するなんてことはありませんでした。当時はまだめずらしかった自家用車を所有していた叔父一家に海に連れて行ってもらったことぐらいでしょうか。みんなでなにかをする(大勢でどこかに行く)なんてことが苦手な私でさえ、そうした夏休みの記憶は四十年以上を経てなお楽しいものとして心に残っているのです。自分の家族だけでも大変なのに私達も連れて行ってくれた叔父(もう鬼籍に入っていますが)にはほんとに感謝です。
ですから、私もこれまで夏と年末には家族でちょっとした小旅行をするのが年中行事にしていました。子どもたちの思い出作りのためではなく、息子たちには私と同じような子ども時代を送らせたくないと思っていましたから。でも、なぜ「年中行事にしていました」と過去形にしたかというと、最近では子ども達が親と歩くのを嫌がって旅行に一緒に行ってくれないからです。どこかに食事に行くことですら「俺は家で適当に食うよ」となるのですから旅行となれば言わずもがなです。
長男が来年受験なのですがみんなで旅行をしたいという私の気持ちはかわりません。今年の春のゴールデン ・ウィークに横浜に一泊したときも、「受験生の俺を連れて旅行だなんて信じられないよ」と長男は文句タラタラでした。家内に諭されてしぶしぶ旅行に来ることになったのはいいのですが、彼はなんと夕方にひとりで宿泊先にやってきて、次の日午前中にひとりで自宅に戻っていったのでした。「そんなに勉強が大事なのか」であればいいのですが、そうではなくて「親と一緒に歩けるか」なので困ったものです。
話しは少し変わりますが、私のクリニックには毎日製薬会社の MR(営業の担当者)さんがやってきます。 彼らは新しい薬に関する情報を私たちに説明するためにやって来ます。彼らを相手に、話しをするのが好きな私は北海道の素晴らしさをひとりで熱く語ってしまうことがしばしばあります。北海道の四季折々の美しさと良さを MR さん達に熱心に話しをしてしまうのです。そんなときはいつも「先生は北海道が好きなんですねぇ」とあきれられてしまいますが、事実、私は北海道が大好きです。
そんな私の熱いメッセージが彼らの心に伝わったのか、今年の夏休みに何人かの MRさんが北海道を旅行しました。ゴールデンウィークにも何人かのMRさんが北海道にいっていますから、私自身、北海道の観光PRにひと役かってますね(笑)。彼らから事前に北海道に行く日程を聞いているときは、天気が心配になって何度も北海道の天気をチェックしてしまいます。まるで自分が旅行するような気分になって、「せっかくの北海道旅行だからいい天気になってほしいなぁ」と思うのです。
何年か前のこと。ゴールデンウィークに「北海道を満喫してきます」と旅立っていった MR さんがいました。そして、帰って来て「北海道を十分満喫してきました」と私の前に現れた彼の表情はちょっと複雑でした。なんでも、レンタカーで道内を回っているとき、ゴールデンウィークであるにも関わらず大雪に見舞われてしまったというのです。本州に比べてまだ肌寒い北海道とはいえ、ゴールデンウィークにこれほどまでの大雪はめずらしいのですが。とはいえ、これもまさに「北海道を満喫」です。
ところで、夏が終わった北海道には秋が駆け足でやってきます。日中は夏のなごりでまだ暑い日も少なくないのですが、朝晩はめっきり涼しくなって長袖でも少し寒いくらいになります。そしてじきに大雪山系に紅葉がはじまります。本州では紅葉(こうよう)というと紅葉(もみじ)の赤を連想します。しかし、紅葉(もみじ)そのものも少ない北海道では紅葉(もみじ)が赤い色を発色する期間がさらに短く、赤い紅葉はあっという間に過ぎて黄色い紅葉がそれにとってかわります。北海道の紅葉は黄色なのです。
しかし、大雪山の紅葉はどちらかというと本州の紅葉に近く赤い色合いをしています。おそらくこのときの大雪の気温が本州の紅葉の頃の気候に近いからかもしれません。ですから、黄色い紅葉に見慣れている北海道においては大雪山の紅葉はとても新鮮に映ります。見頃は 9 月の中旬から下旬です。北海道に住み、温泉巡りで秋の北海道らしさに目覚めるまで、紅葉狩りにいくなんてことを考えたことはありませんでした。せいぜい北大構内の銀杏の紅葉をちらと横目で見る程度でしょうか。
秋らしくなってくると、朝晩、ストーブを炊こうかどうか迷うようになります。そんなときに行きたくなるのが温泉。とくに露天風呂に行きたくなります。気楽な学生の頃のこと、サークル仲間と私は週末の休みを利用して阿寒湖に行くことにしました。小さな車に男五人が長時間詰め込まれてついたところは雌阿寒岳・雄阿寒岳近くの露天風呂。ひんやりとした爽やかな空気が漂う中で、見上げると見事なほどに紺碧の空が広がっていました。その青く澄んだ空とコントラストを際立たせていてみごとな紅葉でした。
私はこのとき初めて紅葉を美しいと心から思いました。それまでは興味そのものがなかったのですから当然ですが、このとき眼前に広がっていた景色は私にとってはまさに「心洗われる」ものでした。以来、私は秋が一番好きな季節になりました。秋の紺碧の空と身と心をシャキッとさせるひんやりとした空気。そして、家に帰れば暖かい部屋が待っている。このときの気持ちはなかなか正確に伝えられないのが残念ですが、この感覚は千葉に住んでいては決して味わうことのできないものです。
今年の関東地方の夏は、恒例の大雨にならないうちにいつの間にか梅雨が終わってしまった感じがします。夏本番となっても暑い日もあれば、異様に涼しい日もあったりと、なんだか季節感が安定しませんでした。私が北海道が好きな理由は四季がはっきりしているところにあります。北海道の冬は当然厳しい。しかし、百花繚乱の春を経てときに本州よりも暑い夏となり、一瞬で通り過ぎていく秋を感じながらまた冬を 迎える。冬には冬の、夏には夏のよさが実感としてわかる北海道の生活は私に合っていました。
「秋は物悲しいから嫌いだ」という人がいます。でも、私の場合は、秋になってひんやりとした空気を感じながら紺碧の空を見上げるとなぜか「やるぞっ」と力が湧いてきます。なにをやるというわけでもないのに不思議と力がみなぎってくるのです。こういう感覚になったのも、あの秋の露天風呂巡りをしたとき以の紺碧の空を見て以降です。私にとって夏が終わるということは決して淋しいことではなく、いよいよ自分のシーズンがはじまるんだというような感じになります。秋に生まれたからでしょうか。
また、新入生が本格的にドロップアウトするのもこの夏休みです。以前にも書いたように、私たちの時代は「医学部に入学」ではなく「教養学部医学進学課程に入学」。教養学部の 2 年間はまったく医学に接することはありません。医学を学ぶんだと心勇んで入学しても、医学部の学生だということを忘れてしまうような生活が続きます。そのためか、すっかり勉学意欲を消失して大学に来なくなる奴がぽつりぽつりでてきます。そうやって教養学部の2年間に何人もの同級生が退学・留年で消えていきました。
私が学生の頃にちょうど「宅配」がはじまったのですが、一緒に入学した学生の一人がアルバイトでその宅配便の配達をしていました。でも、大学での勉学よりもそちらの方が面白くなったのか、いつの間にか大学に来なくなって、結局、退学してしまいました。彼は最初からほとんど大学の授業に顔を出さなかったので印象は薄かったのですが、風の便りに彼はその宅配会社の正社員になったと聞きました。自分に合った仕事が見つかったのであればそれはそれで幸せなことではありますが、当時はびっくりしたものです。
欧米では 9 月が新学期。秋は気持ちも新たに勉学に取り組む季節です。私はもうすっかり「勉強」というものとは縁遠くなり、学生のころのように「やるぞっ」って気持ちにはなりません。一方、「勉強」の真っただ中にいる我が家の子どもたちは、夏休みが終わろうとしている今ブルーになっています。毎日、「あ~あ、もうすぐ夏休みも終わりかよ」だなんて愚痴ってますから。学校から出された宿題も終わったのかどうかもわからない状態で新学期に突入・・・。
おおっと。息子たちは、結局、今回のブログの冒頭で書いた私の子どものころと同じになっているではありませんか。DNAとはおそろしいものです。
(追記)
この歌を聴くと「北海道の秋の紺碧の空」を思い出します。あのときの気持ちが伝わるでしょうか。
Ruben Studdard : 「Home」
素敵ですよね。この歌声も、また、歌詞も。大好きです。
実は今、ダイエットをしています。5月の連休に体重を測ったら、知らない間に70㎏を超えていたことにショックを受けたからです。これまで家族からは「やせろ、やせろ」のコールがありましたし、自分自身でも心の中では密かに「何とかしなくっちゃ」と思っていました。しかし、怠惰な性格と、楽天的な性格は、健康なんてことより、見かけなんてことよりも、そのときどきの満腹感を優先する毎日でした。ですから、家族には「俺ってサングラスをかけると櫻井翔君に似てると思わない?」といっては「どこがじゃ~っ」と完全否定を食らっても、下の子に「翔君というよりカンニングの竹山って感じかな」なんていわれても、一緒になって笑っているくらいでした。
しかし、その「翔君気取り」の私にとって目の前に突き付けられた体重70㎏の現実はあまりにも重く、「このままじゃダメだ」と改めて思い知ったのです。これまでもダイエットはしたことがあります。若いころであればすぐに痩せられ、体重を減らすにはちょっと食事を控えるだけでよかった。40歳になってアメリカに行きましたが、「アメリカでの食生活=脂っこい食事=ブクブク太る」という図式を思い描いていたせいか、毎朝・毎夕に欠かさず家内と大学構内をジョギングして、まだ車の停まっていない広大な駐車場でテニスをし、またジョギングをして帰宅。そして、シャワーを浴びて食事という健康的な生活で体重は60~61㎏をずっと維持していました。当時の写真を見ると、もちろん見かけも若いのですが、体型も適度に筋肉質でスラッとしていてまるで櫻井翔君がそこにいるようです。
ところが50歳を超えると、これまでとは打って変わり、太りやすく痩せにくい体質になり、そう簡単にはやせなくなりました。震災前にもダイエットをしていたのですが、このときは毎日ジョギングと筋トレを繰り返すかなりハードなものでした。当時なぜダイエットをしようと思ったのかというと、買いものに行ったショッピングセンターの窓ガラスに映った己の体の無残な姿にショックを受けたからです。それまでは体重が増えたことの自覚はあったものの、まだ現実のものとはとらえていませんでした。しかし、あの窓ガラスに映った自分の姿。伸びていた髪はぼさぼさで、丸い顔と突き出たおなか。なんといっても「丸太か?」っと見まごうばかりの胴体の「太さ」はあまりにも残酷な現実に感じたのでした。
でも、きついダイエットはそう続かないものです。挫折しそうな気持ちを抑え、毎日歯を食いしばって繰り返す運動に対する熱意などはいとも簡単に崩れ去ってしまうのです。あのときも、風邪で熱を出し、寝込んでしまったことをきっかけにすっかりダイエットの熱は冷めてしまいました。その後、震災があって私の頭の中からダイエットという五文字はきれいさっぱり消えてしまいました。以来、食べたいものを、食べたいだけ食べる生活。当然のことながら太ってきます。それでも体重を測ることなどなく、自分の体型にもほとんど関心はありませんでした。ふたたびあの厳しいダイエットをやる気にはならなかったのです。そんな私を家族は「パパのおなかってお相撲さんみた~い」とか、「ゴロゴロしてるパパってトドに似てないか?」とか、笑いの種にしていましたが、私もそんな言葉に大笑いをしながらおどけてばかりいました。
それ以降もダイエットをしようなんてまるで考えませんでした。ところが、連休中にふと測った体重が70.8㎏。さすがに70㎏越えはショックでした。健康うんぬん以前にこんな体重になってしまった自分が情けなかったのです。鏡に映る自分の体型はいつになく醜く、「中年なんだもの太ってしまうことは仕方ない」と思い込もうとしていた自分に気付きました。そのとき私は決心しました。ふたたびダイエットに挑戦しよう、と。続かないかもしれないと思いましたが、今度は無理をせず、辛くないダイエットを、楽しみながらやってみようと思いました。今までのダイエットのように「頑張るダイエット」は挫折しやすいことを知っていたからです。しかも、効果が実感できない場合はなおさら挫折しやすいということも実体験でわかっていました。そこで、目で見てわかるようにその日の体重を記録し、グラフ化することにしました。
まずは「食べ過ぎ」から是正することにしました。三食のご飯をたべすぎていないか。そして、間食が多くないかを考えてみました。そして、とりあえず「お米を食べるのをやめてみよう」と考えました。お米そのもののカロリーもさることながら、お米を食べるためにおかずもまた食べ過ぎてしまっていたからです。あと、間食はできる限り口にしないこと。そして、体重がそれなりに落ちるまでしばらくは朝食と昼食は極力抜くこと。ちょっと無理をしているように思えるかもしれませんが、開始直後は目に見える効果を得たいと考えたからです。効果はてきめんで、開始数日は毎日1㎏づつ体重が減っていきました。夕食はおかずを食べ過ぎないように食べ、週末はダイエットを少し緩めてみましたが、はじめの数週間は毎日数百g単位で体重が減っていきました。その分だけこれまで食べ過ぎていたということでもあります。こうした効果を目の当たりにしてダイエットに対するモチベーションはぐっと高まりました。
グラフ化するとよくわかるのですが、週の前半でぐいぐい体重が落ち、週末で少し増える。そして、また次の週前半で減る、という変化を繰り返していく中で体重は二ヶ月でほぼ7㎏減りました。でも、決して無理をしている感覚はありませんし、体調の変化もありませんでした。途中で採血もしてみましたが、これといってなにか悪い変化もありませんでした。むしろ、高めだった中性脂肪は正常化するなど脂質の改善が見られました。唯一、白血球数は極端にさがりました。研修医の頃、指導医に「重症患者の白血球数が急に下がったら要注意」といわれたことを思い出しました。ダイエットはからだにとってはある種の危機状態を作るわけですから、そうした体内環境の変化を反映しているのかもしれません。ただ、不思議なことにダイエットをしたら抜け毛が減りました。栄養状態が悪くなるわけですから抜け毛が多くなるならまだわかります。でも、抜け毛の本数が明らかに減っているのです。抜け毛がそれなりに気になり始めた年齢ですので、うれしい変化といえばそうなんですけどなぜなんでしょ。
ダイエットをしてみて感じたのは、ダイエットの極意は「空腹を楽しむ」ということ。空腹とは人間にとってある意味で「苦痛」なのだと思います。苦痛だからこそ人間はそれを避けようと食行動にでるのかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。人は空腹にならないように食べるではありませんか。あるいは、それほど空腹でもないのに食事の時間が来たから食べる、という場合もあります。これらって実は「空腹」という「苦痛」をさけるための行為・行動なのだと思うのです。しかし、今回気が付いたことは、ダイエットにおいて「空腹は脂肪が燃焼している貴重な時間」と思えるようになるとだいぶ気分的に楽だということ。空腹は決して苦痛ではないのです。と同時に、なんとなく食べる、時間が来たから食べるということを決してしないようにすること。実際、これまでを振り返ると空腹感を乗り越えた日ほど体重減少が大きいような気がします。この当たり前のようで当たり前でないことに気が付いたことも収穫でした。
一方で、満腹が実は苦痛だという経験もしました。「あ~満腹、満腹」という言葉は幸せの印のように感じます。ところが私の場合、ダイエットが進むにつれて満腹という一時的な「快楽」のあとに嘔気や腹痛という「苦痛」がやってくるようになったのです。ダイエットをしながら「あ~、○○を思いっきり食べてぇ~」って思うことがありました。ところが、そうした思いのままに腹いっぱい食べると、そのあとで必ずと言っていいほど気持ち悪くなったり、おなかが痛くなったりするのです。そして、しばらくトイレにしゃがみ込むはめに。よく「胃が小さくなる」といいますが、単に胃のサイズが小さくなるだけの現象ではないようです。たくさん食べることで脂質かなにかが体の中で急に増えてこのような症状がでるようでもあります。よく拒食症の患者が食べては吐くという異常行動を繰り返すといいますが、この行動の理由に「たくさん食べてしまったことに対する罪悪感」があると説明されます。しかし、実は今私が説明したような生物学的ななにか合理性が背景にあるような気がします。
いずれにせよ、ダイエットはこれからも続きます。5月の連休明けからこれまでで7㎏の体重が減りました。最近は体重の減り方も少なくなり(というよりも意識的に食事量を以前よりも戻しています。また、朝食と昼食のかわりにタンパクとカルシウムを補給するために牛乳を飲むようにもしています)、その分だけ以前ほど毎日の体重測定が楽しみではなくなりました。むしろ、体重が大幅に増えていないか恐る恐る体重計をのぞき込むようになっていますが、あと2㎏の体重を減らしたいと思っています。体重は1㎏などいとも簡単に増減するからです。体重をふやすのは簡単です。ダイエットはいともたやすくなし崩し的に終わってしまいます。時間があれば筋トレ(足上げ腹筋や腕立て伏せ)をやっています。筋トレも意識的にゴロっと横になりながら気軽にできるものにしています。何事も「頑張らない」「仰々しくしない」「成果を実感できる」をモットーにこれからも細く長く続けるつもりです。
あとどれくらいでかはわかりませんが、今以上に櫻井翔君にそっくりな私が出現するかもしれません。先日、すっきりしたおなかをさすりながら、家族に「ほら、こんなにやせたぞ。だからこれからはカンニングの竹山とは言わせないからな」と勝ち誇ってみせました。しかし、そんな得意げな私に息子が冷静に言いました。「からだはやせても、顔は竹山のままなんだよな~」って。ガク~っ。