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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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震災から15年

東日本大震災から15年が経ちました。数百年にいちどともいわれる巨大地震と、それによって引き起こされた大津波によって、たくさんの人が亡くなりました。それまでなにげなく繰り返されてきた日常生活が、一瞬のうちに真っ黒な大波にのみ込まれてしまったのです。それだけではありません。予想をはるかに超える高さとなった津波は、あれだけ安全対策がなされていたはずの原子力発電所を一気に破壊してしまいました。そして、広範な地域に放射能をふくむ塵を拡散させ、地域住民の生活を奪ってしまったのです。

その10年後、COVID-19という新型コロナウィルスが出現し、世界中に感染を広げて700万人を越える人が亡くなりました。日本においても15万人にもおよぶ人がこのウィルスに感染して亡くなったのです。大地震、津波、原発事故、そして、新型コロナウィルスのパンデミックという、まさに「三重苦」ならぬ「四重苦」によって、長年デフレによって苦しみ続けてきた日本はさらに窮地に追い込まれました。しかし、日本と日本人は今、そうした危機をまさに不屈の精神で克服しようとしています。

これまでの日本の歴史を振り返るとき、日本は数々の試練を乗り越えてきたことがわかります。遠くは鎌倉時代、モンゴルが二度にわたり日本の島々で狼藉を働きながら侵略を試みようとしたときがそうです。あるいは近現代になって、欧米がアジアの国家を次々と植民地化する中、日本がそうした国際社会で生きていかねばならないことを知ったときも、です。そのたびに日本は自国とは比べものにならないほどの大国と対峙し、その難局を切り抜けるためにはどうすべきかを考え、全身全霊をもって対処してきました。

我々は震災や原発事故の経験を活かさなければなりません。あのときの対応にはいろいろと稚拙なものがありました。しかし、そうしたことを冷静に振り返り、今後また同じようなことが起きたときの対応策を考えておかねばならないのです。今のCOVID-19感染症が「インフルエンザ以下のもの」であるからといって、感染が拡大しはじめたあのときの対応が過剰だったとはいえません。今の価値観で過去の対応の良し悪しを断罪することはできないのです。「過去をどうこれからに活かすか」、その視点こそが重要です。

今回は、震災10年目である、2021年3月に投稿したブログを再掲します。このときの私の考えや感想は今もかわりません。そして、それは震災直後の考えともなんら違いはありません。それは当時から「できるだけ冷静に、理性を総動員して判断する」ということに努めたからにほかなりません。

※ブログ内検索エンジンで「震災」「放射能」「コロナ」で検索してみてください

 

********************* 以下、本文

10年前の3月11日に東日本を襲った大地震。三陸沖130㎞付近の海底で発生した地震のエネルギーはマグニチュード9だといわれています。また、震源が約24㎞と比較的浅かったこともあって、この地震によって震度7を超える強い揺れを記録する地域もありました。まさに日本周辺に発生した地震の中でも史上最大級のものといってもいいでしょう。

あのとき、私はクリニックの外来で診療をしていました。冬も終わりを告げ、徐々に春めいてはきましたが、空は厚い雲におおわれてちょっと寒かったことを覚えています。待合室には数人の患者が診察を待っていました。私は診察室で常連さんとたわいもない世間話しをしていたのですが、突然、遠い彼方から、地鳴りでしょうか、音とも、振動ともつかぬわずかな感覚が足に、そして全身に伝わってきました。私は瞬間的に地震がやってくるのだと思いました。

遠くに聞こえていた地鳴りはほどなく大きな横揺れと縦揺れとなってクリニックを大きく揺さぶり始めました。揺れの大きさといい、ゆれ続けた時間といい、私が今まで経験してきた地震とはあきらかに異なっていました。普段、地震ぐらいではそれほど驚かない私も、今回だけはいつもとちょっと違うことを確信しました。

昨日、福島第一原発事故を描いた映画「Fukushima50」がTV放映されました。原発で働く人たち、あるいは自衛隊や消防、警察の皆さんが、原発事故の収束に向けて、まさに命がけで、いかに苦労されたかが伝わって来る映画でした。地震の直後の私は発生した津波の破壊力のすさまじさに圧倒され、原子力発電所がどんな状況になっているかなど考える余裕もありませんでした。
私は地震の揺れがまだおさまらない中、院内にいた職員や患者さんたちがパニックをおこして外に飛び出さないよう必死に声をかけていました。院長室から待合室にもってきたラジオからは各地の震度とともに予想される津波の高さが報じられていました。それは「6mほどの津波が到達する」と想像をこえるものでした。

実際にはその2倍の高さの津波がおし寄せましたが、それでも「約6mの高さ」と聞いたときはなにかこれから恐ろしいことが起こるのではないかと感じました。その胸騒ぎは的中し、想定をはるかに越えた津波はたくさんの人の命と家屋をのみ込み、原発の建物を突き破って施設を破壊して、全電源喪失という予想もしなかった最悪の事態をもたらしたのでした。

当時のマスコミの論調も、また、いちぶの心ない市民たちからも、東京電力への非難の声があがりました(それは今もなおいちぶの人たちで続いています)。たくさんの人が亡くなり、多くの住民たちが避難を余儀なくされたのが東京電力のせいだというのです。しかし、私は当初から「それは東京電力のせいではない。ましてや東電の社員を責めるのは筋違いだ」と繰り返してきました(こちらもどうぞ)。

なるほどたくさんの住民がその後、長期間にわたって不自由な生活を強いられることになりました。福島原子力発電所の事故によって放射性物質が広範囲に拡散したからです。しかし、その事故はもとをたどれば専門家の予想をはるかに超えた巨大津波が原因です。それまでの専門家会議で想定されていた津波の高さはおおむね6mでした。その後の見直しによって徐々に想定水位があげられ、その都度、原発では対策が進められてきました。でも、残念ながらその対策は今回の巨大津波には間にあいませんでした。

福島第一原発を襲った津波は施設内の建屋を5mも水没させる最大水位16mを超えるすさまじいものでした。この千年に一度とも、数百年に一度ともいわれる大地震によって打ち寄せた巨大な海水の塊にどう立ち向かえばよかったというのでしょう。結果論で責めることは簡単です。しかし、誰一人として想像だにしていなかった災害に加害者はいないはずです。

震災当時、国会には東電の幹部が参考人としてなんども招致され、まるで人民裁判のような質疑がおこなわれました。そして、「津波が想定を超える高さだった」と説明する参考人に、「その想定が間違っていたんだろ」とヤジを飛ばす議員もいました。しかし、想定とはそういうものなのです。想定の根拠となる科学に絶対などないからです。こんなあたり前なことも理解できない国会議員にはあきれるばかりですが、そんな理性的になれない人たちは十年も経った今でも存在します。

原発事故そのもので、あるいは福島第一原発から漏れ出た放射性物質が原因で亡くなった人はただのひとりもいません。原発事故や放射性物質の恐怖にさいなまれ、避難を余儀なくされた生活に精神の不調を来した人はたくさんいました。そのなかには自ら命を絶った人も少なくなかったでしょう。しかし、それは東京電力のせいでも、社員のせいでもなく、いわんや東電社員の家族の責任では決してありません。

一方で、子ども達の避難が遅れたと学校の責任を問う裁判や、路上教習をさせていた自動車教習所の過失を問う裁判なども行なわれています。しかし、よく考えてみて下さい。この震災ではみんなが被害者なのです。児童を避難させるのが遅れた教諭も亡くなりました。地震で揺れる中で路上教習させていた教官だって亡くなっています。

あの未曾有の災害に加害者なんていないのです。確かに震災でたくさんの人が亡くなりましたが、そのほとんどは津波によるものです。 もし、責任を問うべきだというなら、1万8000人あまりの人命を奪った巨大津波への対策を怠った行政の責任も問われるべきです。しかし、津波に対応できる防潮堤や街の移転を進めてこなかった地方自治体の責任を問う人はいません。 誰ひとりとしてあのような大きな地震が起こり、類を見ない巨大な津波に襲われるなんて想像していなかったからです。 にもかかわらず 津波への対応策が間に合わなかった東京電力だけが責められるのは不条理です。

先日の映画「Fukushima50」でも、避難してきた人たちの一部が東電社員の家族に冷たい視線を送り、「あんなところに原発を作ったからだ」「俺たちの生活をどうしてくれる」と心無い言葉を投げつけるシーンがありました。実際にもこうした光景が見られたと聞きます。福島ナンバーの車がいたずら書きされたり、福島県から他府県に避難してきた子どもたちが嫌がらせを受けたという事例も複数報道されています。

不安や怒りからのこととはいえ、こうした心ない言動を抑えきれない人たちがいます。かつて、大東亜戦争(太平洋戦争)のときもそうでした。戦地に向かう兵隊さんを万歳で送り出した人たちが、終戦後、戦地から引き上げてきた兵隊さんに「お前のせいで日本が負けたんだ」と石を投げることもあったと聞きます。あの無謀な戦争に突っ込むことになった責任は、当時の新聞によって戦意をあおられた国民にもあったはず。そうした国民を守るために戦った兵隊さんは、ある意味、その犠牲者、被害者だったともいえるのではないでしょうか。

私たち国民がいつも「か弱い被害者」とは限りません。無意識のうちに「傲慢な加害者」になっている場合もあります。それは新型コロナウィルスの感染が拡大している今も見られる光景です。よりによって感染患者に対して、あるいはその患者を治療・ケアする病院関係者に対して心無い言葉をぶつける人たちがいます。福島原発事故はこうした理不尽な現実を繰り返してはいけないことをも教えているのではないでしょうか。

受験という人生

2月7日(土)と8日(日)の二日間、第120回医師国家試験(国試)が実施されました。医師になるためにはなんとしても合格しなければならない試験です。合計400問の問題が出題され、その70%以上を正解しなければ合格できない厳しい試験です。私たちのときの国試は600問の問題を3日間で回答する形式で行なわれていましたが、2018年(平成30年)から二日間で400問に変更されました。でも、問題数が減ったからといって易しくなったわけではありません。私たちのときとくらべると、最近の画像診断や治療方法ははるかに発達・進歩しており、膨大な知識を必要とする今の試験は、かえって昔より難しいものになっています。

あれだけ勉強して医学部の入試を突破してきた医学生たちにも、「今までこれほど勉強したことはない」といわせるほどの勉強量を要します。「90%の人が合格するのだから」といえるほど簡単な試験ではありません。「問題の70%を正解すればいいだけ」と励ます人もいますが、むしろ「上位何名までが合格」と定員が決まっていた方がどれだけ楽でしょう。なぜなら、その年の試験の難しさに関係なく定員までは合格できるからです。しかし、「70%以上の正解で合格」となればそうはいきません。難しい問題が多い年に当たってしまえば合格者の数は激減し、受験したときの国試の難易度によって医者になれるかどうかが左右されるのです。

医師国家試験が医学生にとってどれほどの重圧になっているかは、私自身が今もときどき国試に合格できなかった悪夢にうなされることからもわかります。私のこの悪夢は、国家試験を目前にしているのに、まったくその準備ができていない場面からはじまります。夢の中の同級生たちはすでに国試対策が完了していて自信満々です。私は心の中で「来年までの一年間しっかり勉強して試験に臨めばいい」と自分をなぐさめるのです。合格していく同級生達に取り残される孤独感。下級生達と国家試験を受けることになった屈辱感。来年の国試には無事合格できるだろうかという不安な気持ちに押しつぶされそうになって目が覚めるのです。

国家試験が終わるとまさに放心状態が続きます。開放感を味わう余裕もないほどくたくたになっているのです。国試が終ったあとの私の自室は、しばらくの間、プリントや資料が散乱し、たくさんの医学書や問題集などが机に積み重なっていました。「合否なんてどうでもいい。やるだけのことはやったんだ」。そんなところでしょうか。そして、ホッとする間もなく、合格発表の日が近づいてきます。自己採点をしなかった私は再び緊張と重圧感でいっぱいに。私はそんな感情から逃れるように、千葉から来た両親と道内旅行をしました。友人から合格の知らせが道北の旅館に届いたとき、両親はもちろん、旅館の方までもが喜んでくれました。

戦後の医師国家試験でもっとも低い合格率は、1954年の第14回医師国家試験の64.1%だといわれています。このころの試験は今のようにマークシート形式の試験ではなく、筆記試験(記述式)と口頭試問でした。まだ戦後の混乱期にあり、国家試験の制度そのものが整備されておらず、問われる知識も採点する試験監督によってまちまちでした。また、当時は、質の高い医師を養成するという政策の一環で、合否に関しては厳しい態度がとられていました。1984年(昭和54年)の第73回医師国家試験から筆記試験と口頭試問はマークシート形式に統一され、それまで春と秋の年二回おこなわれていた試験は1986年に年一回になりました。

こうした試験制度の変更は、マークシート形式の入試方法が導入されたことがその背景にあります。シート上に印刷された選択肢を鉛筆で塗りつぶし、OMR(光学式読み取り装置)によって読み取り、短期間に採点を終えられるようになったのです。以前の国立大学の入学試験は、一次試験と二次試験を課す大学も、また、一回の試験で合否を決める大学も、各大学が独自に入試問題を作っていました。しかし、大学が独自性を出そうとすればするほど、教科書の範囲を逸脱したいわゆる「難問・奇問」が誕生するなどして社会問題になりました。そうした問題を改善するために、1979年にはじまったのが「共通一次試験」です。

共通一次試験の目的は、本来、学校教育における受験生の学習習熟度を測ることにありました。問題はどの教科もいわゆる教科書レベルに近く、「学校の勉強をまじめにやっていれば平均点はとれる」といわれるものでした。ですから、開始された当初、多くの大学は一次試験として5教科7科目(英・数・国・理2・社2)を受験することが必要でした。しかし、1990年から「大学入試センター試験」と名称が変更され、政府の主導で私立大学の入試においても利用されはじめました。そして、大学や学部によって要求される受験科目数はさまざまになりましたが、問題自体は難化し、教科書レベルだけでは対応できないものになっていきました。

2021年からセンター試験は「大学入学共通テスト」と名称が変わりました。世界のグローバル化、国際化、多様化に対応する受験生を選抜するためとされました。しかし、そうした「お花畑の理念」は、かえって教育の質を低下させ、受験生を翻弄しています。かつて、「ゆとり教育」がおこなわれていた時期がありました。教育内容の簡素化や教育時間の短縮などによって「受験戦争」と呼ばれる「競争の激化」を解消しようとしたのです。しかし、そのような小手先の改革は「受験戦争」という問題を解決しませんでした。むしろ、自主的に勉強していた生徒と「ゆとり教育」に乗せられた生徒との間で格差を生じさせるだけだったのです。

高校受験や大学受験、あるいは就職試験のように、合格定員が設けられた選抜において競争となるのはやむを得ないことです。あらゆるところに競争が待ち受ける社会に生きる以上、競争と無縁ではいられないのです。「ゆとり教育」は「受験戦争」や「競争社会」から子ども達を守る改革と思われていました。しかし、実際には、その「ゆとり教育」は「逃れられない競争からのモラトリアム」にすぎなかったのです。現実に存在する競争を社会悪として、子ども達をそこから遠ざけようとするのは間違いです。教育は少なくともそうした現実に対処するすべを子ども達に教え、「失敗を恐れてはいけない」と背中を押す存在であるべきです。

いくつかの理工系大学の入試ではいわゆる「女子枠」が設けられるようになりました。女子枠を設けて理工系学部における女子学生の数を増やそうというわけです。しかし、これも間違った改革です。よく考えてみて下さい。なぜ理工系学部の女子学生を増やさなければならないのでしょうか。社会のリケジョを増やすためですか。でも、なぜリケジョを増やすのでしょうか。ある人は言います。「男女平等参画社会を実現するためだ」と。そこまでして理系の職場に女性労働者を増やすことが、どうして「男女平等」につながるのでしょうか。そんなことは単なる数あわせにすぎず、ことの本質が理解できていない人間が考える浅知恵です。

そもそも「女子枠」を設置すること自体が「男女平等参画社会」という理念に矛盾しています。本来であれば、理系に進みたいと思う女子生徒を増やす工夫が必要であるはず。もし、「女子枠」を設けるのであれば合理的な目的と理由が必要です。私は、医学部の入試において、男子枠と女子枠を別々に設けて募集すべきだと思っています。それは大学医学部には地方の病院に医師を派遣して地域医療を支える使命があるからです。とくに激務がもとめられる外科系の医師は地方の医療に欠かすことができません。しかし、医学部に女子学生が増えすぎれば、そうした激務に従事する医師の数が減り、地域医療を支えることができなくなるのです。

もちろん、激務をこなす女医の数が増えれば問題は解決します。しかし、現実問題として、今の男子学生ですら、そうした激務の科には進もうとしない傾向が高まっているご時世です。地域医療を守るためにも、その大学医学部が必要としている医師の受給を考慮して、男子枠・女子枠それぞれの募集定員を設けた上で入試をすればいいと思うのです。でも、理工系学部の入試に広がる「女子枠」はそうした説明可能で合理的な目的や理由がありません。とくに、パイロット不足の解消を目的にした航空大学校での女子枠は、学科試験も免除という優遇ぶりなのにはあきれます。航空大学校の募集定員を増やせばいいだけの話しです。

試験はひとりの人間が試されるとき。その人の努力、忍耐力、意志の強さのみならず、価値観や人生観までもが問われる場面です。人生の大切な局面としての試験は、だからこそ平等でなければなりません。しかし、平等とは必ずしも「同じであること」を意味しません。「男女平等参画社会」に代表されるような、今の社会に錯綜するスローガンは必ずしも平等のあるべき姿を正しく主張していないのです。受験という人生の大きなイベントだけは、社会のあり方に左右されないものであってほしい。その意味で、一発勝負であろうと、受験生の負担が大きかろうと、昔の受験制度の方が今よりよほど平等だったのではないかと思います。

競争のない社会が平等なのではありません。格差のない社会が平等なのでもありません。誰もが競争に加わることができること、努力が努力として報われる社会こそが平等なのだと思います。そして、競争に失敗しても、何度でもチャレンジできる社会の実現が必要なのです。教育は子ども達にそのことを教える必要があります。頑張ることの尊さとチャレンジする勇気。頑張った結果にとらわれず、他者の価値観や人生観を尊重する大切さを子ども達に教えるのです。その意味で、男女の差違や区別を否定的にとらえたり、競争や格差の負の側面をことさらに強調する今の社会の風潮は間違っていると思っています。

当院への苦情

 

Googleのクチコミに苦情が寄せられました。
日頃、人から後ろ指を指されないように診療して来たつもりなので、この苦情はまさに寝耳に水。もし私の対応が無礼であったのであればお詫びしなければなりませんが、診療内容に対するご不満であるなら弁解しなければなりません。他の患者さんにも参考になることでもあるのでこの場を借りて少しご説明します。

ただし、匿名で寄せられた苦情ですので、カルテを見直した上での的確な弁明にならないかもしれません。言った、言わなかったの齟齬になる可能性もあります。いずれにせよ、苦情を寄せられた方を誹謗・中傷する意図はまったくありませんので誤解のないようにお願いします。

 

************************** 以下、寄せられた苦情

最悪の医者です。
3日間高熱で咳混んで家から動けず、4日目に熱も咳も変わらないけど何とか受診しないとと家からいちばんちかいこの病院に行きました。 この時期、どこの病院も混雑してるのにここは患者が誰もいませんでした、この時点でナゼなのか気がつけば良かったのですが、熱と咳の為、頭が回りませんでした。
診察は熱と咳が出てるにもかかわらず服の上から背中に聴診器当てただけで喉も見ないで「風邪ですね」で終わりました。 インフルエンザもコロナの検査もせずに。 信じられませんでした。
それからクスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方したきました。 ただの風邪に6種類のクスリを出しますか? インフルエンザだったら、タミフル、リレンザ1つですむのに…
これほどのやぶ医者は見たことがありません。 異常に空いてる訳がわかりました。
皆さんもここへは絶対に行っては行けません。とんでもない医者ですよ。

************************* 以上

 

1)「熱と咳が出ているにもかかわらず服の上から背中に聴診器」「喉も見ないで風邪」

これは肺炎があるかどうかを確認したのだと思います。私が使っている聴診器は「マイクロフォン」です。服の上から聴診するために使っています。それは次のような理由からです。

●聴診器を直接肌に当てない
 ・服を脱がせることで寒い思いをさせない(プライバシーに対する配慮でもあります)
 ・患者が感染症だった場合、肌に当てた同じ聴診器を他の患者に使用して感染を広げない
 ・診察時間を短縮する(衣服の脱ぎ着きに時間をかけない)

この聴診器はノイズキャンセリング機能がついており、服の上からでも肺炎・気管支炎の有無や気管支喘息の状況、心雑音などを確認するのに支障はありません。ただし、詳細に聴診するときには適していませんが、一般診療における聴診においてはこれで充分だと考えます。

「熱と咳が続いている」ということだったので、肺炎を疑って聴診したものの、肺炎を疑わせる異常がなかったのでしょう。しかし、私は単なる気管支炎だったとしても、このような場合は、念のため抗生物質を処方していると思います。その一方で、「高熱が続いている」という訴えがなかったり(聞き落とした場合もあるかも)、すでに解熱して全身状態もよければ、抗生物質を処方しないかもしれません。

なお、私は通常、簡単に「風邪ですね」という表現は使いません。風邪で高熱が続くことはないからです。もし私がそう言ったとすれば、「高熱が続いていた」という情報が頭に入っていなかったためかもしれません。診察時にまだ「熱と咳」があったという意識が私にあれば、今回のケースはなおさら「風邪」とは説明せず、「気管支炎をこじらせたもの」として抗生物質を処方していたでしょう。

風邪症状を訴えて来院された方には全例に聴診はしています。これは生活習慣病で定期受診している患者もふくめて「聴診器をあてない診療」はしてはいけないと考えるからです。咽頭痛を訴える方には咽頭部の視診もおおむね全例にやっています。もし、私が咽頭部の視診をやっていなかったとすれば、咽頭痛の訴えがなかったか、うっかりして忘れてしまった(咽頭痛が主症状ではなく、咳に意識が向いていた?)からだと思います。咽頭部の症状にあまり意味がないと考えれば省略することもあります。

 

2)「インフルエンザもコロナの検査もしない」「タミフル、リレンザ1つですむのに」

治療薬のないコロナはもちろん、インフルエンザの抗ウィルス薬も感染初期に服用するものです。「治療薬」ではなく、ウィルスの増殖を抑えて「発熱期間を1日ほど短縮する薬」だからです。ですから、「3日間高熱で咳き込んで」ということを聞いていれば、私は抗ウィルス薬を処方しないと思います。むしろ、気管支などの混合感染(当初のウィルス感染に細菌感染を合併したもの)を疑って抗生物質を処方するでしょう。感染初期であって、ワクチン接種がなく、比較的重症感が強ければインフルエンザの抗ウィルス薬を追加するかもしれませんが、ワクチン接種があって重症感もない場合は処方しないことが多いです。

また、このブログでも繰り返してきたように、「検査は一番怪しいときにやるもの」であり、そのタイミングは高熱となって24時間以上経過してからです。早く検査しても検査の精度が落ちて意味がなくなるのです。ましてや会社や学校から「検査をしてくるように」と強く指示された場合でなければ、ワクチンの接種歴や症状、家族歴だけで「インフルエンザ」と診断することもあります。これを「みなしインフルエンザ」といいます。ワクチンを接種した場合は検査で陰性になることがあります。ですから、そうした場合であっても、症状によっては検査の有無とは無関係に「インフルエンザ」と診断しています。

以上のことから、高熱が3日以上経過している今回のケースはインフルエンザだと思っても抗ウィルス薬は処方しないと思います。インフルエンザやコロナの検査も同様です。ましてや私が「風邪ですね」と言ったとすればなおさらです。検査をすれば当院の収入になるので助かりますが、意味があまりないと思っても検査をするのは患者が強く希望したときです。ただし、検査の必要性について説明した上で、です。

 

3)「クスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方」「風邪に6種類もの薬」

以前のブログ(「傲慢な診療」をお読みください)にも書いたように、若いころの私は「風邪に薬は不要」という信念をもっていました。しかし、ある患者から思いがけずに寄せられた苦情に気が付かされました。「患者は症状がつらいから来院するのだ」ということを。以来、私は患者の訴えがあれば、薬が多くなりすぎないように注意しながらではありますが、症状緩和の薬を処方するようにしています。その結果、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があっただけでも4種類の薬を処方します。

これが多いといえるのかどうかは私にはわかりません。ただ、「咳」という症状だけでも処方薬が1種類というわけにはいかないのです。「咳」があるならば「咳止め」を出せばいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、咳は「気管支内の汚いもの」を喀出するための症状。強い咳止めによって咳をとめれば「汚いもの」を喀出しずらくして、気管支炎をこじらせたり、肺炎に進展させたりすることすらあります。また、麻薬系の強い咳止めは痰を粘張にしてかえって咳をひどくすることがあるのです。

そこで私は、咳に対して比較的穏やかな咳止めと気管支拡張剤の咳止めテープを処方します。そうすることによって、不必要に咳を止めることなく、咳を鎮めて痰を出しやすくできるからです。その結果、咳の症状があるときは、去痰剤をふくめて3種類(錠剤の鎮咳薬と去痰剤、テープ剤の気管支拡張薬)を処方しています。つまり、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があるだけで5剤を処方することになってしまいます。こじれた気管支炎や肺炎を疑えば、これに抗生物質や漢方薬を加えてさらに増えてしまうのです。

「もともと薬をたくさん服用している風邪症状の方にはできるだけ少ない薬で」と思いますが、症状によってはそうもいきません。もともと服用している多種多様の薬を「できるだけ減らしましょう」とお話ししますがなかなか納得してもらえないものです。「すでに飲んでいる薬なので減らすのは不安」だからです。そのお気持ちは理解できますし、減らすことができない薬が多い方もいるので、私は無理に減らすことはしません。「儲け主義」でたくさんの薬を服用させているわけではないのです。

その一方で、「薬はできるだけ飲みたくない」という方もいます。医療機関を受診した患者が「薬は飲みたくない」とおっしゃる理由はさまざまですが、私は医学的な見地から薬を服用する意義を説明した上でそれでも「飲みたくない」という方にはその希望を尊重しています。ただ、「薬を飲まないことによるリスクは理解しておいてください」と説明はします。あとはご本人しだいですから。我々医療従事者は「薬がほしいから医療機関に来る」と思っているので、ご要望は医師に明確に伝えなければいけません。

ちなみに「隣の薬局が儲かるように」と批判されていますが、隣の薬局は当院が経営しているわけではありません(こういう勘違いは多い)。結果として処方薬が多くなってしまっていても、薬局を儲けさせようとそうしているのではないので誤解しないで下さい。院外薬局は、処方内容に間違いがないか、現在服用している薬との相互作用がないかをきちんと確認してくれているありがたい存在です。なにより、隣の薬局は、処方薬に対する質問にもしっかり答えてくれる立派な薬局だということは強調しておきます。

 

4)「異常に空いているわけがわかりました」「とんでもない医者です」

苦情を寄せられた方が来院したときは年明けのせいでたまたま空いていたのかもしれません。ただ、「空いている」ことは必ずしも悪いことだと私は思っていません。当院では風邪症状のある方とそうでない方を分離して待っていただいています。それでもできるだけ混まないよう、風邪症状の方にはできるだけ空いている時間帯に来ていただくようにしています。こういう配慮にもときどき「なぜすぐに見てくれないのか」というお叱りを受けるのですが、感染拡大を防止するための対応策でありご理解いただいています。

と同時に、また何度も来院しなくてもすむよう、訴えていた症状に対する薬はできるだけお出しするようにしています。なんども来院するのはつらいですからね。そして、結構な数の薬となるときは、「たくさんの薬を飲みたくなければ、症状のつらさに応じて取捨選択して下さい」と説明しています。また、「思ったように改善しないときは、あまり間をあけないで受診してください」とお話しします。したがって、何回も来院するケースはそう多くはなく、それは患者の症状が改善しているからだと自分では思っています。

これまで長々と弁明してきましたが、それを読んでも納得いかないかもしれません。医学的な知識がなければ理解できないこともありますから。私は医学的見地から「これが最善」と思える診療をしているつもりです。その上で、なお患者の希望を考慮すべきだということであれば、クチコミに書き込むのではなく私に直接伝えて下さい。そのご意見に一理あればこれからの診療の質の向上に役立つのです。これまで書いてきたようなことを、診療中にひとつひとつ説明すればいいのでしょうがなかなかそうもいきませんから。

 

以前も、同じGoogleのクチコミで「人の話しを聴かない傲慢な医者」と書かれたことがあります(今は消去されています)。その批判を書いた方は当院に定期的な通院をしていた患者さんのご家族でした。書き込まれた内容からどの患者さんのことかは特定できています。そのご家族の指摘は「いつも通院している母親の訴えに、医師が耳をかさなかったために癌の発見が遅れたではないか」というものでした。このときもまさに私は寝耳に水、でした。そんな傲慢な診療をしているつもりはなかったからです。

その患者さんはいつもひとりで受診していて、それまでご家族が同伴することはありませんでした。ですから、お母さまの癌が発見されたとき、ご家族はお母さまに話しを聞いて、「なんでこんなになるまで放っておいたのだ」と憤慨されたのかもしれません。カルテを調べてさかのぼってみると、次のような経過をたどっています(なお、この方は糖尿病でしたので、定期的に採血をしていました)。

 7月:胸焼けを訴えるため胃薬を追加。定期受診の際の採血では肝機能ふくめて異常なし。

 8月:背部痛もある、と。胸焼けもあるため病院を受診するように説明。一ヶ月処方を継続。

 9月:まだ病院には受診していない、と。胸焼けが続くことから再度受診をうながす。

 10月:病院を受診して肝臓癌であることがわかる。

当時はコロナの感染拡大があったころ。それまで当院では「2ヶ月処方」といった長期処方はほとんどしていませんでした。大病院などでは2ヶ月処方はおろか3ヶ月処方が当たり前のようにおこなわれています。しかも、聴診器も当てない「変わりありませんね」の一分診療。そんなの診療ではありません。一度症状を見逃せば、あっという間に半年近くが経ってしまいます。にもかかわらず、当院でも2ヶ月処方の要望は多く、不本意ではありましたが、コロナの感染拡大を機会に2ヶ月処方を解禁にしてしまいました。

癌が見つかったこの患者の場合もちょうどそのころのことでした。訴えが気になった私はそれまでの2ヶ月処方をやめて7月、8月、9月と一ヶ月の処方で経過を診ていました。しかし、病院を受診するようになんどお話ししても受診していなかったのです。もちろん、7月の採血でなんらかの異常があれば、紹介状を書いて病院を受診させていたかもしれません。しかし、自覚症状だけで受診させ、また、なにか疑う疾患がこれといってないのに紹介状を書き、患者にその費用を請求するのは気が引けることです。

その結果、癌の発見が遅れてしまいました。病院に紹介すべきタイミングを逃さないようにしている私にとって、反省すべきところがなかったわけではありません。もっと強い口調で病院に受診するよう指示すればよかったかもしれません。採血結果もふくめて、紹介状を書くほどのケースだとは思いませんでしたから。私は日頃、患者の表情や顔色、仕草、歩き方などを注意して見ています。患者の訴えもまた同じです。その多くは不安からくるものですが、中にはそこから大きな病気につながるケースがあるのです。

ですから、この患者のご家族から「患者の訴えに耳をかさない傲慢な医者」とクチコミに書かれるとは思ってもいなかったのです。もちろん、私に傲慢さが実際にあって、私自身が自覚していないだけかもしれません。私が意地悪をしているように患者が感じることもあるでしょう。しかし、そうしたことは、私がまったく気づかないこと、あるいは、誤解にもとづく場合だと思います。ですから、気が付いたことがあったら、私に直接伝えてください。私に言えなければ当院のスタッフや薬局の方に言ってくださっても結構です。

繰り返しますが、クチコミに苦情を書いた方を批判しているわけではありません。ご意見にきちんと説明をし、私の診察・処方の意図を説明したかっただけです。その上で、なお、私を「とんでもないやぶ医者」だ、と感じられるのであればそれを私は甘受します。患者が望むことと、私が提供すべきだと考える内容が異なるのですから仕方ありません。私はあくまでも「医学的に間違っていないこと」を、患者の要望や希望にそって提供したつもりです。クチコミに投稿した方には今回の説明でご理解をいただければ幸いです。

 

やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

AIと医療のはざまで

以下の文は、医師会雑誌に投稿したものです。AIなどをはじめとするコンピューター・サイエンスの発達は、これからの社会を大きく変えていくことでしょう。それらの変化が、人類の生活の質の向上に寄与するものになるのか、それとも人類社会に危機をもたらすものなのかはわかりません。しかし、すべては我々人類の英知と倫理観にかかっています。

************************** 以下、本文

私が大学に入学したころ、いわゆるデスクトップ型PCと呼ばれる汎用パソコンが世の中に広まり始めました。当時はまだ「パソコン」、すなわち、パーソナルコンピューター(PC)という言葉すら広く認知されていなかった時代でした。今でこそアップル社製のコンピューターが人気ですが、当時はそれほど注目されておらず、むしろ、タンディ・ラジオ・シャック社製のTRS-80というマイクロコンピューターが知られていました。

CPUもまだ8ビットが主流であり、ザイログ社のZ80を搭載しているPCが多い時代でした。「16ビットのCPUが出た」という話を聴いて「すげぇ」と言っていたころでもあります。ちなみに現在のCPUは64ビット単位でデータ処理をしていますし、クロック周波数もギガ単位です。Z80のそれはメガ単位で、今の1000分の1だったことを考えると隔世の感があります。

 

コンピューター自身も、これまでのノイマン型と呼ばれるデータを逐次処理するタイプから、同時に複数のデータ処理をおこなう量子コンピューターへと革新的な変化を遂げています。そして、コンピューターが活用される場面も大きく変化しています。単なるデータ処理や複雑な計算だけではなく、さまざまな機器の操作や制御などにも活用されており、現代社会には不可欠なものになっています。

AI(artificial intelligence)技術の進歩は世界を大きく変えようとしています。大学生のころに話題となっていたPrologという論理プログラミング言語は、今の人工知能のはしりともいえるものかも知れません。Prologは、事象や事物との関連性を理解し、推論するためのコンピューター言語です。我々が話している言葉の解析、あるいは人間の認知・認識を質的に分析するツールとして利用されてきた人工知能の基盤ともいえるものです。

 

こうしたコンピューター技術の進化は、これからの人々の生活を確実に変えていくでしょう。たくさんの知識をもとに判断していくという作業がまさに劇的な変化をとげるのです。法律の知識を駆使して法的な解釈をする弁護士の仕事、原稿を読み上げるだけにとどまらず、人との会話を通じてものごとを伝えるアナウンサーや解説者の仕事。そして、私たちの医療の領域においても決して例外ではありません。

 医師としての仕事の多くも、医学的知識を通じて病歴や症状、検査結果から疾患を診断し、治療方法を選択する作業です。現在の診療は医師の裁量権が大きいため、医師個人の力量によって診断の精度、治療効果が大きくかわってきます。しかし、AIを中心とするコンピューターサイエンスの発達によって、診断・治療の標準化・最適化をはかることが可能です。これは科学技術の発達にともなう大きな福音だともいえるでしょう。

 

AIによって医療の風景はずいぶんとちがったものになるはずです。病理診断や画像診断、あるいは皮膚科診療などはある種のパターン認識に支えられているため、AIにとって変わられる可能性の高い分野です。さらにいえば、内科診療全般もそうなるかもしれません。そして、医師でなくとも多少の医学的知識さえあればコメディカルの人たちでも代行できるようになる。その結果、医師の数を削減して、医療費の抑制にも寄与するでしょう。

また、AI診療によって疾患の管理がおこなわれるようになるかもしれません。スマートウォッチで定期的に測られた血圧の値、自己血糖測定機器からの血糖値はクラウドデータベースに送られます。また、自分の都合のいいときに、都合のいい病院で採血をしたデータもクラウドデータベースに送られて医療機関に共有されるのです。そして、それらのデータがAIによって解析され、投与薬が処方され、適宜病院を受診するよう指示されます。

 

在宅医療も大きく変わるでしょう。タブレットをもった保健師が各患者宅をまわり、訪問時のバイタルと患者の状態をAIに送ります。すると、経過観察でいいのか、それとも病院への受診を勧めるべきなのかの指示が送られてくる。訪問する保健師も忙しい医師の指示を待つまでもなく、AIからの指示が逐次送られてくるので安心です。患者を病院に受診させる際も、これまでのバイタルと状態像をデータとしてすみやかに紹介病院に送れるのです。

病院への受診スタイルも変わります。初診で訪れた病院では、まず、電話ボックスのような初診ブースに入ってモニター画面の前に座ります。そして、マイクに向かって自分の症状を語り、AIが問いかけてくるいくつかの質問に答えると「受診すべき診療科」が指示される。一方、該当する診療科の初診医のモニターには、その患者の訴えと鑑別疾患が提示されます。初診医は簡単な診察と確認を行なって暫定的な診断を下すと、AIは必要な検査や投与薬を外来医に提示するのです。

 

こうした風景が現実のものとなるのでしょうか。あるいは弁護士や医師といったいくつかの専門職がなくなってしまうのでしょうか。判断の中立化・標準化・精緻化といった作業はAIの得意とするところであり、人間が介在することが当たり前だった作業がAIに置き換わることの影響ははかりしれません。とくに医療の現場を陰で支えてきた医師・患者関係は大きくさまがわりすることでしょう。

科学技術のめざましい進歩・発展とともに、人と人とのつながりが希薄なものになっていく可能性は否定できません。世の中がより効率的になり、精確で緻密なものになることの意義は大きいとはいえ、非効率で不正確でおおざっぱな部分、すなわち、ある種、人間的な温かみを感じる側面がなくなっていくのです。それはまるで、標準化・均一化の代償として社会を「誰がやっても同じ」という無味乾燥なものにしてしまうように思えてなりません。アナログがデジタルに飲み込まれようとしている現代社会にとまどう今日この頃です。