院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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インフルエンザのワクチン接種も終盤に差しかかっています。新型コロナとインフルエンザが同時に流行することが懸念されていたせいか、例年以上にインフルエンザワクチンの接種が推奨されていました。そんなこともあって、これまでワクチン接種とは無縁だった人までがワクチンを打ちに来院しました。また、マスコミが「早めに接種しましょう(その理由は不明です)」と煽ってきたせいか、10月になると早々に接種に来る人が多かったのも今年の特徴です。
ご存じのとおり、インフルエンザのワクチンは「インフルエンザ」のためのワクチンであり、新型コロナウィルスはもちろん、いわゆる「一般の風邪のウィルス」に対する予防効果はありません。ワクチンを打たない人の中には「インフルエンザになったことがないから打ってこなかった」という人がいます。でも、それはたまたまインフルエンザにかからずに済んでいたのであり、ワクチンを接種する必要性があるとか、ないとかいうこととは関係ありません。
ワクチンを打ってもインフルエンザにかかることはあります。かかりにくくなるだけです。 でも、ワクチンの効果はインフルエンザにかかったときにわかります。ワクチンを接種していれば、インフルエンザに感染してもおおむね数日で解熱し、重症化することを避けることもできます。ところが、ワクチンを接種せずに感染すれば、高熱と全身倦怠感、頭痛と関節痛といった諸症状に連日苦しみ、場合によっては重症化、運が悪ければ死亡することもあります。
現在、新型コロナにはワクチンがないため、あたかもワクチンがなかったころのインフルエンザのような状況になっています。ワクチンがなかったころのインフルエンザがどれだけ恐ろしい感染症だったかを想像してみて下さい。1918年に世界的に流行した「スペインかぜ」は全世界で約6億人が感染し、約5000万人が死亡したと言われています。その後もパンデミックは繰り返し、「香港かぜ」や「ソ連かぜ」と呼ばれて今でも語り継がれています。
ところが、ワクチン接種が普及し、インフルエンザに対する啓もうが進むにつれて世界的パンデミックは減っていきました。そして、インフルエンザ治療薬が普及すると、インフルエンザはもはや恐ろしい病気として認識されなくなりました。「ワクチンを打ちましょう」と勧めても見向きもしない人が少なくなかったのはそのためです。本来は接種しなければならない学校の教員や介護施設の職員の中にさえワクチンを接種しなかった人が結構いたほどです。
しかし、今年は様相が異なりました。これまで接種をしてこなかった人たちもがワクチンを受けに来たのです。ワクチンはみんなが接種しなければ感染拡大を抑えることにはつながりません。「俺にはワクチンは関係ない」ではすまないのです。その意味で、ワクチンを接種する人が増えたことはいいことだったと思います。でも一方で、例年を大幅に上回るワクチンの需要に供給が追い付かず、一時的にワクチンが手に入らなくなったときもありました。
だからといって、ワクチンを早く接種すればいいかといえば必ずしもそうではありません。 インフルエンザが流行しはじめるのは例年であれば12月中旬から。そして、本格的に流行するのは1月の終わりからです。 ワクチン接種後、数週間で効果が現れ、3か月ほどで効力が落ちてくるといわれています。 ですから、早く打ちすぎると3月までにワクチンの効果が低下してしまうことがあるのです。当院で「11月のワクチン接種」をお勧めするのはそのためです。
新型コロナウィルスが流行してそろそろ11か月になります。その11か月間に日本で感染が確認された人はこれまでに約14万人、亡くなった方は2000人あまりです。インフルエンザが流行する半年間に日本で亡くなっている人は毎年3000人ほどですから、 新型コロナウィルスで亡くなった人はワクチンや治療薬がない割には決して多い数字ではないことがわかります。予防や治療の方法がまだ十分に確立していないというところが新型コロナの感染が怖い理由です。
今、新型コロナは第三波が到来していると言われています。確かに重症者は増えてきており、やがて死亡者も増加することでしょう。これらの感染状況がどれほど深刻なものになるのか見当もつきません。しかし、人々の心構えも、また、社会の在り方も、この春とはくらべものにならないくらい感染症対策に意識的になっています。したがって、悲観的にならず、やるべきことをきちんとやる。マスコミに煽られてパニックにおちいらない。ただただそれに尽きます。
とはいえ、入院患者がにわかに増え、医療崩壊に陥りそうな病院がでてきていると聞きます。医師や看護師、職員が細心の注意を払っていてもこれだけは避けられません。当然のことですが、新型コロナは【ただの風邪】ではありません。しかし、【軽いコロナ】は【ただの風邪】だといっても過言ではなく、感染したからといってあわてて病院に駆け込む必要はありません。入院するほどかどうかは症状が「軽いか、軽くないか」で決まります。
重症かどうかを判断するキーワードは「高熱が続いているか」と「呼吸器症状があるか」です。「他に症状はないが微熱があるがどうしたらいいか」と相談を受けることがあります。症状がないのになぜ体温を測ったのかわかりませんが、「微熱だけ」であればしばらく様子を見ていても大丈夫です。「微熱が一週間も続いている」ということであれば別ですが、一日やそこらの微熱の場合は万が一のことを考えながら自宅で安静にしていればいいでしょう。
熱のないような咳や咽頭痛などのときもあわてて医者に行く必要はありません。熱がでてきたときにはかかりつけ医に電話で相談すればいいと思います(抗生物質を処方されるでしょう)。一貫として熱がなくても、風邪症状が3,4日続く場合はかかりつけ医に相談してみてください。くれぐれも痛み止めや総合感冒薬など、体温を下げてしまう成分を含む薬を飲んで様子を見るなんてことはしないでください(本当の体温がわからなくなります)。
新型コロナウィルスの感染で一番怖いのは「肺炎になること」です。肺炎になると「痰の絡む咳」や「息苦しさ」、場合によっては「胸の痛み」などが現れることがあります。これらの症状とともに高熱が続く場合は、肺炎の可能性を考えなければなりません。と同時に、新型インフルエンザの可能を考えてPCR検査を考慮することもあります。肺炎の可能性があるとき、あるいは心配なときは早めに医療機関に電話をして相談することが大切です。
もし来院する場合は、待合室が混んでいないとき(午前の遅い時間帯や午後4時ごろ)に受診してください。「朝早く診療を終えてしまいたい」「午後一番で診てもらおう」と来院する人は少なくありませんが、この時期は患者が集まる時間帯に受診するのは避けてほしいものです。健康診断を受けるのも、滞在時間が長くなるという意味で今は避けるべきです。患者が少ない時、少ない時期を問い合わせて受診・受検するタイミングを考慮しましょう。
また、「職場や学校から検査をしてくるように指示された」とのお問い合わせをいただくことがあります。しかし、「新型コロナが疑わしい」と診断するとき以外は、自費で検査をしてくれる医療機関を探すことになります。無料(公費)で検査をしてくれる医療機関でPCR検査を受けられるのは、あくまでも新型コロナウィルスの感染が強く疑われたときだけです。「念のため」、あるいは「可能性を否定するため」に行う検査は自費になるので注意が必要です。
ですから、職場や学校から「念のため新型コロナかどうかを検査で確かめてくるように」と指示されたときは、「もし自費になったら会社や学校が負担してくれるのか」と聞いてください。今は比較的容易にPCR検査を受けられるとはいえ、検査は安易におこなうものではありません(検査場所で感染することだってありますから)。検査は臨床経過や症状の推移、診察所見などとともに総合的に判断するものです。今日陰性でも、明日陽性になるかもしれないのですから。
新型コロナの感染は、今後、さらに拡大するかもしれません。しかし、「一日何百人の感染患者」「これまでで最多の感染患者」などという報道に一喜一憂する必要はありません。なぜなら、今、一日におこなわれているPCR検査の数は、この3月や4月の5倍以上にもなっているからです。個人のクリニックでおこなっている検査をふくめれば、その数は相当数にのぼります。人心を煽る報道によって動揺しないようにしなければなりません。
一方、感染拡大の原因として「Go Toキャンペーン」が目の敵にされています。まるで「Go To」を使って旅行する人たち、あるいは食事をする人たち、さらには飲食店やホテルや旅館が悪者にされているかのようでもあります。しかし、このキャンペーンは7月から始まっています。なのになぜ11月から感染者数が増えた原因の第一に挙げられなければならないのでしょう。10月からはじまった入国制限の緩和の方がよほど感染者の急増に影響していると思います。
1月のブログにも書きましたが、流行が続いている海外との行き来を許せば、感染が拡大するのはあたりまえです。入国制限がおくれた2月から感染者数が激増した過去の状況を見ても、また、入国制限を緩和した10月から感染者数が急増している今の状況を見てもあきらかです。それほどまでに海外との人的交流を優先させる理由が私にはわかりませんが、国内の経済、とくに飲食店や観光業の皆さんの我慢ももう限界のはず。これ以上の自粛は酷な話しです。
新型コロナの患者を受けて入れている病院も大変です。感染が始まって以来、気が休まるときがないのですから。しかも、いったん新型コロナの感染者を出してしまえば、「あの病院でコロナの患者が発生したから(行くのはやめよう)」「あの病院の医者、看護師、職員だから(接触しないようにしよう)」との風評にしばらくさらされます。病院はそんな風評被害を受ける可能性におびえながら診療を続けていることも知ってほしいと思います。
いまだに「桜を観る会だ、日本学術会議だ」と不毛な議論をやっていても、毎月決まった額の給与が入ってくる国会議員は気楽な商売です。 新型コロナの感染拡大の原因を多角的に議論して、効果的な対策を矢継ぎ早に講じていかなければいけないはずです。政権の足をひっぱり、「Go Toやめろ」「自粛しろ」と大声で叫んでいればいいとでもいうのでしょうか。あんな人たちを国会に送ったことを反省しながら、せめて我々だけは理性的に行動したいものです。
「怖い、怖い」と言っているだけではなにも解決しません。頭を使ってなにをすべきかを考えましょう。そして、行動しましょう。決してマスコミに煽られてはいけません。また、世の中の雰囲気に流されてもいけません。新型コロナウィルスに感染して死ぬ人より、社会的に追い詰められて自殺する人の方が圧倒的に多いことにも目を向けなければなりません。コロナよりも怖いのは、なんといっても人々の心の中から余裕と勇気がなくなることなのです。
前回のブログで紹介したゲーム「Ghost of Tsushima」の主人公、境井仁を見ていて脳裏に浮かんだ人物がいます。それは小野田寛郎元陸軍少尉です。皆さんもご存知の通り、小野田さんは陸軍中野学校を卒業し、帝国陸軍の残置諜者としてフィリピンのルバング島に潜入。日本の終戦を信じることなく任務を続けていましたが、1974年に捜索隊に発見されて日本に帰国しました。その小野田さんが、対馬を蒙古から奪還するためにひとり戦った境井仁と重なって見えたのです。
小野田さんが日本に帰国したとき私は中学生でした。当時、ルバング島にまだ日本兵がいるらしいことはニュースでたびたび報じられていました。戦後30年を経て、なおもフィリピンのジャングルに隠れていた日本兵とはどんな人なのだろう。私はある種の興奮を感じながら小野田さんの帰国を見守っていました。羽田空港で飛行機のタラップを降りる小野田氏を見たときの感動は今も忘れません。背筋をピンと伸ばした小野田さんはタイムマシンでやって来た「侍」そのものでした。
「Ghost of Tsushima」の冒頭に次のようなセリフがでてきます。数えきれない蒙古兵を前に、境井仁の叔父・志村候は八十騎の侍たちを鼓舞します。「ならわし、武勇、誉れ。それらが我らが道だ。我らこそ武士(もののふ)だ」と。私はこのセリフを聞きながら、1989年にNHKで放送されたトークドキュメント「太郎の国の物語」という番組で司馬遼太郎が語った「昔の日本人の心の中には身分に関わらず『武士道』という『電流』が流れていた」という言葉が思い浮かびました。
司馬遼太郎は「武士道とは主君(国家)への忠誠ではなく、自分に対する責任感に過ぎない」と言います。その責任感は使命感に裏打ちされたものだと言えるかもしれません。帰国した小野田さんは昭和天皇との謁見を辞退しました。それは「陛下から労いの言葉をかけられたら困る」という理由からでした。一兵卒として日本のために戦っただけだという自負があったからでしょうか。そうしたところに小野田さんらしい気骨さが感じられ、その意味でもまさしく侍だったなぁと思います。
小野田さんらしいエピソードをもうひとつ。日頃、感情を顔にあらわすことの少ない小野田さんが怒りの表情で語ったことがあります。それは平成十七年の終戦記念日に発表された総理大臣談話についてでした。終戦60周年を記念するその談話には「心ならずも命を落とされた多くの方々」という一文がありました。自分自身も戦争で戦い、戦後30年経ってもジャングルで戦闘を続けた小野田さんはその「心ならずも」という部分が受け入れられなかったのです。
***** 以下、小野田さんの言葉(一部修正あり)
一国の首長たるものが「心ならずも」と英霊に対して言葉をかけております。果たして私達は「心ならずも」あの戦争で命を散らしたのでありましょうか。私は国の手違いによってこの靖国神社に15年間お祀りしていただきました。しかし、もし私があのとき本当に死んでいたとすれば、「国のために我々が戦わなければ誰が戦うのか」、そういう自分たちの誇りをもって、力いっぱい笑って死んでいったのであります。私だけでなしに、私の仲間も皆そうであります。それがなんで同情の対象なのでしょうか。誇りをもって死んだ人に対して、なぜ黙って「ありがとうございました」と感謝の念を捧げられないのか。
***** 以上
小野田さんは悔しそうでした。ある人は志願で、またある人は招集によって戦場に駆り出され、南方のジャングルで、あるいは酷寒のシベリアで過酷な戦闘を続けた戦友。そんな彼らを思いながら、「お国のため、あるいは家族のため」に死んでいった英霊の気持ちを代弁していたのかも知れません。戦場に倒れた多くの日本兵にはあの「電流」が流れていたのだと思います。それを安っぽい同情で汚さないでくれと小野田さんは言いたかったのでしょう。
現代の日本人にも確かに「電流」が流れていたことを想起させることがありました。それは東日本大震災による原発事故のときのことです。世間では「東電憎し」「東電バッシング」とも思える心ない報道が繰り返されていました。ちょうどそのころ、原発事故を収束させるため、たくさんの東電社員・作業員が命懸けの作業をしていました。想像をはるかに越える大津波による全電源喪失。誰もが経験したことのないこの原発事故と東電職員・作業員との戦いが続いていたのです。
ある大手の新聞は「多くの職員が現場から逃げ出した」と報じました。その後、事故調査委員会の報告書が公表され、その報道が事実誤認であることが明らかになり、新聞社は記事を誤報として謝罪しました。当時の事故現場では高線量の放射能が飛び交う中で一進一退の状況が続いていました。このままでは職員や作業員全員を危険にさらしてしまう。そう判断した吉田所長は「最少人数を残して退避」と叫んでいたのです。「逃げ出した」という報道は悪意に満ちた表現だったのです。
吉田所長は「一緒に死んでくれる人を募ろうと思った」と後に心情を吐露しています。所長が退避命令を出し、多くの人が退避する中、「私は残ります」「おまえは若いからダメだ」というやりとりもあったといいます。 そんな現場に菅直人総理の非情な怒鳴り声が響きました。「撤退などありえない。覚悟を決めてやれっ」と。 押しつぶされそうな重圧といつ収束するとも知れない放射能の恐怖に耐えながら、吉田所長とともに69人の職員・作業員が現場に残りました。そのときの活躍が映画「Fukushima50」で描かれています。
危険極まりない現場で懸命の作業を続ける「Fukushima50」。責任感と使命感に突き動かされるように、黙々と作業をする東電の社員や作業員、あるいは消防や警察、自衛隊の人たちにもきっとあの「電流」が流れていたに違いありません。しかし、現場から離れた東電本店や政府・官邸の人たちにそうした「現場のリアル」が感じられていたでしょうか。彼らは安全な場所から吉田所長に「早くなんとかしろ」と怒鳴るだけでした。そして、それはあのときの一般国民もまた同じだったと思います。
司馬遼太郎は「太郎の国の物語」の中で「現代の日本人もそれぞれが『微弱なる電流』をもっているはずだ。今の日本には規範というものがない。だからこそ、魂の中にもっている『微弱なる電流』を強くすべき」と言っています。かつて三島由紀夫も「このままではこれまでの『日本』はなくなり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない、ある経済的な大国が極東の一角に残るだろう」と予言しています。司馬遼太郎の言葉は三島のそれと重なります。
「故きを温ねて新しきを知る」とは、年月を経て人間や国家が「進歩」するにはそれまでの歴史を正しく知ることからはじまる、という意味です。歴史を学ぶ意義はそこにあると思います。以前のブログにも書いたように、「歴史を良し悪しでとらえるのではなく、『正しい歴史』の経験と知識を共有し、未来に活かす」ことが大切です。失敗を繰り返すのは、過去(歴史)の失敗を振り返っていないから。明日の社会を今日よりも素晴らしいものにするために、歴史(過去)を振り返ることが必要なのです。
皆さんは「Ghost of Tsushima(邦題:対馬の冥人)」というゲームをご存知でしょうか。アメリカのゲーム会社によって製作され、この7月に世界中で発売されると「中世のサムライになれる」とあっという間に人気ソフトになりました。日本人からの評判も高いのですが、それは外国にありがちな「日本人が違和感を感じる風景や人物」がこのゲームにはあまり登場せず(「?」と思うのは建物の屋根とお辞儀くらい)、むしろ日本人にも「武家のリアル」を感じさせる作りになっていたからでしょう。
「なんで対馬なの?」と思うかもしれません。対馬というところは、それほどまでに日本人にはなじみの薄い場所です。実はこのゲーム、1274年の「対馬への蒙古襲来」をテーマにしているのです。蒙古襲来については小学校でも、中学校でも習います。「元への朝貢をもとめて二度にわたる蒙古の大軍の襲来があった。しかし、いずれのときも嵐がやってきて、蒙古軍は大きな損害を受け、退散していった」と。ほとんどの日本人にとっての知識はその程度。それ以上のことを知っている人はあまり多くありません。
この二度の蒙古襲来はそれぞれ、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)と呼ばれています。とくに、文永の役ではモンゴルが、その支配下に置いていた高麗軍を引き連れ、総勢四万人ともいわれる大軍を対馬に送ってきました。不意を突かれた日本側は対馬のたった八十騎の侍がこの襲来を迎え撃ちます。結局、蒙古・高麗による大軍を前に侍たちは全滅。勢いを得た蒙古軍は暴虐の限りを尽くしながら壱岐、北九州へと攻め込んで行きます。そのときの鎌倉武士を主人公にしたゲームが「Ghost of Tsushima」です。
対馬は壱岐とともに、伊邪那岐・伊邪那美の命(みこと)が生み出した八つの島に数えられる島です。古来から朝鮮半島や大陸との文明伝来の中継基地として栄え、日本ではじめて銀を産出した場所としても知られています。つまり、対馬は日本と海外の文化の交わる要所だったのです。また、壱岐にはたくさんの神社があって、最近はパワースポットの多い島として有名です。対馬も壱岐も日本にとっては特別な意味をもつ場所であり、古代からずっと海外には知られた場所だったに違いありません。
「Ghost of Tsushima」では、なによりも名誉を重んじる日本の侍が描かれています。当時の武士たちは戦場で「やあやあ我こそは」と名乗りをあげてから敵と一戦を交えます。それが武家の作法だったわけです。このゲームでもそうした武士の姿が描かれていますが、外国人である蒙古軍にとって武家の作法などどうでもいいこと。日本の侍がそんな自分たちの価値観が通用しない相手に勝てるはずもありません。そのときの様子はYouTubeの実況動画(4:30ごろから)で見ることができます。
興味深いことがもうひとつ。それはゲーム最後のシーンに出てきます。侍の作法を守っていては勝てないと悟った主人公の境井仁は、武家の作法に反するような方法で次々と蒙古の拠点を解放していきます。仁を自分の後継ぎにしようと考えていた叔父の志村候はそんな彼を激しく批難します。志村候はなにより名誉を重んじ、幕府に忠誠を誓う古来の武士そのものだったからです。境井仁は反論します。「こうでもしなければ島民を守れないではないか」と。仁と叔父の意識の違いは、現代にも通じるようです。
大陸から離れて存在する島国日本にはじめて外国勢力が攻勢をかけてきたのは、1019年の「刀伊(とい)の入寇」とされています。刀伊の正体は、後に満州に国家を造り、清の王朝にもなった女真族の海賊。遷都を繰り返していた平安時代に財政破綻となった朝廷は、それまで外国勢力から日本本土を守る拠点だった対馬、壱岐の防衛から手を引きます。と同時に、国防の拠点だった大宰府は役人の左遷の場所にすぎなくなります。そして、この国防のすきをついて日本にやってきたのが刀伊だったのです。
対馬や壱岐で島民を残虐な方法で殺してまわり、多くの島民を奴隷として連れ去ろうとした刀伊。その刀伊が北九州を襲ったとき、大宰府を守っていたのは藤原隆家でした。都での権力闘争に嫌気が差し、大宰府にやってきた隆家でしたが、突然現れた3000人あまりの刀伊の大軍を前に獅子奮迅の活躍をします。そして、このときの経験は大宰府の守りの重要性を朝廷に再認識させます。しかし、「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」という日本人の悪い性格は今も昔も同じ。やがて朝廷の警戒心は再び薄れていきました。
そうした朝廷の姿に平和ボケした今の日本人が重なります。「恐ろしいことは考えないようにする」という日本人の根拠なき楽観主義はいつしか大きな事件・事故につながります。東日本大震災の半年前にかなり大規模な防災訓練がありました。「原発が全電源を喪失した」という想定のもとでの原発事故の演習もふくまれていました。しかし、その演習に総理大臣は参加しませんでした。その半年後、想定していた「全電源喪失」という原発事故が実際におこってしまったのはなんとも皮肉なことです。
そのような事故は現実にはおこりえないという慢心があったからでしょうか。それとも「原発で事故が起こる」と想定することは「原発は安全ではない」ことを認めてしまうとでも思ったからでしょうか。あのときの事故で「原発の安全神話が崩れた」といわれますが完全な安全などあろうはずがありません。事故の可能性を仮定しただけで「原発は危険だ」と騒ぎ出すからこそ作り出された「神話」だったにすぎません。危険や危機から目をそむける為政者はいつの時代でも国民を危険にさらします。
「Ghost of Tsushima」というゲームは単なる娯楽にとどまりません。日本人には日本人が忘れかけていたものを呼び起こし(私はこのゲームをやったことがなく、YouTubeで実況動画を観ただけですが)、その一方で、海外の人たちは、たった八十騎で蒙古に立ち向かう侍たちに鳥肌を立て、侍の非情な運命に涙を流していました(1:48:30ごろから)。その様子を見ながら、このゲームを通じて世界中の人が日本人のことを歴史にさかのぼって理解してくれたらいいなと心底そう思いました。
今はインターネットを通じていろいろなことを調べることができます。キーワードを入力して検索すればたちどころに自分の疑問に答える情報にたどり着けます。私もそうしたインターネットによる情報検索を繰り返すうちに、自分がいわゆる「自虐史観」にとらわれていたことに気が付きました。また、学校では教わらない「歴史」があることにも気が付きました。しかも、その「教えられていない部分」が歴史の中核だったりする場合もあり、以来、歴史に興味を持つようになりました。
学生の頃、世界史を学ぶ意義をまったく感じませんでした。日本人が外国の歴史を勉強して何になるんだろうと思っていたくらいです。ましてや世界史を日本史の延長線上に考えることの重要性など考えたこともなかったのです。子どもと歴史を勉強しているとき、大東亜戦争(太平洋戦争)前後の疑問をインターネットで調べていました。そして、予備校で世界史講師をしている茂木誠先生の動画(「もぎせかチャンネル」)と出会い、世界史の重要性をあらためて知ることになりました。
茂木先生の臨場感あふれる講義の様子は無料動画としてYouTubeで公開されています(音声のみ)。手元に世界史の教科書をおきながら重要な部分にラインマーカーを引きながら聴いていると、世界史が実は日本の歴史と決して無縁でないことがわかってきました。世界史も日本史も地政学の観点から時系列につながっていること。そして、日本史を世界史のいちぶとしてとらえることが大切だということがわかってきたのです。大切なのは断片的な事実の羅列ではなく、「今につながる歴史」を学ぶことだったのです。
私が「目からウロコ」となったのは、戦国時代の歴史を学びなおしたときのことです。歴史に興味がなかったそれまでの私は「キリシタンを許していた秀吉がなぜバテレン追放令を出すに至ったのか」、あるいは「鎖国をした江戸幕府がなぜオランダにだけ交易を許したのか」ということを深く考えてもみませんでした。学校ではそうした問いかけはなく、自分自身も疑問にすら思わずに大人になってしまったからです。しかし、学びなおしてみると、今までとは違うあらたな戦国時代の姿が見えてきました。
日本が戦国時代だったころ、スペインは国王フェリペ2世のもとで全盛期を迎えていました。スペインは植民地であった南米の銀山から産出される大量の銀を背景にさまざまな国と戦争をしていました。 当時、カトリック教徒の国だったスペインは、プロテスタントの国である隣国オランダを支配下におこうと戦争をしかけていました。 カトリックとプロテスタントでは水と油。そんなことすら知らなかった私は、世界史を学んで「ヨーロッパの歴史はキリスト教の歴史である」ことを知りました。
キリスト教の歴史はおもしろく、今でも欧米の行動の規範にもなっているという点で興味深いものです。ローマ帝国から迫害を受けていたキリスト教が、次第に人々の信仰心を集め、やがてローマ帝国の国教になります。そして、さらには東西のキリスト教に分かれていく。その過程はダイナミックでエキサイティングです。 そのカトリックの盟主でもあるスペインはさらなる植民地を探して、世界でも有数の金銀の産出国だった日本に関心を持ちます。スペインの野望はついに日本に向けられたのです。
スペインの植民地化には共通点があります。住民をキリスト教カトリックに改宗させ、精神的な自由を奪って収奪を始めるというものです。日本にもカトリックのイエズス会(上智大学の宗派)から宣教師フランシスコ・ザビエルが送られてきました。イエズス会はローマ・カトリックの布教のためなら命も惜しまない、武闘派ともいわれる人たちの集まりです。ザビエルは東南アジアでの普及活動で知り合った日本人と共に日本にやってきます。そして、日本の実情をスペインの国王につぶさに報告しました。
日本には常に帯刀した武士がいること。その武士は勇敢であり、いつも武芸を鍛錬し、なによりも名誉を重んじること。また、武士は教養が高く、他の階級の民の手本となる存在だとザビエルは報告しています。そして、日本人のことを「これまで出会ってきたどの民族よりも丁寧で優しさにあふれている」と書き、「礼儀正しく、主君に忠実であるという点でキリスト教徒に一番向いている。好奇心が旺盛で、大半の人々が読み書きできるという点でも布教に有利だ」と国王に報告したのです。
秀吉は当初、そうしたカトリック教徒に好意的でした。しかし、プロテスタントの国オランダの使節から、カトリック・スペインが南米の植民地でどのような蛮行を働き、その蛮行がカトリックの布教を足掛かりにおこなわれてきたことを秀吉は耳にします。そのとき、カトリックに改宗した九州のキリシタン大名たちの領地では、神社仏閣は異端として次々と取り壊され、教会が建てられていました。キリスト教への改宗を拒んだ領民は奴隷としてスペインやポルトガルの商人に売られていたのです。
そうした現状に秀吉は危機感をいだきました。そしてついにバテレン追放令を出します。九州がスペインの植民地になることを恐れてのことです。プロテスタントはその教義から日本に布教を求めませんでした。オランダは交易だけが目的だったのです。そして、交易が許されるかわりに、カトリックの動向、世界の情勢をつぶさに報告しました。江戸時代、その報告は「オランダ風説書」としてまとめられました。交易を許す幕府と世界情勢を報告するオランダは持ちつ持たれつの関係だったのです。
「島原の乱」のことは学校ではあまり詳しく教えられません。島原城に立てこもったカトリックのキリシタンたちが、江戸幕府からの攻撃に耐えながらスペインやポルトガルからの援軍を期待していたことはあまり知られていません。ついにヨーロッパからやってきた最新鋭の軍艦は、実はプロテスタントの国オランダからのものでした。幕府軍がオランダから購入した最新のゴーテリング砲とともに、オランダの軍艦からの艦砲射撃がキリシタンたちがいる城に火を吹いたのはその直後のことです。
そのころ、スペインの無敵艦隊はイギリスのエリザベス1世に敗れ、「陽の沈まぬ国」はすでに衰退の一途をたどっていました。もう一方のカトリックの国のポルトガルも、併合されていたスペインからの独立を果たしたばかりで日本に援軍をおくる余裕はありませんでした。日本には勇猛果敢な武士がおり、倭寇や傭兵として東南アジアで暴れまわる者もいて、多少の援軍を送ったところでそうたやすく勝てるものではありません。当時の世界史における日本の存在感は決して小さくはなかったのです。
幕末の日本にペリーがやってきました。突然やって来た黒船に日本中が騒然となったと学校では教わります。しかし、実はペリーが日本にやってくるずっと以前から、黒船来航の可能性はオランダから幕府に伝えられていました。クリミア戦争でロシアやイギリスといった国々がバルカン半島に釘付けにされているうちにアメリカが日本にやってくるだろう、との情報です。中国にアヘン戦争で勝ったイギリスがインドでどのような植民地政策をとっていたかも幕府はオランダから知らされていました。
幕末の日本が欧米列強の植民地にならなかったのは、井伊直弼をはじめとする幕臣たちのおかげです。折しも日本は政治的な変革期を迎えていました。前近代的な江戸幕府のままでは日本の独立は守れない。そのことは、当時、青雲の志で日本のために奔走した先達たちは熟知していました。また、欧米列強の植民地政策がいかに冷徹で厳しいものだったかをも。だからこそ明治維新後の日本が進むべき道を真剣に考えたのです。彼らのあたまの中は「いかにして日本の独立を守るか」で一杯だったことでしょう。
日本は、朝鮮半島や中国、満州に軍を送り、日本人を入植させました。いわゆる植民地政策です。しかし、日本の植民地政策は欧米のそれとは異なります。欧米のように収奪を目的にせず、むしろ国家予算のかなりの額を投入してインフラの整備を図ったのです。こうした同化政策を進めながら、清やロシアといった大国と戦ったのは、おもに南下するロシアを抑え、米英による植民地化から日本の独立を守るためです。アメリカと戦った理由も昭和天皇の「開戦の詔勅」に詳しく述べられています。
昭和天皇は皇太子時代、復興ままならない第一次世界大戦直後のヨーロッパを訪問しました。これは山形有朋の提案です。戦争がいかに一般国民に犠牲を強いることになるかを皇太子に見聞させるためのものでもありました。こうした歴訪を通じて、昭和天皇はアジアの平和のためには日本とアメリカが友好関係を築き、両者が協力することが重要だという信念をもちました。高松宮のアメリカ公式訪問時に大統領宛の親書を持たせたのはそのためです。日米開戦が不可避となったのを一番憂いたのは昭和天皇です。
学校では、大日本帝国憲法は「天皇主権」を規定し、国民の権利を制限し、覇権主義的な性格をもったものだと教わりました。そして、終戦とともにGHQから与えられた「日本国憲法」は「国民主権」の民主主義を理念とする平和憲法であるとも教わります。その一方で、「教育勅語」や「軍人勅諭」、あるいは「皇室典範」といった戦前・戦中に教えられてきたものは、ただなんとなく「国家主義で危険なもの」「戦争への足掛かりになるもの」というイメージを植え付けられ、その中身すら教えられません。
しかし、それらを改めて読んでみると、私たちが植え付けられてきたイメージとはだいぶ異なるものであることがわかります。大日本帝国憲法と教育勅語だけでも読んでみるといいと思います。昭和天皇の「開戦の詔勅」もふくめて、私たちに教えられていないことに真実が隠れているのかもしれないと感じるはずです。歴史教育は重要です。子どもたちにこれまでの人類が陥ってきた過ちを繰り返させないためにも、勧善懲悪ではなく、「正しい歴史」を教えることが大切です。それがなによりの平和教育だと思います。
新型コロナが世界中に拡散して10か月になろうとしています。その間、たくさんの人が新型コロナウィルスに感染し、想像を超える数の人が命を落としてしまいました。このウィルスによる混乱はいまだに続いており、日本はもちろん世界中の経済にも大きな影を落としています。一刻も早くいつもの日常を取り戻さなければなりません。しかし、この未知のウィルスは多くの人たちのトラウマとなって、不安という泥沼から抜け出せない原因になってしまいました。
新型コロナウィルスの影響がおよんでいるのは経済に限ったことではありません。先日放映されたNHK番組「日曜美術館」では、日本中の工芸作家たちが停滞している社会生活の中で自分たちの創作活動の在り方を自問自答していることを紹介していました。ひとりの工芸家が「世の中がこんなときに自分がこういうことをしていていいのだろうか」と語ったことに私はショックを受けました。新型コロナが人の情緒だけではなく創造活動にまで影響していたからです。
そういう視点で見てみると、新型コロナウィルスはすべての人間の精神あるいは行動に影響をあたえているように感じます。感染が長引くにつれ、人々の間の、あるいは国家間の対立が深まっているように思います。また、社会システムもものすごいスピードで変革されつつあります。“三蜜”を避けるための「新しい生活スタイル」はそのもっとも身近な例ですが、世界に目を移せば「脱中国」の動きや「中東情勢」の変化も我々が想像する以上の速さで動いています。
今のアメリカで起こっていることも、そうした新型コロナの影響を背景にしたものではないでしょうか。新型コロナウィルスへの対応をめぐってアメリカ人たちの間に深い溝が生じてしまいました。自粛の解除か、それとも継続か。そんな殺伐とした対立の中で、警官が誤って黒人容疑者を死に至らしめたことに端を発して「Black Lives Matter(黒人の命は大切)運動」が始まりました。それがアメリカの人々をさらに分断し、一部の地域は無法地帯になっています。
日本でのニュースを見る限り、暴動・略奪にまで広がったBLM運動は徐々に落ち着いてきたように思えます。しかし、地域によっては、BLMを理由に黒人が理由なく白人に暴力を振うことが見逃されたり、白人警官への挑発が繰り返されて発砲事件すら起こるといった状況も。日本人にはこうした運動の背景を正しく理解するのは難しいことかもしれません。しかし、私は、今の運動には「正義がどこにあるのか」という視点があまりにも欠けているように感じてなりません。
アメリカの芸能界からも、あるいはスポーツ界からもBLM運動を支持する声があがっています。しかし、それはまるで安っぽいヒロイズムだったり、薄っぺらなブームであるかのようにも見えます。その一方で、BLM運動を隠れ蓑にした犯罪を批判する声はほとんど聴こえてきません。そうした声をあげるのがはばかられる状況だからでしょうか。それともそのような声はあえて拾い上げられないからでしょうか。黒人差別を批判する運動とは程遠い現状が気になります。
アメリカにおける黒人差別の歴史は古くて新しい問題です。最近でこそあからさまな黒人差別は影を潜めています。しかし、つい4、50年前まではあからさまな差別が存在していました。自由の国、民主主義の国と思われているアメリカで、黒人差別の問題はそれほどまでに根深いものなのでしょう。若い白人たちの意識がどう変わろうが、400年前にアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちの被差別意識はそう簡単にはなくならないのかもしれません。
BLM運動がはじまったころ、アメリカ各地に設置された歴史上の「偉人たち」の銅像が次々と引き倒されました。理由は「黒人奴隷制度に加担したから」というもの。かつて 奴隷商人だった大富豪や奴隷貿易に関わった歴史的人物はもちろん、ジョージ・ワシントンやセオドア・ルーズベルトなどの歴代アメリカ大統領の銅像までもが同じ理由で次々と引き倒されていきました。でも、そのとき嬉々として銅像を引き倒す人たちの姿に私は少し違和感を感じました。
違和感を感じたのには理由があります。バージニア州リッチモンド市は、BLM運動に理解を示すため、南北戦争で奴隷制度を支持した南軍のリー将軍の銅像を自主的に撤去することを決めました。ところが、BLM運動の矛先は同じバージニア出身で、アメリカ独立宣言の起草者のひとりでもあるトマス・ジェファーソンにまで向けられました。彼自身が黒人奴隷の所有者であり、黒人女性を愛人にしていたことがその理由です。でも、事実は少し異なります。
ジェファーソンは確かに奴隷を所有していました。しかし、それは大農園主だった父親から引きついたもの。彼はむしろ奴隷制度の非人間性を知っていたのです。だからこそ、独立宣言に奴隷貿易を批判する内容を盛り込み(その多く部分はのちに削除されましたが)、奴隷制度自体は廃止できなかったとはいえ奴隷輸入禁止法を彼は成立させたのです。暴徒たちにそうした歴史的教養があれば、BLM運動を理由に彼の銅像を引き倒すなどということはしなかったはずです。
歴史における過去の出来事を今の価値観で断罪するのは間違いです。そもそも歴史とは「史実」の「解釈」なのです。史跡や書物を通じて得られる「史実」は、「解釈」という評価が積み重ねられて歴史となります。でも、歴史の「解釈」は相対的なものであり、解釈する人の立場や価値観、あるいは国籍によって大きく異なるものです。時代によってその評価が一変することさえあります。歴史を今の価値観だけで、善悪という観点で断じることなど不可能なのです。
「ひとりの人間を殺すのは犯罪だが、たくさんの人を殺せば犯罪ではない」という言葉があります。世界史を振り返ってみればわかるとおり、これまで宗教の名のもとに異端だとされた無数の人たちが殺されてきました。革命の際にも人民裁判によって無実の一般市民がたくさん殺されました。その一方で、世界中の植民地では、南北アメリカやインド、アフリカや東南アジアの例を見るまでもなく、住民は非人間的なあつかいを受け、多くのものを収奪されました。
17世紀、ジェームズ1世からの迫害を逃れ、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれた102名の移民がイギリスからアメリカに渡ってきました。そして、理想の国家を建設するためにインディアンの土地に移り住みました。当時のインディアンには土地を所有するという意識がなく、新しい住民である移民たちを隣人として迎え入れました。そして、寒さに凍え、風土病に次々と倒れる移民たちにインディアンは作物の栽培法を教えたのです(これが感謝祭の起源です)。
しかし、人間の欲望には際限がありません。次々とアメリカ大陸に渡ってくる白人たちは、次第にインディアンをだまし、仲たがいをさせ、武力を使って彼らの土地を次々と収奪するようになりました。皆さんはディズニー映画の「ポカホンタス」をご存知でしょうか。インディアンと白人との争いに巻き込まれた酋長の娘ポカホンタスの話しです。白人青年の命を救った彼女は彼との恋に落ちる、というもの。アニメの中の物語のことですが、事実はあまりにも違いすぎます。
実際は、酋長の娘ポカホンタスは白人たちに誘拐され、インディアンの土地を収奪するために利用されました。人質となった彼女は白人と結婚させられ、酋長はインディアンに不利な条件を認めさせられます。そして、ポカホンタスはキリスト教の洗礼を受けさせられ、イギリス本国に移住することに。しかし、当時のイギリスは産業革命のまっただ中。大気汚染のひどいイギリスで健康を害したポカホンタスは、アメリカ大陸への望郷の念を胸に息を引き取るのです。
白人の「西部開拓」は「インディアン強制移住法」となり、アメリカ合衆国政府は「移住命令に従わないインディアンは絶滅させる」という民族浄化の政策をとります。勇猛果敢なインディアンとはいえ、西洋の近代的な武器に対抗するすべを持っていません。その結果、1000万人近いインディアンが虐殺されたとされています。白人はその後も北アメリカ大陸を西進し、メキシコの領土を戦争で奪いとり、ハワイの王族までをも滅ぼして領土を太平洋にまで広げました。
でも、だからといってこうした暗黒の歴史に善悪をつけることができるでしょうか。個人の中で「いい、悪い」を決めつけることは簡単です。しかし、民族間の、あるいは国家間の問題として「いい、悪い」を断じることはできません。自分たちの土地を奪われ、あまりにもたくさんの同胞を殺されたインディアンたちには言いたいことがたくさんあるでしょう。今でも白人たちを憎んでいるかもしれません。でも、それを今さらどう解決すればいいのでしょう。
実は私は大学生のころまで「自虐史観(日本を悪い国だと決めつける歴史観)」を持っていました。むしろ、日本人はそうした負い目を持つべきだと思っていました。それは学校での歴史教育の影響でもあり、また、マスコミからの情報を信じた結果でもあります。戦中・戦前の日本が悪辣な覇権主義をもち、周囲のアジア諸国を侵略したという考えにとらわれていました。それは教科書に書かれ、TVの番組で放送された日本の姿であり、私の中の日本のイメージでした。
ですから、「かつての日本は悪い国」と印象付けるようなTV番組を見ながら、昭和ひとケタ生まれの両親が「昔の日本はこんなに悪い国じゃなかった」と言おうものなら、若き日の私は「戦前の教育に洗脳された連中はどうしようもない」などと心の中で見下していたものです。しかし、インターネットが発達し、主体的・能動的に情報を求めるようになると、「ひょっとすると事実は学校やマスコミから伝えられてきたことは違うのではないか」と思うようになりました。
自分はもしかして自虐史観にとらわれているのかもしれない。そんなことに気付くようになって感じた矛盾。悪辣な覇権主義をもった日本は、アジアを武力で侵略し、自国民の権利を奪い、特高警察によって思想の自由までをも奪った。そして、その日本帝国主義を打ち破り、国民主権の民主主義をもたらしたアメリカは正義の味方。なのに、我が家の昭和ひとケタ生まれたちは違うことを言っている。そうした矛盾に正面から向き合うようになったのはずいぶん後になってからです。
終戦直後、GHQによってWGIP(War Guild Information Program)と呼ばれる「戦争に対する贖罪感を日本人に植え付けるための情報操作政策」がおこなわれました。「教科書の墨塗り」がそれです。それまでの日本を肯定する部分を教科書から抹消するのが目的です。「焚書」とよばれる文化の抹殺もおこなわれました。一般市民を標的にした大空襲や原爆という国際法違反による日本の敗戦を正当化するため、情報操作の妨げになる書籍を焼却処分にしたのです。
また、GHQはたくさんの官吏・教員を公職追放しました。公的な場所から戦前を肯定するような人物を排除するためです。そして、それにかわって日本を否定的に考える人たちがそれらのポストにあてがわれました。また、新たな教科書にもそうした意図が反映されました。また、すべての報道にはGHQの検閲があり、「なにを報道させるか、させないか」はGHQの意向にゆだねられました。これらはGHQによるWGIPの一環であり、その影響は今も続いています。