院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。
入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。
この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。
とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。
M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。
ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。
「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。
ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。
そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。
ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。
M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。
「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。
実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。
でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。
人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。
幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。
私がはじめてアメリカに行ったのは2000年の1月のこと。アメリカ合衆国ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学と共同研究をすることになり、その打ち合わせをするために渡米したのでした。実をいうと私はそれまで一度も海外旅行に行ったことがありませんでした。新婚旅行でさえ金沢だった私ははじめての国際線だったのです。それはアメリカに同伴する私の家内も同じで、二人ともアメリカ行きが決まると英会話のにわか勉強を開始したりしていました。でも、日本を離れるという当日は飛行機に乗り込む直前まであわただしかったのですが、共同研究の助手として参加する大学院の後輩と一緒だったせいかさほど緊張もしないで済みました。ミシガン大学には成田空港からシカゴ行きノースウェスト航空機に登場し、シカゴ空港で国内線に乗り換えてデトロイト空港まで行かなければなりません。本来であればデトロイトまでの直行便で行けばよかったのですが、運賃がずいぶん安かったシカゴからの国内線乗り継ぎで行くことにしました。しかし、そのセコい選択があとで大事件を招くことになりました。
飛行機の座席は満席。日本人ばかりかと思っていたらアメリカ人らしき白人にまじって、関西空港乗り換えの東洋人(あの「パワフルな団体」はどう見ても大陸系の中国人。旅行者という恰好ではなく移民って感じ)が多かったので少しホッとしたのを覚えています。これが白人ばかりだったらさぞかし緊張したでしょうけど。ノースウェスト航空だったのでCAは皆外国人でした。食事のとき、事前に英会話の本で勉強していた「chicken or beef?」と言いながらCAが機内をまわってきたときは感動しました。「これが『チキン オア ビーフ』かぁ」って。それでもネイティブスピーカーの英語の速さはやはりなかなかついてゆけず、私の耳に彼らの言葉はなかなか入ってきませんでした。実は私は高校でドイツ語を選択したので、英語は中学レベルで終わりでした(でも、大学は英語で受験しました。それもいろいろあってのことですが、いつかまたお話しします)。しかも、40歳となって初めて海外旅行をするまで耳から入る英語の勉強をしたことがなかったので、ある程度は話せても相手の言葉を聞き取るのが難しかったのです。
成田からシカゴまで12時間は長かったです。それに退屈でした。当然のことながらエコノミークラスでしたから足を伸ばして寝れるわけでもなく、一緒に乗った中国人達のように横になるスペースのある座席に移動して寝てしまうなんてこともできなかった私はほとんど眠れませんでした。それでも、アメリカの領空に入り、陸地が見えてきたとき、窓の外に広がる日本とは異なる風景に興奮しました。「は~るばる来たぜアメリカ~っ」って感じ。私も家内も後輩もシカゴ空港に着いたときはクタクタになっていましたが、そんな疲れを吹っ飛ばすような事件がおこりました。シカゴ空港はアメリカでも超過密なスケジュールで航空機が離発着することで有名です。私たちの乗った飛行機も案の定滑走路の渋滞によって上空で待たされることになりました。それでなくてもその影響で乗り継ぎ時間がどんどんなくなっていったのに、国際線ターミナルから国内線ターミナルへ移動するときに利用するモノレールが故障で運休していました。代行運転されているバスに乗り換えることになっていましたが、不案内な空港内でそのバス停すら見つからずにいました。
ちょうどそのとき、そばにいた警察官に「代行バスはどこで乗ればいいのか?」と尋ねました。その警官はにこやかに「便名は?」と聞き返してきました。その笑顔にちょっとだけホッとしながら私たちが乗る飛行機の便名を教えると、その警官はびっくりした表情に一変。「なんてこった。あと10分で出発じゃないか。急げっ!」と私たちを急き立てるようにバス停を指さしました。私たちはどのバスに乗ればいいのかもわからないまま、やってきたバスに飛び乗りました。しかし、そのバスを運転していた黒人のお姉さんの車内アナウンスの声がこれまた小さくて聞き取りにくくてしかも南部なまり。そのお姉さんになんども聞き返しながら降車場所を教えてもらい、国内線ターミナルに降りた私たちは全力疾走。それでも出発時刻はとうに過ぎていて、予定していた飛行機に乗るのを半ばあきらめながら走っていました。遠くに乗り場が見えたとき、待合所には誰もいませんでした。飛行機はもう飛び立ってしまったのか?そう思ったとき係員の声が。「早く、急げ。扉を閉めるぞ」。今まさに扉を閉めようとしているときだったのです。かくして三人は予定した飛行機に奇跡的に搭乗できたのでした。
デトロイト空港に着いたとき、シカゴでのゴタゴタのおかげでどっと疲れてしまいました。しかし、今度はミシガン大学のあるアナーバーまで行くレンタカーを借りなくてはいけません。空港に設置されているレンタカー会社の電話を探して営業所に電話をかけ、すでに予約しており、空港までバスで迎えに来てほしいことを伝えました。このころのミシガンは札幌並みか、それ以上の寒さでした。街の中を走る車はもくもくと水蒸気の雲を吐き出して走っていましたし、融雪のために塩がまかれた道路にはシャーベット状の雪と氷がわだちを作っていて真冬そのもの。しかし、アメリカの地に降り立ったことに少し興奮していた私は少しも寒くありませんでした。レンタカー会社で手続きを済ませ、借りたポンティアックを走らせると思わずアクセルを踏んでいました。「ちょっと、あぶな~いっ」と助手席の家内が悲鳴をあげます。「そんなにスピード出てないよ」。「違うってば。走行車線が反対なんだってば。ほらっ」と家内が指さす方から対向車がクラクションを鳴らしながら迫ってきます。そうです。ようやくミシガンに着いたことに興奮してしまった私は反対車線を軽快に走っていたのでした。
アナーバーには順調に着くことはできませんでした。レンタカーには今みたいにナビが付いているわけでもなく、日本のように微に入り細にいる案内表示板があるわけでもありません。ましてや横文字ばかりだった(あたりまえですが)ので道に迷ってしまい、地図を持たせた助手席の家内をナビゲーターにして走りながらなんども地元の人に道を尋ねるはめに。しかし、こちらの英語が怪しげなせいもあって、いつまでたっても目的地に到着しません。ようやくアナーバーの宿泊先であるホテルに着いたのはもうすっかり暗くなってからでした。ホテルの部屋に入るとどっと疲れが出てしまい、このまま寝てしまいたいくらいでした。でも、家内も一緒に連れてきた後輩も空腹だというので、近くのピザ屋に買い出しに行ってくることにしました。アメリカの夜道は危ないので家内はひとりでホテルで留守番。後輩と二人でピザ屋に行くことにしました。後輩は身長が180㎝あり、筋肉質でがっちりタイプ(ただ太ってるだけ?)。ひげ面で、ちょっと見はアラブ系にも見えるので用心棒にはもってこいでした。
ピザ屋に着くと、店の奥でアルバイトらしき白人のお兄ちゃんが数人で雑談をしていました。なぞのアラブ人を連れた東洋人が入ってきたせいか、私たちを見るお兄ちゃんたちの顔からは笑顔がさっと消えました。なんとか英語で注文しましたが、応対したお兄ちゃんは私になにか質問をしています。でもなんと聞かれているのか、私も後輩もわからない。何度か聞き返すうちに「おまえの名前はなんていうんだ」と言っているようでした。そこで私は「セバタ。セ・バ・タ」と繰り返しました。でも、お兄ちゃんは首をひねってばかりでわかってくれません。そのうち、お兄ちゃんは「お前の名前はボブだ。ボブだから」と念を押しました。私は「いや、違う。私の名前はセ・バ・タ」と言い直すのですが、お兄ちゃんは怪訝そうな顔をしてついには「いいんだ。お前はボブなんだ」と言い残して店の奥に行ってしまいました。しばらくすると、そのお兄ちゃんはピザの入った箱を持ってやってきました。「ボブ、できたぞ。うまいぞ」と言って私に箱を手渡しました。私は箱を受け取りながら「いや、私の名前は…」、そう言おうとするとお兄ちゃんは「オーケー。お前はボブ、ボブでいいんだ」とめんどくさそう。
ホテルに持って帰ったピザのまずかったこと。野菜はしなびていて、サラミは干からびているし、ピザの生地だって日本で食べるピザの方がどれだけ美味しいことか。お兄さんに「お前はボブ」だと言われ、東洋人だと思って馬鹿にされたように感じたこともピザを不味くしたのかもしれません。でも、あとで共同研究者のアメリカ人に聞いてみると、アメリカ人にとって「せばた」という名前は聞き取りが難しいとのこと。彼が言うには、唯一聞き取れた「ば」の破裂音から「ボブ」というなじみのある名前を仮の名前にして私を呼ぼうとしたのではないかということでした。お兄さんの苦肉の策だったというわけ。そんなこんなでいろいろなことがあったアメリカ旅行の一日目がようやく終わろうとしていました。その日の夜は爆睡してしまいましたが、次の日はいよいよ共同研究者を訪ねてミシガン大学に行くことに。興奮と感動の珍道中は私にとっては思い出深い貴重な体験でした。初めての海外旅行にしてはあまりにもハードすぎましたが。それでもこの体験でアメリカをより身近に感じることができましたし、アメリカの懐の深さというべきものも感じることができました。なにより、私自身のモチベーションを高める体験となりました。
「アメリカ滞在記(2)」もご覧ください。
医師国家試験の合格発表がありました。今年は1985年以降で最高の合格率だそうです。わが母校・北海道大学の合格率はそれほど振るわなかったようですが、毎年あのような数字で相変わらずのマイペースです。ちなみに東京大学の合格率が90%を切っていて「あんなに優秀な人たちなのに」と不思議に思うかもしれません。でも、「医学部に入りたい」ということと「医師になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということは必ずしも同じではないといういい証拠なのです。数学オリンピックや各種学術オリンピックで優勝するほどの学生が、医学部に流れて来てしまったばっかりに国試に落ちて宙ぶらりんになってしまったのでは頭脳を浪費したようなもの。本当に自分のやりたい学問の道に進んでいれば、彼らにとっても日本にとってもいいことなのにと残念です。それはともかく、6年間の長い学生生活の中でたくさんの履修科目の試験をクリアし、進級試験を切り抜け、卒業試験をパスした上での国家試験の合格。ほんとうにご苦労さまと言いたいです。と同時に、これからが本当の修練であることを肝に銘じて頑張ってほしいと思います。
ところで、医者には世間知らずと思われる人が少なくありません。それは大学を卒業するとすぐに「先生」と持ち上げられ、医療という特殊な世界にどっぷりつかってしまい社会常識を身に付ける機会がないまま大人になってしまうからかも知れません。私のまわりにも、自分の父親よりも年上の製薬会社の営業マンに「タメぐち」をきいてもなんとも思わない若い医者がいましたし、人に文句は言えても、日常の挨拶や、「ありがとう、ごめんなさい」という基本的なことも言えない医者もいました。医学生のとき、所属していたクラブの部室に外部から電話がかかってきたので、「○○は今不在ですが、ご用件はなんでしょうか?」と先輩を呼び捨てにしたところ、「先輩に向かって呼び捨てはないだろ」とその本人に注意されてびっくり。「社会ではそれが常識じゃありませんか」というと、「医療の世界と世間は違うんだ」とおよそ考えもおよばない言葉をぶつけてきた先輩もいて、世間知らずっているもんだなと思ったものです。一般社会とかけ離れているって意識をなかなか感じられない世界なんでしょう。
私がまだ北大病院で仕事をしていたころ、臨床実習でまわってきた学生に茶髪の男の子がいました。私たちのころとは違って、講義の時に最前列で缶コーヒーを飲める学生がいる時代になっていたので、茶髪の学生にはそれほど驚きませんでした(でも、白状すると「北大にもついに茶髪の学生かぁ」なんて思いました)。しかし、いくらなんでも臨床実習に茶髪はどうなんだろと思った私は、その学生に「その茶髪で実習にでてるのかい?」と疑問を投げかけてみました。するとその学生は表情も変えずに「はい、そうですけど」と。私はその平然とした様子に驚いたのですが、「もし、患者が『茶髪の医者にはかかりたくない』と言ったらどうするの?」と尋ねてみました。すると「そのときは僕以外の医者にかかるようにいいます」と。そして、「医者の力量と外見は関係ありませんから」と念を押す始末。私は唖然として、「それほどまで信念もって茶髪にしてるわけ?」とあきれていると、「いいえ、茶髪ってそれくらい大した問題じゃないってことです」とも。さすが北大生。妙に感心してしまい、それ以上何も言えませんでした。
限られた世界に身をおいていると、一般社会がどうなっているかに気が付かないばかりか、それが常識はずれを飛び越えて非常識であることにすら気がつきません。私が研修したのは公的な病院だったせいか、業者からの接待は厳しく制限されていました。私が医学部を卒業したころは、病院と企業の癒着が社会問題になりつつある時でした。ですから、当時は製薬会社が提供するボールペンすらもらってはいけないような雰囲気がありました。だからというわけではありませんが、医局の歓送迎会や忘年会・新年会は先生方の割り勘であり、製薬会社の営業マンが支払いをするなんてこともなく、私達研修医の費用でさえも先生たちが支払ってくれました。ところが、私立大学の医局に移ったとたんにそれらのほとんどが業者の支払いになっていることにびっくり。ある先生などは、病棟の看護婦さん達に「今日、夕飯をごちそうするから食べに行かない?」と誘っているので、「あの先生は太っ腹だな」と感心していたら現場には製薬会社の営業マンが待っていた、なんてセコい話しもありました。
こんな昔の光景は今は見られないのかもしれませんが、大学を卒業してからずっとそんな環境にいたら、それが一般社会では常識はずれだってことにも気がつかないんだなぁと当時思ったものです。最近、公務員が他の省庁や一般企業に出向するのが当たり前になっていますが、これもそうした弊害を防ぐためのものなのでしょう。その意味で、いちど社会人を経験した人を医学部に学士入学させることはいいことだと思います。一方で、医学部の学生のうちに一定期間だけ医師以外の職種を経験させることも重要です。学生のときに所属していたクラブの実習でいわゆる老人ホームでケアワーカーの仕事をしたことがあります。そのとき、当時の私のような若い男性に下の世話をさせることを嫌がるおばあさんがいたこと、その施設で働くケアワーカーの仕事がどれだけ大変で大切なことかということも、病院とは異なる場所で、医療従事者とは異なる視点を持てたからこその気づきでした。そのことがあってか、以後、病院で働いていても他の職種の人達のことを身近に感じることができたと思っています。
そういう私にも恥ずかしいエピソードがあります。二年間の臨床研修を終えた私は、私立大学の医局に入局することになりました。その医局の新入局員の先生たちと私は主任教授の自宅に招待されたのでした。教授のお宅は東京都千代田区一番町という都心の中でもイギリス大使館などがある静かな高級住宅地にありました。当時、オートロックなど見たことがなかった私はマンションの入り口の前に立っても扉がまったく開かないことに戸惑っていました。すると、中から出てきた住人らしき人に、それがオートロックドアといい、住民の部屋の番号をボタンで押して施錠を解除してもらわなければ入れないことを教えてもらいました。教授のお宅に入ると、すでに10人はいるであろう新入局員のほぼ全員がすでに勢ぞろい。「遅くなってすみません」といって私が部屋に入るとなにかただならぬ雰囲気が漂っています。遅れて入ってきた私を見るみんなの目が点になっているのを私は見逃しませんでした。みんなの視線を感じつつ周囲を見渡すと、すぐにその理由がわかりました。なんと勢ぞろいしているみんなは背広の正装、私はジーンズにボタンダウンシャツ姿だったのです。
自宅に招待してくださった教授ですらネクタイにスーツ。奥さまもよそ行きの服装です。すっかり恐縮している私に同僚が「せばた先生らしいよ」と言ってくれましたが慰めになっていません。でも、もうひとりの入局員がまだ来ていないことを教えてもらいました。実はその先生は私以上に正装をしそうになかったのです。私はラフな格好をしたもうひとりの仲間がやってくるのを心ひそかに期待して待っていました。しかし、その期待はもろくも崩れ去りました。その「正装しそうもない先生」ですらスーツ姿だったからです。自己紹介ののちに奥さまの手料理の数々に舌鼓を打ちながらの歓談でしたが、私はこの場から一刻も早く姿を消したい気持ちを抑えながら歓迎会を終えました。最後に教授ご夫妻を真ん中にして新入局員全員で記念写真の撮影。ところが、後日、病院で教授から直々に手渡されたその写真を見てまたまたびっくり。教授が背筋を伸ばしてかしこまっている横で、私は大胆不敵に足を組んでニヤけているではありませんか。以後、私は悟りました。自分はこういう世界・雰囲気にまったくなじまないことを。
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。大海を知って成長する蛙もいますが、その大海の水があわずに、「やっぱり池の水の方がいいや」と開き直る蛙もいるのです。池に生活する蛙にとってあえて大海を知る必要があるか、という言い方もできます。どっちがどうと単純に割り切れないことではありますが、親から「おまえは変わってる」「お前には常識がない」と言われ続けてきた私にふさわしいエピソードでした。個人的にはいろんな蛙がいていいんだと思うんだけどなぁ・・・。
1週間ほど前から花粉症の患者が増えています。それまで症状が軽かったのに限度を超えたために来院した人もいれば、症状が急に出てきたことから受診してきた人もいます。おそらく杉の花粉量が急速に増加したからでしょう。それは私の実感からもわかります。私もバリバリの花粉症だからです。昔から「春よ来い、早く来い」と歌われているように、世間では春は待ち遠しいものされています。でも、毎年花粉症に苦しむ私にすれば春は「憂鬱な季節」でしかありません。早く来て、すみやかに過ぎ去ってほしい季節です。暖かいのに底冷えしているような中途半端な気候もふくめて私にはどうしても春が好きになれません。
私が花粉症になったのは高校2年生のとき。発症するまでといえば、通学の途中、電車の中でくしゃみを連発する人を見かけると、それがとてもおかしくて笑いをこらえているほどでした。しかし、花粉症の症状はなんの前触れもなく突然現れました。高2の春のある日、夜明けにくしゃみが止まらなくなり、左右の鼻の穴からは鼻水があふれ出してきたのです。仰向けに寝ているのにあふれ出す鼻水。それはあたかも火山から流れ出す溶岩のようでした。しかも、鼻が詰まっているのであふれ出てきた鼻水をかむことができない。おまけに目はかゆく、目の周りは目ヤニでガベガベとなっていて開けることもできない。花粉症がこれほど辛いものだとは思いませんでした。
以後、私は、およそ40年余の長きにわたり、春になるたびにこの花粉症に苦しむことになりました。電車の中でくしゃみを連発していた人がどれほど辛い思いをしていたのかを身をもって知ったのです。今でこそそれなりにいい薬がありますから、2月から抗アレルギー薬を飲みはじめ、3月に点鼻薬と点眼薬を使いはじめればなんとか「辛い」という状況からは逃れることができます。しかし、花粉症それ自体があまり認知されていなかった当時はあまりいい薬がありませんでした。ですから、どの薬を飲んでも症状は楽にならず、市販の薬を指示された量の2倍の量を飲んだり、複数の薬を一緒に飲むなんてむちゃなことをすることもありました。それくらいに症状は激烈でした。
北海道に渡った理由のひとつがこの花粉症です。北海道には杉の木がありませんから。津軽海峡にひかれたブラキストン線によって本州と北海道の植生はそれほど違うのです。正確に言うと函館あたりまでは杉の花粉が飛んでいるそうです。しかし、札幌までとなるともはや私が症状に苦しむほどの花粉はほとんど飛んできません。ですから、札幌では1年を通じて花粉症の症状とは無縁の生活が送れます。4月になって雪がとけはじめ、入学式がおこなわれることには町中が泥と雪でぐちゃぐちゃに。そして、5月になってようやく本州の3月ごろの気候になりますが、あの憂鬱な症状から逃れることができます。長年花粉症に苦しめられてきた私にとってこれほど幸せなことはありませんでした。
北海道は5月になると急速に春めいてきます。木々が芽吹くと同時に、梅や桜、タンポポの花がいっせいに咲き始めます。まさしく百花繚乱の季節です。このころの札幌ではいたるところできれいな花壇を見かけます。杉のない札幌ではあれだけ私を悩ます花粉症の症状がないので、花をめでにいろいろな場所に出かけることができます。これが春を満喫するということなんだと実感できます。シラカバの花粉症っていうものはあります。春、いろいろな花が咲き始めるころ、シラカバの綿毛がふわふわと漂い出し、スギ花粉症ほどではないにしろ、クシュン、クシュンとくしゃみをする人がでてきます。幸い私はシラカバの花粉症ではなかったので。まさに快適な春を送ることができました。
札幌で花粉症とは縁遠い生活をしていると、自分が花粉症であることを忘れてしまいます。でも、花粉症のシーズンにときどき学会などで上京すると(この季節に帰省することはほとんどありませんでした)、自分が花粉症であることを思い知らされます。こちらに着いて48時間から72時間もすると症状がでてくるのです。札幌を発つとき予防のためにアレルギーの薬なんて飲んできませんから、突然花粉症の症状が出てきて辛い思いをすることになります。そして、早々に学会を切り上げ、逃げるように札幌への家路を急ぐことになります。このときほど札幌を恋しく感じることはありません。
このように札幌での快適な春を過ごしていた私ですが、こちらに戻ってきた10年前からは再び春を前に花粉症に対する事前策を講じなければならなくなりました。とくに今年の冬は暖かかったので、花粉の飛散時期が早まるだろうと予想して昨年末から抗アレルギー薬を飲み始めています。その効果があってか、これまではとくに症状もなく過ごすことができました。しかし、ついに1,2週間前からくしゃみや目のかゆみが出てきました。今は点鼻・点眼薬を併用しています。アレルギーの薬は辛い時だけ使用してもほとんど役に立たないので、早めに、そして、継続的に使用しなければなりません。私の場合、こうした薬を5月のGWまで続けることになります。
今ではお薬もいろいろと改良され、以前に比べてだいぶ効果を実感できるようになってきました。高校生のころのようなひどい症状で苦しむことはありません。眠気の副作用もそれほどでもなくなりましたし。来院する患者にも、私の経験をふまえてアドバイスすることができます。花粉症の症状がどれほど辛いのかも理解できます。例えば単に「鼻水が出て、目がかゆい」だけじゃないってことも。どの薬が効いて、どの程度の副作用があるのかなど、実体験を通じた説明をすることもできます。患者になってみなければ、わからないことって多いです。
もっと簡便で恒久的な治療法が開発されるといいなと思います。薬を飲むということも、点鼻薬や点眼薬を使うこともそう面倒なことではありません。しかし、できれば一回の治療でもうおしまいなんて治療法があればどれだけいいかと思います。長年花粉症に苦しめられてきた私にとって、花粉症こそが春を「憂鬱な季節」にしてしまった元凶なのですから。桜の枝がつぼみを持ち、清楚な花を咲かせるころ、また新たな気持ちになれるためにも新しい治療法の登場が待たれます。耳鼻科の先生方、よろしくお願いしますね。
もうすぐ東日本大震災から5年になります。あのときの大きな地震の揺れを思い出すというよりも、その後の津波による被害のすさまじさと、その津波によって引き起こされた原発事故の大きさに打ちのめされた思いがよみがえってきます。そのときの様子は、以前、このブログにも書きましたが、5年という歳月を経て、福島は、あるいは東北は、もっといえば日本はよくぞここまで立ち直ったものだと思います。ところが、いまだに「放射能の危険性」を声高に叫び、ここまで立ち直った人たちの心をくじこうとする人たちがいます。その人たちの言動には個人的にはただあきれるばかり。うんざりしてきます。
放射能による被害については、その後、さまざまな大規模調査がおこなわれ、その都度「放射能の影響は確認できない」との結論が得られています。原発事故直後からマスコミやいちぶの識者から繰り返していわれてきた「子供たちの甲状腺がんの発生」についても、あるいは「胎児の奇形や異常出産」についても、そのことごとくが否定されています。なのになぜ今もなお「放射能の影響が今後も出ないとはいいきれない」などと言っては立ち直ろうとする人たちの足をひっぱるのでしょうか。それはまるで被災者の気持ちに寄り添う振りをしながら、実は被災者を政治的に利用しているかのように私には見えます。
それが本当に政治的に利用しているものなのかどうかはともかく、「放射能の影響がないとはいいきれない」という一見もっともらしい主張が、実は「ないもの(こと)は証明できない」という重要な論理を無視したものであることに気が付かなければなりません。実際に存在することはその存在を根拠に証明できても、存在しないことはその状況証拠で説明するしかない、ということです。「説明」はあくまでも説明であって、人々を論理的に納得させられるかどうかにかかっています。しかし、そうしたその論理性はそれを理解しようとしない(できない)人たちにとってはなんの意味ももたないところがやっかいです。
「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があります。デカルトという哲学者によるものです。目の前の石ころが本当に「ある」といえるのか。その存在を完全に証明することはできないが、それを「ある」と認識している自分の存在だけは否定できない、という意味です。みんなに見える石ころを「私には見えない」と言えば怪しまれ、みんなに見えない虫が床をはっていると言っても怪しまれます。そこにはみんなの共通認識が正しいという前提があるのです。しかし、そのみんなの共通認識が誤っているということがないとはいえない。それを推し量る道具として科学的事実、統計学的予測が存在します。
現代社会に生きる我々の誰もが地球が太陽のまわりをまわっていることを理解しています。世の中のすべての物質は分子、原子、さらには素粒子からなっていることを知っています。その証拠を見たことがなくても、誰ひとりそれを疑おうとはしません。論理的にあるいは現象的に矛盾のない科学的事実からそう理解しているにすぎないのです。誰かが「それでも太陽が地球のまわりをまわっていて、すべての物質を通り抜けることができる魂が存在する」と確信しているとすれば、それはもはや宗教の世界、あるいは人間の情緒の問題として片づけられてしまいます。
「『そんなものなどない』とどうしていえるのか」と反論されると、反論された側に「それがないこと」を証明する責任があるように感じます。しかし、「ないこと(もの)」は証明できないのです。この証明は「悪魔の証明」と呼ばれているのですが、本来であれば「それがある」という根拠をすべての人が理性的に納得するように提示しなければいけません。そうでなければ利害のことなる様々な人々によって構成される社会は成り立たちません。「あること」の証明がどのくらい人々に受け入れられるのか。そこで客観的事実としての科学と統計が根拠を提示するものとしての役割をはたします。
「放射能の影響がないと言い切れるのか」ではなく「これだけ放射能の影響があったぞ」を指摘しなければなりません。「2011年の東日本大震災クラスの首都圏直下型地震は起こりうる」ではなくて「そうした地震はこのくらいの確率で発生する」という言い方をしなければなりません。一方において、「放射能の影響はない」と言い切ることはできません(「影響はない」と言い切りたいとしても)。「今のところ放射能の影響があるとはいえない」というまどろっこしい言い方でしか表現できないわけです。一見するとあいまいに思えますが、実は事実を正しく表現するためにはそう言わざるを得ないのです。
今回の原発事故で「万全な対策を施した原発に事故はない」という「原発の安全神話」が崩れた、といいます。しかし、もともとそんな「安全」なんてあろうはずがない。しかも、みんなもそれに気が付いていました。本来であれば「これこれの危険がこのくらいの確率で存在するのだから、こうした対策を講じるべき」という真摯な議論がなければいけなかったのです。ところが「一切の危険性があってはいけない」という極端な一部の意見にひきづられて、「安全神話」がなんとなくできあがってしまったのです。理性的な議論がなく、リスク管理という観点から社会的妥協点を見出さないとこうなるといういい例です。
人間は感情の動物ですから、「怖い」「不愉快」「認めたくない」という気持ちがわくのは当然です。しかし、そうした情緒的な反応とはまったく関係ないところに科学的事実、統計学的予測があります。自動車は必ず事故をおこします。今もどこかで事故は起こっています。でも、現代社会は自動車の危険性をいかに低減させ、コントロールするかを図って成立しています。いったん事故がおこればたくさんの命が失われる飛行機もそうです。ある程度のリスクを受け入れ、その利便性を享受しているのです。現代社会は、少なくとも「私は乗らない」という人はいても「自動車や飛行機をなくすべきだ」という社会ではありえないという点が重要です。
以前のブログにも書きましたが、2011年の震災直後、放射能に対する不安がピークに達した患者さんや友人の医師に「原発事故による放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけました。でも、匿名の人から「命を守るべき医者が放射能の危険性に楽観すぎる」との批判を受けました。原発事故直後の混乱した状況において不必要な不安感にさいなまれるのは仕方がないことです。それでなくてもマスコミがあの調子でしたからなおさらです。しかし、そうした人であっても、その後の客観的事実をふまえて少しづつ理性的にならなければなりません。情緒に翻弄されていた自分を乗り越えて、理性的に受け入れる自分に変わっていくべきなのです。
「ないこと」の証明はできません。そのことは「理性的」に理解するしかありません。もしかすると将来、実は人は死んだら体から魂が抜け、天国に上っていくということが証明されるかもしれません。私自身、解剖実習の初日に金縛りにあい、同時に幽霊を見る(これも以前ブログに書きましたのでお読みください)といった不思議体験をしているせいか、守護霊というものがあったり、運命というものすらあることも、なんとなく自分の中に信じている部分もあります。でも、それらが科学的に証明されないかぎり自分の心の中の問題だと思っています。それが私の理性なんだと思います。
理性ですべてが解決しないのが人間です。それは仕方がないことです。しかし、いったん「そんな科学的根拠にはなんの意味があるのか」「科学は『ないこと』を保証するのか」という声があがると、理性は情緒にいとも簡単に駆逐されてしまいます。そうしたことが今の日本の社会ではしばしば見受けられます。それが日本のいいところでもあり、悪いところでもあります。しかし、利害のことなるたくさんの人が住む社会においてはやはり科学的事実あるいは統計学的推測をよりどころとするしかない場合が多いと思います。情緒を乗り越え、その理性あるいは客観性を頼りに発達・発展してきたのが現代社会だからです。そうしたことに時々立ち止まってじっくり考えてみることが大切だと思っています。