院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。
その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。
当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。
この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。
研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。
東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。
ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。
そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 「内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。
ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。
ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)
皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。
流 星
高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。
それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。
井上靖
この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。
実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。
ひとことで言うと、私は正義感が強い方だと思います。これは私の父親が警察官だったことが影響しているのかも知れませんが、私の長男の性格を見ていると同じく「正義感が強い(強すぎる?)」と感じることがあります。もしかするとこれは環境によって形成されたものではなく、遺伝的なものなのかもしれません。しかし、「正義感が強い」のも善し悪しで、「正義感が強すぎる」とときとして「まわりの空気を読めない」ということになり周囲の人たちに迷惑をかけます。
今でも思い出すのは、研修先の病院の採用試験を受けに行った日のこと。受験を終えて札幌に帰ろうと電車に乗っているとき、吊革につかまっていた私のななめ前に若い女性が座っていました。当初はそんなことにも気が付かなかったのですが、ふと私は電車の中の雰囲気が微妙に変化するのを感じました。というのも隣の車両から大声を出しながら移動してくる酔っ払いがいたからです。車内の人たちは一様にそんなことに気付いていないかのように装っていますが、みんなの意識がその男に集中しているのがよくわかりました。
はじめは私も同じように知らぬふりをしていたのですが、こういうときに限ってその酔っ払いは私の斜め前に座る女性を見るやいなや絡み始めました。両隣には男性が座っていましたが見て見ぬふりをしています。私は一瞬戸惑いましたが、どうしようかと思案するまでもなくその酔っ払いに声をかけていました。「私の連れなのでやめてもらえませんか」。その酔っ払いは不敵な笑みを浮かべながら私の方をにらんで言いました。「なにを。おまえの女って証拠あんのかよ」。そのあとどう受け答えしたのかよく覚えていないのですが、結局、その男に「次の駅で降りろ」と言われるままに電車を降りました。
駅で降りると酔っ払いは私の襟をつかんですごみました。私の頭の中は意外と冷静だったのですが、もしこの男が私に手を出してきたときにどう対処するかを考えていました。こぶしがこっちからきたらこうかわして、けりが来そうだったらこう防いで・・・。私がなされるままにしていると男はますます興奮してきて、今にも手をあげそうな勢いです。いよいよ取っ組み合いをしなければならないのか。そう思ったとき、近くで女性の声がしました。「あんた、なにやってるのよ」。そう言いながら、もみ合っている私たちのそばにひとりの中年の女性が近寄ってきました。酔っ払いは少し驚いたように振り返りました。
「昼間っから酔っぱらってるんじゃないよ。私は錦糸町で30年ホステスをやってるけど、あんたみたいなみっともない男は見たことないよ」。すごい剣幕で男をまくし立てています。あっけにとられたようにその男はつかんでいた私の襟を離すとなにやら捨て台詞を残して消えてしまいました。私は女性にお礼をいいました。「助けていただいてありがとうございました」。気風(きっぷ)のよいその女性は「あんな奴、まともに相手をしない方がいいよ。どうやら女の子を助けようとしたらしいけど、その子、どっか行っちゃったね」と私に微笑むと風のように去っていきました。
私はその中年の女性の後ろ姿を見送りながらとても爽やかな気持ちになりました。まるで白馬に乗った王子さま(王女さま)に出会ったような気分でした。しかも、私が女の子を助けようとしたことを知っていたということは、おそらく電車の中での私たちのやり取りを見ていたのかもしれません。電車から引きづりおろされるように連れていかれる私が気になって一緒に降りてくれたんだと思います。だって、錦糸町はそのまま電車に乗ってたった数駅のところなのですから。そのときはそんなことも気が付かなかったので、お礼をひとこと言うぐらいのことしかできませんでした。それにしても実にかっこいい女性でした。
いちじが万事、こんな風によく考えもせず行動してしまうのでしばしば「火傷」をします。それも私の「正義感」のなせる業なんですが、目の前で起こっている緊急事態に誰もがだんまりを決めているとどうしても手が出てしまう(口を出してしまう)のです。うちの息子もまるでそうで、誰も引き受けない役回りがあると自分から手をあげてしまう。でも実はその役回りをやりたいわけでもなく、彼にその役割を満足に果たせるわけもない、なんてことがよくあります。そんなとき、「ああ俺に似ちまったなぁ」って思うんです。ちょっぴりうれしいですけど。
私のこうした性格が災いして、上司と衝突したりして職場をやめることになったことも一度や二度ではありません。このときの顛末には小説になるような出来事があったりして、まとめれば一冊の小説が書けるくらいです。しかも、ずいぶんと面白いものになるだろうと思います。きっとそんなことをしたら、以前の職場の上司たちはみんな真っ青になることばかりですけど。でも、安心してください。残念ながら私には文才がないので小説なんて書けませんから。せめてこのブログで紹介する程度ですよ(当事者しか個人が特定できないようにしますから大丈夫です)。
よく、「なぜ医者になったのですのですか?」と聞かれることがあります。直接的には小学校に入学するときに親戚の人からお祝いにもらった「野口英世」の伝記がきっかけです。当時はまだ字も満足に読めませんでしたから、「伝記を読んだ」というよりも「本の挿絵を見た」というべきかもしれません。貧しさの中で重いやけどを負うという恵まれない境遇から世界的な医学者にまで登りつめた偉人伝は小学生の私に強烈な印象をあたえたのでしょう。
ここまではよくある話しです。でも、私の場合、ここからが他の人とは違います。「野口英世」が「医者になりたい」と思うきっかけになったとはいえ、それから猛勉強をして医者になったというわけではないからです。小学校のころは無気力な子供でした。なんとなく学校には通っていましたが、授業では先生の話しもろくすぽ聞いていませんでしたし、板書をノートすることもない。おまけに与えられた宿題すらやろうとしないような、勉強にはまるで縁のない子供だったのです。
世間では「ろくに勉強もしなかったのにテストの成績はよかった」なんて自慢話しもよく耳にしますが、現実はそんなに甘くはありません。勉強もせず、宿題すらやってこないのにテストの点数がいいはずがありません。いつも低空飛行の結果を家に持って帰ることはさすがの私も気が重いことでしたが、さりとて点数の悪さに奮起するなんてこともありませんでした。両親も「しょうがないねぇ」とあきれた表情でテスト用紙を見ていましたが、怒るでもなく、励ますでもなく、なかば諦めていたのかも知れません。
今でも覚えているのは、小学校の卒業式のこと。同級生に超有名私立中学(K成中学というところ)に合格した子がいました。彼が卒業式の当日に何をしていたと思いますか?なんと中学で使う数学の教科書を予習していたのです。彼が熱心に勉強している教科書をのぞいて私は驚きました。だって「ゼロより小さな数」があったからです。マイナスの概念がほとんどなかった当時の私にとって、そんな数を勉強している彼は雲の上の人。さすがK成中学は違うなぁと子供ながらに感心したものです。
劣等生とまではいかなかったにしろ、いつも低空飛行していた私がその後医学部に入学し、今こうして医者をしているのは不思議な気がします。私以上に当時の私を知っている人はびっくりしているのではないでしょうか(私の親でさえもそうですから)。医学部時代の私の同級生たちは皆小学校のころから常に優等生で、私のような小学校時代を過ごした人はまずいないと思います。彼らのほとんどは名門高校のトップクラスの生徒たちですし、私にとっては多少なりとも別世界の人たちなのでしょう。
ただ、医学部に入ってきた連中が全員「医者になりたくて、あるいは医学を学びたくて入学してきた」とは限りません。「成績がよかったので医学部を受験した」と思われる人が少なからずいます。世の中の風潮として「テストの成績がいい」と「医学部をめざす」という傾向にあります。「テストの成績がいい」ということは必ずしも「地あたまがいい(天才的頭脳を持っている)」ということではありませんが、逆に「地あたまがいい人」はおおむね「テストの成績がいい」という傾向はあります。
いつだったか、数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとってきた東大や京大の医学生がテレビ番組で数学や物理の難問に挑戦していました。そうした様子を見て、私はせっかくの頭脳を持ちながらなんで医学部などに入ってしまったんだろうと思ってしまいます。医学部であれば中の上以上の学力があれば十分。彼らがそのまま数学や理論物理学などの科学の道を進んでくれれば日本にとってどれだけ科学レベルを引き上げることになったことか。せっかくの頭脳を無駄にしてしまうようなもの。もったいないことです。
一方、最近、文部科学省の方針で「学力重視だった大学入試を人物本位」にする方針が発表されました。これは日本の科学の根幹をゆるがすいち大事です。人物を評価しても学問にふさわしいかどうかがを測れるわけではないのですから。そもそも人物をどう評価するのでしょう。よく、「医者は人間を相手にする仕事。だから医学部の入試こそ人間性を重視した合否判定を」なんてことがいわれます。テストの成績がいい学生は人間性が劣っているんでしょうか。人間性なんてものは学力とはなんの関係もないのです。
話しは戻りますが、テストの成績がいいということは「地あたまがいい」ということではありません。でも、それでいいのです。なぜなら「テストの成績がいい」ということは、少なくとも学習意欲はある程度期待できますから。医者にとって重要なのは学習意欲です。日進月歩の医学についていき、最新の医学的知識をもとに診療することはとても大切だからです。そもそも学習意欲がなければ医学部を卒業することも、国家試験に合格することもできないでしょうし。
医学部では基礎教養科目からはじまって、解剖学や病理学、薬理学などの基礎医学科目。そして、内科学や外科学、小児科学や産婦人科学、眼科や耳鼻科、皮膚科にいたるすべての診療科目を学びます。医学部の6年間に学ぶ学科は50種類にもおよぶのです。これらのすべての科目の試験に合格し、卒業試験をクリアしてようやく医師国家試験を受験します。学習意欲がなければとても「医師免許」にたどりつけないのです。私は今でもときどき「国家試験が目の前にせまっているのにまったく勉強しておらずあせりまくる」という夢を見るほどのプレッシャーの連続でした。
医者という仕事には向き・不向きがあります。決して楽しいばかりの仕事ではありませんし、創造的な仕事ができるともかぎりません。なにより、人の生老病死を見守る仕事ですから、気持ちを切り替えられる人間でなければとても辛い(とくに内科は)。人間の人生は長いようで短いのですから、この限られた人生をどう生きるかはとても重要です。その人が幸せなのは、人生を通して自己実現できたと実感できるときだと思います。その意味で、成績だけで選んでしまった人にとって医師という仕事ははたして人生を自己実現する仕事になるのでしょうか。
ひるがえって私にとって医師という仕事はどうだったでしょうか。おこがましいようですが、私自身は天職だったのではないかと思っています。私は組織の一員としてその歯車として働くということが苦手です。いつかこのブログで書く機会もあると思いますが、これまでいろいろな上司とぶつかってきましたし、組織の論理というものの理不尽さに歯ぎしりしてきました。その結果、大学という組織を去り、病院を離れることにつながりました。おそらく普通のサラリーマンとして働いていたらものすごいストレスを抱えて文句ばかりいいながら仕事をしていたんだろうと思います。
小学生の頃、およそ医者になれるはずもなかった自分が、人生を変えるような人との出会いがあり、運命的とも思える偶然が重なって医師になった。もちろん努力はしました。他のひとよりもスタートは遅かったですけど。中3になって突如として勉強に対する姿勢がかわりました。その辺のことはまた機会があればお話ししますが、結局のところ、その後、紆余曲折がありながらも子供のころの夢を実現できた。まさに神の見えざる手が導いてくれた、と言ってもいいような経過だったと思います。そう考えると、医師という職業は自分にとっては天職だと思うのです。
医師という職業は免許をとって完成するものではありません。まさしく「医師になっていく」ものであり終点はないのです。教科書に学び、症例にまなび、患者に学びながらなっていく。誰もが見逃していた病気を見つけ、未然に大きな病気を防いだり、病に悩む人の支えのひとつになる。そうしたことすべてによって「医師になっていく」んだと思います。まだまだ自分にはその修業が足りません。まだ、学びの徒なのだということなのですが、くれぐれも小学生の時のような無気力でぼんやりとした学徒にもどらぬよう気合をいれていきたいと思います。この職業を「天職」とまで言い切ったのですから。
※「内科を選んだ理由」もご覧ください。
長いこと医者をしていると心に残る患者はたくさんいます。目を閉じれば、そうした人達が次々とまぶたに浮かんできます。とくに印象深い患者は研修医時代に出会った患者が多いです。研修医はまだ患者の立場と医療者の立場の両者にまたがっているようなものですから、医療の矛盾に反発を感じたり、医療の難しさに苦悩したりと、一人前の医者になる通過点としていろんな体験と直面するからでしょう。
私が研修した病院は靖国神社にも近く、お休みのときは神楽坂にお昼を食べに行ったり、神田の書店街を回ったり、生活環境としては申し分のない場所にありました。レジデントハウスと呼ばれる研修医の宿舎に住み込みながらの研修はとても忙しかったですが、指導を受ける先生たちは人間性に富み、尊敬できる先生方ばかりでした。病棟の看護婦さんも新人から中堅までバランスよくそろっていましたし、放射線科や臨床検査の技師さんや薬剤部の薬剤師さんにいたるまでが素晴らしい仲間であり、研修の2年間で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。
私はある指導医に「医者としてのスタンスはこの研修医のときに決まる」と言われたことがあります。今振り返るとほんとうにその通りだと思います。厳しい指導医の元で胃に穴があくようなときを過ごしたことも、朝早くから深夜遅くまでくたくたになりながら病棟業務をこなしたことも、素晴らしい病院で素敵な人たち囲まれて修練したことが今の自分に確かにつながっています。もし、もっと楽で、ゆるゆるな研修をしていたら、自分は今ごろもっといい加減な医者になっていたのではないかと思うほどです。
●医師としてのあり方を示してくれたM君
そんな研修医時代を終え、それなりに医者らしくなったころにであった患者のことを今回はお話ししたいと思います。当時、大学病院の呼吸器内科のスタッフとして働いていた私は、他院から「レントゲン写真上の肺炎の影が改善しない」と紹介されてきた高校1年生のM君を担当しました。M君はお父さん、お母さんご自慢の高校生でした。中学時代にスポーツで素晴らしい成績を収めていたばかりか、ある有名大学付属高校に合格した秀才でもありました。しかし、その高校に入学する前に肺炎症状が出現して他院に入院。合格した高校の入学式にも出られないまま入院生活を続けていたのでした。
もの静かな彼は口数は少なく、自分がおかれた境遇を愚痴ったり、不安をもらすことはありませんでした。一方のご両親は二人とも今の彼がおかれている状況を冷静に受け止めようとしていましたが、やはり転院するという事態に至ったことに多少動揺していました。M君は入院して間もなくいろいろな検査を受けました。中には気管支鏡検査という、多少苦痛をともなう検査にもじっと耐えていました。しかし、ほどなく彼が15歳にして肺がんという不治の病気に侵されており、しかも思った以上に進行している状態であることがわかりました。
ご両親にそうした事情を説明しなければならないのはとても辛いことでした。二人はM君が「治りのわるい肺炎」と思って転院してきたのです。しかもすでに手術できる状況ではなく、抗がん剤による治療もほとんど効果は期待できませんでした。ご両親の落胆ぶりはたいへんなものでした。若年者のがんは進行が早いことが多く、治療によって進行を抑えることすら難しいのです。私はそうしたことを淡々と説明しました。慰めの言葉など見つかるはずもありません。I君の前では気丈にふるまうお母さんや優しい笑顔で接するお父さんの姿がいたたまれませんでした。
その後、このまま何もしないで緩和療法とするか、それとも治療に反応することを期待して抗がん剤を投与するかご両親と相談しました。ただ、なにもしなくても早晩辛い状況になることが予想されるため、抗がん剤を使ってみることにご両親は希望をたくすことにしました。幸い、嘔気の副作用は短期間で済みましたが、彼の髪の毛はすべて抜け落ち、間もなく胸水が溜まる状況になってしましました。放射線治療を併用したりしましたが、進行はとめることも遅くすることもできない状況であり、もはや我々の心のなかは手詰まり感が支配するようになってきました。
彼は素直に治療を受け、検査を受けていました。自分の病気に疑問を持つこともなく、というより疑問をもっているそぶりを私たちに一切見せませんでした。私にはそのことがかえって不憫でなりませんでした。前医に入院して早4か月が過ぎようとしています。合格した学校に通うことはおろか、制服に腕を通すことすらできないでいます。少なくとも彼から不安や恐怖心を遠ざけるために自分に何ができるだろうかと考える毎日でした。そして、できるかぎり彼の病室に顔を出して声をかけるようにしていました。努めて明るく、淡々と。ときには当時上映されていた映画のビデオを貸してあげたり。しかし、それでも彼の孤独をいやすことにはなっていないことに私は気が付いていました。
楽観できない状況の中にあって、それでも胸水のコントロールがつくようになりました。それを機会に帰せるうちに自宅に帰してあげようと考えました。でも、医事課からは、たまに外泊するのはいいが、それなりの期間を自宅で過ごさせるためには一旦退院させなければならない、とのことでした。しかし、いつ彼の様態が悪化するかもわからないのに退院など考えられません。そこで、なんとか外泊ができるようにし、その間、往診に行かせてもらえないかと上司に頼んでみました。しかし、病棟の婦長らからは「そういうことはできない」とつれない返事が戻ってきたのでした。
それでも、私はあきらめることができませんでした。そこで私は彼に外泊として認められるぎりぎりの期間を自宅で過ごさせ、病院と上司に隠れて彼の自宅を往診することにしました(もう20年以上前の話しですから「時効」でお願いします)。私は夜勤明けの看護婦さんからボランティアを募り、お昼休みに彼女らとそっと病院を抜け出して彼の自宅に往診に行きました。今思えば、大変な職務違反ですし、ついてきてもらった夜勤明けの看護婦さんにも疲れているのにずいぶんと無理なお願いをしたもんだと思います。でも、若かった私はなんの躊躇もなくそんなことをやっていました。
自宅での彼の表情は、病院にいたときとは違いとてもにこやかでした。往診とはいっても聴診をして、血圧や経皮的酸素飽和度を測り、ちょっと雑談をかわす程度。でも、当時の私は、治療らしい治療をしてあげられない罪滅ぼしがちょっとだけできているように感じました。お母さんもなんとなくうれしそうにしており、往診に伺う私たちを心待ちにしてくれていました。そんな穏やかなM君とお母さんの様子を見ながら、看護婦さんを連れて病院を抜け出すことに後ろめたさはまったく感じていませんでした。
しかし、そんな穏やかな状況はそう長くは続きませんでした。外泊をなんどか繰り返すうちに彼の肺がんはさらに進行し、みるみるうちに彼は衰弱していきました。病室のベットで横たわっている彼は苦しそうに酸素マスクをつけています。あのときのにこやかな表情はもうありません。ご両親も心配そうに彼を見守っていましたが、私はその二人に「なんとかならないか」と言われるのがとても切なかった。なにもしてあげられなかったからです。苦しまないようにするには鎮静剤なり麻薬なりを投与しなければならず、そうすると呼吸も弱くなってしまうかもしれない。私は、彼の残り少ない命に決定的なくさびを打ち込んでしまうことを恐れたのです。
苦しみに顔をしかめて耐えている彼を見るのが私は辛かった。その彼の手を握り、涙をこらえているご両親を見るのも辛かった。いよいよ臨終が近づき、彼の呼吸が弱くなってくると、ご両親は必死に彼の体をさすりました。「もっと息を吸って。ほら、もう一回、がんばって」。そう呼びかけるお母さんを、なにもできずに私は後ろから見つめていました。そして、いたたまれなくなった私は心のなかでつぶやきました。「もう君はずいぶん頑張ったんだから、もう頑張らなくていいんだ」「神さま、どうかこの子を安らかに天にお召しください」と。彼はほどなくして天国に旅立っていきました。
病院から自宅に帰る彼の亡骸には、一度も腕を通すことのなかった学生服がかけられていました。私は穏やかな表情に戻った彼に手を合わせながら不覚にも泣いてしまいました。彼のお母さんや病棟の看護婦さんを前にしながら私は涙をこらえることができなかったのです。その涙は、自宅で穏やかに過ごしていた彼のことを思いだして流した涙であり、また、なにもしてあげられなかったことへの悔しさの涙でもありました。のちに、お母さんからは「先生から息子の病気の告知を受けた時、本当は淡々としたその様子に『先生は冷たい人だ』って思ったんです。でも、今はそれでよかったんだと思います。あのとき同情されていたら、自分の気持ちを今まで支え切れなかったでしょうから」と言われました。この言葉が今も忘れることができません。
私は、荒井由実の「ひこうき雲」という歌を聴くといつもM君のことを思いだします。そして、涙がこみあげてきます。この歌の歌詞のように、あまりにも短すぎる命でしたが、白い坂道を登って天国に召されたいったM君が天上界ではいつも安らかであることを思いながらこの歌を聴きます。彼を見送ったご両親はさぞかしお辛かったことでしょう。でも、彼はきっとご両親になにかを残していったと思います。私にも残していってくれたのと同じように。