「説教おやじ」万歳

早いもので健さんが亡くなって1年になります。1年経っても「俳優 高倉 健」がいなくなってしまった喪失感はそう簡単には癒えそうにありません。健さんは私の父親の世代ですから、もはや超高齢者になろうとする世代なのですが、思い出す「高倉健」はいつも「昭和残侠伝 吠えよ唐獅子」の中の花田秀次郎、若かりし頃の健さんです。実生活でもその秀次郎そのままを生きた健さんは私の心の中でも永遠に秀次郎のままです。

ところで私は「俳優 高倉 健」ともうひとり、鶴田浩二という俳優も好きです。鶴田浩二も健さんとともに東映黄金時代の任侠映画によく出演していました。しかし、任侠映画の人気に陰りが出始めると、映画だけではなくTVドラマにも出演して活躍の場を広げました。それまではずっとスクリーンの中の俳優さんだったので、TVに出てきた鶴田浩二にちょっと違和感を感じていました。しかし、そこは大物俳優。優れた作品を選んで出演していたせいか、鶴田浩二の魅力は決して色あせることはありませんでした。

その鶴田浩二が出演したドラマの中でも、私はNHKで放映された「男たちの旅路シリーズ」と「シャツの店」が好きです。このドラマの中で鶴田浩二はいずれも頑なに自分の価値観を貫く戦中世代を演じていました。戦後、価値観が一変しまったかのような社会にあえて逆らって生きる頑固なオヤジが鶴田浩二の役どころです。戦争を生き残った戦中派には理解しがたい現代の若者に眉をひそめながら、「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばからない中年とでもいいましょうか。当時のその「若い奴」のひとりが私なのですが、そんな「頑固な説教おやじ」のような吉岡司令補に惹かれていました。高倉健も鶴田浩二もいわゆる寡黙な「男のなかの男」って感じの役が多いのですが、健さんが演じる花田秀次郎はどちらかというと背中でものをいうタイプ。鶴田浩二演じる吉岡司令補は「俺は甘っちょろい若い奴らが大嫌いなんだ」と明確に自分を主張します。若者に厳しい分、自分にも厳しい。今のおやじ達にはいないタイプですよねぇ。

一方の「シャツの店」は、下町の頑固なシャツ職人の「親方」が突然奥さんに家出されるところから物語がはじまります。はじめは「あいつが許せねぇ」と言っていた親方も、一人息子の思いもよらない離反を通じて自分を振り返り、夫婦を振り返るというもの。このドラマのところどころに印象的なセリフがあります。今でも印象的なのは、お見合いがうまくいかず「独身を貫いてシャツ職人を極める」と言いだした弟子にしみじみと語り掛けるときのセリフ。「そりゃとんだ了見違いだ。ひとりじゃなにをやったってうれしいことがあるか。客がついた、シャツの評判がいい。ひとつひとつ喜びを分かち合うことができる」。自分に従順だと思っていた妻や息子に家出され、ひとりの生活を強いられてはじめて家族の意味を知ります。そして弟子には「いいか。見合いをやめるな」とまでいうのです。当時、独身だった私の胸にもグッとくるものがありました。この頑固な親方の説教も、吉岡司令補とはまた違った魅力があって私は大好きです。

これらのふたつのドラマは、今でもDVDで見直すことがあります。ふたつとも山田太一が脚本を書いているのですが、鶴田浩二の魅力をひきだすセリフにあふれています。そして、今もそのセリフは輝きを失っていないと思います。是非、皆さんも機会があればこれらのドラマをご覧になってみてください。

 

あなたの知らない世界

私が子どものころ、夏になるとテレビで「あなたの知らない世界」と題した番組がよく放送されていました。心霊スポットや怪奇現象を紹介する番組でした。夏の風物詩みたいなものですが、私は怖いもの見たさで必ずチャンネルをあわせていました。その後、大人になるにつれその手の番組にはだんだん興味を持たなくなっていきましたが、一方で不思議な体験を何度かするようになりました。

勤務医をしていたとき、「俺には霊が見える」と公言する先輩医師がいました。「病院には霊がうろつく場所が決まっていて、あそこにはこんな霊がいるんだ」といつも得意そうに話していました。その先生によれば、「霊が見えるかどうかは、その人間がもっている霊的パワーの強さが影響する。そのパワーが強い人間に霊は寄ってくる」のだそうです。人が集まるとその先輩は必ず自分の不思議体験を話してくれましたが、多くの同僚は冷ややかな目でその話しを聞いていました。

私自身は医学部に入るころから、不思議な体験をするようになっていました。一番強烈な体験は解剖実習の初日に起こりました。緊張のせいか、要領を得なかった実習の初日は夕方遅くまでずれ込み、疲れてアパートに帰ってきた私はいつもより早めに布団に入りました。肉体的にも精神的にも疲れていたのであっという間に寝てしまったのでした。ところが、何時ごろかふと目が覚めてしまいました。そのとき、あたまの中はすっきりと覚醒していましたが、目を開けることはできるものの手足はまったく動きません。瞬間的に私は「金縛りだ」と思いました。

金縛りなんてそれまで経験したことがありませんでした。そのときははっきり覚醒していて、恐怖心というよりも、なんだか新鮮な気持ちがしました。「これが金縛りかぁ」なんてちょっぴり感動するような気持ちとでもいいましょうか。しかし、そんな甘っちょろい気持ちはすぐに吹っ飛んでしまいました。なぜなら、私の枕元に置いてあった小さな冷蔵庫の脇に、白い着物を着た老人がこちらに背を向けて正座していたからです。私はド近眼なので、眼鏡をかけなければ布団の中からははっきりは見えないのですが、白い着物の老人は確かにそこにいました。

なにせ体が動かないものですから逃げようにも逃げることもできず、声を出そうにも出せない状態でした。そこで私はとっさに目を閉じて念仏を唱えることにしました。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心の中で繰り返してみました。ところが、念仏をなんども唱えてもその老人は姿を消すことはありません。身じろぎひとつせず後ろを向いてじっと座っているのです。ところが、うっかり「この後ろ姿の老人が私の方に振り返ったら」などと想像してしまいました。すると、なんとなくその老人が振り向きそうに思えてきて、私は恐怖のどん底へ突き落されてしまいました。私はただその恐怖に耐え、目を固く閉じて何度も念仏を唱えることしかできませんでした。そのうち私はいつの間にか眠ってしまいました。

翌日、友人にこのことを話すと、友人はゲラゲラ笑いながら私の話しを聞いていましたが、ふと真顔になってこう言いました。「それ、この解剖体の霊かも?」。そういわれてみると確かに今解剖をしている解剖体と年格好が同じです。私たちは目を丸くしてお互いの顔を見合わせました。解剖実習は自ら献体を申し出られた篤志家のみなさんのご厚意によるものです。当然のことながら、実習期間中、毎日合掌することになっていました。この一件があってからというもの、私はそれまで以上に熱心に手を合わせ、解剖体に心から感謝の気持ちを捧げながら実習を続けました。以後、あの老人が再び姿を現すことはありませんでした。

強烈な体験がもうひとつあります。それは勤務医をしていたころのお話しです。病院での仕事はまず入院患者の朝の回診から始まります。そして、検査の追加をオーダーしたら外来に行って診療をします。外来ではたくさんの患者を診なければならず、午前中の診療が午後遅い時間までずれ込むことも少なくありませんでした。その日もいつものように長い外来を終え、医局で簡単な昼食を済ませて病棟に向かいました。医局を出て、エレベータに乗り込み、担当している階のボタンを押して壁に寄りかかって目を閉じるともう病棟に到着です。

エレベータの扉の向こうからナースコールの音やモニター(重症患者の心臓の動きを監視する装置)の音、あわただしく人が行きかう音が聴こえてきます。当時、私が担当していた病棟にはさまざまな患者が入院していました。病気の種類も重さもさまざまです。ですから、いつもどこかで患者の容態が急変し、せわしくスタッフが動き回っていました。ほどなくして扉が開くとナースステーションの奥にある処置室を頻繁に人が出入りしていました。容態が急変した患者でもいるのかな、と思った瞬間、誰かとぶつかりそうになりました。

「すみません」。そう言ってぶつかりそうになったその相手を見ると、私が担当する患者と同室の若い女性患者でした。血液疾患の治療のため入院していたのですが、骨髄移植後の経過が良くなく、いつも深々と帽子をかぶり、マスクをしてベットに横になっていました。今日は調子がいいのか、いつもの帽子とマスク姿でどこか売店にでも行くようでした。彼女とは直接話しをしたことはありませんでしたが、私が「こんにちは」と声をかけて道をあけると、彼女は軽く会釈をしてエレベータに乗り込んでいきました。

私はナースステーションの奥のあわただしさが気になり、そちらの方に歩いて行きました。処置室の中をのぞいた私は「急変ですか?」と尋ねました。処置室では救命措置がおこなわれているようで、医師が心臓マッサージを続けており、狭い処置室は緊張感が漂っていました。私が加わったところで邪魔になるだけのようにも思えましたが、「なにかお手伝いしましょうか?」と患者に近づこうとした瞬間、私は愕然としました。なんと、その救命措置を受けている患者はついさっきエレベータの前ですれ違ったあの患者だったのです。

「○○さんとはさっきエレベータの前ですれ違ったばかりですよっ!」。救命処置中にもかかわらず思わず私はそう叫んでしまいました。みんなはびっくりしたようにこちらを見ました。それから私も加わって救命処置が続けられましたが、結局彼女を助けることはできませんでした。その後、しばらくはさっきのエレベータ前での風景が私のあたまから離れませんでした。そのときの彼女の表情はうかがい知ることはできませんでしたが、それでも苦しい病気から解放され、天国に旅立って行ったのかもしれません。

まだまだ不思議な体験はあります。なかには私の勘違いや思い込みもあるんでしょうけど。でも、やはり科学では証明できない「私たちの知らない世界」があると思います。私がはじめて当直に行った病院では、いつになく急変が多くなるそうです(ちなみに私の医療行為が原因ではありませんので誤解なきよう)。我々はこういう状態を「荒れる」というのですが、そうした現象は既出の先輩医師的にいえば、「おまえの霊的エネルギーが強いから」ということになるのかもしれません。そういえば、今でもうちの医院で患者を診ていると時々・・・。もうこのくらいでやめておきます。

良きサマリア人

みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。

とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。

つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。

以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。

かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。

ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。

「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。

「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。

ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。

あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。

倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。

だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。

 

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。

北海道のこと

今日は久しぶりの晴天です。今までどんよりとした景色が続いていただけに爽やかな気分で過ごすことができました。ただ、晴れ渡った分だけ気温が上昇しましたから、暑さが苦手な私としては涼しい北海道の気候を思いださずにはいられません。

北海道の夏は爽やかです。こちらでいう真夏日はお盆前後の2週間ほどしかありませんし、湿度が低いので日陰に行けば結構涼めます。私は札幌の中央区というど真ん中のマンションに住んでいました。11階でもありましたので、夏は東西の窓をあければ心地よい風が入ってきてエアコンいらず。夜、うっかり窓を開けたまま寝てしまえば風邪をひきそうなときさえあります。おまけに人を刺す蚊も入ってきませんでしたから、ほんとうに申し分のない夏を過ごすことができました。

北海道の夏を涼しく感じるもうひとつの要因は至るところに咲いている花の美しさにあると思います。北海道の春は、梅と桜、タンポポが一斉に咲きだして始まります。とくに桜は、うすピンクの花びらと若葉が同時に我々の目を楽しませてくれます。道路脇に積み上げられた雪がすっかり溶けると、まさに百花繚乱の春を迎えるのです。しかも、北海道の春はまだ昼夜の気温差が大きいため、花の色はとても鮮やかです。そんな花々がまるで春の訪れを讃えるかのように路地のいたるところに植えられています。

札幌では5月に桜が満開になるのでこのころにお花見があります。お花見とはいえ、まだ冬のような寒さは続いています。とくにGWのころはまだ開花したばかりです。それでなくても寒いのに桜がちらほらしかほころびていない寒々とした光景の中での花見となります。北大の構内には中央ローンというちょっとした広場があり、北大生は生協でコンロとジンギスカン用の独特の形をした鉄板を借り、ラム肉を焼きながらお花見をします。お酒が入るので多少寒くても、あるいは桜が咲いていなくても関係ありません。

北海道には梅雨はないといわれますが、正確には「蝦夷梅雨」というものがあります。6月のライラックが咲くころ、大雨にこそなりませんが天候が悪くて肌寒い日が続きます。これが「蝦夷梅雨」です。このころに「よさこいソーラン祭り」が開催されます。この祭りは私が北大にいたころにはじまりました。高知県のよさこい祭りで使われる鳴子を手に北海道の民謡ソーラン節にあわせて踊るのです。北大の学生が企画したものからはじまったといわれていますが、今や札幌の代表的なお祭りになりました。

夏は北海道の魅力を存分に楽しめる季節です。私のお勧めは7月下旬に行く富良野と美瑛です。札幌にいたころ、家内と早起きをして車で富良野によくでかけました。午前中の早い時間帯に富田ファームを訪ね、ラベンダーアイスを頬張りながらラベンダー畑を歩く。そして、色とりどりの花が一面に咲くフラワーランドに立ち寄り、丘陵地帯を車でぬけてお昼過ぎには札幌に戻る。帰りには対向車線には延々と渋滞の車列が続いています。札幌に帰るとなんか休日の時間を有効に使えた気持ちになったものです。

私が一番好きな北海道の季節は秋です。9月も下旬ともなればだいぶ涼しくなり、大雪山系では紅葉がはじまります。そして、10月になると街に紅葉がおりてきます。紅葉とはいえ、北海道の紅葉は赤くありません。赤く発色するモミジはほんの1週間ほどで葉を落としてしまうからです。ほとんどの紅葉は黄色と深緑。しかし、それでも色鮮やかで実にみごとです。私のお勧めは北大の13条門から構内に入ったところの銀杏並木と札幌郊外にある豊平峡ダムです。とくに豊平峡の紅葉を初めて見た父は「極楽黄土とはこういう感じなんだろうなぁ」と感心していました。

北海道の秋の紺碧の空はとても美しい。ひんやりと頬をなでる秋風を感じながら見上げる抜けるような紺碧の空はまさに心洗われるようです。このころになると、各家庭ではストーブを炊き始めます。洗面道具をカタカタいわせながらの銭湯の帰りしな、ストーブの煙突から漂ってくる香りに「秋が来たんだなぁ」ってほっこりした気分になったことを思いだします。6畳一間のアパートに帰ってストーブをつけ、コタツに入ってのんびりすると、もう「ちょ~しあわせ~」って感じでした。

11月も下旬になると結構頻繁に雪が降ります。ただ、まだ根雪にはなりません。根雪になるのは12月後半です。ですから、クリスマスの頃にはすっかり雪景色。まさに「ホワイトクリスマス」。学生時代に私はそのクリスマスの日に讃美歌を聴きに教会へ出かけたことがありました(ちなみに私はクリスチャンではありません)。冬ともなれば夕方とはいえ外は真っ暗。しかも氷点下。吐く息はすっかり白くなっています。ひとりで訪れた私を快く歓迎してくれた教会からの帰り道、雪あかりの中で踏みしめる雪の「キュッ、キュッ」という音を聴きながら、ふとさっき教会で流れていた「神の御子は」を口づさんでいました。

なんかとっても幸せな気持ちになって、ちょっと立ち止まって深呼吸をしてみました。するとどうでしょう。雪の香りがするじゃありませんか。乾いた香り。うまく表現ができないんですけど。見上げるともう雪雲はすっかり消えて、キラキラと星が輝いていてとてもきれい。そこは住宅街でしたが、あたりは一面の雪。ほとんど人影もありません。そのときになぜかとても幸わせな気持ちになりました。「北海道に来てよかったなぁ」って。この話しを人にすると、そこには誰か「髪の長い人」が寄り添っていたのでは?と言われるのですが、残念でした。冬の夜道でひとり感傷にひたる男って不気味でしょうけど。

私は北海道が大好きです。仕事を引退したらまた札幌に住みたいと思うほどです。気候が自分にあっているんでしょうね。北海道大学で学べたことも自分にとってはなにものにも代えがたいほど大切な思い出です。生活の場としても素晴らしいところですし、休みの日に遊びに行くところにも事欠きません。のんびりと自分のペースで大学生活を送れたという意味で北海道は自分に一番合っていたんだと思います。北海道は第二のふるさと。札幌駅周辺も北大構内も随分と変わってしまいましたが、私の心の中の北海道はいつまでも私に勇気と力を与えてくれます。

わが心の故郷「逓信病院」

医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。

その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。

当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。

この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。

研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。

東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。

ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。

そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。

ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。

ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)

私の好きな詩

皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。

流 星

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

井上靖

この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。

実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。

白馬の女(ひと)

ひとことで言うと、私は正義感が強い方だと思います。これは私の父親が警察官だったことが影響しているのかも知れませんが、私の長男の性格を見ていると同じく「正義感が強い(強すぎる?)」と感じることがあります。もしかするとこれは環境によって形成されたものではなく、遺伝的なものなのかもしれません。しかし、「正義感が強い」のも善し悪しで、「正義感が強すぎる」とときとして「まわりの空気を読めない」ということになり周囲の人たちに迷惑をかけます。

今でも思い出すのは、研修先の病院の採用試験を受けに行った日のこと。受験を終えて札幌に帰ろうと電車に乗っているとき、吊革につかまっていた私のななめ前に若い女性が座っていました。当初はそんなことにも気が付かなかったのですが、ふと私は電車の中の雰囲気が微妙に変化するのを感じました。というのも隣の車両から大声を出しながら移動してくる酔っ払いがいたからです。車内の人たちは一様にそんなことに気付いていないかのように装っていますが、みんなの意識がその男に集中しているのがよくわかりました。

はじめは私も同じように知らぬふりをしていたのですが、こういうときに限ってその酔っ払いは私の斜め前に座る女性を見るやいなや絡み始めました。両隣には男性が座っていましたが見て見ぬふりをしています。私は一瞬戸惑いましたが、どうしようかと思案するまでもなくその酔っ払いに声をかけていました。「私の連れなのでやめてもらえませんか」。その酔っ払いは不敵な笑みを浮かべながら私の方をにらんで言いました。「なにを。おまえの女って証拠あんのかよ」。そのあとどう受け答えしたのかよく覚えていないのですが、結局、その男に「次の駅で降りろ」と言われるままに電車を降りました。

駅で降りると酔っ払いは私の襟をつかんですごみました。私の頭の中は意外と冷静だったのですが、もしこの男が私に手を出してきたときにどう対処するかを考えていました。こぶしがこっちからきたらこうかわして、けりが来そうだったらこう防いで・・・。私がなされるままにしていると男はますます興奮してきて、今にも手をあげそうな勢いです。いよいよ取っ組み合いをしなければならないのか。そう思ったとき、近くで女性の声がしました。「あんた、なにやってるのよ」。そう言いながら、もみ合っている私たちのそばにひとりの中年の女性が近寄ってきました。酔っ払いは少し驚いたように振り返りました。

「昼間っから酔っぱらってるんじゃないよ。私は錦糸町で30年ホステスをやってるけど、あんたみたいなみっともない男は見たことないよ」。すごい剣幕で男をまくし立てています。あっけにとられたようにその男はつかんでいた私の襟を離すとなにやら捨て台詞を残して消えてしまいました。私は女性にお礼をいいました。「助けていただいてありがとうございました」。気風(きっぷ)のよいその女性は「あんな奴、まともに相手をしない方がいいよ。どうやら女の子を助けようとしたらしいけど、その子、どっか行っちゃったね」と私に微笑むと風のように去っていきました。

私はその中年の女性の後ろ姿を見送りながらとても爽やかな気持ちになりました。まるで白馬に乗った王子さま(王女さま)に出会ったような気分でした。しかも、私が女の子を助けようとしたことを知っていたということは、おそらく電車の中での私たちのやり取りを見ていたのかもしれません。電車から引きづりおろされるように連れていかれる私が気になって一緒に降りてくれたんだと思います。だって、錦糸町はそのまま電車に乗ってたった数駅のところなのですから。そのときはそんなことも気が付かなかったので、お礼をひとこと言うぐらいのことしかできませんでした。それにしても実にかっこいい女性でした。

いちじが万事、こんな風によく考えもせず行動してしまうのでしばしば「火傷」をします。それも私の「正義感」のなせる業なんですが、目の前で起こっている緊急事態に誰もがだんまりを決めているとどうしても手が出てしまう(口を出してしまう)のです。うちの息子もまるでそうで、誰も引き受けない役回りがあると自分から手をあげてしまう。でも実はその役回りをやりたいわけでもなく、彼にその役割を満足に果たせるわけもない、なんてことがよくあります。そんなとき、「ああ俺に似ちまったなぁ」って思うんです。ちょっぴりうれしいですけど。

私のこうした性格が災いして、上司と衝突したりして職場をやめることになったことも一度や二度ではありません。このときの顛末には小説になるような出来事があったりして、まとめれば一冊の小説が書けるくらいです。しかも、ずいぶんと面白いものになるだろうと思います。きっとそんなことをしたら、以前の職場の上司たちはみんな真っ青になることばかりですけど。でも、安心してください。残念ながら私には文才がないので小説なんて書けませんから。せめてこのブログで紹介する程度ですよ(当事者しか個人が特定できないようにしますから大丈夫です)。

医者になる

よく、「なぜ医者になったのですのですか?」と聞かれることがあります。直接的には小学校に入学するときに親戚の人からお祝いにもらった「野口英世」の伝記がきっかけです。当時はまだ字も満足に読めませんでしたから、「伝記を読んだ」というよりも「本の挿絵を見た」というべきかもしれません。貧しさの中で重いやけどを負うという恵まれない境遇から世界的な医学者にまで登りつめた偉人伝は小学生の私に強烈な印象をあたえたのでしょう。

ここまではよくある話しです。でも、私の場合、ここからが他の人とは違います。「野口英世」が「医者になりたい」と思うきっかけになったとはいえ、それから猛勉強をして医者になったというわけではないからです。小学校のころは無気力な子供でした。なんとなく学校には通っていましたが、授業では先生の話しもろくすぽ聞いていませんでしたし、板書をノートすることもない。おまけに与えられた宿題すらやろうとしないような、勉強にはまるで縁のない子供だったのです。

世間では「ろくに勉強もしなかったのにテストの成績はよかった」なんて自慢話しもよく耳にしますが、現実はそんなに甘くはありません。勉強もせず、宿題すらやってこないのにテストの点数がいいはずがありません。いつも低空飛行の結果を家に持って帰ることはさすがの私も気が重いことでしたが、さりとて点数の悪さに奮起するなんてこともありませんでした。両親も「しょうがないねぇ」とあきれた表情でテスト用紙を見ていましたが、怒るでもなく、励ますでもなく、なかば諦めていたのかも知れません。

今でも覚えているのは、小学校の卒業式のこと。同級生に超有名私立中学(K成中学というところ)に合格した子がいました。彼が卒業式の当日に何をしていたと思いますか?なんと中学で使う数学の教科書を予習していたのです。彼が熱心に勉強している教科書をのぞいて私は驚きました。だって「ゼロより小さな数」があったからです。マイナスの概念がほとんどなかった当時の私にとって、そんな数を勉強している彼は雲の上の人。さすがK成中学は違うなぁと子供ながらに感心したものです。

劣等生とまではいかなかったにしろ、いつも低空飛行していた私がその後医学部に入学し、今こうして医者をしているのは不思議な気がします。私以上に当時の私を知っている人はびっくりしているのではないでしょうか(私の親でさえもそうですから)。医学部時代の私の同級生たちは皆小学校のころから常に優等生で、私のような小学校時代を過ごした人はまずいないと思います。彼らのほとんどは名門高校のトップクラスの生徒たちですし、私にとっては多少なりとも別世界の人たちなのでしょう。

ただ、医学部に入ってきた連中が全員「医者になりたくて、あるいは医学を学びたくて入学してきた」とは限りません。「成績がよかったので医学部を受験した」と思われる人が少なからずいます。世の中の風潮として「テストの成績がいい」と「医学部をめざす」という傾向にあります。「テストの成績がいい」ということは必ずしも「地あたまがいい(天才的頭脳を持っている)」ということではありませんが、逆に「地あたまがいい人」はおおむね「テストの成績がいい」という傾向はあります。

いつだったか、数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとってきた東大や京大の医学生がテレビ番組で数学や物理の難問に挑戦していました。そうした様子を見て、私はせっかくの頭脳を持ちながらなんで医学部などに入ってしまったんだろうと思ってしまいます。医学部であれば中の上以上の学力があれば十分。彼らがそのまま数学や理論物理学などの科学の道を進んでくれれば日本にとってどれだけ科学レベルを引き上げることになったことか。せっかくの頭脳を無駄にしてしまうようなもの。もったいないことです。

一方、最近、文部科学省の方針で「学力重視だった大学入試を人物本位」にする方針が発表されました。これは日本の科学の根幹をゆるがすいち大事です。人物を評価しても学問にふさわしいかどうかがを測れるわけではないのですから。そもそも人物をどう評価するのでしょう。よく、「医者は人間を相手にする仕事。だから医学部の入試こそ人間性を重視した合否判定を」なんてことがいわれます。テストの成績がいい学生は人間性が劣っているんでしょうか。人間性なんてものは学力とはなんの関係もないのです。

話しは戻りますが、テストの成績がいいということは「地あたまがいい」ということではありません。でも、それでいいのです。なぜなら「テストの成績がいい」ということは、少なくとも学習意欲はある程度期待できますから。医者にとって重要なのは学習意欲です。日進月歩の医学についていき、最新の医学的知識をもとに診療することはとても大切だからです。そもそも学習意欲がなければ医学部を卒業することも、国家試験に合格することもできないでしょうし。

医学部では基礎教養科目からはじまって、解剖学や病理学、薬理学などの基礎医学科目。そして、内科学や外科学、小児科学や産婦人科学、眼科や耳鼻科、皮膚科にいたるすべての診療科目を学びます。医学部の6年間に学ぶ学科は50種類にもおよぶのです。これらのすべての科目の試験に合格し、卒業試験をクリアしてようやく医師国家試験を受験します。学習意欲がなければとても「医師免許」にたどりつけないのです。私は今でもときどき「国家試験が目の前にせまっているのにまったく勉強しておらずあせりまくる」という夢を見るほどのプレッシャーの連続でした。

医者という仕事には向き・不向きがあります。決して楽しいばかりの仕事ではありませんし、創造的な仕事ができるともかぎりません。なにより、人の生老病死を見守る仕事ですから、気持ちを切り替えられる人間でなければとても辛い(とくに内科は)。人間の人生は長いようで短いのですから、この限られた人生をどう生きるかはとても重要です。その人が幸せなのは、人生を通して自己実現できたと実感できるときだと思います。その意味で、成績だけで選んでしまった人にとって医師という仕事ははたして人生を自己実現する仕事になるのでしょうか。

ひるがえって私にとって医師という仕事はどうだったでしょうか。おこがましいようですが、私自身は天職だったのではないかと思っています。私は組織の一員としてその歯車として働くということが苦手です。いつかこのブログで書く機会もあると思いますが、これまでいろいろな上司とぶつかってきましたし、組織の論理というものの理不尽さに歯ぎしりしてきました。その結果、大学という組織を去り、病院を離れることにつながりました。おそらく普通のサラリーマンとして働いていたらものすごいストレスを抱えて文句ばかりいいながら仕事をしていたんだろうと思います。

小学生の頃、およそ医者になれるはずもなかった自分が、人生を変えるような人との出会いがあり、運命的とも思える偶然が重なって医師になった。もちろん努力はしました。他のひとよりもスタートは遅かったですけど。中3になって突如として勉強に対する姿勢がかわりました。その辺のことはまた機会があればお話ししますが、結局のところ、その後、紆余曲折がありながらも子供のころの夢を実現できた。まさに神の見えざる手が導いてくれた、と言ってもいいような経過だったと思います。そう考えると、医師という職業は自分にとっては天職だと思うのです。

医師という職業は免許をとって完成するものではありません。まさしく「医師になっていく」ものであり終点はないのです。教科書に学び、症例にまなび、患者に学びながらなっていく。誰もが見逃していた病気を見つけ、未然に大きな病気を防いだり、病に悩む人の支えのひとつになる。そうしたことすべてによって「医師になっていく」んだと思います。まだまだ自分にはその修業が足りません。まだ、学びの徒なのだということなのですが、くれぐれも小学生の時のような無気力でぼんやりとした学徒にもどらぬよう気合をいれていきたいと思います。この職業を「天職」とまで言い切ったのですから。

※「内科を選んだ理由」もご覧ください。

心に残る患者(2)

長いこと医者をしていると心に残る患者はたくさんいます。目を閉じれば、そうした人達が次々とまぶたに浮かんできます。とくに印象深い患者は研修医時代に出会った患者が多いです。研修医はまだ患者の立場と医療者の立場の両者にまたがっているようなものですから、医療の矛盾に反発を感じたり、医療の難しさに苦悩したりと、一人前の医者になる通過点としていろんな体験と直面するからでしょう。

私が研修した病院は靖国神社にも近く、お休みのときは神楽坂にお昼を食べに行ったり、神田の書店街を回ったり、生活環境としては申し分のない場所にありました。レジデントハウスと呼ばれる研修医の宿舎に住み込みながらの研修はとても忙しかったですが、指導を受ける先生たちは人間性に富み、尊敬できる先生方ばかりでした。病棟の看護婦さんも新人から中堅までバランスよくそろっていましたし、放射線科や臨床検査の技師さんや薬剤部の薬剤師さんにいたるまでが素晴らしい仲間であり、研修の2年間で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。

私はある指導医に「医者としてのスタンスはこの研修医のときに決まる」と言われたことがあります。今振り返るとほんとうにその通りだと思います。厳しい指導医の元で胃に穴があくようなときを過ごしたことも、朝早くから深夜遅くまでくたくたになりながら病棟業務をこなしたことも、素晴らしい病院で素敵な人たち囲まれて修練したことが今の自分に確かにつながっています。もし、もっと楽で、ゆるゆるな研修をしていたら、自分は今ごろもっといい加減な医者になっていたのではないかと思うほどです。

●医師としてのあり方を示してくれたM君
そんな研修医時代を終え、それなりに医者らしくなったころにであった患者のことを今回はお話ししたいと思います。当時、大学病院の呼吸器内科のスタッフとして働いていた私は、他院から「レントゲン写真上の肺炎の影が改善しない」と紹介されてきた高校1年生のM君を担当しました。M君はお父さん、お母さんご自慢の高校生でした。中学時代にスポーツで素晴らしい成績を収めていたばかりか、ある有名大学付属高校に合格した秀才でもありました。しかし、その高校に入学する前に肺炎症状が出現して他院に入院。合格した高校の入学式にも出られないまま入院生活を続けていたのでした。

もの静かな彼は口数は少なく、自分がおかれた境遇を愚痴ったり、不安をもらすことはありませんでした。一方のご両親は二人とも今の彼がおかれている状況を冷静に受け止めようとしていましたが、やはり転院するという事態に至ったことに多少動揺していました。M君は入院して間もなくいろいろな検査を受けました。中には気管支鏡検査という、多少苦痛をともなう検査にもじっと耐えていました。しかし、ほどなく彼が15歳にして肺がんという不治の病気に侵されており、しかも思った以上に進行している状態であることがわかりました。

ご両親にそうした事情を説明しなければならないのはとても辛いことでした。二人はM君が「治りのわるい肺炎」と思って転院してきたのです。しかもすでに手術できる状況ではなく、抗がん剤による治療もほとんど効果は期待できませんでした。ご両親の落胆ぶりはたいへんなものでした。若年者のがんは進行が早いことが多く、治療によって進行を抑えることすら難しいのです。私はそうしたことを淡々と説明しました。慰めの言葉など見つかるはずもありません。I君の前では気丈にふるまうお母さんや優しい笑顔で接するお父さんの姿がいたたまれませんでした。

その後、このまま何もしないで緩和療法とするか、それとも治療に反応することを期待して抗がん剤を投与するかご両親と相談しました。ただ、なにもしなくても早晩辛い状況になることが予想されるため、抗がん剤を使ってみることにご両親は希望をたくすことにしました。幸い、嘔気の副作用は短期間で済みましたが、彼の髪の毛はすべて抜け落ち、間もなく胸水が溜まる状況になってしましました。放射線治療を併用したりしましたが、進行はとめることも遅くすることもできない状況であり、もはや我々の心のなかは手詰まり感が支配するようになってきました。

彼は素直に治療を受け、検査を受けていました。自分の病気に疑問を持つこともなく、というより疑問をもっているそぶりを私たちに一切見せませんでした。私にはそのことがかえって不憫でなりませんでした。前医に入院して早4か月が過ぎようとしています。合格した学校に通うことはおろか、制服に腕を通すことすらできないでいます。少なくとも彼から不安や恐怖心を遠ざけるために自分に何ができるだろうかと考える毎日でした。そして、できるかぎり彼の病室に顔を出して声をかけるようにしていました。努めて明るく、淡々と。ときには当時上映されていた映画のビデオを貸してあげたり。しかし、それでも彼の孤独をいやすことにはなっていないことに私は気が付いていました。

楽観できない状況の中にあって、それでも胸水のコントロールがつくようになりました。それを機会に帰せるうちに自宅に帰してあげようと考えました。でも、医事課からは、たまに外泊するのはいいが、それなりの期間を自宅で過ごさせるためには一旦退院させなければならない、とのことでした。しかし、いつ彼の様態が悪化するかもわからないのに退院など考えられません。そこで、なんとか外泊ができるようにし、その間、往診に行かせてもらえないかと上司に頼んでみました。しかし、病棟の婦長らからは「そういうことはできない」とつれない返事が戻ってきたのでした。

それでも、私はあきらめることができませんでした。そこで私は彼に外泊として認められるぎりぎりの期間を自宅で過ごさせ、病院と上司に隠れて彼の自宅を往診することにしました(もう20年以上前の話しですから「時効」でお願いします)。私は夜勤明けの看護婦さんからボランティアを募り、お昼休みに彼女らとそっと病院を抜け出して彼の自宅に往診に行きました。今思えば、大変な職務違反ですし、ついてきてもらった夜勤明けの看護婦さんにも疲れているのにずいぶんと無理なお願いをしたもんだと思います。でも、若かった私はなんの躊躇もなくそんなことをやっていました。

自宅での彼の表情は、病院にいたときとは違いとてもにこやかでした。往診とはいっても聴診をして、血圧や経皮的酸素飽和度を測り、ちょっと雑談をかわす程度。でも、当時の私は、治療らしい治療をしてあげられない罪滅ぼしがちょっとだけできているように感じました。お母さんもなんとなくうれしそうにしており、往診に伺う私たちを心待ちにしてくれていました。そんな穏やかなM君とお母さんの様子を見ながら、看護婦さんを連れて病院を抜け出すことに後ろめたさはまったく感じていませんでした。

しかし、そんな穏やかな状況はそう長くは続きませんでした。外泊をなんどか繰り返すうちに彼の肺がんはさらに進行し、みるみるうちに彼は衰弱していきました。病室のベットで横たわっている彼は苦しそうに酸素マスクをつけています。あのときのにこやかな表情はもうありません。ご両親も心配そうに彼を見守っていましたが、私はその二人に「なんとかならないか」と言われるのがとても切なかった。なにもしてあげられなかったからです。苦しまないようにするには鎮静剤なり麻薬なりを投与しなければならず、そうすると呼吸も弱くなってしまうかもしれない。私は、彼の残り少ない命に決定的なくさびを打ち込んでしまうことを恐れたのです。

苦しみに顔をしかめて耐えている彼を見るのが私は辛かった。その彼の手を握り、涙をこらえているご両親を見るのも辛かった。いよいよ臨終が近づき、彼の呼吸が弱くなってくると、ご両親は必死に彼の体をさすりました。「もっと息を吸って。ほら、もう一回、がんばって」。そう呼びかけるお母さんを、なにもできずに私は後ろから見つめていました。そして、いたたまれなくなった私は心のなかでつぶやきました。「もう君はずいぶん頑張ったんだから、もう頑張らなくていいんだ」「神さま、どうかこの子を安らかに天にお召しください」と。彼はほどなくして天国に旅立っていきました。

病院から自宅に帰る彼の亡骸には、一度も腕を通すことのなかった学生服がかけられていました。私は穏やかな表情に戻った彼に手を合わせながら不覚にも泣いてしまいました。彼のお母さんや病棟の看護婦さんを前にしながら私は涙をこらえることができなかったのです。その涙は、自宅で穏やかに過ごしていた彼のことを思いだして流した涙であり、また、なにもしてあげられなかったことへの悔しさの涙でもありました。のちに、お母さんからは「先生から息子の病気の告知を受けた時、本当は淡々としたその様子に『先生は冷たい人だ』って思ったんです。でも、今はそれでよかったんだと思います。あのとき同情されていたら、自分の気持ちを今まで支え切れなかったでしょうから」と言われました。この言葉が今も忘れることができません。

私は、荒井由実の「ひこうき雲」という歌を聴くといつもM君のことを思いだします。そして、涙がこみあげてきます。この歌の歌詞のように、あまりにも短すぎる命でしたが、白い坂道を登って天国に召されたいったM君が天上界ではいつも安らかであることを思いながらこの歌を聴きます。彼を見送ったご両親はさぞかしお辛かったことでしょう。でも、彼はきっとご両親になにかを残していったと思います。私にも残していってくれたのと同じように。

※「心に残る患者(3)」もお読みください。