新型コロナの総括(2)

(1)からつづく

私はこれまで「不容易にPCR検査は増やすな」と繰り返してきました。でもそれは「PCR検査は不要だ」とか、「PCR検査は無意味だ」と言っていたわけではありません。PCR検査は採血結果や胸部CTなどと組み合わせて、感染が疑わしい患者に絞っておこなうべきだと主張していたのです。それは「検査の原則」です。不正確なPCR検査は少なからず疑陽性の人を作り出し、そうした人たちが病院に殺到して医療崩壊をもたらします。検査は、することで得られるメリットと、検査をすることによって生じるデメリットの両方を考えなければなりません。

今は、日によっても異なりますが、感染拡大は落ち着いているといってもいいと思います。PCR検査で陽性となっても、無症状あるいは軽症の人は自宅や宿泊施設で経過観察するようになっています。そして、検査を増やして、仮に多少の偽陽性が出たとしても、その偽陽性者が押しかけて病院を疲弊させ、医療崩壊につながるような心配はなくなりました。ですから、「不安だから検査をしてほしい」というケースであっても、あえて検査することを私は否定しません。もっとも、今は以前にくらべて、不安にかられて「検査してくれ」とパニックになる人などいないかもしれませんが。

先日、コンビニに行きました。カゴを持って店内を歩いていると、なんとなく周囲からの視線を感じました。「なんだろう?」と思いながらレジに並んでいるときにその視線の理由がわかりました。店内の人が皆マスクをつける中、私だけつけ忘れていたのです。店員の女の子が天井からぶらさがっている透明カバーの向こうから片手をのばして釣り銭を投げるようにして渡してきました。その店員はマスクをしていない私を明らかに避けているようでした。店内の客の多くも、おそらく私を見ながら「(マスクをしていないなんて)なんて非常識なんだろう」と思っていたに違いありません。

どのお店も客はマスクを着用することが暗黙の了解になっているようです。店内の人ばかりではなく、学校や病院にくる人も、街を歩く人も、熱発はおろか、自覚症状すらないのにマスクを着用していることが当たり前の風景になってしまいました。しかし、私には少しやりすぎなのではないか、と感じることがあります。なぜなら、今、行なわれている感染対策は、新型コロナに感染した人がその辺にいるかも知れない「有事」におこなうものだからです。一千万人の人が住む東京ですら数十人の陽性者しかおらず、東葛地域に新規の陽性者がほとんど出ていない今、そこまでの対策が必要でしょうか。

もちろん無駄だと言っているのではありません。マスクをしていたい人、マスク着用を他者へのエチケットと考える人はマスクをすればいいのです。私がいいたいのは、「有事」でもないのに、これといった症状があるわけでもない人までもがマスクの着用を強いられるのはどうなのかという点です。世の中では「新しい生活様式を」と呼びかけています。しかし、感染自体が落着いている「準有事」あるいは「平時」には必ずしも合理的とはいえない過剰な対応を、「新しい生活様式」として定着させようという動きには違和感を感じます。感染症の対応は「有事」「準有事」、「平時」で区別すべきです

すでに「有事」でもない今、フェイスシールドをしながら授業をする先生も異常なら、生徒と生徒の距離をとるために半数づつが一日おきに登校するのも異常です。パソコンの画面を見ながら「リモート」で部活の練習をするのも異常なら、交流試合をことごとく中止するのも異常だと思います。症状もないのに毎日、しかも一日に何回も体温を測るのも異常なら、その体温の記録を生徒に義務付け、学校に提出させるのも異常です。こんなことは感染が拡大を続け、そのあたりに感染患者がいるかもしれないときにやる対応です。もっと頭をはたらかせて、本当に必要なことがなにかを考えるべきです。

医療の世界においても、パソコンの画面を見ながら「診察」をし、薬の処方をすることが期間限定で認められています。いわゆる「オンライン診療」です。ある医療雑誌には「医療の未来を先取りする外来の姿」などと手放しで賞賛されました。しかし、これって「診療」でしょうか。医者にすれば患者をどんどんさばくことができ、患者にすれば手軽に薬がもらえる。一見すると両者にとってよさそうな方法ですが、これなら薬局で薬を買うこととかわりません。「ちゃんとした外来」をやっている医者からすれば、このような外来は手抜きとしか思えません。ですから当院ではおこなっていません。

「ちゃんとした外来」をやっていれば、診察に入ってきた表情や様子で通院患者の変化を知ることができます。自宅での血圧と診察室での血圧を比較することによって問題点が明らかになることもできます。聴診をすることによって、今までなかった不整脈や心雑音を見つけることだってできます。患者がつけている血圧手帳を見たり、お薬手帳で他院での薬を確認することで疑問が解決することだってあります。パソコンの画面を通じて簡単な会話を交わすだけの「診察」はそんなことすら省略して、回を重ねるにつれてだんだんといい加減なものになります。それは必然です。

新型コロナが流行したからといってこれまでの生活様式を変える必要などないと思います。これまでの生活様式は長い年月をかけて作られたものです。社会はその様式を前提にできています。感染の拡大が懸念される「有事」と「準有事」には、当然のことながらそれぞれの状況に応じて生活のあり方を変えるにせよ、感染が落着いた「平時」となればまたいつもの生活に戻すべきです。思えば今年の1月に中国で新型コロナの感染が拡大していたときにこそ台湾がおこなったような入国制限などの対策をとるべきだったのに、中国の習近平国家主席の国賓来日をひかえて政治的な判断を優先させてしまいました。

野党も同じように「中国からの入国制限をすれば、日本の観光地は大きな損害を受ける」として積極的な対応には否定的でした(桜を見る会のことばかりでした)。そして、案の定、新型コロナウィルスは我々が懸念したように日本国内に感染は広がっていったのです。その後のドタバタぶりはすでにご承知のとおりです。野党はそれまでの無関心に対する国民の批判をかわすように「PCR検査をもっとやれ。検査を希望する国民全員に検査を」の大合唱でしたし、医療崩壊の危機が叫ばれるようになって政府がとったのはなりふり構わずすべての国民の動きをとめることでした。

国民の多くも同様に危機感が薄かったように思います。渡航注意勧告がなされている中で海外旅行に出国する人。日本に帰国してもPCR検査を拒否する人や、結果がでないうちに要請を無視して帰宅してしまう人。感染拡大がまさに正念場を迎えていたときでさえも、全国民が一丸となって対応するという機運に乏しいように感じました。そして、緊急事態宣言が出るやいなや今度は極端な自粛。「自粛警察」あるいは「マスク警察」という人たちがではじめたのもこの頃からです。そして今度は「新しい生活様式」ですか。やるべきときにやるべきことをやろうぜって言いたくなります。

全国一斉の休校措置もありました。今頃にになってその休校措置が実は無意味だったのではないかといわれていますが、そんなことはあのときにわからなかったのでしょうか。学校に続いてほとんどのお店や会社が休業となって、経済をはじめとする日本の社会機能はほとんど停止状態となりました。昨年の秋に多くの人が反対した消費税増税の影響が明らかになったばかりなのに、今度は新型コロナウィルスのせいで日本の経済が深刻な影響を受けています。この影響が顕在化するのはこれからだと思いますが、経済を支えるはずの経済対策は不充分でとても遅いと感じます。

増税前にはあれほど「リーマンを超える危機があれば消費税増税は中止する」と言っていたのに、そのリーマン級をはるかにこえる経済危機を目の前にした今、消費税減税をしない理由がわかりません。そして、消費税減税よりも即効性があると決められた定額給付金。これは国民が等しくお金を使うことによって景気を下支えするためのものです。その肝心な給付金が遅いのも、せっかく導入したマイナンバーカードがちゃんと機能していないからです。そんな中途半端な仕組みにしたのは、いちぶの政治家が「プライバシーが担保できない」と反対運動を繰り広げたから。政争にあけくれる政治家の先見性のなさがあだとなっています。

「新しい生活様式を」などと悠長なことをいっている場合ではありません。まずは今の日本の経済が奈落の底に落ちていかないように迅速に対応すべきです。そのためにもできるだけこれまでに近い生活を取り戻す必要があります。今後もおそらくは検査で陽性反応となった人が増えたり減ったりしながらダラダラと夏が過ぎ、秋に向かっていくことでしょう。決して「感染者ゼロ」とはならないだろうと思います。これは検査に偽陽性が少なくないことからも明らかです。しかし、だからといって新型コロナウィルス感染の封じ込めが失敗したわけではありませんから心配は無用です。

今、大切なことは新型コロナウィルスに感染したかどうかよりも、肺炎になってしまうかどうか、重症化してしまったかどうかが重要です。医療が崩壊してしまうような混乱が起こらないかぎり、感染したかどうかをことさら心配する必要はありません。これまでの経験をふまえて「どの時点で何をするのか」を考えておくべきです。秋になればきっとまた新型コロナの感染拡大がクローズアップされるでしょう。しかし、来年になれば早い段階でワクチンの接種がはじまり、季節性のインフルエンザと同じような扱いになるのです。それまでに第二波といわれる大規模な感染拡大をいかにおさえるか、です。

今、私は診療中にマスクをしています。しかし、それは必ずしも「感染しないよう、させないよう」にマスクをしているわけではありません。私がマスクをしないことによって患者に不快な思いをさせないためです。つまり、エチケットとしてマスクをしているのです。とはいえ、今は4月の危機に直面した時とはまったく様相が違います。ですから、私自身は巷(ちまた)の感染状況を見ながら少しづついつもの診療風景に戻していくつもりです。そして、日常の生活もできるだけ以前の状態を取り戻したいと思っています。それは日本が再び輝きを取り戻すためでもあるからです。

がんばれ、日本!

【追伸】 日本経済のためにも定額給付金は必ず使いましょう

新型コロナの総括(1)

緊急事態宣言が解除されて一週間が過ぎました。今のところ、散発的なクラスターによる感染者は発生していますが、「第二波」というほどの再流行ではなさそうです。これまでの自粛によって社会のさまざまなところで影響がでました。緊急事態宣言が解除されたからといってそれらの影響がそう簡単に払拭されるわけではありません。以前の生活に一気に戻すのではなく、新型コロナの感染に注意を払いながら、慎重に、そして着実にこれまでの日常を取り戻すことが必要だと思います。

2020年が明けてからのこの半年、個人のレベルのみならず、日本社会というレベルでも、あるいは世界的なスケールにおいてもはじめての連続だったと思います。新興の感染症が一部の限定された地域ではなく、日本のあらゆる場所で拡大するなどということは近年経験したことはありません。外国をふくめてどこかに逃げることもできず、ひたすら自宅に引きこもるしかないという状況は、世界大戦が勃発した80年前以来ではないでしょうか。まさに感染症という人類の敵と全世界が戦った半年間でした(です)。

私たち日本人はこれまでどう行動したのか。今、それを振り返り、混乱と不安に翻弄された半年から学ぶ必要があります。しかし、疫学や感染症の問題は人の価値観だけで善し悪しは判断できません。科学的に正しいか、倫理的に正しいか、あるいは社会的に正しいか、判断する基準は人によって、立場によってさまざまです。これから書くことはあくまでも私個人の見解です。もちろん、私自身は理性的かつ常識的に感じたことを書いたつもりです。それを皆さんがどうお感じになるかはわかりませんが。

昨年の秋、中国の武漢市に発生したといわれる新型コロナウィルス(COVID-19)はまたたく間に中国全土に広がりました。感染拡大を防ぐため、中国共産党は民主主義国家では考えられないような強権を使って都市封鎖をし、患者を収容・隔離しました。その効果があってか、感染拡大はそののち徐々におさまっていきました(あれほど理想的な収束は多くの人に疑われていますが)。その間、新型コロナウィルスは世界中に拡散し、たくさんの人が亡くなりました。そして、それはまだ終わっていません。

幸い、日本は比較的早くから感染者を出したわりには感染者の拡大を抑えることに成功したように見えます。医療崩壊もかろうじて回避することができました。死亡者数もかなり少ないといってもいいと思います。こうした現実を、海外のメディアは「奇跡」と表現していますが、これは単なる「偶然」でも、「奇跡」でもありません。日本人全員がそれぞれの持ち場で努力をした「必然」です。もちろん問題点や課題はありました。第二波が懸念される今、そちらにも目を向けなければなりません。

多くの日本人が新型コロナウィルスが流行する以前から日常的にマスクをしていました。そうした光景は欧米の人たちからは奇異に見えていたようです。日本人が「他から感染症をうつされないようにマスクをしている」だったのに対して、欧米の人たちの目には「マスクをしている人は他の人に感染させるような病気にかかっているから」と映るようです。しかし、今回の新型コロナの流行によって、はからずも日本人の生活習慣がそれなりに有用だったことを全世界の人が知ることになりました。

日本では以前から「手洗いとうがい」というものが日常になっています。大人になるにつれてそうした習慣は薄れていくとしても、多くの日本人にそうした習慣が定着していたことが今回の感染拡大の抑制につながったことは想像にかたくありません。咳エチケットや人前では大声で話しをしないことなど、子どもの頃から躾けられている他人への配慮も感染者数を抑えた理由のひとつかもしれません。欧米のような、キスやハグといった他人との直接的な接触をともなう習慣がなかったのも幸いしました。

日本人に特有な集団性も見逃せません。周囲と強調し、決められたルールは守る。我慢と抑制を美徳と考える日本人の基質が効を奏した形です。ただ、そうした性質が強くなりすぎると、他人がマスクをしていなかったとき、あるいは自粛をしていないと感じたとき、勝手な行動をとっているように見えるとき、それには我慢がならないようです。ともするとそれが極端な同調圧力となって、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる人たちを生み出します。自分とは異なる行動をする人を許せなくなる人たちです。

以前のブログでも書きましたが、原発事故のとき当院では放射能の危険性に不安を感じている患者さんのために、「放射能の危険性は冷静に考えよう。必要以上に怖がりすぎてはいけない」と書いたレジュメを配っていました。しかし、そんなレジュメを渡している私を許せなかったのか、誰かが「医者のくせに楽観的すぎる。恥を知れ」と書いたメモが当院のポストに投げ入れられました。これも「(自分と同じように)放射能を怖がるべきだ」と考えるある種の同調圧力だったと思います。

一方で、社会を支えていくという意識が日本人には希薄です。自らの感染のリスクを負いながら病院に勤める看護師の子どもの登園を断った保育所がありました。病院で診療にあたる医者がタクシーに乗車拒否をされ、自宅に帰れずに病院に寝泊まりしていたケースもありました。物流をになうトラックの運転手や宅急便の配達員に心ない言葉を投げつける人もいました。彼らがいなければ社会生活は維持できないにもかかわらず、彼らをいかにして支えるかという発想のない人が少なくなかったのです。

誰のお陰で社会が支えられているかに思いがいたらないことは悲しいことです。そうした人たちは「社会を支えている人たちを支えること」よりも「自分の身を守ること」でいっぱいいっぱいなのでしょう。他人のことを考える余裕すらない彼らを一方的には責められないかもしれません。しかし、新型コロナウィルスの感染拡大阻止のため、あるいは感染患者の治療・看護のため、さらには国民の日常生活を維持するために働いている人たちを支えることを、本来、私たちは優先的に考えなければならないことです。

感染者数が増えて世の中がにわかに騒がしくなってきたとき、対応にあたっている保健所の所長のメイルが届きました。そこには保健所がどのような厳しい状況に置かれているかが書かれてありました。感染するかもしれないという不安の中で増え続ける検査。陽性患者を収容しようにも病床がなく、患者の受け入れをお願いするためにいろいろな病院を訪問する毎日。自宅待機している陽性患者のフォローアップと急変した患者の対応。保健所全体が疲弊している様子が手にとるようにわかりました。

新型コロナに感染した重症肺炎の患者が収容されている病院の実情はもっと深刻でした。もし院内感染によってスタッフが欠ければ、さらに少ない人数で治療や看護にあたらなければなりません。スタッフの戦線離脱は他のスタッフへのさらなる負担増につながるのです。亡くなっていく患者、次から次へと入院してくる重症患者。いつ尽きるともしれない患者達を前にどんな気持ちで仕事をしていたかを思うと、黙々と働いていた医師や看護師、パラメディカルの人たちには感謝しかありません。

そうした病院の苦悩をよそに、「もっと検査をしろ」「早く検査をしろ」の声はときに強くなりました。現行のPCR検査の精度は決して高くなく、疑陽性や偽陰性の問題が無視できません。入院の必要がない疑陽性の人が病院のベッドを占拠し、本当の患者の治療を妨げます。偽陰性の患者は感染していないと勘違いをして、無自覚に感染を広めてしまいます。PCR検査は他の検査とともに事前確率を高めてから実施するものなのです。いうまでもなく「心配だからするもの」ではありません。

こうしてみると、新型コロナウィルスはまるで原発事故のときと同じ光景を映し出しました。自ら感染する危険性を背負いながら必死に検査をしている保健所の職員に「なんでもっとたくさん検査をしないんだ」と罵倒する国会議員たちは、原発事故の収束に向けて命がけで作業をする東電職員を一方的に怒鳴りつけている総理大臣の姿に重なります。新型コロナ感染患者の治療・看護にあたる人たちを「ばい菌扱い」する市民は、まるで原発事故とは無関係な東電職員に心ない言葉を吐き捨てる市民と重なります。

事態の収拾に奔走する人たちがいなければ社会は支えられないはずです。そうした人たちがいるからこそ私たちは日常と同じような生活を継続することができます。そのような大切なことも忘れ、頑張っている人たちに鞭を打つことができる人たち。「それなら自分でやってみたらどうだ」と言いたくても、彼らには抗議をする方法がありません。そんな理不尽に耐え、黙々と仕事を続ける彼らに私はプロフェッショナリズムを感じます。文句と愚痴とケチをつけてばかりの人間ほど自分からはなにもしないものです。

検査をむやみに増やさなかったからこそ感染拡大を最小限に抑えられたという側面も無視できません。感染の拡大は不正確な検査をふやしてもわかりません。そのかわり重症患者数の変化から推測することはできます。その推移を見れば、4月の下旬には感染は収束しつつあったことがわかります。「検査を増やせ」の声に押し切られ、「検査を受けたい人がいつでも受けられる」ように数を増やしていたらもっと大変なことになっていたかもしれません。それは検査をやりすぎた海外の事例をみれば明らかです。

不必要な検査をたくさん実施することになれば、検査をしている保健所や患者の治療をしている病院の負担を増やし、そこに働く人たちをさらに疲弊させることになります。延いては病院が機能不全をおこして医療崩壊をもたらすことにもつながります。「検査をしなければ感染状況を正確に知ることはできない」という絵空事を繰り返し、「国民の不安を解消するためにもっと検査を」とさけぶド素人の国会議員には困ったものです。検査の原則も知らない「ポピュリズムの政治主導」はただただ迷惑なだけです。

「ポピュリズムの政治主導」は福島原発事故の際にもありました。子どもの甲状腺癌を見つけるためにおこなわれたエコー検査がそれです。このエコー検査もPCR検査と同様に単独で浅く広くおこなう検査ではありません。つまり「癌を見つけるための全数検査」ではないのです。こうしたエコー検査は「甲状腺癌を疑った患者を絞り込むためのもの」です。結果としてわかったことは、「原発事故の影響はなかった」というごくあたりまえなことでした。莫大な費用をかけておこなったわりに、です。

TV局の意向や番組の趣旨を忖度してコメントする人たちを私は「専門家芸人」と呼んでいます。原発事故のときも「専門家芸人」は世の中をかきまわす困った存在でした。権威主義の人たちにとって、「専門家」あるいは「大学教授」という肩書きを持つ人からの情報は、それが正しいかどうかというよりも「権威のある人からの情報」として重要な意味をもちます。視聴者の不安をかき立てる関心事であればなおさらです。でも、不安をあおって視聴率をとっている番組が正しい情報をもたらすはずがありません。

「専門家」と思われている医師にもリテラシーが一般人と変わらない人がいました。新型コロナウィルスの検査で陽性を示した患者が増えたとたんに、慌ただしくクリニックを閉めてしまった医者がいました。あるいは、早々に「熱発患者お断り」の貼り紙をして熱発患者の診療から逃げ出してしまった医者もいました。かかりつけ医に放り出された患者達は、他の病院を受診することになります。それでなくても忙しい病院の負担をさらに増やしてしまうことを「敵前逃亡した医者たち」はどう思っていたのでしょうか。

                             (2)につづく

今、なすべきこと

人と人との接触を避けるため、全国的な自粛が実施されてそろそろ一ヶ月になります。欧米で行なわれているように、外出をすると厳しい罰則が待っているような都市閉鎖とは異なり、特定の業種を除いて自主的な自粛を求めるといった緩やかなものです。そのせいか、家の中に閉じこもる生活に耐えられなくなった人たちが公園や行楽地を訪れ、場所によっては車で道が渋滞しているところがあると話題になりました。その気持ちはわからないでもありませんが、もうひと踏ん張りしたいところです。

この連休明けに緊急事態宣言を解除するかどうかが議論になっています。人出を80%減らすことを目標に政府は外出をひかえるよう繰り返し広報してきました。不充分ながらもその効果もあって、検査が陽性となった人の数は徐々におさまってきているようです。しかし、その減り方は想像していたほどではなく、自粛を解除すればたちまち陽性患者は増えていくだろうと思われるほど不安定で弱々しいものです。だからこそ緊急事態宣言の延長が議論されているのかもしれません。

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【COVID-19】重症者数も落ち着いてきて感染拡大がおさまりはじめたことを思わせる。この傾向がさらに続いて、死亡者数も落ち着き始めればこの傾向は本物といってもいい。さすがにここまで自粛を続ければこうなるだろうことはたやすく予想されるところ…

瀬畠 克之さんの投稿 2020年4月29日水曜日

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ただ、個人的には、これ以上の自粛は日本経済に取り返しのつかない悪影響をあたえてしまうのではないかと心配しています。日本経済をひとの体に例えると、長引く自粛はまるで血糖値をさげるために極端な食事制限を続けているようなものです。ものを食べなければ血糖値はさがってくるかもしれません。しかし、極端な食事制限を続けると、必要な栄養素も不足して徐々に悪影響がでてきます。ある日、突然、低血糖となって意識を失うかもしれません。それと同じような危険性を感じるのです。

もはやこれだけ感染が広がってきて(とはいえ、欧米と比べてばたいしたことはありませんが)、感染経路がたどれない患者も増えています。そうであれば、感染経路をたどって感染者を見つけ出して隔離するといった「クラスターつぶし」で封じ込めることは困難です。むしろ、感染の拡大が落ち着きを見せている今こそ、徐々に感染を広めて抗体(抵抗力)を獲得した人を増やすことによって感染を収束させる「集団免疫」という方法をとる時期に来ているのではないかと思います。

今もなお「検査をもっと増やして見つけ出せ」と主張する人がいます。しかし、検査で見つけ出したところで治療法はありません。大部分は軽症のまま治ってしまいます。重要なのは、新型コロナに感染したかどうかではなく、肺炎になったか、あるいは肺炎になりそうかということにつきます。言い換えれば、「風邪症状があれば、家族内に広めないように注意をしながら自宅で安静にする」ということです。軽症の患者までを病院に収容すれば、病院は機能不全を起こして医療崩壊となります。

のちほど詳しく述べますが、PCR検査という不正確な検査を幅広く行なうべきではありません。検査をしても新型コロナウィルスに感染したか、あるいは感染していないかを証明することはできないのです。感染したした可能性の高い患者にしぼって、本当に新型コロナウィルスに感染したかどうかの鑑別が本当に必要な人に限って実施すべきです。でなければ、疑陽性者は不必要に病院の病床などの医療資源を使ってしまいますし、偽陰性の患者は無自覚に感染を拡大させてしまいます。

「検査は対象者を怪しい人にしぼりこんで(これを【事前確率をあげる】といいます)実施する」という原則を無視することはできません。今回のような検査はそういうものなのです。よく「保健所が検査をさせないように妨害している」、あるいは「政府が意図的に検査の数を抑制している」と批判する人がいます。しかし、そういう人はこの「検査の常識」を知らないか、無視しているといえます。事前確率をあげないままで検査をすれば誤差が大きくなります。それはとても大きな問題です。

最近、県医師会から「PCR検査を増やすためにPCRセンターを作るから協力するように」と連絡が来ました。私は目を疑いました。なぜなら、PCR検査に疑陽性や偽陰性が多いことは医者なら誰でも知っていると思ったからです。医学的知識もないど素人の政治家や官僚、TVのコメンテータならまだしも、医師会が「検査を増やすべし」と主張するとは考えてもいませんでした。日本医師会がなぜそんな判断をしたのかわかりません。でも私なりに想像(妄想?)はできます。

これはあくまでも私の想像(妄想?)ですが、日本医師会が「検査やるべし」の号令をかけた理由はおもに二つだと思います。ひとつは厚生労働省の意向をそのまま下部組織に下ろしてきただけという場合です。保健所や空港などの検疫所はよくやっています。PCR検査はもちろん、陽性患者への対応や陰性者の経過観察、あるいは入院病床の調整など、新型コロナウィルスの感染が始まって以来、自ら感染する危険性と背中合わせの中で頑張っていることを私は知っています。

しかし、現場としての保健所が頑張っている一方で、本省には医学的知識のないド素人の政治家が誤った政治主導で検査数を増やすように圧力をかけています。厚労省には医師の資格をもつ医系技官もいますが、彼らの意見など政治主導の前にはほとんど無力です。その同調圧力がおそらく日本医師会にもかけられてきたのではないかと思います。臨床検査技師の数に制限があるから検査数が増えない。ならば医者をかり出すしかない。素人ならではの「検査至上主義」の結果です。

もうひとつの理由は、依頼してもなかなか検査をしてくれないという開業医の不満や不安を医師会が解消しようとしたのではないかというものです。実際、私にもしばしば「コロナが疑われる患者なのに、保健所に検査を断られた」という声が耳に入ってきます。しかし、ちょっと待ってください。「検査の不正確さ」は問題にしなくていいのですか?検査を増やして疑陽性の人が病院に負担をかけることについてはどう考えていますか?医師会がすべき対応はそれでいいのですか?

医師会が構想している「PCRセンター」には、開業医が対象者に紹介状を書いて受検させることになっています。しかし、開業医の中にはたいした問診や診察もしないままごく簡単な紹介状を書いて検査に押しつけてくる医者が必ずいます。「熱発患者お断り」の貼り紙で診療拒否をする医者がいるくらいですから当然です。ちゃんと対象者を絞り込みもせずに検査をすることをどう防ぐか。その対策が不充分なままで「PCRセンター」が単に検査の数を増やすことに使われてはいけないのです。

医学的にも賛否両論ある検査を、医師会が主導して実施することが私には理解できません。医師会の中でもその検査に否定的な医者が少なくないはずです。もちろん、医者仲間の中にも「ここまで感染が広がったら幅広く検査をやるのはやむをえない」と考える人もいます。しかし、この検査を増やすことについて医師会の中で議論した形跡はありません。こうした重要な問題に関して医師会員に賛否を尋ねることすらせずに見切り発車のような形で実施が決まったのは問題です。

今のPCR検査を幅広く実施することに対しては、検査の実務者からも異論がでています。検査そのものを実施するにはそれなりの熟練を要するからです。スワブと呼ばれる綿棒を鼻腔あるいは咽頭部に入れて検体をとること自体に難しさはありません。とはいえしっかり、確実に検体をとれなければ偽陰性になります。それ以上に検体をとってからの操作に難しさがある。それがこの検査の特徴です。その検査を的確に操作できる検査技師の数には限界がある。それも検査が増えない理由でもあります。

医師会にはもっとやるべきことがあるはずです。現在、軽症者が収容されているホテルや施設でフォローアップ検査が行なわれています。それらは今、保健所を中心とした人たちがやっています。こうした検査には医師会が応援にいくべきです。あるいは、陰性と判定されながらも感染した可能性が否定できない人たちの経過を見ているのも保健所です。しかし、開業医が自分の診療圏内にいるこうした人たちのフォローアップをするなど、医師会はそうしたことにまず手をあげるべきなのです。

これは戦争だ

緊急事態宣言が出されました。新型コロナウィルス(COVID-19)による感染拡大はあらたなステージに入ったわけです。1月に私が漠然と感じていた不安は、3月になってわずかな希望の光に変りつつありました。しかし、残念ながら4月に入ってふたたび不安に転じ、今やその不安が的中してしまいそうな勢いです。誰が悪いといってもはじまりません。すべては結果論ですから。大切なのは「原因はなんだったのか」を整理し、「ならばこれからどうする」という点を冷静に分析、そして行動することです。

言い方が悪いかもしれませんが、これはある意味で「戦争」だと思います。「戦争アレルギー」の方にとっては不愉快な表現であっても、COVID-19という侵略者によって日本人の安全が脅かされる様相はまさしく戦争そのものです。感染拡大を阻止すべくまさに獅子奮迅の努力を続けている保健所・検疫所の職員、自ら感染する危険性を省みず重症感染者を救護し治療する人達は、国民の命を守り、日本を守る頼れる兵隊さんのようです。危機と不安をあおるだけのマスコミはあいもかわらず戦前と同じで困ったものです。

その一方で、緊急事態宣言が出され、外出の自粛、活動の自粛が呼びかけられる中、今も物流を止めないよう休みなく働き続ける人たちがいます。食料や日用品が不足しないよう人々に供給する人たちもいます。私たちの生活が今までと変わりなく続けることができるのもこういう人たちのおかげだということにどのくらいの人が気づいているでしょう。スーパーや薬局に朝早くから並びものを奪い合う人。熱がでて不安にかられる患者を横目に「発熱患者お断り」の張り紙をする医者もいる中、人もまたさまざまです。

前回の記事にも書きましたが、今、陽性患者が増え続けるのはPCR検査を増やしているからです。これまで、保健所のみなさんが検査対象となる人を選別してくれていました。検査とはそのように実施するものだからです。しかし、医学的知識もないド素人の政治家による誤った政治主導によってその数はどんどん増えています。「検査を増やせ」はまるで「鬼畜米英」のような同調圧力となって、今や「ドライブスルー方式」までおこなおうとする自治体まででてきました。まったく愚かなことです。

繰り返しになりますが、検査で感染者数を把握することなど不可能です。「検査を増やせば感染状況がわかる」などということも嘘なら、「感染者を少なく見積もるために検査数を意図的に少なくしている」などといった陰謀論も嘘です。今おこなわれているPCR検査は誤差の大きい検査です。そんな検査を大々的にやったところで感染者の正確な値を把握することなどできるはずがありません。検査はあくまでも「必要な人に実施するもの」という原則を無視することはできません。そうしたところを復習してみましょう。

感染した人を正しく見つけ出す検査の能力を感度、感染していない人をきちんと選び分ける検査の能力を特異度といいます。現在のPCR検査の感度は40%、特異度は90%程度だといわれています。もう少し精度の高い検査(感度70%、特異度95%)だったとして検査をするとどうなるでしょうか。50人の患者がいる1000人の集団に実施すれば、15人の感染患者が見逃され、47人が患者と間違われます。患者の数がもっと少ない集団に検査をすればさらに多くの人が患者と間違われることになります。

患者と間違われた人たちは「軽症だから自宅で」といわれても、その多くは「病院に入院させてくれ」と頼むでしょう。そうでなくても、法定伝染病に指定されたCOVID-19は病院に収容することが法律で定められており、病院の感染症病棟を不必要に埋めていきます。一方で、見逃された15人のかなりの人は「検査して異常なかった」と勘違いをし、さまざまな自粛をやめ、無自覚に感染を広げていくかもしれません。偽陽性者によって医療崩壊が助長され、偽陰性患者によって感染が拡大する。今がまさにそれです。

最近、感染経路のわからない検査陽性者が多いのはなぜでしょう。偽陰性の人が無自覚に感染を広めている結果とは考えられないでしょうか。陽性となった人が、いったん陰性になったのに再び陽性になるケースがあるのはなぜでしょう。偽陽性の人が感染病棟に収容され、今度は病棟で本当に感染してしまったということはないでしょうか。毎日増えている検査はすでに7万人。10万人を達するのももうすぐ。その中のたった1%の人が偽陰性だったとすれば1000人です。そのうち家でじっとしている人が何人いるでしょうか。

こうした検査は「早期発見、早期治療」につながるものではありません。そもそもCOVID-19の感染に治療法はないのですから。疑わしい症状があり、胸部CT検査や採血結果と照らし合わせ、治療方針に役立てるための検査です。そうした節度あるやり方でなければ、感染を広め、病床を減らし、ついには医療崩壊へつながります。患者が急増して医療崩壊した諸外国を見ればわかると思います。それなのに、医療崩壊した国々のあとを追うように検査数はどんどん増やされています。私が一番危惧するところはそこです。

では、感染の広がりは調べられないのでしょうか。いえ、おおまかな傾向をつかむことはできます。それが「重症者数」です。COVID-19による感染症では一定の割合の人が重症になります。例えばそれが100人に一人だったとすると、患者が1000人に増えれば重症者も十人に増えます。患者が1万人になれば重症者は百人になります。つまり、重症者がどのように増えていくかによって感染の広がり具合を推測することができるのです。こうしたことは前回の記事にも詳しく書きました。

死亡者も感染の勢い(威力)を推し量るのに役立ちます。ただし、死亡者数はその国の医療資源あるいは医療水準によっても異なるので、単純に国別に比較することはできません。しかも、いったん医療崩壊という事態にいたれば、死亡者は爆発的にふえていきます。そうなれば感染の拡大を必ずしも正しく反映することにはなりません。最近の死亡者数の国際比較をしてみると、日本の死亡者(4月11日現在94名)が抜きんでて少ないことがわかりますが、これはOECD36か国中3番目に少ない数字です。

資料)4月11日現在の数

アメリカ 感染:46万人余、死亡:16596人   中国 感染:8万人余、死亡:3340人

イタリア 感染:14万人余、死亡:18851人   スペイン 感染:14万人余、死亡:15843人

ロックダウン(都市封鎖)をしているアメリカには無保険の国民が多いため、今の勢いはしばらく続くだろうといわれています。季節性インフルエンザでさえも、昨シーズンのアメリカでの死者は34000人にもおよびました。過去10年で最多は61000人、2010年以降で死者が10000人を越えなかったシーズンはなかったといいます。医療水準が高いと思われているアメリカでさえ、日本のような皆保険で病院へのフリーアクセスが保障されている国よりも感染症による死者がはるかに多いのです。

イタリアもスペインも医療水準は低くありません。にもかかわらずこれほどまでに感染が広がってしまったのは両国ともに感染初期の対応をあやまったためです。とくにイタリアでCOVID-19の感染がはじまる前の2月19日に行われたサッカーの試合はその発端とされています。その試合はイタリア・ロンバルディア州のサン・シーロという町でおこなわれた「イタリア・アタランタ対スペイン・バレンシア」です。このときの観客や選手のなかに感染患者が混ざっていて、それがのちの爆発的感染につながったというのです。

サッカー場ではいわゆる「集・近・閉」がそろっています。バレンシアの選手たちからもその後多数の感染患者がでました。観客同志のみならず、選手同志の感染もひろまって両国の感染拡大につながったようです。両国ともに病院での検査で医療従事者が次々と感染し、それをきっかけに医療崩壊をきたしていっきに感染者をふやしました。医療従事者への感染を端緒として医療は簡単に崩壊するのです。検査をふやすことは病床を不必要に埋め尽くすとともに医療従事者への感染暴露のリスクをもたらします。

「検査をして陽性・陰性がわかれば感染拡大を防ぐ手立てがとりやすいじゃないか」と主張する人がいます。しかし、なんどもいうように、この検査は不正確なのです。陽性が出たからといって感染したとはいいきれません。陰性だからといって感染していないとも言い切れない。ならばどうするか。それは「怪しいケースは検査のいかんを問わず家庭内隔離で経過観察する」ということです。と同時に重要なのは「肺炎になって重症化する患者」を見逃さないこと。それらに尽きるのです。

重症例をいかに早く見つけて適切な治療につなげるか。そのためにはどのようにすればいいのでしょうか。まず第一に重要なのは「発熱があるか」という点です。特別な場合を除いて、熱のでない肺炎はないと考えていいと思います。ですから、「37.5℃以上の熱がある」ことがもっとも大切な目安になると考えていいでしょう。もちろん新型コロナに感染しても熱がでない場合も、症状が軽微なこともあります。しかし、大切なのは「新型コロナに感染したかどうか」ではなく「肺炎になったか」という点が大切です。

熱が出たかどうかだけで「新型コロナに感染したか」、あるいは「肺炎になったか」を判断することはできません。他の病気で熱がでている可能性があるからです。インフルエンザでも新型コロナと同じように高熱になります。ですから、インフルエンザのワクチンを接種していない場合、熱が4日以上つづくことが多く新型コロナによる熱かどうかを区別できないのです。そういうときはインフルエンザの薬をすぐに服用してもらい、解熱傾向になるかどうかで区別することがあります(診断的治療といいます)。

自分が新型コロナウィルスに感染したかどうか不安なときは症状を整理をしてみましょう。私たちが日常診療で診断するときも患者の症状を整理することが重要になります。下の問診表を見てください。これは当院で使っている「風邪症状を訴えた患者」に対する問診表です。この問診票はそれなりによくできていて(自画自賛)、「ある」の数が多くなればなるほどCOVID-19感染症の可能性が高くなります。もし「ある」が3つ以上あるときはかかりつけ医に電話で相談して下さい。

( ↓ 下の問診票をクリックすれば拡大します)

軽い風邪症状のように肺炎の可能性がなければ、自宅で隔離しながら様子を見ていいと思います。くれぐれも調子が悪くなったことを見逃さないようにしながら、適時適切にかかりつけ医や保健所に相談すればいいのです。繰り返しますが、新型コロナに感染したかどうかを正確に調べることはできません。怪しいなと思った時は家族をふくめ周囲に感染を広めないように細心の注意をはらって対処する。そして、肺炎を疑ったときは迅速に対応する。それが私たちにできる要点です。

下の印刷物は当院の外来を受診したすべての患者に配布しているものです。風邪症状が出現したとき、対応すべきことをまとめました。ここには重要なことが書いてあります。まず、「熱がでてきても解熱剤をつかわないこと」、あるいは「風邪薬や頭痛薬を飲まないこと」を一番強調したいと思います。なぜなら「本当の体温がわからなくなってしまうから」です。本当の体温がわからなければ、新型コロナかどうかということも、重症化しているかどうかもわからなくなってしまいます。

( ↓ 下の対応票をクリックすれば拡大します)

そうしたことに注意しながら、「風邪かな?」と思ったら、このまとめに書かれた指示にしたがって行動するといいと思います。3)の「注意すべき症状」のうち、少なくとも二つの項目に当てはまるようであればかかりつけ医または保健所に相談してください。電話で相談する際に、先の問診票の項目を見ながら自分の症状を先方に説明してください。あの問診票を使えば、先方が忙しい時に、症状を簡潔に伝えることができると思います。くれぐれもかかりつけ医あるいは保健所などに相談するときは電話でお願いします。

今、「熱発患者お断り」「風邪症状のある患者お断り」の張り紙をしているクリニックが少なくないと聞きます。そんなクリニックの存在を耳にしたとき、なぜそうしたことができるのか信じられませんでした。「患者のことよりも自分のこと優先かよ」とも思いました。診療を断われば熱発患者は病院を受診します。その結果、それでなくても疲弊している病院の負担をさらに重くし、医療崩壊を助長するだけなのにと腹立たしい思いがしました。新型インフルエンザのときの怒り再燃です。

いずれにせよ、全国の人々が自粛を続けています。そうした努力の成果は今週の後半にあきらかになります。一方で、保健所、検疫所ではたらくすべての人達が感染拡大阻止のために毎日奮闘しています。また、病院で働くすべての人が高い志をもって感染患者の治療にあたっています。物流を閉ざさぬよう働く人、お店で商品の供給を続ける人。さまざまな場所で働く多くの人達のおかげで社会はなんとか持ちこたえています。今のこの状況はまさに戦争です。皆で力を合わせ、銃後の守りを固めなければならないのです。

最後に、神奈川医師会の菊岡正和会長の声明文をご紹介します(赤い部分をクリックすれば神奈川医師会のページに飛びます)。私のいいたいことがここにまとめられています。医学的知識もないくせに、「検査、検査」と検査を不必要に増やし、公衆衛生をぐちゃぐちゃにし、社会を混乱させる政治家たちにも同じことを言ってやりたいです。「君らのうすっぺらな政治主導とやらで日本をダメにするつもりか」と。正しい判断は、正確な知識と柔軟な思考、迅速な決断から生まれるんだってことも教えてやりたい。


【このホームページの冒頭に書いたこと】

現実を直視して、今できることを淡々とやる。協力もする、我慢もする。

楽観的なことも、悲観的なことも、事実をちゃんと理解した上で次にどう行動するかを考えましょう。

他人事ではいけない。他人任せでもいけない。

自分を守ることは大切な人たちを守ることです。

と同時に、自分だけを守ろうとすることは他人を危険にさらすことでもあります。

今回の新型コロナウィルスによる危機にこれまで以上に日本人の民度が問われています。

「逃げず、恐れず、あなどらず」を心に刻みながらみんなでこの危機を乗り越えましょう。

 

 

がんばれ、日本(3)

ついに新たなステージに入ってしまったのでしょうか。これまで落着いていた陽性者数が、とくに東京を中心にここ数日で増えています。世の中は「すわ、オーバーシュート(感染爆発)か?」と浮足立ってきましたがまさに正念場かもしれません。小池百合子都知事から都民に「週末は不要不急の外出をしないように」と呼びかけがありました。周辺の県でも東京への出入りはしないように県民に呼びかけており、東京をできるだけ封鎖に近い状態にしようということなのでしょう。

最近、新型コロナウィルスへの警戒心が緩み始めているように感じていました。「このくらいならいいだろう」「この程度ならだいじょうぶ」などといった甘えが人々の心の中に芽生え始めていたかのようです。休校やさまざまな行事の自粛などで疲れてしまったのでしょうか。また、最近の特徴は海外からの帰国者の陽性者が目立つという点です。今や中国以上に感染が広がっている海外に出張させる会社も会社ですが、のこのこ海外旅行に出かける人たちの気持ちも理解に苦しみます。

検査の数が増えていることも影響しているかもしれません。新型コロナウィルスの検査は誤差が大きいことが知られています。対象者をしぼりこむことなく検査をすれば、たくさんの偽陽性・偽陰性の人が出ます。実際には感染していないのに陽性と判定された人々は「自宅には高齢者がいるから入院させてくれ」となるはず。一方、感染しているのに陰性と判定された人は、感染していないと誤解して普段通りに生活し、まわりの人に無自覚にうつしてまわるかもしれません。

この手の検査は「希望する人全員に実施するもの」ではないのです。検査対象者をしぼり、できるだけ誤判定が出ないようにしなければなりません。にもかかわらず、3月4日から検査数はどんどん増えて、最近ではついに一日2万件を越えています。医学的知識もないど素人の政治家が「感染者が少ないのは検査数が少ないから。もっと検査を増やせ!」と大騒ぎしています。厚労省がそれに抵抗し切れなかったのでしょうか。いずれにせよ、最近の検査数を増やし方は普通ではありません。

とはいえ、検査を増やしても陽性と判定される人の数はしばらくそれほど増えませんでした。これは、検査が少ないから「感染者数」が少なく出ているわけではなかったという証拠です。計量数学的にこれを検証した人もいます。その難しい説明を聴かぬとも、陽性者数を検査の数で割った数値が急速に低下し、最近まで低い値で安定していたことを見ればわかります。これは対象者の絞り込みを緩和して検査数を増やしても、陽性者の割合が低かったということ。実際の感染者は思ったほど多くないという証拠です。

新型コロナウィルスに感染した患者の一定の割合が重症になります。つまり、感染の広がりは重症者数を見て推測することができるのです。その重症者数の変化もグラフにすれば一目瞭然。この一週間は落着いていてほぼ横ばいでした。これが意味することは「日本における感染者数はそろそろ頭打ちかもしれない」ということ。別の言い方をすれば、感染拡大の状況が落ち着いてきていたともいえます。前回のブログで私が「ピークアウトは近いかも」と期待していた理由がそこにあります。

でも、その期待は希望にすぎなかったかもしれません。東京での陽性者が突如として急増しているのです。検査数を増やしはじめて3週間目が過ぎたあたりから増え出しています。この間、さまざまな自粛や休校などの措置がとられ、急に陽性者が増える理由が見当たりません。新型コロナウィルスの潜伏期間は14日ほど。そのことを考慮すると、はやりこの突然の陽性者急増はむやみに増やされた検査によるものと考えても無理はありません。このあと1,2週間もすれば重症者の数が増えてくるでしょう。

東京都の感染症指定医療機関のベット数は118床です。今後、感染の拡大がとまらなければ、これらの病床がどんどん埋まっていきます。諸外国を見ても、必要以上に検査の数が多い国々に感染者が多い事実から、検査をむやみに増やしてはいけないことはわかったはずです。心ある医師たちも繰り返し「検査をむやみに増やしてはいけない」と警告してきました。にもかかわらず、検査は今日も増えています。数を増やせば増やすほど感染が広がるという悪循環におちいってしまったのでしょうか。

検査数のみならず、スーパースプレッダーが出現した可能性も無視できません。3月9日の専門家会議では「患者の80%は他の人に感染させていない」と指摘しています。それなのに今陽性者が急増している背景に「一人でたくさんの人にうつしてしまうスーパースプレッダー」が影響しているかもしれません。もしそうであればオーバーシュート(感染爆発)が現実味をおびてきます。もう少しだけ警戒心をゆるめないでほしいと思うのですが、もはや後戻りできない段階に来てしまったようで無力感を感じます。

実効再生産数(Re)とは「病気をうつしてしまう人の数(二次感染者数)の平均値」のことです。つまり「うつしやすさ」を表しています。季節性のインフルエンザは1.5~1.8、エボラ出血熱で1.5~2.5、SARSでは2~5、風疹で6~7、麻疹(はしか)では12~18とされています。ウィルスの種類によってReが異なることがわかります。とくに麻疹(はしか)は空気感染するといわれており、かなり感染しやすい疾患です。そのような感染症はワクチンを接種して予防しなければなりません。

ワクチンについては19世紀のエドワード・ジェンナー(英)の実験が有名です。当時、天然痘が流行していました。しかし、牛痘(牛が感染する天然痘)にかかった人は天然痘になりにくいことが経験的に知られていました。ジェンナーは牛痘にかかった牛からにじみでる少量の滲出液を人に接種することを思い立ちました。そして、この接種によって天然痘にかかりにくくなることを証明しました。これをきっかけにワクチンによる感染症予防、すなわち「防疫」がはじまりました。

その後のワクチン接種の歴史は決して平坦ではありませんでした。副作用の問題や効果への不信感を背景に、さまざまな紆余曲折をへて今日にいたっています。すべてのウィルスや細菌のワクチンが作れるわけではありません。たとえば、多くの子どもたちが感染するRSウィルスや熱帯地方で今も問題になっているデング熱ウィルスに対するワクチンはまだできていません。もちろん、今、流行しているコロナウィルスのワクチンも急ピッチで開発が進められていることろです。

ワクチンの効果は「ワクチンを接種していない集団での発生率」と「接種を受けた集団での発生率」との比較として定義されます。有効なワクチンがたくさんの人に接種されれば、ワクチンを受けた人ばかりではなく、接種していない人や接種はしたが免疫ができなかった人も感染から免れることができます。こうした効果を「集団免疫」といいます。今、世界的に新型コロナウィルスの感染が拡大する中、この集団免疫に期待しようとする国が出現しました。それがイギリスです。

今、感染者の増加がとまらないイギリスでは、集団免疫によって感染拡大を抑制する選択をとろうとしています。これはある程度の国民が新型コロナに感染することを容認しようというものです。感染してもおよそ80%の人は軽症のまま治癒するといわれています。こうした人たちは新型コロナのワクチンを接種したのと同じ状態になっています。この軽症感染者を増やし、高齢者や基礎疾患のある人といった重症化する可能性のある人たちへの感染を防ごうというわけです。

しかし、そのためにはそれ相応の死者がでることを容認しなければなりません。「集団免疫」をするには人口の60%の感染が必要になります。イギリスの人口はおよそ6600万人ですから、4000万人ほどの国民が感染しなければなりません。そして、それと同時に数十万人以上にもなるだろう死者をも容認しなければならないのです。結局、国民の反対が予想以上に強く、新型コロナウィルスに対する抗体(抵抗力)を国民のどのくらいの人がもっているかを調べてから再検討するということになったようです。

ワクチンによって感染症の拡大を阻止するためにはどのくらいの人が接種を受ければいいのでしょうか。その接種率を「集団免疫閾値」といいます。たとえば、感染力の強い麻疹(はしか)を予防するためにはワクチン接種率を90%を超えるものにしなければなりません。今、壮年男性に対する風疹の抗体価検査が推奨されています。この年代の男性たちが子どもの頃はちょうどワクチン接種が中断していた時期にあたり、接種率が極端に低いことが社会的な問題になったための政策です。

 

資料)集団免疫閾値

流行性耳下腺炎(おたふく):75~86%   風疹:80~85%   ポリオ:80~86%

天然痘:83~85%   麻疹(はしか):83~95%   百日咳:92~94%

 

このように、できるだけ多くの人がワクチンを接種しなければ集団免疫のはたらきを期待することはできません。ところが、この集団免疫は「フリーライダー」によっていとも簡単に危機にさらされます。フリーライダーとは集団免疫にただ乗りする人、すなわち、予防接種を受けないことを選択した人あるいは接種によって免疫がつかなかった人たちのことを指します。集団免疫にとってはこのフリーライダーをいかに減らすかが課題です。アウトブレイクが起こりやすくなるのです。

2018年にアメリカで麻疹(はしか)のアウトブレイクが起こりました。この事件は日本ではあまり知られていないようですが、医療制度が不完全で、国民の8.8%にあたる2800万人が健康保険に未加入というアメリカにとって感染症のアウトブレイクは深刻な問題でした(そして、現在もその危機にさらされています。もっと大きな問題として)。アメリカでは2000年に「麻疹撲滅宣言」がなされています。それまで毎年50万人の国民が麻疹に感染し、毎年500人あまりの人が死亡していました。

そのアウトブレイクは、麻疹ワクチンを接種していなかったひとりの子どもがアメリカに帰国したことから始まりました。その結果、麻疹の感染が終息するまでに564名の感染が確認され(そのうちワクチンを接種していた人は85名・15.0%でした)、840万ドル(約9億2千万円)のコストがかかったとされています。フリーライダーの問題は単に「(打つか打たないかという)個人の問題」にとどまらず、感染拡大の収束までにたくさんの感染者とさまざまなコストという社会の問題に発展するのです。

日本が今直面している事態は予断を許さないものです。東京や千葉で院内感染クラスターによって感染者が急増しているのですから。しかし、その一方で少しだけ安心できる情報があります。コロナの感染の拡大とBCGの接種率との間にはなんらかの相関があるのではないかというものです。つまり、日本のようにBCG接種が義務化されている国ほど感染の広がりが緩やかだというのです。そして、医療を支える医療従事者に対してそのBCG接種をする試みがオーストラリアではじまっています。

東京あるいは千葉での感染拡大が一日も早く収まることを願うばかりです。とくに東京に通勤・通学する人も多く、東京での感染拡大の影響は甚大です。私たちにできることは限られています。無駄な検査は求めない。軽い症状のときは自宅で安静する。うがいと手洗いの励行。不要不急の外出を控える。物不足を助長するような買い占め・買いだめはしない。ごく当たり前なことを着実にやっていくこと。それだけです。理性を働かせ、つとめて冷静に行動するのみです。頑張りましょう。

がんばれ、日本(2)

オリンピックが延期されました。正直、ホッとしています。準備に奔走してきた人たちやオリンピックの開催を心待ちにしていた人々、もちろんオリンピックでの試合に照準をあわせて練習してきた選手の皆さんもふくめて多くの人達が落胆しただろうと思います。しかし、よく考えてみてください。日本あるいは東アジアだけの感染であればまだしも、今の感染状況といったら「世界的なパンデミック」なのです。世界各国ともに選手団を日本に送り出せる状況でないことは火を見るよりあきらかです。

しかも、東京オリンピックへの盛り上がりも今回の新型コロナウィルスのせいですっかり色あせてしまいました。それどころではないということなのでしょう。このままオリンピックを強行しても、世界の強豪が集まらない、そして、観客すらまばらな試合を「消化」するだけの大会に終わっていたでしょう。私自身はオリンピックは延期するしかないと思っていましたが、それでも「決定されたこと」として馬鹿正直に突き進む日本のことです。これまでの「予定通り」という政府発表に冷や冷やしていました。

感染の拡大も今のところ大規模な「爆発的拡大」にはなっていないようです。むしろ、私が期待しているように今月末のピークアウトに向けて順調な陽性者数ならびに重症者数の推移をしているように見えます。それなりの数の検査数をやっても、その検査で陽性と判定されるケースがきわめて低い状況が続いています。これは専門家会議で発表された「実効再生産数(ひとりの患者がうつしてしまう人の数)がしばしば1を下回っている」ことを反映してのことこもしれません。

一方で重症者の数もそろそろ頭打ちになって来ているように見えます。これは重症患者が次々と発生していたこれまでとは異なり、重症化する患者そのものが少なくなってきたこと。あるいは重症患者の治療がスムーズにいき、回復する患者がふえてきていることをあらわしているのかもしれません。これらのことは、日本では感染患者が爆発的に増えていないということを意味しているとも解釈できます。と同時に、日本の医療がまだ崩壊していないこともあらわしていると思います。

こうした楽観的な変化が見えてくる中で、人々のこれまでの警戒心が徐々に薄くなってきたことを想像させるような変化も見られます。それは最近の感染患者に「海外からの帰国者」が多くなってきたという点です。日本にいると感染拡大の恐れをあまり感じないですむかもしれません。しかし、海外は違います。「世界的なパンデミック」が宣言される中、国際的な関心は、これまで感染の中心だった中国から、欧州、とくにイタリアやスペイン、フランスやドイツといった国々に移っています。

これらの国々では感染者数もさることながら、死者の急増が目立っています。もともと金融不安をおこしかねないほどの財政状況の悪さが指摘されてきたイタリア。EUはイタリアに財政の「健全化」をもとめ、イタリアは医療の「効率化」をおこないました。つまり、国立病院の統廃合をおこなったのです。「効率化」という言葉はきれいですが、要するに「合理化」です。日本とおなじように高齢化の進むイタリアにおいて、この合理化が正しかったかどうかは今回の感染拡大が答えを出したようです。

イタリアの医療水準は決して低くはありません。近代医学の発展をささえた国ですし。そんな国がなぜこれほどまでいとも簡単に医療崩壊してしまったのか。その要因はさまざまでしょうが、やはり感染者が発生した初期の対応の誤りが大きく影響しているようです。イタリアは当初、「全数検査」「全感染者の隔離」を進めました。そうしたことがあっという間に病院の収容能力を低下させました。医療の「合理化」がこれに拍車をかけ、重症者の治療に支障がでてしまったのです。

また、医療従事者への感染拡大も深刻でした。患者の治療の際にも感染の危険性があるのに、検査をもとめて病院に押し掛ける人から検体を採取する業務が重なればなおさらです。なにせ「全数検査」ですから。検査に不慣れな医療従事者もいたかもしれません。これまでも説明してきたように、この検査には「偽陰性」と「偽陽性」の問題が無視できません。検査を受けた人がその後どのような行動を取るかも影響します。そうしたことが相乗効果となって今のイタリアの感染拡大、医療崩壊をもたらしています。

ひるがえって日本はどうでしょうか。「コロナをうつしてやる」と飲食店をまわっていた不届きな陽性患者はあっという間にこの世を去りました。今頃はきっとあの世で後悔と反省の日々をおくっているかもしれませんがあとの祭りです。しかし、同じような思慮のない行動をする人があとを絶ちません。「パンデミック」を宣言されている状況で海外旅行をしたあげくに、新型コロナ検査の結果を待つように要請されながらも帰宅してしまう家族などはその典型例です。

中止要請を無視して格闘技の大会を強行した例も同じです。たしかにそれぞれの事情があるだろうと思います。中止の要請は強制力をもつものではないかもしれません。しかし、日本における新型コロナウィルスの感染状況は今が重要な局面を迎えているのです。今の安定した感染の様相はとてももろいものです。感染がなにかをきっかけに爆発的なものに変化する(オーバーシュート)かもしれません。そして、それを機会に医療崩壊が一気に進むかもしれないのです。そのことをもっと認識してほしいと思います。

そうならないでいられるのは、ひとえに日本全国でおこなわれている自粛や活動の抑制という国民の努力によるものです。その努力によってかろうじて保たれている今の状況はものすごくもろいものです。「ワクチンを打ってもどうせなるから」「これまでかかったことがないから」という理由でワクチンを撃たないでいるフリーライダー(ただ乗りをしている人)は、たくさんの人がワクチン接種することによって自分自身が守られ、大規模な感染拡大に至らずにすんでいるという自覚がないということに気が付くべきです。

この辺のことはあとでもう少し詳しくお話ししたいと思っていますが、要するにもう少しの間、今の警戒心をゆるめないでほしいということを伝えたいと思います。最近、病院に「(新型コロナウィルスの)陰性証明」をもらいに来る人がふえていると聞きます。こんなときになんでそんなバカげたことをするのでしょうか。陰性を証明できるはずもありませんし、また、のこのこ病院へ検査を受けにいくべきでもありません。それ自体に意味がないばかりが医療機関の負担を増やすだけだということを知ってください。

繰り返しますが、検査は必要な人がするものです。必要かどうかは医師あるいは保健所の担当者の判断にゆだねるべきです。検査は「誰でもがすべきもの」では決してありません。これまでたくさんの検査をおこなってきたアメリカも、最近、「必要な人にかぎって検査をする」という方針に転換しました。日本は原理原則にしたがって検査をおこなってきましたし、その適切性は今の日本の感染が落ち着いていることが証明しています。理性を働かせながら、みんなでもうひと息頑張りましょう。

がんばれ、日本

中国・武漢発の新型コロナウィルス(COVID-19)は、2019年から2020年に代わるころから中国全土で爆発的に感染が拡大しました。ちょうどそのころ、「おもてなしの国」の日本で旧正月を祝うためにたくさんの中国人が訪れました。そして、その結果、日本でもかなり早い段階から感染者が発生し、患者の数は今もなお増え続けています。個人的には、あのときに入国制限をしておけばという思いはありますが、日本はそうした「インバウンド」を受け入れながらの観光立国に舵を切ったのです。外国に依存する経済を目指す以上、ある意味、仕方ないことかもしれません。

ともかく、今は感染拡大の収束に向けて国民が一体となって頑張らなければなりません。まさに踏ん張りどころです。統計上、中国の感染者数はピークアウトになった(感染拡大の峠を越えた)ことになっています。共産国家中国の統計の確からしさを疑問視する有識者もいますが、1月の時のようなパニックともいえる状況からは脱していることはまちがいないようです。そのかわり、欧州を中心にアメリカにまでも感染はひろがり、WHOはようやく世界的なパンデミックを宣言しました。汚染国とされた日本がいつの間にかその指定からはずれ、今や日本よりも欧米での感染がどこまで広がるのかが注目の的です。

日本での感染拡大はこれからどうなっていくのでしょうか。そうしたことはこれまでの感染の様子を振り返ってくると見えて来るかもしれません。厚生労働省ではこれまでのCOVID-19に対するPCR検査の結果と死亡者数、患者の重症度に関する統計データを公開しています。先日のブログで紹介した東洋経済のホームページもその資料をグラフしたものです。このグラフを見ただけでも陽性患者数の推移や、「検査を増やせ」との世論を反映して検査数が急速に増加していることがわかります。今回、私はこれらとはことなる、日本における今後の感染拡大を予測できそうなものをグラフ化してみました。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これは陽性者の数を検査数で割った数字をグラフ化したものです。データの数字を見ていただければわかるのですが、3月4日に突然3倍ほどに検査数が増えていました。これは検査の意味をしっかり理解していない国会議員の声や、医学統計の知識のないTVコメンテーターが連日「検査を希望する人全員に検査ができるように数を増やせ」と叫び続けた結果なのかもしれません。その後も検査の数は増え続け、3月13日にはついに10000件を突破。17日には15000件を越えるまでになりました。こうしたことは決していいことだとは思いませんが、これも「仕方ないこと」ととらえるべきなのでしょうか。

陽性者の数を検査数で割った数字は、「検査した患者のなかにどのくらいの陽性者がいたか」をあらわします。それを見ると、2月のころの値よりも徐々に低下し、最近になって低い値が続いていることがわかります。その傾向の意味を考えると次のようなことが予想されます。

●当初は検査の対象をかなりしぼって実施していた(最近は対象のしぼりこみが甘くなっている)

●COVID-19感染者が実際にはそれほど増えていない

こうした検査はめったやたらに実施するものではありません。検査対象をしぼって(このことを「事前確率を上げる」といいます)からやるものです。どうしてかというと、こうした検査は「白黒をつけられるもの」ではなく、どうしても偽陽性(病気ではないのに陽性がでるケース)や偽陰性(病気なのに陰性がでるケース)がでてきてしまうためです。とくに有病率(病気のめずらしさ)が低い疾患ほどそうした不正確さがめだちます。その意味で検査対象者の絞り込みができていたことは保健所の努力の成果です。

その一方で、検査の数が増えているにも関わらず陽性にでる患者の割合はここ2週間は横ばいになっています。こうしたことは患者数が増えている(つまり患者の人口密度が高くなっている)場合には見られない傾向です。言いかえると、患者はほぼ全国均一になりつつあることを示しているかもしれません。人口が多いところには患者は多いが、人口が少ないところにはそれなりにいるようになった、というわけです。毎日、TVや新聞では「感染者がまた出ました」と報道していますがあれではこうした傾向はわかりません。

次のグラフを見てください。ひとつは検査数の推移、もう一つは陽性患者の変化を示したものです。今月になって急速に検査数が増えているのがよくわかると思います。その検査の多さにも関わらず、陽性者の数そのものが減少しているように見えますがそれは私の「希望」でしょうか。一方、それらのグラフと共に、重症患者と死亡者のグラフも作ってみました。COVID-19に感染した患者の数は、検査が陽性になった人の数だけでは推測できません。検査を増やせば増やしただけ数が増えるからです。実際の患者数を推測するには、患者の一定数が重症になると考えて、この重症者の数を見た方が推測しやすいと思います。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これらのグラフからは、一週間ほど前から重症者が、10日ほど前から死亡者が急増しているような傾向が見てとれます。これらは、重症化する患者が徐々に累積し、日本の医療技術をもってしても重症者がだんだん力尽きはじめていることを意味しているのではないかと思います。ただ、重症者の増え方がほぼ直線状であることからいえば、感染拡大がどんどんと広がって重症者が増えているわけではないことを意味します。こうしたことから感染が爆発的に増えていないことがわかります。

資料)各国の死亡者数(対人口10万人あたり:日本は3月17日現在、他は3月14日現在)

日本  0.022人 、中国  0.236人 、韓国  0.150人 、米国  0.014人

イタリア 2.093人 、イラン 0.695人 、スペイン 0.263人 、フランス 0.126人

この資料を見てもわかるように、日本の死亡者数は中国や韓国とくらべても数字がひとケタ低くなっています。イタリアをくらべればフタケタも違う。こうした日本の死亡者の少なさは前回のブログからまったくかわっていません。つまり、重症者にせよ、死亡者にせよ、日本では他国にくらべてその増加の仕方がきわめてなだらかだということです。これは日本の医療技術の高さもさることながら、医療機能が十分に機能していることも意味します。感染の爆発的流行には至っていない成果だといえます。

ではこれからどうなっていくのでしょうか。3月9日に開かれた政府の「新型コロナウィルス感染症対策専門家会議」では次のような見解を発表しました。

●爆発的な感染拡大には進んでおらず、一定程度持ちこたえている

●国内感染状況:重症・軽症にかかわらず約80%は他に感染させていない

●一人の患者から二次感染させた人の数(実効再生産数といいます)はおおむね1程度

●今後、流行がいったん抑制できても、いつ再流行してもおかしくない

●長期的には海外からの持ち込みが繰り返されるだろう

今の現状から、「ほら、検査数を増やしても感染は拡大しないじゃないか」という声があがるかもしれません。現時点ではそのような意見があがってもおかしくありません。しかし、安定した今の感染状況はとてもあやういものだということを肝に銘じなければなりません。検査の数がふえたといっても、まだ保健所がきちんとトリアージ(振り分け)をしてくれています。意味のない検査はできるだけ排除してくれているのです。「不安だから検査」という不適切事例を除外してくれているからこそ今の安定があります。

保健所にはたくさんの問い合わせと、苦情や抗議が寄せられていると思います。おそらく職員は毎日くたくたに疲れ果てているはずです。そうした人たちのおかげで感染拡大が抑えられていることを理解しなければなりません。現在おこなわれているCOVID-19のPCR検査も不必要に増やされているように見えます。にもかかわらず、臨床検査技師の皆さんも感染の危険性と背中合わせの中、たくさんの検体を調べてくれています。検査するときは重装備をしなければなりません。その暑さ、息苦しさを思うとほんとうに頭がさがります。マスコミには是非こうした人たちにももっと光を当ててほしいと思います。

もう少しデータがなければ明確には言えませんが、個人的には今月末には感染はピークアウトするのではないかと思っています。でもこれはあくまでも私の憶測です。もしかすると「希望」かもしれません。先のデータを見ているとそんな希望が見えてくるのです。ただし、これ以上の検査数の拡大がなければの話しですけど。それほどまでに今の状況はあやういものです。もし私の「希望」のとおりになっても、そのまま収束に向かうとは限りません。依然として国民一人一人の努力と抑制が不可欠なのです。感染拡大をおさえるためにたくさんの人が懸命に仕事をしています。そのことを常に意識してこれからも頑張りましょう。

 

 

「新型肺炎」(2)

このブログで新型肺炎について書いたのはつい1か月前のことです。あのとき私が懸念したことが現実のものとなり、新型コロナウィルス(正式呼称は「COVID-19」)に感染した人は今も増加を続けています。感染源である中国での感染者は2月21日現在で75000人を超え、死者もついに2200人を上回っています。前回のブログで警告しましたが、COVID-19に感染した人をふくめたたくさんの中国人が来日したこともあり、2月21日現在で感染者93名(うち無症状病原体保有者14名:15%)であり、死亡した人は1名です。なお、ここにはクルーズ船での感染に関わる数字ははいっていません。

さて、今回のCOVID-19の感染患者に関しては、2月11日時点での疫学調査結果が中国から発表されました。いかんせん彼の国のことですから、これらの統計データにどの程度の信頼性があるのかは定かではありません。統計の基準がなんどか変更されていますから。おそらく中国共産党政府への批判につながらないことを優先してのことでしょう。ですから、今後、WHOなどの国際機関が正式に調査をすれば多少の訂正があるかもしれません。とはいいながら、現時点で発表された結果をみれば、COVID-19の姿をおおざっぱに垣間見ることができます。「正しく恐れる」ためにもこれらの数値を眺めてみましょう。

ながながと数字を並べてもわかりずらいので要点を列挙します。

●中国全土でCOVID-19の感染が確定された44000例を超える患者のデータ解析結果
●19歳以下の患者が2.1%、20~59歳は66.7%、60歳以上は31.2%(うち80歳以上は3.2%)
●患者の80.9%が軽症、中等症は13.8%、重症例は4.7%
●死者数は19歳以下で0.2%(うち9歳以下なし)、20~59歳は2.1%、60歳以上は26.4%
●致死率は全体で2.3%(武漢市で3%、その他の地域では0.6%)

つまり、若年者と高齢者は感染しにくいようです。しかし、高齢者、あるいは基礎疾患をもっている人は死亡する割合が高いという傾向があります。また、このウィルスに感染した多くの人は比較的軽症で、重症になる割合は5%以下です。一方、致死率2.3%という数字については、インフルエンザでの0.2%とくらべれば確かに怖い数字ですが、かつて流行したSARSは10%程度、MERSは35%、エボラ出血熱においては50%と、これらの感染症の方がはるかに恐ろしいようです。ちなみに、「移りやすい感染症の致死率は低く、致死率が高いものほど感染死にくい」という一般的な傾向が知られています。

季節性インフルエンザでは、ひとりの患者が感染させてしまう人の数は2~3人とされており、COVID-19もほぼこれと同じ感染力を有していると言われています。その意味で言うと、今、ちまたで広がっている「感染しやすい危険なウィルス」というイメージとは多少異なるのかもしれません。むしろ、まだ流行という状況からはほど遠い今の現状からいえば、今年になってすでに日本では1000名、アメリカにいたっては14000名あまりが亡くなっているインフルエンザの方が恐ろしい伝染病だということになります。季節性インフルエンザに対する認識の甘い人が多いのですが、日本では毎年約3000人の人が亡くなっています。

今回のウィルス感染がこれからどのくらい拡大するのかは未知数です。今後、中国のように全土に広がって日本でもアウトブレイク(大流行)が宣言されるかもしれません。もしそうなれば世界各国は日本を「感染国」として指定し、日本への渡航制限をかけてくるでしょう。となれば各国はオリンピックの選手団を日本には派遣しないという事態となってオリンピックは中止になるかもしれません。あれほどの費用と時間をかけて準備してきた東京オリンピックがまぼろしに終わり日本の国際的な信頼は失墜します。そうならないようにしっかり対応してもらいたいのですが今の対応はなんとも頼りない限りです。

COVID-19の感染拡大は、日本にとって、あるいは日本人にとって教訓にしなければならない経験です。なぜなら、近い将来、高病原型鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の大流行があるかもしれないからです。H5N1インフルエンザの致死率は60%とエボラ出血熱を上回わる恐ろしい伝染病です。幸い、このウィルスではまだ人から人への感染は確認されておらず、中国のごく一部の地域で鳥から人に散発的に感染するだけにとどまっています。しかし、その遺伝子は変異しやすいことが知られており、近い将来、人から人への感染が成立するだろうと言われています。もしそうなれば今回のCOVID-19と同様にいっきに感染が拡大します。

ところが日本人の危機意識はどうでしょう。年間3000人もの死者を出している季節性インフルエンザでさえワクチンも接種せず、「どうせ打ってもなるから」と高をくくっている人のなんと多いことか。ワクチンはもちろん感染予防のためでもありますが、感染しても重症化しないためのものでもあります。重症化すれば命に関わるばかりか、たくさんの人にも移してしまうことになります。ワクチンを接種しなかったばかりに死んでしまうのは自己責任だからよいとして、他人に感染させてその人を死なせてしまったらどう責任をとるのでしょうか。ワクチン接種は「自分のためであり、また周囲の人達のため」でもあるのです。

日本人にとっての教訓はまだあります。それは解熱剤(あるいはカゼ薬)の濫用です。風邪やインフルエンザを広げる原因のひとつが、解熱剤、あるいは解熱剤入りのカゼ薬を飲みながら勤務・登校する人たちの存在なのです。意外と多くの人がいまだに「カゼ薬は風邪を治す薬」と信じています。しかし、カゼ薬は風邪を治す薬ではありません。カゼ薬は風邪症状を軽くする薬にすぎません。発熱があっても、カゼ薬の解熱成分によって熱を抑えてしまうのです。今の季節、製薬会社は「熱があっても休めないときは」というキャッチフレーズでカゼ薬を売ろうとします。しかし、そこに落とし穴があります。

発熱はからだの免疫力にスイッチをいれるきっかけにもなります。今回のコロナウィルスに限らずすべてのウィルスには特効薬はありません。結局はからだの免疫力でウィルスを退治するしかないのです。ところが解熱剤で熱を下げてしまえば、たよりの免疫力にスイッチが入りにくくなり、結果として風邪がこじれるか、治りが悪くなるわけです。カゼ薬の「風邪をひいたら○○3錠」というキャッチフレーズは実は風邪を長引かせて薬をたくさん売るため、といってもいいものなのです。これらのことは普段の診療でいつも患者にいってきたことです。「解熱剤を一日三回なんて飲んじゃダメですからね」と。

熱があがらなければ、患者自身も、また医師も重症度の判断に予断をもってしまいます。「高熱だから重症?」と疑うチャンスを失ってしまうのです。中国であれだけあっという間に感染を広げてしまった原因にもカゼ薬(あるいは解熱剤)の濫用があったのではないか、と指摘する人もいます。解熱剤を服用しても熱を抑えきれなくなり、ようやく受診した患者に肺炎を合併していることがあります。「なんでこんなになるまで我慢したんですか?」と尋ねると、患者は「大した熱ではなかったので様子を見ていた」と答えます。そんなとき心の中で「カゼ薬なんてなくなってしまえっ!」と叫んでしまいます。

医者も悪いのです。風邪で受診するたびに解熱剤を出す医者がいるからです。確かに「熱がある」「頭痛がする」「のどが痛い」と患者が訴えれば解熱剤(=痛み止め)をだしてあげたくなるのは人情です。しかし、だからといって無頓着に一日三回の解熱剤(=痛み止め)を処方するのはどうかと思います。多少なりとも症状を軽減できても、風邪症状を長引かせたり、重症化を見逃しかねない処方は避けるべきなのです。風邪のとき、あるいはインフルエンザのときは本来つらいもの、と割り切ることも大切です。苦痛から逃れたいという気持ちはわかりますが、少なくとも発熱に関していえばこういうときは仕方ないともいえます。

検査もそうです。以前のこのブログでも書きましたが、インフルエンザの検査は絶対的なものではありません。検査結果は診断するためのひとつの情報ではありますがすべてではありません。場合によっては検査で陰性の判定が出ても、インフルエンザだと診断して抗ウィルス薬をお勧めすることもあります。この検査は、インフルエンザに感染し、からだの外にあふれ出てきたウィルスを検出するものです。ですから、うまくそのウィルスを拾えなかったり、まだあふれてきていないときに実施しても陰性になってしまうのです。この検査は「インフルエンザであることを確認するもの」ですが、あくまでも参考にすぎません。

今回のCOVID-19でも同じです。検査で陰性が出てもそれで「新型ウィルスに感染していない」ということにはなりません。ニュースでは「検査陰性だった人が発症した」と大騒ぎですが、我々医者にすれば「そんなことあたりまえなこと」なのです。もちろん逆に陽性であってもウィルスに感染していない場合もあります。それを擬陽性といいますが、COVID-19の感染患者とされている人たちのなかにはそうした擬陽性の人がいるはずです。今、日本には14名の「無症状病原体保有者」がいますが、その人たちにもおそらくこの擬陽性の人がふくまれているのではないかと思います。

「それならどうやって診断すればいいのか」と疑問に思うかもしれません。私をはじめ、多くの医者は検査はあくまでも参考にして診断しています。検査の結果だけを根拠にインフルエンザかどうかと判断するのではなく、その人の症状の経過や全身状態、あるいは診察所見などを総合的に判断するのです。ですから検査が陰性でも症状の勢いが強ければインフルエンザと診断して薬をお勧めすることもありますし、陽性でも症状が軽い場合はあえてお薬はお勧めしない場合もあります。COVID-19は未知のウィルスであり、今後の感染がどのように展開していくのかわかりません。だからこそ今は厳しめに判断しているのだと思います。

結局のところ今回の新型コロナウィルスは恐ろしいのでしょうか。結論からいえば、その判断をするのはまだ時期尚早だと思います。今の私自身は楽観的でもありませんし、悲観的でもありません。しかし、感染が拡大していくことだけは間違いないでしょう。なぜなら、中国との人的交流は続いており、感染者が日本に入国してくることは否定できないからです。政府も入国制限をしないという方針はしばらく変更するつもりはなさそうです。とはえ、1か月前に「新型肺炎について」とタイトルをつけた原稿をこのブログに掲載したとき、アメリカやカナダなどと協調して入国制限していればまた違った展開になっていたかもしれません。

しかし、そんなことを今さらいっても仕方ありません。これからどうするかについて、専門家の意見をまじえて真剣に考えるしかありません。ついこの間、「はじめての専門家会議が官邸で開かれた」というニュースを聴いたとき私は耳を疑ってしましました。とっくの昔に専門家の助言を得て対策をとってきたとばかり思っていたからです。厚生労働省には医系技官という医学部を卒業した官僚がいます。しかし、彼らのほとんどは感染症の専門家ではありません。感染症を専門にした大学の研究者とてその多くは感染症対策の実務を経験していません。大規模な感染症の対策がなおざりにされてきた証拠です。

アメリカには感染症の研究と対策の専門機関であるCDC(米国疾病管理予防センター)があります。また、感染症の拡大を安全保障の一環ととらえてDHS(国土安全保障省)が対応することもあると聞きます。しかし、日本にはこうした組織がなく、一朝有事となったときに政府の各機関が統合して動くことができないのです。とすればやはり生物・化学兵器の対策を専門にしている部署がある防衛省が国家安全保障会議の中心メンバーとして対応すべきです。今回もそうした案が政府内にはあったはずですが、軍組織に対する旧態以前とした頭の固い抵抗勢力のせいで封印され、それぞれの組織がバラバラで活動しているのが現状です。

私は新型コロナウィルスの感染拡大そのものよりも、日本のこれからがとても心配です。1か月前に感じていた胸騒ぎはきっとそれだったのではないかと思います。つまり、昨年10月の消費税増税で日本経済は少なからずダメージを受けました。多少のダメージがあることは多くの人達が予想していましたが、COVID-19による影響がそこに加わることになるとは誰も想像していなかったでしょう。中国発の新型コロナウィルスによってサプライチェーンが寸断され、今、日本の産業に大きくて暗い影を落としています。一方で、国内のさまざまな自粛によって観光客が激減し、国民の購買意欲を低下させています。

日本での感染患者がどんどん増え、国際社会から信頼を失なえばオリンピックは中止または延期になるかもしれません。もしそうなったらどうなるでしょう。インバウンド頼みとはいえ、なんとか堅調さを保ってきた日本の景気は一気に吹っ飛んでしまいます。私が警告してきた、日本の景気に対する懸念が現実のものとなってしまうのです。私が今回の新型コロナウィルスの感染拡大を不安に思う主要な原因がここにあります。そのときの責任は誰がとるのでしょうか。総理大臣や現在の政府が変わったところでいったん奈落におちた日本の経済を回復させることは容易ではないのです。

とはいえ、今すべきこと、これからすべきことを真剣に考えるべきです。いつか発生するであろう高病原性インフルエンザの流行も念頭におかなければなりません。だからこそ現在進行中のCOVID-19の感染拡大に対しては慎重かつ適切に行動しなければなりません。手洗いとうがいの価値、あるいは今まで軽視してきたワクチン接種の意義を見直すべきです。検査至上主義の風潮、あるいは風邪薬への過信をあらためなければいけません。部活優先のために学級閉鎖を躊躇するような学校運営をあらためなければなりません。新型コロナウィルスの感染拡大はこれからが正念場。「正しく恐れる」とは根拠なく楽観視することでもなければ、目をそむけることでも、取り乱すことでもないのです。

【追記】
 新型コロナウィルスに感染した人、あるいは感染拡大の阻止に力を尽くしている人たちへの差別的な
 言動が報道されています。すべての人がいつ感染者の立場になるかわかりません。また、感染拡大の
 阻止に向けて尽力する人たちがいなければすべての国民が危険にさらされます。ですから、こうした
 人たちへの偏見あるいは差別的な言動は絶対に許してはなりません。あの原発事故のときもそうでし
 た。被爆被災した地域の住民、あるいは原発事故の収束、停電の復旧に向けて頑張っていた東京電力
 社員への心ない言葉が飛び交っていました。本来、被災住民にも、あるいは東京電力社員にも責任は
 ないはずです。なぜなら原発を破壊したのは、想像をはるかに超えた津波なのですから。今回の新型
 ウィルス感染に関しても原発事故の当時と同じような差別や偏見があるとすれば、実になげかわしく、
 恥ずべきことです。そうした人の道にはずれるような行為がなくなることを願ってやみません。

 

 

心に残る患者(7)

ときどき患者さんから「薬を2ヶ月出してください」と言われます。昔と違って今は1ヶ月という「長期処方」があたりまえで、14日分という本来の投薬日数通りに薬を出すことの方がめずらしくなりました。大きな病院が平気で三ヶ月分の薬を出すことも影響しているかもしれません。三ヶ月という乱暴な処方をするのは、待合室にあふれかえる患者をさばくための方便であることがほとんどです。ともかく、そんな「診療」を受けていれば「2ヶ月ください」となるのも無理はありません。

でも、一か月を大きく超える薬を出す「診療」って本当に「医療」なんでしょうか。何時間も待たされたあげく、ようやく診察室の中に入ったと思ったら、医者はコンピューターの画面を見ながら「変りありませんね」とひと言。そして、聴診器も当てず、血圧も測らずに「ハイっ、いつものお薬を出しておきます」と事務的に終了。受診のたびに繰り返される採血の結果さえほとんど説明なし。たった今椅子に腰掛けたばかりなのにもう終わり?って「診察」などどう考えても「医療」じゃないですよ。

病院の理屈からすれば「そうでもしなけりゃこんなにたくさんの患者を診れないよ」なのでしょう。私も大学病院で診療していましたからよくわかります。でも、その一方で、こんな「診療」でも患者によってはありがたいと思う人もいます。「大きい病院だから安心」、「なんども受診しなくて済む」など、混んで待たされたあげくの「二言三言の診察」を上回る利点があるのでしょう。でも、ちょっと待って下さい。なんのための受診ですか?薬をもらうだけでいいんですか?

医者も患者も納得づくならそれでいいじゃないか、と言う人がいます。しかし、診察でなんらかの病気を見逃してしまった場合を考えて見て下さい。三ヶ月処方なら次回の診察は半年後。癌だったら全身に転移していてもおかしくない期間です。考えてみれば恐ろしいことです。その間、患者が不具合を感じて受診してくれればいいのですが、自覚症状がない場合や、自覚症状があってもその危険性を患者が認識できないこともあります。長期(一か月以上)の処方には長期なりの危険性がつきまとうのです。

Hさんという血圧の薬をもらいに通院していた人がいました。あるとき、いつものように血圧をはかり、聴診をすませると、Hさんは「先生、薬、2ヶ月出してくれねぇか?」と言い出しました。当時、私は二ヶ月処方をすることはほとんどありませんでした(今はケースによっては一か月を超える処方をすることがあります)。たまに状態が安定していて、服用している薬の種類が少ないとき、あるいは、夏休み前や年末など、途中でお薬がなくなってしまうときなどに二ヶ月分の処方をしているにすぎませんでした。

私はHさんのご要望をお断りすることにしました。一ヶ月とはいえ「長期処方」です。薬を服用しているうちに副作用が出るかもしれません。あるいは他の症状が現れているかもしれない。私たちが定期的な診察で問診をおこない、聴打診や触診をし、血圧を測り、ときには採血をするのはそうした変化を見逃さないためです。多くの人は「薬を飲んでいれば安心」と思っているようですが、薬を服用するということは、それなりのリスクを抱えているということを忘れてはいけません。

しかし、Hさんは受診のたびに「2ヶ月処方」を希望しました。いつしか私は繰り返していた説明も面倒になって、とうとうHさんの要望に負けてしまいました。私はHさんに二ヶ月分の薬を処方することにしました。しかし、いったんそうなるとなし崩し的に毎回2ヶ月分を処方するように。私もHさんと同様に「なにも変化がないじゃないか」という予断をもってしまったのです。いつしかHさんには漫然と薬を処方するようになり、ある種の緊張感のようなものがなくなってしまいました。

漫然とした診療には落とし穴があります。あるとき受診したHさんは「咳が出る」と訴えました。診察中に咳をする様子もなく、診察してもなんの異常もなかったことから、急性気管支炎として薬を追加して様子をみることにしました。そして2ヶ月がたちました。私はHさんに「前回の咳はどうなりましたか?」と聞いてみました。「だいぶよくなったがときどきまだ咳がでる」と。やはり聴診では異常がありません。私はHさんに言われるがままに咳止めを追加して診療を終えました。

普段の診療に追われ、Hさんの咳のことなどすっかり忘れていたある日、Hさんが定期受診のために来院しました。そして、今さらながらに「咳がひどくなった」というのです。確かに待合室にいるときから咳をしていました。私はHさんの胸に聴診器をあてて愕然としました。これまで聞こえなかった肺雑音が聞こえるのです。私の胸には暗雲がたちこめてきました。直感的に「これはただの肺炎や気管支炎ではない」と思いました。Hさんに胸部レントゲン写真を撮らせてほしいと頼みました。

できあがった写真を見た私のからだからは力が抜けていきました。肺癌だったからです。しかもかなり進行した肺癌です。すぐに専門的な治療を受けられる病院に紹介しました。病院からの返事には、「肺癌。全身に転移あり、脳の転移巣に対しては放射線治療の予定」と書かれてありました。私は「なぜHさんに咳のことをもっとしつこくたずねなかったのだろう」と後悔しました。ご本人もまさか肺癌だとは思わなかったのかもしれません。結果的に患者の言葉をうのみにした私の落ち度です。

「一ヶ月なんてあっという間」と皆はいいます。私もそう思います。しかし、二ヶ月という日数は癌が成長するのには十分な期間です。しかも、一回見逃せば次回の受診は四ヶ月後です。Hさんのケースのように癌を見逃してしまえば、決定的な失敗を招くことになります。自分が見逃した病気で患者を失うことは医者にとってつらいことです。主治医にとっては打ちのめされるような失敗です。一ヶ月を超える超長期間の処方の恐ろしさはこんなところに潜んでいます。

昨年も「2ヶ月の処方をしてくれ」と執拗に要求する患者さんがいました。しかも「毎回2ヶ月分の薬を出してほしい」というのです。私はきっぱり断りました。「私はそういう医療はやらないので、他の医院で頼んでみてはどうか」と勧めしました。しかし、その患者さんは「(超長期処方を断って)他のクリニックに患者が逃げるより、二ヶ月分出しても患者が定期受診した方が経営的にいいではないか」と引き下がりません。私は「そんなことを言ってるんじゃない」と叫びたい気持ちをこらえていました。

「毎月2ヶ月かそれ以上の処方」を求めてくる患者は、検査を勧めても「いえ、結構です」と拒絶する人が多いように思います。検査はむやみにやっているわけではありません。よもや収入を増やすためにやっているわけでもない。医療用の医薬品は効能と副作用の両面に注意をはらう必要があるのです。その薬を服用するからには、効果判定とともに副作用の有無を検査等で把握しなければならない。薬を服用するということはそういうことなのです。

主治医の指示が絶対だといっているのではありません。医学的な観点から助言しているだけなのですから。だからといって「検査するかしないかは患者の勝手」というわけにはいきません。薬を処方するからにはそれなりの責任が生じます。適当な診療ができる医者とそうではない医者の違いはその責任感の差かもしれません。本来、そうした責任感のない医師から薬をもらってはいけないのです。ただ薬をもらって飲んでいればいいと考えるのは間違いだと思います。

昨年、危うく一命を落とすところだったYさんという患者がいました。Yさんも血圧の薬をもらいに定期的に当院に通院していました。師走に入ったある日、胸の痛みを訴えてやって来ました。看護師がベットに寝かせて問診していると、Yさんは「今までにはない胸の痛み」と症状を訴えました。それまでの血圧のコントロールは良好でしたが、このときばかりはいつもよりも高くなっていました。私は「狭心症?それとも心筋梗塞?」と考えをめぐらせながら心電図をとりました。

心電図はいつもと変わりなく異常ありませんでした。聴診をしましたが心雑音や不整脈など気になる所見も見られません。「今の痛みはいかがですか」とたずねると、「痛みはだいぶ落着いてきたが、まだなにか違和感を感じる」と。いつもよりも高い血圧や「今までにない痛み」「違和感を感じる」という表現に私はなんとなく胸騒ぎがしました。私は直感的に「病院で検査を受けさせた方がいい」と思いました。でも、さしたる根拠はないのにわざわざYさんを病院を受診させることを少し躊躇していました。

「Yさん、今のところ心電図に異常はなく痛みもおさまっていますが、念のために病院に行って検査をしませんか。私を安心させるためと思って」と私。このような言い方をしたのは、Yさんは「自宅で様子をみたい」というのではないかと内心思っていたからです。しかし、Yさんは思いのほかあっさりと「わかりました」と言ってくれました。私はなぜかホッとしました。救急車を要請しようか迷いましたが、結局Yさんはタクシーで紹介先の病院に向かいました。

このような経過をたどるケースの中には、心電図に変化のない心筋梗塞だったり、心筋梗塞になりかけた狭心症という場合があります。医学部を卒業して三十年、これまでに経験したいろいろなケースがあたまをよぎりました。とはいえ、わざわざ病院に受診させてなんの異常もなかったり、結果として救急車を要請するほどのことではなかったりして、結果として過剰診断となることを気にする自分がいました。「やみくもに病院を紹介する医者」と見られたくないからかもしれません。

今回のケースも「病院での検査」を受けさせた方がいいと思いながら、もしYさんが「胸の痛みもおさまってきたので自宅に戻って様子をみる」と強く主張してきたら、薬を処方した上で帰宅させてしまったかもしれません。あえて病院を受診させて「タクシー代や診察代をかけて行ったのになんでもなかったじゃないか」とひんしゅくを買うのを恐れるからです。Yさんが助かったのは、私の勧めを素直に聞いてくれたからだともいえます。命をつなぐ糸は実は細くて危ういものなのです。

Yさんの病気が私の想像を超えていたことを知ったのは翌日の朝のことでした。診療前に紹介先の病院から電話がありました。Yさんを見送った後もなにか胸騒ぎが続いていて、看護婦さんと「Yさんのことが気になるね」と話していたところでした。電話口で紹介先の主治医は少し興奮気味に説明してくれました。「Yさんは実は大動脈瘤でした。先生が素早く対応してくださったおかげで救命できました。ありがとうございました」とお礼を言われました。むしろこちらこそお礼を言わなければいけないのに。

私はまさか大動脈瘤だとは思っていませんでした。背中の強い痛みを訴えていたら疑ったかもしれません。しかし、Yさんの動脈瘤はスタンフォードA型という心臓と大動脈の境界付近に生じる比較的めずらしい動脈瘤でした。背中の痛みにはならない場合があるのです。紹介先の病院で冠動脈CT検査をやってくれたおかげで見つかりました。あのまま自宅に返していたら、そう思うとゾッとします。スタンフォードA型の大動脈瘤は一時間当たり2%ずつ致死率が上昇し、24時間放置すると90%以上が急死するのです。

実はYさんは以前にも幸運なことがありました。通常受診のときの雑談でYさんは冗談めいたように「最近、ちょっと新聞の字が読みづらいんですよ」と笑いました。いつもの私なら「老眼が進んじゃいましたか?」と笑い返すところなのですがこのときは違いました。私は一瞬「脳下垂体腫瘍では?」と思ったのです。私はYさんに「念のために脳のMRI検査を受けてください」と頼みました。「様子を見ますから大丈夫です」といわれるだろうと思いながらですけど。

しかし、Yさんは病院を受診してくれました。そして、心配した通り脳下垂体腫瘍が見つかりました。でも、その後、手術で腫瘍を完全に摘除し、後遺症もなく生活されていました。このときも私がなにげなくお勧めした検査を素直に受けてくれたからこそ命拾いをしたのだと思います。決して私の見立てがよかったのではありません。私を信じて私の助言に耳を傾けてくれたおかげなのです。診療とはそういうものです。このように診療とは医師と患者がお互いの信頼を得てなりたつものだといえます。

このように、診療が単に「薬をもらえばいいもの」ではないということがわかると思います。ひょんなことから一命をとりとめた事例は他にも少なくなく、そうした事例も今後ご紹介できればと思っています。最近のTVでは視聴者の医療不信を高めるような番組が多いように感じます。そうしたことが患者の医療者に対する不信感を高める原因のひとつにもなっているのかもしれません。もちろん患者にとって「自己防衛すること」は大切です。しかし、それには限界があることも知らなければなりません。

一方で、不信感を持たれてもしかたない医療がおこなわれているのも事実です。患者が自己防衛しなければならないのは、そうした質の悪い医療があるからです。でも、質の悪い医療はなにも開業医による診療だけの話しではなく、大学病院をはじめとする大病院でもあります。もちろん医療の良し悪しは素人である患者が見極められるほど簡単ではないかもしれません。しかし、「薬だけもらえばいい(出せばいい)」という医療から抜け出すことはできるはずです。まずはそこからはじめるべきだと私は思います

心に残る患者(6)

インフルエンザのシーズンがやってきたようです。インフルエンザは本来、タミフルなどの抗ウィルス薬などを使わなくても自然に治る感染症です。ですから、もしインフルエンザにかかっても、自宅で安静にしていればいいわけです。しかし、いかんせん普通の風邪とは違って、高熱や全身倦怠感、関節痛、頭痛などの症状をともないます。高熱によって体力が奪われると肺炎になるなど重症化しやすいという特徴もあります。だからこそワクチンでの予防が重要なのです。

高熱を必要以上に怖がり、解熱剤をつかってあわてて体温を下げる必要はありません。むやみに体温を下げてしまうと、重症化、とくに肺炎を合併したときのサインを見逃すことにもなります。インフルエンザ時の高熱はそう簡単には下がらないことが多いのですが、解熱剤で体温が下がってしまうと、患者も、また医者自身も予断をもってしまって重症化を見逃すなんてことにもなりかねません。とにかく、解熱をするのは「高熱のつらさを軽減するため」と思ってください。

私は家族が熱を出しても解熱剤はできるだけ使わないようにしています。熱を下げたところで早く治るわけではありませんから。むしろ、熱が出てはじめて体の免疫力にスイッチが入り、風邪が短期間で治るともいわれています。ですから、子ども達がまだ小さかったときも、つらそうな表情でもしないかぎり解熱剤を使わず、団扇などで軽く扇いで楽にしてやる程度にとどめていました。そちらの方が子ども達も気持ちがいいのか、すやすやと眠ていました。

そんな私には苦い思い出があります。まだ2歳にもならなかったころの次男の話しです。今回の「心に残る患者」はその彼です。次男はそれまで健康そのもので大病をすることもなく過ごしていました。あるとき高熱を出しました。生まれた直後からニコニコして愛想のいい次男でしたが、熱を出したこのときでさえも機嫌が悪くなることはありませんでした。高熱とはいえ、インフルエンザでもなさそうであり、また、咳をするなどの症状もなかったこともあって、私はしばらく様子を見ることにしました。

風邪であるにせよ、なんであるにせよ、熱が出たからといってなにか恐ろしいことがすぐに起こるわけではありません。痰のからむ咳をしながらの高熱でないかぎり、二日か三日は熱が続いてもどうってことはないのです。むしろ、解熱などしないで済むならそうした方がいいくらい。次男もまた熱以外に症状はなく、食欲もあって元気にしていましたから、家内には「暑そうにしているようなら涼しくしてあげて」と伝え、これといってとくに薬を飲ませたりせずに経過観察していました。

ところが、三日目が過ぎ、四日目になっても高熱が下がらないのです。相変わらず食欲はありましたが、いつもの笑顔も心なしか元気がないように見えました。このぐらいの子どもの高熱が続くときは川崎病や膠原病などの可能性を考えなければなりません。さすがの私も少し不安になってきました。そろそろ小児科に連れて行った方がいいと考えた私は、不安げな家内に「ここまで高熱が続くのは変だから小児科に連れて行った方がいいかも」と告げて出勤しました。

しばらくして家内からメイルがありました。「肺炎だった。松戸市立病院に入院になる」と。私は驚きました。肺炎などまるで疑っていなかったのです。高熱以外には症状に乏しく、食欲もあったし、笑顔も見られていましたから。とはいえ、小児の専門医療機関に紹介される肺炎ということは重症だということ。そんな重症な肺炎をこともあろうに内科医である私が見逃してしまうなんて。熱で上気した次男の顔が思い浮かんではなにかとても申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私のクリニックでの診療が終わり、幼稚園に通っていた長男を連れて松戸市立病院に向かいました。なにが起こっているのかを察しているのか、黙っていた長男も少し不安気な表情をしていました。病院の守衛さんに病室の場所を聞き、次男が入院している病室に入りました。次男は酸素テントの中ですやすやと眠っていました。小さな手には点滴のチューブがつながっています。そのチューブをひっぱらないように包帯でぐるぐる巻きにされた細い腕がとても痛々しく感じられました。

重症だということは病室の雰囲気でわかりましたが、どれだけ入院しなければならないのか分かりませんでした。しばらくは家内が付き添うことになりますが、私と長男のふたりきりの生活を思うと長男にも寂しい思いをさせてしまい申し訳ない気持ちがしていました。心の中では「ちゃんと診てあげていたらこんなことにならなかったのに」と次男に何度もわびていました。すやすやと眠っている次男が、自宅で高熱に耐えていたときよりも少しだけ穏やかな表情をしていることが救いでした。

家内の冷ややかな視線を感じながらこれまでの経過を教えてもらいました。それによると、私が出勤したあと家内は次男をかかりつけにしていた小児科に連れて行ったそうです。そして、そこの小児科医は息子の聴診をするなり、「これは大変だ。今すぐ専門の病院にいきなさい」とあわてたように家内に告げたそうです。そして、そのまま松戸市立病院の小児科へ。息子のレントゲン写真は両肺とも「真っ白だった」と。しかも体に取り込む酸素の量が低下していてそのまま入院になったのでした。

家内からそんな緊迫した経過を聴いているとき、次男の主治医が病室に入ってきました。「このたびはいろいろご迷惑をおかけします」と私が深々と頭をさげると、その小児科医は笑みを浮かべながら「お父さんは内科医なんですってね。内科のお医者さんであってもお子さんにはちゃんとステート(聴診器)を当てて下さいね」と。私はなぜあのとき息子に聴診器を当てなかったのかと後悔しました。咳をすることもなく高熱だけだったため「肺炎なし」との予断をもってしまったのです。

その小児科医は続けました。「小さい子どもの中には、お子さんのように咳を我慢してしまう子がいるんです」と。そういえば息子は咳こそしませんでしたが、しゃっくりのように「ヒクッ、ヒクッ」と時々しゃくり上げていたのを思い出しました。あれが咳を我慢している様子だったのです。私は改めて聴診をしなかったことを悔やみました。普段の診療であれば、必ず聴診器をあてていたのに。自分の子どもだったということにも油断してしまった原因でした。

内科での診療の際、聴診をする理由はさまざまです。不整脈や心雑音のフォローアップをするためであったり、それまでになかった不整脈や心雑音が出現していないかを確認するためであったり、肺炎や気管支喘息の可能性を疑うケースやさまざまな症状を裏付ける所見がないかを調べるためだったり。お薬を定期的にもらいに来院される患者に聴診をするのはそのためです。訴えもなく、なんでもなさそうに見えても、なんらかのあらたな所見が見つかるケースは決して少なくありません。

なのに高熱を出した自分の子どもには聴診すらしなかった。小児科の医師にそれを指摘されて、私は自分を恥じていました。自分の家族となるとどうしても緊張がなくなります。そして予断が入りやすくなる。それが見逃しや誤診の原因になることを思い知らされました。ついこの間も、予断をもたなかったために一命をとりとめることができた患者がいました。紹介した病院の主治医から「早めに対応していただいたおかげで大事に至らずに済みました」とお電話をいただいたばかりです。

プライマリ・ケア(初期医療)を担当する私たちが、日頃なにげなく診ている患者の中には重大な病気が隠れていて、その病気を見逃してしまうことが患者の命を左右すると場合があります。砂浜に落としたダイヤを探すような、そんな仕事が私たちプライマリ・ケア医の役割のひとつなのかもしれません。看護婦さんがちょっと血圧を測ってくれたから、あるいは患者が一言だけキーワードを告げてくれたから、あるいは医者のなんのことはない胸騒ぎがあったから救われる命があるのです。

その意味で、次男の肺炎を見逃した「事件」は私にとって重要な教訓になりました。その息子も今は中学生になりました。肺炎になって以降、大きな病気にもならずに成長し、今や私の身長を追い越そうとしています。酸素テントの中で点滴がつながれながらすやすやと寝息を立てながら寝ていた当時の息子を思い出すと今でも可哀そうで涙が出てきます。でも、あのときの経験があったからこそ、今も予断をもたずに診療しようとする意識が保てているのかもしれません。まだまだ修行が足りないと感じるときもありますが。

医学生の頃、病院実習の時に指導教官から「患者を自分の親だと思って診察しなさい」といわれました。当時はその意味を、「(自分の親だと思って)緊張せずに診察しなさい」といわれたのだと思っていました。しかし、その先生はきっと「自分の身内だと思って患者を大切にしなさい」ということを私たち学生に伝えたかったのでしょう。医者は、あるいは医療・診療は「毎日が勉強、日々が経験だ」ということを痛感します。ともすると日常にながされそうな自分を戒めながら。