がんばれ、日本(2)

オリンピックが延期されました。正直、ホッとしています。準備に奔走してきた人たちやオリンピックの開催を心待ちにしていた人々、もちろんオリンピックでの試合に照準をあわせて練習してきた選手の皆さんもふくめて多くの人達が落胆しただろうと思います。しかし、よく考えてみてください。日本あるいは東アジアだけの感染であればまだしも、今の感染状況といったら「世界的なパンデミック」なのです。世界各国ともに選手団を日本に送り出せる状況でないことは火を見るよりあきらかです。

しかも、東京オリンピックへの盛り上がりも今回の新型コロナウィルスのせいですっかり色あせてしまいました。それどころではないということなのでしょう。このままオリンピックを強行しても、世界の強豪が集まらない、そして、観客すらまばらな試合を「消化」するだけの大会に終わっていたでしょう。私自身はオリンピックは延期するしかないと思っていましたが、それでも「決定されたこと」として馬鹿正直に突き進む日本のことです。これまでの「予定通り」という政府発表に冷や冷やしていました。

感染の拡大も今のところ大規模な「爆発的拡大」にはなっていないようです。むしろ、私が期待しているように今月末のピークアウトに向けて順調な陽性者数ならびに重症者数の推移をしているように見えます。それなりの数の検査数をやっても、その検査で陽性と判定されるケースがきわめて低い状況が続いています。これは専門家会議で発表された「実効再生産数(ひとりの患者がうつしてしまう人の数)がしばしば1を下回っている」ことを反映してのことこもしれません。

一方で重症者の数もそろそろ頭打ちになって来ているように見えます。これは重症患者が次々と発生していたこれまでとは異なり、重症化する患者そのものが少なくなってきたこと。あるいは重症患者の治療がスムーズにいき、回復する患者がふえてきていることをあらわしているのかもしれません。これらのことは、日本では感染患者が爆発的に増えていないということを意味しているとも解釈できます。と同時に、日本の医療がまだ崩壊していないこともあらわしていると思います。

こうした楽観的な変化が見えてくる中で、人々のこれまでの警戒心が徐々に薄くなってきたことを想像させるような変化も見られます。それは最近の感染患者に「海外からの帰国者」が多くなってきたという点です。日本にいると感染拡大の恐れをあまり感じないですむかもしれません。しかし、海外は違います。「世界的なパンデミック」が宣言される中、国際的な関心は、これまで感染の中心だった中国から、欧州、とくにイタリアやスペイン、フランスやドイツといった国々に移っています。

これらの国々では感染者数もさることながら、死者の急増が目立っています。もともと金融不安をおこしかねないほどの財政状況の悪さが指摘されてきたイタリア。EUはイタリアに財政の「健全化」をもとめ、イタリアは医療の「効率化」をおこないました。つまり、国立病院の統廃合をおこなったのです。「効率化」という言葉はきれいですが、要するに「合理化」です。日本とおなじように高齢化の進むイタリアにおいて、この合理化が正しかったかどうかは今回の感染拡大が答えを出したようです。

イタリアの医療水準は決して低くはありません。近代医学の発展をささえた国ですし。そんな国がなぜこれほどまでいとも簡単に医療崩壊してしまったのか。その要因はさまざまでしょうが、やはり感染者が発生した初期の対応の誤りが大きく影響しているようです。イタリアは当初、「全数検査」「全感染者の隔離」を進めました。そうしたことがあっという間に病院の収容能力を低下させました。医療の「合理化」がこれに拍車をかけ、重症者の治療に支障がでてしまったのです。

また、医療従事者への感染拡大も深刻でした。患者の治療の際にも感染の危険性があるのに、検査をもとめて病院に押し掛ける人から検体を採取する業務が重なればなおさらです。なにせ「全数検査」ですから。検査に不慣れな医療従事者もいたかもしれません。これまでも説明してきたように、この検査には「偽陰性」と「偽陽性」の問題が無視できません。検査を受けた人がその後どのような行動を取るかも影響します。そうしたことが相乗効果となって今のイタリアの感染拡大、医療崩壊をもたらしています。

ひるがえって日本はどうでしょうか。「コロナをうつしてやる」と飲食店をまわっていた不届きな陽性患者はあっという間にこの世を去りました。今頃はきっとあの世で後悔と反省の日々をおくっているかもしれませんがあとの祭りです。しかし、同じような思慮のない行動をする人があとを絶ちません。「パンデミック」を宣言されている状況で海外旅行をしたあげくに、新型コロナ検査の結果を待つように要請されながらも帰宅してしまう家族などはその典型例です。

中止要請を無視して格闘技の大会を強行した例も同じです。たしかにそれぞれの事情があるだろうと思います。中止の要請は強制力をもつものではないかもしれません。しかし、日本における新型コロナウィルスの感染状況は今が重要な局面を迎えているのです。今の安定した感染の様相はとてももろいものです。感染がなにかをきっかけに爆発的なものに変化する(オーバーシュート)かもしれません。そして、それを機会に医療崩壊が一気に進むかもしれないのです。そのことをもっと認識してほしいと思います。

そうならないでいられるのは、ひとえに日本全国でおこなわれている自粛や活動の抑制という国民の努力によるものです。その努力によってかろうじて保たれている今の状況はものすごくもろいものです。「ワクチンを打ってもどうせなるから」「これまでかかったことがないから」という理由でワクチンを撃たないでいるフリーライダー(ただ乗りをしている人)は、たくさんの人がワクチン接種することによって自分自身が守られ、大規模な感染拡大に至らずにすんでいるという自覚がないということに気が付くべきです。

この辺のことはあとでもう少し詳しくお話ししたいと思っていますが、要するにもう少しの間、今の警戒心をゆるめないでほしいということを伝えたいと思います。最近、病院に「(新型コロナウィルスの)陰性証明」をもらいに来る人がふえていると聞きます。こんなときになんでそんなバカげたことをするのでしょうか。陰性を証明できるはずもありませんし、また、のこのこ病院へ検査を受けにいくべきでもありません。それ自体に意味がないばかりが医療機関の負担を増やすだけだということを知ってください。

繰り返しますが、検査は必要な人がするものです。必要かどうかは医師あるいは保健所の担当者の判断にゆだねるべきです。検査は「誰でもがすべきもの」では決してありません。これまでたくさんの検査をおこなってきたアメリカも、最近、「必要な人にかぎって検査をする」という方針に転換しました。日本は原理原則にしたがって検査をおこなってきましたし、その適切性は今の日本の感染が落ち着いていることが証明しています。理性を働かせながら、みんなでもうひと息頑張りましょう。

がんばれ、日本

中国・武漢発の新型コロナウィルス(COVID-19)は、2019年から2020年に代わるころから中国全土で爆発的に感染が拡大しました。ちょうどそのころ、「おもてなしの国」の日本で旧正月を祝うためにたくさんの中国人が訪れました。そして、その結果、日本でもかなり早い段階から感染者が発生し、患者の数は今もなお増え続けています。個人的には、あのときに入国制限をしておけばという思いはありますが、日本はそうした「インバウンド」を受け入れながらの観光立国に舵を切ったのです。外国に依存する経済を目指す以上、ある意味、仕方ないことかもしれません。

ともかく、今は感染拡大の収束に向けて国民が一体となって頑張らなければなりません。まさに踏ん張りどころです。統計上、中国の感染者数はピークアウトになった(感染拡大の峠を越えた)ことになっています。共産国家中国の統計の確からしさを疑問視する有識者もいますが、1月の時のようなパニックともいえる状況からは脱していることはまちがいないようです。そのかわり、欧州を中心にアメリカにまでも感染はひろがり、WHOはようやく世界的なパンデミックを宣言しました。汚染国とされた日本がいつの間にかその指定からはずれ、今や日本よりも欧米での感染がどこまで広がるのかが注目の的です。

日本での感染拡大はこれからどうなっていくのでしょうか。そうしたことはこれまでの感染の様子を振り返ってくると見えて来るかもしれません。厚生労働省ではこれまでのCOVID-19に対するPCR検査の結果と死亡者数、患者の重症度に関する統計データを公開しています。先日のブログで紹介した東洋経済のホームページもその資料をグラフしたものです。このグラフを見ただけでも陽性患者数の推移や、「検査を増やせ」との世論を反映して検査数が急速に増加していることがわかります。今回、私はこれらとはことなる、日本における今後の感染拡大を予測できそうなものをグラフ化してみました。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これは陽性者の数を検査数で割った数字をグラフ化したものです。データの数字を見ていただければわかるのですが、3月4日に突然3倍ほどに検査数が増えていました。これは検査の意味をしっかり理解していない国会議員の声や、医学統計の知識のないTVコメンテーターが連日「検査を希望する人全員に検査ができるように数を増やせ」と叫び続けた結果なのかもしれません。その後も検査の数は増え続け、3月13日にはついに10000件を突破。17日には15000件を越えるまでになりました。こうしたことは決していいことだとは思いませんが、これも「仕方ないこと」ととらえるべきなのでしょうか。

陽性者の数を検査数で割った数字は、「検査した患者のなかにどのくらいの陽性者がいたか」をあらわします。それを見ると、2月のころの値よりも徐々に低下し、最近になって低い値が続いていることがわかります。その傾向の意味を考えると次のようなことが予想されます。

●当初は検査の対象をかなりしぼって実施していた(最近は対象のしぼりこみが甘くなっている)

●COVID-19感染者が実際にはそれほど増えていない

こうした検査はめったやたらに実施するものではありません。検査対象をしぼって(このことを「事前確率を上げる」といいます)からやるものです。どうしてかというと、こうした検査は「白黒をつけられるもの」ではなく、どうしても偽陽性(病気ではないのに陽性がでるケース)や偽陰性(病気なのに陰性がでるケース)がでてきてしまうためです。とくに有病率(病気のめずらしさ)が低い疾患ほどそうした不正確さがめだちます。その意味で検査対象者の絞り込みができていたことは保健所の努力の成果です。

その一方で、検査の数が増えているにも関わらず陽性にでる患者の割合はここ2週間は横ばいになっています。こうしたことは患者数が増えている(つまり患者の人口密度が高くなっている)場合には見られない傾向です。言いかえると、患者はほぼ全国均一になりつつあることを示しているかもしれません。人口が多いところには患者は多いが、人口が少ないところにはそれなりにいるようになった、というわけです。毎日、TVや新聞では「感染者がまた出ました」と報道していますがあれではこうした傾向はわかりません。

次のグラフを見てください。ひとつは検査数の推移、もう一つは陽性患者の変化を示したものです。今月になって急速に検査数が増えているのがよくわかると思います。その検査の多さにも関わらず、陽性者の数そのものが減少しているように見えますがそれは私の「希望」でしょうか。一方、それらのグラフと共に、重症患者と死亡者のグラフも作ってみました。COVID-19に感染した患者の数は、検査が陽性になった人の数だけでは推測できません。検査を増やせば増やしただけ数が増えるからです。実際の患者数を推測するには、患者の一定数が重症になると考えて、この重症者の数を見た方が推測しやすいと思います。

(↓下のグラフをクリックすると拡大します)

これらのグラフからは、一週間ほど前から重症者が、10日ほど前から死亡者が急増しているような傾向が見てとれます。これらは、重症化する患者が徐々に累積し、日本の医療技術をもってしても重症者がだんだん力尽きはじめていることを意味しているのではないかと思います。ただ、重症者の増え方がほぼ直線状であることからいえば、感染拡大がどんどんと広がって重症者が増えているわけではないことを意味します。こうしたことから感染が爆発的に増えていないことがわかります。

資料)各国の死亡者数(対人口10万人あたり:日本は3月17日現在、他は3月14日現在)

日本  0.022人 、中国  0.236人 、韓国  0.150人 、米国  0.014人

イタリア 2.093人 、イラン 0.695人 、スペイン 0.263人 、フランス 0.126人

この資料を見てもわかるように、日本の死亡者数は中国や韓国とくらべても数字がひとケタ低くなっています。イタリアをくらべればフタケタも違う。こうした日本の死亡者の少なさは前回のブログからまったくかわっていません。つまり、重症者にせよ、死亡者にせよ、日本では他国にくらべてその増加の仕方がきわめてなだらかだということです。これは日本の医療技術の高さもさることながら、医療機能が十分に機能していることも意味します。感染の爆発的流行には至っていない成果だといえます。

ではこれからどうなっていくのでしょうか。3月9日に開かれた政府の「新型コロナウィルス感染症対策専門家会議」では次のような見解を発表しました。

●爆発的な感染拡大には進んでおらず、一定程度持ちこたえている

●国内感染状況:重症・軽症にかかわらず約80%は他に感染させていない

●一人の患者から二次感染させた人の数(実効再生産数といいます)はおおむね1程度

●今後、流行がいったん抑制できても、いつ再流行してもおかしくない

●長期的には海外からの持ち込みが繰り返されるだろう

今の現状から、「ほら、検査数を増やしても感染は拡大しないじゃないか」という声があがるかもしれません。現時点ではそのような意見があがってもおかしくありません。しかし、安定した今の感染状況はとてもあやういものだということを肝に銘じなければなりません。検査の数がふえたといっても、まだ保健所がきちんとトリアージ(振り分け)をしてくれています。意味のない検査はできるだけ排除してくれているのです。「不安だから検査」という不適切事例を除外してくれているからこそ今の安定があります。

保健所にはたくさんの問い合わせと、苦情や抗議が寄せられていると思います。おそらく職員は毎日くたくたに疲れ果てているはずです。そうした人たちのおかげで感染拡大が抑えられていることを理解しなければなりません。現在おこなわれているCOVID-19のPCR検査も不必要に増やされているように見えます。にもかかわらず、臨床検査技師の皆さんも感染の危険性と背中合わせの中、たくさんの検体を調べてくれています。検査するときは重装備をしなければなりません。その暑さ、息苦しさを思うとほんとうに頭がさがります。マスコミには是非こうした人たちにももっと光を当ててほしいと思います。

もう少しデータがなければ明確には言えませんが、個人的には今月末には感染はピークアウトするのではないかと思っています。でもこれはあくまでも私の憶測です。もしかすると「希望」かもしれません。先のデータを見ているとそんな希望が見えてくるのです。ただし、これ以上の検査数の拡大がなければの話しですけど。それほどまでに今の状況はあやういものです。もし私の「希望」のとおりになっても、そのまま収束に向かうとは限りません。依然として国民一人一人の努力と抑制が不可欠なのです。感染拡大をおさえるためにたくさんの人が懸命に仕事をしています。そのことを常に意識してこれからも頑張りましょう。

 

 

「新型肺炎」(2)

このブログで新型肺炎について書いたのはつい1か月前のことです。あのとき私が懸念したことが現実のものとなり、新型コロナウィルス(正式呼称は「COVID-19」)に感染した人は今も増加を続けています。感染源である中国での感染者は2月21日現在で75000人を超え、死者もついに2200人を上回っています。前回のブログで警告しましたが、COVID-19に感染した人をふくめたたくさんの中国人が来日したこともあり、2月21日現在で感染者93名(うち無症状病原体保有者14名:15%)であり、死亡した人は1名です。なお、ここにはクルーズ船での感染に関わる数字ははいっていません。

さて、今回のCOVID-19の感染患者に関しては、2月11日時点での疫学調査結果が中国から発表されました。いかんせん彼の国のことですから、これらの統計データにどの程度の信頼性があるのかは定かではありません。統計の基準がなんどか変更されていますから。おそらく中国共産党政府への批判につながらないことを優先してのことでしょう。ですから、今後、WHOなどの国際機関が正式に調査をすれば多少の訂正があるかもしれません。とはいいながら、現時点で発表された結果をみれば、COVID-19の姿をおおざっぱに垣間見ることができます。「正しく恐れる」ためにもこれらの数値を眺めてみましょう。

ながながと数字を並べてもわかりずらいので要点を列挙します。

●中国全土でCOVID-19の感染が確定された44000例を超える患者のデータ解析結果
●19歳以下の患者が2.1%、20~59歳は66.7%、60歳以上は31.2%(うち80歳以上は3.2%)
●患者の80.9%が軽症、中等症は13.8%、重症例は4.7%
●死者数は19歳以下で0.2%(うち9歳以下なし)、20~59歳は2.1%、60歳以上は26.4%
●致死率は全体で2.3%(武漢市で3%、その他の地域では0.6%)

つまり、若年者と高齢者は感染しにくいようです。しかし、高齢者、あるいは基礎疾患をもっている人は死亡する割合が高いという傾向があります。また、このウィルスに感染した多くの人は比較的軽症で、重症になる割合は5%以下です。一方、致死率2.3%という数字については、インフルエンザでの0.2%とくらべれば確かに怖い数字ですが、かつて流行したSARSは10%程度、MERSは35%、エボラ出血熱においては50%と、これらの感染症の方がはるかに恐ろしいようです。ちなみに、「移りやすい感染症の致死率は低く、致死率が高いものほど感染死にくい」という一般的な傾向が知られています。

季節性インフルエンザでは、ひとりの患者が感染させてしまう人の数は2~3人とされており、COVID-19もほぼこれと同じ感染力を有していると言われています。その意味で言うと、今、ちまたで広がっている「感染しやすい危険なウィルス」というイメージとは多少異なるのかもしれません。むしろ、まだ流行という状況からはほど遠い今の現状からいえば、今年になってすでに日本では1000名、アメリカにいたっては14000名あまりが亡くなっているインフルエンザの方が恐ろしい伝染病だということになります。季節性インフルエンザに対する認識の甘い人が多いのですが、日本では毎年約3000人の人が亡くなっています。

今回のウィルス感染がこれからどのくらい拡大するのかは未知数です。今後、中国のように全土に広がって日本でもアウトブレイク(大流行)が宣言されるかもしれません。もしそうなれば世界各国は日本を「感染国」として指定し、日本への渡航制限をかけてくるでしょう。となれば各国はオリンピックの選手団を日本には派遣しないという事態となってオリンピックは中止になるかもしれません。あれほどの費用と時間をかけて準備してきた東京オリンピックがまぼろしに終わり日本の国際的な信頼は失墜します。そうならないようにしっかり対応してもらいたいのですが今の対応はなんとも頼りない限りです。

COVID-19の感染拡大は、日本にとって、あるいは日本人にとって教訓にしなければならない経験です。なぜなら、近い将来、高病原型鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の大流行があるかもしれないからです。H5N1インフルエンザの致死率は60%とエボラ出血熱を上回わる恐ろしい伝染病です。幸い、このウィルスではまだ人から人への感染は確認されておらず、中国のごく一部の地域で鳥から人に散発的に感染するだけにとどまっています。しかし、その遺伝子は変異しやすいことが知られており、近い将来、人から人への感染が成立するだろうと言われています。もしそうなれば今回のCOVID-19と同様にいっきに感染が拡大します。

ところが日本人の危機意識はどうでしょう。年間3000人もの死者を出している季節性インフルエンザでさえワクチンも接種せず、「どうせ打ってもなるから」と高をくくっている人のなんと多いことか。ワクチンはもちろん感染予防のためでもありますが、感染しても重症化しないためのものでもあります。重症化すれば命に関わるばかりか、たくさんの人にも移してしまうことになります。ワクチンを接種しなかったばかりに死んでしまうのは自己責任だからよいとして、他人に感染させてその人を死なせてしまったらどう責任をとるのでしょうか。ワクチン接種は「自分のためであり、また周囲の人達のため」でもあるのです。

日本人にとっての教訓はまだあります。それは解熱剤(あるいはカゼ薬)の濫用です。風邪やインフルエンザを広げる原因のひとつが、解熱剤、あるいは解熱剤入りのカゼ薬を飲みながら勤務・登校する人たちの存在なのです。意外と多くの人がいまだに「カゼ薬は風邪を治す薬」と信じています。しかし、カゼ薬は風邪を治す薬ではありません。カゼ薬は風邪症状を軽くする薬にすぎません。発熱があっても、カゼ薬の解熱成分によって熱を抑えてしまうのです。今の季節、製薬会社は「熱があっても休めないときは」というキャッチフレーズでカゼ薬を売ろうとします。しかし、そこに落とし穴があります。

発熱はからだの免疫力にスイッチをいれるきっかけにもなります。今回のコロナウィルスに限らずすべてのウィルスには特効薬はありません。結局はからだの免疫力でウィルスを退治するしかないのです。ところが解熱剤で熱を下げてしまえば、たよりの免疫力にスイッチが入りにくくなり、結果として風邪がこじれるか、治りが悪くなるわけです。カゼ薬の「風邪をひいたら○○3錠」というキャッチフレーズは実は風邪を長引かせて薬をたくさん売るため、といってもいいものなのです。これらのことは普段の診療でいつも患者にいってきたことです。「解熱剤を一日三回なんて飲んじゃダメですからね」と。

熱があがらなければ、患者自身も、また医師も重症度の判断に予断をもってしまいます。「高熱だから重症?」と疑うチャンスを失ってしまうのです。中国であれだけあっという間に感染を広げてしまった原因にもカゼ薬(あるいは解熱剤)の濫用があったのではないか、と指摘する人もいます。解熱剤を服用しても熱を抑えきれなくなり、ようやく受診した患者に肺炎を合併していることがあります。「なんでこんなになるまで我慢したんですか?」と尋ねると、患者は「大した熱ではなかったので様子を見ていた」と答えます。そんなとき心の中で「カゼ薬なんてなくなってしまえっ!」と叫んでしまいます。

医者も悪いのです。風邪で受診するたびに解熱剤を出す医者がいるからです。確かに「熱がある」「頭痛がする」「のどが痛い」と患者が訴えれば解熱剤(=痛み止め)をだしてあげたくなるのは人情です。しかし、だからといって無頓着に一日三回の解熱剤(=痛み止め)を処方するのはどうかと思います。多少なりとも症状を軽減できても、風邪症状を長引かせたり、重症化を見逃しかねない処方は避けるべきなのです。風邪のとき、あるいはインフルエンザのときは本来つらいもの、と割り切ることも大切です。苦痛から逃れたいという気持ちはわかりますが、少なくとも発熱に関していえばこういうときは仕方ないともいえます。

検査もそうです。以前のこのブログでも書きましたが、インフルエンザの検査は絶対的なものではありません。検査結果は診断するためのひとつの情報ではありますがすべてではありません。場合によっては検査で陰性の判定が出ても、インフルエンザだと診断して抗ウィルス薬をお勧めすることもあります。この検査は、インフルエンザに感染し、からだの外にあふれ出てきたウィルスを検出するものです。ですから、うまくそのウィルスを拾えなかったり、まだあふれてきていないときに実施しても陰性になってしまうのです。この検査は「インフルエンザであることを確認するもの」ですが、あくまでも参考にすぎません。

今回のCOVID-19でも同じです。検査で陰性が出てもそれで「新型ウィルスに感染していない」ということにはなりません。ニュースでは「検査陰性だった人が発症した」と大騒ぎですが、我々医者にすれば「そんなことあたりまえなこと」なのです。もちろん逆に陽性であってもウィルスに感染していない場合もあります。それを擬陽性といいますが、COVID-19の感染患者とされている人たちのなかにはそうした擬陽性の人がいるはずです。今、日本には14名の「無症状病原体保有者」がいますが、その人たちにもおそらくこの擬陽性の人がふくまれているのではないかと思います。

「それならどうやって診断すればいいのか」と疑問に思うかもしれません。私をはじめ、多くの医者は検査はあくまでも参考にして診断しています。検査の結果だけを根拠にインフルエンザかどうかと判断するのではなく、その人の症状の経過や全身状態、あるいは診察所見などを総合的に判断するのです。ですから検査が陰性でも症状の勢いが強ければインフルエンザと診断して薬をお勧めすることもありますし、陽性でも症状が軽い場合はあえてお薬はお勧めしない場合もあります。COVID-19は未知のウィルスであり、今後の感染がどのように展開していくのかわかりません。だからこそ今は厳しめに判断しているのだと思います。

結局のところ今回の新型コロナウィルスは恐ろしいのでしょうか。結論からいえば、その判断をするのはまだ時期尚早だと思います。今の私自身は楽観的でもありませんし、悲観的でもありません。しかし、感染が拡大していくことだけは間違いないでしょう。なぜなら、中国との人的交流は続いており、感染者が日本に入国してくることは否定できないからです。政府も入国制限をしないという方針はしばらく変更するつもりはなさそうです。とはえ、1か月前に「新型肺炎について」とタイトルをつけた原稿をこのブログに掲載したとき、アメリカやカナダなどと協調して入国制限していればまた違った展開になっていたかもしれません。

しかし、そんなことを今さらいっても仕方ありません。これからどうするかについて、専門家の意見をまじえて真剣に考えるしかありません。ついこの間、「はじめての専門家会議が官邸で開かれた」というニュースを聴いたとき私は耳を疑ってしましました。とっくの昔に専門家の助言を得て対策をとってきたとばかり思っていたからです。厚生労働省には医系技官という医学部を卒業した官僚がいます。しかし、彼らのほとんどは感染症の専門家ではありません。感染症を専門にした大学の研究者とてその多くは感染症対策の実務を経験していません。大規模な感染症の対策がなおざりにされてきた証拠です。

アメリカには感染症の研究と対策の専門機関であるCDC(米国疾病管理予防センター)があります。また、感染症の拡大を安全保障の一環ととらえてDHS(国土安全保障省)が対応することもあると聞きます。しかし、日本にはこうした組織がなく、一朝有事となったときに政府の各機関が統合して動くことができないのです。とすればやはり生物・化学兵器の対策を専門にしている部署がある防衛省が国家安全保障会議の中心メンバーとして対応すべきです。今回もそうした案が政府内にはあったはずですが、軍組織に対する旧態以前とした頭の固い抵抗勢力のせいで封印され、それぞれの組織がバラバラで活動しているのが現状です。

私は新型コロナウィルスの感染拡大そのものよりも、日本のこれからがとても心配です。1か月前に感じていた胸騒ぎはきっとそれだったのではないかと思います。つまり、昨年10月の消費税増税で日本経済は少なからずダメージを受けました。多少のダメージがあることは多くの人達が予想していましたが、COVID-19による影響がそこに加わることになるとは誰も想像していなかったでしょう。中国発の新型コロナウィルスによってサプライチェーンが寸断され、今、日本の産業に大きくて暗い影を落としています。一方で、国内のさまざまな自粛によって観光客が激減し、国民の購買意欲を低下させています。

日本での感染患者がどんどん増え、国際社会から信頼を失なえばオリンピックは中止または延期になるかもしれません。もしそうなったらどうなるでしょう。インバウンド頼みとはいえ、なんとか堅調さを保ってきた日本の景気は一気に吹っ飛んでしまいます。私が警告してきた、日本の景気に対する懸念が現実のものとなってしまうのです。私が今回の新型コロナウィルスの感染拡大を不安に思う主要な原因がここにあります。そのときの責任は誰がとるのでしょうか。総理大臣や現在の政府が変わったところでいったん奈落におちた日本の経済を回復させることは容易ではないのです。

とはいえ、今すべきこと、これからすべきことを真剣に考えるべきです。いつか発生するであろう高病原性インフルエンザの流行も念頭におかなければなりません。だからこそ現在進行中のCOVID-19の感染拡大に対しては慎重かつ適切に行動しなければなりません。手洗いとうがいの価値、あるいは今まで軽視してきたワクチン接種の意義を見直すべきです。検査至上主義の風潮、あるいは風邪薬への過信をあらためなければいけません。部活優先のために学級閉鎖を躊躇するような学校運営をあらためなければなりません。新型コロナウィルスの感染拡大はこれからが正念場。「正しく恐れる」とは根拠なく楽観視することでもなければ、目をそむけることでも、取り乱すことでもないのです。

【追記】
 新型コロナウィルスに感染した人、あるいは感染拡大の阻止に力を尽くしている人たちへの差別的な
 言動が報道されています。すべての人がいつ感染者の立場になるかわかりません。また、感染拡大の
 阻止に向けて尽力する人たちがいなければすべての国民が危険にさらされます。ですから、こうした
 人たちへの偏見あるいは差別的な言動は絶対に許してはなりません。あの原発事故のときもそうでし
 た。被爆被災した地域の住民、あるいは原発事故の収束、停電の復旧に向けて頑張っていた東京電力
 社員への心ない言葉が飛び交っていました。本来、被災住民にも、あるいは東京電力社員にも責任は
 ないはずです。なぜなら原発を破壊したのは、想像をはるかに超えた津波なのですから。今回の新型
 ウィルス感染に関しても原発事故の当時と同じような差別や偏見があるとすれば、実になげかわしく、
 恥ずべきことです。そうした人の道にはずれるような行為がなくなることを願ってやみません。

 

 

心に残る患者(7)

ときどき患者さんから「薬を2ヶ月出してください」と言われます。昔と違って今は1ヶ月という「長期処方」があたりまえで、14日分という本来の投薬日数通りに薬を出すことの方がめずらしくなりました。大きな病院が平気で三ヶ月分の薬を出すことも影響しているかもしれません。三ヶ月という乱暴な処方をするのは、待合室にあふれかえる患者をさばくための方便であることがほとんどです。ともかく、そんな「診療」を受けていれば「2ヶ月ください」となるのも無理はありません。

でも、一か月を大きく超える薬を出す「診療」って本当に「医療」なんでしょうか。何時間も待たされたあげく、ようやく診察室の中に入ったと思ったら、医者はコンピューターの画面を見ながら「変りありませんね」とひと言。そして、聴診器も当てず、血圧も測らずに「ハイっ、いつものお薬を出しておきます」と事務的に終了。受診のたびに繰り返される採血の結果さえほとんど説明なし。たった今椅子に腰掛けたばかりなのにもう終わり?って「診察」などどう考えても「医療」じゃないですよ。

病院の理屈からすれば「そうでもしなけりゃこんなにたくさんの患者を診れないよ」なのでしょう。私も大学病院で診療していましたからよくわかります。でも、その一方で、こんな「診療」でも患者によってはありがたいと思う人もいます。「大きい病院だから安心」、「なんども受診しなくて済む」など、混んで待たされたあげくの「二言三言の診察」を上回る利点があるのでしょう。でも、ちょっと待って下さい。なんのための受診ですか?薬をもらうだけでいいんですか?

医者も患者も納得づくならそれでいいじゃないか、と言う人がいます。しかし、診察でなんらかの病気を見逃してしまった場合を考えて見て下さい。三ヶ月処方なら次回の診察は半年後。癌だったら全身に転移していてもおかしくない期間です。考えてみれば恐ろしいことです。その間、患者が不具合を感じて受診してくれればいいのですが、自覚症状がない場合や、自覚症状があってもその危険性を患者が認識できないこともあります。長期(一か月以上)の処方には長期なりの危険性がつきまとうのです。

Hさんという血圧の薬をもらいに通院していた人がいました。あるとき、いつものように血圧をはかり、聴診をすませると、Hさんは「先生、薬、2ヶ月出してくれねぇか?」と言い出しました。当時、私は二ヶ月処方をすることはほとんどありませんでした(今はケースによっては一か月を超える処方をすることがあります)。たまに状態が安定していて、服用している薬の種類が少ないとき、あるいは、夏休み前や年末など、途中でお薬がなくなってしまうときなどに二ヶ月分の処方をしているにすぎませんでした。

私はHさんのご要望をお断りすることにしました。一ヶ月とはいえ「長期処方」です。薬を服用しているうちに副作用が出るかもしれません。あるいは他の症状が現れているかもしれない。私たちが定期的な診察で問診をおこない、聴打診や触診をし、血圧を測り、ときには採血をするのはそうした変化を見逃さないためです。多くの人は「薬を飲んでいれば安心」と思っているようですが、薬を服用するということは、それなりのリスクを抱えているということを忘れてはいけません。

しかし、Hさんは受診のたびに「2ヶ月処方」を希望しました。いつしか私は繰り返していた説明も面倒になって、とうとうHさんの要望に負けてしまいました。私はHさんに二ヶ月分の薬を処方することにしました。しかし、いったんそうなるとなし崩し的に毎回2ヶ月分を処方するように。私もHさんと同様に「なにも変化がないじゃないか」という予断をもってしまったのです。いつしかHさんには漫然と薬を処方するようになり、ある種の緊張感のようなものがなくなってしまいました。

漫然とした診療には落とし穴があります。あるとき受診したHさんは「咳が出る」と訴えました。診察中に咳をする様子もなく、診察してもなんの異常もなかったことから、急性気管支炎として薬を追加して様子をみることにしました。そして2ヶ月がたちました。私はHさんに「前回の咳はどうなりましたか?」と聞いてみました。「だいぶよくなったがときどきまだ咳がでる」と。やはり聴診では異常がありません。私はHさんに言われるがままに咳止めを追加して診療を終えました。

普段の診療に追われ、Hさんの咳のことなどすっかり忘れていたある日、Hさんが定期受診のために来院しました。そして、今さらながらに「咳がひどくなった」というのです。確かに待合室にいるときから咳をしていました。私はHさんの胸に聴診器をあてて愕然としました。これまで聞こえなかった肺雑音が聞こえるのです。私の胸には暗雲がたちこめてきました。直感的に「これはただの肺炎や気管支炎ではない」と思いました。Hさんに胸部レントゲン写真を撮らせてほしいと頼みました。

できあがった写真を見た私のからだからは力が抜けていきました。肺癌だったからです。しかもかなり進行した肺癌です。すぐに専門的な治療を受けられる病院に紹介しました。病院からの返事には、「肺癌。全身に転移あり、脳の転移巣に対しては放射線治療の予定」と書かれてありました。私は「なぜHさんに咳のことをもっとしつこくたずねなかったのだろう」と後悔しました。ご本人もまさか肺癌だとは思わなかったのかもしれません。結果的に患者の言葉をうのみにした私の落ち度です。

「一ヶ月なんてあっという間」と皆はいいます。私もそう思います。しかし、二ヶ月という日数は癌が成長するのには十分な期間です。しかも、一回見逃せば次回の受診は四ヶ月後です。Hさんのケースのように癌を見逃してしまえば、決定的な失敗を招くことになります。自分が見逃した病気で患者を失うことは医者にとってつらいことです。主治医にとっては打ちのめされるような失敗です。一ヶ月を超える超長期間の処方の恐ろしさはこんなところに潜んでいます。

昨年も「2ヶ月の処方をしてくれ」と執拗に要求する患者さんがいました。しかも「毎回2ヶ月分の薬を出してほしい」というのです。私はきっぱり断りました。「私はそういう医療はやらないので、他の医院で頼んでみてはどうか」と勧めしました。しかし、その患者さんは「(超長期処方を断って)他のクリニックに患者が逃げるより、二ヶ月分出しても患者が定期受診した方が経営的にいいではないか」と引き下がりません。私は「そんなことを言ってるんじゃない」と叫びたい気持ちをこらえていました。

「毎月2ヶ月かそれ以上の処方」を求めてくる患者は、検査を勧めても「いえ、結構です」と拒絶する人が多いように思います。検査はむやみにやっているわけではありません。よもや収入を増やすためにやっているわけでもない。医療用の医薬品は効能と副作用の両面に注意をはらう必要があるのです。その薬を服用するからには、効果判定とともに副作用の有無を検査等で把握しなければならない。薬を服用するということはそういうことなのです。

主治医の指示が絶対だといっているのではありません。医学的な観点から助言しているだけなのですから。だからといって「検査するかしないかは患者の勝手」というわけにはいきません。薬を処方するからにはそれなりの責任が生じます。適当な診療ができる医者とそうではない医者の違いはその責任感の差かもしれません。本来、そうした責任感のない医師から薬をもらってはいけないのです。ただ薬をもらって飲んでいればいいと考えるのは間違いだと思います。

昨年、危うく一命を落とすところだったYさんという患者がいました。Yさんも血圧の薬をもらいに定期的に当院に通院していました。師走に入ったある日、胸の痛みを訴えてやって来ました。看護師がベットに寝かせて問診していると、Yさんは「今までにはない胸の痛み」と症状を訴えました。それまでの血圧のコントロールは良好でしたが、このときばかりはいつもよりも高くなっていました。私は「狭心症?それとも心筋梗塞?」と考えをめぐらせながら心電図をとりました。

心電図はいつもと変わりなく異常ありませんでした。聴診をしましたが心雑音や不整脈など気になる所見も見られません。「今の痛みはいかがですか」とたずねると、「痛みはだいぶ落着いてきたが、まだなにか違和感を感じる」と。いつもよりも高い血圧や「今までにない痛み」「違和感を感じる」という表現に私はなんとなく胸騒ぎがしました。私は直感的に「病院で検査を受けさせた方がいい」と思いました。でも、さしたる根拠はないのにわざわざYさんを病院を受診させることを少し躊躇していました。

「Yさん、今のところ心電図に異常はなく痛みもおさまっていますが、念のために病院に行って検査をしませんか。私を安心させるためと思って」と私。このような言い方をしたのは、Yさんは「自宅で様子をみたい」というのではないかと内心思っていたからです。しかし、Yさんは思いのほかあっさりと「わかりました」と言ってくれました。私はなぜかホッとしました。救急車を要請しようか迷いましたが、結局Yさんはタクシーで紹介先の病院に向かいました。

このような経過をたどるケースの中には、心電図に変化のない心筋梗塞だったり、心筋梗塞になりかけた狭心症という場合があります。医学部を卒業して三十年、これまでに経験したいろいろなケースがあたまをよぎりました。とはいえ、わざわざ病院に受診させてなんの異常もなかったり、結果として救急車を要請するほどのことではなかったりして、結果として過剰診断となることを気にする自分がいました。「やみくもに病院を紹介する医者」と見られたくないからかもしれません。

今回のケースも「病院での検査」を受けさせた方がいいと思いながら、もしYさんが「胸の痛みもおさまってきたので自宅に戻って様子をみる」と強く主張してきたら、薬を処方した上で帰宅させてしまったかもしれません。あえて病院を受診させて「タクシー代や診察代をかけて行ったのになんでもなかったじゃないか」とひんしゅくを買うのを恐れるからです。Yさんが助かったのは、私の勧めを素直に聞いてくれたからだともいえます。命をつなぐ糸は実は細くて危ういものなのです。

Yさんの病気が私の想像を超えていたことを知ったのは翌日の朝のことでした。診療前に紹介先の病院から電話がありました。Yさんを見送った後もなにか胸騒ぎが続いていて、看護婦さんと「Yさんのことが気になるね」と話していたところでした。電話口で紹介先の主治医は少し興奮気味に説明してくれました。「Yさんは実は大動脈瘤でした。先生が素早く対応してくださったおかげで救命できました。ありがとうございました」とお礼を言われました。むしろこちらこそお礼を言わなければいけないのに。

私はまさか大動脈瘤だとは思っていませんでした。背中の強い痛みを訴えていたら疑ったかもしれません。しかし、Yさんの動脈瘤はスタンフォードA型という心臓と大動脈の境界付近に生じる比較的めずらしい動脈瘤でした。背中の痛みにはならない場合があるのです。紹介先の病院で冠動脈CT検査をやってくれたおかげで見つかりました。あのまま自宅に返していたら、そう思うとゾッとします。スタンフォードA型の大動脈瘤は一時間当たり2%ずつ致死率が上昇し、24時間放置すると90%以上が急死するのです。

実はYさんは以前にも幸運なことがありました。通常受診のときの雑談でYさんは冗談めいたように「最近、ちょっと新聞の字が読みづらいんですよ」と笑いました。いつもの私なら「老眼が進んじゃいましたか?」と笑い返すところなのですがこのときは違いました。私は一瞬「脳下垂体腫瘍では?」と思ったのです。私はYさんに「念のために脳のMRI検査を受けてください」と頼みました。「様子を見ますから大丈夫です」といわれるだろうと思いながらですけど。

しかし、Yさんは病院を受診してくれました。そして、心配した通り脳下垂体腫瘍が見つかりました。でも、その後、手術で腫瘍を完全に摘除し、後遺症もなく生活されていました。このときも私がなにげなくお勧めした検査を素直に受けてくれたからこそ命拾いをしたのだと思います。決して私の見立てがよかったのではありません。私を信じて私の助言に耳を傾けてくれたおかげなのです。診療とはそういうものです。このように診療とは医師と患者がお互いの信頼を得てなりたつものだといえます。

このように、診療が単に「薬をもらえばいいもの」ではないということがわかると思います。ひょんなことから一命をとりとめた事例は他にも少なくなく、そうした事例も今後ご紹介できればと思っています。最近のTVでは視聴者の医療不信を高めるような番組が多いように感じます。そうしたことが患者の医療者に対する不信感を高める原因のひとつにもなっているのかもしれません。もちろん患者にとって「自己防衛すること」は大切です。しかし、それには限界があることも知らなければなりません。

一方で、不信感を持たれてもしかたない医療がおこなわれているのも事実です。患者が自己防衛しなければならないのは、そうした質の悪い医療があるからです。でも、質の悪い医療はなにも開業医による診療だけの話しではなく、大学病院をはじめとする大病院でもあります。もちろん医療の良し悪しは素人である患者が見極められるほど簡単ではないかもしれません。しかし、「薬だけもらえばいい(出せばいい)」という医療から抜け出すことはできるはずです。まずはそこからはじめるべきだと私は思います

心に残る患者(6)

インフルエンザのシーズンがやってきたようです。インフルエンザは本来、タミフルなどの抗ウィルス薬などを使わなくても自然に治る感染症です。ですから、もしインフルエンザにかかっても、自宅で安静にしていればいいわけです。しかし、いかんせん普通の風邪とは違って、高熱や全身倦怠感、関節痛、頭痛などの症状をともないます。高熱によって体力が奪われると肺炎になるなど重症化しやすいという特徴もあります。だからこそワクチンでの予防が重要なのです。

高熱を必要以上に怖がり、解熱剤をつかってあわてて体温を下げる必要はありません。むやみに体温を下げてしまうと、重症化、とくに肺炎を合併したときのサインを見逃すことにもなります。インフルエンザ時の高熱はそう簡単には下がらないことが多いのですが、解熱剤で体温が下がってしまうと、患者も、また医者自身も予断をもってしまって重症化を見逃すなんてことにもなりかねません。とにかく、解熱をするのは「高熱のつらさを軽減するため」と思ってください。

私は家族が熱を出しても解熱剤はできるだけ使わないようにしています。熱を下げたところで早く治るわけではありませんから。むしろ、熱が出てはじめて体の免疫力にスイッチが入り、風邪が短期間で治るともいわれています。ですから、子ども達がまだ小さかったときも、つらそうな表情でもしないかぎり解熱剤を使わず、団扇などで軽く扇いで楽にしてやる程度にとどめていました。そちらの方が子ども達も気持ちがいいのか、すやすやと眠ていました。

そんな私には苦い思い出があります。まだ2歳にもならなかったころの次男の話しです。今回の「心に残る患者」はその彼です。次男はそれまで健康そのもので大病をすることもなく過ごしていました。あるとき高熱を出しました。生まれた直後からニコニコして愛想のいい次男でしたが、熱を出したこのときでさえも機嫌が悪くなることはありませんでした。高熱とはいえ、インフルエンザでもなさそうであり、また、咳をするなどの症状もなかったこともあって、私はしばらく様子を見ることにしました。

風邪であるにせよ、なんであるにせよ、熱が出たからといってなにか恐ろしいことがすぐに起こるわけではありません。痰のからむ咳をしながらの高熱でないかぎり、二日か三日は熱が続いてもどうってことはないのです。むしろ、解熱などしないで済むならそうした方がいいくらい。次男もまた熱以外に症状はなく、食欲もあって元気にしていましたから、家内には「暑そうにしているようなら涼しくしてあげて」と伝え、これといってとくに薬を飲ませたりせずに経過観察していました。

ところが、三日目が過ぎ、四日目になっても高熱が下がらないのです。相変わらず食欲はありましたが、いつもの笑顔も心なしか元気がないように見えました。このぐらいの子どもの高熱が続くときは川崎病や膠原病などの可能性を考えなければなりません。さすがの私も少し不安になってきました。そろそろ小児科に連れて行った方がいいと考えた私は、不安げな家内に「ここまで高熱が続くのは変だから小児科に連れて行った方がいいかも」と告げて出勤しました。

しばらくして家内からメイルがありました。「肺炎だった。松戸市立病院に入院になる」と。私は驚きました。肺炎などまるで疑っていなかったのです。高熱以外には症状に乏しく、食欲もあったし、笑顔も見られていましたから。とはいえ、小児の専門医療機関に紹介される肺炎ということは重症だということ。そんな重症な肺炎をこともあろうに内科医である私が見逃してしまうなんて。熱で上気した次男の顔が思い浮かんではなにかとても申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私のクリニックでの診療が終わり、幼稚園に通っていた長男を連れて松戸市立病院に向かいました。なにが起こっているのかを察しているのか、黙っていた長男も少し不安気な表情をしていました。病院の守衛さんに病室の場所を聞き、次男が入院している病室に入りました。次男は酸素テントの中ですやすやと眠っていました。小さな手には点滴のチューブがつながっています。そのチューブをひっぱらないように包帯でぐるぐる巻きにされた細い腕がとても痛々しく感じられました。

重症だということは病室の雰囲気でわかりましたが、どれだけ入院しなければならないのか分かりませんでした。しばらくは家内が付き添うことになりますが、私と長男のふたりきりの生活を思うと長男にも寂しい思いをさせてしまい申し訳ない気持ちがしていました。心の中では「ちゃんと診てあげていたらこんなことにならなかったのに」と次男に何度もわびていました。すやすやと眠っている次男が、自宅で高熱に耐えていたときよりも少しだけ穏やかな表情をしていることが救いでした。

家内の冷ややかな視線を感じながらこれまでの経過を教えてもらいました。それによると、私が出勤したあと家内は次男をかかりつけにしていた小児科に連れて行ったそうです。そして、そこの小児科医は息子の聴診をするなり、「これは大変だ。今すぐ専門の病院にいきなさい」とあわてたように家内に告げたそうです。そして、そのまま松戸市立病院の小児科へ。息子のレントゲン写真は両肺とも「真っ白だった」と。しかも体に取り込む酸素の量が低下していてそのまま入院になったのでした。

家内からそんな緊迫した経過を聴いているとき、次男の主治医が病室に入ってきました。「このたびはいろいろご迷惑をおかけします」と私が深々と頭をさげると、その小児科医は笑みを浮かべながら「お父さんは内科医なんですってね。内科のお医者さんであってもお子さんにはちゃんとステート(聴診器)を当てて下さいね」と。私はなぜあのとき息子に聴診器を当てなかったのかと後悔しました。咳をすることもなく高熱だけだったため「肺炎なし」との予断をもってしまったのです。

その小児科医は続けました。「小さい子どもの中には、お子さんのように咳を我慢してしまう子がいるんです」と。そういえば息子は咳こそしませんでしたが、しゃっくりのように「ヒクッ、ヒクッ」と時々しゃくり上げていたのを思い出しました。あれが咳を我慢している様子だったのです。私は改めて聴診をしなかったことを悔やみました。普段の診療であれば、必ず聴診器をあてていたのに。自分の子どもだったということにも油断してしまった原因でした。

内科での診療の際、聴診をする理由はさまざまです。不整脈や心雑音のフォローアップをするためであったり、それまでになかった不整脈や心雑音が出現していないかを確認するためであったり、肺炎や気管支喘息の可能性を疑うケースやさまざまな症状を裏付ける所見がないかを調べるためだったり。お薬を定期的にもらいに来院される患者に聴診をするのはそのためです。訴えもなく、なんでもなさそうに見えても、なんらかのあらたな所見が見つかるケースは決して少なくありません。

なのに高熱を出した自分の子どもには聴診すらしなかった。小児科の医師にそれを指摘されて、私は自分を恥じていました。自分の家族となるとどうしても緊張がなくなります。そして予断が入りやすくなる。それが見逃しや誤診の原因になることを思い知らされました。ついこの間も、予断をもたなかったために一命をとりとめることができた患者がいました。紹介した病院の主治医から「早めに対応していただいたおかげで大事に至らずに済みました」とお電話をいただいたばかりです。

プライマリ・ケア(初期医療)を担当する私たちが、日頃なにげなく診ている患者の中には重大な病気が隠れていて、その病気を見逃してしまうことが患者の命を左右すると場合があります。砂浜に落としたダイヤを探すような、そんな仕事が私たちプライマリ・ケア医の役割のひとつなのかもしれません。看護婦さんがちょっと血圧を測ってくれたから、あるいは患者が一言だけキーワードを告げてくれたから、あるいは医者のなんのことはない胸騒ぎがあったから救われる命があるのです。

その意味で、次男の肺炎を見逃した「事件」は私にとって重要な教訓になりました。その息子も今は中学生になりました。肺炎になって以降、大きな病気にもならずに成長し、今や私の身長を追い越そうとしています。酸素テントの中で点滴がつながれながらすやすやと寝息を立てながら寝ていた当時の息子を思い出すと今でも可哀そうで涙が出てきます。でも、あのときの経験があったからこそ、今も予断をもたずに診療しようとする意識が保てているのかもしれません。まだまだ修行が足りないと感じるときもありますが。

医学生の頃、病院実習の時に指導教官から「患者を自分の親だと思って診察しなさい」といわれました。当時はその意味を、「(自分の親だと思って)緊張せずに診察しなさい」といわれたのだと思っていました。しかし、その先生はきっと「自分の身内だと思って患者を大切にしなさい」ということを私たち学生に伝えたかったのでしょう。医者は、あるいは医療・診療は「毎日が勉強、日々が経験だ」ということを痛感します。ともすると日常にながされそうな自分を戒めながら。

そろそろインフル

これまでなんどもTVで「インフルエンザの流行がはじまりました」といってきたのに、またもや同じことをニュースでいっています。視聴者をあおることが彼らの商売なのでしょうが、もっと正確で冷静な報道をしてもらいたいもの。とはいえ、今度は本当のようです。我孫子、とくに当院のある船戸地区ではまだ流行のきざしはありませんが、保健所からの情報によれば松戸でにわかに流行が拡大しているとのこと。我孫子でもそろそろインフルエンザの患者が増えてくるかもしれません。そこで、インフルエンザの流行を前に、2018年2月に投稿した記事を再掲しておきますので参考にしてください。

***************************** 以下、2018年2月の記事

 

インフルエンザの勢いも落ち着きはじめ、患者の数もだいぶ少なくなってきました。とはいえ、これまでの流行では、B型が70%、A型が20%、残りがA・B混合型というようにB型が主流だったため、今後は従来のようなA型の流行があるかもしれませんので注意が必要です。この流行のしかたは例年にはありません。おそらくB型が比較軽症であったため、患者も医者も普通の風邪と考えて感染を広めたのかもしれません。

この流行の拡大と軽症例の多さが診療の現場が混乱する原因にもなりました。わずかばかりの風邪症状があり、体温も平熱にすぎない患者が「TVで『隠れインフル』っていうのがあるといっていたので検査をしてください」と受診してきたり、きわめて軽症のインフルエンザ患者までもが抗ウィルス薬を求めてきたりと、必ずしも適切な医療とはいえない診療をいつになく求められたのも今年の特徴だといえるでしょう。

インフルエンザ検査や抗ウィルス薬投与の適否については、論争の原因にしばしばなっています。検査や抗ウィルス薬を安易に(というと怒られるかもしれませんが)考えている人と、必要性に応じて検査や投薬を考慮すべきとする私のような人間とではまったく議論がかみあいません。こうした光景は当院の外来でもしばしば見られ、私の説明に不満げに帰っていく患者が少なからずいます。

こうした現状をふまえ、私が皆さんにいいたいことを、想定問答のような形でご説明したいと思います。もちろん考え方にはいろいろあって、私の言い分がすべて正しいと主張するつもりもありません。また、私の考えに賛同できない方たちの価値観を全否定するつもりもありません。ですが、私の言いたいことを通じて、皆さんにもこの問題を考えていただければ幸いです。

   【私の基本的スタンス】

○検査や投薬は「実施すべきケース」「実施してもいいケース」および「実施すべきではないケー
 ス」で考える必要がある

○医療に関しては「医学的に正しいかどうか」という観点とともに「医療費の支出として適切かど
 うか」という観点も考慮すべき

○インフルエンザが流行する前に多くの国民はワクチンを接種し、「インフルエンザに感染しにく
 い環境を作る」とともに、「かかっても軽症ですみ、抗ウィルス薬を必要としない状況を作るこ
 と」が重要である

○インフルエンザはすべてがおそろしい結果をもたらすわけではなく、「重症例をはやく見つけて
 対処すること」が重要であり、「軽症例は安静を基本として、適宜、症状を薬で緩和すること」
   と認識すべき

○インフルエンザの流行シーズンに入った場合は、「急に高熱となったケース」や「高熱にはなっ
 ていなくても、強い関節痛や悪寒、頭痛をともなう発熱のケース」は検査の有無をとわずインフ
 ルエンザとして学校や仕事を休み、自宅安静あるいは経過観察とするべき

これらのことをこれから具体的な想定問答として記述してみたいと思います。こうしたやりとりは当院の診察室でも同じようになることがあります。そして、その結末は残念ながらいつもunhappyです。ただし、ここでの想定問答では症状もなく「念のために検査」といって来院したケースを想定しています。また、当院ですべてのインフルエンザ検査・抗ウィルス薬の投与をお断りしているわけではありません。

念のために申し上げておきますが、インフルエンザの検査や抗ウィルス薬を希望される方は私に伝えてください。適宜、それぞれの患者の状況に応じて検査・投薬の適否を考え、「検査が必要な場合」はもちろん、「検査をしてもいい場合」であれば検査も投薬もご希望に応じておこなっていますので。

 

*****************以下、想定問答

患者:TVで「『隠れインフル』っていうのがある」といっていたので検査してください。

医師:でも、あなたは今、平熱ですよ。検査、必要ないと思いますけど。

患者:うちの夫が先日「B型インフル」って診断されたので感染していないかと思って。

医師:まだ検査してもでてきてない可能性が高いですよ。

患者:夫は熱が出てなくてもインフルエンザだったんです。

医師:それでなぜ検査をしたのかわかりませんが、なにかお辛い症状でもあったんですか?

患者:ちょっと頭痛が。でも今は元気ですけど。

医師:ですよね。ご主人は軽症だったんですよね。

患者:インフルエンザの薬をもらいましたからすぐによくなったんです。

医師:えっ?熱がなくて軽症だったのにインフルエンザの薬をもらったんですか?

患者:はい。だって早くよくなりたかったんで。出かけなきゃいけない用事もあったし。

医師:もしかして、薬飲んですぐに外出されたんですか?

患者:はい。薬を飲んだ翌日には平熱になって元気になったから。

医師:インフルエンザのときは解熱してもしばらくは人に移す可能性があるので外出はだめですよ。

患者:それじゃインフルエンザの薬を使う意味がないじゃないですか。

医師:インフルエンザの薬を飲む目的は「熱が出ている期間を1日程度短縮するため」なんです。

患者:よくなってるじゃないですか。

医師:そうです。改善はします。高熱の期間は短縮しますから。でも、しばらくは人にうつすんです。

患者:うちの夫は熱がなかった場合でもうつすんですか。

医師:だから「必要だったんでしょうか?」と申し上げたんです。自宅でしばらく安静にして・・・

患者:でも、普段のように元気でしたよ。

医師:いや、自宅安静の目的はご本人の療養という意味と他人に移さないという意味があるんです。

患者:うちの孫もインフルになったけど、すぐに熱がさがって元気になったので学校へ行ったけど。

医師:それが学校でインフルエンザを広めてしまう原因のひとつなんです。

患者:うちの嫁も働いているし、孫もゲームばっかりやってるから。

医師:ご家庭によって事情はあるでしょうが、やはり感染を広めないという意味では・・・。

患者:じゃあ、私の検査もインフルエンザを広げないために早めにやった方がいいんじゃない?

医師:いや、この検査は「インフルであることを確認する検査」なんです。

患者:「確認検査」?

医師:そう。陽性であれば「インフルです」って言えますが、陰性でも「違います」とは言えない。

患者:それじゃあ意味ないじゃない。

医師:意味はあります。インフルエンザだと確認はできますから。

患者:なら、今検査してもいいじゃないですか?

医師:確認だからこそ、怪しげなときにやるべきなのです。今のあなたは違います。

患者:とりあえず今やっておくっていうのはダメですか?もしかしてってこともあるし。

医師:今回が陰性でも、明日に陽性になるかもしれないし、あさってかもしれません。

患者:そのときにまたやればいいんじゃない。

医師:そんなことをしていたら医療費がもたないし、そもそも保険組合がそれを認めないのです。

患者:早期発見、早期治療は必要ないってこと?

医師:風邪やインフルエンザに関していえば「重症化を防ぐこと」が重要なのです。

患者:早期に治療すれば重症化だって防げるじゃないですか。

医師:それはそうですが、風邪やインフルエンザは本来なにもしなくても治る病気です。

患者:治療はいらないってこと?

医師:本来はそうです。でも、なかには重症化するケースがあり、その場合は早期発見。早期治療。

患者:なら、なんでインフルエンザの薬があるんですか。

医師:このまま放置していたら重症化しそうな人や高熱で辛そうな人のための薬として考えてください。

患者:検査もそうですか?

医師:明らかにインフルエンザと思われる人は検査をしなくてもいいってことになっています。

患者:検査しないで「インフルエンザ」って診断してもいいってこと?

医師:だって検査が「陰性」だからといって「インフルじゃない」って言えないんですから。

患者:それなら検査はまったく不要ってわけ?

医師:いえ、たとえば肺炎を思わせる患者が来たとき、肺炎治療を優先させるか、インフル治療を併用する
   かの判断にはとても重要です。そこまでいわないにせよ、怪しげなケースでれば検査はします。

患者:私、職場の方からも「検査をやってこい」っていわれるんですよ。

医師:インフルエンザが疑われるケースであっても検査が陰性なら仕事にいってもいいのですか?インフル
   エンザかもしれないと思ったら仕事はやはり休むべきでしょう。検査なんて補助的なものですし。

患者:でも、「A型?B型?」って聞かれるし。

医師:型なんてわかっても対応はかわりません。インフルエンザなんだし。ワクチンを打ってなければ重症
なることだってあるし。

患者:いずれにしても、今の私には検査はやってもらえないってことでしょうか。

医師:必要性はないですよ。あなたのようなケース全員に検査をやっていたら医療費が大変ですから。

患者:患者の命よりも医療費の方が重要ってことですね。

医師:いえ、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。

患者:でも、そう聞こえますよ。

医師:つまり、この検査をしないからといって今のあなたに大きな不利益はないが、あなたと同じケース全
   員にこの検査をやった場合の医療費の無駄は計り知れないってことです。

患者:・・・・。

医師:もちろん、今後、あなたになんらかの症状が出てきてインフルエンザであることを確認する必要がで
   てきたらちゃんと検査します。うちも検査すればそれだけもうかります。検査をするのが嫌で言って
   いるのではないのです。決して安い検査ではなく、あなたも無駄をお金を出さないで済むし。

患者:自分の財布から出すので心配いただかなくても結構ですよ。

医師:あなたの財布からも三割は支払われますが、残りの七割は医療費から支払われるんです。

患者:わかりました。別のクリニックでやってもらいますからもう結構です。

 

ほら、やっぱりunhappyだったでしょ。でも、実際はこうはいきません。インフルエンザ検査や抗ウィルス薬を希望される方についてはそのご希望を尊重しながらも、本当に必要かどうかに関して疑問に思う場合はその必要性は説明した上で「どうしても」という場合は検査もしますし、投薬もします。ただし、「してもいいケース」に関してです。「すべきではないケース」に関しては当然のことですがお断りしていますので悪しからず。医療と医療費のバランスって難しいですよね。

でも、誰かが言ってました。「そんな固いこといってないで、言われるがままに検査をし、抗ウィルス薬を処方していれば患者は満足するし、医療機関や薬局、製薬会社ももうかる。すべてがハッピーじゃないか」って。私が「でも医療費が・・・」と言いかけると、「それも結局は国民の負担になるんだしいいんじゃないの」とも。しかし、それで医療保険制度が崩壊してしまったら元も子もないって考えないのでしょうか。でも、きっと彼は言うでしょうね。「そんなこといち医療機関のひとりの医者が心配することじゃない。それは偉い政治家が考えること」ってね。う~ん、あたまの固い自分には実に悩ましいことです。

 

 

若かりし過ち

人間というものは、とかく自分のことを棚に上げて他人のことをとやかく批判するものです。自分の価値観や理想が「正しいもの」であると確信している場合であればなおさらです。しかし、人が腹を立てていること、あるいは批判したくなることがらの多くは、よくよく考えてみると「良し悪し」の問題ではなく、実は「好き嫌い」の問題であることに気づくことも少なくありません。 

正義感が強く、どちらかというと曲がったことが嫌いで、「長いものには巻かれろ」的な世渡りができない私にとって、自分とは異なる他人の価値観を認め、他人の価値観を尊重し、調整を図ることができるようになったのはそう昔のことではなかったように思います。簡単に白か黒かで判断できるものばかりではないことに気が付いたのは結婚してからでしょうか。 

医学部を卒業して研修医になったころは、「医療はこうあるべきだ」「医者はこうあるべきだ」といった理想論であたまでっかちになっていました。それにはずれるものは「良くないもの」「邪悪なもの」と断罪し、心のなかで批判し、軽蔑していたのでした。甘っちょろい理想論を振り回しながら傲慢な考え方に支配されていることに気が付かなかったのです。それほどに自分は「青い存在」だったのです。 

ですから当時はいろいろな人に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせたと思います。その反省を込めて当時のエピソードを書きます。 

それは研修医も2年目となり、新たに2人の研修医を迎えたときのことでした。それまで1年目の研修医として私ともうひとりの研修医(女医さん)とで医学生から医師になるための修練を重ねてきたのですが、そこに二人の新人研修医が採用されたのでした。彼らもまた男女各1名の研修医でしたが、実は、この新人女医さんと私はことごとく価値観があわず、最後には口もきかなくなってしまいました。 

それまで私は女医さんというものは頑張り屋で負けず嫌いで誰よりも働くというイメージをもっており、同じ2年目の研修医として頑張ってきた女医さんもふくめてそのイメージが裏切られることはありませんでした。しかし、新しく採用された女医はこれまで出会ったどの女医とも異なるタイプだったのです。私はそれがどうしても受け入れられなかったのです。

診療科の先生たちが休日に研究会などに出席するとき、研修医は病棟の重症患者の対応を頼まれることがあります。いわゆる「留守番」です。上司である先生や他の先生たちの患者の対応を任されたわれわれ研修医は休日に病院に出てこなければならないのです。私と1年目の女医(K先生としましょう)はその「留守番係り」となり、週末の二日間の病棟管理をまかされたのでした。

K先生とは土曜日と日曜日のどちらを担当するか相談することにしました。「先生はどっちがいい?」と私が尋ねると彼女は「日曜日は友達の結婚式が前橋であるので出てこられません」と言います。「そう、じゃあ土曜日、頼むよ」。そう私がいうと彼女は「土曜日の午後から前橋に向かうのでちょっと・・・」と。私は心の中で「マジかよ」と思いつつ、「それなら土曜日の午前中だけでいいよ」と譲歩したのですが、「私、毎朝、ジョギングをしているんです。ジョギングをしないと体調が・・・」と不満そう。

ムッとした私はつい「それなら、ポケベルを持ってってよっ(当時は携帯などなくポケベルを持たされていました)!」とちょっとだけ強く言ってしまいました。しかし、彼女も負けていません。「えぇ?ポケベル持って走るんですかぁ?」。私は思わず「そういうときのためにポケベルってあるんだろうがっ」とすっかり怒りモードに。結局、土曜日の午前中は彼女、それ以降は私が病棟を守ることになりました。

その後もそんなやりとりが繰り返され、休日出勤を命じられるといつも「友達の結婚式が・・・」となるので、いつしか彼女のことは信用しなくなっていました。私にはそんな彼女にやる気が感じられなくて、いつもイライラ。ある時、めずらしくレントゲン写真を持ってきて「先生、この影はなんですか?」とかいがいしく質問するので、「そうだなぁ、陳旧性胸膜炎による石灰化じゃないかな」と答えました。

いつも眉をひそめていた彼女に質問されて私はちょっといい気になっていました。しばらくして病棟にあがってきた指導医のところに彼女はおもむろに駆け寄ると、「先生、この陰影は陳旧性胸膜炎による石灰化でいいでしょうか?」と質問。指導医は「おおっ、よく勉強しているね。その通り」と。彼女の頭をなでんばかりの褒めようです。「いえ、まぐれですぅ」とうれしそうに小さく飛び跳ねる彼女を横目に、私は心の中で「まぐれはないだろ」とつぶやく。いち事が万事こうなのです。

私が1年目のときは長い夏休みなど申し訳なくてとれなかったのに、K先生が他科の専修医(研修医を終えてさらに修練を積んでいる先生)に自分の担当患者のことを頼んで長い夏休みをとることを知ったとき、私は思わず彼女に注意してしまいました。「自分の患者を、しかも他科の専修医の先生に頼んで夏休みだなんて無責任だよ」と私。それを聞いた彼女はまるで「どうしてよ?」と不服そうに見えました。

ところが、その翌日、彼女が自分の患者の管理を頼んだ専修医が私のところにやってきて「セバタ先生、僕がK先生の患者のことやっとくから大丈夫だよ」と微笑んでいます。おまけに病棟回診に来た部長先生も不機嫌にしている私に「先生は厳しいなぁ。もっとK先生に優しくしてやってよ」と笑っています。私は彼女が専修医やこの部長先生に泣きを入れたなと直感しました。「あいつめ、言いつけやがったな」。

また、こんなこともありました。その日は指導医の先生がおこなう検査の準備をわれわれ研修医が事前にやっておかなければなりませんでした。ところが、いつになってもK先生がやってこない。私ひとりで準備をして検査は始まりましたが、一向に彼女の姿が見えないのです。しかも運悪くその日に限って検査がうまくいかずに指導医もイライラしています。ついに、指導医が怒鳴るように私に言いました。

「セバタ。Kはどうしたんだよっ」。「まだ登院していないみたいです」。「『みたい』じゃねぇよ。あいつのレジデントハウスに電話しろっ」とカンカン。私は検査室から彼女の部屋に電話をしました。はじめはなかなか電話にでなかったのですが、しつこくコールしているとようやく電話口に。「なにやってるの。今日は検査だよ」と私。すると「きょ~わ~、朝からあたまがいたくてぇ~」とK先生はけだるそうです。

私は指導医に「頭が痛いので今日は休みたいといってます」と報告。すると、ついに指導医の怒りが爆発。「ふざんけんなっ。看護婦さんだって頭痛薬を飲みながら仕事してんだ。出てこいって言えっ」と私を怒鳴りつけます。「俺に怒ってどうすんだよ。自分で言えばいいのにじゃないか」と心の中でブツブツいいながら言われた通りに彼女に伝言しました。しかし、結局その日彼女が登院することはありませんでした。

そんなことばかりが立て続けに起こるので、夜中、二人病棟でカルテ書きをしているとき、私は彼女に言いました。「K先生、内科が大変なら保健所の医者って選択肢もあるんじゃないの?」と。K先生は黙って聞いていましたが、明らかにムッとしている様子がうかがえました。その翌日、病棟の患者の採血をしようと病棟に行くとどういうわけか夜勤明けの看護婦さんが私をにらんで待っていました。

というのも、私が「K先生にひどいこと言った」と言うのです。「ええ?ひどいことなんて言ってないけど」、そう言うと「『おまえみたいなのは保健所の医者にでもなれ』って言われたってK先生泣いてたから」と。私はもうなにも反論する気がなくなりました。そんなことをしているうちにK先生も次第に私を疎ましいと思ったらしく、次第に私を避けるようになりました。もちろん私もそうだったので、いつの日かお互いに目を合わせることも話しかけることもなくなりました。

こうした二人の関係を改善することもなく私は研修を終えて病院を去りました。でも三十年近くたった今思うと、彼女は彼女なりに一生懸命だったのかもしれないと思えるようになりました。しかし、当時の私にはその彼女なりの頑張りが適当に見えたり、うまく立ち回っているように見えたりして、どうしても許せなかったのです。周囲の先生たちが彼女のそうした行動をなぜとがめないのか理解できませんでした。とがめるどころかむしろ寛容な先生たちの対応に歯がゆい思いをしていたのでした。

当時の私は「こうしなければならない」「こうすべきだ」という価値観に拘泥されていたんだと思います。そして、「こっちは忙しく働いているのになんであいつだけ」という気持ちが強かったのでしょう。要するに余裕がなかったんです。冒頭にも書いたように人の価値観はさまざまです。それは「良い、悪い」ではなく、「好き、嫌い」の問題がほとんどです。そうしたことに気が付くには随分と時間がかかりました。

あのときもう少しK先生の価値観を尊重できて、寛容になれたらお互いにもっと楽しい研修になったかもしれません。仲直りもできずに離れ離れになってしまいましたが、あれからずっとあのときのことが気になっていました。今、改めて謝りたいと思います。K先生、ごめんね。

患者の意志

先月、腎不全の重症患者に対する透析治療を中止した病院・医師のことが話題になっていました。腎臓は全身を循環する血液にとけこんだ老廃物、とくに人間の生命活動にとっては毒物となるさまざまな物質をろ過する器官として、あるいはK(カリウム)やNa(ナトリウム)などの生命活動を維持するために必要な電解質のバランスを保つ機関として重要な臓器です。この腎臓がなんらかの病因で機能を停止した場合、人工透析という治療によって腎臓のはたらきを代替しなければ人間は生きていくことができません。

つまり、重症な腎不全患者にとって人工透析の中止とはすなわち死を意味します。ですから、この治療を中止するという判断は通常はありえず、それでも中止をしなければならないのにはなにかやむを得ない事情があるはずです。ですから、今回の報道を耳にしたとき、私はその「やむを得ない事情」がなんだったのだろううかと思いました。報道によれば、透析中止の主たる理由は、透析装置とからだをつなぐ「内シャント」が使用できなくなったことのようです。しかし、それだけであのような判断を下すものでしょうか。

実際の透析はいろいろな意味で辛い治療です。透析を受けなければ命をながらえることができないということだけでも患者にはプレッシャーですが、透析を受ける前に「ダイヤライザー」と呼ばれる透析装置と血管を接続するための手術をしなければならないのはさらに苦痛で不安なものです。この手術で腕の動脈と静脈をつなぐ(通常はつながっていない血管です)「内シャント」を作ります。そして、そのシャントに針を刺してダイヤライザーとからだをチューブで接続して血液を循環させ、透析をするのです。

私も大学病院の総合内科に所属していた時、その「内シャント」を作る手術の手伝いをしていました。太さも壁の厚さも異なる動脈と静脈をつなぐ手術はとても繊細で、神経を使います。皮膚から露出させた血管は乾燥に弱く、すぐによじれてしまいます。また、人によっては細い枝が多かったりして、手術をする医者にとっては集中力と体力を使う結構大変な手術です。透析を繰り返しているうちにその「内シャント」がつぶれて使えなくなることもあり、そのときは作り直さなければなりません。

今回の患者はこうした「内シャントの閉塞」を繰り返し、もうシャントをつくることができなくなったケースだったようです。両腕の内シャントがもう作れないとなれば別のところにこのシャントと同じ働きをする代替経路を作らなければなりません。おそらくその処置(手術)には高いリスクをともない、透析を中止することのリスクとの天秤をかけての中止の判断だったのではないかと想像します。主治医にとっても、もちろん患者にとっても重い決断だったに違いありません。

ダイヤライザーでの透析によって、本来は尿となるべき水分と老廃物を強力にろ過できます。ですが、その分だけ治療後に倦怠感が強くなる場合があります。毎日、少しづつやればいいのかもしれませんが、それではなんども内シャントに針を刺すことになって血管を痛めます。なにより毎日透析に病院に行くのでは日常生活が制限されてしまいます。だからといって週に一回というわけにもいきません。24時間、365日、私たちのからだの中で働いてくれている腎臓の肩代わりをさせることはそれほどまでにやっかいなのです。

食べるものも、飲水量も厳しく制限されます。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べるという、ごく当たり前と思っていることも、透析を受けるようになるとできなくなります。そうした制限のゆるい腹膜透析という方法もあります。腹膜透析はおなかの中にチューブを通じて直接透析液を入れ、浸透圧の差を利用して透析したあと再びチューブを通してからだの外に廃液するという治療法です。この作業は自宅でできるとはいえ、毎日欠かさず、しかも一日に何回も注入・廃液をやらなければなりません。

ですから、透析治療から逃れたいとどの患者も思っています。逃れるためには腎臓移植のチャンスに恵まれなければなりません。しかし、日本では依然として生体腎移植が盛んになっていません。その順番を何年も待っている患者が多いのです。そんな四面楚歌の状態で気弱になってしまう患者も当然いて、透析医はそうした患者を励ますことに少なからず時間を割かなければなりません。そうした実情が背景にあるだけに、透析の現場では、透析中止の判断はとてもナイーブな問題になっているはずです。

まず私が一番言いたいことは、渦中の医者のあたまの中に「患者の意志は揺れ動く」という現実がしっかり認識されていたかという点です。患者の気持ちはコロコロ変わります。命に関わることゆえそれは当然のことです。あるときは「こんなつらい治療を続けるくらいなら」と否定的な気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。また、あるときには「支えてくれている家族のためにも頑張ろう」と前向きになるときもある。患者の心理状態も大きく変化するのです。そうした現実を医者は認識しなければならないのです。

最近、よく「患者の権利」「患者の意志」という言葉を耳にします。「患者の意志が尊重される」ことは「患者の権利だ」というわけです。確かに、自分の命に関わることは患者に判断させるべきだ、判断したいという気持ちは理解できます。しかし、はたしてそれができるものでしょうか。たとえそれができたとして、その「患者の意志」の名のもとに医療が硬直化する危険性はないのでしょうか。つまり言いかえると、「患者の揺らぐ気持ち」が一切考慮されない医療はおこなわれていないと言い切れるでしょうか。

今回の報道にある透析中止の案件もそこが一番の問題なのではないかと思います。透析をなんらかの理由で中止せざるを得ないとき、最終的には患者に継続するか、それとも中止するかの判断をゆだねることになります。そもそもそんな重大な判断をさせられる患者も気の毒ですが、それでも患者が悩みに悩みぬいて結論を出したとして、その意志を途中で翻意することを許容するような雰囲気がはたしてあったのかということです。「あなたが決めたことでしょ」で片づけられていなかったか。そこです。

癌の治療を開始する際、しばしば医者が治療法を提示して「さあどうしますか?」と患者に問いかけます。「患者の意志」の確認というやつです。「どうしますか?」と聞かれてそれに明確に答えられる患者は多くありません。どれがどの程度いいのか悪いのか、医学的知識も経験もない患者が即答できるはずもありません。しばしば「お任せします」と患者から投げ返されて、当惑してしまう医者も決して少数派ではないはずです。「へたに勧めて、あとで責任を問われてもなぁ」って。今はそういう時代なのです。

昔であれば医者は胸を張って「この方法で行きましょう」と勧めるか、さもなければ具体的な説明もないまま治療をはじめてしまうところです。患者も悩む必要がありませんし、医者にとってもある意味楽なやり方です。しかし、こういうやり方は今は通用しません。これまでのさまざな医療事故を通じて生じてしまった医療不信を背景に、「治療の選択においては患者の意志の尊重を」という社会的なコンセンサスが出来上がったのです。これがよかったのか、悪かったのか、私にはわかりません。

とはいいながら、「患者の意志」というものが、医者が裁判沙汰に巻き込まれないための医療者側の方便になっているという側面も見逃せません。治療を自ら選択した以上は、その選択の結果がどうであれ責任は患者にあるというものです。最近はいろいろな情報が氾濫しています。そして、希望する治療が受けられなかったことに患者から「こんなはずじゃなかった」と言われるケースも増えてきました。この「こんなはずじゃなかった」を言わせないために「患者の意志」が利用されているケースもあるかもしれないのです。

でも、患者の意志や気持ちは揺れ動くものです。「私はいつ死んでもいい」あるいは「死など怖くない」という言葉は、死を具体的に意識していないからこそ出る言葉です。アンケートなどで「あなたはどんな死に方をしたいですか」と問われることがあります。でも、そんなアンケートなどほとんど意味がありません。なぜなら、差し迫った死に戸惑い、不安になっている人でなければリアルな回答などできるはずもありません。死をリアルに感じているときと、無縁なときとで意志や意見は大きく変わります。

このように、人間は自分が置かれた環境によってその「意志」は大きく変化します。そのときはきっぱりと決心したように思えたことでも、次の日には「なんであんな決定をしてしまったのだろう」と後悔することもしばしば。臨床心理学では「気持ちが安定しないとき、落ち込んでいるときは重大な決定は先延ばしにしなければいけない」と教えています。私自身もこれまで、なにかを得られる決断であれば「迷ったらやってみる」としますが、なにかを失うかもしれない決断は「迷ったらやらない」ことにしています。

外来にもこんな人がいます。その方は普段から「私はこれ以上長生きしたいとは思わない」とおっしゃっています。でも、と同時に生きながらえるためのさまざまな薬を飲んでいます。そして、手がしびれたとなれば心配になって救急病院に行くわけです。最近、他院で「腎機能が悪くなっているから生活指導や食事指導を受けるべきだ」と言われたそうです。しかし、「そんなことまでして生きていたくない」と断ったとか。それで、結局のところその医者も「それなら、ご勝手にどうぞ」となってしまったらしいのです。

「食べたいものをやめてまで長生きしたくない」とおっしゃるので、私は「でも腎臓がさらに悪くなって尿毒症になったら食べたいものも食べられなくなりますよ」と説明しました。すると困ったように「それならどうすればいいのか」と。「だからこそそうならないように今から生活指導や食事指導をと先生はおっしゃったのでは?」と私。すると、ふたたび「それほどまでして長生きしたくない」と。私は「0(ゼロ)か100かってことじゃないんですよ」と言ったのですが、ご本人の中では戸惑いと不安が錯綜しているようです。

一方でこういう方もいます。その方は肺癌と診断されたものの、幸い手術を受けることができました。しかし、リンパ節転移の可能性が否定できないため、手術後に抗癌剤治療の追加をするかどうかを決めてほしいと主治医にいわれているのです。ただ、高齢でもあり、術後間もない時期での抗癌剤治療は体力を奪って日常生活の支障となるおそれがある。もし抗癌剤の治療を受けなければ癌が再発してくる不安におびえなくてはならない。どちらがいいのだろう、と。そこで「先生の意見を聴かせてほしい」というわけです。

私はいいました。「自分の命に関わる決断は自分で下すしかない。なぜなら人生観や価値観が関わるから。抗癌剤治療を受けなくても再発しないかもしれないし、治療をうけても体力を奪われた上で再発するかもしれない。私が言えることは、せいぜい『自分だったらこうする』程度のことだ」と。抗癌剤の治療を受けるにせよ、受けないにせよ、その結果は自分で受け止めるしかありません。治療方法についてのスペシャリストも確率でしか将来を予測できないのですから。最後は「患者の意志」で決めるしかないのです。

改めて、冒頭の透析中止の件について考えてみると、問題は三つに絞られると思います。まず、透析を中止するという選択肢の提示は医学的に正しいものだったか、という点。ふたつめは、透析の中止を選択した患者の決定が、真に自分の意志にもとづくものだったのか、という点。そして、三つめは、透析中止を患者が申し入れたとして、その後の状況の変化によって患者が当初の意志をひるがえしたときの病院・主治医の対応が適切だったかという点です。とはいえ、そう整理をしてもなお結論のでない問題だとは思いますが。

一見すると、他人の人生など自分にはほとんど関係ないように思えます。しかし、自分という存在が他人に影響を与えているのと同じように、他人という存在は自分にも影響をあたえています。とくに私のような生き死にと関わる仕事をしていると、人に与える影響とその責任の重さをひしひしと感じます。私のひと言で傷ついたり、勇気づけられる患者がいるのです。今回の透析中止の件において主治医と患者のコミュニケーションが十分だったんだろうかということが気になります。亡くなった患者はもう帰ってきませんけど。

医者の専門性

この記事は平成27年1月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。それにしても、最近、スパムが多くて嫌になります。

 

「大病院指向」という言葉があります。これは「開業医よりも大病院を指向する患者の行動パターン」のことをいいます。そして、ここには「大病院に通院する必要がないにもかかわらず」という意味が秘められています。受診した方はおわかりだと思いますが、大病院の待合室はあふれんばかりの人です。その人たちすべてが大病院での治療やフォローアップが必要な人たちとはいえないのが現状です。本来、大病院への通院が必要な人たちが何時間も待たされたり、受診がほとんど一日がかりになる原因のひとつが「本来、大病院に通院する必要がないにもかかわらず大病院を受診・通院する人たち」というわけです。

この「大病院指向」はどうして生まれたのでしょう。もちろん、専門医のレベルが高いと思われているからですが、それ以上に私たち「プライマリ・ケア医(開業医)」のレベルが多くの患者にとって信頼に足るものではないと思われているという点も見逃せません。日本では「開業医だから」という言葉は「レベルの低い医者」というニュアンスをもっています。我々医者の世界でも「あいつは開業医に身を落とした」と言われることがあります。患者の側にも、あるいは医者の側においてですら「大病院の専門医」のレベルが高く、「開業医」のレベルが一段も二段も低く見られている部分があるのです。

でも、我々開業医の多くはそれまで働いていた大学病院などの大病院を退職して開業するパターンが多い。それなのに、「大病院指向」の人たちの中で、なぜ大病院の「有能」だった医者が開業したとたんに「能力の低い医者」になってしまうのでしょう。それには患者の深層心理があります。つまり、大病院にはさまざまな診療機器があって、たくさんの診療科もあり、おなじ病気を何人もの医師たちが見逃しのないように見張っていてくれる、という期待があるから。つまり、言い換えると、ひとりひとりの医者のレベルというよりも、システムとしての大病院の機能に期待しているからです。

私が大学にいたころ、ある先生が診療中に「(大学病院は混むから)私が出張している病院の外来に来ないか」と患者にいったところ、「私はこの病院に来ているのであって、先生の外来に来ているわけではない」といわれてショックを受けていました。これは極端な例としても、少なからずこのような傾向が「大病院指向」の人たちにはあります。もちろん、優れた「大病院の医師」に通院している患者もいるでしょう。そうした医師が開業してもその方は主治医についていくのかもしれませんし、そうした医師は「たかが開業医」とは言われないのかもしれません。

一方で、「開業医」と呼ばれる、いわゆるプライマリ・ケア医にも患者から不信感をもたれても仕方がない部分があります。診れもしない疾患を無責任に診てしまいがちなのもプライマリ・ケア医の陥りやすいところです。あるいは、特定の専門領域を標榜していることを言いわけにして、それ以外には興味も関心もありませんという医療をやっているプライマリ・ケア医もいます。本来、プライマリ・ケアを担っている以上、「専門」以外は興味がないなどということがあってはいけないと思いますが、「自分の範囲外のことは知りません。自分でどこか診てもらえるところに行ってくれ」というプライマリ・ケアが行われていることも残念ながら事実です。

あくまでも私の個人的な考えですが、プライマリ・ケア医の仕事は専門的な治療を必要としない安定した疾患を管理し、ふだんの日常生活によく見られる疾患を治療し、ごくまれに出現する重大疾患を見落とさず、専門医に紹介するタイミングを逸さないこと、だと思っています。普段、診ている患者の99%は問題のない患者です。しかし、その中に潜むごくいちぶの重大な疾患を見逃さない眼と勘をもっていること。それが私たちの重要な仕事であり、また、もっとも大切な役割だと思っています。

深さの専門性があるなら、広さを専門性とする医療もあります。プライマリ・ケア医にはそうした「広さの専門性」がなくてはいけないと思います。と同時に、診れる疾患とそうでない疾患をしっかりわきまえることも大切だと思います。周囲に医療機関がない医療過疎地ではそんな悠長なことをいってはいられませんが、首都圏の都市であれば専門の診療科に任せた方がいい場合はそうするべきです。自分の力量において診れるものは診る。その上で、専門医療機関に任せるべきケースを見落とさないこと。この要素がプライマリ・ケア医には不可欠です。

日本では標榜診療科目に制限がありません。内科医でなくとも開業するときは「内科」を標ぼうできる。それは医師の裁量権を侵すものとしてアンタッチャブルになっている部分です。しかし、医学部卒業後、ずっと内科をやってきた人間から言わせてもらえば、そんなに簡単に「内科」を標ぼうできるほど内科は浅くない。ただ血圧やコレステロールの薬を出していればいいってものじゃないのです。逆を考えてみればわかります。そもそも内科医が「外科」を標ぼうするなんてことはあり得ないし、患者自身もそんなことを望まないはず。それこそまわりに医療機関のない医療過疎地じゃないんですから。

私は「小児科」を標ぼうしていません。もちろん、風邪ぐらいのお子さんは診ます。でも、所詮は「なんちゃって小児科」です。お話しができて、コミュニケーションがとれるような年齢のお子さんじゃなければ責任をもって診ることはできません。どこにどういう症状があるのかが表現できない小児は、小児科の先生の「勘働き」が重要になることがあるのです。ですから、風邪ぐらい(それも内科医としての判断)でお話しのできる小児患者は診ますが、小児科受診がいいと思った場合は「小児科を単独で標ぼうしている医院(つまり、なんちゃって小児科じゃないところ)」を受診するようにおすすめしています。

とはいえ、患者にはどこの医者がどんな医者かなんてことはわからないと思います。その医者の経歴や職歴が詳細に開示されているとは限りませんから。内科医といいながらとても内科医とは思えない医師もいます。逆に、内科以外の医者なのに、その辺の内科医よりもよっぽど内科的な知識や経験をもっている医師もいます。そうなるとどう医師の専門性を考えればいいのか、素人にはわからないかもしれません。ただ、唯一いえることは、普段かかっていて「主治医としての責任感」をその医師に感じるか、が重要だということです。患者としての「勘」っていうのも結構あてになったりするものです。

「じゃあ、おまえはどうなんだ」と言われるかもしれません。胸に手を当ててみれば、正直、後ろめたくなる部分もあります。でも、日々、最新の医学情報を収集し、患者からも、他の医師からも後ろ指をさされない医療をしようと心がけています。私は患者さんにはどんどん「ドクターショッピング」をしてほしいと思っています。主治医を離れて別の医師の診療を受けてはじめて主治医の良さ・悪さがわかりますから。そして、そのことをできれば主治医にフィードバックしてほしい。そうすることで医師も進歩すると思います。「患者は医師の教科書」っていいますし。それでもし、主治医と方向性があわないと思ったら別の医者を探す。今はいくらでも医者がいますから。私もそんな緊張感をもって診療しているつもりです。

 

 

 

 

 

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば開復手術しか治療法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。