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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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コロナワクチンの現状(2)

多くの高齢者がワクチン接種を終えました。高熱がでて寝込むということも、また、頭痛や倦怠感に悩まされるという人も少なかったようです。「2回目の副反応がひどいらしい」という噂も必要以上に誇張されたことであり、私の母などは「副反応がぜんぜんなかったんだけど本当に効くのかしら」とワクチンの効果を心配するほどでした。ワクチンを接種する前はあれほど副反応のことを心配していたのに、私の母と同じような反応をした人も決して少なくないと思います。その一方で、人によっては「事前に解熱剤を飲む」などと言っている人もいました。今回は発熱とワクチンのことをあらためてまとめてみます。

以前のブログで、ワクチンの副反応は「あってはならないもの」ではなく、ある意味「ワクチンが効いている証拠だ」と書きました。ワクチンによってある種の異物がからだの中に注入されると、それらを排除する抗体をつくるために免疫細胞が働きだします。その働きを本格化させるために発熱が必要です。風邪をひいたとき、つまり風邪ウィルス(コロナウィルスものひとつです)に感染したときに熱を出すのはそのためです。つまり、発熱は「あるべき反応」なのです。私がこれまで「早めに風邪薬は飲むべきではない」、「むやみに解熱剤を飲んではいけない」というのはこういう理由からです。

ワクチンを打って熱がでる場合があります。とくに若い人たちのように、免疫力が強い人たちがワクチンを接種すると結構な熱がでるケースがあります。しかし、この熱発によってからだの免疫力にスイッチが入るのですからむやみに熱を下げるべきではありません。2009年のLancetという有名な科学雑誌に注目すべき論文が掲載されました。「ワクチン接種後の熱発を回避するため、あらかじめ解熱剤を飲ませると期待される抗体を十分に作れない可能性がある」というものです。つまり、高熱でつらい時ならまだしも、むやみに解熱剤を使って不用意に発熱をおさえることは免疫反応を鈍らせる、というわけです。

皆さんは「葛根湯」という漢方薬をご存知だと思います。私もこの漢方薬をしばしば処方します。そして、薬を出すとき患者さんには「風邪薬は早めに飲むべきではありません。早めに服用するなら葛根湯にしてください」と説明します。ただしこの葛根湯はまだ発熱のない風邪の初期に服用するべき漢方薬です。葛根湯は「発熱を促して風邪を早く治す」というものだからです。「からだを温めて風邪を治す」といった先人たちの知恵は現代の科学でちゃんと証明されているのです。こうしたことからも「風邪薬(解熱鎮痛剤)を一日三回服用」という使い方は誤りだということがわかると思います(※)。

では、接種のあとに熱発がない場合、ワクチンの効果は期待できないのでしょうか。そんなことはありません。日本の医療機関でワクチンによる中和抗体の量と接種後の熱発の有無を調べ、その両者にはほとんど関係がなかったことがわかっています。つまり、ワクチンの接種後に熱がでようがでまいが、ワクチンの効果に差はあまりないということです。言いかえると、「熱があっても、なくてもワクチンは効いている。でも、熱が出たからといってむやみに解熱剤を使わないことが大切だ」ということです(繰り返しますが、服用してはいけないわけではありません。つらい時は使用してもいいのです)。

今、日本で広く使用されているワクチン(ファイザー製・モデルナ製)はいずれもmRNAワクチンと呼ばれるものです。これらのワクチンの新型コロナウィルスに対する効果は95%以上であり、2回目の接種後数日でこの効果が発揮されるとされています。しかも、現在、猛威をふるっている変異株(デルタ株)にも90%程度の効果が期待できるといわれています。単に感染を阻止するだけでなく、感染しても重症化を回避する効力も確認されています。こうした効果は、不活化ワクチンである中国製、ベクターウィルスワクチンであるロシア製のワクチンの有効性をはるかに凌駕しています。

一時期イギリスで流行したアルファ株はすでにデルタ株におきかわりつつあるといわれています。感染力は従来のウィルスのおよそ2倍ともいわれ、なにやら恐ろしいことになるのではないかと不安になってきます。しかし、ウィルスの評価は、その感染力の強さだけではなく、病原性(重症化する可能性)という側面からも考慮しなければなりません。デルタ株の病原性の評価はまだ十分に検討されているわけではありません。デルタ株と類縁関係にある豚デルタ株は病原性が強いという報告があります。しかし、それは豚に感染した場合のものであり、人間に感染する株の病原性ではないという点に注意すべきです。

ウィルスにはワクチンが出現すると変異株が出現することが知られています。今回の新型コロナウィルスも、広くワクチン接種がおこなわれはじめた時期にアルファ株が出現しました。しかし、ウィルスの変異株については「感染力が強くなるにしたがって変異株の病原性は低下する」という傾向があるともいわれています。病原性が強い変異株は、宿主(感染した人)がすぐに亡くなってしまうためいろいろな人に感染を拡大させないからです。今回のデルタ株も、未確認の情報ではありますが「感染力は強さにくらべて、病原性はそれほど強くはなさそうだ」という意見もあるようです。

デルタ株の病原性についてはそろそろ公式な見解が発表されるでしょう。その公式見解がどうであれ、現行ワクチンにそれなりの効果が期待できる以上、不必要に怖がる必要はありません。沖縄の大病院で発生した新型コロナウィルスによるクラスター。感染した看護師十数名のうち12名はワクチンを接種をしていませんでした。このようにワクチンの効果がはっきりしてきたせいか、今まで「反ワクチン」の立場で新型コロナウィルスワクチンの危険性を吹聴してきた某研究者ですら、これまで自分が流布してきた見解を撤回しはじめています(ワクチンを打ちたくなってきたからでしょうか?)。

私たちはこれまで通り、正しい情報を正しく評価し、正しく恐れて正しく行動することが重要だということを再認識したいものです。

※ 熱がでたときは「つらければ解熱剤を使っていい」のですが、解熱剤を使ったからといって「発熱の原因そのもの
を治療する」ということではな
りません。あくまでも発熱の原因を突き止め、その原因を治療することが肝要です。

 

コロナワクチンの現状(1)

日本では今、新型コロナウィルスワクチンの接種が進んでいます。2回接種を済ませた国民は全体の11%あまり。1回に限ればすでに22%の人への接種が完了しました。このスピードは欧米を抜いて世界最速なのだそうです。アメリカでもすでに45%を超える国民がワクチンの接種を済ませました。しかしこのアメリカの接種率を日本が抜き去るのももはや時間の問題です。

我孫子市でも医療従事者と65歳以上の高齢者を対象とするワクチン接種はおおむね完了し、いよいよ65歳未満の住民にその対象が移ってきました。当院でも診療時間を変更して、連日ワクチン接種をおこなっています。幸い今のところ大きなトラブルもなく、順調にワクチン接種が進行しています。多くの人が心配していた副反応もほとんどないか、あっても大したことがなかった人がほとんどです。次第にワクチン接種への抵抗感はなくなってきているように感じます。

とはいいながら、いまだにワクチンに対する不安がぬぐえないのか、ちまたに流れてくる「ワクチンで不妊になる」だとか、「遺伝子の異常が生じる」といったある種のデマに翻弄されています。そんなこともあって、河野太郎大臣が記者会見でそれらのデマを否定し、厚労省のホームページに解説をアップしたりしてワクチンに対する不信感を払拭しようと躍起です。

これまでのブログでも説明してきたように、今、広く接種されているファイザー製あるいはモデルナ製のワクチンはmRNAワクチンと呼ばれています。このワクチンで使用されているmRNAは生体内では不安定であり(極低温で保存しなければならなかったり、解凍し、希釈し、注射器につめる際にも細心の注意を求められるのはそのためです)、からだの中に入ると数分から数時間で分解されてしまいます。しかもmRNAは細胞核の中には入っていくことはなく、DNAと接触することはありません。

こうしたことは専門的なことなので、多くの国民はこの手のデマに乗せられてしまうのかもしれません。しかし、不安に思ったり、疑問に思ったらきちんと自分で調べる人であれば、TVから流れてくる情報がいかに偏ったもので、むやみに人心を不安に陥れる情報であるかがわかるはず。新型コロナウィルスについては初めての経験ばかりであり、どの情報が確かなものなのかがわかりにくいのも事実です。しかし、自分で情報をもとめたりしないで、感情のままに大騒ぎをすることはやはり慎むべきです。

ワクチンそのものに反対する人たちの多くは、自分や自分の家族がワクチンを打つことはもちろん、周囲の人がワクチンを打つことも許しません。その一方で、ワクチンを接種しない人たちは、多くの人たちがワクチンを接種してくれることで、集団免疫という形で自分自身も守られているということにあまりにも無頓着です。ワクチンは自分の身を守るという意味だけではなく、他者をも守っていることにも目を向けなければなりません。

ワクチン接種が進んでいるにも関わらず、感染者の「リバウンド」とも思える増加が連日報道されています。「ワクチン接種が進んでいるのになぜ」と思うかもしれません。しかし、現在進められているワクチン接種の対象者は、あまり外出しない高齢者が中心です。でも、本来は感染機会の高い都市部を中心に、ウィルスをいろいろなところに運ぶ可能性の高い現役世代や若者にワクチンを重点的に接種すべきです。そうした合理的な接種をしていないのですから感染拡大が続いていても不思議ではありません。

各自治体がおこなっている集団接種・個別接種に加えて最近では職域接種もはじまりました。しかし、職域接種を一気に解禁・推奨してしまったため、ワクチンの供給能力を需要が上回ってしまいました。その結果、我孫子市だけでなく多くの地方自治体に向けて供給されるはずのワクチンが不足しています。これも国の判断ミスです(ちなみにワクチンの総量は足りていますからご安心を)。まるでにわか成金が大盤振る舞いをしすぎて困窮しているかのようです。

職域接種を進めるのであれば業種に優先順位を決めて行うべきでした。感染拡大という観点からどの業種を重点的に職域接種をするのかを決めてから解禁する必要があったのです。にも関わらず、手をあげた業界から一斉に職域接種を解禁しているのですから、どこかで供給が不足するなんて事態になるのは当然です。供給が追い付かない現状を放置できず、職域接種の受付をしばらく中止することになりましたがあとの祭りです。

私は職域接種よりも大規模接種会場をもっと増やすべきだったのではないかと思っています。サラリーマンや学生が仕事や授業の最中であっても近くにある集団接種会場に出向けるように工夫すればいいだけです。昨年の新型コロナウィルスが感染拡大をはじめたころから、政府や行政の策には計画性も、大局的な合理性も感じられないのはなぜでしょうか。あまりにも知恵がなさすぎです。「そろそろうまくやれるだろう」と思いながらあっという間に1年半が過ぎてしまいました。学びがないのも困ったものです。

ワクチン接種完了

5月17日、私と職員全員で新型コロナウィルスワクチンの接種に行ってきました。4月26日に1回目を、そして、今回は2回目の接種でした。これで私たちのワクチン接種は完了です。今回のワクチンについてはいろいろな情報が錯綜し、ワクチンを接種すべかどうか迷っている人は少なくありません。私たちの経験がそうした人たちの参考になれば幸いです。

私自身は「ワクチン接種すべし」という立場です。このワクチン接種については賛否両論があります。賛成する人の主張にも、反対する人の主張にもそれぞれの言い分があります。とはいえ、この1年半もの間、新型コロナウィルスは流行を繰り返し、社会生活に大きな影響を与えてきました。このウィルスの流行を一日も早く収束させ、社会を正常化しなければなりません。そのためにどうしたらいいのか。わたしはここに重点をおきながら、私見をまじえて論を進めていきたいと思います。

現在も一部の地域で感染が拡大しています。これまで9都道府県に緊急事態宣言が発令されていましたが、21日には沖縄県が追加されました。宣言下にある地域では、商店や飲食店での営業はもちろん、一般の人にも自粛が強く求められ、さまざまな社会活動が制限されています。この制限が適正かどうかを断言することはできません。しかし、もはや人々の自粛や我慢にも限界が近づいています。その意味でもワクチン接種による感染拡大阻止への期待は大きいはずです。

我孫子市でもようやく高齢者への接種がはじまりました。しかし、ワクチン接種がどのような目的でおこなわれているかを改めて考えてみると、順次進められているワクチン接種にはいくつかの疑問がわいてきます。ワクチンを接種するのは感染を予防し、拡大するのを阻止するためです。しかし、これを「広義の目的」とすれば、「狭義の目的」とは「コロナ死」を減らすことであり、「経済死」を減らすことにあるのではないでしょうか。

コロナウィルスに感染して死亡することが「コロナ死」です。コロナ死で亡くなった人たちの平均年齢は約80歳だそうです。高齢の感染者が高率に亡くなっているのです。しかし、感染拡大が勢いを増している地域では、コロナ死もさることながら、営業の自粛を余儀なくされお店や会社のの経営が立ち行かなくなって自殺に追い込まれる人たちがいます。これが「経済死」です。このふたつの「死」から国民を守ることが政治の役割です。

もし、コロナ死を減らすためならば、高齢者からワクチン接種を始めることは理にかなっています。高齢者は、新型コロナウィルスに感染すれば高い確率で重症化、死亡するリスクを抱えているからです。しかし、「経済死」を減らすためであるならば、一刻もはやく感染拡大を収束させ、社会の機能を正常化させなければなりません。そのためには高齢者よりも、むしろウィルスを運ぶ人たち(「ベクター」といいます)、すなわち若年者や現役世代の人たちに重点的にワクチンを接種すべきです。

ついでに付け足すならば、高齢者施設の高齢者を守るために、入居している高齢者を優先してワクチン接種するのは間違いです。高齢入居者はほとんど外出をしないからです。入居者と職員が同時にワクチン接種ができないのであれば、外部から施設内にウィルスを持ち込むベクターになりうる職員にまずワクチン接種をすべきなのです。それぞれの施設や環境を考慮した優先接種の在り方など考慮している時間がなかったのかもしれませんが対象者の選択があまりにも雑です。

政府は「高齢者からの接種」「大都市と地方との区別のない接種」を強調します。しかし、感染の拡大を一刻も早く止めたいのであれば「高齢者よりも若年者あるいは現役世代」「感染者の少ない地方よりも流行している地域」からワクチン接種をはじめるべきです。ところが、このようなことが理性的に議論された痕跡がどこにもありません。それとも私の知らないところで議論はされたが「それでは政治的もたない」という理由で却下されたのでしょうか(とてもそうとは思えません)。

本来であれば日本医師会からこうした議論を投げかけてもいいはずです。「コロナ死と経済死のどちらを優先して減らしていくのか」、「そのための接種の優先順位はこうするべきではないか」などなど。そうした政策提言が日本医師会からあってしかるべきなのです。にもかかわらずマスコミを前にして日本医師会長が主張することはあいも変わらず「とにかく自粛しろ」「緊急態宣言をしろ」ばかり。しかも国民に自粛させて会長自身は「自由行動」というのでは筋が通るはずもありません。

 

前書きが長くなってしまいました。新型コロナウィルスワクチンを接種したときのことに話しを戻します。私と当院の職員は4月26日に第1回目のワクチンを受けるために接種会場に行きました。会場となった大きな会議室は人のながれを考えた効率的な配置になっていました。会場の入り口で必要書類を渡すと、待たされることもなく医師の問診エリアにまわされ、すぐにワクチンの接種場所に誘導されました。そこには接種を担当する看護師が立っていて肩を出すようにうながされました。

注射の針が肩に刺さろうとしたとき、私は心の中で「痛ければいいなぁ」と思っていました。ワクチン接種の様子を伝えるニュースではよく「全然痛くなかった」という声があります。しかし、本来、今回のワクチンの接種でおこなわれる筋肉注射は痛いものなのです。にもかかわらず「痛くない」という人たちにおいては「筋層にまで針先が届いていないのでは?」と不審に思っていました。ですから、「針先よ、筋層に届け」とばかりに「痛ければいいが」と念じていたわけです。

看護師は慣れた手つきで注射針を私の肩に刺しました。針が刺されたときと薬液が入る時に少し痛みを感じました。私はホッとしました。「ちゃんと筋肉に入ったんだ」と思ったのです。経過を見るための場所に移動して、一緒に接種した当院の職員と世間話しをしているうちに15分が経ちました。あっという間のワクチン接種でした。すでに接種した知り合いからは注射直後に軽い倦怠感を感じたと聞きましたが、私にも職員にも特段の変化はなくその日は終わりました。

床に就いた私はなんとなくワクチンを接種した左上腕に重だるさを感じていました。そして、「明日、目が覚めたときに筋肉痛になっていればいいなぁ」と思っていました。それは「筋肉痛=ワクチンの薬液が筋層に入ったこと」を意味するからです。そして、翌朝、期待通りになりました。左肩の三角筋に痛みがあったのです。痛みはありましたが、腫れたり、発赤が出現するといったことも、また、熱発も頭痛も倦怠感もありませんでした。

三角筋はぶらりと垂らした腕を飛行機の翼のように持ち上げるときに使う筋肉です。ワクチン接種の翌日、その三角筋が痛くて腕を翼のように持ち上げられないのです。これはまさしく三角筋の痛みでした。職員にも聞いてみましたが、皆私と同じように三角筋の痛みがあって腕が持ち上がらないと言っていました。心配そうな表情をする職員もいたので私はあらためてワクチンの作用機序と今後起こるかもしれないことについて説明しました。

 

以下、説明したこと *************

筋肉が痛いということは薬液がきちんと筋肉にはいったということ。決して不安に感じることじゃないよ。今後、微熱が出ようと、頭痛が起ころうと、腫れてこようと「有害事象」と呼ぶような極端なものでなければ心配ない。数日で収まってしまうことだから気にしないこと。副反応など考えようによっては「ワクチンが効いている」という証拠。「二回目の接種後の副反応は強くでる」という人もいるけど、それは「一回目のワクチンが効いている」からなので心配しないこと。あくでも「有害事象」といえるほど症状が強いかどうか。事前に解熱剤(鎮痛剤)を服用するということはしない方がいいよ。飲まないでいられるのなら飲まないで様子を見ること。

以上 ************

 

接種翌日に出現した筋肉痛はその日のうちに軽くなり、次の日にはほとんどなくなってしまいました。私が事前の思っていた通りの反応といってもいいものでした。それ以降、これといった症状はなく、世の中で言われているほどワクチンの副反応に不安を持つ必要がないことを確信しました。とはいえ、二回目のワクチン接種に向かう時、職員は「二回目の副反応は強くなるかも」という点が心配になっているようでした。そこで私は次のように再度説明しました。

 

以下、説明したこと *************

二回目の接種による副反応が強かったとしても、それは一回目のワクチンがうまくいっていればいるからだと考えればいいんじゃないかな。ものは考えようだと思うよ。「二回目のあとには腕が腫れあがってしまった」という人もいるけど、僕はひそかに「そいう人は知らない間にコロナウィルスに感染していた(こういうケースを「不顕性感染」といいます)」のではないかと思っているんだ。WHOではコロナに感染した人にもワクチン接種を推奨しているし。腫れてもたかだか2,3日のことだろうね。熱発や頭痛が出てきても、つらくなければ解熱剤(鎮痛剤)を飲まないようにね。もちろんつらければ飲んでもいいけど。

以上 *************

 

日頃の診療で私は患者に「熱が出てもできるだけ解熱剤は使わないように」と指導してきました。もちろん今は「正確な体温がわからなくなるから」と説明しますが、本来は「熱がでるということはからだの免疫応答のひとつであり、熱発をきっかけに免疫反応が本格化するから」です。熱があるからといってむやみに体温を下げると免疫反応をさまたげる可能性があります。だからこそ「早めにパブロン(風邪薬)、はダメですよ」と繰り返し言ってきたのです。

5月18日のウォールストリートジャーナル紙には「ワクチン副反応、なくても予防効果あり」と表題のついた記事が掲載されました。その記事を読めば、私の言ってきたことが単なる個人的な見解ではないことがわかると思います。表題にあるように「副反応の少ない人もワクチンの効果はある」と書かれるということは、裏を返せば「副反応」はワクチンの効果をしめすものとしてとらえられていることを示しています。このような論調は日本のどのマスコミからも聴かれないことです。

というわけで、あっという間に第2回のワクチン接種は終わりました。職員のなかには接種当日の夜に熱発と軽い倦怠感があった者もいましたが「有害事象」といえるほどのものではありませんでした。当然のことながら解熱剤(鎮痛剤)を服用することはありませんでした。私は1回目と同じような筋肉痛がありましたが、程度はやや軽く、少しだけ「腫れた感じ」がありました。でも、翌日には症状はすっかりなくなって通常通り。結果として私と当院の職員には大きな問題は起こらずにワクチン接種は終了しました。

 

我孫子市でもワクチン接種がはじまり、患者さんから「私はワクチンを打てますか?」と質問されることが多くなりました。そんなとき私は答えます。「端的にいえば、どんな病気を持っていても新型コロナウィルスワクチンを接種することができます」と。「基礎疾患」があろうとなかろうとワクチン接種にはほぼ関係がありません。アレルギー歴に関しても、ポリエチレングリコール(PEG)に対するアレルギー歴がなければおおかたのアレルギー反応の経験があっても接種は可能です。

ちなみにPEGは大腸検査のときに使う下剤あるいは化粧品や軟膏にふくまれているときがあります。したがって、こういったものでひどいアレルギー反応を起こしたことがある人は注意が必要です。主治医あるいは接種当日の診察医に相談する必要があります。ただし、あきらかなPEGアレルギーでないかぎり「本人の意思」ということになるでしょう。でも、もし私の患者にPEGアレルギーを疑う履歴があれば、その人には「残念だけどやめといたら」とアドバイスすると思います。

ちなみに、アメリカでは「妊婦も接種可能」ということになっています。これまで妊婦に対する接種経験数が少ないため安全性は確認されていません。しかし、今のところ積極的に「妊婦は接種禁忌」とするだけの根拠はありません。「接種するリスクよりも、しないリスクが高い」と判断されての結論なのでしょう。ちなみに、世間で噂され、ワクチン接種に反対する人たちの間で噂されている「新型コロナウィルスワクチンと不妊」については「関連性に根拠なし」とされています。

現在わかっているワクチンの有害事象は次のとおりです。日本では5月上旬までにワクチン接種後に死亡した症例が28名います。多くは高齢者であり、直接の死亡原因としては脳出血、くも膜下出血が多いようです。もちろん若年者もいます。しかし、若年者ほど死因がはっきりしません。このような背景もあって、この28例は全例「死因とワクチン接種の因果関係は判断できない」とされています。なお、日本での新型コロナウィルスワクチン接種は現在550万回です(26日に1000万回を超えました)。

全世界では15億回ほどのワクチンが接種されています(22日現在)。みなさんが心配しているアナフィラキシーショックと呼ばれる重篤なアレルギー反応ですが、今のところ発生する頻度としては25万回に一回程度ということになっています。その多くがワクチンを接種して30分以内に出現しており、適切な対応がなされたため死亡例はまだないようです。もし、皆さんがワクチンを接種する場合は、接種直後に体のほてりやかゆみ、息苦しさや動悸などを感じたら会場の職員にすぐ伝えてください(まず起こりませんけど)。

ちなみにジョンソン&ジョンソン社のワクチンで騒がれた血栓症ですが、頻度としては80万回の接種に対して15例の関連血栓症が疑われています。80万回というと、我孫子市と柏市、流山市に住む生まれたばかりの新生児から100歳を超える高齢者までの全人口をあわせたくらいの数です。この人たち全員にワクチン接種をして15例の血栓症が起こるかどうか。それを「恐ろしい」と感じるかどうかということです。現在、広く日本で接種されているファイザー社のワクチンでは血栓症の報告はなさそうです。

私はワクチンを接種すべきか迷っている人には「打つリスクより打たないリスクの方がよっぽど高いですよ」と言っています。感染はしばらく続きます。「流行」からなかなか逃れられない以上、ワクチンを接種して感染のリスクを減らすことが何より大切です。昨年の今ごろ、「検査をもっとたくさんやれば感染拡大を抑えることができる」と主張する人が少なからずいました。でも、東京よりもはるかに多くの検査をしてきた大阪のつい最近までの様子をみればその答えは明らかだと思います。

検査は安易に行うべきではありません。今よりも医療体制が整っていなかった昨年、「もっとたくさん検査を」という声に社会が押し切られていたら医療は確実に崩壊していたと思います。ロンドン大学の某日本人教授も、どこぞのクリニックの院長も、いろいろなTV番組で「もっと検査を」と叫んでいました。医学の常識を軽視したそんな言説を真に受けた大臣は今もなおコロナ対策の陣頭指揮に立っています。そして、その大臣はいまだに国民に我慢と自粛と負担を強いるのみです。

感染拡大を抑えるにはワクチンを集中的に接種するしかありません。その対象者はワクチン接種の目的に応じて合理的に決めなければなりません。にもかかわらず、その場しのぎの対応策と大衆迎合的な政策が小出しにされ、新型コロナウィルスを封じ込める有効策も後手にまわるのみで十分ではありません。今のコロナ対策には司令塔がいません。日本医師会も政権のブレインとはとてもいえない状況です(会長があのザマですから)。ワクチンの社会的効果が待ち遠しくもあり、またその効果があらわれて日本の経済が早期に正常化できるのだろうか心配だというのが今の私の正直な気持ちです。

心に残る患者(8)

私はかつて総合診療部という部署に所属していました。「総合診療」という言葉を聞いたことがある人は多くないと思います。聞いたことがある人でも、それがどのような機能をもっているかまでを知っている人はごく少数でしょう(「総合診療など『なんでも内科』どころか『なんでもない科』だ」などと揶揄されたこともあります)。私がまだ医学生だった頃、「全人的医療」という言葉がいちぶの学生の間に広まりました。全人的医療とは「単に病気を診るのではなく、悩めるひとりの人間として理解して診療をしよう」というスローガンです。

総合診療部が全国の大学病院に設立されたのにはそうしたながれと無関係ではありませんでした。専門化、細分化した医療のなかで、適切な医療を受けられずに悩んでいる患者をあつかう診療科が求められるようになってきたためです。専門的な診療が集約された大学病院では、どの専門診療科が担当するのかはっきりしない患者がいます。どこにいっても「我々が診療する患者ではない」と、いわばたらい回しになる患者が少なからずいたのです。そうした患者の受け皿として総合診療部ができた「はず」でした。しかし、実際にはそれぞれの大学のさまざまな思惑で総合診療は作られていきました。

ある総合診療部ではアメリカの家庭医のごとく、内科・外科・小児科はもとより、産婦人科や耳鼻科、皮膚科といった幅広い臨床能力を有する医者を養成しようとしました。またある総合診療部は心療内科のような、心身症といった心理的な背景をもとにした身体的症状をあつかう診療を目指しました。さらにある総合診療部では単に大学のポストを増やす方策として利用され、実質的になにをやっているのかわらない総合診療部すらありました。結局、総合診療の必要性が叫ばれながらも、社会的なニーズとの整合性がとれないまま、総合診療部がタケノコのように次々とできていったというのが実情です。

私が所属していた北海道大学医学部附属病院総合診療部も、当時大学病院での位置づけがはっきりしていませんでした。総合診療部としての明確な理念がないまま、各専門診療科が「うちの患者ではない」と紹介してくる患者をあつかう心療内科のような診療に甘んじていました。私は学生のころから臨床心理学や精神療法に関心を持っていたので、その関連書籍をいろいろ読んできました。しかし、それらを実際の診療に活かすとなると具体的な指導が必要です。 私のいた総合診療部では、心療内科的なトレーニングも経験もない医者それぞれが自己流の診療をしている、という状態でした。

あるときは「手のひらから虫がでてくる」と訴えて皮膚科から回されてくる患者が来ました。またあるときは「私は昭和天皇の隠し子だ」と言っている患者が送られてきたこともありました。どちらも本来は精神科が担当すべき患者です。しかし、さまざまな理由で患者に「精神科に受診しなさい」と言えないケースはまず総合診療部にまわすという暗黙のルールができていました。精神科の診療など未経験の私にとって、そうした患者を診療するのは正直しんどいことでした。私は、総合診療部の運営に明確なビジョンをもたず、こうした現状を放置している上司に不満を持っていました。

「心療内科的な患者」をどう扱うべきなのか、迷いながら忙しくしていたある日、ひとりの外国人が私の外来を受診しました。彼は工学部の大学院にサウジアラビアから留学してきた男子学生でした。問診票に彼が書いた文字はなく、受付スタッフの字で「消化器科からの紹介」とだけ書かれていました。診察室に入ってきた彼は、学生とはいえすでに30歳を超えているように見えました。私は英語で「日本語は話せますか?」と聞いてみましたが、彼は顔を横に振り、身振り手振りで日本語は話せないと伝えているようでした。

しかし、話せないのは日本語だけでなく、英語での会話も十分にはできないようでした。簡単な英単語は通じても、コミュニケーションがとれるほどの会話にはならないのです。はじめは「留学生のくせに英語も話せないのか」とあきれていましたが、自分の思いを必死に伝えようとする彼の姿を見てなんとなく気の毒になってきました。そして、彼の話しに耳を傾けるうちに、どうやら数か月前から胃の痛みと食欲不振が続き、消化器内科を受診したがよく話しを聴いてもらえないまま「総合診療部に行くように」といわれた、ということがわかりました。

はじめは緊張して表情に余裕がない彼でしたが、簡単な日本語と英単語を使って「会話」を続けていると、彼の表情が徐々に緩んでくるのが見て取れました。ときに冗談を交わしながら、今の彼にとって必要なのは、胃カメラなどの検査ではなくこうしたコミュニケーションなのではないかと思いました。とりあえず、胃の負担を軽減する薬を処方し、その効果を見ながら必要に応じて検査をすることにしました。診察室を出ていくときの彼には笑顔がありました。そのとき私は大学に総合診療部がある意味のひとつはこういうことかもしれないと思ったのでした。

一週間ほどして彼はまた外来にやってきました。私は薬を飲んでみて症状はよくなったかと尋ねてみました。すると彼は「症状の改善はあるがまだ十分ではない」と答えました。そこで今回は前回よりも少し立ち入った話しを聴くことにしました。暖かい中東とはまったく環境の異なる北海道での生活は、彼にとってはさぞかしストレスなのではないかと思ったからです。すると彼はいろいろなことを話してくれました。彼がサウジの王族の一員であり、妻と子供を母国に残してやってきたこと。今回の留学は「箔付け」のための遊学だったことなどが明らかになりました。

言葉の問題で大学院の授業にも、また実習にも支障がでていた彼にはそれなりにプレッシャーだったに違いありません。しかも、所属する研究室の教授は、一日に五回、メッカの方角に向けて礼拝しなければならないムスリムの務めに対しての配慮がなく、彼は自分にとってはそれが一番つらいことだと言いました。多くの日本人は信仰というものを日頃意識していません。ましてや、ムスリムの独特な日常に知識のある日本人など少数だと思います。教授がそんな典型的な日本人であれば、拝礼に対する配慮など想像もつかなかったのかもしれません。

私は工学部に電話をして、ムスリムである彼に礼拝するためのスペースと時間を設けてやってもらえないか頼みました。彼の症状を治すためには、薬を処方することよりも今の環境を整えてあげることの方が大切だと思ったからです。彼はその後しばらく外来に来ませんでした。私は彼のことをすっかり忘れていて、数か月ぶりに彼のカルテが私の手元に来たときになってようやく長期間来院がなかったことに気がつきました。彼が診察室に入って来るまでの間、私は「症状がよくならず別の病院に行ってしまったのだろうか」と思いをめぐらしていました。

診察室に入ってきた彼は笑顔でした。久しぶりに私と会った照れくささからか、それとも症状が良くなったからかわかりません。しかし、私の前に座った彼は「教授が礼拝する場所と時間を作ってくれた」とうれしそうでした。「胃の調子は?」と尋ねると、彼は「オーケイ、ダイジョウブ」とにこやかです。その様子を見て私はなぜかほっとしました。胸のつかえがとれたという感覚といってもいいでしょう。彼が胃の不調を訴えたのは、慣れない環境に住むストレスだけではなく、ムスリムとしての務めができなかったことに対するストレスが大きな原因だったのかもしれません。

だいぶ経って、彼はもう一度私の外来にやってきました。今度は付き添いの人と一緒でした。それは奥さんと小さな息子さんでした。二人は彼と日本で生活するために中東からやってきたのです。奥さんはヒジャブと呼ばれるスカーフをかぶっていました。サウジアラビアは中東でもとくに戒律の厳しい国であり、女性はアッバーヤという黒いマントを頭からすっぽりとかぶって顔を隠さなければいけないことを知っていた私は、奥さんのヒジャブを指さして「アッバーヤ、オーケイ?」と言いました。すると彼はとびっきりの笑顔で答えました。「ココ、ニホン。ダイジョウブ」。

美人の奥さんとかわいい坊ちゃんとの三人で暮らすことになった彼は、それ以来、私の外来を受診することはありませんでした。私が北大の総合診療部に入局したのは、特定の臓器・疾患に偏らない総合内科的な診療を身に着けたいと考えたためです。また同時に、そうした能力を身に着けた医師の養成が総合診療部の役割だとも思っていました。しかし、あの中東からの留学生を診療する経験を通して、心理的な側面から患者を理解し、問題解決の糸口を模索することも総合診療の重要な役割だと感じました。そしてその経験は今の私の診療にも生きています。

全国に次々と設立された総合診療部でしたが、その後、多くが大学病院の中での位置づけが定まらないまま統合あるいは廃止されてしまいました。北大の総合診療部もそのひとつです。それは総合診療の概念を具体化できなかった当時の指導的立場にある人たちの責任です。私は総合診療部に籍を置いていたときから「このままでは総合診療がなくなってしまう」と危惧していました。そしてそれは現実のものとなってしまいました。今でも「病気を診ずして病人を診よ」という言葉が恥ずかしくなるような医療をしばしば目にします。そのたびに総合診療部がなくなってしまった事実の重さを痛感します。

信仰とはなにか

今回は信仰について書きます。我が家(というよりも瀬畠家)は先祖代々仏式の葬儀・葬式をしており、亡くなった父親も仏式の墓に眠っています。しかし、私自身が仏教徒かと問われれば、仏教のなんたるものかについての知識はほとんどありませんし、仏教徒といえるほど功徳を積んでいるわけでもありません。宗教とはなにか、信仰とはどのようなものかすらわかっていないと思います。にもかかわらず今回信仰について語るのは不適切かもしれません。また、すでに信仰をもっている方たちにとって不快なこと、あるいは陳腐なことを書いてしまうかもしれません。そのときは、信仰を持たぬ者のたわごとだと思ってお許しください。

先日、2017年に公開されたマーチン・スコセッシ監督の米映画「沈黙-サイレンス」を観ました。この映画の存在はそれとなく知ってはいましたが、さほど興味・関心はありませんでした。「クリスチャンである欧米人から見た【可哀そうな隠れキリシタンの弾圧】を描いたもの」と決めつけていたからです。欧米人の日本人あるいは日本に対する偏見で描いた映画などたかが知れていると。そして、「当時の日本人がどのような思いで隠れキリシタンとなり、どのような思いで彼らを取り締まったのかなど欧米人には理解できまい」とも思っていました。しかし、そうした私の思い込みはいい意味で裏切られました。

この映画の原作は遠藤周作の小説「沈黙」です。ご存じのとおり遠藤周作自身もカトリック信者であり、「イエスの生涯」や「深い河」といった宗教あるいは信仰に関わる本を何冊も執筆していることで知られています(「深い河」は私の好きな一冊で、当院待合室の書棚にもおいてあります)。監督であるマーチン・スコセッシは遠藤周作のこの原作を読んで以来、ずっと映像化することを切望してきたといわれるだけあって、日本人が観てもまったく違和感を感じない映画になっていました。単なる「宗教弾圧」を描くのではなく、宗教とはなにか、日本人にとって信仰とは、という深くて重いテーマを問いかけた力作だと思います。

映画「沈黙-サイレンス」は17世紀の日本が舞台です。誰もがイエズス会のエースと認める宣教師が日本で行方知れずになります。 キリスト教を捨て、日本人として暮らしているというのです。彼に教えを受けた宣教師ロドリゴは、ガルベ神父とともに恩師を探しに日本に密かに上陸します。しかし、彼らが目の当たりにした日本の禁教政策と隠れキリシタンの現実は、二人の信仰そのものの意味を問いかけるものでした。この映画で一番印象に残ったのは、隠れキリシタンに棄教を迫り、踏み絵を拒む者は容赦なく絞めあげる奉行(この奉行もかつてはキリシタンでした)の言葉です。

The price for your Glory is their suffuring(お前たち宣教師の栄光の代償は彼らキリシタンたちの苦しみなのだぞ).

以前の記事でも紹介しましたが、イエズス会はキリスト教の「武闘派」と呼ばれるほどローマ教皇・ローマ教会に忠実な宗派でした。キリスト教を広めるためであれば自らの命も惜しまない宣教師たちばかりです。教皇の命(めい)を受ければどんな辺境の地へも進んで布教に向かいます。当時は宗教改革の真っただ中でした。キリスト教の権威・権力が高まるとともに、教会は腐敗し、金欲にまみれたものになっていきました。しかし、そうした教会の堕落を憂いた人たちが、信仰の中心は教会ではなく聖書にあるとする「聖書中心主義」を主張してカトリック教会と対峙します。それがのちにプロテスタントと呼ばれる人たちでした。

プロテスタント信者はその後急速に数を増やしました。危機感をもったカトリックは、信者の獲得を目指してたくさんの宣教師を海外に送りました。日本にもカトリック宣教師が送られてきました。フランシスコ・ザビエルはそのひとりです。ザビエルはイエズス会創設当時からのメンバーであり、イエズス会を代表する宣教師でした。当時、黄金の国だと信じられていた日本をキリスト教の国にすることは、イエズス会を保護していたスペインの覇権を広げることにもなります。植民地から香辛料やばくだいな銀を得てスペインは栄えました。布教の急先鋒としてのザビエルには大きな期待がかけられていました。

日本にやってきたザビエルは、日本人の生真面目さ、几帳面さ、そして主(あるじ)への忠実さを目の当たりにし、「日本人ほどキリスト教徒にふさわしい国民はいない」と本国に報告しました。実際、ザビエルの布教によってたくさんの日本人がキリスト教徒になりました。 それにともない、長崎周辺から神社仏閣が消え、教会が次々と建てられるようにもなったのです。 イエズス会は、キリスト教を日本に根付かせるために、九州のキリシタン大名に大砲や弾薬を与え、長崎周辺を要塞化することを密かに考えました。しかし、こうしたイエズス会の方針は、やがて秀吉たち日本の為政者たちにキリスト教に対する猜疑心を植え付けることになります。

大村・有馬などのキリシタン大名の動向に危機感をもった秀吉は、それまでのキリシタン容認という態度を一転させ、1587年、伴天連追放令を出してキリスト教の布教活動を制限しました。そして、追放令にもかかわらず大坂を中心に関西地域で布教活動をしていたキリシタンたちを次々と逮捕したのです。キリシタン大名とも親交のあった石田三成が、逮捕されたキリシタンたちに同情し、170名もの人たちに恩赦をあたえました。しかし、最後まで信仰を捨てようとしなかった、6名の外国人宣教師、6名の日本人宣教師、そして5名の未成年者を含む計24名のキリシタンは、途中で自らの意志により殉教に加わることになった2名とともに長崎に送られ処刑されました。いわゆる日本二十六聖人の殉教者です。

時代は江戸に代わってもキリシタンに対する厳しい取り締まりは続きました。幕府は1614年に禁教令を出してキリスト教の全面禁止を打ち出し、キリシタン大名たちは改宗・改易を強制され、なかには追放される者すらいました。そして、キリシタン大名に仕えた多くの家臣たちが浪人となりました。こうした幕府の方針は、キリシタンの潜伏化をもたらし、キリシタン大名に仕えた浪人たちの不満を高めることになったのです。その不満が頂点に達して起こったのが1637年の島原の乱です。3万7千人ものキリシタンが、有馬氏が改易して主(あるじ)を失った原城にたてこもって12万の幕府軍と対峙したのです。中には幕府側の説得に応じてキリスト教を棄教して城をあとにする者もいました。しかし、最終的に籠城を続けた2万6千人が戦死しました。

映画「沈黙-サイレンス」の中で、隠れキリシタンたちに棄教させようと、奉行らは繰り返し「形だけでいいのだ。軽く踏むだけでいいのだ」と諭す様子が描かれています。 当時のキリシタンの中には、家族が、あるいは村の多くの人々がキリシタンになったという理由から、心ならずもキリシタンになった人も少なくありませんでした。ですから棄教を諭されると、それに素直に応じるキリシタンも少なからずいたのです。 そもそもキリシタンを見つけ出す絵踏みは幕府が強制したものではありません。 取り締まり自体は必ずしも厳しいものばかりではなく、取り締まりには地域差があったともいわれています。

映画では、生きるために仕方なく絵踏みをしてしまうキチジロウというキリシタンの漁師がでてきます。彼はキリシタンでありながら、イエスの肖像を踏んでしまった「罪」に苦しみ、宣教師ロドリゴに「告白」をして許しを乞います。彼の家族は絵踏みをしなかったために火あぶりにされました。しかし、取り締まりから逃れて生き延びるため、なんどもなんどもこの「罪」を繰り返すキチジロウ。そのたびに涙をながして許しを乞いながら、繰り返し主イエスの肖像を踏みつける彼のことをロドリゴは理解できませんでした。それでもロドリゴはキチジロウの告白に耳を傾け、何度も「罪」を繰り返す彼を許すのです。

またロドリゴは、捕らえられ、命と引き換えに棄教を迫られる農民たちが平然としているのを目にします。「おまえたちは殺されるかもしれないのになぜ平気なのか」と怒りをあらわにするロドリゴ。するとひとりの娘が答えます。「かつてパドレ(神父)が言っていました。天国には苦役も重い年貢も、病気も苦痛すらもない。いつもそばに神さまいらっしゃる幸福な場所が天国だと。そんなところに行けることはいいことなのでは?」と。ときに笑顔でそう言って疑わない娘をロドリゴは複雑な目でながめます。そのまなざしはまるで「そんなことを本当に信じているのか」といっているように私には見えました。

そのとき、キリシタンを取り締まる奉行が宣教師に吐き捨てるように言うのです。「あの愚かな百姓どもは自分のあたまで考えることができないのだ。あやつらをいくら責めても彼らは改宗はしない。やっかいな事態になるばかりじゃ。むしろお前たち宣教師を棄教させるのが一番だということがわかったのだ」と。いくら棄教をせまってもキリシタンは信仰を捨てようとしません。責められ、たとえ命を落とそうとも信仰を捨てようとしないのです。しかし、それは宣教師たちのいいつけをかたくなに守るキリシタンたちの純粋さが故のこと。奉行らはそうしたことに気づき始めたのです。

The price for your Glory is their suffuring(お前たち宣教師の栄光の代償は彼らキリシタンたちの苦しみなのだぞ).

人に幸福をもたらすはずの信仰によって苦しむという現実。そんな現実を目のあたりにして、主人公の宣教師ロドリゲスは悩みます。自分がキリスト教を棄教しなければ罪なき人が命を失っていく。自分はなんのために主イエスに仕え、この貧しき善良な人々を導いているのだろうかと自問するのです。「主よ、あなたはなぜ黙っておられるのですか」と。目の前で拷問にあっているキリシタンたちのうめき声を聴きながら耐えるロドリゴ。突然、主イエスの声が聴こえます。「私を踏むのだ。汝らの苦しみを救うために私は使わされたのだ」と。この声は主イエスのものなのか。それとも彼自身の心の声だったのか。

この映画はたんなる「隠れキリシタンの弾圧」を描くものではありません。宗教とはなにか、信仰はなんのためにあるのか、という根源的な問いかけをしているように思います。映画の終盤、日本で姿を消したロドリゴの恩師でもある宣教師の存在感が増します。イエズス会のエースともいうべき宣教師がなぜ忽然として姿を消したのか。その理由が徐々に明らかになっていきます。これ以上書くとネタばらしになってしまうのでこのくらいにしておきますが、人を幸福にするはずの信仰がなぜこうまで人を苦しめるのか。その苦しみの意味とはなにかを考えるいい機会になると思います。是非この映画をご覧になってください。