院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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子どものころ、床屋さんに行くのが面倒で髪を伸ばし放題にしていると、よく両親に「おまえはビートルズにでもなるのか?」と怒られたものです。今どきの子ども達には「ビートルズにでもなるのか」の意味が理解できないかもしれません。当時は「ビートルズ=不良」という根拠なき図式があって、「ビートルズになる」ということはすなわち「不良になる」ということを意味していました。
それと同じように、子ども時代、勉強もせずにTVの前でゴロゴロしていると「TVばかり観ているとバカになるよ!」とよく言われたものです。事実、TVばかり観ていた私はみごとに「バカ」を地で行くような小学生時代を過ごしていたわけですが、それから五十年が経った今でもなお、「TVばかり観ているとバカになる」という言葉は多くの大人たちの間で活きています。
というのも、TVは正しい情報を伝えているとはかぎらないからです。とくにワイドショーはひどいものです。ど素人のコメンテーターが根拠希薄な「茶飲み話し程度の感想」を次々とまくし立てます。それを観ている視聴者はついつい「そうだ、そうだ」となって不安がかき立てられていきます。しかも、科学者を装った「専門家芸人」までが登場してワイドショーを盛り上げるのでなおさらです。
専門家芸人がなにを言おうと、所詮、芸人は芸人です。それが科学的に正しいかどうかはともかく、なけなしの知識は「芸」となって人々の注目をあび、人々の心をつかまなければなりません。ですから、専門家芸人たちが人心をあおろうとするワイドショーの意向にそわない発言をするわけがありません。かくして、ワイドショーを見ている人は知らず知らずのうちに洗脳されていきます。
心理学的にいえば、人間は自分の不安を支持・補強する情報に流され、信じる傾向を持っています。不安な自分と異なる意見に安堵する人もいますが、なかには自分の不安を否定する意見に怒りを感じて攻撃的になる人もいます。そうした怒りが客観的な事実を理性的に分析した結果であるならまだしも、「なんとなく怖い」という情緒に振り回されている結果であるとそれはもはや修正不能です。
最近、TVのニュースで「今日の陽性者数」とともに「重症者数」や「死亡者数」も報道されるようになりました。でも、それらは付け足し程度のもの。人々の不安を解消するほどのものにはなっていません。しかし、新型コロナの感染が一番危機的だった4月と比較すると現在の「陽性者数」はその三倍ほどになっていますが、「重症者数」はほぼ半分に、「死亡者数」にいたっては三分の一以下になっています。
こうした結果は、それまで検査をする基準となっていた「37.5℃以上の発熱が4日以上続くこと」という条件が外されて検査の数が格段に増えたからです。その一方で、現在の検査の精度が格段に上がって、症状の有無とは関係なくわずかなウィルス量の保有者であっても陽性にしていることが影響しています。しかし、「重症者数」でもわかるように感染の状況は決して深刻なものとはいえません。
先日、都内で「新型コロナはただの風邪」「マスクのない普段の生活に戻ろう」と気勢をあげる集会が開かれました。新型コロナを必要以上に怖がるのも愚かですが、こうした無意味な楽観論で社会を混乱させる運動も実に迷惑な話しです。軽微な新型コロナの感染は「ただの風邪」かもしれませんが、新型コロナウィルスの感染症そのものは「ただの風邪」ではないからです。
「新型コロナはインフルエンザ相当か、それよりも少し怖い感染症」と表現するのが適当です。インフルエンザには予防ワクチンが存在し、治療薬として服用できる薬が存在しますが、新型コロナウィルスにはまだそれがありません。ですから、油断していると感染はいっきに拡大し、重症者も急増する可能性があります。重症者の数を増やさないためには感染数を見ながら社会活動をコントロールすることが重要なのです。
それにしてもこの冬が心配です。インフルエンザの症状と新型コロナの症状とは区別ができないためです。高熱になったとたん、多くの人が不安になって検査を希望して医療機関に殺到するでしょう。なかには本物の新型コロナに感染した人もいればインフルエンザの人もいる。ただの風邪症状の人もいるのです。そうした人たちが殺到すれば、たちまち医療機関が感染を広げる場所になってしまいます。
重症化した場合はもっと深刻です。新型コロナであれ、インフルエンザであれ、肺炎になってしまった人や、なりそうな人を収容して治療する病院は対応に苦慮します。簡単に区別できるものではないからです。検査でどちらかが陽性になればまだいいのですが、検査が両者が陰性だからと言って一般病棟に入院させて治療できるわけではないのです。かくして入院を断わられる重症者がでてくるかもしれません。
となれば病院はあっという間に機能不全をおこして「医療崩壊」となります。私はこれが一番恐ろしいのです。入院加療すべき人が入院できない状態になったときのことを考えるととても不安です。今シーズンのイタリアの状況を思い出してください。人工呼吸器が不足して、使用する患者に「救命できる可能性の高い人から」という優先順位をつけるという悲しい現実が突き付けられました。
そうならないためにも今からやっておくべきことがたくさんあります。そのひとつが「新型コロナの感染症に対する意識」を変えるということです。つまり、今だに繰り返される「新型コロナを封じ込め、感染拡大を阻止する」という対策を「無症状あるいは軽症の陽性者は病院での加療をやめ、自宅あるいは宿泊施設で対応する」というものに方向転換すべきです。その意識の転換を今からやっておくべきだと思います。
そもそも現在の感染状況はそれほど深刻ではありません。幸いにも若い人達を中心に、無症状の、あるいは症状の軽い陽性者が多くを占めています。重症化しやすい高齢者が若い人達から感染したらどうするかという問題もあります。しかし、それはそれとしてしっかり策を講じながら、偏重した「感染拡大の阻止」から「重症者の救命」に重点をおく政策・医療に舵を切るべきです。
国や厚労省も、地方自治体も保健所も、あるいは医師会ですらも現状対応にとらわれ過ぎています。一番心配しなければならないこの冬に向けての戦略がなさすぎます。とくに医師会については、厚労省や保健所からの指示がなければなにも動こうとしていないのはなんとも情けないことです。本来、どうすべきかを提言すべき東京都医師会の会長などは「国会を開いて決めろ」と叫ぶばかりでしたし。
私は今、この冬に向けての対応策を考えています。そして、無策のまま秋になるようであれば私案として医師会あるいは保健所に提案してみようと思っています。今回はその試案をみなさんに提示し、広く皆さんからのご意見をうかがえればと思います(そのご意見は公開しません)。それらのご意見を通じて改善・修正を加え、さらに実用的・実効的なものにできればいいと考えています。
○キーワード「肺炎治療の徹底と医療崩壊の回避」「保健所、病院の負担の軽減」
○保健所、病院、クリニックでの機能分担
保健所 :
感染者の状況把握、重症陽性者の入院調整、各種機関からの情報伝達
病院 :
比較的重症患者の入院加療(場合に応じて検査)、熱発患者の診療中止
重症患者は感染症指定病院で治療
クリニック(医師会会員・診察医):
熱発患者の電話診療(病院通院の患者の熱発も診療)
検査や入院を要する患者のスクリーニング
無症状陽性者のフォローアップ(毎日)
軽症陽性者への投薬・フォローアップ(毎日)
○検査センター
対象:「重症化を示唆する症状を有する熱発者」「4日以上続く熱発者」
手順:検査センターに診察医が紹介状で依頼
「新型コロナのPCR検査」 および 「インフルエンザの抗原検査」
○無症状陽性者・軽症陽性者への対応
自宅あるいは宿泊施設での経過観察(場合により診察医による投薬)
自宅・・・最寄りのクリニックにより投薬と毎日の病状の確認
宿泊施設・・・医師会から派遣された管理医による健康管理および投薬、毎日の病状の確認
これらの陽性者の情報は診察医または管理医により毎日保健所に連絡
○通常の熱発者への対応
熱発者には事前に抗インフルエンザ薬や抗生物質の診断的治療(検査は原則的にしない)
検査が必要と思われるケースは診察医によって検査センターに紹介
現在の検査は安易に行われています。以前の投稿記事にも書いたように、検査はあくまでも「必要な人に、必要なときにおこなうもの」です。どこかの「ど素人の政治家」が言うような、「誰でも、いつでも、どこでもおこなうもの」では決してありません。よもや「陰性パスポート」などといった陰性証明ができるものではありません。検査が適切におこなわれなければ医療は混乱するだけなのです。
繰り返しますが、今の状況を端的にいうと「重要なのは、コロナに感染したかどうかではなく、肺炎になりそうか、なってしまったかどうか」ということです。症状のない場合、あるいは熱発だけだったり、症状が軽微なケースは自宅内隔離で経過を見るべきなのです。みんながみんなに検査が必要なわけでもありませんし、よもや全員が入院しなければならないものでもありません。
PCR検査が陽性になる人をゼロにすることに全精力を注ぐなんて無駄です。日本のような人口の多い国では、経済が死ぬような強い自粛をしないかぎり不可能だからです。もし仮にそれができたとしても、そのころにはたくさんのお店や会社が倒産し、日本の経済は計り知れないダメージを受けているでしょう。今の感染状況は過剰な自粛をするようなものではありません。
多くの国民がそれぞれの立場でできうる感染対策を行いながら、少しづつ経済を回していくべきです。有事と準有事、平時とでやらねばならぬことは違います。むやみに検査を増やして「クラスターつぶし」をやっている場合ではないのです。新型コロナの感染者を減らすかわりに、失業者や自殺者を増やしてしまうなどということがあってはなりません。冬への対応は今から動き出さなければ間に合わないということに一日も早く気が付いてほしいです。
TVではあいかわらず「今日も東京で何百人以上の新型コロナ感染者」と報道しています。あんなニュースを連日聞かされれば、気持ちが塞ぎ込んだり、不安感にさいなまれる人が出てくるはずです。新型コロナウィルスが流行して半年。これまで経験したことのない新型ウィルスということもあり、過剰とも思われる自粛がおこなわれて、日本の社会活動がすっかり停滞してしまいました。それは非常事態宣言が解除された今も続き、街の商店や観光に関連した産業が悲鳴をあげています。
私はこれまで、新型コロナウィルスに関してできるだけ客観的な立場で見解を表明してきました。錯綜する情報の中で、現実的でかつ正確だと思われることを選んで投稿したつもりです。お気楽にものを言っているつもりはありませんし、人々をむやみに安心させる気休めを並べたてているわけでもありません。新型コロナのことを心配する外来の患者さんにも冷静にお話ししています。しかし、外来で新型コロナの現状を長々と説明することができません。今回のブログではそのあたりのことを詳しく書きます。
陽性者の数だけを見ると、この3月や4月のように感染が急速に広がっているように見えます。それは重症者も、あるいは亡くなる人も増え続けているかのようです。毎日、毎日、「これまでで最大の感染者数」などと報道されればそう思いたくなるのも無理はありません。しかし、現実はそうではありません。マスコミの報道の仕方は決して現実を正しく伝えるものではなく、ただ人々の不安をあおる情報のみを伝えていると感じるほど偏っています。では、現在の本当の感染状況とはどのようなものなのでしょうか。
感染拡大が深刻な状況にあるときと、感染がゼロではないがそれほど大きな問題になっていないときとですべきことは異なります。それを判断するために、この4月の状況と今とを比較して、なにが異なっていて、なにが変わらないのかを整理してみる必要があります。感染が深刻なときに楽観的な対応をするのは愚かなことです。逆に、感染の問題がそれほど深刻でもないのに、経済が死んでしまうような自粛を敢えて選択するのも馬鹿げています。感染で死ぬ人よりも失業して自殺する人の数が圧倒的に多いからです。
5月11日、それまでPCR検査を実施する目安のひとつであった「37.5℃以上の体温が4日以上続く」という条件がなくなりました。また、現在、全国の病院あるいは検査機関が政府からの補助金を受けて次々と最新型の検査機器を導入しています。その結果、新型コロナウィルスのPCR検査数を容易に受けられるようになり、その数はかつてないほど増加。今もなお増え続けています。いわゆる「これまでで最大の陽性者数」が日々更新されるのは、こうした背景があるからです。
今の最新型のPCR検査機器はものすごい「優れもの」です。3月ごろに使用されていた検査機器は検体に30~40個のウィルスが存在していれば「陽性」と判定していました。それに対して、現在の最新型ではたった5個のウィルスがあれば「陽性」となるといわれています。つまり、精度がかなり向上しているのです。3月の時点では「陰性」と判定されていた人の多くも、今の最新型の機械を使えば「陽性」となっているわけで、陽性者数の増加にはこうした背景も影響しています。
以前のブログで私は、「現在の検査には偽陰性(感染しているのに異常なしと判定される人)の問題が無視できない」と書きました。しかし、少量のウィルス保有者をも陽性にしてしまう最新型の検査機器によって、かつて私が抱いていたそうした懸念は杞憂と化したかのように思えます。ところが実際には、感度が良すぎることで今度は違った問題が生じています。つまり、感染症として発症するわけでも、また他者に移すわけでもない単なる「ウィルス保有者」までをむやみに陽性者とカウントしてしまうのです。
「ウィルスが鼻腔に数百個以上なければ他人に感染しない」といわれています。精度が良すぎる検査をおこなうと、本来であれば自然に治ってしまう軽微な感染者までひろい上げ、結果として無駄に病院やホテルに収容することになってしまうのです。 そもそも、発症もしていない、あるいは単なる風邪のような軽微なウィルス保持者を病院やホテルに収容することは医療資源を無駄に使うことになります。医療資源は「肺炎などの重症化を防ぐ、あるいは治療する」というところに集中させるべきです。
今、新型コロナの感染拡大を防ぐため、できるだけ多くの感染者を見つけようとしています。 しかし、海外の例を見てもわかるとおり、たくさんの検査をし、陽性者をとじこめてもウィルスは容易に消滅しません。 しかも「感染者」と称される陽性者の多くは無症状あるいは軽微な症状しかない人で占められ、重症者にいたってはほとんどゼロです。 検査はあくまでも「新型コロナウィルスによる肺炎が疑わしい人の確定診断」であるべきなのです。
今の新型コロナウィルスの勢いは、この3月や4月のときとは明らかに違います。イタリアの第一線で診療する医師の「どう猛な虎が、猫になってしまった」という言葉がそれをうまく表現しています。そして、そうした状況の違いは数字を通してみるとよりはっきりしてきます。以前にもご紹介した池田正行先生のホームページからの引用してみましょう。これは感染が拡大し、医療崩壊が懸念されていたころと最近の重症者あるいは入院を要する人たちの数の推移をあらわしたものです。 この表から4月と7月の様子がずいぶん異なることがわかります。
【表:重症者ならびに要入院者数】
4月7日 5月7日 7月19日
重症者数/陽性者数 2.3% 1.8% 0.2%
要入院者数/陽性者数 80% 70% 16%
4月のときの検査数が少なく抑えられていたため、陽性者が少なめになって「重症者数/陽性者数」が高めになったのでしょうか。それとも感度の高い7月の検査数が多くなったため、陽性者の数が増えてしまったから「重症者/陽性者数」が低くなっているのでしょうか。でも、東洋経済のホームページにまとめられているグラフをみればわかるように、7月の重症者はほとんど微増するにとどまり、死亡者数にいたってはほんの数名増えているにすぎません。
これは病院で治療にあたっている医療従事者のおかげです。あのときの病院の混乱ぶりを考えると、医療従事者の皆さんの苦労はいかばかりだったろうと思います。そのときの奮闘のかいもあり、この間の治療方法やケアのノウハウも蓄積されて患者の予後が改善したことは想像に難くありません。もちろんその苦労・奮闘は今もなお続いています。「行列のできる店」の行列の長さが短くなっただけで、店内の混雑ぶりは今も以前となんら変わりはないのです
その一方で、新型コロナウィルスが、まさに「虎が猫になった」と表現されるような変化をとげ弱毒化しているという解釈も可能です。しかし、「猫になった」とはいえ、「飼い猫のように大人しい猫」になったのではなく、「うっかり手を出すと引っかかれたり、かみつかれたりする野良猫」程度の話しです。あちらから飛びかかってくるほど恐ろしい野良猫ではないとはいえ、慎重に、かつ、冷静に対処をすることが大切です。
これまでお話ししてきた現在の新型コロナウィルスの状況をまとめると次のようになります。
(1)「感染が拡大している」ではなく「ウィルス保有者を鋭敏に拾い上げている」と解釈すべき
(2)「ウィルスを保有している」は必ずしも「発症して感染を広げる」ということではない
(3)感染の状況は「陽性者数」で判断せず、「重症者数」と「死亡者数」で判断すべき
(4)現在の「検査陽性者」のほとんどは無症状あるいは風邪症状程度
これらの状況から我々がすべきことは次のように要約できます(私の個人的見解です)。
○熱発があっても、咳や胸痛、息苦しさといった症状がなければ自宅内隔離のうえ経過観察
→ 咳のみであれば経過観察でいい(抗生物質の服用を開始してもいい)
→ 咳、胸痛、息苦しさがあるなら、その時点でPCR検査を考慮
○熱発が始まって4日目に解熱傾向がなければかかりつけ医に電話で相談
→ ひきつづき他の症状がなければ経過観察も可(抗生物質の服用を開始してもいい)
→ 途中で咳のみ出現したなら抗生物質の服用を開始
→ 胸痛や息苦しさ、味覚異常などが出現したら、その時点でPCR検査を考慮
○熱発後3日以内に解熱傾向となったり、終始熱発がなければ風邪として経過観察
症状が軽いとき、あるいは熱以外に症状がないときはあわててPCR検査をする必要はありません。発症しない、あるいは他に感染を広げることのない軽症者までをひろい上げ、社会をむやみに混乱させ場合によっては医療機関などのベットを無駄に占有してしまうからです。あくまでも「新型コロナに感染したかどうか」よりも「肺炎になりそうか、なってしまったか」の方が重要です。もともとコロナウィルスは風邪のウィルスです。年間3000人以上が死んでいるインフルエンザよりも恐ろしいはずがありません。
マスコミは放射能のときのように、人心を揺さぶり、不安をあおるような報道を繰り返しています。そうした報道に振り回され、今の状況を「第二波がやってきた。ふたたび自粛だ、非常事態宣言だ」と騒ぐのは愚かなことです。ときどき「癌になったらどうしよう」と不安になっている患者がいます。私はそんなとき、「癌でもないのに心配してもはじまらない。不安になるのは癌になってからにしましょう」とお話しします。まさに「感染状況が深刻になりそうになったら心配すべき」なのです。
ある研究者がTV局からの出演依頼を受け、「むやみに検査を広げるのは有害無益」と自分の主張を伝えたところTV局は出演依頼を取り下げてきたといいます。マスコミなんてそんなものです。真実がどうかなんて興味がないのです。ただひたすらに人々の注目をひくセンセーショナルな情報を垂れ流すのみ。であるなら、国民ひとりひとりが賢くなって、できるだけ正しい情報を、できるだけ冷静に判断するしかありません。ひとりでも多くの国民が正しい情報にもとづき、自分のあたまで考えなければならないことを、今回の新型コロナウィルスは教えていると思います。
この記事は2016年8月21日にアップした原稿を修正・加筆してものです。医師会雑誌への投稿依頼があったのを機に、送られてくるスパムメイルが多かったこの原稿を書き直ししました。細かい部分は一部変更されていますが、大筋ではこれまで通りです。ご了承ください。
人は青年期にいろいろな悩みに直面するものです。そのときの不幸を嘆いたり、うまくいかないことにため息をついたり、そこはかとない不安を感じたりと内容はさまざまです。還暦を迎える私も、青年期には自分の進むべき道に迷っていた時期がありました。もともと悩みを相談できる友達もいませんでしたし、家族に相談したこともありません。ですから、青年期の不安や孤独を感じても、自分の中で出口を探しながらもがくことしかできませんでした。
青年期の悩みを解決する手がかりを求めていろいろな本を読みました。それは亀井勝一郎の人生論だったり、加藤諦三の心理学の本だったり、あるいは当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が書いた「男は20代でなにをなすべきか」だったり。手当たり次第に読んでいました。もともと好きだった山本周五郎や井上靖、石川達三や司馬遼太郎の小説なども、心の琴線に触れる場所を探しながら読み返していました。きっと私なりに試行錯誤していたのだと思います。
そんなとき母親に「よく当たる手相占いをする人がいるから行ってみないか」と誘われました。それまで自分の悩みを親に打ち明けたことはなく、ひょっとして母は私の悩む姿を見かけて心配してくれたのかもしれません。それにしてもはじめは「手相かよ」と思いました。占いなどは抽象的なことを言って当たったように思わせる詐欺みたいなもの、といった印象を持っていたからです。しかし、溺れる者はわらをもつかみたくなるものです。私はその占い師の家に行ってみることにしました。
事前に手相を見てもらっていた母親は「とても当たるんだよ」と興奮気味です。でも、母が前のめりになればなるほど私は懐疑的な気分になりました。東急東横線の「学芸大学駅」で降り、住宅街を歩いていくと、まるでドラマに出てくるような木造モルタルの古いアパートに到着しました。そして、さび付いた外階段を二階へあがったところにその部屋がありました。にこやかに出迎えてくれた占い師は白髪に白いひげをたくわえた老人で、当時すでに80歳を超えているように見えました。
室内は小奇麗に片付いており、六畳ほどの古い部屋の四隅の柱には小さな神棚が祀ってありました。奥さんとおぼしき女性が、私たちが持参した菓子折りの礼を言いながら菓子を神棚にそなえました。母親がいうには、その占い師は商売で見ているのではなく、あくまでも趣味で占っているとのことでした。とはいえ、老人のその風貌といい、住んでいる部屋の雰囲気といい、小机の上の占い道具といい、占い師としては趣味の域を超えているように思えました。
「まずここに生年月日と名前を書いてごらん」。私は老人に言われるままに生年月日と名前を書きました。すると彼は、私が書いた文字を虫眼鏡でのぞきながら、広告チラシの裏紙に計算式を書き込んでは古びた表紙の本をなんども開いてなにかを書きとめていました。私はそんな老人の様子を見ながら「インチキ占い師じゃなさそうだ」と思い始めていました。しばらくして彼は「そろそろ手相を見せてもらおうか」と言いました。私は恐る恐る手を差し出しました。
老人は私の左右の手のひらを何度も見くらべながら、手のひらのしわを伸ばしたり、虫眼鏡をのぞき込んだりしていました。そして、ときどき私の顔を見てはまた手のひらを見るという動作を繰り返しました。まるで儀式のような作業をひととおり終えると、にこやかに私の方を向いて「なにについてお話しすればいいかな?」と自信ありげに言いました。私はすぐに本題に入ることをためらいました。なぜなら「抽象的な言い方でごまかす詐欺」という不信感がまだくすぶっていたからです。
しかし、老人は占い師らしく切り出しました。「なにか悩みがおありのようだが、君の中では結論が出ているんじゃないかな?」。そう言い切った彼は私の悩みを見通しているかのようでした。当時の私は医学部の受験を控えて迷いがありました。落ちたらどうしよう、落ち続けたらどうしよう。失敗したときのことを考えるたびに、医学部以外の無難な道を選んでしまいそうになっていました。でも、この老いた占い師の前に座っている私の中で、それらの不安が薄れていくのがわかりました。
「でも、君が出した結論は正しい。いろいろ悩んだと思うが、再来年にはいい年がやってくるから頑張りなさい」。すべてはこの言葉で決まりました。そして、彼は紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書いて私に渡しました。さらに続けました。「自宅周辺の白地図を買ってきなさい。そして、自宅から西の方角に線を引くと神社がある。そこの湧水をもらってきて飲みなさい」。「神社?湧き水?」。私はすっかり老人の言葉にひきつけられていました。
その占い師の部屋には1時間余りいたでしょうか。帰る途中で白地図を購入し、自宅でさっそく地図上に線を引いてみました。するとどうでしょう。真西に引いた直線のまさに線上、自宅から直線距離にして7㎞あまりのところに神社がありました。今までそんなところに神社があるなんて思ってもいませんでした。それをのぞいていた母は「すごいっ!」と興奮気味。もちろん私も驚いていました。いてもたってもいられなくなりその神社に行ってみることにしました。
その神社は静かな森にかこまれ、厳かな雰囲気の漂う場所にありました。想像していた以上に立派な神社です。私が訪れたとき、参拝者はおらず、ひとりの宮司が竹ぼうきで石畳を掃き清めていました。あたりを見渡しても、あの老人が言った湧き水をもらえそうな場所がありません。私は掃除をしている宮司に尋ねてみました。「すみません。この神社に湧き水はありますか」。するとその宮司は境内の奥を指さして言いました。「それならこの先の突き当りにありますよ」と。
宮司に教えられたとおり、神社の参道をまっすぐ歩き、境内の一番奥まで行ってみました。すると、その片隅にひっそりと湧き水の出る井戸がありました。その水をもらっていくための容器まで置いてあります。私はあの老人の占いが具体的に当たっているのに感心していました。神社の場所も、また、そこで湧き水をもらえることも言われたとおりだったのです。私は指示された通りに飲めばなにかいいことがあるのではないかと思いながら、その水を自宅に持って帰りました。
その後の私の人生はその占いの通りになりました。翌年の受験(北大以外の大学)には失敗したものの、次の年、北海道大学医学部に合格したのです。あのとき老人は私に渡した紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書きました。北大に受かったとき「占いは外れたなぁ」と思いました。札幌は自宅の北に位置していると思ったからです。しかし、よく調べてみると札幌は自宅の北東。最初の受験に失敗することも含めて実は「予言」通りだったのです。
あの時、「なんでもいいから質問しなさい」と言われた私は、真ん中でぷっつりと切れていた自分の生命線を見てもらいました。手相など信じていなかったとはいえ、生命線が途切れていることはやはり気になっていたのです。すると老人は微笑みながら言いました。「手相って変わるんだよ。大丈夫、この線は必ずつながるから」と。その後、ときどき確認していましたが、いつしか生命線はつながって、今では途切れていたことがわからないほどになっています。
今、振り返ると、あの占いはいろいろなことが的中していました。面白半分に「結婚は何歳になりますか」と尋ねてみたときのこと。老人は「一番いいのは40歳ぐらいのとき。だけど、その前に二度チャンスがある」と言いました。当時の若かった私は「40歳なんてオッサンの歳で結婚するのか?」と苦笑いをしたものです。しかし、老人に指摘された年齢にお見合いをしたのも当たりならば(しかも二回とも)、40歳ならぬ38歳で「運命の人(今の家内です)」と結婚したのも不思議な一致です。
人は「占いの結果に引きずられたんじゃないの?」と言います。でも、意識的にそうなろうとしても、なかなかなれるものではありません。思い通りの人生を歩める人もいるかもしれない。でも、ほとんどの人生は思い通りにはならぬもの。岐路に立たされた時の判断がベストだったかどうかはあとになってわかります。その時の判断が適切だったかどうかではなく、ひとつひとつの判断の積み重ねが人生そのものなのです。その意味でもあの占いはすごいと思います。
手相を見てくれた占い師はすでに「鬼籍の人」だと思います。でも、彼は私の記憶に残る「奇跡の人」でもあります。あの後、何人もの知り合いが私の話しを聞いて手相を見てもらいに行きました。しかし、何人かの人は「占いを信じない人の手相は見ない」と追い返されたと聞きます。なのに彼は、占いを信じていなかった私を「面白い人だから連れてきなさい」と母に言ったそうです。もしかするとあの老人は、その後、ほぼ自分が占った通りになる私の人生をすべてお見通しだったのでしょうか。
(1)からつづく
私はこれまで「不容易にPCR検査は増やすな」と繰り返してきました。でもそれは「PCR検査は不要だ」とか、「PCR検査は無意味だ」と言っていたわけではありません。PCR検査は採血結果や胸部CTなどと組み合わせて、感染が疑わしい患者に絞っておこなうべきだと主張していたのです。それは「検査の原則」です。不正確なPCR検査は少なからず疑陽性の人を作り出し、そうした人たちが病院に殺到して医療崩壊をもたらします。検査は、することで得られるメリットと、検査をすることによって生じるデメリットの両方を考えなければなりません。
今は、日によっても異なりますが、感染拡大は落ち着いているといってもいいと思います。PCR検査で陽性となっても、無症状あるいは軽症の人は自宅や宿泊施設で経過観察するようになっています。そして、検査を増やして、仮に多少の偽陽性が出たとしても、その偽陽性者が押しかけて病院を疲弊させ、医療崩壊につながるような心配はなくなりました。ですから、「不安だから検査をしてほしい」というケースであっても、あえて検査することを私は否定しません。もっとも、今は以前にくらべて、不安にかられて「検査してくれ」とパニックになる人などいないかもしれませんが。
先日、コンビニに行きました。カゴを持って店内を歩いていると、なんとなく周囲からの視線を感じました。「なんだろう?」と思いながらレジに並んでいるときにその視線の理由がわかりました。店内の人が皆マスクをつける中、私だけつけ忘れていたのです。店員の女の子が天井からぶらさがっている透明カバーの向こうから片手をのばして釣り銭を投げるようにして渡してきました。その店員はマスクをしていない私を明らかに避けているようでした。店内の客の多くも、おそらく私を見ながら「(マスクをしていないなんて)なんて非常識なんだろう」と思っていたに違いありません。
どのお店も客はマスクを着用することが暗黙の了解になっているようです。店内の人ばかりではなく、学校や病院にくる人も、街を歩く人も、熱発はおろか、自覚症状すらないのにマスクを着用していることが当たり前の風景になってしまいました。しかし、私には少しやりすぎなのではないか、と感じることがあります。なぜなら、今、行なわれている感染対策は、新型コロナに感染した人がその辺にいるかも知れない「有事」におこなうものだからです。一千万人の人が住む東京ですら数十人の陽性者しかおらず、東葛地域に新規の陽性者がほとんど出ていない今、そこまでの対策が必要でしょうか。
もちろん無駄だと言っているのではありません。マスクをしていたい人、マスク着用を他者へのエチケットと考える人はマスクをすればいいのです。私がいいたいのは、「有事」でもないのに、これといった症状があるわけでもない人までもがマスクの着用を強いられるのはどうなのかという点です。世の中では「新しい生活様式を」と呼びかけています。しかし、感染自体が落着いている「準有事」あるいは「平時」には必ずしも合理的とはいえない過剰な対応を、「新しい生活様式」として定着させようという動きには違和感を感じます。感染症の対応は「有事」「準有事」、「平時」で区別すべきです
すでに「有事」でもない今、フェイスシールドをしながら授業をする先生も異常なら、生徒と生徒の距離をとるために半数づつが一日おきに登校するのも異常です。パソコンの画面を見ながら「リモート」で部活の練習をするのも異常なら、交流試合をことごとく中止するのも異常だと思います。症状もないのに毎日、しかも一日に何回も体温を測るのも異常なら、その体温の記録を生徒に義務付け、学校に提出させるのも異常です。こんなことは感染が拡大を続け、そのあたりに感染患者がいるかもしれないときにやる対応です。もっと頭をはたらかせて、本当に必要なことがなにかを考えるべきです。
医療の世界においても、パソコンの画面を見ながら「診察」をし、薬の処方をすることが期間限定で認められています。いわゆる「オンライン診療」です。ある医療雑誌には「医療の未来を先取りする外来の姿」などと手放しで賞賛されました。しかし、これって「診療」でしょうか。医者にすれば患者をどんどんさばくことができ、患者にすれば手軽に薬がもらえる。一見すると両者にとってよさそうな方法ですが、これなら薬局で薬を買うこととかわりません。「ちゃんとした外来」をやっている医者からすれば、このような外来は手抜きとしか思えません。ですから当院ではおこなっていません。
「ちゃんとした外来」をやっていれば、診察に入ってきた表情や様子で通院患者の変化を知ることができます。自宅での血圧と診察室での血圧を比較することによって問題点が明らかになることもできます。聴診をすることによって、今までなかった不整脈や心雑音を見つけることだってできます。患者がつけている血圧手帳を見たり、お薬手帳で他院での薬を確認することで疑問が解決することだってあります。パソコンの画面を通じて簡単な会話を交わすだけの「診察」はそんなことすら省略して、回を重ねるにつれてだんだんといい加減なものになります。それは必然です。
新型コロナが流行したからといってこれまでの生活様式を変える必要などないと思います。これまでの生活様式は長い年月をかけて作られたものです。社会はその様式を前提にできています。感染の拡大が懸念される「有事」と「準有事」には、当然のことながらそれぞれの状況に応じて生活のあり方を変えるにせよ、感染が落着いた「平時」となればまたいつもの生活に戻すべきです。思えば今年の1月に中国で新型コロナの感染が拡大していたときにこそ台湾がおこなったような入国制限などの対策をとるべきだったのに、中国の習近平国家主席の国賓来日をひかえて政治的な判断を優先させてしまいました。
野党も同じように「中国からの入国制限をすれば、日本の観光地は大きな損害を受ける」として積極的な対応には否定的でした(桜を見る会のことばかりでした)。そして、案の定、新型コロナウィルスは我々が懸念したように日本国内に感染は広がっていったのです。その後のドタバタぶりはすでにご承知のとおりです。野党はそれまでの無関心に対する国民の批判をかわすように「PCR検査をもっとやれ。検査を希望する国民全員に検査を」の大合唱でしたし、医療崩壊の危機が叫ばれるようになって政府がとったのはなりふり構わずすべての国民の動きをとめることでした。
国民の多くも同様に危機感が薄かったように思います。渡航注意勧告がなされている中で海外旅行に出国する人。日本に帰国してもPCR検査を拒否する人や、結果がでないうちに要請を無視して帰宅してしまう人。感染拡大がまさに正念場を迎えていたときでさえも、全国民が一丸となって対応するという機運に乏しいように感じました。そして、緊急事態宣言が出るやいなや今度は極端な自粛。「自粛警察」あるいは「マスク警察」という人たちがではじめたのもこの頃からです。そして今度は「新しい生活様式」ですか。やるべきときにやるべきことをやろうぜって言いたくなります。
全国一斉の休校措置もありました。今頃にになってその休校措置が実は無意味だったのではないかといわれていますが、そんなことはあのときにわからなかったのでしょうか。学校に続いてほとんどのお店や会社が休業となって、経済をはじめとする日本の社会機能はほとんど停止状態となりました。昨年の秋に多くの人が反対した消費税増税の影響が明らかになったばかりなのに、今度は新型コロナウィルスのせいで日本の経済が深刻な影響を受けています。この影響が顕在化するのはこれからだと思いますが、経済を支えるはずの経済対策は不充分でとても遅いと感じます。
増税前にはあれほど「リーマンを超える危機があれば消費税増税は中止する」と言っていたのに、そのリーマン級をはるかにこえる経済危機を目の前にした今、消費税減税をしない理由がわかりません。そして、消費税減税よりも即効性があると決められた定額給付金。これは国民が等しくお金を使うことによって景気を下支えするためのものです。その肝心な給付金が遅いのも、せっかく導入したマイナンバーカードがちゃんと機能していないからです。そんな中途半端な仕組みにしたのは、いちぶの政治家が「プライバシーが担保できない」と反対運動を繰り広げたから。政争にあけくれる政治家の先見性のなさがあだとなっています。
「新しい生活様式を」などと悠長なことをいっている場合ではありません。まずは今の日本の経済が奈落の底に落ちていかないように迅速に対応すべきです。そのためにもできるだけこれまでに近い生活を取り戻す必要があります。今後もおそらくは検査で陽性反応となった人が増えたり減ったりしながらダラダラと夏が過ぎ、秋に向かっていくことでしょう。決して「感染者ゼロ」とはならないだろうと思います。これは検査に偽陽性が少なくないことからも明らかです。しかし、だからといって新型コロナウィルス感染の封じ込めが失敗したわけではありませんから心配は無用です。
今、大切なことは新型コロナウィルスに感染したかどうかよりも、肺炎になってしまうかどうか、重症化してしまったかどうかが重要です。医療が崩壊してしまうような混乱が起こらないかぎり、感染したかどうかをことさら心配する必要はありません。これまでの経験をふまえて「どの時点で何をするのか」を考えておくべきです。秋になればきっとまた新型コロナの感染拡大がクローズアップされるでしょう。しかし、来年になれば早い段階でワクチンの接種がはじまり、季節性のインフルエンザと同じような扱いになるのです。それまでに第二波といわれる大規模な感染拡大をいかにおさえるか、です。
今、私は診療中にマスクをしています。しかし、それは必ずしも「感染しないよう、させないよう」にマスクをしているわけではありません。私がマスクをしないことによって患者に不快な思いをさせないためです。つまり、エチケットとしてマスクをしているのです。とはいえ、今は4月の危機に直面した時とはまったく様相が違います。ですから、私自身は巷(ちまた)の感染状況を見ながら少しづついつもの診療風景に戻していくつもりです。そして、日常の生活もできるだけ以前の状態を取り戻したいと思っています。それは日本が再び輝きを取り戻すためでもあるからです。
がんばれ、日本!
【追伸】 日本経済のためにも定額給付金は必ず使いましょう
緊急事態宣言が解除されて一週間が過ぎました。今のところ、散発的なクラスターによる感染者は発生していますが、「第二波」というほどの再流行ではなさそうです。これまでの自粛によって社会のさまざまなところで影響がでました。緊急事態宣言が解除されたからといってそれらの影響がそう簡単に払拭されるわけではありません。以前の生活に一気に戻すのではなく、新型コロナの感染に注意を払いながら、慎重に、そして着実にこれまでの日常を取り戻すことが必要だと思います。
2020年が明けてからのこの半年、個人のレベルのみならず、日本社会というレベルでも、あるいは世界的なスケールにおいてもはじめての連続だったと思います。新興の感染症が一部の限定された地域ではなく、日本のあらゆる場所で拡大するなどということは近年経験したことはありません。外国をふくめてどこかに逃げることもできず、ひたすら自宅に引きこもるしかないという状況は、世界大戦が勃発した80年前以来ではないでしょうか。まさに感染症という人類の敵と全世界が戦った半年間でした(です)。
私たち日本人はこれまでどう行動したのか。今、それを振り返り、混乱と不安に翻弄された半年から学ぶ必要があります。しかし、疫学や感染症の問題は人の価値観だけで善し悪しは判断できません。科学的に正しいか、倫理的に正しいか、あるいは社会的に正しいか、判断する基準は人によって、立場によってさまざまです。これから書くことはあくまでも私個人の見解です。もちろん、私自身は理性的かつ常識的に感じたことを書いたつもりです。それを皆さんがどうお感じになるかはわかりませんが。
昨年の秋、中国の武漢市に発生したといわれる新型コロナウィルス(COVID-19)はまたたく間に中国全土に広がりました。感染拡大を防ぐため、中国共産党は民主主義国家では考えられないような強権を使って都市封鎖をし、患者を収容・隔離しました。その効果があってか、感染拡大はそののち徐々におさまっていきました(あれほど理想的な収束は多くの人に疑われていますが)。その間、新型コロナウィルスは世界中に拡散し、たくさんの人が亡くなりました。そして、それはまだ終わっていません。
幸い、日本は比較的早くから感染者を出したわりには感染者の拡大を抑えることに成功したように見えます。医療崩壊もかろうじて回避することができました。死亡者数もかなり少ないといってもいいと思います。こうした現実を、海外のメディアは「奇跡」と表現していますが、これは単なる「偶然」でも、「奇跡」でもありません。日本人全員がそれぞれの持ち場で努力をした「必然」です。もちろん問題点や課題はありました。第二波が懸念される今、そちらにも目を向けなければなりません。
多くの日本人が新型コロナウィルスが流行する以前から日常的にマスクをしていました。そうした光景は欧米の人たちからは奇異に見えていたようです。日本人が「他から感染症をうつされないようにマスクをしている」だったのに対して、欧米の人たちの目には「マスクをしている人は他の人に感染させるような病気にかかっているから」と映るようです。しかし、今回の新型コロナの流行によって、はからずも日本人の生活習慣がそれなりに有用だったことを全世界の人が知ることになりました。
日本では以前から「手洗いとうがい」というものが日常になっています。大人になるにつれてそうした習慣は薄れていくとしても、多くの日本人にそうした習慣が定着していたことが今回の感染拡大の抑制につながったことは想像にかたくありません。咳エチケットや人前では大声で話しをしないことなど、子どもの頃から躾けられている他人への配慮も感染者数を抑えた理由のひとつかもしれません。欧米のような、キスやハグといった他人との直接的な接触をともなう習慣がなかったのも幸いしました。
日本人に特有な集団性も見逃せません。周囲と強調し、決められたルールは守る。我慢と抑制を美徳と考える日本人の基質が効を奏した形です。ただ、そうした性質が強くなりすぎると、他人がマスクをしていなかったとき、あるいは自粛をしていないと感じたとき、勝手な行動をとっているように見えるとき、それには我慢がならないようです。ともするとそれが極端な同調圧力となって、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる人たちを生み出します。自分とは異なる行動をする人を許せなくなる人たちです。
以前のブログでも書きましたが、原発事故のとき当院では放射能の危険性に不安を感じている患者さんのために、「放射能の危険性は冷静に考えよう。必要以上に怖がりすぎてはいけない」と書いたレジュメを配っていました。しかし、そんなレジュメを渡している私を許せなかったのか、誰かが「医者のくせに楽観的すぎる。恥を知れ」と書いたメモが当院のポストに投げ入れられました。これも「(自分と同じように)放射能を怖がるべきだ」と考えるある種の同調圧力だったと思います。
一方で、社会を支えていくという意識が日本人には希薄です。自らの感染のリスクを負いながら病院に勤める看護師の子どもの登園を断った保育所がありました。病院で診療にあたる医者がタクシーに乗車拒否をされ、自宅に帰れずに病院に寝泊まりしていたケースもありました。物流をになうトラックの運転手や宅急便の配達員に心ない言葉を投げつける人もいました。彼らがいなければ社会生活は維持できないにもかかわらず、彼らをいかにして支えるかという発想のない人が少なくなかったのです。
誰のお陰で社会が支えられているかに思いがいたらないことは悲しいことです。そうした人たちは「社会を支えている人たちを支えること」よりも「自分の身を守ること」でいっぱいいっぱいなのでしょう。他人のことを考える余裕すらない彼らを一方的には責められないかもしれません。しかし、新型コロナウィルスの感染拡大阻止のため、あるいは感染患者の治療・看護のため、さらには国民の日常生活を維持するために働いている人たちを支えることを、本来、私たちは優先的に考えなければならないことです。
感染者数が増えて世の中がにわかに騒がしくなってきたとき、対応にあたっている保健所の所長のメイルが届きました。そこには保健所がどのような厳しい状況に置かれているかが書かれてありました。感染するかもしれないという不安の中で増え続ける検査。陽性患者を収容しようにも病床がなく、患者の受け入れをお願いするためにいろいろな病院を訪問する毎日。自宅待機している陽性患者のフォローアップと急変した患者の対応。保健所全体が疲弊している様子が手にとるようにわかりました。
新型コロナに感染した重症肺炎の患者が収容されている病院の実情はもっと深刻でした。もし院内感染によってスタッフが欠ければ、さらに少ない人数で治療や看護にあたらなければなりません。スタッフの戦線離脱は他のスタッフへのさらなる負担増につながるのです。亡くなっていく患者、次から次へと入院してくる重症患者。いつ尽きるともしれない患者達を前にどんな気持ちで仕事をしていたかを思うと、黙々と働いていた医師や看護師、パラメディカルの人たちには感謝しかありません。
そうした病院の苦悩をよそに、「もっと検査をしろ」「早く検査をしろ」の声はときに強くなりました。現行のPCR検査の精度は決して高くなく、疑陽性や偽陰性の問題が無視できません。入院の必要がない疑陽性の人が病院のベッドを占拠し、本当の患者の治療を妨げます。偽陰性の患者は感染していないと勘違いをして、無自覚に感染を広めてしまいます。PCR検査は他の検査とともに事前確率を高めてから実施するものなのです。いうまでもなく「心配だからするもの」ではありません。
こうしてみると、新型コロナウィルスはまるで原発事故のときと同じ光景を映し出しました。自ら感染する危険性を背負いながら必死に検査をしている保健所の職員に「なんでもっとたくさん検査をしないんだ」と罵倒する国会議員たちは、原発事故の収束に向けて命がけで作業をする東電職員を一方的に怒鳴りつけている総理大臣の姿に重なります。新型コロナ感染患者の治療・看護にあたる人たちを「ばい菌扱い」する市民は、まるで原発事故とは無関係な東電職員に心ない言葉を吐き捨てる市民と重なります。
事態の収拾に奔走する人たちがいなければ社会は支えられないはずです。そうした人たちがいるからこそ私たちは日常と同じような生活を継続することができます。そのような大切なことも忘れ、頑張っている人たちに鞭を打つことができる人たち。「それなら自分でやってみたらどうだ」と言いたくても、彼らには抗議をする方法がありません。そんな理不尽に耐え、黙々と仕事を続ける彼らに私はプロフェッショナリズムを感じます。文句と愚痴とケチをつけてばかりの人間ほど自分からはなにもしないものです。
検査をむやみに増やさなかったからこそ感染拡大を最小限に抑えられたという側面も無視できません。感染の拡大は不正確な検査をふやしてもわかりません。そのかわり重症患者数の変化から推測することはできます。その推移を見れば、4月の下旬には感染は収束しつつあったことがわかります。「検査を増やせ」の声に押し切られ、「検査を受けたい人がいつでも受けられる」ように数を増やしていたらもっと大変なことになっていたかもしれません。それは検査をやりすぎた海外の事例をみれば明らかです。
不必要な検査をたくさん実施することになれば、検査をしている保健所や患者の治療をしている病院の負担を増やし、そこに働く人たちをさらに疲弊させることになります。延いては病院が機能不全をおこして医療崩壊をもたらすことにもつながります。「検査をしなければ感染状況を正確に知ることはできない」という絵空事を繰り返し、「国民の不安を解消するためにもっと検査を」とさけぶド素人の国会議員には困ったものです。検査の原則も知らない「ポピュリズムの政治主導」はただただ迷惑なだけです。
「ポピュリズムの政治主導」は福島原発事故の際にもありました。子どもの甲状腺癌を見つけるためにおこなわれたエコー検査がそれです。このエコー検査もPCR検査と同様に単独で浅く広くおこなう検査ではありません。つまり「癌を見つけるための全数検査」ではないのです。こうしたエコー検査は「甲状腺癌を疑った患者を絞り込むためのもの」です。結果としてわかったことは、「原発事故の影響はなかった」というごくあたりまえなことでした。莫大な費用をかけておこなったわりに、です。
TV局の意向や番組の趣旨を忖度してコメントする人たちを私は「専門家芸人」と呼んでいます。原発事故のときも「専門家芸人」は世の中をかきまわす困った存在でした。権威主義の人たちにとって、「専門家」あるいは「大学教授」という肩書きを持つ人からの情報は、それが正しいかどうかというよりも「権威のある人からの情報」として重要な意味をもちます。視聴者の不安をかき立てる関心事であればなおさらです。でも、不安をあおって視聴率をとっている番組が正しい情報をもたらすはずがありません。
「専門家」と思われている医師にもリテラシーが一般人と変わらない人がいました。新型コロナウィルスの検査で陽性を示した患者が増えたとたんに、慌ただしくクリニックを閉めてしまった医者がいました。あるいは、早々に「熱発患者お断り」の貼り紙をして熱発患者の診療から逃げ出してしまった医者もいました。かかりつけ医に放り出された患者達は、他の病院を受診することになります。それでなくても忙しい病院の負担をさらに増やしてしまうことを「敵前逃亡した医者たち」はどう思っていたのでしょうか。
(2)につづく