院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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10月2日、父が亡くなりました。行年86才でした。
生前、お世話になりましたみなさまには父に代わりまして厚く御礼申し上げます。なお、亡父の葬儀は家族・親族にて執り行いました。このたび四十九日の法要が済みましたので、今回は父のことを書きます。
3年前に脳梗塞になってからというもの、認知症も進み、父のからだは徐々に弱っていきました。退院して自宅に戻りましたが、杖を使わなければたちまち転びそうになるなど、足腰の衰えは誰が見ても明らかでした。ある日、案の定、散歩中に転倒。救急車でふたたび病院に入院しました。そして、運ばれた病院の検査で偶然「膵臓腫瘍」が見つかりました。その「膵臓腫瘍」は良性か悪性かははっきりしなかったものの、若いころに患った肺結核のせいでほぼ片肺状態だった父は手術ができませんでした。入院先の主治医は「ここまで早いステージで見つかることはあまりなく、肺に問題なければ手術をお勧めするところですが」と言ってくれましたが、年齢を考えれば仮に手術が可能であってもしなかったかもしれません。
「膵臓腫瘍」と診断された病院で主治医からの説明を受けた後、すでに購入してあった墓を掃除に行きました。なぜそんなことを思い立ったのかわかりません。この墓は購入してからそのままに放置されており、さぞかし埃をかぶっているだろうと思ってのことでした。でも、お墓は霊園の人が手入れをしてくれていたのか思いのほかきれいでした。一緒に行った長男とふたりで墓石をふきながら「この墓にもうじき父親が入ることになるんだろうか」などと考えていました。いずれにせよ、膵臓腫瘍の手術をしないという選択をしたこともあり、急性期の病院に入院していた父は別の病院に移らなければなりませんでした。私は自宅で母が面倒を看られるようになるまで父を入院させてくれる病院を探しました。
次の病院に移った直後に不思議なことがありました。「腫瘍が消えてしまった」というのです。この病院の外来に来ている膵臓腫瘍の専門医も「腫瘍はない」という意見でした。自宅に帰ってこのことを家族に伝えると、一緒にお墓を掃除した長男が「お墓をきれいにしたからかな?」と。入院中、何回か腹部CTをやりましたが、やはり父の膵臓に腫瘍はないとのことでした。この病院もまた療養型の病院ではなかったため、膵臓に腫瘍がないということになればいつまでも入院しているわけにはいきません。結局、グループホームに入ることになりました。自宅を離れてグループホームで生活することを父がどう思っていたのかわかりません。しかし、自宅で父親の面倒を看る母親の体調もときに思わしくないため仕方ない選択でした。
幸い、介護のプロのみなさんの力をお借りして、父も施設で穏やかに過ごすことができました。しかし、このころの父はほとんど歩けず、介助なしでは食事すらできなくなっていました。そして、突然、心不全となって再入院となりました。入院直後の父は酸素マスクをつけられ、苦しそうな呼吸をしていました。でも、治療によって病状は落ち着き、大好きな羊羹をもってきてくれとせがむまでに回復。とはいえ、すでに嚥下ができなくなっていたため、口からの飲食が禁止されて点滴のみという状態になりました。急変時の対応を確認する主治医には「蘇生は必要ない」、「苦痛を取り除くことを優先し、積極的な治療は望まない」という希望を伝えました。次第に黄疸と熱がではじめ、肝機能も悪くなりましたが、最小限の治療で経過を見るのみでした。
その後、父は少しづつ衰弱していきました。病室に見舞いに行っても、ほとんど話しをしなくなりました。黄疸が強くなり、どんどん痩せていく父。家族みんなでお見舞いにいっても、声を出したり、目を開けたりすらしなくなりました。それは父の最期が近づいている証拠でもありました。しかし、そうした父親の変わりようを目の当たりにしても私には淋しさや切なさ、悲しさや寂寥感といった情感は湧いてきませんでした。自分が薄情だからだろうかとも考えました。祖父が亡くなったとき、あるいは叔父が亡くなったときには涙をこらえることができなかったというのに、父親の死を目前にしてもなお淡々としていられる自分が不思議でした。「もしかして“若いころの父親”に復讐しているのだろうか」と思ったりもしました。
若いころの父はとても厳しい人でした。自分にも厳しい分、家族にもとても厳しい人でした。きれい好きで、家の中が散らかっていると仕事から帰宅したばかりであっても怒りながら掃除機をかけたりしていました。父はまた、外で嫌なことがあると家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。子どもの頃の私は帰宅した不機嫌な父親が怒り出さぬよう家中を掃除をして回ったものです。それでも父は「掃除をしていない」と怒鳴り散らし、ときに手を挙げることさえありました。そんな気難しくて自分勝手な父でしたから、一緒に遊んでもらったり、勉強を見てもらったりといった思い出は私の中にはありません。若いころの父は、歳をとるにしたがい丸くなっていった晩年の父からは想像できないほど怖い存在でした。
「辛かった子供時代」を振り返ると父の嫌な思い出ばかりが浮かんできます。警察官だった父はストレスフルな仕事から解放されても、そのストレスを解消することができずにそのはけ口を家庭に求めたのです。父親が帰宅する時間が近づいてくると、いつも不安な気持ちになったものです。月に何回かある父の宿直の日だけは、どんよりとした気持ちから解放されホッとしていたのを思い出します。あのどん底の高校生時代にも嫌な思い出があります。もがき苦しみながら必死に英語を勉強して受験した大学にあえなく不合格だったときのこと。予想はしていたとはいえ落胆していた私に父は「ダメなやつだな」と心ない言葉をあびせました。父なりの叱咤激励だったのかもしれませんが、さすがにこの言葉に私は打ちのめされました。
そうした子供時代、あるいは青年期を過ごしてきたせいか、自分にとっての父の姿は、年老いて穏やかに微笑んでいる父ではなく、かつての厳しくて自分勝手でいつも不機嫌だった父親なのです。だからこそ、父親が今まさに最期を迎えようとしているときにでさえも、喪失感のような淋しさを感じないのではないか、そう思っていたのです。そんな私を見ていた長男が、あるとき私に尋ねました。「父ちゃん、父親を亡くすときの気持ちってどういうもの?」と。私は息子にこう聴かれてハッとしました。それまであまり深くは考えていなかったからです。でも、この息子からの突然の問いかけに、今まで感じてもいなかったこと、思い出しもしなかったことが次々とあたまに浮かんできました。私は、息子に次のようなことを話しました。
****** 以下、息子に話したこと
子どもの頃は本当に大変だったんだよ。もっと大変な子供時代を送った人もいるだろうけど比較の問題じゃないからね。俺がどれほど苦しかったかは誰にもわからないだろうな。そんな苦しい中でよくここまで頑張ってきたなって自分で思うもの。そうした思いが強い分だけ親父を恨んでいたのかも。あからさまにそう感じていたわけじゃないけど。親父が死のうとしているのに喪失感というものがないのは「オヤジへの恨み」があるからじゃないかってつい最近まで思ってた。でも、今はそうではないかもって感じるようになってきたんだ。ほら、以前、親父は君たちに「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」って何度も言ってたでしょ。何度も何度も「すごい人なんだぞ」って。あれって、ひょっとして俺に謝っていたんじゃないかって思うんだよ。親父はこれまで俺をほめたことなど一度もなかった。「頑張れよ」の励ましの言葉さえもね。その親父が君らに繰り返し「お前たちのお父さんはすごいんだぞ」と言うのを聞くにつれて、俺にはだんだん「昔の自分を許してくれ」って親父が謝っているように聴こえてきたんだ。
****** 以上
そういえば、まだ父が元気だったころ、母が昔のとんがっていた頃の父親の思い出話しをすると、父は「昔のことは言わないでくれ」と話しを遮ったそうです。家族に当たり散らしていた若かった頃の自分を思い出すことは、あの親父にとっても辛いことだったのかもしれません。そんな父が、子供時代の苦労や苦難を乗り越えて医者になった私をどう見ていたのか。それを尋ねてみたことはありません。しかし、老いていく父を目の当たりにした私は、その答えが「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」という父の言葉にあるのかもしれないと思うようになったのです。そうした「すごい人なんだぞ」という言葉は、きっと私に向けられた父親なりの詫び方だったのではないか。私は次第にそんな受け取り方をするようになっていきました。
あれほどきれい好きだった父が、晩年、脳梗塞の影響か、はたまた認知症が進んだからか、ボロボロと口からものをこぼしながら食べるようになりました。いつも手元に布巾を置き、魚も身と骨をきれいに分けて食べていた父が、まるで餓鬼が食べものにしゃぶりついているかのような光景でした。そんな父を見て、私はあきれたように「どうしてこうなっちゃんたんだよ、オヤジ」と笑うと、父もまた私を見てゲラゲラ笑い出しました。私と父につられて母も笑いました。父親をふくめて三人で笑うなんて何年ぶりでしょう。今までなかったことかもしれません。私はなぜかホッとした気持ちになり、「これでいいんだ」と思いながら目から涙がこぼれそうになりました。その涙に父に対するわだかまりが消えていくのを感じていました。
父親がそろそろ臨終を迎えようとしているとき、家族みんなで病室に見舞いにいきました。父親は顎で大きく息をしながら目を閉じています。いよいよその時がやってくるのです。でも、そんな気配を感じながらも病室に沈痛な雰囲気はありませんでした。私も、母も、妹も、家内も息子たちも、みんな淡々と父の最期を迎えようとしていました。私は父のまなじりにたまっている涙をふいてやりました。そして、まばたきもせずにうすくあいている眼を閉じてやろうとぬらしたティッシュをあてると父は「余計なことをするな」というように顔を横にふりました。「まだまだ元気はあるみたいだね」。嫌がる父を見ながら一同が笑いました。ベットに横たわる父を中心に、家族みんなが自宅にいるようなそんな錯覚におちいるほどでした。
その二日後、父は黄泉の国に向けて旅立ちました。父が亡くなったと妹から連絡があり、診療を中断して病院に行くと、すでに母親と妹、家内が駆けつけていました。しかし、彼女たちには笑顔がありました。私は父の亡骸に近づき、顔にかけられた白布をとると父が安らかな表情で寝ていました。私はまだぬくもりのある父の胸に手を当てながら「お疲れさまだったね」と言いました。涙はありませんでした。喪失感もありませんでした。でも、「お疲れさま」という言葉は、私の本当の気持ちでした。私はその時あらためて思いました。父の死に喪失感を感じなかったのは、父に対する復讐だったのではなく、年老いて弱っていく父を見ながら心から「お疲れさま」と声をかけてあげられる素直な気持ちになれたからではないか、と。
人の人生の価値は「長さ」ではありません。ましてや私の父親のように、自分の思い通りの人生を歩めた人の最期はまさに「お疲れさま」です。三十歳の人生にはその人なりの、六十歳の人生にはその人なりの、九十歳の人生にはその人なりの価値があり、すべての人が「お疲れさま」なのです。若い人の死にはやはり「無念」の思いは禁じえませんが、すべての人の死は残された人にいろいろな形で言葉を残していきます。生きるということはそれらの言葉を引き継いでいくということかもしれませんし、また、「死ぬ」ということはそういうことなのかもしれません。人の死は淋しいものかもしれませんが、必ずしも悲しいものばかりではありません。たくさんの死を見送って来た私は、自分の父親を亡くした今改めてそう感じます。
父の葬儀で私は会葬してくれた親族に挨拶をしました。しかし、その途中、私は涙がこみあげてきてしまい、しばらく言葉がでませんでした。でも、この涙は亡父に対してではなく、挨拶に出てきた祖父の行(くだり)に感極まった結果です。以前にもお話ししたように、祖父は私にとって特別な存在です。祖父が亡くなったときのことを思い出すと今でも涙があふれてきます。会葬者の皆さんは、さぞかし私が父を亡くして傷心しているんだろうと思ったかもしれません。目の前で息子ももらい泣きをしていましたし。しかし、その時の私は父を穏やかな気持ちで見送ることができていたのです。泣いてしまったことを恥じながら、葬儀の後で息子達にいいました。「俺もお前たちに『ご苦労さま』って見送ってもらえるよう頑張るよ」と。
涙で途切れ途切れになってしまった挨拶で、私の言いたかったことが伝わらなかったかもしれません。ですから、改めて会葬者のみなさんへの挨拶を最後に掲載します。
旅だった父に心から「ありがとう」の合掌
************ 以下、葬儀での挨拶
【挨拶】
皆さまには、お忙しい中、父・章の告別式にご会葬くださり、ありがとうございました。
また、〇〇院のご導師さまにおかれましては、父の回向のため、遠くから足をお運びいただき厚く御礼を申し上げます。
父は六月二十日、突然、原因不明の心不全となり、病院に入院しました。
主治医の懸命の治療により一時回復しましたが、もともと膵臓に腫瘍があり、口から食事がとれず点滴管理がつづいたことなどで衰弱が進み、十月二日午前九時五十四分、黄泉の国に向けて旅立ちました。
私も職業柄、いろいろな患者さんを見送ってきました。そして、そのたびに悲しさに涙をこらえることができませんでした。下館のおじいさんを見送るときも、おじさん、おばさんを見送るときももちろんそうでした。
しかし、父の臨終の際には、涙があふれることはありませんでした。また、悲しいといった喪失感もあまり湧きませんでした。
私はふと父への想いを振り返ってみました。
若いころの父は、皆さんもご存知のとおり、とても几帳面で、厳しい人でした。家のなかではいつも不機嫌そうにしており、外で嫌なことがあると、必ず家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。
父の仕事が泊まりで、今日は家に帰ってこないという日は、子どもながらにホッとしたものです。子ども時代の思い出といえば、こうしたつらいことが多かったのです。
父の臨終に涙がなかったのは、このようなつらい過去があったからだろうか、と考えたりもしました。
しかし、その一方で、あのきれい好きだった父が、晩年、ぼろぼろと口から食べものをこぼしながら食べるようになり、それまで私たちと面と向かって話しをすることのなかった父が、一緒になって大笑いしながら話しをするようになるにつれ、これまで私の心の中に重く沈んでいたわだかまりが徐々に消えていくのを感じました。
父自身もまた、「昔のことは言わないでくれ」と、若かりしきころの自分を思い出したくない様子もうかがえました。
いろいろなことがあったにせよ、晩年、かつての厳しさはなくなり、少しづつ穏やかに、そして、おおらかになっていく父を目の当たりにしました。
そして、いいことも悪いこともふくめて、父の人生そのものは全体として幸せだったのではないか、自分の人生に満足しながら父は旅立つことができたのではないかと思えるようになりました。
私は今、ひょっとしてこの式場のどこかにいるかもしれない父に、心から「ごくろうさま」と言ってあげたい気持ちがしています。
そう考えると、父の臨終に涙がなかった本当の理由は、実はそこにあったのではないか。つまり、これまでのわだかまりをすっかり清算してお別れをすることができると私自身が確信したからではないかと思います。
これからは、私と妹、家内と子どもたち、みんなで力をあわせ、残された母を支えていきたいと思っております。
しかし、私達もまだまだ未熟ものばかりです。親戚のみなさま、ならびに〇〇院のご導師さまにおかれましては、どうぞ今後とも、ご指導いただければ幸いです。
以上、簡単ではございますが、家族の代表としてご挨拶とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。
以下の記事は2018年9月26日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。
******* 以下本文
数年前から歴史を学びなおしています。子どもの勉強にお付き合いすることで始まったのですが、私自身が学校で学んでいたころ、歴史ほど退屈でつまらない教科はありませんでした。昔のことを学んでなにになるのか。ましてや日本に住んでいながら世界の歴史を勉強する意味がまるでわかりませんでした。ですから、歴史を学びなおすまで、日本史の知識などは戦国時代の有名な武将の名前程度でしたし、日本以外の国がどんな歴史を経て今日があるのかという知識はほとんど皆無でした。
しかし、歴史をあらためて勉強してみると、学校でおこなわれている歴史の授業がいかにつまらないものだったかということに気が付きます。子どもたちが歴史を面白く感じない理由はふたつあると思います。まず、子どもたちが「なぜ歴史を学ばなければならないのか」という目的を理解できていない(教えられていない)こと。ふたつ目は、歴史的な出来事が単なる「暗記もの」になってしまっていて、子どもたちの知的好奇心を掻き立てるような教え方になっていない点です。
勉強を教えるときにはそれなりの下準備が必要です。私が子どもたちに勉強を教えるときも、数学では実際に解いてみて、子どもがどこでつまづきそうか、この問題を演習して得られるポイントはどんなところか。そんなことを考えながら予習をします。歴史でいえば、この出来事の背景がどのようなものか。そして、この出来事がどのようなことにつながっているのか。要点を歴史的なながれとして教えられるようにまとめておきます。理科であれば事前にどんな知識を教えておけば理解が深まるかを整理します。
こういう工夫の中にも、子供だった頃に「どのようなことが、どのようにわからなかったか」という自分自身の体験が生きています。子ども時代の私は勉強にはほとんど縁がなく、しかも呑み込みの早い子どもでもありませんでした。ですから、先生や大人の説明を聴いていてもすんなりと理解できることばかりではなく、そうした子どものころのことを思い出すと、子どもたちに勉強を教える際のヒントになったりします。つまり、自分の子ども時代の目線で整理し直すことができるのです。
実は私、北大時代、とある予備校で中学生に理科を教えていました。その予備校では大学生のアルバイトを講師にすることはなく、学士以上の学歴が必要であり、専任の講師以外の多くは大学院生でした。私は運よく一度他大学を卒業していましたので、医学部の学生でありながら学士として予備校の講師をすることができました。ちなみに、医学部を卒業すると「医学士」になりますが、医学士は大学院の修士と同格の扱いを受けます。6年間の就学期間からそうなっているのだと思います。
その予備校の講師に応募したとき、採用試験の前に職員から次のような説明を受けました。「生徒からの人気があれば、時給(この予備校では「口述料」といいます)はどんどん上がります。下がることはありません。時給が下がるときは辞めるときです。なり手はいくらでもいるので」と。ずいぶんと高飛車な話しだと思いましたが、のちに生存競争はそれなりに厳しいものだということがわかりました。「人気」とひと口にいっても、「面白いだけ」でもいけないし、「真面目だけ」でも生徒からの支持は得られないのです。
本当は数学を教えたかったのですが、すでに講師は充足しており、「理科だったら採用します」ということでした。大学を卒業はしたものの、就職もせずにそのまま医学部に再入学した私は親からの仕送りに頼るつもりはありませんでした。なので、他の学習塾にくらべて圧倒的に時給の高かったこの予備校の講師というアルバイトはなににも代えがたい収入源になるはずでした。私は迷うことなく「理科を教えさせていただきます」と返事をしました。そして、週に数コマの中学理科の授業を担当することになりました。
予備校の授業は大変ではありましたがとても楽しい仕事でした。なにせわかりやすい授業をすること以外の余計な仕事が一切ありませんでしたから。授業前に講師室に到着すると、きれいなお姉さんがお茶を持ってきてくれます。そして、チャイムがなると色とりどりのチョークが並べられたケースを渡されます。エレベーターが扉を開けて待っていて、エレベーターを降りると教室の扉を職員が開けて待ってまっていました。そして、授業が終わって講師室に戻れば、おしぼりとお茶が運ばれてくるのですからいうことなしです。
授業のあとに生徒が質問にこなければそのまま家に帰れますし、テストの採点もなければ、部活や生徒指導もない。学校の先生と比べれば、申し訳ないくらいの待遇だったと思います。生徒も、わざわざ自宅から離れたところにあるこの予備校に通うくらいですからみんなとても優秀です。質問に来る生徒の中には、説明をしながらその生徒の頭の中にどんどん知識が吸収されていくのがわかるような子がいたりと、「一を教えれば十を知る生徒」が少なくなかったのでとてもやりがいを感じていました。
とはいえ、その分だけ予備校側の評価には手加減がありませんでした。私たちの授業は教室の隅に設置されたカメラと授業中に首からぶら下げているマイクからの音声で常にモニターされていました。そして、教室の後ろには職員がいてときどきなにかを記入している様子。「生徒の出席率」と「授業中で眠っている生徒の割合」などが記録されていると聞いたことがあります。そして、期末には必ず生徒へのアンケートがあって、生徒からどのくらい支持されているかが数値としてはじきだされます。
生徒の出席状況や授業態度、あるいは生徒からのアンケート結果は、講師ひとりひとりにフィードバックされます。とくに講師になりたての人には職員から授業の進め方に関してアドバイスや忠告などがあり、口述料がアンケートなどの結果をふまえて総合的に決められます。ただ、大人からすればとても分かりやすいと思える授業なのに、まじめすぎて生徒からは不人気な気の毒な先生もいました。中学生とはいっても、1年生のときはまだ小学生みたいなもの。生徒をどう惹きつけるかに誰もが腐心するのです。
幸い私の授業は生徒から好評でした。北大に入学するまでは地元の小さな塾で数学を教えていたこともあり、中学生の授業には「つかみ」と「めりはり」が重要だという体験的な信念がありました。いかに生徒の集中力を高めて授業に入るかは「つかみ」によって。せいぜい20分しか続かない生徒の集中力を復活させるためには「めりはり」が大切なのです。生徒たちのエネルギーが尽きかけていると感じたら、生徒たちの関心を惹きつける話題をふる。このタイミングが重要だということを私は知っていました。
ですから1年もすると、私が担当するクラスの数は増え、その後、私の単科講座も開設されるようになりました。私の単科講座名は「瀬畠のテクニカル理科」。友人たちから「どんなところがテクニシャンなの?」とからかわれましたが、それでも結構な数の生徒たちがこの単科講座をとってくれました。このころの私の口述料は1時間当たり12000円になっていました。そして、医学部の授業もそれなりに忙しくなって来たころ、この予備校の中学理科のテキストの作成も任せられるようになりました。
予備校の講師と医学部の学生のどちらが本業なのかというくらいの忙しさでした。予備校ではなじみの生徒たちもでき、授業を終えてもなかなか質問の列が減らないときもありました。なのに大学ではいよいよ臨床実習がはじまり、提出しなければならないレポートの数も増えていきました。結局、医学部5年生の冬休みで予備校の講師を辞めることにしました。冬休みの講習会のとき、予備校のお偉いさんが来て「医師国家試験に受かったらまた講師をやらないか」と引き留められてちょっとだけ迷ったりしたものです。
こうした経験は、自分の子どもたちに勉強を教えるときに役立っています。と同時に、自分の学習意欲を高めるきっかけにもなっています。歴史を学ぶ面白さも、自らの意志で勉強しないとわからなかったと思います。そうやって歴史を勉強すると、なぜ歴史を学ばなければならないのかがわかってきます。と同時に、学校でならっている歴史がいかにかたよっているか、まちがっているかに気が付きます。本来、なにを学ぶのか(手段)は、どうして学ばなければいけないのか(目的)に規定されるので当たり前なのですけど。
日本の歴史は世界の歴史と無関係ではありません。日本人にはなじみの薄いモンゴルが世界最大の帝国であり、東は今のロシア、西は今のドイツにまで勢力を伸ばしていたということも知りませんでした。オーストリアというヨーロッパの目立たない小国が、実はヨーロッパの盟主として絶大な権力と広大な領地をもっていたことすら知りませんでした。ローマ帝国が東西に分裂していたことも、キリスト教の歴史がヨーロッパの歴史そのものだったことも改めて勉強をして知ったことです。
今の日本や世界が、単なる偶然だけでそうなったのではなく、無数の先達の英知と戦いの結果であることを歴史は教えてくれます。と同時に、これからの日本を、あるいは世界を考えるときに、これまでの歴史を振り返ることがとても大切だということがわかります。とくに私たちが生きているこの日本はまるで奇跡の国であるような言われ方をすることがあります。しかし、日本史や世界史を勉強すると決してそうではなく、数々の必然が結果として積み重って今があることがよくわかります。
以前、子どもに「歴史上の人物で誰が好き?」と聞かれたことがあります。そのとき私は「明智光秀と井伊直弼、そして東条英機だ」と答えました。すると子どもは「なんでそんな卑怯な人が好きなの?」と不思議がりました。私はいいました。「この三人は、自分で調べれば調べるほど『悪者』ではなく、実は日本を救った勇気ある人のように思っているから」と答えました。ここで詳しくは書きませんが、この三人の本当の姿は、よく調べてみるとこれまで多くの人が学校で教えられてきたような人物ではないのです。
大人になってあらためて勉強してみると、勉強って楽しいってことがわかります。今はわかりやすい参考書がたくさん店頭に並んでいて、参考書をパラパラとめくってみるとどんどん興味が湧いてきます。そして、歴史に限らず、有機化学や数学、英語などいろいろな科目を勉強したくなります。こうして勉強してみると、知識が広まるにつれてものの見方(視野)も広がっていくことに気が付きます。知っていると思っていたことが違った見え方をすることもあります。子どものころには気が付かなかったことです。
世の中のフェイクニュースにだまされたり、世論を誘導するために流布される情報に乗せられたりしないためには自分のあたまで考え、自分の手で情報を集めなければなりません。その意味でも学習する態度は重要です。昔は「テレビばかり見ているとバカになる」とよく言われましたが、最近では大手の新聞でさえも信じられないことが明らかになってきました。TVのワイドショーのくだらないコメントに感心するような大人にならないためにも、子どもには「学ぶこと」の大切さを知ってほしいと思っています。
以下の記事は2018年1月7日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。なお、震災時のレジュメの転載部分を除く前半の記事は一部修正してありますのでご了承ください。
******* 以下本文
このブログには努めて政治的なことは書かないようにしてきました。それでも敏感な人にはこのブログを読みながら私の考え方や価値観が鼻につくと思われた方もいるかもしれません。しかし、私は私なりに「イデオロギーによらず、世の中のながれに流されず、自分の手で調べ、自分の頭でなにが正しく、なにが大切かを考える」というスタンスを貫いてきたつもりです。その一方で、他人の考え方にも否定的にはならないようにし、いろいろな政治的スタンスも尊重するようにしてきたつもりでもあります。理想論に走らず、現実から目をそらさず、将来を前向きに考えながら意見を発信してきたとの自負がありますが、それでも人によっては私の言い方(主張の仕方)が独善的だと感じられるかもしれません。
それらを前提に言わせてもらえば、あの豊洲市場移転問題におけるここ数日の動き、あるいは国会で繰り広げられている稚拙な政治ショーには辟易します。あの不毛な騒動を見ながら、「本質的な議論をしろ、建設的で前向きな解決方法を考えろ、責任ある政治をしろ」という思いが込み上げてきます。震災のときの原発事故や放射能の危険性に対する報道もそうでした。国論を二分する課題にぶつかると、日本ではいつも不毛な論争、無意味な批判が繰り返されます。そして、世の中を混乱させ、人々を不安におとしいれるような印象操作があちこちに見られることも。そのたびに「政治や報道という、もっと澄んだ目で、問題を直視しなければならない領域の人達がなぜこうなるのだろうか」と情けなくなります。
以前にも紹介しましたが、あの震災での原発事故発生10日後に、私は「原発事故の危険性、放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけるレジュメを書きました。それはパニックになっていた知り合いの医師仲間や来院患者に配るためでした。ほぼ一週間ないし二週間に一度の割合でネットや本で調べてはまとめたことを彼らに発信したのです。このとき、ちまたを駆け巡る情報の多くがいかに不必要に人を不安におとしいれているか、混乱させているかがわかりました。人々が正しい情報を得るのに、マスコミが流す情報は必ずしも役に立たず、かえって人の不安感や不信感をあおり、人心を惑わしていることがよくわかったのです。正しい情報を得るためには、自分の手で調べ、自分のあたまで考えるしかないことを痛感しました。
自分の考えをもち、主張することには勇気が必要です。世の中のおおかたの意見と異なる場合であればなおさらです。それは人から批判され、ときに罵倒されることをも覚悟しなければならないからです。現に、当時、マスコミを通じて盛んに流されていた放射能の危険性にもっと冷静になるべきだと繰り返していた私は「名もなき批判」を受けたことがあります。ある日、私のクリニックのポストに一枚の紙切れが入っていました。そこには「患者の命を守るべき医者が、放射能の危険性にあまりにも楽観的すぎる。恥を知れ」という一文が殴り書きされていました。そんな投書がくるとは思ってもいなかった私はビックリ。「恥を知れ」という言葉が心にグサリと刺さりました。
それでも私はレジュメを書き続けました。当時のレジュメを今読み返すと、多少の間違いや思い込みはあったかもしれません。しかし、自分で言うのもおかしいのですが、全体的に内容は適切であり、ビックリするくらい冷静に書かれていたと思います。「名もなき批判」の投書はその一回限りでした。投書の主がその後もレジュメを書き続ける私にあきれてしまったからでしょうか。それとも私が書き続けたレジュメの内容を受け入れてくれたからでしょうか。いずれにせよ、あのときの世の中のながれに棹をさすような意見を表明したときの「名もなき批判」は、扇動的な情報を流し続けるマスコミの罪深さとともに、情報に翻弄される一般市民の恐ろしさを私の心に刻み付けることになりました。
振り返って今はどうでしょう。相も変わらずものごとの本質とはずれた扇動的な報道が平然となされ、ものごとの本質を冷静に考えようとせずいともたやすく流される市民。そして、そうしたマスコミと世論に流されるような軽い政治のおかげでいろいろな課題が八方ふさがりになっているように感じてなりません。豊洲市場の地下水問題だって当初から冷静に考えれば大した問題ではないことは明らかだったはずです。なのに、あれだけ世の中を混乱させ、人を不安にさせておいて、10か月を経て「豊洲移転」という当たり前な結論に落ち着くというだらしなさ。この問題もまた何年かすれば「あんなこともあったなぁ」で終わってしまうのかもしれません。こんなことを繰り返していていいのでしょうか。
これからあの震災の時に配布していたレジュメを掲載します。このレジュメを読みながら、今の社会のあり方を振り返っていただければと思います。人によっては不愉快な思いをするかもしれません。あるいは、あのときの不安な気持ちが甦ってくる人がいるかもしれません。しかし、当時の私がなにを考え、なにを伝えたかったを読み取っていただければ幸いです。とくに、あのときクリニックのポストに「恥を知れ」とのメモを投函した主には是非冷静になって読み直してほしい。特定の人や特定の考え方を批判するつもりはありません。私がこのレジュメを紹介するのは、ひとえに情緒的にならずに冷静に考えることの大切さを知ってほしいからです。
なお、批判のメイルをいただいても掲載はしませんし、反応もしませんので悪しからず。
東京医科大学でおこなわれた「裏口入学」のことが話題になっています。昭和40年代に医師不足を解消するために医科大学や医学部が次々に新設されたころ、こうした私立医大の「裏口入学」の問題は「入試での総得点が30点でも合格」などという見出しで新聞報道されるほどに社会問題化した出来事でした。そのころをよく知っている私からすれば、この「裏口入学」は昭和という時代の香りがする懐かしい話題です。
私が高校生のころ、何人かの同級生が当時の新設された医学部や医大に入学しました。彼らからは、入試のとき面接官に「君の成績だとこのぐらい(の金額)になる」と指で寄付金の額を提示されたとか、「君のお父さんの収入で六年間学費を払うことができるかな?」と言われたという話しを聞かされましたが、当時は、私立なんてそんなものだろうと思っていましたから特段驚きはしませんでした。
あの頃の受験票には堂々と「本学を卒業した家族や知人の名前と卒業年度」を書く欄があったりしましたし、「どこどこ大学は同窓生の子弟を優先的に合格させる」なんて噂も広まっていました。医学部受験専門の予備校に裏口入学のブローカーがいるなんてこともまことしやかに言われていて、現に開業医の親を持つ同級生がそこに通って私立医大に合格していました。昭和ってそういう時代でした。
でも、なんとなく「まだあんなことがあるんだろうな」とは思っていたことが、平成になった今もなかば公然とおこなわれていると聞きいて「まさか?ほんと?」って感じがします。しかし、よくよく考えてみると、二次試験の面接などというあいまいな制度はこうした合格操作をおこなう温床にもなるわけで、どこの私立大学でも密かにおこなわれていても不思議ではないのかもしれません。
最近の「女子受験生の合格調整」の話しだってずいぶん前から噂されていたことです。とある大学では、きっちり成績順に合格者を決めてしまうと女子学生が全体の六割を超えてしまうとのこと。そもそも女子学生は外科系に進む者が少ないので、外科系の診療科によってはこれは死活問題です。入局者が少なければ関連病院にも医者を派遣できませんし、そうなると地域医療を維持することも難しくなるのです。
だからこそ男子学生に加点して合格者の調整をするのです。こうした事情は医者であれば誰でもがうすうす気が付いていたことです。東京医大で「合格調整」がおこなわれていると聞いてもとくに驚きませんでしたし、だからこそ女医もふくめて多くの医者がこうした事情を「やむを得ないもの」として理解を示しているのです。ましてや、女性蔑視とか差別の問題だと考えている医者はおそらく少数派です。
私個人は、私立大学なのだからある程度のこうした合格者の調整がおこなわれてもいいと思っています。あのハーバード大学でさえも有力者や大金持ちの子弟が優先されていることは有名です。アメリカは完全な私立大学であり、日本のように私立大学にも税金が投入されているケースと同列には語れないと思いますが、それでもプライベートスクールにはそれぞれの特別な事情があっても仕方ありません。
今回の東京医科大学の問題は、文科省の補助金との引き換えでおこなわれた「不正」であり、逸脱した不透明な「不正」であったことが問題なのです。むしろ、「この金額の寄付金を支払えば何点加算」だとか、「有力者の子弟を優先させて合格させる枠は何名」だとか、「男子何名、女子何名をそれぞれ募集」いうように、合格の基準を明確に公開すればいいだけの話しだと思います。
ただし、学力以外の要素を重視して入学者を増やせば、求められる学力を満たさない学生も多くなります。そうなれば大学の質を維持することもまた難しくなるという問題も生じます。とくに医学部は入学後の学習意欲がものをいうため、学力の低下は大学の質の低下に直結します。つまり、在学中の試験や実習、あるいは、医師国家試験での落伍者を大学は覚悟しなければならないのです。
その一方で、医学部の学生の質は入学時の学力だけでは決まりません。所詮は数学や物理ができたところで優秀な医者になれるわけではないのです。これまでもブログに書いてきたように、「医者になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということと「医学部に入りたい」ということは必ずしも同列には語れません。医者になるという点においては、入学するときの学生の偏差値などはなんの関係もないのです。
今回の「裏口」に関しては「一生懸命に勉強をして医学部に入って来た学生が可哀想」という意見があります。しかし、極論をいえば、「ろくすぽ勉強もせずに医学部に合格したとしても、入学してからしっかり医学を勉強してくれればいい」のです。むしろ大学は「入試の偏差値が高い学生」よりも「入学後にしっかり学習してくれる学生」がほしいというのが正直なところかもしれません。
「親の経済力の差が不平等を生むのはけしからん」という意見も耳にします。でも、経済的に私大に行けないのであれば国立大学を選択すればいいのです。国立と私立の学費格差がときどき問題視されますが、私立にいく経済的余裕がない人のためにあるのが国立大学。その意味で、国立と私立の学費の格差を解消することはむしろ教育の平等をそこねると思います(国立大学の学費を値上げするための方便なのです)。
ある私立大学の医学部に合格すると、入学時に900万円ほどのお金がかかり、その後も毎年500万円あまりの学費がかかります。しかし、国立であればたとえ医学部であっても入学時に80万円ほどで(私のときは30万円もかかりませんでした)、その後の学費は50万円あまりと私立の十分の一です。お金がないなら国立へ。経済的に余裕があるなら私大へ。平等ってことはそういうことだと思います。
2020年度から大学入試制度が大きくかわります。「学力だけでなく、人間性や適性を考慮した入試」にするのだそうです。しかし、人間性や適性を誰が評価するのでしょう。どのように評価するのでしょう。そう考えると、公平かつ客観的に評価できないもので選別されるなんて私はごめんです。入試は学力試験の点数で選抜すべきです。そうでなければ国立でも今回のような「不正入試」の温床になります。
憧れる大学だからこそ挑戦しようと思うのです。そして、努力に努力を重ねてようやく入学できた学校だからこそ愛校心をもてるのでしょう。たとえその努力が合格という形で実を結ばなくとも、「実力が足らなかった」と納得できることが大切。にも関われず、「人間性や適性」などというあいまいでくだらない評価基準に満たなかったからという理由で合格できなかった場合、受験生は納得できるでしょうか。
文部行政はどうかしています。「ゆとり教育」で日本の教育をめちゃくちゃにして、今度は国語教育をおろそかにしておきながら英語やプログラミング的教育を小学校に導入、だそうです。ガールズバー通いを叱責された事務次官にいたっては「面従腹背」がモットーなんだそうで、天下りあっせんの責任を取らされて辞めさせられたのを逆恨みして倒閣運動、なのですから。子どもたちに道徳を教える以前の問題です。
一方で、マスコミは事実を淡々と報じるべきです。また、事実を深く掘り下げて報道するべきです。なのに、報道ときたら世の中を煽るだけの薄っぺらなものばかり。今回の「裏口入学」や「合格者調整」に関しても、どこが、どう問題なのかさっぱりわかりません。マスコミに煽られ、感情的になって「けしからん」と断罪するのではなく、社会現象の「ウラ」に隠れている本質を見ようとする目を持ちたいものです。
先日、私は熱中症になってしまいました。実は、熱中症になったのはこれで二度目で、この二回の経験を通じて感じたことがあったのでご報告します。
はじめて熱中症になったのは今から5年ほど前のこと。夏休みを利用して家族で日光に旅行した時のことでした。本当に久しぶりの日光でしたから、東照宮の奥宮にある徳川家康のお墓にお参りにいこうということになりました。その場所までは長い山道をしばらく歩き続けなければなりませんでした。当時、長男はまだ小学生でしたし、次男も小学校にあがるかあがらないかのころ。次男はいかにも体力がなさそうにガリガリやせていて、家康の墓まではとても耐えられなさそうに見えました。
子どもたちがその途中で「帰りたい」などと言い出すと厄介だと思ったこともあり、次男を私がおぶっていくことに。まだまだ軽かった体重を背中に感じながら黙々と階段と坂道を登り続けました。はじめはそれほど暑いとも感じませんでしたが、軽かった次男の体重がずっしりと感じるようになるころには私の額や脇の下からは汗がにじみ始めました。「いい運動だ」とたかをくくっていたのもつかの間、やがて私の全身から汗が噴き出す頃になるととても子供を背負ってはいられなくなりました。
途中で次男を下して歩かせるようになると、身軽になった勢いでついペースをあげてしまいました。汗は相変わらず噴き出すようにながれでています。しかし、息はそれなりに荒かったものの、さほどきつくは感じませんでした。ところが、あと十数段の階段を登れば目的地というところで急に全身が思ったように動かなくなりました。しかも、生あくびと共になんとも言えない嫌な感覚(軽い嘔気というか、倦怠感というか、脱力感といった感じ)に襲われました。
私はたまたま目の前にあった岩でできたベンチに倒れ掛かるように横になりました。直感的に熱中症だと思い、水分補給もせずに黙々と登って来たことを後悔しました。「冷たい飲み物がほしい」と思いましたが、そんな私を置いて家内や子供たちは先に行ってしまいました。助けてくれる人は誰もいません。幸い意識は保たれていましたから重症ではないことはわかりました。こうした苦しい状況はたった数分だったでしょうが、私にはものすごく長く感じたのでした。
顔をしかめながら息を荒げていた私も、家内たちが家康の墓にお参りにいって戻ってくる頃にはなんとか動くことができるようになっていました。「だいじょうぶ~?」と笑いながらのぞきこむ家内たちに私は笑顔でうなづくのがやっと。それでも濡らしたタオルをわたされて額や首のまわりをぬぐうと少し起き上がれるようになりました。「無理してマサをおんぶなんかするからだよ」と家内は笑っていますが、この尋常ではない熱中症の辛さは経験したことのない人間にはわからないだろうな、と思いました。
そして、先日、二回目の熱中症になりました。その日は年に一度の人間ドックの日。前日の夕食時から、食べものはもちろん水分でさえもほとんどとらずにいました。検査当日の朝、コップ一杯の水は飲みほしたものの、すぐに検査にでかけてしましました。ひととおりの検査をして、最後に胃の内視鏡検査が終わったとき、少しのどの乾きを感じていました。でも、のどの麻酔がまだ効いていたせいもあって水分をとらないままに検診センターをあとにしたのでした。
健診センターを出て最寄りの駅につくころにはもううだるような暑さ。それでも健診が終わった開放感もあったからか、水分補給をしなければという発想はまったくありませんでした。しかも、それまでのダイエットの成果もあって、健診で測定した体重はこれまでで一番低い値になっていました。私は「いい運動だ」とばかりに自宅まで徒歩で帰ろうとしました。それが悪かったようです。暑い、暑い、アスファルトの上をテクテクと歩いて25分。その角を曲がればすぐに自宅というところで体に変調が生じました。
額といわず、脇の下といわず、全身の毛穴から汗が噴き出してきたのです。と同時に、5年前の日光で感じたあの嫌な感覚と息苦しさが私を襲いました。私はとっさに「熱中症だ」と思いました。しかし、あと10mで自宅の玄関というところで全身の力が急速に抜けていくのを感じました。明らかに日光のときよりも重症です。私は「家の中に入ればエアコンの涼しい風が待っているんだ」「冷たいコーラを飲み干すぞ」と自分を励ましながらなんとか自宅にたどり着きました。
私は部屋に入るなり、倒れるようにしてエアコンの風の当たる場所に横になりました。家内がびっくりして私の顔をのぞき込んでいます。私はかすれる声で「冷たいポカリスエットを2杯ちょうだい」といいました。そして、家内から冷たいポカリスエットの入ったコップを受け取ると一気に飲み干しました。そして、エアコンの冷たい風で体を一気に冷やさぬよう、家内に靴下とズボンだけを脱がしてほしいと頼みました。寝ていた床は汗でびっしょり。そうこうしているうちにポカリスエットが効いてきました。
日光のときもそうですが、汗がひいてくるにつれてだいぶ楽になっていきました。冷たい風で直接皮膚を増やしてはいけないことを知っていたので、上半身は肌に直接ではなく、服の上から冷風をかけていました。少し体を動かせるようになったのでシャワーをあびることにしました。体全体がとても重く感じました。筋肉の痛みやこむら返りはありませんが、熱けいれんのせいでそう感じるのだと思いました。そして、いつもよりも少しぬるい程度の暖かい温度にしたシャワーを全身にかけながら体を少しづつ冷やしました。
シャワーから出るころにはほとんどいつもの体調に戻りました。そして、これまでを冷静に振り返ることができるようになっていました。これは明らかに水分や塩分の補給を怠ったまま暑い道のりを歩いて帰って来たためにおこった熱中症です。それにしても、熱中症がこれほど急に重症化するとは思ってもいませんでした。道すがら、私にはなにかキツさを我慢して歩いてきたという感覚がまったくないのです。体調が変だなと思った途端、急に事態が悪化していったのです。これは私にとってとても貴重な経験でした。
これまで私は、「熱中症によって畑で死亡」というニュースを聴きながら、「なんでそんなになるまで我慢するのだろう」と思っていました。しかし、今回の自分自身の経験から考えると、熱中症で死亡した人たちの多くも「我慢していた」という意識はなかったのではないかと思うのです。「ちょっと変だな」と思っているうちに急速に状態が悪くなり、炎天下で体が動かなくなって倒れこんでしまったのではないでしょうか。今回の私の経験は熱中症で重症化した人たちにも共通していたのではないかと思います。
私の父も、以前、炎天下に家族の忠告も聞かずにジョギングに行き、道で倒れて病院に救急搬送されました。きっと私と同じように突然力尽きたのでしょう。こうしたことを是非皆さんにも知っていただきたく、今回、ブログに記事にしてみました。
要点をまとめますと・・・、
●熱中症は「水分」と「塩分」の不足よっておこる「体温調節障害」である
●発汗が多くなるような環境、あるいは体温が上昇する環境に長時間さらされると生じる
●熱中症は突然症状が悪化する(決して我慢しているうちに悪くなるわけではない)
●「熱中症かな?」と思ったら直ちに「冷たい水分を飲む。塩分も適宜とる」
●万が一、変調を感じたら、ただちに涼しいところ(かつ湿度の低いところ)に避難する
●冷たい風や冷たい水を直接皮膚に吹き付けない(かえって体の深部に熱がこもるから)
●意識がないとき、はっきりしないときはすぐに救急車を呼ぶ
●湿度の高い環境においては扇風機では必ずしも体温はさがらず、熱中症を予防できない
熱中症の危険性が高い季節です。「冷房は嫌い」だとか「冷房はもったいない」なんて言っている場合ではありません。寒く感じることと体温が上昇しないということは必ずしも同じことではないのです。少なくともエアコンの除湿を利用して室内の湿度を下げること。できれば冷房を併用して室温をさげるように心がけてください。熱中症は決して「我慢しているうちに徐々に重症化する病態」ではないのです。ましてや暑い環境の中で我慢をしても体は鍛えることはできないことを知ってください。