院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
時の経つスピードは年々早くなり、子どものころにはあれほど長かった一年が今ではあっという間です。私自身も知らない間に半世紀を生きてきて、いったいこの間にどれだけのことをなしてきたのだろうかと振り返れば、これといったこともしないまま無駄に歳をとってしまったような気がします。
子どもの頃に憧れていたものがだんだん輝きを失っていき、大人になって現実を突きつけられると空しさを感じるものになってしまうものだって決して少なくありません。思い出だけが自分の心のなかでキラキラと輝いていて、心ときめいていた昔のことを懐かしむようなことも最近とても多くなってきました。
これまでなんどかお話ししてきたように、私の心のなかで今でもキラキラと輝いている思い出はなんといっても札幌時代から研修医のときでしょうか。長年住んだ我孫子を後にして、札幌に引っ越した時の事をときどき思い出します。不安と期待が入り混じった胸のときめきは今でもあざやかに覚えています。
元旦に一枚のある年賀状が今年も届きました。それは札幌時代にお世話になったアパートの管理人さんの息子さんからのものです。今年で97歳となったおじさんと95歳になったおばさんの近況を伝えてくれるその年賀状は私にとっては札幌時代を思い出す大切な便りです。
私が学生のときに住んでいたアパートは大学から歩いて10分ほどのところにありました。管理人のおじさんは札幌にやってくる前まではひまわりで有名な雨竜というところで農業をやっていました。戦争で南方に送られ、大変な目にあいながらも父親から譲り受けた土地を少しづつ広げていった働き者のおじさんです。
おばさんも寡黙でとても働き者でした。広いアパートをいつもきれいにお掃除しているおばさんの後ろ姿が目に浮かびます。長年やってきた農業をやめ、札幌でアパート業をやろうと決心したおじさんについてきたおばさんがどのよう気持ちで雨竜を離れたのだろうかと考えたくなるほどにいつも働いていました。
おじさんとおばさんははたから見ていても「夫唱婦随」という言葉がぴったりのご夫婦でした。「昭和の理想的な夫婦」ってところでしょうか。おばさんはおじさんを立て、おじさんは何気におばさんをいたわっている。ふたりが仲たがいをしているところを見たことがありませんでした。
そうそう、今思ったのですが、おじさんの風貌ってTVドラマ「北の国から」の黒板五郎が歳をとったような感じ。短く刈った髪は真っ白でしたが、開拓と農業で鍛え上げた体は当時七十歳近くでしたが筋肉質でがっちり。背丈も私よりもあって、どことなく私が憧れる高倉健(「高倉健、永遠なれ」もご覧ください)を彷彿とさせる風貌でもありました。
長年やってきた農業を、しかもはたから見れば順風満帆に見える生業を捨て、これまでの仕事内容とはまったく異なるアパート業にかわろうと決断した意志の強さをあらわすように、おじさんはときにとても鋭い眼光をもっていました。しかし、アパートに住む人たちにはいつも親切で優しかったのです。
アパートに引っ越してきたとき、おじさんに「いっしょに飲まんか?」と誘われました。私はお酒がまったく飲めなかったのですが、せっかくだからと管理人室にうかがうことにしました。管理人室でのおじさんのまなざしにはいつもの鋭さはなく、にこやかでとてもうれしそうでした。
食卓にはおばさんが作ってくれたお料理が並び、さながら私の歓迎会をやってくれているんだと思いました。「冷がいいかな?」。春とはいえまだ寒かった札幌ですが、管理人室は暖房がたかれていてポカポカ。私はおじさんがいつもそうしているように冷で日本酒を飲むことにしました。
コップ一杯ぐらいなら大丈夫だろうと無理してお酒を交わしていた私は、しばらくすると地面がぐるぐる回ってきました。おばさんが心配そうに、「だいじょうぶかい?」と私の顔をのぞきこみました。そこまでは覚えているのですが、あとはどうなったかわからないまま、いつの間にか自室で寝ていました。
翌日、管理人室のおじさん達にお礼に伺うと、おじさんは「酒、飲めんかったかね?」と申し訳けなさそうに尋ねました。微笑みながらうなづく私におじさんは「そうかね、そりゃ悪いことをした」と。あのあと、私は真っ赤な顔をして意味不明なことをつぶやきつつ、ヘラヘラ笑いながら自室に戻っていったそうです。
以来、このアパートは文字通り私の自宅になりました。おじさんとおばさんからいろいろな心遣いを受けながら4年間をここで過ごしました。風呂がなく、トイレも共同のアパートでしたが居心地は決して悪くありませんでした。管理人さんの息子さんご夫婦も入っていてなんだかとてもアットホームだったのです。
ただ、一度だけこういうことがありました。管理人さんの息子さんご夫婦にはひとりの可愛い女の子がいました。当時はまだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの年齢でした。私の自室からはその子が元気に廊下を走り回る音が聞こえました。でも、決して不快な騒音としてではありませんでした。
あるとき、私は部屋で簡単な自炊をしていました。大した料理ができるわけではありませんでしたが、ときどき気が向くと料理をしていたのです。久しぶりに作った料理がたまたまうまくでき、いい匂いが部屋に満ちていました。盛り付けをしながら私は早く食べたい気持ちを抑えていました。
そのとき、廊下からいつものように女の子がお母さんと一緒に歩いていく音が聴こえます。共同のトイレにでも行くのでしょうか。走ろうとするその子に「走っちゃダメよ」とたしなめるお母さんの声も聴こえました。扉の外の愛らしい光景が目に浮かぶようでした。
いちどは聞こえなくなった二人の話し声がふたたび徐々に大きくなってきました。ちょうど私の部屋の前に二人が差し掛かった時、女の子の足がふと止まりお母さんにこう言ったのです。「ママ、変なにおいがするよ」と。変なにおい・・・。そうです。それは私の部屋から漏れた匂いのことでした。
すかさずお母さんが声を潜めるように「そんなことを大きな声で言っちゃだめ」とたしなめました。私はそのとき隠れてしまいたいような恥ずかしい気持ちになりました。その「変なにおい」をおいしそうに感じていた自分が恥ずかしかったのです。以来、料理をする機会はすっかり減り、それは今でも続いています。
このアパートには風呂がなかったため、医学部も高学年になって気軽に風呂にはいれるワンルームマンションに引っ越しました。しかし、それ以降もこのアパートの管理人さんとのつながりは続きました。時間があればおじさんとおばさんに会いに行きましたし、家内と結婚して札幌に戻っては挨拶に行き、子どもが生まれれば見せに行きました。
あんな管理人さん達のようなご夫婦にはお目にかかれないでしょう。二人は私が憧れていたTVドラマ「大草原の小さな家」に出てくるインガルス夫妻のようでもあり、「北の国から」の黒板五郎のようでもあり、また、高倉健のような風貌のおじさんはひょっとして私の理想の男性像だったかもしれません。
人との出会いってとても大切だと思います。私の人生を振り返っても、いろいろな人との出会いによって今の自分があるといっても過言ではありません。こうした大切な人たちとどのくらい出会えるのかが人生を左右するのでしょうね。年賀状はそれを確認する便りでもあると思いました。
札幌は先日ふたたび降った大雪で早くも根雪になるでしょう。60㎝を超える降雪量を記録するのはなんでも29年ぶりだそうで、札幌にいたころのこの時の大雪を思い出しました。当時、私は自分の車を青空駐車場に停めていました。ですから、雪が降るたびに車の上に積もった雪と駐車場の出入り口から車までの雪をどけに行かなければなりませんでした。しかし、そのときの雪はそれこそ一晩に50㎝は降ったかと思われるほどでしたから、いつもの雪かきとはくらべものにならないほどの重労働でした。まずはアパートから駐車場に向かうのが大変。北海道のサラサラした雪とはいえ、腰まではあろうかと思われる雪をかきわけながら歩くためにはかなりの体力を使いました。駐車場はアパートのすぐ近くとはいえ、歩道に降り積もった雪に足をとられながら歩くと駐車場に着くころにはもうヘトヘト。そして、駐車場に目をやれば、車が見えないほどの一面の雪にはただただ茫然となるのみでした。
よりによって私の車は駐車場の一番奥にありましたから、そこにたどり着くまでの経路の雪を排除しなければなりません。もちろんただ左右に雪を押しのけただけでは他の車の前に雪をどけるだけになってしまいそれらの車に迷惑をかけます。しかし、どけた多量の雪をどこかに捨てようにも、ドカ雪のときはその捨てるところさえないのです。ですから、車の通行に迷惑なならないように車道の脇に寄せて(といっても、どこが脇なのかもわからない)雪をもっていくのですが、雪にはまった車を掘り出すための小さなスコップで運ぶものですからものすごい時間と労力を要します。結局、数時間をかけて他の人の車の分まで除雪したあげくにようやく自分の車の上に積もった雪をどける作業にとりかかれるといった状況でした。当然のことながら、大学の講義などには出席できるはずもなく、重労働で汗をかいたあと銭湯にいって「自宅療養せざるを得ない状況」になってしまいました。
もともと寒い日に昼間っから大学をさぼって銭湯に行くのは好きでした。まだ入浴客も少なく、広い湯船でじっくり温まってアパートに帰るときの爽快感がなんともいえず気持ちがいいのです。真冬のときなどは、帰りしな濡れたタオルをぐるぐる振り回すとカチンカチンに凍ったりして北海道の冬を実感できます。でも、あるとき、恐ろしい「事件」に遭遇しました。いつものように明るいうちに銭湯にいって頭を洗っていたら、なんとなく自分に降り注がれる視線を感じました。ふと顔をあげて鏡を見れば、なんと背後に私をじっと見つめる男性の姿があるではありませんか。しかも私が移動するたびにその男性がそばにくる。彼はあきらかに私のあとをついて来るのです。急に怖くなった私はあわてて銭湯を後にしました。以来、その銭湯を利用することがなかったということはいうまでもありません。あの恐怖心は大学祭での「おかまバー事件」のときに感じて以来のものでした。
その「おかまバー」は、まだ医学部に進学する前(教養学部医学進学課程のとき)の北大祭のイベントとしてクラスで企画したものでした。当の企画者はシャレでやるつもりで、女の子がおもしろがってたくさんくるだろうぐらいの単純な発想だったのです。ホステス(ホスト?)をやらされた私たちは化粧をし、布を適当に体に巻き付けただけのあらわな姿をさせられました。当然のことながら私ははじめて化粧をしました。そして、女子学生にお化粧をしてもらいながら、変わっていく鏡の中の自分がどんどん「きれいに」なっていきました(幸い、その後、お化粧が癖にはなりませんでした)。お化粧が完成したとき、それなりに「きれいになった自分」を再発見。化粧をすると別人になったような気持がして、人前に出ても不思議とはずかしくありませんでした。ところがそんなことに「感動」していたのもつかの間。ホステスをやっていたひとりの友人の悲鳴によって「おかまバー」は恐怖のどん底に突き落とされることになりました。
二人の本物の「おかまさん」が来店したのです。悲鳴をあげた友人は開店後はじめてのそのお客を接客して体を触られたと控室に駆け込んできたのです。控室にいた「ホステス達」は一様に恐怖に顔を引きつらせながらどうしたらいいものか考えあぐんでいました。二人の本物の「おかまさん」をテーブルに残したまま、誰もそのテーブルに行こうとしないのです。そのうちに客席の方から大きな声が聴こえてきました。「お客を放りっぱなしってどういうことよ。ビールぐらい出しなさいよっ!」と怒っています。結局、体が大きく腕っぷしの強そうな友人が勇気を出して接客にいくことになりました。「変なことをしたらぶんなぐってやる」と言いながら彼は接客に向かいました。ふたりの「おかまさん」達は怖がる私達をしり目に、自分たちで歌ったり踊ったりとひとしきり楽しんで帰っていきました。そのパフォーマンスの高さはさすが「本物」で、他のお客さんはもちろん私達ホステスも関心するほどでした。
話しが横道にそれてしまいましたが、この雪で札幌はもちろんホワイトクリスマスになると思います。クリスマスにはやっぱり雪が必要ですね。以前にもご紹介したように、学生のころ、イブの夜に讃美歌を聴きたくなって雪の中を教会に行ったことがあります(「北海道のこと」をご覧ください)。讃美歌、いいですよねぇ。私は「神の御子は」という讃美歌が大好きです。大学のサークルでこの歌を合唱したことをきっかけに好きになりました。私はかつてNHKで放映されていた「大草原の小さな家」が好きでよく見ていたのですが、たまたまつけたTVでそのドラマが放映されていて「インガルス一家のクリスマス」という回をやっていました。家族のみんなが自分の大切にしているものをこっそり売って家族が喜ぶクリスマスプレゼントを用意するという感動的な回だったのですが、やはりこのときのウォルナットグローブも一面銀世界でした。その前後の回の同じウォルナットグローブに雪などまったくなく、青々とした草も生えていたのでクリスマス用の特別編集だったんでしょう。
独身の頃、「結婚願望」なんてぜんぜんありませんでしたが、その一方でなんとなくこのインガルス一家みたいな家族が将来できればいいなぁなんて思っていました。頼りになって思いやりのあるお父さんと、優しくて慈しみに満ちたお母さん。そして、元気いっぱいでいつも前向きな子供達。そんな家族みんなで「神の御子は」を合唱するなんて素敵って思っていました。でも、現実はそう簡単にはいかないものです。私も家庭をもち、改めて振り返ってみれば、大きくなった子供たちに「みんなで合唱しようよ」と提案しても、「やだよ」「めんどくさい」「ひとりで歌っていればいいじゃないか」などと誰も相手にしてくれない。「それなら」と、ひとりYouTubeを見ながら大声で気持ちよく歌っていれば「うるさいから小さい声で歌ってよ」と言われてしまいます。そんな「可哀想なチャールズ」はTVで札幌での大雪のニュースを見たり、ドラマでのクリスマスのシーンを見るたびに、「神の御子は」を思い出しながら「やっぱりクリスマスには雪だよなぁ」なんて思ってしまいます。
暖かい家の中の心地よさがそう思わせるんだと思います。北海道の家はこちらの家とはくらべものにならないくらい暖かいのです。冬が長いのであたりまえですが、家の中だけで言えばこっちの家の方がよっぽど寒い。なにせコタツなんていらないくらいですから。家の中で厚着をするなんてこともありません。最近の家であれば床暖は当たり前になっていて、ストーブをガンガン炊きます。家の外には大きな石油タンクを備えていて、夜も微弱ながらもストーブはつけっぱなし。ストーブを止めてしまうと窓には氷の結晶がこびりついていて(当然のことながら窓は二重窓になっていますから、氷の結晶がこびりつくのは外側の窓ガラスです)、ストーブをつけてもなかなか部屋が温まらないなんてことがあるからです。北大に入学してはじめて友人の部屋に遊びに行ったとき、春だというのにまだまだ寒い中、玄関の扉が開いてTシャツ姿の友人が出てきたときはびっくり。部屋のなかは汗ばむほどの暖かさでさらにびっくりしたものです。
そう考えると雪のない冬はものすごく物足りなく感じます。先日の札幌の大雪のように道民の日常生活に支障をきたす雪というのも迷惑な話しですが。それでもそれが冬の風物詩と思える私にとっては、雪のない今の風景はどことなく殺風景に見えるほどです。夜に雪が積もり、朝日にまぶしく輝く新雪を見るとすがすがしい気持ちになります。新雪が積もった日の朝はとても静かです。そして、しばらくすると除雪のために家々からひとりふたりと人々が出てきて少しづつにぎわい始める街並みを見るのもいいものです。北国の冬というと、寒くて暗くて家の中でじっと春を待っているといった印象があるかもしれません。しかし、雪が降るたびに始まる静かな朝。そして、みんなが協力し合って雪をかき、除雪車がけたたましい音を立てて夜通し作業をする。北国の冬って決して人間の生活感に乏しい冷たいものじゃないのです。むしろ、こちらの冬よりもにぎやかに感じるのが北国の冬なのです。クリスマスまでもう少し。こちらでもイブの夜だけでもいいから雪が降らないかなぁ。
今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。
でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。
そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。
老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。
私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。
よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。
ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。
現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。
70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。
受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。
かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。
人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。
人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。
「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2)」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。
「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。
今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。
最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。
ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。
今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。
※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。
下の題名をクリックすれば見られます。
【金沢のこと】
【永平寺訪問】
【立てば歩め】
今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。
医師という仕事はものすごく地味です。とくに我々のような患者との接点となるプライマリ・ケアの仕事の多くは生活習慣病の管理であり、風邪や花粉症に対する投薬だったり、患者となにげない話しをしながら不安を軽減することだったりと、救急救命医や専門医療のような仕事とは違って、テレビにしばしば出てくる華々しいシーンはほとんどありません。いろいろな訴えを抱えて来院する患者の多くは大きな病気ではなく、経過観察とすべきものがほとんどであり、医学的な説明をしてお帰りいただくことが多いのです。
しかし、私たちの仕事でもっとも大切なことは患者の健康の「管理」ですから、ともすると日常になりがちな診療の中でいかに患者の変化を見落とさないかが重要です。私自身がとくに留意しているのは、ありふれた症状や病気の中にかくれた重大な疾患を見逃さないことです。ともすると「こんな症状」と簡単に片づけてしまうようなありふれた症状の中に、実は重大な病気が隠れていることがあります。それを見逃さないアンテナを張っておくこと。それはとても難しいことですが、私たちには欠くことのできない要素です。
ただ、「言うは安し」です。ありふれた症状から重大な病気が見つかることはそれほど多くはありません。ほとんどは特にどういうこともなく自然に治ってしまいます。どこぞの医療番組にでてくるような実は「診断の裏をかく病気」だったなんてことはほとんどありません。そんな病気まで想定して検査するわけにもいかず、やはりこういう場合は臨床医としての勘ばたらきと注意深い観察眼が頼りということになります。日常のなにげない診療の中で大きな病気を見落とさないことは意外と難しいことです。
一方において、日常生活の中でありふれた病気をきちんと診るということも大切です。「単なる風邪」と一言でいっても、その症状のバリエーションはさまざまです。ある人には辛くなくても、他の人には辛い症状だってあります。そうしたバリエーションの中でどう薬を出し、あるいは薬を出さずに済ますかというところにアートがあります。アートというのは「技術」あるいは「技」という意味ですが、経験を積んだ有能な医師はまさに職人技のようなアートをもっています。
私などはそんなアートにはまだまだ程遠いのですが、それでも研修医を終えたころの青い時代と比べれば多少アートらしきものを身に着けているでしょうか。若いころは理想に燃えています。というか、理想ででしか行動できないところもあります。臨床経験が浅い分だけ教科書に書かれていることを妄信しているからです。場合によっては傲慢と思えるようなところもあります。振り返れば、私もかつてはずいぶんと傲慢な医療をしていた時代がありました。その傲慢さに気が付かせてくれたのは他でもない患者さん自身でした。
当時、私には「風邪に薬はいらない」という「信念」がありました。のどが痛かろうかが、鼻水が落ちてこようが、あるいは咳をしていようが、自宅で寝ていればじきに治るものだし、薬など飲むべきではないという「信念」です。ですから、風邪症状で来院した患者には「あなたがいかに薬を飲む必要がないか」を詳しく説明し、薬を処方せず、患者に自宅で経過を見させることが「よい医療」だと思っていました。とあるクリニックでアルバイトの診療をしていたころの私はそこでもそんな診療をしていました。
その患者は咳が止まらないという訴えで来院しました。診察を待っている廊下からはときどき咳の音が聞こえてきました。診察室に入ってきたその患者は60歳代のご婦人。症状の経過と現在の状況をお聞きしてから一般的な診察をしましたが、とくに薬を出すほどの症状とは思えませんでした。私はいつものように「いかに薬を必要としていないか」を説明しました。患者は神妙な面持ちで、私の話しを最後まで聞いていました。そして、笑顔で「とてもよくわかりました」と深々と頭をさげて診察室を出て行きました。
診察を終えた私は悦に入っていました。「いい医療をした」「患者の意識を変えることができた」と満足していたのです。ところが、ふと我に返ると、受付の方から怒鳴り声が聞こえてくるのに気が付きました。耳を澄ますと、ついさっき、私の説明に納得し、薬をもらわずに帰るものと思っていた患者がなにやら窓口で抗議していたのです。耳をそばだてて聞いていた私は完全に打ちのめされました。「咳がつらいからわざわざこの病院に来たのに、なにも薬を出さないで帰れってどういうことですか」というのです。
私はこのとき、自分がいかに傲慢な診療をしていたのかということに気がつきました。私が「いい医療」と考えていた診療がその患者に完全に否定されてしまったからです。思えばクリニックにやって来ることは面倒なことです。それなのにあえて来院したのはそれほどにこの咳はつらかったのでしょう。そこで咳を止めてもらおうとわざわざ来たのに、「薬を飲むよりも自宅で安静にしていろ」と言われれば誰だって怒鳴りたくもなります。そんな当たり前なことすら、当時の私は気が付いていなかったのです。
以来、私は医学的に間違っていることでなければ、できるだけ患者の訴えに耳を傾け、患者が求める方向で処方をすればいいと考えるようになりました。咳が出るのであれば咳止めを出せばいい(もちろん肺炎でないことが前提です)し、鼻水が出るのであれば鼻水止めを出せばいい。患者さんはそれらがつらくてわざわざ来ているんですから。そうした患者の求めるものに向き合ったうえで処方することにしたのです。深々と頭をさげて診察室を出て行ったあの患者の怒りが私の思いあがりに気付かせてくれたのかもしれません。
もちろん患者の言いなりに薬を出すという意味ではありません。医学的に出せないものは出せないし、患者さんの不利益になることでも希望さえあればそうするということでもありません。そのような場合はきちんと患者さんに説明してお断りします。そのようにちゃんと説明すればほとんどの患者はわかってくれますから。そうではなくて、患者の苦痛にすら思いが至らないままに「医療はこうあるべきだ」などと思い上がってはいけなかったという意味です。それはひとえに私が「青かったから」にほかなりません。
医療の現場で働いているとなかなか理想通りにはいきません。抗生物質の投与の仕方もそうです。教科書的には「起因菌を同定してから使用せよ」、つまり原因となった細菌を特定し、その細菌に合った抗生物質を使いなさいということが書かれてあります。そんなことは百も承知なのですが、同定をしてからだと「受診して、検査して、結果がわかって処方」となり、その分だけ治療が遅くなります。高熱と咳で受診した人にそんなことできません。どうしたって経験的にふさわしいと思われる抗生物質を出してしまいます。
「抗生物質は安易に使うな」とも書かれています。抗生物質を処方する身とすれば安易に出しているつもりはありません。それでも「抗生物質は肺炎になってから投与せよ」と、肺炎になったことが確認されてから抗生物質を投与された患者さんはどう思うでしょうか。「私のことを考えてくれている」と思ってくれるでしょうか。多くの人は「なぜ肺炎になるまえにちゃんと対処してくれなかったんだ」と不信感をもつのではないでしょうか。私たち、いや少なくとも私はそう考えてしまうのです。
そんな先走りをするせいか、多くの場面で「これは肺炎、もしくはこのままでは肺炎に移行するだろう」と判断した時点で経験的に抗生物質を出してしまいます。ましてや私は喀痰検査や胸部レントゲン検査、あるいは採血といったものは、入院すべきかどうかを判断しなければならない限られたケースでなければやりません。ですから、その分だけ他の先生よりも早い段階で抗生物質を処方しているかもしれません。そうしたことは批判されるべきことかもしれませんが、私としてはそれはそれで覚悟の上です。
アメリカではすべてではないにしろ、治療を受けた病院に医療費を支払う保険会社が定めた薬や治療法でなければなりません。それ以外の薬や治療法には医療費が支払われないのです。すなわち、患者が受ける医療の内容は保険会社が決めているのです。そういう社会にあっては、我々医師はその善し悪しとは無関係に治療方法を選択するしかありません。そこには患者のニーズなど無縁です。傲慢だとか、教科書的とか、理想主義とかいう以前に経済原理にのっとって決められた治療法が優先されるのですから。
最近では医療の世界にも経済原理が導入され、コスト削減だとか、費用対効果だとか、経営効率だとかいう経済用語が盛んに使われるようになってきました。でも考えてみて下さい。医療はなにかを具体的に生産する業種ではありません。何かを生み出すという側面よりも、なにかを消費する側面が大きいのです。消費することで人間の健康を守るとでもいいましょうか。どうしても非効率な部分が出てしまいます。そうしたところが一般的な産業と違うところであり、そもそもが経済的原理をあてはめるのには無理があるのです。
時代は変わりました。医療も変わりました。「患者さん」を「患者様」と呼び、患者さんの名前を呼ぶと個人情報の保護に反するといわれる。最近では点滴を詰めたり、薬を調合する場所に防犯カメラを置けと言われる時代です。「病気を治してやっている」という意識が強かった昔の医療は論外ですが、ある意味でそうした傲慢な医療ですらしようにもできない時代になりました。それだからこそ、医療者も患者がお互いに卑屈にならずに協力的に健康を考えていける時代であることが必要です。コストや効率性に振り回されない、患者のニーズをふまえた自由度が確保された医療を守りたいものです。