院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。
でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。
そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。
老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。
私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。
よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。
ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。
現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。
70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。
受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。
かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。
人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。
人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。
「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2)」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。
「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。
今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。
最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。
ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。
今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。
※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。
下の題名をクリックすれば見られます。
【金沢のこと】
【永平寺訪問】
【立てば歩め】
今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。
医師という仕事はものすごく地味です。とくに我々のような患者との接点となるプライマリ・ケアの仕事の多くは生活習慣病の管理であり、風邪や花粉症に対する投薬だったり、患者となにげない話しをしながら不安を軽減することだったりと、救急救命医や専門医療のような仕事とは違って、テレビにしばしば出てくる華々しいシーンはほとんどありません。いろいろな訴えを抱えて来院する患者の多くは大きな病気ではなく、経過観察とすべきものがほとんどであり、医学的な説明をしてお帰りいただくことが多いのです。
しかし、私たちの仕事でもっとも大切なことは患者の健康の「管理」ですから、ともすると日常になりがちな診療の中でいかに患者の変化を見落とさないかが重要です。私自身がとくに留意しているのは、ありふれた症状や病気の中にかくれた重大な疾患を見逃さないことです。ともすると「こんな症状」と簡単に片づけてしまうようなありふれた症状の中に、実は重大な病気が隠れていることがあります。それを見逃さないアンテナを張っておくこと。それはとても難しいことですが、私たちには欠くことのできない要素です。
ただ、「言うは安し」です。ありふれた症状から重大な病気が見つかることはそれほど多くはありません。ほとんどは特にどういうこともなく自然に治ってしまいます。どこぞの医療番組にでてくるような実は「診断の裏をかく病気」だったなんてことはほとんどありません。そんな病気まで想定して検査するわけにもいかず、やはりこういう場合は臨床医としての勘ばたらきと注意深い観察眼が頼りということになります。日常のなにげない診療の中で大きな病気を見落とさないことは意外と難しいことです。
一方において、日常生活の中でありふれた病気をきちんと診るということも大切です。「単なる風邪」と一言でいっても、その症状のバリエーションはさまざまです。ある人には辛くなくても、他の人には辛い症状だってあります。そうしたバリエーションの中でどう薬を出し、あるいは薬を出さずに済ますかというところにアートがあります。アートというのは「技術」あるいは「技」という意味ですが、経験を積んだ有能な医師はまさに職人技のようなアートをもっています。
私などはそんなアートにはまだまだ程遠いのですが、それでも研修医を終えたころの青い時代と比べれば多少アートらしきものを身に着けているでしょうか。若いころは理想に燃えています。というか、理想ででしか行動できないところもあります。臨床経験が浅い分だけ教科書に書かれていることを妄信しているからです。場合によっては傲慢と思えるようなところもあります。振り返れば、私もかつてはずいぶんと傲慢な医療をしていた時代がありました。その傲慢さに気が付かせてくれたのは他でもない患者さん自身でした。
当時、私には「風邪に薬はいらない」という「信念」がありました。のどが痛かろうかが、鼻水が落ちてこようが、あるいは咳をしていようが、自宅で寝ていればじきに治るものだし、薬など飲むべきではないという「信念」です。ですから、風邪症状で来院した患者には「あなたがいかに薬を飲む必要がないか」を詳しく説明し、薬を処方せず、患者に自宅で経過を見させることが「よい医療」だと思っていました。とあるクリニックでアルバイトの診療をしていたころの私はそこでもそんな診療をしていました。
その患者は咳が止まらないという訴えで来院しました。診察を待っている廊下からはときどき咳の音が聞こえてきました。診察室に入ってきたその患者は60歳代のご婦人。症状の経過と現在の状況をお聞きしてから一般的な診察をしましたが、とくに薬を出すほどの症状とは思えませんでした。私はいつものように「いかに薬を必要としていないか」を説明しました。患者は神妙な面持ちで、私の話しを最後まで聞いていました。そして、笑顔で「とてもよくわかりました」と深々と頭をさげて診察室を出て行きました。
診察を終えた私は悦に入っていました。「いい医療をした」「患者の意識を変えることができた」と満足していたのです。ところが、ふと我に返ると、受付の方から怒鳴り声が聞こえてくるのに気が付きました。耳を澄ますと、ついさっき、私の説明に納得し、薬をもらわずに帰るものと思っていた患者がなにやら窓口で抗議していたのです。耳をそばだてて聞いていた私は完全に打ちのめされました。「咳がつらいからわざわざこの病院に来たのに、なにも薬を出さないで帰れってどういうことですか」というのです。
私はこのとき、自分がいかに傲慢な診療をしていたのかということに気がつきました。私が「いい医療」と考えていた診療がその患者に完全に否定されてしまったからです。思えばクリニックにやって来ることは面倒なことです。それなのにあえて来院したのはそれほどにこの咳はつらかったのでしょう。そこで咳を止めてもらおうとわざわざ来たのに、「薬を飲むよりも自宅で安静にしていろ」と言われれば誰だって怒鳴りたくもなります。そんな当たり前なことすら、当時の私は気が付いていなかったのです。
以来、私は医学的に間違っていることでなければ、できるだけ患者の訴えに耳を傾け、患者が求める方向で処方をすればいいと考えるようになりました。咳が出るのであれば咳止めを出せばいい(もちろん肺炎でないことが前提です)し、鼻水が出るのであれば鼻水止めを出せばいい。患者さんはそれらがつらくてわざわざ来ているんですから。そうした患者の求めるものに向き合ったうえで処方することにしたのです。深々と頭をさげて診察室を出て行ったあの患者の怒りが私の思いあがりに気付かせてくれたのかもしれません。
もちろん患者の言いなりに薬を出すという意味ではありません。医学的に出せないものは出せないし、患者さんの不利益になることでも希望さえあればそうするということでもありません。そのような場合はきちんと患者さんに説明してお断りします。そのようにちゃんと説明すればほとんどの患者はわかってくれますから。そうではなくて、患者の苦痛にすら思いが至らないままに「医療はこうあるべきだ」などと思い上がってはいけなかったという意味です。それはひとえに私が「青かったから」にほかなりません。
医療の現場で働いているとなかなか理想通りにはいきません。抗生物質の投与の仕方もそうです。教科書的には「起因菌を同定してから使用せよ」、つまり原因となった細菌を特定し、その細菌に合った抗生物質を使いなさいということが書かれてあります。そんなことは百も承知なのですが、同定をしてからだと「受診して、検査して、結果がわかって処方」となり、その分だけ治療が遅くなります。高熱と咳で受診した人にそんなことできません。どうしたって経験的にふさわしいと思われる抗生物質を出してしまいます。
「抗生物質は安易に使うな」とも書かれています。抗生物質を処方する身とすれば安易に出しているつもりはありません。それでも「抗生物質は肺炎になってから投与せよ」と、肺炎になったことが確認されてから抗生物質を投与された患者さんはどう思うでしょうか。「私のことを考えてくれている」と思ってくれるでしょうか。多くの人は「なぜ肺炎になるまえにちゃんと対処してくれなかったんだ」と不信感をもつのではないでしょうか。私たち、いや少なくとも私はそう考えてしまうのです。
そんな先走りをするせいか、多くの場面で「これは肺炎、もしくはこのままでは肺炎に移行するだろう」と判断した時点で経験的に抗生物質を出してしまいます。ましてや私は喀痰検査や胸部レントゲン検査、あるいは採血といったものは、入院すべきかどうかを判断しなければならない限られたケースでなければやりません。ですから、その分だけ他の先生よりも早い段階で抗生物質を処方しているかもしれません。そうしたことは批判されるべきことかもしれませんが、私としてはそれはそれで覚悟の上です。
アメリカではすべてではないにしろ、治療を受けた病院に医療費を支払う保険会社が定めた薬や治療法でなければなりません。それ以外の薬や治療法には医療費が支払われないのです。すなわち、患者が受ける医療の内容は保険会社が決めているのです。そういう社会にあっては、我々医師はその善し悪しとは無関係に治療方法を選択するしかありません。そこには患者のニーズなど無縁です。傲慢だとか、教科書的とか、理想主義とかいう以前に経済原理にのっとって決められた治療法が優先されるのですから。
最近では医療の世界にも経済原理が導入され、コスト削減だとか、費用対効果だとか、経営効率だとかいう経済用語が盛んに使われるようになってきました。でも考えてみて下さい。医療はなにかを具体的に生産する業種ではありません。何かを生み出すという側面よりも、なにかを消費する側面が大きいのです。消費することで人間の健康を守るとでもいいましょうか。どうしても非効率な部分が出てしまいます。そうしたところが一般的な産業と違うところであり、そもそもが経済的原理をあてはめるのには無理があるのです。
時代は変わりました。医療も変わりました。「患者さん」を「患者様」と呼び、患者さんの名前を呼ぶと個人情報の保護に反するといわれる。最近では点滴を詰めたり、薬を調合する場所に防犯カメラを置けと言われる時代です。「病気を治してやっている」という意識が強かった昔の医療は論外ですが、ある意味でそうした傲慢な医療ですらしようにもできない時代になりました。それだからこそ、医療者も患者がお互いに卑屈にならずに協力的に健康を考えていける時代であることが必要です。コストや効率性に振り回されない、患者のニーズをふまえた自由度が確保された医療を守りたいものです。
これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。
今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。
そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。
ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。
医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした。
でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。
のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。
国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。
もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。
当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。
それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。
実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。
私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。
まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。
ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。
そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。
先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。
たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。
私はいわゆる「医療ドラマ」というものを見ません。現実との違いにとても見ていられなくなるからです。三十代そこそこの医者が「天才外科医」と呼ばれたり、出てくる医者が皆判で押したように高級外車を乗り回し、まるで「鳩山御殿」かと見まごうような家に住んでいる。あるいは代々医者の家庭に嫁いだ女性が姑に「○○家の後継ぎを産むのがあなたの使命なのよ」なんてすごまれる。まれにそうしたケースがあるかもしれませんが、そんな話しは私のまわりで見たことも聞いたこともありません。
そもそも三十代そこそこの医者と言えば、後期研修をおえてようやく独り立ちする年齢です。第一術者になれるかどうかって年齢でどうして「天才外科医」なんでしょう。しかもそれで「大学教授」なんてちゃんちゃら可笑しくて見ちゃいられません。高級外車をこれ見よがしに乗り回し、立派なおうちに住んでいる医者だって今どきそういるもんじゃない。いることはいますよ、私たちと別世界の人達は。でもそれは少数派。だって多くの医者はそんな生活するために医者になったわけじゃありませんから。
世の中に幅を利かせているイメージって、実は結構いい加減なものです。私の父は警察官でしたが、刑事ドラマを見ている父を見たことがありません。これもドラマに出てくる警察官の姿と実際があまりにも違いすぎていて、ちゃっちくて見ていられなかったんだと思います。もとより医療の世界はある意味で閉鎖的ですから、そうしたいい加減なイメージが作られやすいのでしょう。逆にいうと、一般の人には知られていない苦労も医者には多い。そんな苦労を知ってもらうためにも医療の本当の姿をドラマ化してほしいのですが、イメージ先行の今の世の中ですからなかなかそんなドラマにお目にかかれません。
僕らのときは、大学病院の研修医の月給は約5万円。市中病院でも月給約15万円ほどでした。私達には労働基準法は適用されません。研修医のほとんどは24時間、365日の勤務みたいなもの。いくら残業してもそのほとんどはサービス残業なのです。それでも指導医には「おまえら研修医は本来給料なんてもらっちゃいけないんだ」と言われたくらいです。でも、研修医は給料をもらえるのでまだましです。医員と呼ばれる大学の医者のほとんどは無給です。それでは食べていけませんから、医員の多くは大学病院での勤務が終わると他所の病院で外来診療をしたり、検査や当直のアルバイトをします。そして、大学に戻れば通常勤務。
私が一人前の医者になったころ、研修医の過労死の問題がクローズアップされて待遇が見直されました。そして、今ではアルバイトを禁止するかわりに給料が増額されたようです。病院によっては朝9時に勤務開始、夕方5時に勤務終了なんて夢のような研修ができるところもあると聞きます(個人的にはそれがいい研修だとは決して思いませんけど)。ですから、その勤務時間をはずれての業務は指導医がやらなければならないとか。僕らの頃は雑務は研修医がやるものだったのですが、そんな時代になっちゃったんですね。もっともそんな病院は現実には少数でしょうけど。
医者になりたてのころ、私がアルバイトに行かされていたのは東京の下町にある小さな病院でした。月に1回だけ土曜日の午後から日曜日の午前中までの日当直が仕事でした。入院中の患者の具合が悪い時に病棟に呼ばれて薬を出したり、あるいは検査をしたり、ときには休日の外来診療もやらなければなりませんでした。その病院の近くにはお寺がいくつかありました。最寄りの駅を出て病院に向かう道は下町の風情を残していて私は嫌いではありませんでしたが、ちょっぴり寂しい雰囲気の場所でした。その道すがら、ひとつのお寺の門前に掲示板があるのに気が付きました。そこはそのお寺の歴史が書かれてありました。
病院の周辺はかつて花街であり、昔はたくさんの女郎さんが働いていました。その女郎さんたちは病気になって働けなくなると故郷に帰されるのですが、中にはその故郷になんらかの事情で戻れない人もいます。そうした人たちが亡くなると、この寺の前に捨てられていったのだそうです。そのお寺はそんな人たちを弔うところだったのです。いつもこのお寺の前を通りながら、私は心の中で手を合わせていました。住宅地のなかにポツンと立っているそのお寺の悲しい歴史を知ると、なおいっそうお寺の界隈が悲しく見えてきて、当直する病院もなんとなく悲しげに見えたものです。
病院はその場所に古くからある個人病院でした。古びた建物は増改築を繰り返して複雑な構造をしていました。曲がりくねった狭い廊下を歩くといろいろな病室が並んでいます。どの病室も畳敷きで、患者はその畳の上に布団を敷いて寝ていました。酸素吸入を必要とする患者の枕元には酸素ボンベが無造作に転がっていて、私はカルテを入れたスーパーのかごをぶらさげながら回診をしました。入院患者は皆高齢者で、かつて花街の女郎さんだった人もいましたし、ヤクザだった人や在日朝鮮人も少なくありませんでした。多くは肝炎を患い、肝硬変となり、中には末期癌となっていた患者もいました。
私は回診をしながら「この人たちにはもうここしか居場所はないんだ」ということを思い知らされました。引き取ってくれる家族もなく、帰る故郷もない。皆うつろな目をして一日中天井を見ている。中には「先生、この病院から出してください」と私の腕を力なくつかんで涙をこぼす人もいました。まるで死ぬのを待っているかのような人たちを見ながら切ない気持ちを抑えて回診をしました。夜になると、病棟からはうめき声が。「苦しい、苦しい。誰か、誰かっ」。それも一人ではありません。消灯後の暗闇の中で助けを求める声がずっと続き、そのたびに私は病棟に呼ばれていました。
あるとき、外来にひとりの高齢のご婦人が急患で来院しました。「胸にできたおできが治らない」ということでしたが、診察室に入った私はすぐにその患者から悪臭が漂っていることに気付きました。その患者の衣服を脱がせ、胸に当てられているタオルをとって私は驚きました。左の乳房に大きなしこりがあり、その表面から血液の混じった浸出液がにじんでいたのです。悪臭はここからのものでした。明らかに末期の乳がんです。聞けば半年以上前からしこりには気が付いていた、と。しかし、そのご婦人は怖かったのか、あるいは貧しい生活に医療機関に受診する余裕がなかったのか、これまで放置していたといいます。
私は言葉を選びながら「これは病院で検査を受けなければなりません」と説明しました。すでに悪性のものであることを察しているのか、それほど驚く様子もありませんでした。でも、その表情からは病院に受診しないだろうことは容易に想像できました。乳房のしこりから滲み出し、悪臭を放っている浸出液をぬぐって、軽く消毒をしてガーゼを当てながら、きっとこの人はもはや死ぬ覚悟をしていると感じました。私は痛み止めと抗生物質を渡しながら、「(経済的な理由で病院に受診できないのであれば)区役所に相談すればいい方法を考えてくれるので、週明けには必ず区役所に連絡してください」と説明しました。
丁寧に礼を言って診察室から出ていくその人の後ろ姿を見ながら無力感を感じていました。普段努めている近代的な病院とはまるで違う医療がここにはある。医療はすべての人に平等だと言われているけど、現実は決して平等なんかじゃない。でも自分にはなにもできない。「社会の吹き溜まり」とも言うべき現実を突きつけられ、その無力感に押しつぶされそうだったのです。陽も満足にあたらない薄暗い病室の布団の上に横になり、ただじっと天井を見ているだけの患者たちを今でも思い出します。なにもできない無力感にうちのめされたあのときの自分と共に。医療の現実はあそこにもあったんだと改めて思います。