心に残る患者(2)

長いこと医者をしていると心に残る患者はたくさんいます。目を閉じれば、そうした人達が次々とまぶたに浮かんできます。とくに印象深い患者は研修医時代に出会った患者が多いです。研修医はまだ患者の立場と医療者の立場の両者にまたがっているようなものですから、医療の矛盾に反発を感じたり、医療の難しさに苦悩したりと、一人前の医者になる通過点としていろんな体験と直面するからでしょう。

私が研修した病院は靖国神社にも近く、お休みのときは神楽坂にお昼を食べに行ったり、神田の書店街を回ったり、生活環境としては申し分のない場所にありました。レジデントハウスと呼ばれる研修医の宿舎に住み込みながらの研修はとても忙しかったですが、指導を受ける先生たちは人間性に富み、尊敬できる先生方ばかりでした。病棟の看護婦さんも新人から中堅までバランスよくそろっていましたし、放射線科や臨床検査の技師さんや薬剤部の薬剤師さんにいたるまでが素晴らしい仲間であり、研修の2年間で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。

私はある指導医に「医者としてのスタンスはこの研修医のときに決まる」と言われたことがあります。今振り返るとほんとうにその通りだと思います。厳しい指導医の元で胃に穴があくようなときを過ごしたことも、朝早くから深夜遅くまでくたくたになりながら病棟業務をこなしたことも、素晴らしい病院で素敵な人たち囲まれて修練したことが今の自分に確かにつながっています。もし、もっと楽で、ゆるゆるな研修をしていたら、自分は今ごろもっといい加減な医者になっていたのではないかと思うほどです。

●医師としてのあり方を示してくれたM君
そんな研修医時代を終え、それなりに医者らしくなったころにであった患者のことを今回はお話ししたいと思います。当時、大学病院の呼吸器内科のスタッフとして働いていた私は、他院から「レントゲン写真上の肺炎の影が改善しない」と紹介されてきた高校1年生のM君を担当しました。M君はお父さん、お母さんご自慢の高校生でした。中学時代にスポーツで素晴らしい成績を収めていたばかりか、ある有名大学付属高校に合格した秀才でもありました。しかし、その高校に入学する前に肺炎症状が出現して他院に入院。合格した高校の入学式にも出られないまま入院生活を続けていたのでした。

もの静かな彼は口数は少なく、自分がおかれた境遇を愚痴ったり、不安をもらすことはありませんでした。一方のご両親は二人とも今の彼がおかれている状況を冷静に受け止めようとしていましたが、やはり転院するという事態に至ったことに多少動揺していました。M君は入院して間もなくいろいろな検査を受けました。中には気管支鏡検査という、多少苦痛をともなう検査にもじっと耐えていました。しかし、ほどなく彼が15歳にして肺がんという不治の病気に侵されており、しかも思った以上に進行している状態であることがわかりました。

ご両親にそうした事情を説明しなければならないのはとても辛いことでした。二人はM君が「治りのわるい肺炎」と思って転院してきたのです。しかもすでに手術できる状況ではなく、抗がん剤による治療もほとんど効果は期待できませんでした。ご両親の落胆ぶりはたいへんなものでした。若年者のがんは進行が早いことが多く、治療によって進行を抑えることすら難しいのです。私はそうしたことを淡々と説明しました。慰めの言葉など見つかるはずもありません。I君の前では気丈にふるまうお母さんや優しい笑顔で接するお父さんの姿がいたたまれませんでした。

その後、このまま何もしないで緩和療法とするか、それとも治療に反応することを期待して抗がん剤を投与するかご両親と相談しました。ただ、なにもしなくても早晩辛い状況になることが予想されるため、抗がん剤を使ってみることにご両親は希望をたくすことにしました。幸い、嘔気の副作用は短期間で済みましたが、彼の髪の毛はすべて抜け落ち、間もなく胸水が溜まる状況になってしましました。放射線治療を併用したりしましたが、進行はとめることも遅くすることもできない状況であり、もはや我々の心のなかは手詰まり感が支配するようになってきました。

彼は素直に治療を受け、検査を受けていました。自分の病気に疑問を持つこともなく、というより疑問をもっているそぶりを私たちに一切見せませんでした。私にはそのことがかえって不憫でなりませんでした。前医に入院して早4か月が過ぎようとしています。合格した学校に通うことはおろか、制服に腕を通すことすらできないでいます。少なくとも彼から不安や恐怖心を遠ざけるために自分に何ができるだろうかと考える毎日でした。そして、できるかぎり彼の病室に顔を出して声をかけるようにしていました。努めて明るく、淡々と。ときには当時上映されていた映画のビデオを貸してあげたり。しかし、それでも彼の孤独をいやすことにはなっていないことに私は気が付いていました。

楽観できない状況の中にあって、それでも胸水のコントロールがつくようになりました。それを機会に帰せるうちに自宅に帰してあげようと考えました。でも、医事課からは、たまに外泊するのはいいが、それなりの期間を自宅で過ごさせるためには一旦退院させなければならない、とのことでした。しかし、いつ彼の様態が悪化するかもわからないのに退院など考えられません。そこで、なんとか外泊ができるようにし、その間、往診に行かせてもらえないかと上司に頼んでみました。しかし、病棟の婦長らからは「そういうことはできない」とつれない返事が戻ってきたのでした。

それでも、私はあきらめることができませんでした。そこで私は彼に外泊として認められるぎりぎりの期間を自宅で過ごさせ、病院と上司に隠れて彼の自宅を往診することにしました(もう20年以上前の話しですから「時効」でお願いします)。私は夜勤明けの看護婦さんからボランティアを募り、お昼休みに彼女らとそっと病院を抜け出して彼の自宅に往診に行きました。今思えば、大変な職務違反ですし、ついてきてもらった夜勤明けの看護婦さんにも疲れているのにずいぶんと無理なお願いをしたもんだと思います。でも、若かった私はなんの躊躇もなくそんなことをやっていました。

自宅での彼の表情は、病院にいたときとは違いとてもにこやかでした。往診とはいっても聴診をして、血圧や経皮的酸素飽和度を測り、ちょっと雑談をかわす程度。でも、当時の私は、治療らしい治療をしてあげられない罪滅ぼしがちょっとだけできているように感じました。お母さんもなんとなくうれしそうにしており、往診に伺う私たちを心待ちにしてくれていました。そんな穏やかなM君とお母さんの様子を見ながら、看護婦さんを連れて病院を抜け出すことに後ろめたさはまったく感じていませんでした。

しかし、そんな穏やかな状況はそう長くは続きませんでした。外泊をなんどか繰り返すうちに彼の肺がんはさらに進行し、みるみるうちに彼は衰弱していきました。病室のベットで横たわっている彼は苦しそうに酸素マスクをつけています。あのときのにこやかな表情はもうありません。ご両親も心配そうに彼を見守っていましたが、私はその二人に「なんとかならないか」と言われるのがとても切なかった。なにもしてあげられなかったからです。苦しまないようにするには鎮静剤なり麻薬なりを投与しなければならず、そうすると呼吸も弱くなってしまうかもしれない。私は、彼の残り少ない命に決定的なくさびを打ち込んでしまうことを恐れたのです。

苦しみに顔をしかめて耐えている彼を見るのが私は辛かった。その彼の手を握り、涙をこらえているご両親を見るのも辛かった。いよいよ臨終が近づき、彼の呼吸が弱くなってくると、ご両親は必死に彼の体をさすりました。「もっと息を吸って。ほら、もう一回、がんばって」。そう呼びかけるお母さんを、なにもできずに私は後ろから見つめていました。そして、いたたまれなくなった私は心のなかでつぶやきました。「もう君はずいぶん頑張ったんだから、もう頑張らなくていいんだ」「神さま、どうかこの子を安らかに天にお召しください」と。彼はほどなくして天国に旅立っていきました。

病院から自宅に帰る彼の亡骸には、一度も腕を通すことのなかった学生服がかけられていました。私は穏やかな表情に戻った彼に手を合わせながら不覚にも泣いてしまいました。彼のお母さんや病棟の看護婦さんを前にしながら私は涙をこらえることができなかったのです。その涙は、自宅で穏やかに過ごしていた彼のことを思いだして流した涙であり、また、なにもしてあげられなかったことへの悔しさの涙でもありました。のちに、お母さんからは「先生から息子の病気の告知を受けた時、本当は淡々としたその様子に『先生は冷たい人だ』って思ったんです。でも、今はそれでよかったんだと思います。あのとき同情されていたら、自分の気持ちを今まで支え切れなかったでしょうから」と言われました。この言葉が今も忘れることができません。

私は、荒井由実の「ひこうき雲」という歌を聴くといつもM君のことを思いだします。そして、涙がこみあげてきます。この歌の歌詞のように、あまりにも短すぎる命でしたが、白い坂道を登って天国に召されたいったM君が天上界ではいつも安らかであることを思いながらこの歌を聴きます。彼を見送ったご両親はさぞかしお辛かったことでしょう。でも、彼はきっとご両親になにかを残していったと思います。私にも残していってくれたのと同じように。

※「心に残る患者(3)」もお読みください。

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