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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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脳震盪は外傷

(この原稿にスパムメールが送られてきたため、元原稿を削除し1月26日に再掲しました。)

昨日のフィギュアスケートでの羽生選手の演技が話題になっています。事前の練習中に中国の選手と激しくぶつかって転倒。七針を縫う傷を顎に、額も三針縫う怪我を負い、一時氷上で意識を失ったかのような状態になったようです。それにも関わらず、羽生選手は気丈に演技を強行して見事銀メダル。「感動した」「すごい精神力」など、羽生選手の健闘を讃える報道が繰り返されていました。しかし、この感動に水を差すようですが、今回の羽生選手に演技を強行させた判断に私は賛成できませんし、彼の健闘も素直に讃えられません。

中国の選手とぶつかったときの様子はTVで見ましたが、あのときの衝撃は決して軽くはなかったようです。そのことはあの顎と額の傷を見ても、あるいは演技のあとの様子からも容易に想像がつきます。氷上に倒れた彼はしばらく起き上がれませんでしたが、それ自体は脳震盪が疑われます所見です。「のうしんとう」という言葉はよく耳にする言葉ですが、「脳震盪」は実は「外傷」です。しかも、「死にいたる可能性のある外傷」なのです。ただ単に頭を打ったということではなく、のちに脳に少なからず深刻なダメージをおよぼす可能性がある外傷、それが「脳震盪」です。

脳震盪というとすぐに「意識消失」をイメージしますが、頭部を強く打って意識が消失したかどうかは脳震盪の診断に関係ありません。「脳震盪」の代表的な症状としては頭痛やめまい、ふらつき、記憶障害などがありますが、受傷直後には症状に乏しい場合があります。とりあえずは大ごとにならぬように配慮し、その診断がついたときにすでに手遅れにならないようするのが脳震盪のマネジメントの肝なのです。しかし、一般の人(ひょっとするとスポーツの指導者でさえ)のなかには、この脳震盪を甘く見ている人が少なくないようです。

脳震盪のとき、あるいは脳震盪を疑うとき、まずやらねばならないことはなんでしょうか。それは、「少なくとも24時間は絶対安静にして経過観察をする」ということです。受傷直後に検査をして異常がなくても、あるいは受傷直後に症状がはっきりしなくても大事をとって安静にする。命にかかわる状態に至ることがある脳震盪ならではの対応です。脳震盪をしばしば経験するラグビーにおいては、脳震盪の疑いのある日にプレーを再開することは禁止していますし、子供や青年に起こった脳震盪疑い例では24時間以上の安静を推奨しているくらいです。

フィギュアスケートは私もよく見ますが、頭部や首に強い衝撃を受けるスポーツです。決して負担の軽いスポーツではありません。その競技に受傷直後の羽生選手がああして出場することは絶対にあってはならないと思います。演技をし終わったとき、彼がフラフラになっていた様子を見てもそれは明らかです。周囲の人たちは欠場を勧めたが本人の意志が固かったとも報道されています。しかし、このようなことは本人の意志とは関係ありません。協会の名のもとに出場を禁止すべきだったのです。それができなかったのは、ひとえに脳震盪が外傷であり、恐ろしい結果を招く可能性があることを知らなかったからです。

なるほど出場を強行した羽生選手は立派だったかもしれない。しかし、羽生選手自身や彼の周囲の人たちにもう少し脳震盪に対する知識があって、脳震盪の恐ろしさを冷静に説明できる人がいたら彼も素直に欠場したかもしれない。そのとき、それを助言するひとが会場にはひとりもいなかったのが羽生選手には不運だったのです。転倒後に歩いてリンク外に移動するなどという対応が行われていましたし。それを思うと、マスコミにはあえてこの演技に疑問を呈し、脳震盪の恐ろしさを知らせてほしかった。今回の羽生選手の演技強行を美談で終わらせてはいけません。

いつもマスコミ批判をしてしまいますが、一般の国民がマスコミに情報をゆだねている以上、その情報が間違っていれば誰かが正さなければいけない。そんな思いでいつもブログを書いていますので当ブログを読んで不愉快になったとしたらお許しください。

考察「STAP事件」

STAP細胞なる言葉が世の中を駆け巡ったのはほんの11か月前。それが今やすべてが否定され、「すわノーベル賞候補か?」とまで言われた現象がこの世の中から消え去ろうとしています。STAP細胞とはいったいなんだったのでしょうか。なぜあれだけ注目を浴びなら、こんなにもあっさりと否定される結果になったのでしょうか。

実は、「STAP細胞」という言葉、あるいは現象を私は知りませんでした。そのせいか、マスコミが連日大騒ぎする中で私自身はいつものように「STAP細胞」とは違った側面を強調する報道ぶりに辟易していました。割烹着がどうの、理系女子がどうの、はたまた冷蔵庫の扉に描かれたムーミンの絵までもが紹介され、肝心のSTAP細胞がどのようなもので、この細胞の出現がいったいどんな意味を持つのかがわからないまま、シニカルに見ていたといってもいいでしょう。

STAP細胞には山中先生のiPS細胞とは違った感覚を私は感じていました。iPS細胞なる研究成果が出てきたとき、同年代の山中先生の業績を誇らしく思いました。そして、これから再生医療が現実のものとして人類に貢献できる時代がやってくることに興奮したものです。しかし、STAP細胞にはこうした感動がありませんでした。むしろ、「iPS細胞よりもさらに進化した細胞」と称され、あたかも「時代はSTAP細胞」といわんばかりのフィーバーぶりに少し反感を持ちました。

山中先生と笹井先生の確執をでっちあげるマスコミもありました。ノーベル賞を受賞して京都大学の教授になった山中先生は神戸大学出身です。そのことを京都大学出身の笹井先生が嫉妬し、このSTAP細胞で反転攻勢にでた、と書き立てる週刊誌もありました。そんな中でも山中先生は「これから再生医療のために、協力できるところは協力してやっていきたい」と冷静にお話ししておられ、決してマスコミの論調に流されない姿に「さすがだなぁ」と思ったものです。

時の寵児ともてはやされた者のその後は悲惨なことが多いのですが、STAP細胞もその例にもれませんでした。次々と問題点が指摘され、論文掲載を取り下げ、検証実験でそのすべてが否定されてしまいました。しかも、単に誤りだったわけではなく、どうやらねつ造だったとまで言われようとしています。どうしてこんなことが起こったのでしょう。うっかりミスならまだしも、ねつ造などしてもいつかばれるはずなのに。誰が考えても、故意にねつ造するなんてことあり得ない話しです。

私個人としては、今回のSTAP細胞の事件(あえて「事件」と呼びますが)の原因は教育にあるのではないかと思っています。小保方さんが受けてきた教育、とくに研究者を養成する大学院研究の貧困さにその原因があると思うのです。特定の大学・大学院の教育がどうこう言っているのではありません。どの教育機関にも「教育機関としての自覚」が欠如していると思うのです。

かつて「もう大学生なんだから、教わるのではなく、自ら学んでほしい」とある恩師にいわれたことがあります。しかし、そうした学生としての自覚も大切ですが、一方において大学・大学院の教員にも教育者としての自覚が必要だと思います。学生が「優れた研究者の背中を見て育つ」ということは理想ですが、そこには教育的配慮というものもまた必要です。一部の優れた研究者を除いて、研究者である前に優れた教育者であるべきなのです。

私も大学院を修了しました。しかし、大学院でまともな教育を受けた記憶がありません。研究の基本から研究費の獲得、調査・分析、論文作成、そして学会発表とすべて自分で学び、身に付けてきました。まさに試行錯誤でした。それは私の指導教官に指導する能力も意欲もなかったからですが、手さぐりで研究を進めていく中で感じたのは、研究者としての姿勢は優れたアカデミックの中でしか育たないということです。質の高いアカデミックには厳しさがあります。その厳しさによってしか育たないものがあるのです。

その意味で、小保方さんはそうした環境に恵まれなかったのだと思います。優れた教育者・研究者に巡り合わなかったために自己流で、甘っちょろい研究者もどきになってしまったのだと思います。研究者として欠くべからざる「データを客観視する目」「真実を追求する厳しさ」が彼女の中では「データを都合よく解釈する甘え」と「目の前にあるものを真実と思い込む甘さ」になっていた。これはきちんとした教育を受けていなかったからです。

今回のSTAP細胞の問題は小保方さんが故意ででっちあげたのではなく、彼女の都合のよさと思い込みが作り出した虚像だったのではないかと思います。彼女は知らないうちにES細胞で実験をしていたにも関わらず、本当にSTAP現象を見ていると思い込んでいたのではないでしょうか。ですから、彼女の中では本当に「STAP細胞はあります」と思っている(いた)んだと思います。

教育は大切です。しかし、ともすると「詰め込み」が否定され「問題解決能力」が重視される世の中になっています。また、一発勝負のペーパー試験が否定され、多角的に評価するAO入試が広まってもいます。しかし、その弊害も最近明らかになってきています。これらのどっちが正しいのではなく、どちらも大切だということに気が付くべきです。多角的に評価することも大切ですが、一発勝負のペーパー試験の厳しさも一方においては必要なのです。

今の小学校六年生が大学を受験するときから大学入試制度がかわります。でも、教育問題の根幹は入試制度にあるのではなく、教育の内容にあることを偉い先生たちには気づいてほしいものです。どうせ無理でしょうけど。

「処方」の根拠

医者が薬を処方するときに一番重要なのは「その処方内容に科学的な効果が確かめられていること」だと思います。つまり、「効果があるのかないのかわからない処方」はダメだ、ということです。そんなことを言うと、「効果がない処方なんてしているのだろうか」と疑問に思われる方がいるかもしれません。しかし、少なからず、「効果があるのかどうかわからない処方」をしているケースはあります。

医者が薬を選ぶときは当然のことながら「この薬が効くだろう(あるいは効くかもしれない)」と思って処方します。それは薬の添付文書を読んだり、製薬会社のMR(営業担当)からの説明を聞いたり、あるいは病気のガイドラインを読んでそう思うわけですが、実は自分の経験に基づいて処方するケースも少なくありません。実際に薬を出しているうちに、「この薬はあまり効かないなぁ」と感じたり、「実はこの薬はよく効く」と思ったりして処方することも結構あるのです。

「結構ある」なんて言い方をしましたが、もしかするとほとんどの処方は経験に影響を受けているといえるかもしれません。他の先生たちが好んで使っている薬があまりいいとは思えなかったり、なんでこんなにいい薬なのに他の先生は使わないんだろうと思ったりすることってしばしばあります。副作用と思われる症状の出る人が多かった薬(もちろん他剤に変更してその症状はなくなりました)が実はシェア・ナンバーワンで、「どうしてあんな薬をみんなは使うんだろう」と思っていたら案の定その薬はある事件で社会的制裁を加えられることになったりしたこともありました。

もちろん、その薬に有効性がなければいけないということは当然ですが、どの薬を選ぶかということになるとそうした医者個人の経験が影響するのです。それを悪いことだと思いません。自分の経験を帰納法的な確信にしていく作業は医者にとっては重要な所作のひとつだと思います。しかし、今はEBM(根拠に基づいた医療)というものが重視され、こうした経験がともすると無視されがちです。「(経験に頼っていた)昔の医者はめちゃくちゃやってたからなぁ」とうそぶく若手の医者もいるくらいです。

しかし、それは本当でしょうか。経験に基づくことはそんなに「めちゃくちゃなこと」でしょうか。逆にいえば、EBMにのっとっていればそれは「科学的なこと」なんでしょうか。でも考えてみてください。そのEBMの根拠になっている学術論文の信頼性に問題があったらどうでしょう。あるときはEBMによって「定説」となっていることが、その根拠を覆す事実が見つかってその定説が書き換えられたら。要するに根拠といっても絶対ではない、というか、その根拠もまた事実によって根拠を失うことがあるということです。

経験がすべてだといっているわけではありません。医者はひとりひとりがまったく違った経験をしています。その経験のとらえ方、影響の受け方もまたさまざまです。思い込みもあるでしょうし、間違った解釈をしている場合もあります。ですから、いろいろな経験を経て、その医者個人がいかに合理的な演繹を積み重ねていけるかにかかっているのです。(薬を)出してみる。効果を確認し、なにか副作用がでていないかを確かめる。EBMにとらわれず、だからといって経験だけに頼らずに処方する。なんだか禅問答のようになってしまいましたが、そうした態度が我々には必要だと思います。

そんな私が「風邪」についていつも患者に説明していることをいくつか列挙してみます。
1.かぜ薬は「風邪を治す薬」ではなく、症状を隠してしまう薬
2.かぜ薬は「早めに飲む薬」ではない。早めに服用するなら漢方薬を
3.かぜ薬のような「症状をおさえるだけ」の薬は、症状が治まったら中断してもいい
4.とくに熱を下げる薬(痛み止めも同じ薬)は一日三回定期的に服用せずに必ず頓服で
5.むやみに熱をさげると風邪は治りにくくなり、重症化しても見つけにくくなる

これらはそれなりに根拠があきらかになっていますが、私の経験に基づくものでもありますので、皆さんの主治医の処方の仕方とは違うかもしれません。そのときはあしからず。

高倉 健、永遠なれ

11月10日に日本映画界を代表する俳優「高倉 健」が亡くなりました。

このニュースを耳にしたとき、なんだか不思議な感覚になりました。なくしてしまって初めてそれが自分にとっていかに大切なものだったかに気が付いたような喪失感、とでもいいましょうか。ああ、これで二度と健さんには会えないんだなぁと思うとなんだか体中の力が抜けてくるような感覚でもある。これが「心にぽっかりと穴があいた感じ」というものなのかもしれません。

健さんは以前から大好きな俳優さんのひとりでした。「高倉 健」が任侠映画で一世を風靡していたころ、私は小学生でした。世の中は学生運動で騒がしくなり始めたころです。私は少し変わった小学生で、子供向けの番組よりも大人の見るテレビ番組を見るのが好きでした。「ひょっこりひょうたん島」よりも「木下恵介アワー(この中でも竹脇無我と栗原小巻が主演した「三人家族」がとくに好きでした)」や「国盗り物語」を夢中で見ているような子供でした。

当時住んでいたオンボロアパートにはお風呂がなかったので父親に連れられて銭湯に通っていたのですが、その銭湯の壁にはいつも「総天然色」のポスターが貼ってありました。「ゴジラシリーズ」や東映のまんが映画などのポスターの中にあったのが任侠ものの映画のポスターでした。そのポスターで健さんは背中に唐獅子牡丹を彫り、さらしを胴に巻いてドスを握って立っている。私は当時、この健さんのポスターを見ながら、子供ながらに「こんなかっこいい大人になりたいなぁ」と思ったものです。

そんな影響からか、好きな俳優といえば「高倉 健」と「鶴田浩二」でした。このふたりはよく同じ任侠映画に出演することが多いのですが、中でも「昭和残侠伝 吼えよ唐獅子」は今でも印象にのこる映画のひとつです。これまで自分を陰で支えてくれた三州の親分(鶴田)を手にかけなければならない渡世人・花田秀次郎(健さん)。自分を切りに来た秀次郎に親分は言います。「勝負は時の運。切るも因果、切られるも因果。どちらが倒れても、この場限りにしておくんなさい」。ところが、秀次郎は卑怯な方法で親分にとどめを刺そうとする仲間に怒りをあらわにします。はからずも切るはずだった親分の命を助けた彼は駆け寄ります。そんな秀次郎を見た親分のひと言。「一宿一飯の義理であっしを切りに来なすったおめぇさんが・・・。因果な渡世だな」と。そして、秀次郎は返します。「運否天賦、出たとこ勝負。そのお心遣いは無用に願います」。しびれるセリフです。

その後、健さんは任侠映画から路線を変え、いろいろな映画に挑戦します。しかし、どの役を演じるときにも、人間の心の機微を表現するときは任侠映画のときの健さんです。ストイックなまでに自分を追い込み、情に厚く、しかし情に流されず。それは実生活でも同じだったといいます。あくまでも自分のスタイルを貫くその姿はまさしくあのときの花田秀次郎のままです。そんな俳優「高倉 健」が私は大好きでした。

思えば、昭和62年に鶴田浩二が亡くなったときも同じような喪失感を感じていました。鶴田浩二主演のNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズに出てきた吉岡司令補も、同じくNHKドラマ「シャツの店(このドラマも大好きです)」の磯島周吉も、健さんが演じた花田秀次郎のように世の中に迎合せずに自分を貫く役柄。その主役たちが鶴田浩二のはまり役だっただけに、彼が63歳で逝去したときも結構ショックでした。

しかし、今回、とうとう健さんも亡くなってしまい、ついに憧れの対象がいなくなってしまったようでとても淋しい。その寂しさは同時に、自分の憧れの対象が実は確実に年をとっていて、その分、自分自身も年齢を重ねていることを思い知らされたものでもあります。

健さんに関するいろいろな動画を見ながら、彼の偉大さ、存在感の大きさをあらためて感じます。そして、そんな彼を失った悲しみに自然と涙が込み上げてきます。健さんは生前、「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉が好きだったようです。その言葉通りに生きた健さんに一歩でも近づけるよう頑張ろうという思いが心に芽生えてくる。そう思うと、健さんは多くの日本人に大切なものを残していってくれたのかもしれません。

ありがとう、健さん。どうぞ安らかにおやすみ下さい。      合掌

※「健さんに想いは届いたか?」もご覧ください。

エボラが来たら

エボラ出血熱の感染者と死者が増え続け、世界各地にも広がりつつあります。日本にその感染者が現れるのも時間の問題だと思います。私が懸念するのは、感染者が現れたときの国民の動揺です。エボラ出血熱患者が発生すればマスコミはその恐ろしさを繰り返し報道し、国民はその偏った情報に煽られ過剰に反応するという事態になるでしょう。間違いなく。でも、考えてみてください。あのデング熱はどうだったでしょう。放射能の場合はどうだったでしょう。マスコミが煽ったようになったでしょうか。人間は学ばなければなりません。人の恐怖心を煽るだけの偏った情報に振り回されるのではなく、正しく中立的な情報を求め、理性的な行動をとることがいかに重要かはこれまで何度も経験してきたはずです。そのためにも、もしもの時にどう行動すればいいのかを今から考えておかなければいけません。

エボラ出血熱患者を救うために西アフリカに渡り、感染・発症したにもかかわらず、幸いにも一命をとりとめたイギリス人男性看護師が「私は西アフリカに戻る」と発表したことが報じられていました。エボラ出血熱から生還したからと言って絶対に再感染がないとはいえないにもかかわらず、です。この病気の恐ろしさは彼が一番知っているはずです。しかし、彼は再び西アフリカに戻る理由を、「今、患者たちを救うために奮闘している人たちよりも感染しにくいことだけは間違いないから」と述べています。一方で、日本の製薬メーカーが開発した抗ウィルス薬がエボラウィルスの増殖を抑制するのに有効らしいと、国際的な治験が開始されるとともに、メーカーではその薬の生産を急ピッチで増やしています。

翻って我々には何ができるでしょう。医師である私自身も西アフリカに行き、患者を治療し、感染の拡大を防ぐために活動するなんてことは現実的にできません。私がまだ独身で、英語に堪能であれば、もしかして志願したかもしれませんが、そんな条件を言っている時点でもはや「腰抜け医者」のひとりです。先のイギリス人看護師の足元にもおよびません。ましてや医学的知識や経験のない一般国民にできることといえば、エボラ出血熱に感染しない、あるいは感染を拡大させないためにすべきことを確実に実行していくこと、さらには、不安にかられて理性を失わないこと、なにより他人を自分の不安に巻き込まないこと、デマを流さないことです。

そこで、現在、知られているエボラ出血熱に関する情報をまとめておきます。これらをもとに、近い将来、日本にエボラ出血熱患者が発生しても過剰な反応をしないようにしていただきたいと思います。

初期症状でエボラ出血熱かどうかを区別することはまず不可能です。なぜなら、初期症状はインフルエンザあるいはウィルス性胃腸炎とほとんど変わらないからです。

【初期症状】
(1)高熱(38℃以上が一般的):出現率92%、(2)下痢・嘔吐:68%、(3)頭痛・筋肉痛:47%
(4)食欲不振:39%

その他、原因不明の出血(鼻:11%、膣:11%、歯肉:8%)がありますが、ここまでくれば誰でも怪しいと思うでしょうが、医療機関にすぐに受診できる日本においてはまずは上記の【初期症状】で鑑別しなければならないので、症状は目安にできません。とすれば何が重要か。それはひとえに感染してもおかしくない場所に行ったことがあるか。あるいはそれらの地域にいたことのある人と接触していないかどうか、という情報でしょう。エボラ出血熱の潜伏期間は平均7~10日です(最長でも3週間)。ですから、さかのぼること「約1か月以内に流行地域に滞在したか、患者に接触したか」という情報が重要ということになります。

【疑うべき情報】
①先の【初期症状】があり
②一か月以内にエボラウィルスに感染しても不思議ではないところ(※)に行ったことがある

(※)現時点で流行している地域・・・ギニア、シェラレオネ、リベリア
注意すべき地域・・・上記のほか、ウガンダ、スーダン、ガボン、コートジボアール、コンゴ

これらの情報がはっきりしている人は絶対に一般の医療機関に行ってはいけません。おそらく、一般医療機関に受診してこれらのことを伝えれば、まず間違いなく診療を拒否されます(これは正当な診療拒否にあたるか否かはわかりませんが、他の患者への感染の可能性を考慮すれば当然の対応と考えます)。その場合はかかりつけの医療機関に電話をして相談するか、各地域の保健所に連絡して相談してください。その間、患者は自宅で隔離する必要があります。もちろん家族との接触もいけません。ちなみに、エボラ出血熱は、先の【初期症状】の出ない潜伏期間では感染力がありません。ですから、感染が疑わしい場合でも、無症状のときは、念のため、保健所に相談しておけばいいでしょう。

エボラ出血熱は現時点で接触感染ということになっています。主に患者の吐物や便、血液を介して感染します。コンゴで発生したエボラ出血熱は、死亡したサルを食べようと解体した際に感染した人が発端者(妊婦)だということがわかっています。そして、この地域の風習で、死亡した発端者を何人かの人が帝王切開して胎児を取り出そうとしたことから、一気に感染がひろまったといわれています。エボラ出血熱を発症した人の体液に触れなければ感染することはないとされていますが、体液は血液にかぎりません。つばや痰、鼻水、母乳、精液なども体液に含まれます。それから、エボラウィルスはアルコール消毒や石鹸による洗い流しが容易だとされています。マスクもN95マスクではなく、一般のサージカルマスクで十分だといわれています。

【疑いがある場合の対応】
自宅内に隔離し、地域の保健所またはかかりつけ医に電話で相談する(無症状の場合も同様)

以上、エボラ出血熱のことをまとめてみましたが、まだ日本に患者が出現していない以上、今から先走って心配する必要はありません。しかし、日本でその患者が見つかるのも時間の問題です。今回の流行で運よく患者が発生しなくても、次の流行で発生するかもしれません。現在、流行地域で文字通り命がけで活動している人たちがいることはもちろん、日本で患者が発生した場合も同じように懸命な治療をしてくれる人たちがいることに思いをはせながら、我々一般国民はせめて冷静に事態を受け止める努力をしなければなりません。「正しく怖がる」ことが大切です。デマや偏った情報に煽られない、流さない。そして、自分の不安に他人を巻き込まないことが重要だということを今から肝に銘じていただければと思います。