AIと医療のはざまで

以下の文は、医師会雑誌に投稿したものです。AIなどをはじめとするコンピューター・サイエンスの発達は、これからの社会を大きく変えていくことでしょう。それらの変化が、人類の生活の質の向上に寄与するものになるのか、それとも人類社会に危機をもたらすものなのかはわかりません。しかし、すべては我々人類の英知と倫理観にかかっています。

************************** 以下、本文

私が大学に入学したころ、いわゆるデスクトップ型PCと呼ばれる汎用パソコンが世の中に広まり始めました。当時はまだ「パソコン」、すなわち、パーソナルコンピューター(PC)という言葉すら広く認知されていなかった時代でした。今でこそアップル社製のコンピューターが人気ですが、当時はそれほど注目されておらず、むしろ、タンディ・ラジオ・シャック社製のTRS-80というマイクロコンピューターが知られていました。

CPUもまだ8ビットが主流であり、ザイログ社のZ80を搭載しているPCが多い時代でした。「16ビットのCPUが出た」という話を聴いて「すげぇ」と言っていたころでもあります。ちなみに現在のCPUは64ビット単位でデータ処理をしていますし、クロック周波数もギガ単位です。Z80のそれはメガ単位で、今の1000分の1だったことを考えると隔世の感があります。

 

コンピューター自身も、これまでのノイマン型と呼ばれるデータを逐次処理するタイプから、同時に複数のデータ処理をおこなう量子コンピューターへと革新的な変化を遂げています。そして、コンピューターが活用される場面も大きく変化しています。単なるデータ処理や複雑な計算だけではなく、さまざまな機器の操作や制御などにも活用されており、現代社会には不可欠なものになっています。

AI(artificial intelligence)技術の進歩は世界を大きく変えようとしています。大学生のころに話題となっていたPrologという論理プログラミング言語は、今の人工知能のはしりともいえるものかも知れません。Prologは、事象や事物との関連性を理解し、推論するためのコンピューター言語です。我々が話している言葉の解析、あるいは人間の認知・認識を質的に分析するツールとして利用されてきた人工知能の基盤ともいえるものです。

 

こうしたコンピューター技術の進化は、これからの人々の生活を確実に変えていくでしょう。たくさんの知識をもとに判断していくという作業がまさに劇的な変化をとげるのです。法律の知識を駆使して法的な解釈をする弁護士の仕事、原稿を読み上げるだけにとどまらず、人との会話を通じてものごとを伝えるアナウンサーや解説者の仕事。そして、私たちの医療の領域においても決して例外ではありません。

 医師としての仕事の多くも、医学的知識を通じて病歴や症状、検査結果から疾患を診断し、治療方法を選択する作業です。現在の診療は医師の裁量権が大きいため、医師個人の力量によって診断の精度、治療効果が大きくかわってきます。しかし、AIを中心とするコンピューターサイエンスの発達によって、診断・治療の標準化・最適化をはかることが可能です。これは科学技術の発達にともなう大きな福音だともいえるでしょう。

 

AIによって医療の風景はずいぶんとちがったものになるはずです。病理診断や画像診断、あるいは皮膚科診療などはある種のパターン認識に支えられているため、AIにとって変わられる可能性の高い分野です。さらにいえば、内科診療全般もそうなるかもしれません。そして、医師でなくとも多少の医学的知識さえあればコメディカルの人たちでも代行できるようになる。その結果、医師の数を削減して、医療費の抑制にも寄与するでしょう。

また、AI診療によって疾患の管理がおこなわれるようになるかもしれません。スマートウォッチで定期的に測られた血圧の値、自己血糖測定機器からの血糖値はクラウドデータベースに送られます。また、自分の都合のいいときに、都合のいい病院で採血をしたデータもクラウドデータベースに送られて医療機関に共有されるのです。そして、それらのデータがAIによって解析され、投与薬が処方され、適宜病院を受診するよう指示されます。

 

在宅医療も大きく変わるでしょう。タブレットをもった保健師が各患者宅をまわり、訪問時のバイタルと患者の状態をAIに送ります。すると、経過観察でいいのか、それとも病院への受診を勧めるべきなのかの指示が送られてくる。訪問する保健師も忙しい医師の指示を待つまでもなく、AIからの指示が逐次送られてくるので安心です。患者を病院に受診させる際も、これまでのバイタルと状態像をデータとしてすみやかに紹介病院に送れるのです。

病院への受診スタイルも変わります。初診で訪れた病院では、まず、電話ボックスのような初診ブースに入ってモニター画面の前に座ります。そして、マイクに向かって自分の症状を語り、AIが問いかけてくるいくつかの質問に答えると「受診すべき診療科」が指示される。一方、該当する診療科の初診医のモニターには、その患者の訴えと鑑別疾患が提示されます。初診医は簡単な診察と確認を行なって暫定的な診断を下すと、AIは必要な検査や投与薬を外来医に提示するのです。

 

こうした風景が現実のものとなるのでしょうか。あるいは弁護士や医師といったいくつかの専門職がなくなってしまうのでしょうか。判断の中立化・標準化・精緻化といった作業はAIの得意とするところであり、人間が介在することが当たり前だった作業がAIに置き換わることの影響ははかりしれません。とくに医療の現場を陰で支えてきた医師・患者関係は大きくさまがわりすることでしょう。

科学技術のめざましい進歩・発展とともに、人と人とのつながりが希薄なものになっていく可能性は否定できません。世の中がより効率的になり、精確で緻密なものになることの意義は大きいとはいえ、非効率で不正確でおおざっぱな部分、すなわち、ある種、人間的な温かみを感じる側面がなくなっていくのです。それはまるで、標準化・均一化の代償として社会を「誰がやっても同じ」という無味乾燥なものにしてしまうように思えてなりません。アナログがデジタルに飲み込まれようとしている現代社会にとまどう今日この頃です。

歴史の転換点(6)

まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。

明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。

この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。

************** NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)

1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。

松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。

アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。

1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。

ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。

さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。

長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。

松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。

それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。

しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。

条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。

処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。

令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。

********************** 以下、挨拶内容要旨

父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。

「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。

主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。

********************** 以上

私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、期待していることは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。

「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」

松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。

「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」

安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで104代の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の多くの人に知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。

今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。

有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。

我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)

ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。

このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。

※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、
なにか因縁めいた
ものを感じます。

烏合の衆になるな(2)

今、にわかにインフルエンザが感染を拡大していると報道されています。事実、松戸保健所からの定期連絡でも、管内のインフルエンザ患者は増加しているようです。外国人観光客がウィルスを持ち込んだための早期流行だとする識者もいます。しかし、最近のインフルエンザは、COVID-19(新型コロナ)と同じように季節を問わずに患者が発生しています。しかも、それらのウィルスに感染した患者は、倦怠感や頭痛、関節痛といった随伴症状が多少強めにでますが、重症化するケースはほとんどないのが特徴です。

ですから、「インフルエンザ流行中」とマスコミが騒ごうとも、あわててワクチンを接種したり、風邪症状があるからといってすぐに医療機関に駆け込む必要などありません。そもそもインフルエンザであれ、COVID-19であれ、「治す薬」というものがないのです。留意すべきことは、あくまでも「重症化しないこと」。そして、「重症化のサインを見逃さないこと」。この二点に注意しながら、感染患者からうつされないようにし、万が一感染しても他者にうつさないような配慮を忘れないこと。このことに尽きます。

「重症化しないこと」と「重症化のサインを見逃さないこと」には密接な関係があるので、これらのことをまとめてお話ししたいと思います。まず、大切なことは、感染しないよう・感染させないようにすることです。そのための基本は、「マスク・手洗い・解熱しないこと」です。「マスク・手洗い」は容易に理解できるだろうと思います(とはいえ、最近の新型コロナ感染の状況から、「マスク・手洗いは無意味だった」と考える軽率な人がいますが、それは間違いです)。問題は「解熱しないこと」です。

解熱しないこと」については、当院に通院する患者さんにはだいぶ理解してもらっています。しかし、多くの人はいまだに「熱がでたら解熱剤でさげる」のが当たり前だと考えています。当たり前というよりも、「高熱=重症=死」と思って解熱剤を飲まずにいられない人が少なからずいるのです。「風邪薬(解熱剤)を飲まないでください」と説明すると、「風邪薬を飲めば2、3日で良くなる」と言う人もいます。でも、そうしたケースは、風邪薬を飲まなくても「2、3日でよくなっている」のです。

解熱剤や風邪薬を服用して熱がさがった人たちはどう行動するでしょうか。熱がさがったからと、会社や学校に行っている人たちが必ずいます。「そもそも休めないから解熱しているんじゃないか」とおっしゃる方もいるかもしれません。「熱ぐらいで休むな」と上司や教師から厳命されている人だっているかもしれません。あるいは「検査でインフルエンザやコロナの抗体が陰性だったのだから」とタカをくくって出勤・登校する人も。でも、熱が出てからしばらくの間は他の人に移しやすいことを忘れてはいけません。

熱が出たら、原則的に会社・学校を休んでください。そして、熱があっても安易に下げない。もし、解熱剤なしでも24時間は様子を見て、体温が再上昇する気配がなければマスクをして出勤・登校する。なにより他の人に感染を広めないためです。くれぐれも風邪薬を飲みながら職場に行く、学校に行かせる、といったことがないように。「あなたのため」というよりも「他者への配慮」だからです。検査など必須ではありません。ましてや「インフルエンザのタイプは?」なんてことを調べるのはまったく無意味です。

「重症化しないようにする」ためには、まずワクチンを接種することが大切です。そして、感染してしまったら、自宅で安静にしながら充分な休養をとる。そして、重症化のサインを見逃さなければいいだけです。ワクチンについては、「COVID-19のワクチンを接種しても、あれだけたくさんの死者や重症者を出したのだから無意味」と言う人たちがいます。でも、それは間違った考え方です。感染した人があれだけいれば、死者や重症者だってそれだけの数になるはず。分母と分子の数を考慮して判断すべきです。

「ワクチン接種によって重い副反応を起こしたケースがあんなに多かったじゃないか」ということについても同じです。新型コロナワクチンは当初から「数十万人にひとりの割合で重篤な副反応が出る可能性がある」といわれていました。そして、それは今、おおむね正しかったことがわかっています。重い後遺症を背負うことになった気の毒なケースについても、ワクチンを接種したときに起こることがある「ADEM(急性散在性脊髄炎)」とよばれる副反応であって、新型コロナワクチンに特有な薬害ではありません。

「ワクチンは接種した方がいいですか」と質問されることがあります。そんな時、私は次のように答えています。「どんなワクチンにも副反応がおこることがあります。その副反応が重い場合もあるため、安全性が担保されたワクチンであれば積極的に接種してください。とくに、命に関わるような疾患であり、かかっても治療薬がない場合はワクチン接種は必要です」と。したがって、インフルエンザワクチンについては、そのワクチンの安全性はある程度確認されており、積極的に接種することをお勧めしています。

その一方で、新型コロナウィルスワクチンについては、mRNAワクチンそのものが新しいワクチンであり、長期的な安全性にはまだ疑念が残るという意見があります。しかし、新型コロナが流行しはじめたときのように、多くの人が重症になったり、亡くなったりしている状況においては積極的に接種すべきです。でも、重症患者がほとんどいなくなった今、あえて接種をしなければならないとは思いません。長期的なリスクをうわまわるほどのメリットを感じないからです。こうした考えはあくまでも私個人のものなのです。

インフルエンザに限らず、感染症が重症化するのは気温の低い冬季だとされています。それは乾燥していてウィルスがなかなか死滅しにくいということ。また、空気の乾燥が人間の鼻やノドの粘膜における感染防御機構を弱らせてしまうといわれています。さらには、日照時間が短くなることによって人間の免疫力そのものが低下することも指摘されています。したがって、インフルエンザに限らず、感染症に対するワクチンの接種は、来年の1,2月にワクチンの効力がピークとなる11月頃がいいのではないかと思います。

インフルエンザであれ、COVID-19であれ、重症化して死ぬ直接的な原因は肺炎です。ですから、単に高熱になった場合であれば怖がる必要はなく、「高熱をともなう咳が続き、息苦しさがあるとき」にこそ注意が必要です。高熱が続いたとしても、3日目に解熱傾向となっていれば問題ありません。3日目になっても高熱が続き、寝床からトイレに移動するだけで息切れがするような場合は肺炎を疑うべきです。医療機関に電話をして相談して下さい。「咳と高熱」があればすぐに受診、ということではありません。

これまでお話ししたことは、すでに何回もこのブログで書いてきました。当ブログ内の検索をして、是非読み直してみて下さい。最後に、COVID-19(新型コロナ)が流行をはじめた2020年に医師会雑誌に投稿した文章を掲載します。いい加減な情報や、恣意的な意見に振り回されてはいけません。くれぐれも「烏合の衆」にならないでください。どの情報が信頼できるものなのかを見分けることは難しいと思います。でも、いろいろな情報に接し、できるだけ理性を働かせ、その正しさを判断する努力こそが重要です。

 

************************************ 以下、当時 (2020年8月)の掲載文

 昨年秋、新型コロナウィルスの流行は中国・武漢市からはじまったとされています。そして、そのウィルスは年があけた1月にインバウンドの勢いを借りるようにして日本に上陸しました。その後、諸外国ほどではないにせよ、感染者の数は増加の一途をたどっています。一時、重症者の数が横ばいになり、「もうすぐピークアウトか」と噂されましたがそれも期待外れに。東京などの大都市を中心にPCR検査陽性の人がにわかに急増し、ついに緊急事態宣言が出されてしまいました。

 それにしても、新型コロナウィルスは、まるで日本に来襲したシン・ゴジラであるかのようです。日本の、そして日本人のさまざまな問題点を明らかにしたのです。これまで日本は、SARS、MERS、そして新型インフルエンザといった外来感染症の危機に何度かさらされました。にもかかわらず、日本には「本格的な防疫体制」というものがないことがわかったのです。また、リーマンショックを越えるかも知れないという経済危機に、政府は今もなお経済を支えるための有効な手立てをとれないままです。

 一方で国民はどうかといえば、戦後の混乱を切り抜け、オイルショックを乗り切り、震災・原発事故を克服してきたはずだというのに、この混乱の中で依然として「買いあさり」と「買い占め」をやめられない人が少なくありません。また、日本人特有の「根拠なき楽観主義」によって、不要不急の外出、集会やコンサートの自粛が求められる中、海外旅行を我慢することも、夜の歓楽街をさまようことを控えられない人たちもいます。今、抗原検査陽性の人の数を増やしている原因の一部は、こうした「困った人たち」です。

 検査の実施件数もまさにうなぎ登りです。医学的知識もないド素人の国会議員が「検査を増やせ。希望するひと全員に検査を」と耳障りのいい主張を繰り返します。しかし、新型コロナウィルスのPCR検査は感度も特異度もそれほど高くなく、擬陽性や偽陰性の問題が無視できません。そんな検査を事前確率も上げないまま実施すれば、本来は入院を必要としない偽陽性者が病床を占拠し、偽陰性の患者が無自覚に感染者を増やすことにもなります。無知な政治主導はなにもしないことよりも恐ろしい。

 挙げればきりがないほどのダメダメぶりに、出てくるのはため息ばかり。この原稿が読まれるころも、まだそんな状態が続いているのでしょうか。保健所や検疫所の職員、感染患者の治療にあたる医療従事者が、感染する危険にさらされながらいっぱいいっぱいでやっています。お気楽な一般人がそうした人たちを見て見ぬ振りなのは仕方ないとしても、まさか医師会の先生方がその「今、危機にある人たち」から目をそらしていないでしょうね。いろいろなところで日本人の民度が試されているのです。

 とはいいながら、つくづく高病原性鳥インフルエンザでなくよかったと思います。オリンピックも仕切り直し。中国製品とインバウンド頼みだった日本経済も反省を余儀なくされ、感染症対策もふくめてすべてを抜本的に見直すことになるでしょう。将来、ふたたびやって来るだろう恐ろしい未知の感染症のため、今、経験していることすべてをこれからにつなげなければなりません。そして、「あのときの辛い思いがあったからこそ」と思えるような日本にしていきたいものです。

 

涙なき別れ(2)

今年の正月に入院し、病気療養中だった母が7月28日に亡くなりました。行年92歳でした。半年あまりの闘病生活でしたが、痛みなどのつらい症状に苦しむこともなく、ロウソクの火が消えるような大往生でした。先日、四十九日の法要が終わりましたので、今回は母のことを書きます。

もともと母はたくさんの病気を抱えていました。まるで「病気のデパート」といってもいいほどです。高血圧や高脂血症、糖尿病はもちろん、気管支喘息や狭心症、心房細動の既往があり、心筋梗塞・脳梗塞で何回か入院もしました。自分で車を運転していたころには、二度も自損事故を起こしたりもしました。いずれの事故も乗っていた車が廃車になるほど大きなものでしたが、幸いにも怪我は骨折程度で済みました。そうした中で長生きできたのですから、まさに「誰かに守られていた」のかもしれません。

母は幼い頃に実母を病気で亡くしました。母の実父、つまり、私の祖父は優しい人でしたが、いろいろな商売をやってもうまくいかず、五人兄弟の長女だった母は子どもの頃から苦労が絶えなかったと思います。母が結婚した私の父はわがままで厳しい人でしたから、結婚生活も必ずしも幸せなものとはいえなかったかもしれません。戦後まもなく建てられたバラックのような官舎の狭い一室で私たちの生活ははじまりました。小さい頃を思い出すと、裸電球がぶら下がった粗末で小さな部屋の光景が必ず浮かんできます。

母と父は同じ歳の幼なじみでした。七人兄弟の末弟だった父の長兄と母の叔母(母の父親の妹)が結婚した関係で小さいころからの知り合いだったのです。なにかの行事で親戚が集まったとき、叔父が「君たちの両親は恋愛結婚なんだよ」と教えてくれました。喧嘩ばかりしている両親を見てきた私にはにわかに信じられなかったのですが、そのことを両親はあえて否定も肯定もしなかったのをみるとそうだったのかも知れません。私の両親は喧嘩ばかりする友達のままだったのでしょう。

父が亭主関白だったかというと必ずしもそうではありませんでした。母は口うるさい父に服従することは決してなかったのです。父親はいつも同じ時間に帰宅します。帰宅した父がすぐにはじめるのは掃除。ずぼらな母の掃除が父には気に入らなかったからです。文句を言いながら掃除機をかけはじめる父。仕事で何かあって機嫌が悪いときは、怒りだして母に手をあげることすらありました。そんなとき、子どものころの私は部屋の中でじっと耐えていましたが、中学生ぐらいになると仲裁に入り、暴れる父を止めたりしました。

母はそんな父にはお構いなしに、あくまでもマイペースでした。私は子どもながらに「文句を言われないようやればいいのに」と思ったものです。こんなことがありました。そろそろ父が帰ってくるという時間なのに、母は近所のおばさんと楽しそうに台所でお茶を飲んでいます。でも、父が帰ってきて怒りながら掃除をはじめることを知っていた私は気が気ではありません。だからといってご近所さんとの話しに夢中な母親に、「そろそろ掃除をした方がいいよ」と耳打ちすることもできません。

私は仕方なく、母の茶飲み話しの邪魔にならぬよう、台所以外の部屋を片付け、簡単に掃除をすることにしました。父が帰ってきても機嫌が悪くならないようにするためです。私はいつしか毎日掃除をするようになりました。父親が文句をつける点はどんなところか。短時間で掃除を済ませるためにはどんなところを重点的にやればいいのか。そんなことを考えながら掃除をしていると、父が文句をいいながら掃除をすることが少なくなりました。以来、夕方になると当たり前のように私が掃除をしていました。

そうした子ども時代を過ごしたせいか、私は今でも掃除機の音が苦手です。あの当時のことを思い出すからです。ですから、私の家内にも、また、クリニックのスタッフにも、「散らかっていなければ掃除はそこそこでいいよ」と頼みます。結婚した当初、家内は母に「あまり掃除をしなくてもいい」と私が言っていると話したそうです。それを聞いた母は不思議そうに、「あら変ね。あれだけ掃除が好きだったのに」と言ったとか。子どものころの私の苦労や心の内など、母はまるでわかっていなかったようです。

でも、母は誰かのために何かをしたい人でした。今ではすっかり見かけなくなりましたが、昔は浮浪者が家々をまわって施しものを乞うことがありました。我が家にも一度そうした浮浪者が来たことがあります。どこの誰かもわからないその浮浪者に、母は気の毒そうに食べ物を分けていました。また、実家の裏の公園で、平日にもかかわらず毎日一人で遊んでいる女の子がいたときのこと。母はその子を見かけると、彼女を家にあげ、話しを聴いてあげ、励ましたりもしていました。母はそんな人でした。

その一方で、こんなこともありました。幼かったとき、暖かくて格好のいい上着を母に買ってもらいました。私はそれをとても気に入っていたのです。あるとき、私と同じ年代の子のいる叔母がその上着を褒めてくれました。私はそれがうれしく、また、誇らしくもありました。しかし、母は「そう?じゃあ、これ、あげるわ」と。あっけにとられているうちに上着を脱がされた私は、悲しいような、くやしいような気持ちになったことを覚えています。褒められるとすぐにあげたくなるという母の性格は最期までかわりませんでした。

晩年の母はいろいろな料理に挑戦するのが好きでした。「おいしかった」と言ってもらえることがなによりもうれしかったのです。ご近所の友達にはもちろん、いつも買い物に通っているお店にも、あるいは入院した病院の職員にもカステラを焼いてもっていきました。「コロナのこともあって、食べ物をもらうのを嫌がる人もいるんだから」と注意しても聴く耳をもちません。その後も、餃子を皮から作って「ちょっと工夫してみたから食べてみて」ともっていくことも。人が喜ぶのを見るのが好きだったのです。

母は交際範囲が広く、友だちがとても多い人でした。先に逝った父もまた仕事関係の交際範囲が広かったため、父の葬儀にはたくさんの参列者が来て下さいました。母も父も実は「似たもの夫婦」だったのでしょう。父が亡くなったとき、「家族葬」でひっそりやろうと思っていました。葬儀社にはそう伝えていましたが、実際には「大企業の社長でもこんなには来ない(葬儀社談)」と驚くほどの参列者が来場しました。火葬場に向かう霊柩車の中でも「これは家族葬ではありません(同)」と笑われるほどでした。

父の葬儀のとき、いろいろな人たちに迷惑をかけてしまい、母の葬儀こそ、本当の家族葬で静かに見送ってやろうと思っていました。大家族で育ち、たくさんの友人がいたとはいえ、一人暮らしをする母を見ていると、本当は賑やかなことがあまり好きではないのかもしれない、と思えたからです。好きなときに起き、好きなときに食事を取り、好きな時間に寝ることに安らぎを感じ、気心の知れた人たちと時々お茶を飲んで談笑することを幸せだと思っていた母。そんな素朴な生活が母には合っているようでした。

母が徐々に弱っていき、食事もほとんどとれなくなって、妹が「もうダメみたい」と泣きそうな声で電話をしてきました。残された時間が長くないことはわかっていても、やはり今生の別れとなればつらいものです。でも、私は妹にいいました。「母親が後ろ髪引かれぬよう、淡々と見送ってやろうぜ」と。「あの人も亡くなった。この人も認知症になってしまった」と嘆く母に、「長生きは修行なんだよ。長く生きられなかった人たちの悔しさを背負いながら生きていくのだから」と諭していた私の最後の親孝行のつもりでした。

母は私が言ってきたとおりの晩年を過ごし、そして、ついに鬼籍に入りました。その最期はとても静かなものでした。亡くなる二日前、一緒に見舞いに行った家内とふたりで冷たくなりかけた母の両足をさすってやりました。「どこか痛いところはない?」と聞くと、母はうなづきながら、手のひらを胸におきました。私も母の胸に手を重ね、鼓動を刻むように軽く胸を叩いてやりました。すると母は安心した表情になって、静かに目を閉じました。私はこのとき、母の命がもうじき尽きるだろうと思いました。

母は満足して旅立っていったと思います。幼い頃から苦労は絶えなかったかもしれませんが、息子は医師に、娘は看護師になりました。そして、晩年、「なにも心配事がないことが一番幸せ」、「気ままな一人暮らしができるのはお父さんのお陰よ」と繰り返し言っていました。脳腫瘍になったことを知ったときはショックだったに違いありません。しかし、その後は、愚痴をこぼしたり、泣きごとを言ったりすることは一度もありませんでした。不安そうな表情すらしませんでした。

本来であれば、いろいろな人達に母が亡くなったことをお知らせすべきだったかもしれません。でも、母を静かに見送ってやりたいと思っていた私たちは、ごく近しい人だけで葬儀をすることにしました。母のことを誰かから聞いたとご挨拶をいただいた方もあります。香典やお花などはお断りしていましたから、そうした人たちにも失礼・無礼をしてしまったと思います。母もそれを不義理だ、礼儀に欠けると怒っているでしょう。でも、すべては母を静かに見送るため。どうかお許しください。

四十九日の法要が終わり、まさに母の遺骨が墓に納められようとしたとき、突然、どこかにいた鳥の鳴き声が霊園に響き渡りました。それはまるで母が最期のありったけの声で別れを告げたかのようでした。私はこれで母が仏になったことを確信しました。人間の命には限りがあります。永遠ではないのです。人間の一生にはそれぞれの長短があるにせよ、「人生を生ききる」ことにこそ意味があります。「生・老・病・死」を見守り、寄り添うことが医師の仕事。今、あらためて医師になれて本当によかったと思っています。

行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし   合掌

コロナの再流行について

今、COVID-19(新型コロナウィルス)の感染者が増加している、と報道されています。実際に、松戸保健所からの定期報告でも、管内の定点医療機関あたりのCOVID-19感染者数は増加傾向にあるといいます(ひととき多かったインフルエンザの患者は減少に転じています)。しかし、「それがどうした?」ってことです。マスコミが報道しなければならないのは、「コロナが増えている」ではなく、「熱があるときは自宅で静養しましょう」であり、「家族をはじめとする他の人にうつさないよう配慮しましょう」であるはずです。

ところが、TVのニュース、あるいは新聞報道を見ると、「またあのコロナが増えてきた」と恐ろしくなるような内容。具体的になにをどうすればいいのか、コロナに感染するとどうなってしまうのか、といった肝心なことがまったく触れられていないのです。これまで、そうした重要なことを、なんども、なんども、なんども、なんども書いてきた私にすれば、「もういい加減にしてくれ」といいたいくらい。今のコロナはあのときの「恐ろしいウィルス」とはすっかりさまがわりしていることを少しは学んでほしい。

そこで、昨年の11月にこのブログに掲載した記事を以下に再掲します。コロナウィルスが流行を始めてから私が主張してきたことは、「コロナ」や「COVID」というキーワードでブログ内検索(右上の検索エンジンを利用してください)すると読むことができます。私が間違ったことを書いてこなかったのがわかると思います。世間が放射能で騒然としていたときとまったく同じで、そのときの科学で「正しい」と信じられていることを冷静に受け止めれば当然の結果。イデオロギーで世間を混乱させるだけの人間と私は違うのです。

「コロナ流行」と聞くと、「いざ検査」「いざ薬」「いざ医療機関」と煽られる人がいます。その一方で、発熱があるにもかかわらず、風邪薬や解熱剤を飲みながら会社や学校に行き、周囲に感染を広めても平気な人もいる。そもそもいまだに「検査してこい」という会社や学校、「面会制限を再開する」と過剰反応する施設が多過ぎるのです。「風邪症状があったら休む」「風邪薬を飲みながら仕事をしない」も実践させないくせに。当院のブログを読んでくださる皆さんには是非正しい対処法を知ってほしい、実践してほしいと思います。

 

********************************* 以下、2024年11月17日掲載文

「風邪は治るが治せない(2)」

新型肺炎」と呼ばれたCOVID-19(新型コロナウィルス)感染症が中国の武漢で流行し始めたのが2019年。その後、全世界に感染は拡大し、アウトブレイクとなってたくさんの人が亡くなりました。今でこそ「風邪とかわらない」と言われるようになったCOVID-19ですが、救急病院にはたくさんの重症患者が搬送され、病院機能が損なわれる「医療崩壊」が心配されるほどでした。

そうした危機的な状況は、mRNAワクチンの登場によって徐々に改善していきました。その一方で、感染症病棟や呼吸器内科病棟の医師、あるいは看護師や薬剤師、検査技師や一般職員など、病院で働く多くの人たち、さらには患者の搬送にあたった救急隊員らの献身的な活躍があったことを忘れてはいけません。決して新型コロナウィルスが「実は大したことのない感染症だった」わけではないのです。

新型コロナウィルス感染症の蔓延は、社会のさまざまな価値観に影響を与えました。それまで風邪をひいて咳をしていてもマスクすらしない人が少なくありませんでした。しかし、今では「咳エチケット」としてマスクの着用が当たり前になっています。また、「熱ぐらいで会社は休めない」といった誤った「常識」も、徐々に「熱を出したら他人にうつさぬように自宅安静」に変化しています。

私は以前から「インフルエンザ流行時の対応」について注意喚起を繰り返してきました。それは、社会の「常識」には医学的な間違いが少なくなかったからです。発熱に対する認識もそう。あるいは、風邪薬や検査の必要性についてもそうです。「社会でごく当たり前になっていることには、あるいは医者がなにげなく行なっている診療にも、実は医学的に間違っていることは多いのですよ」と指摘したのです。

それはこのブログを通じて繰り返し情報(「風邪」「インフルエンザ」「発熱」などでブログ内検索してみてください)を提供してきましたし、患者さんに対しては診療をしている時に直接説明したりしました。また、私が校医をしている学校の養護教諭にも指導してきたことです。しかし、そうした努力はなかなか浸透せず、多くの人々の行動変容をもたらすほどの影響力はありませんでした。

ところが、新型コロナウィルスの感染拡大が社会問題化し、加熱するマスコミの報道でも誤った対応が喧伝されるようになりました。「検査はできるだけ早く、しかも何度でも繰り返す」、「新型コロナに感染したと思ったらすぐに病院を受診する」、などがその代表的な事例です。多くの国民がそうした情報にしたがい、必要のない検査をして国費を無駄にし、発熱外来に殺到して感染を広めたのです。

その一方で、新型コロナウィルスに対する有効性も証明されていない薬を勧めた医者がいます。軽症の新型コロナ患者に対して過剰な検査や措置をした医者もいました。それが間違った知識によるものなのか、それとも儲け主義の結果なのかはわかりません。しかし、メディアによく登場する医師が間違った対応を推奨して、本当に正しい主張がかき消され、批判されてしまう場合すらありました。

しかし、今、社会を揺るがしてきたコロナ禍を振り返り、多くの人々が「正しい対応」がどのようなものだったかを振り返るようになりました。と同時に、私がこれまで主張してきたことの正しさを冷静に理解できるようになりつつあるように感じます。今回のブログは、そうしたこれまでの私の主張を改めてまとめ、皆さんが感染症に対してどう行動すべきなのかについて再度注意喚起したいと思います。

 

今、新型コロナの流行は小康状態となっています。しかし、千葉県の一部ではインフルエンザの患者が増えてきています。また、マイコプラズマなどを原因とする「咳風邪」がはやっています。当院でも「咳が治らない」と訴える患者さんが毎日たくさん来院しています。感染症は治療も大切なのですが、流行を拡大させないことも重要です。そうした点を念頭におきながら私は診療しています。

当院では、風邪症状のある方には、あらかじめお電話をかけていただいてから来院してもらっています。それは感染症の患者の来院時間を指定し、待合室にいる一般患者とできるだけ分離するためです。しかし、そうしたことを知らなかった風邪患者が、事前のお電話がないまま直接来院することもあります。そんなときは院内が混雑し、一般患者と感染症の患者の分離に苦慮することもしばしばです。

お電話でのお問い合わせの際に怒り出す人もいます。「なんで今すぐ診てくれないのか」というものです。感染症の患者さんにはできるだけ空いている時間帯を指定して来院していただいています。とくに、「今すぐ診る必要性が高くない患者」、例えば、症状が出たばかりの方や風邪薬を服用してきた方たちには、「しばらく経過を見て、あらためて電話してほしい」と説明する場合があるのです。

前稿「風邪は治るが、治せない」でも書いたように、風邪は薬で治すことができません。自分の免疫力で治っていくものなのです。風邪薬は「風邪を治す薬」ではありません。むしろ、風邪症状をわからなくする薬であり、ときに診療の妨げになる薬です。医師が風邪症状の患者に処方する薬は、その症状を緩和するためのもの。どのような薬を処方するかを判断するためにも風邪薬は服用しないでほしいのです。

むやみに熱をさげてしまうと、重症度を判断することができなくなることもあります。ひとくちに「熱が出た」といっても、そのなかには肺炎を合併しているものや、実は風邪ではなく内科疾患から熱が出ている場合もあるのです。どのくらいの熱が、どの程度続いているのかによって診断が違ってきます。そうした大切な情報である「発熱」を解熱剤でむやみに下げられてしまうと診断を誤る原因にもなります。

本来、「風邪」であるなら薬を服用する必要はありません。肺炎を合併しない限り、自然経過で数日のうちに必ず治るからです。なかなか治らない症状は単なる風邪ではありません。「早期発見、早期治療」と思ってか、「早く治したいので、早く薬を飲みたい」という人がいます。でも、「早く薬を服用しても、風邪は早く治すことはできない」のです。「風邪に風邪薬」は「早めにパブロン」というキャッチコピーの誤った受け売りにすぎません。

風邪薬を飲みながら会社や学校に行くと、周囲の人に感染を広めてしまうことにもなります。「風邪薬は飲まないでください」とお話しすると、「風邪薬を飲まなければ熱が下がらず、会社に行けないじゃないか」と言う人がいます。しかし、「熱がでたら会社や学校に行ってはいけない」のです。一般的に発熱しているとき感染力が強いことが知られています。「発熱時は自宅で療養」が原則です。

熱があっても、よほど辛くなければ解熱剤を使用せずに経過観察。そして、熱がいつまでもさがらないのであれば(目安は「高熱が3日目に突入したら」「微熱であっても5日目に突入するなら」)医療機関に電話をして相談すべきです。発熱は「早く治すため」にも、また、「重症化を発見するため」にもとても大切な情報です。怖いあまりに解熱剤を多用していいことはありません。

というわけで、当院では次のような基準を設けて受診(電話で相談)を勧奨しています。

(1)風邪症状が出たばかりの人は24時間経過観察すること

(2)風邪薬を服用した人は服用後24時間は経過観察すること

(3)発熱があっても24時間は解熱剤を使用しないこと

(4)他院(当院)で処方された薬はすべて飲みきってから効果判定すること

(5)処方薬を服用しても改善しないときは、薬を処方した医療機関をふたたび受診すること

以上の点をよく理解して風邪症状に対応して下さい。今年は例年になく肺炎が多いように感じます。とくに若い人の肺炎が多い印象があります。でも、肺炎だからといって怖がることはありません。肺炎を心配してあわてて受診する必要もありません。高熱をともなわない風邪症状は風邪薬を服用しないで二日ほど様子をみてください。高熱があっても解熱剤を飲まずに24時間は経過観察してください。

それから「明日、また電話してください」と言われても怒らないでください。午前中は風邪患者がたくさん来院します。午前中に来院しなければならない特段の理由がなければ、午後の空いている時間に受診することをお勧めします。院内が混雑しているときは、また後で来院することをお勧めします。そんな日は、風邪症状の患者が多いからです。病院に行って風邪がうつってしまったら意味がありません。

とくに高齢の方は午後に来院したほうがいいでしょう(朝早く受診する高齢者は多い)。重症感の強い風邪の患者さんが午前中の早い時間帯に受診するからです。とくに土曜日は大変混み合うので、高齢の方は受診を避けた方がいいでしょう。現役のサラリーマンは土曜日しか受診できないため集中するのです。患者でごった返す中、マスクもしていない高齢者が待合室で待っていることを想像しただけでゾッとします。

以上、ご理解・ご協力のほどよろしくお願いします。

熱中症三題

 

1.「熱中症」を再確認する(2014.8.2 掲載)

猛暑が続くと「熱中症」のことがしばしば報道されます。しかし、改めて「熱中症とはなんですか?」と質問されると意外とわかっていないことが多いようです。

熱中症とは、暑い環境にさらされて水分と塩分を失い、筋肉がつったり、強い倦怠感におそわれたり、体温調節ができなくなってショック状態にもなったりする病態です。単に水分が失われてへばった感じになる「日射病」とは異なり、命にも関わる事態が熱中症です。

ですから、「暑い環境、または大量に発汗する環境」に身を置いて調子が悪くなったら、熱中症の可能性を考えなければなりません。とくに体温調節ができなくなり高熱になっていると重症になっている可能性があります。脇の下が異常に熱く(体表面は意外に熱くないことがあります)、苦しそうなのに発汗がほとんどないときは直ちに救急車を呼んでください。

予防はなんといっても「汗を大量にかく環境にいない」ということです。これは一義的には「暑い場所にいない」ということですが、たとえ気温がそれほど高くなくても「湿度が高い場所」であれば同じことです。湿度が高いところは汗が蒸発せず体温がさがらないからです。ですから、夜、窓を開けたり、扇風機をつけて寝たとしても汗が蒸発して涼しいと感じなければ熱中症になる可能性があります。

第二の予防は水分と塩分の補給です。私は個人的に「薄めた味噌汁を冷蔵庫に冷やしておくこと」をお勧めしています。そして、汗をたくさんかいたときに補給するといいでしょう。ただし、血圧が高めの人や心臓や腎臓の悪い方は水分と塩分のとりすぎが体に悪さをする可能性がありますから、できるだけ汗をたくさんかかないようにして水分と塩分をとりすぎないようにすべきです。

よくスポーツドリンクをこまめに飲む、という方がいます。しかし、スポーツドリンクの中には50gを超える糖分が入っています。したがって、血糖値の高い人は要注意ですし、そもそも肝心の塩分はそれほど含まれていません。ですから、血糖値の高い人にとって、また、そうでない人にとってもスポーツドリンクは「こまめに補給する飲み物ではない」ことは確かだと思います。

ちなみに「ゼロカロリーだから大丈夫」という方もいますが、そういう飲み物はカロリー(ブドウ糖)はゼロでも、スクラロースやアセスルファムカリウムなどの人工甘味料がたくさん含まれています。これらは一度にたくさん摂取すると肝機能が悪くなることがあるといわれており、「ゼロカロリー=健康にいい」ということにはならないということに注意をはらう必要があります。

まとめると、熱中症はまずは予防。そのためにたくさん発汗するような環境(気温と湿度が高いところ)にはいないようにすること。万が一、汗をたくさんかいたときは薄めた味噌汁などで水分と塩分を補給すること。それでも熱中症かな?と思うような倦怠感がある場合は病院を受診すること。とくに発汗がなく重症感をともなう熱中症や意識がはっきりしない場合はすみやかに救急車を要請してください。

2.暑い夏に思うこと(2022.6.30 掲載)

まだ6月だというのに、あっという間に梅雨が明けてしまいました。例年であれば毎日うっとうしいくらいに雨雲が垂れ込め、地方によっては連日の大雨に警戒警報がでるほどなのに今年はどうしたのでしょうか。この降雨量の少なさはお米の生育に影響するかもしれません。米は高温・多湿の地域に生育する食物。降るべきときに雨が降らなかった今般の気象が秋の収穫にどのような形で現れるかとても気になります。

そしてこの暑さです。「夏は暑ければ暑い方がいい」と考える私でさえ、このところの連日の暑さは心配になるほど異常です。実は私は二度ほど熱中症になったことがあります。しかもそのときの様子を思い出せば、それなりに重症だったと思います。テレビなどでも「熱中症」というワードをよく耳にするようになりましたが、多くの人は熱中症を身近なものと思っていないのではないでしょうか。

はじめて熱中症になったのは次男がまだ幼稚園にあがるかあがらないかのころ。夏休みに家族旅行で日光に行き、家康がまつられている史跡を見ようと山道を登っているときのことでした。からだが小さかった次男を背負ってしばらく歩いていると、突然大量の汗が噴き出してきました。山の中ですからそれほど暑かったわけでもなかったのですが、私は「滝のような汗」をそのままにして山道を歩いていました。

はじめはとくにツラいという感覚もなく、冗談をいいながら私は道を登り続けました。ところが、もう少しで目的地というところで急にからだが重くなってきました。子どもには「あと少しだから自分で歩いて」と背中から降りてもらい、身軽になったと思ったとき全身から力が抜けていくのを感じました。「どうしても横になりたい」という気持ちにかられた私は周囲の目もはばからず通路に横になったのでした。

横にはなりましたが、なんとも言えない倦怠感と軽い嘔気はなかなか改善しませんでした。心臓もバクバクいっていて、私は「これが熱疲労なのかぁ」と考えていました。地べたにダウンしている私を見下ろす家内と長男はゲラゲラと笑っています。彼らを心配させてはいけないと私もなんとか微笑みを返しましたが、内心「この脱力感と動悸は血圧がさがっている証拠。ちょっとやばいな」と思っていました。

しかし、山の中でのことですから直射日光が当たっているわけではありません。気温だってそれほど高くはありません。体が冷えてくるにしたがって徐々に回復していきました。家内と子ども達はそんな私をおいたままさっさと家康のお墓へと登っていきました。熱疲労は大量の水分と塩分を失って起こります。夏場は「たくさんの汗をかいたら水分と塩分を補給する」ことが大切。決して水分だけではいけません。

二度目の経験も夏でした。人間ドックで胃カメラ検査を受けたあと、水分の摂取もそこそこに帰宅を急いだのでした。最寄りの駅から自宅までは徒歩で30分ほど。健診が終わった安堵感か、気分も少し高揚していたこともあって、「暑い中を歩いて帰ろう」と考えてしまいました。照りつける日差しも、吹き出す汗も、心なしか気持ちよく感じていて、以前、日光で熱中症になったことなどすっかり忘れていました。

全身に太陽が照りつけ、途中、「自販機でなにか冷たいものでも買おうか」と考えましたが、家に帰って、シャワーをあびて、冷たいものを一気に飲んだらどんなに気持ちいいだろうなどと想像しているうちに自宅まであと少しというところまで来ました。「滝のように流れ落ちる汗」もそのままに私は歩き続けました。角をまがってあと数十メートルもすれば自宅、というところで熱中症の症状は突然やってきました。

日光のときのような全身の強い倦怠感が襲ってきたのです。私はあのときの体験を思い出しました。吹き出す汗、すぐにでも横になりたい気だるさ、激しい動悸と軽い嘔気。あのときとまるで同じ症状です。私は自宅を目の前にして歩けなくなってくるのを感じました。「家にたどりつけないかもしれない」と思いました。なんとなくもうろうとしてきたのを自覚しながら、倒れ込むようにして玄関に入りました。

驚いて駆け寄ってきた家内に、冷たいタオルと冷たいスポーツ飲料をもってくるように頼みました。日光のときよりも重症のように感じました。日光の山の中と違ってさえぎるもののない炎天下。気温も湿度も、また失う汗の量も全然違うのです。回復したあとで私は思いました。1984年のロサンゼルスオリンピックの女子マラソンで熱中症となったアンデルセン選手に近い状況だったのではないかと。

あのときのアンデルセン選手は「労作性(運動性)熱中症」だったといわれています。激しい運動により水分と塩分を失い、上昇した体温がさがらなくなる「労作性熱中症」になっていたのです。運動による体温上昇がはげしく、冷却されにくい環境であれば、必ずしも気温が高くなくても熱中症にはなります。そして、横紋筋融解症(筋肉が壊れる病態)や中枢神経障害をも引き起こすこともあるとされます。

このとき私は学びました。「熱中症は突然やってくる」のだと。畑仕事をしていた高齢者が熱中症で亡くなったというニュースをよく耳にします。かつて私は「そんなになるまでなぜ仕事をしていたんだろう」と疑問でした。しかし、違うのです。亡くなった人たちは「滝のような汗」をかきながら「もう少しできる」と思っているうちに、突然、熱中症の強い倦怠感に襲われ、地べたに倒れ込んだまま亡くなったのです。

今回のブログを読んでくださっている方の多くも、心の底では熱中症と自分は縁遠いものと思っているかもしれません。そして、「熱中症になりそうになったら休むから大丈夫」だと思っているはずです。しかし、「熱中症になったかな?」と思ったときではもう遅いのです。熱中症は突然やってくるのです。しかもその症状は私ですら立っていられないほど強い倦怠感なのだということを知ってください。

「滝のような汗」がではじめたらただちに涼しい場所に移動してください。そして、水分と塩分を補給してください。高温あるいは多湿の環境に長時間身をおかないことが大切です。「エアコンの冷房は嫌いだからつけない」という人がいます。しかし、「好き、嫌い」の問題ではありません。熱射病で亡くなる人の多くが冷房をつけていません。窓を開けて風通しのよい室内であっても、湿度が高ければ除湿が必要です。

政府は国民に電力の消費を抑えるよう要請しています。要するに冷房の使用を控えるようにということです。節電した国民にはポイントを付与し、節電に協力しなかった企業には罰則をもうけるという話しもあります。しかし、そのポイントも実はひと家庭あたり一ヶ月で数十円程度だということがばれ、急遽一回だけ2000円分の追加付与が決まりました。節電しない企業には罰則だなんて愚策は論外もいいとこです。

今、原油が高騰しています。それでなくても日本は、なんの法的根拠もなく、科学的根拠もないままに原発が止められています。史上類を見ない大地震が発生するリスクが低下しているのにまだ原発を停止しているのです。しかも、その原発での発電量をカバーするためにこれまで何兆円もの燃料費を余分に支払って火力発電をフルに稼働させているのです。今の原油高は円安でさらに燃料コストをつり上げています。

原子力発電所の多くが停止していますが、そのリスクは発電しているときとほとんどかわりません。発電はやめても原子力の火は灯っているからです。遠いヨーロッパでの戦争がアジアに飛び火し、日本に原油が入ってこなくなる事態も想定して、原発再稼働の必要性が議論されないのは実にゆゆしきことです。先の震災での原子力発電所事故の原因は、想像を超える津波が原因だということをあらためて考えるべきです。

新型コロナに対する政府の対応は、ずっと「検査、検査」「ワクチン、ワクチン」、そして「マスク、マスク」でした。この幼稚で、単調で、ピントはずれな無策ぶりはこれからも続くでしょう。この猛暑で電力が不足しブラックアウトが起こるかもしれないのに、国民に節電要請を繰り返すだけというのは実にお粗末な話しです。そんな小手先のことではなく、国民の命を守るために今こそ原発を再稼働させるべきです。

批判を恐れてなにも言わない、あるいは小手先の政策を小出しすることしかできない政治家たちにはあきれるばかりです。その一方で、理想論を繰り返すだけでなにもしない政治家はもとより、根拠希薄な週刊誌ネタを国会に持ち込んで騒ぎ立てるだけの政治家は不要です。この猛暑が続く中、参院選挙があります。国民には世界の現実に目を向け、日本の未来のために賢明な一票を投じてほしいものだと思います。

政治家の質は国民の民度を反映しています。いろいろな意味で今年の夏はいつになく暑いようです。

 

3.恐怖は突然やってくる(2023.8.2 掲載)

昨日は雲がたれこめ、ときに激しい雨が降るなど、全般的に天気がよくなかったせいか、いつになく過ごしやすい一日でした。しかし、今日は一転して朝から「じりじりと太陽が照りつける」という表現がぴったりの好天気。気温もぐんぐんあがって、冷房の効いた部屋から外に出ることができません。天気予報も「不要不急の外出は控えて下さい」とコロナ流行のとき以来の表現で注意を喚起しています。

こういう季節に注意しなければならないのは熱中症。私はこれまで三度の熱中症を経験しました。しかも、それなりに重症な「熱疲労」と呼ばれる中等度の熱中症になりました。そのときの経験談についてはこれまでもなんどかこのブログで記事を書いてきましたが(右の検索エンジンにて「熱中症」で検索してみてください)、ここでは私自身の経験をふまえて要点だけを繰り返します。

1.「滝のような汗」は黄色信号

三回の経験ともに、「滝のような汗」が熱中症の前触れになりました。暑いときの「滝のような
汗」はむしろ気持ちがいいものです。しかし、それが大変な落とし穴。そのまま「滝のような汗」
をかくままにしていると、次のステージに重症化が進みます。なぜなら体から大量の水分と塩分
が失われるからです。水分と塩分は血圧を維持するための重要な要素。取り過ぎれば血圧があが
りますが、失えばさがります。高血圧の人は「塩分控えめ」を心がけていると思いますが、さす
がに「滝のような汗」をかいたあとは水分と多少の塩分を補給する必要があります。

2.突然襲ってくる強い脱力感

「滝のような汗」のままにしていると、突然、強い脱力感に襲われます。この脱力感は、私のよ
うにそれなりに若いと思っている人間でも立っているのがむずかしいほどのもの。その場で横に
なりたくなります。あるときの経験では、10メートルほど先に自宅の玄関が見えているのに
「はたしてたどり着けるだろうか」と不安になるほどの脱力感でした。なんとか玄関までたどり
着き、ドアを開けると倒れ込むようにして中に入りました。ようやく玄関に入れた私ですが、
冷房の効いた部屋まではって行かなければならないほどです。おそらく、畑で熱中症となって亡
くなった高齢者は、きっと「まだできる」「あそこまでやってしまおう」と滝のような汗をぬぐ
いながら作業をし、突然襲った強い脱力感にその場でへたりこんだのでしょう。炎天下でそうな
ったらもう立ち上がれないはず。突然襲ってくるこの脱力感はとても恐ろしいものなのです。

3.対処は「冷却、水分と塩分の補給」

脱力感だけではありません。軽く嘔気も感じ、心なしか意識がもうろうとしているようにも思い
ました。家内に冷えた水分と多少の塩分を補給すべくもってきてもらいました。家内の表情を見
上げると、「医者のくせに何してるの」と思っているかのようなあきれ顔。確かにそうなのです。
以前、日光でも同じような熱中症になっていましたから。さすがにそのときは自分の体力を過信
していることを実感しました。ですから、熱中症は体力はもちろん、年齢にも関係ありません。
先日も部活帰りの中学生が熱中症で亡くなりました。水分の補給はしていたとのことですが、
おそらく塩分の補給がなかったため、自宅への帰り道に自転車をこぎながら大量の汗で塩分を
さらに失って重症の熱射病になってしまったのだと思います。ほんとうに可哀想でした。

4.蒸し暑さにも要注意

日光で熱中症になったときは、森の中でしたから気温はさほど高くはありませんでした。そのか
わり湿度が高かったのです。湿度が高いと汗が蒸発しないので体を冷やすことができません。
そうなるとさらに汗が出るという悪循環になります。日光ではもう少しで目的場所であった徳川
家康のお墓にたどりつくところだったのにその直前で石畳の上に倒れるようにダウンしてしまい
ました。幸い、日差しは強くなく、石畳が冷えていたことが功を奏してしばらくすると回復しま
したが。「室内にいても熱中症」というのはこのような湿度の高さが原因です。

 

【結論】

●「気温の高い環境」と「湿度の高い環境」を避けること

●「滝のような汗」は赤に近い黄信号。すぐに涼しい場所で水分と塩分の補給を。

● 恐ろしい「強い脱力感」は突然にやってくる。意識がもうろうとするときは赤信号。

● 熱中症予防では水分補給だけではだめ。必ず塩分の補給を。高血圧の人も例外ではない。

● 熱中症予防は「うすめた味噌汁」あるいは「うすめたスープ」。「OS-1」でもよし。

→ 冷やしたものを補給しよう。早め、早めに補給すること。

→ まずい「OS-1」も「青リンゴ味」なら飲みやすい(当院の隣の薬局にあります)

→ ポカリスエットなどのスポーツドリンクは糖分が多いのでだめ(薄めれば可)

過ぎ去りし「昭和」

6月3日、長島茂雄氏が逝去されました。長島氏が読売巨人軍を退団し、引退したのは1974年(昭和49年)10月14日のこと。私が中学三年生のときでした。巨人のみならず、プロ野球の人気を支えていたON(王・長島)コンビの一角が崩れ、これからのプロ野球はどうなっていくのだろうかと思ったものです。当時の私は華やかな長島選手よりも、地味でありながら黙々とプレイする王選手を応援していました。そんな私であっても、「長島の引退」はひとつの時代が終わったように感じました。

中学校の卒業文集に掲載する作文に私がつけた題は「三年二組は永久に不滅です」。還暦を過ぎた今でも、一番充実して、楽しかった時代だと感じるのは中学三年生の一年間。中二の秋までは勉強にもスポーツにもまるで縁がなかった私。家庭教師だった近所のお兄さんのお陰で、少しずつ勉強に面白さを感じはじめ、思いを寄せていた女の子が隣の席になったことをきっかけに勉強にめざめたのが中三だったのです。その意味で、先の作文のタイトルは、そんな当時のときめきを表現するにはぴったりなタイトルだったと思います。

私の通っていた中学校は、公立でしたが文武両道を旨とし、勉強も頑張るがスポーツも頑張るという校風がありました。東京都の下町にあったせいか、いろんなバックグラウンドをもつ生徒がおり、サラリーマンの子もいれば、商売をしている家の子もいる。在日韓国・朝鮮人の子もいれば、千葉県や埼玉県から越境してくる子も多い学校でした。上野という繁華街が近かったこともあって、しばしば上野警察署少年係のお世話になる生徒だっていたほど。やんちゃが過ぎて練馬鑑別所に送致された子もいました。

しかし、だからといって校内の風紀が乱れていたわけではありません。学校にはそれなりの秩序というものがありました。生徒は先生を敬い、先生は生徒達を慈しんでいる雰囲気がありました。ある先生は、我孫子という「田舎」から通っていた私を「カッペ(田舎っぺの意)」と呼びました。今ならとんでもないことになったでしょうが、当時の私も両親も、それを蔑称だとは感じませんでした。もちろん、先生も悪意でそう呼んだわけではありません。そんな鷹揚さのある学校であり、また、そんな時代でもありました。

以前にも書いたように、私は「昭和」という時代が好きです。いろいろな矛盾や格差、非効率や無駄があっても、秩序があり、希望があった「昭和」が好きなのです。その「昭和」を象徴するのが、中学校時代であり、その中学校時代を締めくくる出来事が「長島引退」でした。当時、まだ巨人ファンだった私は、その後、いわゆる「江川事件」ですっかりアンチ巨人となり、プロ野球に対する興味も急速に薄れ、「王がホームランを打ち、巨人が負ければどのチームが勝ってもいい人間」になりました。

ちなみに、最近の江川卓氏のYoutube番組でこの「江川事件」の真相を知りました。当時の私は、マスコミの「江川憎し」の風潮に流され、江川選手を一方的に批判する世論に乗せられていました。しかし、その事件が、実は周囲にいる大人達の思惑に江川選手が振り回されて起きたことを知ったのです。そんな批判と敵意に満ちていた社会、そして、野球界の中で淡々と活躍し、実績を残した江川選手は立派です。そのように、マスコミによって私たちの世論が容易に影響を受けていたのも「昭和」だったといえるでしょう。

 

1989年で昭和は終わりました。その後の日本は、まるで昭和の終焉とともにバブルが崩壊し、長い長いデフレの時代へと突入していったかのようです。30年ともいわれる長い停滞期は人々の考え方にも大きく影響しました。人々の心の中から活力がなくなり、夢を追い、希望をもって生きることが難しくなったかのようです。とくに若い人たちの意識が変わったかもしれません。彼等の「車を欲しがらない」という意識がそれを象徴しています。「頑張ること」さえも疑う若者が増えてきたようにすら見えます。

社会そのものが「頑張らなくていい」ことを是とする時代になったせいです。「頑張らなくてもいい」のではなく、「その結果がうまくいかなくても悲観することはない」だけなのに。「頑張ること」はどんな場合であっても尊いはず。そこに時代の違いなどありません。これまでの日本の社会では「頑張る」ことの結果にセイフティ・ネットがなさ過ぎました。その反動が「競争はいけない」「順位をつけてもいけない」という誤った社会にしてしまったのかもしれません。

今という時代においては、ことさらに「平等」「均一性」「多様性」が求められます。一方においてそれは必要なこと。しかし、今の社会を支配するその規範の正体は、「平等」によって不平等を生み、「均一性」や「多様性」によって逆差別を生じさせています。社会が価値観を押しつけ、こうあるべきだという固定観念を人々に植え付けようとしているのです。しかも、変遷し、変質するそうした固定観念が、ともすると日本の文化とあいいれず、さらには日本の伝統を破壊しかねないものだけに懐疑的になってしまいます。

 

高校生のころ、なにかの宗教の勧誘に二人のご婦人が我が家を訪れました。応対に出た私に、その宗教がいかにすばらしいかを説いています。延々と続くその話しを、私はなんどかさえぎろうとしました。しかし、話しの論点をすり替えられてなかなか終わりません。そのひとりのご婦人が言いました。「今の社会にはいろいろな事件が起こっています。それは多くの人が正しい教えを信仰していないからです」と。高校生だった私はその言葉に反応してつい言い返してしまいました。

**************** 以下、そこでの会話

「そうでしょうか。正しいか正しくないかは誰が判断するのですか。いろいろな人がいていいと思います」

「犯罪を犯す人がいても、ですか? 犯罪のない、安心で平和な社会の方がいいでしょ?」

「もちろんです。でも、犯罪もふくめて社会が解決していくべきことだと思います」

「ほら、犯罪はない方がいいでしょ」

「だからといってみんなが同じ価値観を持つということは不可能ですし、異常です」

「そうかしら?」

「庭の芝生には色の濃い葉もあれば、薄い葉もある。だから芝生は全体として柔らかく見える」

「????」

「社会も同じです。いろいろな意見や価値観があるからこそ住みやすい社会になるんだと思います」

******************* 以上

彼女たちは「なにが言いたいの?」と思ったかもしれませんが、高校生だった私が伝えたかったのは、「教条主義におちいって、他の価値観を認めない社会は危険だ」ということでした。信仰を勧めるのは自由だが、相手に押しつけるものではないはずだ、と。その後、ふたりはあきらめたように去って行きました。理屈っぽい子どもを相手にしても仕方がないと思ったのかもしれません。とはいえ、「価値観はいろいろあっていい」という気持ちは今も同じ。価値観を押しつけられるのがもともと嫌いなのです。

最近の社会はどうでしょう。「いろいろな価値観を尊重すべき」といいながら、実は特定の価値観を押しつける世の中になりつつあるかのようです。私にすれば、「いろいろな価値観」が強調されながら、「少数の尊重」という考え方によって人々を沈黙させ、それがかえって人々を分断する道具になっているようにも見える。そして、貧困ビジネスや弱者ビジネス、差別ビジネスなどで金儲けをする手段になっているようにも。日本人がことさらに「きれいごと」に弱く、真正面から反論できない民族だからこそ陥りやすい落とし穴です。

アメリカでは、「慈善事業」が寄付金の還流団体と化し、「篤志家」が資産を増やす道具になっているといいます。日本のNPOも、公金を横流ししたり、中抜きする手段に利用されることがあるようです。設立目的が「社会的ニーズ」と合致し、その設立が法的に問題なければ、批判されないのが「慈善事業」。特定の勢力が政治家を動かし、ありもしない「社会のニーズ」を法律で押しつける。そして、広告媒体であり、私企業でもあるマスコミがその価値観を喧伝する。かくして、「世のため、人のための慈善事業」の誕生です。

 

「消費税」もその欺瞞のひとつ。消費税が日本で導入されたのは1989年、つまり、昭和が終わった年です。その後の日本経済が停滞し、そこから抜け出そうにも抜け出せないでいるのは、繰り返される消費増税のせいです。税金は社会を維持するために必要なもの。しかし、それと同時に、社会を還流するお金を吸い上げ、景気を減速させ、沈静化させるためのものでもあります。日本が冷え込む景気から抜け出そうともがく中で、「社会を維持するため」というお為ごかしによって消費税の増税を繰り返すのは馬鹿げています。

消費税の源流は、1954年にフランスが導入した「付加価値税」にはじまります。付加価値税とは仕入れ時のコストを除いた粗利益(付加価値)に対する税をいいます。付加価値税は、消費者に売ったときだけにかかる売上税とは違います。売上税は商品が売れずに赤字になった場合には免除されます。しかし、付加価値税は売り上げからすでに支払った税を差し引いた「取引きそのもの」に課されるため、赤字となっても一定額を納めなければならない「厳しい税金」なのです。日本の消費税は、実はこの付加価値税そのものです。

多くの国民は、消費税とは消費者から事業者が国にかわって徴収している税金だと思っています。それは間違いです。そんなことをいうと、「でも、代金に【消費税込み】となっているじゃないか」というかもしれません。つまり、「客が支払う代金に消費税が転嫁されているではないか」というわけです。もしかすると「消費者がおさめた消費税を店がネコババしているケースもある」と思う人すらいるはず。このように、日本の付加価値税が「消費税」と呼ばれるのは国民の目をその正体からそらすためです。

「代金に消費税が転嫁されている」との誤解は、値札にそう書かれていることから生じています。値札にそう記載するように法律で定められているのです。店側は自由に値段を決められるわけですから、多くの消費者が「値段に消費税が転嫁されている」と考えるのも無理はありません。しかし、立場の強い大企業でもないかぎり、ものがなかなか売れないデフレ下にあって、消費税を転嫁するために値上げができる事業者はそう多くありません(医療機関もそのひとつ)。公表されている経済統計がそれを物語っています。

中小企業庁のアンケート調査で、企業間取引の15%、消費者との取引の30%で「消費税を適正に転嫁できていない」と答えています。また、公正取引委員会が公表した「消費税の転嫁拒否に関する主な違反事例」でも、大規模小売業などが仕入先に対して「税込み据え置き」や「納入価格の減額」を求めるといった転嫁拒否行為の事例を多数報告しています。公取委が指導・勧告対象として公表した事案です。結局のところ、消費税は、法人税、所得税を徴収されている事業者にさらに課される直接税にほかなりません。

その一方で、輸出にかかわる企業は、海外でものを売っても消費税を転嫁できません。それを根拠として輸出企業には「消費税還付金」が支払われています。トヨタ自動車だけでも年間5000億円以上もの還付金が支払われているのです。そうした還付金は消費税が増税されればされるほど金額が増える仕組みになっています。経団連などの経営者団体がさかんに消費増税を主張するのはそのためです。彼らがいう「将来の国民生活を守るための消費増税」というものがいかに欺瞞かがおわかりいただけるでしょう。

他方、新聞社は、生活必需品である食料品と同様に消費税が8%に据え置かれる軽減税率を受けています。日常生活に直結する食料品に消費税が軽減されているのは理解できますが、なぜ「新聞」に対して消費税が優遇されているのでしょう。それは消費税に関する国民への広報を、国にとって有利なものにする対策だと噂されています。しかも複数の税率があることを口実にインボイスという制度も新たに導入されました。インボイス制度はこうした軽減税率が存在するために導入された制度です。

インボイスはおもてむき「消費税を不当におさめない事業者から公平に徴収する」ため、事業者に登録番号をつけて消費税を徴収する仕組みと思われています。しかし、その実体は、消費税をおさめなくてもいい小規模事業者を、消費税をおさめる事業者に誘導するためのものです。消費税はすでに課税された上での「第二の法人税」であり、利益の少ない小規模事業者にとっては大きな痛手になります。そうした小規模事業者もインボイスに登録しないと企業取引がしにくくなるように制度設計されているのです。これも欺瞞です。

 

最近、石破総理が「日本の財政状況はギリシャよりも悪い」と発言しました。その発言はすぐに批判されましたが、石破総理の無知・無教養には驚くばかりです。最近の総理大臣に国家観がなく、「総理大臣」になりたいだけなのは岸田前総理で知っています。しかし、生活マナーに品がないのには我慢できても、首相としての発言に知性や理性が感じられない石破氏。情報のあふれた現代社会にあって、「日本の財政状況は深刻」と信じて疑わないリテラシーの低い国民には驚きませんが、一国の総理がこの程度とは・・・。

たしかに日本政府が抱える負債は対GDP比で250%を超えています。これが石破首相のいうところの「ギリシャよりも悪い」という主張の根拠です。日本政府がもつ負債の多くは国債発行にともなうもの。しかし、その国債の50%は日銀が、さらに40%が日本国内の金融機関が保有しています。外国人投資家などが保有する割合は8%にも満たないのです。しかも、日本は世界最大の債権国、つまり、世界最大の資産を有する国家。財政状態の安定ぶりはOECD諸国の中で二番目に良い国家なのです。それが事実です。

最近、国債の発行額に関する議論も盛んです。「こんなに国債を発行して、日本の信認が低下するのではないか」というものです。その一方で、「景気が回復しないのは政府がお金を使わないから」であり、「景気回復のために国債発行を躊躇するな」という意見もあります。日本は、財政法という法律で国債の発行が原則的に禁止されています。この法律は、戦後まもない1947年に制定されましたが、その目的は「二度と戦費を(国債として)集められないようにする」ためだとされています。

財政法においては、戦後の復興をうながすため、建設国債だけは認められました。この目的以外の国債を発行するにはその都度法律(特例公債法)を定めなければなりません。1975年にオイルショックに打ちのめされた日本経済・社会は税収だけで支えることができなくなりました。それ以来、日本では赤字を補填する特例国債が発行され、その累積額は今や1000兆円を超えてしまいました。かくして政府債務は、国民のあたまの中に「日本国民一人あたりの借金は1000万円を超えた」とすり込まれているのです。

自国通貨建ての国債の価値が暴落(デフォルト)することはありません。なぜなら日本の国債は円で売買され、その多くは日銀や日本の銀行が保有しているからです。外国人の投資家が一斉に日本の国債を売りに出したとしても、理論上、日銀がどんどんそれを買い支えるので価値が暴落することはほとんどない。それは日銀は円という通貨の発行権をもっているから。つまり「打ち出の小槌」をもっているためです。日本の国債の信用が暴落することは事実上なく、現に今も日本の長期金利は低金利が続いています。

日本政府が抱える国債残高は「日本国民の借金」ではありません。そもそも国民はいったい誰から借金しているというのでしょうか。実体はずいぶん違います。国債の正体は、いわば「日本政府が国民から借りている借金」なのです。よく「国債の利払い費だけでも年間20兆円を超えている」と言われます。でも、国債の半分は日銀が買い取っており、政府がその日銀に年間10兆円以上の額を利払いしています。しかし、それらの多くは日銀の当座預金を通じて国庫、すなわち政府に戻ってきています。

積み上がる債務残高を「将来の世代にツケを払わせる忌むべきもの」と報道されます。しかし、債務残高の本当の意味は「国債を発行してきた額の記録」に過ぎません。欧米諸国がコロナ前とくらべてどのくらいの債務を増やしたかをみると、オーストラリアで9倍超、イギリスで4倍超、アメリカは3倍超、カナダでは2.6倍です。それに対して日本はわずか1.9倍。新型コロナによって経済活動が著しく低下したのにこの程度なのです。しかも、日本ではその間、消費税率を二度もあげてしまいました。景気が回復しないはずです。

国の赤字・黒字は国民生活を守る政策の結果にすぎません。国民生活のバロメータであるインフレ率は、2~3%程度が適切だとされています。ただし、そのインフレをしのぐ実質賃金の上昇がなければなりません。実質賃金の上昇をともなわないインフレは「悪いインフレ」です。今のインフレがまさにそれ。そんな状態を放置し、「国の借金は国民の負担」という欺瞞を国民に吹聴して増税を繰り返しています。国家財政の黒字化を優先し、国民の懐が赤字のままであることを放置し、国民生活を改善しようとしないのはなぜでしょう。

多くの国民が、まことしやかな「欺瞞」にごまかされています。燃料をケチっていてはエンジンは動きません。エンジンが動かなければ稼ぎを増やすことはできないのです。燃料を節約して少ない稼ぎで我慢するのか。それともそれなりの燃料費を投下して稼ぎを増やすのか。稼ぎが増えれば、はじめの燃料代も回収できるはずなのに。現状維持に汲々とする無能な経営者ほど借金を恐れます。そんな経営者のもとでその企業は衰退するばかり。まるで沈みゆく今の日本のようです。

 

昭和には無駄が多かったかもしれません。非効率な部分もありました。しかし、その無駄や非効率のおかげで社会が薄く、広く潤っていたことも否定できないと思います。私が、巷でよく言われる「いいものをより安く」が間違っていると思うのは、「いいものがより高く売れる社会」こそが健全な社会だと考えるからです。「より安い社会」はどこかにひずみを作り、強い者はより強くなって、弱い者はいつまでも弱く、弱い者は淘汰されて当然と考える社会になっていきます。そんな社会がいいはずがありません。

今の世の中、よく「勝ち組、負け組」という言葉を見かけます。実に忌まわしい言葉です。勝負に「勝ち・負け」はあっても、人の生き方に「勝ち・負け」などがあろうはずがありません。映画「昭和残侠伝・吠えろ唐獅子」には「勝つも因果、負けるも因果」という台詞がでてきます。私はこの台詞が好きです。それは、勝つこと、負けること、それぞれに意味があると思うからです。現代社会は「金持ちがどこまでも金持ちになりたがる社会」。しかし、本来は「みんながそれなりに幸福な社会」であるべきです。

昭和が終わり、日本全体が活力を失う中、一人勝ちをなんとも思わない人間が増えています。日本だけではなく、世界中に「今だけ、金だけ、自分だけ」の人たちがいます。彼等は、自分の利益のためであれば、社会の価値観が大きく変わること、変えることをなんとも思わない。なんなら戦争をしてまでも、です。そして、そんな人たちほど「それが今の時代だ」とうそぶくのです。しかし、急激な価値観の変化は決していいことではありません。ずる賢くて、嫌悪すべき人たちが私たちをだましているかもしれないからです。

「昭和」という時代にも問題はありました。しかし、今年は昭和が終わって35年。「昭和100年」にあたる年でもあります。時代の変化は急激であり、今や「きれいごと」や「耳障りのいい言葉」が幅を効かせ、ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)によって人の価値観が断罪されるようになりました。そうしたことによって人々を分断し、対立と差別を助長しているのです。それがなにを意味しているのかはわかりません。でも、貧困であれ、差別であれ、もっと正面から議論できた時代が昭和だったように思います

「昭和」の象徴でもあった長島茂雄氏逝去によって、昭和はセピア色の歴史のいち時代になってしまったように感じます。と同時に、これからは「グローバリズムとナショナリズムの中で日本の社会はどうあるべきか」を常に考えなければならない時代であり、「社会の価値観と個人の価値観をどう調整していくか」が問われる時代になると思います。そのような大きなうねりの中で、私自身は「みんなちがって、みんないい」といえる社会になってほしい。そんなことを考えながら長島茂雄氏の御魂に合掌しました。

病める人たちへの応援歌

2023年12月にはじめて一緒に映画を観に行った母が脳腫瘍になってしまいました。昨年の11月頃から呂律がまわらなくなりはじめ、左の手足の動きもぎこちなくなりました。2023年の春、大きな後遺症は残さなかったものの、軽い脳梗塞になっていたことから、私は「脳梗塞が再発したのか」と思っていました。それにしては血圧はそれほど高くなっておらず、また、症状の軽い日もあるなど、脳梗塞にしては必ずしも合致しない状況をなんとなく不思議に思っていました。

でも、年末の忙しさに追われているうちに症状はどんどんひどくなり、飲み込みも怪しくなってきたことから病院を受診させました。そして、MRIを撮った結果、「右前頭葉の脳腫瘍」との診断。その病院では治療ができなかったため、他の病院を受診する必要がありました。とはいえ、タイミング悪く、年末のお休みに入ってしまい、受診は年明けになります。しかも紹介された病院の予約がとれたのは1月15日でした。日に日に症状がひどくなるのにヒヤヒヤしながら年が明けるのを待ちました。

正月、まだなんとか歩けた母といっしょに父親の墓参りに行きました。「母親の脳腫瘍が悪性度の高いものではないように」と父親の墓に手をあわる私。年が明けると早々に別の病院に紹介状を書き、受診させました。受診した病院の外来医は「進行が早いので早く処置をした方がいい」と即日入院させてくれました。満床なのにベット調整をしてまで入院させてくれた外来医には感謝です。翌週、さっそく腫瘍のまわりに溜まった水をぬく姑息的措置を受けることになりました。

病理診断の結果、やはり悪性度の高い神経膠芽腫という脳腫瘍でした。術前に撮ったMRIでの腫瘍のサイズは、年末の病院でのそれの倍ほどに。腫瘍を摘出することはもうすでに不可能であり、放射線治療と抗がん剤でなんとか成長を抑える治療効果に期待するしかありません。溜まった浸出液を排液する管を患部に入れる手術が終わった母は、術後、ベット柵を一日中叩くなどの不穏な状態が続き、かろうじて動いていた左手足もまったく動かなくなりました。私はこの一ヶ月の変化の大きさに少し動揺していました。

母親が入院した病院は、救急の指定を受けていることもあって慌ただしい雰囲気がありました。職員もいつも忙しく動いていて、大きな病院にしばしば見られる「患者の放置」を心配しました。でも、その病院は忙しいながらも、職員の人たちもそれなりによくしてくれました。術後のお見舞いに行ったときのこと、麻酔の影響がまだ残っているのか、ぼんやりしながら何かを伝えようと口ごもっています。しかし、口の中が乾燥して思ったように話せないようでした。

家内が口のまわりをぬれたハンカチで軽くぬぐってもいいか看護師に声をかけました。すると、なにか仕事をしていたにもかかわらず、わざわざ母親のベットサイドに来てくれ、その様子を見て「乾燥しているようなので口腔内ケアをしましょう」といってすぐに対応してくれました。嫌な顔もせず、仕事を中断してまでめんどうなことをやってくれるこの看護師さんが私には「白衣の天使」に見えました(マスク美人だったから?)。患者側の立場に立ってあらためて見えてくるものがあるものです。

その後の母は、しばらくは混乱しているようで、すっかり寝たきりの認知症患者のようになりました。ベット柵を叩いて音を立てたり、手から延びている点滴や尿道カテーテルを抜いたりするため、準拘束された時期もありました。しかし、術後の影響も少しずつなくなり、話す言葉もなんとかわかるようなものになってきました。動かなかった左の手足も動くようになり、徐々に改善していることがわかります。しかし、前頭葉の脳腫瘍であるためなのか、前頭側頭型認知症のような症状がでてきました。

私が見舞いに行くたびに、「あたまの病気の方はもういいのか?」と心配そうに言います。どうやら私が脳腫瘍になったと思っているようです。そんなとき私はあえて否定せず、「こっちはもうすっかりよくなったから大丈夫。そっちの病気の方はどう?」と返しています。そうすると、「あれっ?私が勘違いしてるのかな?」という表情になります。間違いのない記憶も多いのですが、忘れてしまったこと、あるいは、妄想ともいうような誤った記憶になっていることも少なくありません。

家内とふたりで見舞いに行くのですが、あるとき、家内がひとりで見舞いに行ったことがあります。いつも一緒の私がいなかったことがそうさせたのか、いつしか母親の中の私は家内と離婚したことになっていました。見舞いに行った私を見るなり、「おまえも離婚してしまったのだから、早くいい人をみつけなさい」と真顔で。隣に立っている家内を指さして、「この人、誰かわかる?」と尋ねると、不思議そうな表情で「わからない」と。家内がマスクをしていたせいでわからなかったのか、まるで忘れてしまったかのです。

私は笑いそうになるのをこらえながら、「大丈夫だよ。今はこの人と一緒に生活しているから」と。家内は多少ショックを受けたようでしたが、別の日に見舞いにいった妹によると、「私と離婚した家内」は母親の入院している病院の看護師になっているそうです。実家のご近所の方も病院の職員として働いていると言ってみたり、記憶の混乱や妄想がその後もしばらく続きました(そして、今も多少の混乱が続いています)。でも、大騒ぎをしたり、乱暴になったりしていないことが救いです。

こんなこともありました。母親の隣のベットには母と同じぐらいの高齢患者がいます。ある日、母と私たち夫婦が会話をしていると、カーテンの向こうから「すみません」とか細い声が聞こえてきました。しばらく無視していた私たちですが、どうやらその声は私たちに向けられているようです。家内がカーテンを少し開けて、「どうなさいましたか?」と声をかけました。するとその患者が言いました。「私にチューしてくれませんか」。一瞬、家内はひるんだように言葉を失いました。

しばらくの間があき、「はぁ・・・?あのぉ・・・」と戸惑いながらも言葉が出てこない家内。その患者は「私にチューしてほしいんです」と繰り返します。家内は耳を疑ったようですが、患者が自分のマスクをはずすのを見て確信したようです。「この人は私にチューを求めている」と。家内は動揺を隠しながらも「私はご家族ではないので、それはできないんですよ」と患者をなだめました。「そうですか。わかりました」と残念そう。穏やかで、素直で、優しそうな患者さんでよかったです。

この病院での治療をひとまず終えて、母は今、他の病院のリハビリ病棟に転院しました。広々とした、明るい病院です。院長先生をはじめ、職員の皆さんの雰囲気も話し好きな母には合っているように思います。きっと気に入ってくれるでしょう。入院時の病院スタッフとの面談で私は「急変した場合は積極的な救命措置を望まないこと」、「残された療養を穏やかに過ごせることを優先してほしい」とお願いしました。それほど長くはないであろう母親に残された生活に苦痛がないことを望むからです。

病院スタッフとの面談で、私は「これまで認知症状がなかった母親は、今回の病気の影響で前頭側頭型の認知症のようになってしまいました。もし、スタッフの皆さんに失礼なことを言ったりしたら許してやってください」と付け加えました。前の病院では、ありもしない妄想でスタッフに「あなたはウソばかり言っている」とありもしないことで悪態をついたりしたからです。しかし、「そういうことは慣れているので大丈夫ですよ」と今度の病院のスタッフも笑いながら言ってくれました。

入院前、母は「なんでこんな病気になってしまったのだろう」とこぼしたといいます。そのことを聴いた私は母親を不憫に思いました。しかし、以前から母親には「長生きは修行なんだよ」と繰り返し言ってきました。「あの人も亡くなった。この人も認知症になった」とこぼす母に、私は「幸運にも長生きできた人には、そうした人たちの悔しい思いを背負いながら生きる義務があるんだよ」と言ってきたのです。長生きは決して安楽なことばかりではありません。長生きには長生きなりのつらさがあるのです。

昔、ある高齢の患者さんに「どうして生きているのかわからない」と言われたことがあります。そのとき、長生きをしなければわからないつらさがあることに気付きました。しかし、私は言いました。「それは、あなたの生きざま、死にざまを若い人たちに見せつけるために生きているのですよ」と。人生は修行であり、それは「苦行」かもしれない。でも、自分にとっては修行としての意味があり、その修行が満了したときにお迎えがやってくる。まわりの人たちにその生きざま、死にざまを残して旅立っていくのです。

私が兄のように思っていた叔父が数年前に亡くなりました。私のクリニックに通院していたのですが、たまたま受けた内視鏡検査の事前検査で異常があり、それが進行した膵臓癌によるものだったことがわかったのです。自分のクリニックに通院させておきながら見逃してしまったことを悔やみました。しかし、異常が見つかる三ヶ月前の当院での採血では異常がなかったのです。でも、その後の叔父は、まさに生きざま、死にざまを私に見せつけました。残された1年間を冷静かつ淡々と、そして、立派に生き抜いたのです。

病院では手術不能の膵臓癌であること。肝転移もすでにあり、余命もそれほど長くはないことを説明されたはずです。私のところに報告に来る叔父は冷静でしたが、主治医から説明を受けたときはきっと動揺したに違いありません。治療の選択について意見を求められたとき、私は「積極的な治療をして、体力を必要以上に奪われる選択はあまりお勧めしない」とお話ししました。そして、叔父はその通りの治療を選びました。検査のたびに報告に来る叔父に、私も淡々と、そして、悲壮感が漂わないように接しました。

叔父のふたりの息子達に私は「夏になる頃には状態が厳しくなると思う」と告げました。叔父の性格を思うと、主治医から受けていた説明を自分の家族にこと細かく伝えていないだろうと思ったからです。叔父は自分がなにもできなくなるまでにやっておくべきことをテキパキと片付けていきました。自分に残された日々が長くはないことを知っている人とは思えないほどの手際の良さでした。そして、それを「自分の終活だから」と笑う叔父に、私は「日々が終活なのはみんなも同じですよ」と涙をこらえながら言いました。

亡くなる数日前、入院中の叔父は携帯電話で私のところに電話をしてきました。突然、呂律がまわらなくなったらしく、話しの内容がよく聞き取れません。私はとっさに「これは腫瘍塞栓による脳梗塞だ」と思いました。肝臓に転移した癌の一部がはがれおちて血液とともに脳にながれて起こる脳梗塞なのです。おそらく「なぜこのような症状になったのだろうか」と聞きたかったのかも知れません。でも、もはや厳しい段階になったことは間違いなく、叔父の家族にこの状況を早く知らせた方がいいと思いました。

「申し訳ないけど、話しの内容がよく聞き取れない。家族に連絡しておくから、一緒に主治医と相談してほしい」と話して電話を切った私は、これで叔父と会話するのも最後になるだろうと思いました。そして、何日かたって叔父が亡くなったことを知らされました。息子は「最後に間に合わなかった」と肩を落としていました。私は彼に「でも、君のお父さんにとってはそれでよかったのかもよ。自分の弱っていくところを見せたくない人だったから」と言いました。それは私の正直な気持ちでした。

人の生きざま、死にざまから学ぶことは少なくありません。私はたくさんの「死にゆく人」と接し、見てきました。人が死ぬことは悲しいことであり、その人を失うことの寂しさは測りしれません。しかし、人が旅絶っていくということの意味はそればかりではないのです。その死にざま、生きざまを通じて残された人たちに語りかけているのです。「私からおまえはなにを学ぶのか」と。最愛の人を失ったことの喪失感に自分を見失う人がいます。でも、故人はそんなことを望んでいないはずです。

認知症のなかった母親がどんどん変わっていく姿を「可哀想だ」と思ったこともあります。でも、認知症もないまま、今の病気のこと、これからの自分を待ちうけている未来のことを考えるのはつらすぎるはず。認知症になったことで、そうした不安感、恐怖心から多少なりとも逃れられるのであれば、それはそれでよかったことのようにも思えます。年をとることは病気ではありません。その意味で、「ものわすれ」だって病気ではありません。老化現象と認知症の境界がどこかについては議論のわかれるところだとしても、です。

「自分は認知症ではないか」と不安になって当院に受診される人がいます。その多くが認知症ではないのですが、そんな人たちには「自分が認知症じゃないかと心配しているうちは認知症ではありません」とお話ししています。認知症は不治の病。治すことはできないのです。最近、いいお薬が出たことは報道でご存知の方も多いかもしれません。しかし、その薬を使えば年間300万円もかかります。しかも「症状を9ヶ月短縮する」程度の効果です。そもそも「9ヶ月の短縮」って「300万円の効果」といえるのでしょうか。

歳を重ねるにしたがって病気にかかっていくのは当たり前です。病気と無縁でいられた若いときと同じというわけにはいかないのです。日本人はともすると「ゼロか百」、「無謬性」にこだわります。人は誰でも必ず死にます。それと同じように年をとればなんらかの不具合が生じるもの。でも、その不具合は生活の支障とならないように対処することが可能です。そして、自分の病気や不具合との関わり方や生きざまを通じて、周囲の人たちの模範や希望、教訓となることもできるのです。

先ほどの叔父も、7年前に亡くなった父もそうでした。彼等の生前の姿から学ぶことも多く、模範とすべきことも少なくなかったと思います。父を亡くしてから、母は一人暮らしとなりました。幼い頃に母親を亡くしましたが、母はたくさんの家族・親戚のなかで成長しました。そんな大勢で生活してきた彼女にとって、一人暮らしはさぞかし淋しいだろうと思いましたが、母は「今が一番しあわせ」と繰り返して言っていました。そして、「お父さんには感謝だわ」とも。母が一人暮らしを幸福だと感じていたのは意外でした。

つらい病気も少なくありません。自分の病に悩んでいる人もいます。ですから、全部をひとまとめにして言うことはできませんが、「歳をとって病気になるのは当たり前なのだ」と考えるべきです。健康体でなくてもいいのです。もちろん、「これからどうなるのだろう」と不安を感じたり、恐怖に思うことすらあるかもしれません。でも、人の人生はあくまでも相対的なもの。過去の自分と比較することはできません。他人の人生と比べるものですらありません。それが「あなたの人生」なのです。

「修行」を満了して旅立つときに「苦」はありません。むしろ、「苦から解放される瞬間」なのです。どんな生い立ちだったにせよ、どんな生き方をしてきたにせよ、「修行」を満了するまでの生きざま、そして、死にざまこそが一番重要です。これからの日本を担う若い人たち、残された周囲の人たちへのメッセージでもあります。そんな人生は一度きり。どうせ生きるなら前向きに「生ききる」ことです。

さまざまな病気をもつ皆さん、頑張りましょう。

 

※ 「老い」を感じて私が思うのは、これからの若い人たちに頑張ってもらいたいということ。

そんな若者への応援歌はサザン・オールスターズの「希望の轍」

by 若い人の希望になりたい老人(私のこと)

ウクライナの希望

はたしてロシアとウクライナは停戦に合意できるでしょうか。2022年2月24日、ロシア軍が国境を越えてウクライナ領に侵攻し、これまでウクライナ側の発表で4万5千人あまりの兵士が戦死。ロシア側にも10万人を超える戦死者が出たとされています(事実はこれ以上でしょう)。負傷した兵士は露・宇ともに戦死者の10倍にもおよびます。ウクライナの一般市民にも1万2千人以上の犠牲者が出ているといわれています。当初はロシアによる一方的なウクライナ侵略という形で報道されていた今回の戦争も、ドナルド・トランプという人物が出現してからはこれまでとは違った様相を呈してきました。今回はその辺のことを少し書きます。

ロシアがウクライナとの国境付近に軍を集結させ、両国の緊張が高まっていたとき、アメリカの当時の大統領であるジョー・バイデンは「アメリカはウクライナに軍を派遣しない」と声明を発表しました。それはロシア軍を挑発して緊張を高めないようにするための配慮だとする識者が多かったようです。中には「軍をこのままウクライナ領内に侵攻させるほどロシアは愚かではない」と楽観的な人もいたほどです。私自身もロシアが本当に戦争をするとは思っていませんでした。ですから、アメリカからの警告がありながら、ロシア軍がウクライナに攻め込んでいったとき、「なぜそんな愚かなことをするのか」と不思議でした。

19世紀のような、領土的野望から列強が周辺国を侵略するのが当たり前の時代ならともかく、東西の冷戦構造が崩壊し、世界中の国から独裁国家が一掃されたかのような現代にあって、どうしてロシアが武力まで使ってウクライナとの国境の変更を強行しなければならなかったのか。そのような疑問に答えてくれる報道は皆無でした。そこで私はインターネットを利用して調べてみました。すると、それまで知らなかった事実が次々と明らかになってきました。そして、それまで「陰謀論」だと一蹴されてきたことまでもが、実は今回の戦争の原因につながっていると思える情報が次々と明らかになったのです。

戦争がはじまった時、世の中は「ロシアの蛮行」として一方的に批判しました。「大国ロシアに侵略を受ける可哀想な小国ウクライナ」「ロシアがウクライナの次に狙うのはポーランドとバルト三国」と人々の危機感と恐怖心を煽る報道一辺倒でした。なるほどウクライナは「大国アメリカに立ち向かう小国日本」のようにも見えました。しかし、いろいろ調べていくうちに、ロシアがウクライナへの侵攻を余儀なくされた「ある事情」があったことがわかりました。それが「アメリカの世界戦略」でした。そんなロシアはまるで、アメリカの世界戦略によって戦争をするしかなかったかつての日本と重なります。

それらのことをまとめて次のような記事をブログに掲載しました。

************ 以下、2023年5月14日「軽薄な理想主義

前略

ロシアとウクライナの戦争が続いています。しかし、その戦争にいたるまでの経緯を知らない人が少なくありません。ウクライナは、ロシアから欧州に向かうパイプラインの中継基地として重要な位置にあります。そして、その石油や天然ガスの利権にアメリカ企業が関与し、ウクライナをこれまで翻弄してきたのです。今の戦争にはアメリカの国際戦略が少なからず影を落としています。

とはいえ、ウクライナがロシアに負ければどうなるかがまるでわかっていない人が多すぎます。その歴史的背景がどうであれ、武力による侵略を受け、国境が力ずくで変更された国家は必然的に崩壊します。いつしか世界史から消えていくのです。これまでの世界史が繰り返してきたその恐ろしさをリアルに感じとることができない日本人が少なくないのはなぜでしょうか。

後略

************ 以上

************ 以下、2023年10月28日「歴史の転換点

前略

今、ウクライナでは大規模な戦争が続いています。ウクライナにはチェルノーゼムと呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「東ヨーロッパの穀倉地帯」ともいわれる世界有数の小麦の大産地になっています。南部のクリミア半島は温暖な保養地であると同時に軍事的な要衝でもあり、東西ヨーロッパの緩衝地帯として政治的に常に不安定な場所となっていました。ウクライナはかつてはキエフ公国という大国として栄えましたが、異民族の侵入をたびたび受け、モンゴル来襲をきっかけにその中心はモスクワに移ったのでした。

ロシアの大統領プーチンがウクライナを「特別な場所」というのはこのような背景があるからです。しかも、歴史的にソ連の一部だったころの影響で、ウクライナの東部にはロシア系の住民が多く住んでいます。東ウクライナに住む住民の30%あまりがロシア人なのです。ウクライナはロシアからヨーロッパに送られる原油や天然ガスのパイプラインの中継基地であり、ソ連時代から天然資源にまつわる利権が存在しています。そして、今般の戦争にその利権が暗い影を落としています。

後略

************ 以上

これまでこのブログで何度かアメリカ・カリフォルニア州にお住まいのYokoさんのお名前を紹介したことがあります。Yokoさんにはご自身のブログで私の記事をたびたび掲載していただいています。そうした縁もあって、日米の社会・政治状況についてときどき意見交換することがあります。生活する場所も異なれば、政治的な信条にも多少の違いがあります。しかし、自分とは視点のことなる意見を知ることは己の意見を客観的に見るために参考になります。先日も気になった動画をYokoさんに紹介しました。その動画は、2月21日にEU議会でおこなわれた米コロンビア大学教授ジェフリー・サックスの講演の様子です。

サックス教授は29歳でハーバード大学の教授となった秀才であり、自分の学問領域にとどまらぬ幅広い知識をもった経済学者です。ソ連が崩壊し、混乱を極める東欧国家の経済を立て直すために尽力した国際派の知識人でもあります。ヨーロッパとアメリカを往来し、ときに東欧諸国に長期滞在しながら、さまざまな要人との交流を通じて国際情勢を直に感じ取ってきた教授。私はこの動画を観たとき、「これがアメリカの良心だ」と思いました。1994年以降(実はそれ以前からですが)のアメリカの国際戦略の狡猾さ、傲慢さ、そして、強欲さに辟易していた私にとって彼はアメリカに残された「最後の正義」にすら見えました。

私がYokoさんにこの動画(「‘Europe needs an independent foreign policy’: Professor Jeffrey Sachs」)を紹介したのは、その内容がこれまでインターネットで調べて私が得ていた結論とほぼ一致していたからです。ウクライナとの国境を武力で変更しようとするロシア・プーチンに今回の戦争の法的な責任があることに異論はありません。しかし、なぜプーチンがそうせざるを得なかったのでしょうか。このウクライナ戦争を解決する糸口はまさにそこにあります。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ロシア・ウクライナ双方にはなんどか停戦するチャンスがありました。ミンスク合意がそのひとつです。

ところが、その合意が容易に破棄され、戦争は今や1000日を超えてしまいました。ミンスク合意が破棄されたのはなぜでしょうか。2014年9月にドイツとフランスが仲介して結ばれたその第一次合意はとても脆弱なものでした。そのせいか、翌年の2月には第二次合意がなされました。つまり、ウクライナ国内におけるウクライナ軍と親ロシア勢力との戦闘の停止を定めた第一次合意が守られなかったため、第二次合意ではさらに具体的な和平プロセスが決められたのです。しかし、それでもウクライナ軍と親ロシア勢力との戦闘は止まりませんでした。そして、ウクライナ国内ではその後もいろいろな衝突が繰り返されました。

今、頑なに戦闘を継続し、停戦にも懐疑的なプーチン大統領がこのミンスク合意を一方的に破棄したと報じられています。しかし、ミンスク合意が締結されたとき、私にはそのプーチンがたやすく合意したことに違和感を感じていました。現在、激しい戦争を継続しているプーチンを見れば見るほど、ミンスク合意のときのプーチンはまるで別人のようです。その理由はミンスク合意の欺瞞にあります。合意を仲介したドイツのメルケル首相はのちに「ミンスク合意はウクライナの軍隊を訓練するための時間稼ぎだった」と認めています。そのことがプーチンにアメリカやNATOに対する決定的な不信感とトラウマを植え付けたのです。

そもそもウクライナは、NATOのバックアップを受けてロシアと戦うことを決意し、停戦するつもりはありませんでした。その背後にはアメリカの意志があったのです。そうした経緯を、サックス教授は実体験を交えて淡々と訴えました。「ロシアにも戦争をせざるを得なかった理由がある。戦争を終わらせるためにはその部分を理解しなければいけない」とEU議会の人たちに語りかけたのです。私はそれをアメリカ在住のYokoさんに伝えたいと思いました。停戦という平和への第一歩は、ウクライナ戦争に至るアメリカの世界戦略にたいすて批判的な立場をとるトランプ大統領だから実現できる。私たちはそれを認めなければなりません。

サックス教授の動画を紹介した私のメイルにYokoさんから返事がありました。

 

************ Yokoさんからの返事(ご本人の許可を得て掲載します)

瀬畠先生

アメリカ人の、このような教授がいることを知って、米国に住んでいることに「誇り」を失わずに、希望を持つことができます。
本当に素晴らしい動画をお送り下さいまして、ありがとうございました。

ジェフリー・サックス教授の分かりやすい英語で、感激して、講演動画を見ることができました。

先生の「多くの人(特にアメリカ人に)に見てもらいたいです。」のお言葉に、クリント氏にまずは初めに、見てもらいました。
意に反して、大変勉強になったと開口一番、の言葉です。それで、彼のアメリカ人の友達に、転送してみてもらうよう頼みました。中には、ヨーロッパのスエーデンで生まれ育った人もいます。そしてユダヤ系アメリカ人で、現在イスラエルに住んでいる友人もいます。カリフォルニア州のリベラルの友人達や、若い甥たちにも送ってみます。

先生が同じミシガン大学に研究生として派遣され勉強なさったことを話しました。

それから、日本語訳のサイトを見つけたので、大変よく理解できました。日本人の友人にも読んでもらいます。「ヨーロッパはNATOではない:独自の外交政策が必要」ジェフリー・サックス、欧州議会で熱弁 (Jeffery Sachs: Europe is Not NATO and Needs its Own Foreign Policy)
3月の短歌通信では、先生のブログ「トランプ登場の影響」と一緒に紹介させていただきたいと、思います。
 

山根洋子コリンズ

 

************ 以上

 

先のサックス教授の動画の英語がわからない方、動画が長すぎると感じる方には次の動画が参考になるでしょう。EU議会でおこなった講演の内容を要約したものです。日本人にはありがたい字幕がついています。

「ウクライナ戦争のスタート。米ジェフリー・サックス教授インタビュー動画」

 

トランプ大統領は、次のような停戦を求めるメッセージをプーチン大統領に送ったといいます。「たくさんの若い兵士の命が失われてきた。人の命を救うためにお互いに努力しよう」と。プーチン大統領はそのメッセージに「私はその言葉を真剣に受け止めている」と答えたといいます。2014年におこなわれた「ノルマンディ上陸作戦70周年記念式典」でプーチン大統領は、広島に落とされた原爆のキノコ雲が巨大スクリーンに映ったとき、出席者の中から拍手が沸き起こる中、ただひとり胸で十字を切りました。ウラジミール・プーチンという人物がそれほどまでに敬虔な正教徒なのだということは、彼を理解する上で重要です。

ウクライナ戦争は停戦に向かって動き出しています。しかも、国家のメンツや威信のためではなく、人の命を救うために停戦交渉がなされているのです。私はそこに崇高な光が差し始めているように感じます。トランプ大統領はプロテスタント長老派。長老派はとくに社会正義と倫理観を重視する宗派だといわれています。そんなクリスチャン・トランプと正教徒・プーチンだからこそこの戦争を解決することが可能だといえるかもしれません。Yokoさんからのお返事に、私は次のようなメッセージを送りました。そのメッセージが今回のブログの結論です。一刻も早く停戦が合意され、ヨーロッパに真の平和がやってくることを祈ってやみません。

 

************ 以下、Yokoさんへの返事

Yokoさん

私がブログでなんども主張しているように、「私たちはイデオロギーや宗教観で世界・社会を決めつけてはいけない」ということが重要です。「事実を見よう、真実はなにかを考える理性を持とう」ということが大切です。その意味で、ジェフリー・サックスやミヤ・シャイマー、ロバート・ケネディJrのような人こそが「アメリカの正義」だと思います。弱者の味方だからではなく、「正義を語る」からでもない。ましてやリベラルだからでは決してない。真実がなにかを考えているからです。

かつて、日本とアメリカは戦争をしました。その原因について多くの人は、日本の帝国主義・侵略主義が原因だと考えています。しかし、実際は少し様相が異なります。日本が、国益追求という名のアメリカの植民地戦略の邪魔になったからです。

そのことはこれまでの私のブログでも少し触れていますが、元アメリカ大統領でもあるハーバート・フーバーやコロンビア大学(ジェフリー・サックスと同じ職場であるとともにビクトリア・ヌーランドの現在の職場でもあります)の教授チャールズ・ビアードが「日米が開戦をした原因はアメリカにある」と本に書いています。彼等もまた「アメリカの正義」です。

それは日本の味方をしてくれているからではありません。アメリカを自虐的に評価しているからでもありません。「真実はなにか」という視点で世界情勢を見、語っているからです。そして、その彼等の主張は「アメリカに正義を取り戻せ」とも語っているのです。

アメリカは大国であり、望むと望まざるとに関わらず世界の警察官・裁判官にならざるを得ません。かつて、セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争を終わらすため(それは貧しい日本のためでもあり、また、革命前夜だったロシアのためでもありました)、日露両国の仲介に入ったのと同じです。だからこそアメリカには正義が不可欠なのです。アメリカが「尊敬される大国」となる前提です。

その意味で、トランプを色眼鏡で見ている人たちのメガネは曇っています。洗脳されていると言っても過言ではない。トランプがなにをしようとしているのか。そして、なぜそのようなことをするのか。それを正確に知り、評価することが大切です。冒頭に書いたように、「イデオロギーや宗教観で決めつけてはいけない」という態度が重要です。トランプのなすことすべてが正しいわけではない。しかし、彼を彼の言葉だけではなく、行動によって本当の姿を知ろうとすべきです。もしかすると彼は世界史に名を残す偉大なアメリカ大統領になるかも知れない。あるいは単なる道化師にすぎないかも知れない。それを観察しつつ、我々は真実を求めていくべきだと思っています。

 

************ 以上

 

メイルに登場したミヤシャイマー教授の講演の動画も参考になります。是非、ご覧になってください。

「【ウクライナの紛争の真実】ジョン・ミアシャイマー」

 

トランプ登場の影響

1985年、まだ東西に分かれていたドイツ(西ドイツ)のワイツゼッカー大統領が、第2次世界大戦後40周年にあたって「荒れはてた40年」と題する演説をしました。「過去に目を背ける者は、現在にも目をつぶるであろう」というフレーズを耳にしたことのある人は少なくないと思います。北大生になった私がふたたび第二外国語に選んだのはドイツ語。その授業でこの演説の原文が教材として使用されました。なかなか難しい文章でしたが、当時の私にとって、その演説の内容はあまり心に響くものではありませんでした。「自分のあたまで考える若者」ではなかったからです。ワイツゼッカー大統領の演説は次のようなものです。

*********** 以下、演説の要旨

先の戦争と暴力支配で斃(たお)れたすべての人に、今、あらためて哀悼の意を表します。ことに収容所で命を落とした600万人のユダヤ人。ならびにこの戦禍に苦しみ、殺されたソ連とポーランドの無数の人々。ジプシーや同性愛者、精神障害者、また、宗教上・政治上の立場ゆえに殺されなければならなかった人たちのことを追悼します。また、ドイツ兵として斃れた同胞、空襲で、あるいは避難の途中で命を失った同胞の哀しみも同時に思い浮かべたいと思います。

戦時中の犯罪に手をくだしたのはごく少数の者です。しかし、ユダヤ人たちに非寛容な態度、あからさまな憎悪が向けられていたことはどのドイツ人も実際に目にし、耳にしていました。人間の尊厳に対するとどまることを知らぬ冒涜があったことに目をつぶろうとしていたのです。人々にとって、ユダヤ人の絶滅をはかるということは想像を超えていたかもしれません。とはいえ、そうした犯罪が起こっていたであろうことや、実際に起こっていたこと自体に多くの人が気づかぬふりをしていました。良心を麻痺させ、自分の関知することではないと沈黙していた事例がたくさんあるのです。

戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全容があきらかになったとき、一切なにも知らなかった、気配すら感じなかったと言った人が多くいました。人間の罪には、露見したものもあれば、隠し通せたものもあります。大切なのは、十分自覚しながらあの当時を生きていた人ひとりひとりが今日、どう関わっていたかを静かに自問することです。罪の有無、また、年齢を問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。当時を知る人であれば全員が、過去からの帰結に関わっており、その過去に対する責任をおわされているのです。

問題は過去を克服することではありません。そんなことなどできるはずもないのですから。過去を変えたり、なかったことにすることはできないのです。大切なのは、過去に目をつぶる人間は、結局、現在のことにも目を覆っているのだということです。非人間的な行為を心に刻むことのできない人は、またそうした危険を犯すもの。ユダヤ民族は今も、そして、これからも起こってしまったことを心に刻みつけることでしょう。私たちドイツ人は、ユダヤ民族との心からの和解を求めています。私たちがユダヤ民族と和解するためには、事実を心に刻むことなしにはありえません。

ポーランドのゲットーやチェコで虐殺された人々がいます。ロンドンやロッテルダムでは空から無数の爆弾が落とされました。敗戦によってそれまでの故郷を追われ、悲嘆と甚だしい不正にさらされたドイツ人もいます。何百万人ものドイツ人が西に追いやられ、たくさんのポーランド人やロシア人が戻ってきました。そうした人たちも、かつては不正に耐えかね、自らの意志に反して故郷を離れざるを得なかった人たちでした。ヨーロッパの諸国民は故郷を愛しています。平和はそのためにあるのであって、決して復讐主義におちいることではありません。

われわれのもとで、新しい世代が成長し、政治的な責任をとれるようになりました。若い人たちに過去に起こったことの責任はありません。歴史の結果から生じた出来事に責任があるのみです。われわれ年長者は、若者がユートピアの救済論に逃避したり、道徳的に傲慢・不遜になることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう手助けしようではありませんか。人間がなすことは歴史から学ばねばなりません。人間は必ずしもより良くなっていくわけではないのです。道徳は完成することがありません。道徳的危機を乗り越えていくだけです。しかし、私たちにはそれが可能です。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

*************** 以上

今、改めて読むと素晴らしい演説です。ユダヤ人に対する民族浄化という戦争犯罪を背負うことになったドイツ国民として、自虐史観に陥らず、だからといって言い訳に逃げず、未来への展望をもってほしいと若者に語りかける内容に感動します。当時の私がこの演説に共感することはおろか、理解もできなかったのは、ひとえに社会的に未熟で、世界の歴史に対しても、また、地球上で起きているさまざまな変化にも関心がなかったからです。しかし、それなりの知識と教養を身につけた今であればこの演説の価値がわかります。と同時に、今の若い人たちには是非とも読んでほしい内容です。

これまで何度も繰り返してきたように、世界は大きな「歴史の転換点」にあります。その世界の様相(とくにアメリカの変貌)については、これまでの記事を読み返していただくとして、地殻変動のような世界的な変化のうねりが顕著になったのは、ドナルド・トランプというひとりの不動産王がアメリカの大統領になってからのことです。それはまるで、トランプ大統領という存在が、世界を密かに動かしている人たちをあぶりだしているかのようです。その人たちをディープ・ステート(闇の国家)と呼ぶかどうかはともかく、エスタブリッシュメントと化した大きな力が世界に影響を及ぼしていることが明らかになりつつあります。

40年前の若き日のトランプ大統領のインタビューを動画でみることができます。世界的な好景気にアメリカ経済が支えられているときのものです。不動産業によって莫大な資産を築き、成功した若き経営者としてインタビューを受けるドナルド・トランプ。当時のアメリカ社会を次のように表現します。「アメリカはずる賢い連中に盗まれている。アメリカ国内にいる連中にばかり盗まれているわけではない。日本やドイツ・ヨーロッパなどの賢い国家によってもアメリカは盗まれているのだ。しかし、彼等は悪くはない。アメリカを動かしている指導者、官僚たちのあたまが悪いからこうなるのだ」と。

今の主張と寸分もかわらないトランプ節です。「それではあなたが大統領になってはどうですか?」と問われたトランプは言います。「なるかもしれない。しかし、今はそのときではない。私が大統領になることよりも、アメリカをよい方向に導こうとする大統領に協力したいと思う」。トランプ氏はかつて民主党員でした。民主党に多額の献金をする大口のスポンサーだったのです。ところが、ソビエトにゴルバチョフという新たな指導者があらわれ、東西の冷戦構造が崩壊して世界は「素晴らしい状況」になるとトランプは思ったかも知れません(当時の私と同じように)。でも、その頃からアメリカが暴走をはじめました。

1993年に民主党のビル・クリントンがアメリカ大統領になりました。軍事バランスで平和がなりたっていた東西冷戦時代が終わって、東側諸国が次々と西側陣営に加わっていきます。しかし、ビル・クリントンは外交には無関心で、自他ともに認める外交能力に劣る大統領でした。在任中、中国に近づきすぎて「チャイナ ゲート」と呼ばれる不正資金供与疑惑も追及されました。その疑惑はビルの妻でもあるヒラリー・クリントンが原因だといわれています。クリントン氏は、その他にも、金にまつわるさまざまな疑惑を招きながら、大きく報道されることのなかった大統領だったのです。

クリントン大統領がもっとも批判されたのはさまざまな女性関係に関するものでした(そして、それは今も「エプスタイン・スキャンダル」として尾をひいています)。大統領就任前から多数の不倫関係を持ち、モニカ・ルインスキーという東欧系ユダヤ人との「不適切な関係」が大きく報道されました(東欧系ユダヤ人という存在は、今のウクライナ戦争でも影を落としています)。モニカ・ルインスキーとのスキャンダルはクリントン大統領の政治力を急速に低下させるものでしたが、それ以外にも女性問題によっていくつかの裁判で訴えられ、合衆国の国際的な地位と名誉そのものが地に落ちていきました。

その一方で、クリントン大統領はパレスチナにおけるアラファトPLO議長とイスラエルのラビン首相との和平合意をまとめることに失敗しました。ヨーロッパにおいては東欧のコソボでの民族紛争に介入し、アメリカ軍が一般市民を狙ったユーゴ空爆(国際法違反)を承認したのもクリントンです。イラクのバクダッドへの大規模なミサイル攻撃「砂漠の狐作戦」や、スーダンの医薬品を生産する工場にミサイル攻撃することをも承認しました。あるいは、ソマリアの内戦にアメリカ軍を投入し、部隊の撤退に失敗してウガンダでの虐殺を黙認するなど、クリントンは世界各地の紛争にアメリカを介入させた大統領なのです。

リベラルで穏健であると思われていた民主党が、実はさまざまな疑惑にまみれ、世界各地で戦争を繰り返していました。それに嫌気がさしたのかどうかはわかりませんが、トランプ氏は合衆国大統領が民主党のクリントンから共和党のジョージ・ブッシュに替わった2001年に民主党を離れました。無所属になったトランプ氏は、その後もさまざまな政治の腐敗、アメリカという国家の闇を見てきたに違いありません。民主党のバラク・オバマが2008年にアメリカの大統領になって、ノーベル平和賞を受賞してもそれはかわらなかったのです。むしろ、オバマ大統領のときの方が実はさらに深刻な事態になっていました。

オバマが大統領に再選された2012年、よほど民主党に失望したのでしょう。トランプは共和党に入党します。それはオバマ政権のときの国務長官(日本での外務大臣)だったヒラリー・クリントンが密かにしていたことを振り返るだけでもわかります。そのことは、2016年におこなわれたニューヨーク司教主催の慈善イベント「アル・スミス・ディナー」でトランプ氏が辛辣な言葉で語っています。しかし、会場にいた聴衆たちは当時、トランプ氏のぶしつけな放言ととらえ、苦々しい表情で聞き流していました。しかし、今、改めて聞くと、トランプ氏の指摘がいかに正しかったかがわかります。

大金持ちのドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領になぜなったのか。第一次トランプ政権時の4年間、合衆国大統領として受け取るはずの40万ドル(約6000万円)の年俸全額を、トランプ氏は退役軍人の支援のために、国立公園の自然保護のために、麻薬や薬害の被害者のために寄付しています。トランプ氏に対して「大統領になった理由は、金の次は名誉、にすぎない」と酷評する人がいます。しかし、名誉を得るためだけに大統領になる人がいるでしょうか。しかも、自分の資産を大きく減らしてまで。いや、いたとして、そんな人が暗殺されるのも覚悟の上で、アメリカがかかえるさまざまな問題の矢面に立つでしょうか。

トランプ氏がやってきたこと、そして、これからやろうとしていることを見誤ってはいけません。その隠れたメッセージを正しく読み取るべきです。もし、彼がやろうとしていることが、アメリカ合衆国という場所で成就したとしたら世界も大きくかわります。日本の「あたまの悪い政治家」や「天下・国家のことよりも選挙のことしかあたまにない政治家」であれ、その大きな世界的変化についていかなければなりません。そのときこそ若者の出番です。日本の将来は「今だけ、金だけ、自分だけ」のジジィとババァのためにあるわけではありません。これからの日本を担う若い人たちのためにあるのです。

冒頭のワイツゼッカーの言葉を繰り返します。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

私がとくに伝えたいことは「できるだけ真実に目を向けること」という部分です。前回の投稿「価値観の違い(2)」にも書いたように、真実かどうかは自分の理性を働かせて判断するしかありません。その情報が正しいかどうかは国家が示すことでもなければ、誰かに指示されることでもないのです。その意味で、今、新聞やTVといった、いわゆるオールド・メディアがさかんにキャンペーンを張っている「SNSの誤情報」という言葉に騙されてはいけない。オールド・メディア自身がこれまで誤情報や世論を誘導するための偏った情報を流してきたという事実を忘れてはいけません。

東日本大震災にともなう原発事故の時、放射能に対する過剰な報道に疑問を感じた私はなにが真実かを自分の手で探し、自分のあたまで判断することの重要性を学びました。そして、放射能の危険性に冷静になるべきだというレジュメを作って来院患者に配っていました。しかし、そうした私の行動に批判的な人もいました。「患者の命を守るべき医者として放射能の危険性を軽視しすぎだ」というのです。でも、さまざまな情報が飛び交うことは決して悪いことではありません。情報の正しさが後になってわかることがあるからです。原発事故の際に私が書いたレジュメの正しさはそのことを物語っています。

第二次トランプ政権の副大統領であるJ・D・バンスがミュンヘン安全保障会議で演説しました。そこで彼は「いろいろな意見が表明され、議論が交わされることが真の民主主義である」と語っています。また、価値観のなにが正しく、なにが間違っているかはもとより、人の心のありようを法律で断罪することの恐ろしさを指摘しています。その動画の中で、聴衆が「???」としているのは興味深い光景です。バンス副大統領は、私がこのブログで繰り返してきたことを、わかりやすく、簡潔に述べています。是非、最後まで見て下さい。そして、今の社会の動きを振り返って下さい。あとは皆さんがどう行動するかにかかっています。