何を守るのか

昨年12月、90歳になる母親を連れて映画「Godzilla -1.0(ゴジラ・マイナスワン)」を観ました。ゴジラ映画はあまりにも有名ですが、個人的にはそれほど興味がなかったため、1954年に作られた第一作からこれまで一度も観たことがありません。ただ、2016年に公開された前作の映画「シン・ゴジラ」については、その評判がよかったので、事前に予告などを観ずにDVDを買ってしまいました。しかし、そのストーリー以前に、出演している役者の演技がことごとく下手で、DVDを購入したことを後悔したほどです。

今回の作品については多くの人が高評価をつけており、観た人たちのコメントの多くも「前作をうわまわる出来映え」とのこと。そこで「マイナスワン」は映画館で観てみることにしました。しかし、家内に「一緒に行こう」と誘いましたが、つれなく断られてしまいました。息子達にも冷たくあしらわれた私は、実家で一人暮らしをしている母親を連れて行くことにしました。思えば、母とふたりで映画を観るのははじめてです。脳梗塞を患ってまだ半年。しかも耳の遠い母親でしたが意外と「行く」との返事でした。

映画は1947年(昭和22年)の東京が舞台。母親がまだ女学校の生徒だったころの話しです。米軍の焼夷爆弾によって焦土と化した東京が、再びゴジラに襲われて壊滅的な被害を受けます。「マイナスワン」というタイトルはその惨状を意味しています。人々を恐怖と絶望に陥らせたゴジラにどう立ち向かうか。戦争の傷跡の癒えない人たちの戦いがはじまったのです。その戦いの中心人物が、意志の弱さゆえに攻撃から逃げ帰ってきた若き特攻隊員。ストーリーが進むにつれ彼の負い目が徐々に勇気へと変わっていきました。

事前の評判の通り、なかなか面白い映画でした。ストーリーは比較的単純でしたが、それなりにどんでん返しがあって楽しむことができます。「今回のゴジラはこれまでで一番怖かった」という声にもうなずけます。映像も美しく、迫力があり、音楽もすばらしかったです。演じていた俳優も適材適所といえるでしょう。母親も見終わったとき「面白かったよ」と言ってくれ、連れて行ってよかったと思いました。私などはめずらしくあとでもう一度映画館に足を運んだほどでした(そのときも誰も付き合ってくれなかった)。

私はこの映画を観て改めて感じました。「人には守るべきものがある」ということを。この映画を観に行った頃、私はこのブログに「映画『トラ・トラ・トラ』」と題する小論を掲載するため、ちょうど真珠湾攻撃のことを調べていました。そして、当時の軍人・兵隊たちがどんな気持ちで開戦を迎えたのかをあれこれ考えていたのです。「ゴジラ・マイナスワン」の主人公は自責の念に苦しんだ特攻隊員でした。その彼の思いが真珠湾攻撃に参加した軍人たちの「守るべきもの」と重なって私の心の琴線に触れたのかもしれません。

記事「映画『トラ・トラ・トラ』」でも紹介したように、攻撃を指揮した山本五十六は当初、真珠湾攻撃はもちろん、日米開戦そのものに反対していました。その五十六がなぜ連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案し、実行することになったのか。今も諸説、さまざまな解釈があります。山本五十六には、彼が大きな影響を受けた終生の親友がいました。その人の名は堀悌吉といい、海軍兵学校第32期の同期生。五十六の卒業時の成績は192名中11番。堀悌吉という親友は首席で卒業する優秀な生徒でした。

五十六と堀は在学中から意気投合します。お互いに議論を交わし、切磋琢磨する間柄だったのです。あるとき成績が振るわなかった五十六を、堀は「我々が勉強するのは席次のためではない。立派な軍人になるためだ。精一杯やった結果なのであればそれでいいではないか」と励まします。海軍では兵学校や海軍大学校卒業時の成績が優秀であれば、あとは無難に過ごしているだけで出世の道が保証されます。しかし、優秀な二人ではありましたが、昇っていった高級幹部への階段は決して順調なものにはなりませんでした。

海軍には艦隊派と条約派と呼ばれる、方向性を異とする派閥があって対立していました。第一次世界大戦後の日本は、アジアの一等国入りをした勢いを借りて、欧米列強に負けないほどの軍事力を持つようになりました。日清戦争は明治維新のたった26年後のことであり、日露戦争はそのさらに10年後のことです。清とロシアというユーラシアの大国を相手に、日本は二度の大きな戦争を勝ち抜きました。こうした戦果は軍事力の急速な近代化を背景にしています。しかも、そのスピードは世界でも類を見ない早さでした。

幕末、諸外国からの脅威にさらされた日本は、軍事力の必要性を思い知ります。日本に先立って産業革命をなし遂げ、すでに近代国家となっていた欧米列強は植民地を次々と拡大していきました。江戸幕府は、力なき国家、備えなき国家がいともたやすく欧米の植民地となっていく事例を知っていたのです。まさに欧米の「悪意ある善政」によってなにもかもが強奪・奪取され、現地の人間が奴隷として売られていく。豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタンの布教を禁じたのはそのためでした。

明治維新以来、日本が急速に富国強兵の政策を推し進めたのは、ひとえに日本が欧米列強の植民地にならないため。日本が朝鮮半島の近代化を望み、両班たち(朝鮮の王族)にその意思がないと見るや武力をちらつかせてまで朝鮮半島の近代化を求めたのもそのためだったのです。その一方で、すでにアジアに多くの植民地をもつ欧米にとって、日本の軍事力の増強はアジアにおける自分たちの権益に対する脅威以外のなにものでもありません。彼等はやがて日本を封じ込めるため、海軍の軍縮を求めるようになりました。

ところで、大戦後の平和維持のため、1920年に米国のウィルソン大統領が国際連盟の創設を提唱しました。しかし、アメリカは当初、国際連盟に加盟しませんでした。それはアメリカにはモンロー主義(他国の紛争に関与しないという宣言)があったからですが、もっと大きく根本的な理由がありました。国際連盟の創設に先立つパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃条約」を採択するよう提案しました。アジアやアフリカにおける、欧米列強による非人道的で、きわめて差別的な植民地政策が行なわれていたからです。

国際会議において人種差別の撤廃を訴えたのは日本がはじめてでした。明治維新のたった50年後の日本がこうしたことをするというのは驚きです。しかし、採択に消極的な国は少なくなく、アメリカのように黒人奴隷を制度として残している国は採択に反対しました。日本は条文を修正するなどしてなんとか採択にもちこもうと努力しました。しかし、採決の結果、米・英はもちろんブラジルやポーランドなどが反対票を投じ、議長だったウィルソン大統領が全会一致でなかったことを理由に否決してしまいました

国際連盟が機能不全をおこすであろうことは当初から容易に想像がつくことでした。パリ講和会議後に採択されたベルサイユ条約で戦勝国フランスは、敗戦国ドイツに当時のGNPの20年分を超える1320億マルク(今の400兆円)の賠償をするよう強行に主張しました。それはまるで普仏戦争での恨みをはらすかのようでした。その結果、ドイツの物価は一年で20億倍に跳ね上がり、戦後のドイツ人の暮らしをまさに塗炭の苦しみにしました。その苦しみはやがてドイツ人の不満と復讐心となり、ヒトラーの出現を招来します。

その一方で、イギリスは、中東での支配を確かなものにするため、いわゆる「三枚舌外交」をおこなって、今のパレスチナの混乱につながる火種を作りました。また、イギリスは、アメリカとともに海軍軍縮国際会議を開き、台頭する日本の軍事力を制限しようとしました。徐々に狭まる日本包囲網を警戒した日本帝国海軍は、交渉によって事態を打開しようとする交渉派と、あくまでも欧米の介入を許さずに海軍力を維持しようとする艦隊派とが対立していました。軍縮会議の責任者でもあった堀悌吉は交渉派でした。

アジアでの権益をめぐって欧米と対立する日本は、ソ連の南下にも注意しなければなりませんでした。ソ連とは満州やモンゴルとの国境をめぐってせめぎ合い、ウラジオストクやカムチャッカ半島からソ連が日本の出方をにらんでいるといった状況にありました。折しも1922年に帝政ロシアは共産革命によってソビエト社会主義共和国連邦となっていました。ドイツ帝国も1918年に革命がおこり、皇帝がオランダに逃げて退位。共和国になったばかりです。日本は共産主義という火の粉がソ連から飛んでくることを恐れました。

1934年、軍縮会議をなんとかまとめて帰国した交渉派の堀悌吉らを、艦隊派はもちろんマスコミが「弱腰だ」と強く批難しました。その声はやがて世論となって交渉派を追い落とすことになります。「これでなんとか危機的状況から脱することができた」とほっとして戻ってきた堀たちは、すでに海軍省内に自分の居場所がなくなったことを感じたようです。堀は無役の予備役となり、海軍兵学校の校長に転出します。その一方で堀との親交を深めていた山本五十六は1939年に連合艦隊司令長官に昇進しました。

1940年には日独伊三国同盟が締結されました。世の中は快進撃をつづけるドイツとの同盟に熱狂します。しかし、山本五十六は堀悌吉とともに三国同盟に反対の立場をとりました。五十六が反対するのは「地理的に遠すぎて同盟をむすぶメリットが少ないばかりか、アメリカを無用に刺激する」という合理的な理由からでした。それに対して堀は「ドイツの軍国主義や帝国主義が極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝のありさまを見るとたまらなく不愉快」と述べています。そんな二人の声は海軍には届きません。

自分の信念を曲げず、不本意ながらも出世の道をはずれて退役に追い込まれた堀悌吉。そうした彼の生き様は、学生時代、五十六に言った「自分の本分を尽くせば席次などどうでもいい」という言葉通りのものでした。一方の山本五十六は、堀と同様に三国同盟に反対し、日米開戦にも反対したにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮をとることになりました。五十六がなぜこのような矛盾する行動をとったのか。その答えは、堀悌吉に宛てて書いた無数の手紙の文面にあらわれています。

国、大なりといえども、戦(いくさ)を好めば亡ぶ。
国、安きといえども、戦を忘れれば必ず危うし。

軍隊の本質は、国家の要求に応じて当然の責務を果たすことにある。
敵に向かうべき最高の命令を受け、閫外(こんがい:国の外で敵と対峙すること)の臣として
辞するわけには行かぬ、のふたつにつきる。

山本五十六は日米開戦が決定された以上、自分にあたえられた使命をまっとうするのが軍人だという信念があったのかもしれません。五十六は、アメリカ本土はもちろん、アメリカの利権とかかわる南方を攻撃すれば、アメリカ国民を刺激して日米の全面戦争になる恐れがある。であるならば、太平洋艦隊の基地がある真珠湾を完膚なきにまで攻撃し、アメリカ国民の戦意を喪失させることができれば、それが世論となって日米戦争を早期講和に持ち込むことができるのではないかと考えたのでしょう。

しかし、真珠湾には肝心のアメリカの主力空母がいませんでした。逆にミッドウェー開戦で日本の主力戦艦を多数失ってしまいました。早期講和の道が絶たれてしまったのです。五十六は1943年になるとソロモン・ニューギニア方面にいるアメリカ艦船および航空兵力に打撃をあたえる作戦に赴きます。しかし、その途中、周囲の反対を押し切って連合艦隊の旗艦「武蔵」を離れ、前線の兵士を激励に向かう途中で搭乗機が撃墜され、五十六は戦死します。それはまるで死にに行ったかのような行動でもありました。

五十六はこの作戦を指揮するにあたり、決死の覚悟をもっていたのかもしれません。真珠湾攻撃から2年。山本五十六がときの総理大臣・近衛文麿に「日米が開戦してどこまでやれるだろうか」と問われたとき、「はじめの半年や1年の間は存分に暴れてご覧に入れます。しかしながら、2年、3年となればまったく確信は持てません」と答えたといわれています。まさにその通りになったのです。近衛に「日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と言った五十六は日米が開戦したことにさぞ落胆したことでしょう。

山本五十六も、堀悌吉も、それぞれの信念にもとづいて、日本・日本人を守ろうとしました。軍備だけで国家・国民を守ることはできません。ましてや、軍備を怠るならば弱肉共食の世界にあってはなおさらです。五十六や堀のように、指揮官として命がけで日本や日本人を守ろうとした人たちがいます。また、家族や同胞のために散華された名もなき兵隊たちもたくさんいます。それらの英霊は今の日本をどう思うでしょうか。現代に生きる私たちはいったい何を守るべきなのか、もう一度問い直すときが来ていると思います。

※映画「ゴジラ -1.0」はこの 1月 12日 から「白黒版:ゴジラ -1.0/c(マイナスワン/マイナスカラー)」が封切られます。是非、みなさんもご覧になってください(子どもも楽しめます)。ちなみにゴジラのテーマ曲を作曲した伊福部昭は北海道大学の卒業生です。

※ 1月 14日 に「ゴジラ -1.0/c」も劇場で見てきました。個人的にはむしろこの白黒版の方がよかったと思います。よりリアルに感じられましたし、俳優達が本当に当時の人たちのように見えました。

※1月 24日 、アカデミー賞ノミネート作品が発表され、「Godilla Minus One」が視覚効果賞にノミネートされました。視覚効果賞はこれまで「アバター」や「タイタニック」に代表されるようなアメリカ映画の独壇場でしたが、今回、日本はもとよりアジアからの作品としては初めてのノミネートでした。3月10日にハリウッドのドルビーシアターで本賞受賞作品が発表されます。ノミネートだけでも凄いことですが、是非本賞も受賞してほしいものです。

 

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