歴史の転換点(2)

ウクライナで冷たく凄惨な戦争が今も続いています。この間、ウクライナでは40万人とも、50万人ともいわれる人が命を落としました。祖国をあとにし、他国に避難したウクライナ人は600万人を超えています。ウクライナ国内で避難している人も360万人にのぼるといわれています。戦争前のウクライナの人口は約4000万人ですから、実に国民の4分の1にもおよぶ人たちが避難民となって慣れない土地で生活しているのです。こうした事実を知っている日本人がはたしてどのくらいいるでしょうか。

今回の戦争によって、かつて「ノボロシア」と呼ばれたウクライナ南部の美しい風景は一変し、とくに東部ドンバス地方の多くの建物ががれきの山になってしまいました。国際法で認められる戦争では、軍事施設に対する攻撃は許されていますが、一般人を標的にする攻撃は違法です。しかし、ロシアによる無差別攻撃は発電所や駅といった公共施設ばかりではなく、一般住民の住む集合住宅などをも無差別に狙っています。国民に恐怖心を与え、戦意を喪失させることが目的です。戦争の無慈悲さに今も昔もありません。

ウクライナ戦争は2月24日で3年目を迎えました。昨年の10月28日付けの当ブログで、私は歴史の転換点と題した小論を掲載しました。一介の内科医院に過ぎない当院のホームページに、このような政治的な記事を載せるのはどうかと思いました。しかし、マスコミからは正しい情報が流れてきません。また、混沌とした世界情勢にまるで関心がない人たちも少なくありません。私たちのまわりでいつ戦争がおこってもおかしくないのだということを喚起するためにあえてあの記事を掲載しました。

 

先日、アメリカの有名なジャーナリストであるタッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領に単独インタビューしました。西側のジャーナリストが、ロシア軍のウクライナ侵攻が行なわれて初めてプーチンと会見するとあって、世界中の人が注目していました。私もこの会見に大きな関心をもっていた一人です。この会見を最後まで聞いてまず感じたことは、「もっと早くあのインタビューがおこなわれていれば、この戦争が早期に終結し、たくさんの犠牲者を出さずに済んだかもしれなかったのに」ということです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領の会見を見てもうひとつ感じたことがあります。それは「ウクライナ戦争に対する私の見方はおおむね間違っていなかった」ということです。拙論歴史の転換点をもう一度読んでみて下さい。私がウクライナ戦争をどう見ていたかがおわかりいただけると思います。偏った情報しかながれてこない日本のメディアからではなく、インターネットをはじめとするさまざまな媒体から得られた情報をもとに考察することがいかに重要かがよくわかると思います。

それはまた、日本のメディア、アメリカのメディアが必ずしも正しい情報を伝えていない、ということでもあります。アメリカのメディアが伝える情報をまるで大本営発表かのようにながすだけの日本のメディア。それが意図的なことであれば、それは日本メディアの偏向ぶりを証明することになります。それが意図しないものであったとしても、それは日本のメディアの能力の低さをあらわすものです。タッカー・カールソンとプーチンのインタビューはそんな現実を白日のもとにさらした観があります。

あの会見の冒頭、プーチン大統領はウクライナとロシアとの歴史的関係を説明しました。それは30分近くにおよびました。その概略は拙論歴史の転換点で書いたものとほぼ同じといってもいいと思います。ウクライナになぜロシアが侵攻しなければならなかったのかについては、多少なりとも世界史の知識を理解しなければいけません。今回はその辺のことをもう少し詳しく説明してみたいと思います。ただし、あくまでも私の理解であり、間違っていることがあるかもしれません。そのときは遠慮なくご指摘ください。

 

日本が「鳴くよ(794年)ウグイス、平安京」だったころ、ヨーロッパ、とくに東ヨーロッパには国家らしい国家はほとんどありませんでした。さまざまな部族がまじりあいながら、小競り合いを繰り返しつつもそれなりにのどかな生活を営んでいた時代でした。しかし、当時、スカンジナビア半島に住む北方民族の雄・ノルマン人のバイキングがこの東ヨーロッパに侵入してきました。東欧を南北につなぐドニエプルやボルガなどの川を利用して黒海に出て、バルカン半島のビザンツ帝国と交易をするためです。

スラブ地域と呼ばれる東ヨーロッパに勢力を広げたバイキングでしたが、ここで取れる毛皮や肉ばかりではなく、征服した地域に住む東欧の人々を奴隷にするなどして交易範囲を拡大していきました。スラブ地域の住民を奴隷にしたことから英語では奴隷を「SLAVE」と呼ぶことはよく知られています。やがてバイキングのリューリク王が、862年にロシア北西部のノブゴロドという街に【ノブゴロド国】という国家を作りました。王は「ルーシ」と呼ばれましたが、この「ルーシ」が「ロシア」の語源だといわれています。

リューリクの息子たちはノブゴロドからさらに川をさかのぼり、今のウクライナのキエフを征服しました。そして、ここを拠点にノブゴロド国にかわる【キエフ大公国】を作り、その後、東ヨーロッパの交易の中心として栄えました。しかし、このキエフ大公国はその地政学的な特殊性から、周辺に勃興する国々と争いが絶えませんでした。国の領土を拡大し、ときに奪い取られながら、大公がビザンツ帝国の王女を妃として迎え、東ヨーロッパでの地位を確固たるものにしました。

 

その後、キリスト教が分裂してローマ教会とビザンツ帝国の正教会にわかれると、ビザンツとのつながりのあるキエフ大公国は正教会となりました。しかし、隣国で勢力を増してきたポーランドはローマ教会となったことから、キエフとポーランドの緊張は高まることになります。そんな不安定な情勢のなか、日本で鎌倉幕府が成立するころ、キエフ大公国はかつての首都ノブゴロド付近に【ノブゴロド共和国】が分離・独立。同時に、キエフ大公国の中心がキエフから北東部のウラジーミルに移ろうとしていました。

そんなキエフに襲いかかったのは、当時、最強の帝国といわれたモンゴル・タタール人でした。その頃、モンゴルは朝貢を拒否した日本にも来襲しました。鎌倉武士たちの奮闘と、神風ともいうべき二度の台風によって守られた日本はモンゴルを大陸に押し返しました。しかし、ヨーロッパにおけるモンゴルの勢いは止まりません。ジンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍がキエフ大公国とポーランド、ハンガリーを征服。これらの国々はモンゴルに朝貢しなければならない属国となりました。

しかし、モンゴルは異教徒を弾圧しなかったため、キリスト正教会はウラジーミルを中心に拡がっていきました。そして、ウラジーミル近郊にあるモスクワに【モスクワ大公国】が成立します。日本が室町時代になろうとするころのことです。ウクライナ周辺は急速に領土を拡大していたリトアニアに支配されました。リトアニアは隣国ポーランドと姻戚となり、それまでの正教会からローマ・カトリック教会に改宗しました。当然ながら、リトアニアに支配されていたウクライナの人々も改宗を求められました。

ところが、キリスト教正教会の守護でもあるビザンツ帝国が滅びます。すると、もともとビザンツ帝国と姻戚関係にあったモスクワ大公国に正教会の中心が移り、モスクワは「第三のローマ」と呼ばれるようになってキリスト教正教会の後継者であることを宣言します。かくしてキリスト教は、ローマ・カトリックと正教会の二大勢力に完全にわかれて対立するのです。同じキリスト教であっても互いに非なるものとして緊張関係が続き、ローマ教皇とモスクワ総主教がはじめて顔をあわせたのは2016年のことです

ちなみにプーチン大統領は、ノブゴロド国の首都ノブゴロドから100kmほどしか離れていないサンクトペテルブルグの出身です。ですから、プーチンがノブゴロド国やキエフ大公国という国家があったことや、これらの国が今のロシアの源流になっていたことを知らないはずがありません。そして、ウクライナとロシアが言語や民族、信仰や風習などで簡単に線引きできない関係にあることも熟知しています。ましてや近現代にいたってもなお両国が不幸な歴史をひきずっていることも十分知っているのです。

 

ウクライナの特殊性についてもう少し説明します。これまで書いてきたように、ウクライナの地はたびかさなる隣国の侵略によって、民族も、宗教も、国教すらもめまぐるしく変わる地域でした。モンゴルの属国だったモスクワ大公国は次第に国力を高め、日本が戦国時代だったころ、暴君として有名なイヴァンが国の名を【ロシア・ツァーリ】と改め、モンゴルを裏切って朝貢を拒否するまでの大国になりました。ツァーリとは皇帝のことであり、その後のロシアは北は北極海、南は黒海近くにまで領土を拡大します。

しかし、日本が江戸時代を迎えるころになると、リューリクから続いてきたリューリク朝のツァーリが途絶えてしまいます。そして、ロシアでは次々とツァーリが代わり、その混乱に乗じてポーランドが侵攻してくるなど、ロシア国内は混乱と混沌を極める状況に陥ります。そんな状況を救ったのが、その後、300年も続くロマノフ朝の祖ミハエル・ロマノフです。彼はウクライナやフィンランドなどの周辺の領土をポーランドやスウェーデンに譲歩して和平を進める一方、シベリアの征服を進めていきました。

ところが国内の経済は次第に悪化し、たくさんの農民が土地を放棄して暖かい地方に移住しました。そこで、農民が土地を移動するのを禁止し、地元の有力者が税金を徴収する「農奴制」を確立させました。そのころリトアニア・ポーランド共和国の一部になったウクライナでは、国王がローマ・カトリックへの改宗を住民に強制し、奴隷農家から税金を徴収していました。その税金を厳しく取り立てていたのが異教徒のユダヤ人です。こうした背景があってウクライナ人に反ユダヤの感情が生まれます。

不満を高めたウクライナ人はロシアの力を借りてリトアニア・ポーランドと戦います。ウクライナにはコサックというモンゴルの騎馬戦法を引き継ぐ強力な軍事集団がいました。そのコサックの活躍もあって、ロシアとポーランドとの戦争はロシアが勝利しました。かくしてウクライナはロシアの領土となりました。しかし、ウクライナは、今度はロシアから課された重税に苦しむことになります。なんどか反乱を企てますが失敗。ロシアとスウェーデンとの戦争にも巻き込まれ、平和で安定した国土にはなかなかなれませんでした。

ロシアがユーラシア大陸の大半をおさめる【ロシア帝国】に名を改めたころ、日本はまだ徳川吉宗の時代でした。領土拡大を進めるロシアはベーリング海峡を発見。そして、エカチェリーナが女帝となるころにはアラスカまで領土は拡がります。ロシアはついにはポーランドを属国にし、その一方でオスマントルコとの戦いを有利に進めるなど勢いはとどまりません。ロシアはクリミア半島からオデッサまでを領土にし、その地域には多くのロシア人が移り住んで「ノボロシア(新しいロシア)」と呼ばれました。

以上、長々と書いてきた歴史的変遷を、プーチン大統領はタッカー・カールソンとの会見で披露しました。プーチンがウクライナを「特別な場所」と呼び、ウクライナ戦争を「南東部の地域に住むロシア系住民を守るための軍事作戦」と説明するのはそうした背景を知らなければ理解できません。ではなぜ、今、軍事力を行使してまでウクライナ国内に侵攻しなければならなかったのか。それについては次の歴史の転換点(3)で解説したいと思います。