心に残る患者(1)

人間の生老病死に係わる医師という仕事は、一般の職業と違ってあらたに何かを創り出すという意味では生産性の高い仕事ではありません。私たちの仕事は、人の死を看取るか、怪我や病気が治癒する手伝いをしたり、それ以上に悪くならないようにすることですから、なにか「創造的な仕事をした」という満足感はなかなか感じられないものです。しいて言えば、外科医であれば難しい手術のすえに患者の命を救ったとき、内科医であれば診断がつかなかった患者の病気を見つけ、治療がうまくいったときに達成感のようなものを感じる程度でしょうか。

そんな仕事を長い間やっていると、心に残る患者が何人かいます。残念ながら、そのいずれの人のほとんどは亡くなった人たちですが、いずれも医師としての今の自分につながる大切な人たちばかりです。今回はそんな人たちのひとりの思い出をお話ししたいと思います。

●あるべき医師・患者関係を教えてくれたU君
慢性骨髄性白血病で緊急入院となったU君は当時はある大学の3年生。金融関係に進みたいと考えていた彼はそろそろ就職活動を始めようかと考えていた矢先の入院でした。当時、研修医だった私は上司から「本人に病名を告げてはならない」と厳命されていました。いつも病室を訪れると、彼は晴れやかな笑顔で私を迎えてくれました。私にとってそんな彼はなんとなく弟みたいな存在でした。彼は自分の病気がなんであるのか、そして、これからどうなっていくのかを知りたがっていました。私は上司に病名を告げてはならないと命じられていましたが、彼なら自分の病気のことを理性的にとらえてくれるであろうと感じていました。御両親も私の考えと一緒でした。そこで私はその後何度となく上司に「病名を告げてはどうか」と相談してみました。しかし、上司の返事はいつも同じです。私は上司の指示に従ってはいましたが、心の中では決して納得していませんでした。

あるとき、病状が落ち着き、外出できるようになったU君は病院の近くにある大学の学生食堂に行ってみたいと言い出しました。本来であれば大学での学生生活を謳歌しているはずの彼ですから、その気持ちは私にも十分理解できました。そこで、彼の申し出を許可することにしました。当時、私が研修をしていた病院は病院食がおいしいことで有名でした。でも、学生であふれた学食で久しぶりに食事をする彼の気持ちを想像すると、さぞかし開放感でいっぱいなんだろうと彼の外出を私自身も楽しみにしていました。ところが、その日の夕方、ご両親が私のところにあわててやってきました。「息子が自分は白血病だとショックを受けている」というのです。詳しくお話しを聞くと、大学に外出すると出かけた彼が向かったのは神田の書店街。そこで薬の事典を調べ、今、自分が飲んでいる薬が白血病の治療薬であること。そして、医学書に書かれた症状から自分の病気は白血病だと確信して帰ってきたとのこと。ご両親に彼は「どうして病気のことを黙っていたのか。どうして嘘の病名で自分をだましてきたのか」と問い詰めたそうです。

私はそのことを上司に報告しました。しかし、上司は「それでも真実をつげるべきではない」と主張しました。「患者は本当の病名にうすうす気付いても、主治医がそれを認めない限り、万にひとつの希望を持ち続けるんだ」というのです。そして、「その間に骨髄移植のドナーが見つかれば、そのときこそ真実を告げればいいんだ」とも言いました。私はそれもひとつの考え方かもしれない。でも、U君にとってはそれがいい選択だとは思えませんでした。担当医としての私と患者である彼との関係は、今回の外出で深い溝ができてしまいました。病室に行っても、彼は私に本当の病名を敢えて聞こうとはしませんでした。いつもの笑顔もすっかり消え、私の問いかけに短く答えるのみです。私も彼になんと声をかけたらいいのかわかりませんでした。その後、私はU君との関係を改善させることもできないまま、他科の研修を受けるために病棟を離れることになりました。「他の科に移るけど、なにか相談があったら気軽に声をかけてほしい」と彼に告げましたが、彼は軽くうなずくだけでした。

研修医として忙しい毎日を送っていた私は、いつの間にか彼のことを忘れていました。他科に移った当初は何度か彼の病室に顔を出してみましたが、それも次第にできなくなっていたのです。日々の研修をこなすうちにすっかり彼の病状を気にすることもなくなり、私の中から彼の存在がすっかり薄れてしまったある日のことです。遅くなった昼食を買いに売店に小走りに急いでいたとき、U君のご両親と廊下でばったり会いました。あれから数か月を経て彼のことなどすっかり忘れていた私は、そのご両親に声をかけられたときなぜかとても後ろめたい気持ちがしました。ときどき病室に顔を出そうと決めていたのに実際にはそれができなかったからです。私はU君のご両親に彼の様子を尋ねました。久しぶりに会って笑顔だったご両親の表情は一転しました。「息子は先月亡くなりました」。私の全身から力が抜けていくのを感じました。私が病棟を移ってからというもの、検査という検査、治療という治療をすべて拒否してしまったというのです。

「息子は何度か担当の先生に『せばた先生に会いたい』とお願いしたんですよ。でも、病棟が変わってしまったのでそれはできないと言われて…」とご両親は残念そうに言いました。私は言葉に詰まってしまい、ご両親になにも言えなくなってしまいました。と同時に、「なぜU君のことを自分に伝えてくれなかったんだ」と怒りに似た感情が込み上げてくるのを感じました。私はU君のご両親にお悔やみとお詫びの気持ちをなんとか伝えて、U君が入院していた病棟に向かいました。そして、病棟の看護婦さんに彼のことを詳しく聞きました。私と交代で担当医になった研修医と彼は十分な信頼関係を築くことができず、検査と治療を拒否しているうちに肝臓に腫瘍細胞が転移。あっという間に亡くなってしまったということでした。それよりも私を打ちのめしたのは、彼が亡くなってから骨髄移植のドナーが見つかったということでした。あのとき、彼に真実を話し、彼との信頼関係をもっと築ければ、彼は検査にも協力し、急性期の治療を受け、ひいては骨髄移植を受けることができたかもしれないのです。

私は今でも彼のことを思い出します。しかし、思い出すのはいつも事実を知ってしまい、私との信頼関係が壊れてしまってからの彼の表情。恨めしそうにベットから見上げる彼のまなざしは、悔しそうでもありまた悲しげでもありました。今では真実を告げることが当たり前になりました。真実を受け止めることができようができまいが、患者に真実を告知することが医師の義務であるかのようになってしましました。それはあたかも、医師が告知しないことで患者やその家族から訴訟をおこされるのを避けるためのようでもあります。本来は、医師・患者関係をより深いものにするための告知なのに。患者に寄り添うことは容易なことではありません。ドラマのように美しいものでもありません。忙しい診療に追い回され、患者の心のひだに触れることをあえて避けている場合も少なくないのです。医師にとって担当患者はたくさんいますが、患者にとって主治医はひとり。患者のよりどころは主治医しかいないということをU君は教えてくれました。その後の研修で、ともすれば日常に流されそうになるたびに、彼のあのときの寂しげなまなざしを思い出していました。その思いは今の私の心の底に重く沈んで残っています。

※「心に残る患者(2)」もお読みください。