前を向いて歩こう

2015年が暮れようとしています。この一年を振り返るといろいろなことがありました。世界を見渡しても、また、日本を見ても、あるいは我が家にとっても2015年(平成27年)という年は必ずしも平穏無事な年とはいえなかったように思います。

我が家にとっての一番の出来事は、82歳になる父親が脳梗塞になってしまったということです。ちょうど一年前、父親は整形外科で受ける手術のために病院に入院しました。幸い、そのときに入院後の経過は良好だったのですが、退院後に今度は母親が交通事故で入院したこともあって父は高齢者施設に一時入所。そんな環境になじめるはずもない父親にとってはストレス続きだったのかもしれませんが、母親が退院して間もない夏にとうとう脳梗塞になってしまいました。

当初は軽い左上下肢の麻痺と軽度の構語障害程度だったのですが、入院中に再梗塞と思われる症状の増悪があって左上下肢はほとんど動かなくなり、言葉も聞き取れないほどになりました。幸い、リハビリで症状はだいぶ軽減し、杖を使えばなんとか自分で歩けるようになりました。あわせてやっていただいた言語療法のおかげで会話もなんとかできるほどにまで回復しました。脳梗塞後のリハビリはもとの体に戻るためのものではなく、そのときに残っている身体機能を維持するもの、という認識しかもっていなかった私にとって、父の回復はある意味で驚きでもありました。

もちろん、母親の交通事故も驚きはしました。81歳という高齢での運転は危険だと常々思っていましたし、母親の運転を見ていていつかは運転をやめさせよう(母はそれまでにすでに2回の事故で車を全損廃棄しています)と思っていました。しかし、母はどうしても車を運転するといってきかなかったので、「少なくとも他人を乗せて走るな」となんども注意していました。ですから、母が事故ったと聞いたときは「他人を乗せていなければいいが」という点では心配しましたが、不思議と命にかかわるような怪我ではないだろうとそれほど心配していませんでした。

幸い、母の怪我も大したことはなく、他人も乗せていなかったのが不幸中の幸いでした。しかし、この事故は母親よりもむしろ父親にとってショックだったのかもしれません。その後、脳梗塞を発症してしまい、その後遺症は父を今まで以上に老け込ませました。認知症状も進んだせいもあるかもしれませんが、”とんがって”いた若い時の面影はすっかりなってしまいました。感情失禁のせいで昔話しをするとすぐに泣き出したり、なにごとも病院や施設の職員の手を借りなければなにもできない父親を見ていると、今の父はまるで別人のようです。

先日、父の入所している施設にお見舞いに行ったとき、居室で母と泣きながら話しをしていました。なにを話していたのかと尋ねると、「札幌にもう一度行ってみたい」と言って泣いているのでした。私がまだ札幌にいたころは、ちょくちょく母と札幌に遊びに来ていました。そして、両親を車に乗せては道内を小旅行などして走り回ったものです。私が札幌にいた期間は10年以上にもなりますから、両親も道内を行き尽くしたといってもいいほどです。そのときの楽しい思い出を父親は懐かしんでいたのかもしれません。

「札幌にもう一度行きたい」と言って泣いている父親を見ながら、若くて元気だったころの父を思い出していました。きれい好きで、身なりもきちんとしていて、さっそうと歩いていたころの父。その父を思い出し、その分だけ、今、目の前にいる老いた父親がとても哀れでなりませんでした。そして、できるならもう一度あの頃に戻れればとも思いました。しかし、その一方で、あのとんがっていた若い頃の父親の姿が私の心の中によみがえってきました。家の中ではいつも不機嫌そうに怒ってばかりいた父。イライラを家族にあたることでしか解消できなかったのでしょう。その頃の父親を思い出すと自然と気持ちが沈みます。

そんなことを考えながら、父親も「あの若かったときに戻りたい」と思うのだろうかと想像していました。いつも不機嫌だった父は父なりに感情のコントロールができないことに苦しんでいたのかもしれません。父は7人兄弟の一番下でしたから、親の愛情と庇護を十分に受けることができなかったのだと思います。その満たされない感情がいつも彼を不機嫌にしていたのでしょう。その満たされない心の渇きを家族にぶつけていたのです。そのときの父を支配していたそんな感情を彼自身ふたたび望んでいるとは思えない。そのことに父が気が付けば(気が付いているのかもしれませんが)、今もまんざら悪くないと思うかもしれません。

そう考えると、両親がずいぶんと年老いて、その分だけ私も歳をとり、いろいろなことが輝きを失いつつあるように感じながらも、今は「それほど悪くはない」と感じるのです。そもそもが「今が一番幸せ」という実感がありますから。いつも家庭の中が暗く、家庭内の不和という心の中のずしりと重いおもりが沈んでいる感覚から逃れられなかった子供時代と比べれば、今はなんと幸せなことか。なかなか理想通りにはいかないけれど、家族全員が笑顔でいられることの幸せは何にも代えがたいものだと実感します。

要するに考え方なんだと思います。それにあれだけ嫌な思い出として残っている自分の子供時代があるからこそ今の幸せがある、ともいえるのだし。シラーの有名な詩があります。

時にはみっつの歩みがある。
未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去っていく。
そして、過去は永遠に、静かにたたずんでいる。

私はこの詩が好きです。未来を肯定し、過去を否定しないこの詩は人間の生き方をとても豊かにしてくれると感じます。ひとにはそれぞれが与えられた運命があります。その運命は変えることはできません。なぜなら、過去は消し去ることはできないからです。だからといって、未来を絶望する必要もありません。なぜなら、今を変えることはできるからです。この秋、私がこれまででもっとも感動した試合をしてくれたラグビー日本代表のヘッドコーチであるエディー・ジョーンズが選手たちに問いかけた言葉があります。

過去は変えられるか? もちろん変えられるはずがない。
では、未来は変えられるか? いや、変えられない。
ただし、今を変えれば未来は変えることは可能だ。

変わりゆく世界情勢も、日本ととりまく環境といった大きな問題もそうです。人間ひとりひとりの人生も、過去を悔み、消し去ろうとしてもそれはできない。愚かなのは、過去にとらわれて歩みを止めてしまうこと。ましてや後退するなんてことがあってはいけません。そうではなくて、過去を糧として今を変える。その今が未来を切り開いてくれる。そう信じることが大切だということなんだと思います。今年一年いろいろなことがありました。そのすべてを総括して来年に向かって今を生きる。来年はそんな毎日にしたいと思っています。

今年一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年が皆様にとってさらに素晴らしい年になりますように。

ドラマ小僧は語る

私が幼稚園児のころ我が家にもテレビがやってきました。当時、テレビは高価なものでしたから、オンボロ官舎に住む貧乏公務員の家庭には高嶺の花のはず。それでも両親は分割払いで手に入れたのでしょう。テレビが部屋に運び込まれたときの両親のうれしそうな表情を思い出します。以後、私はテレビっ子となったのですが、不思議と子ども番組には興味はありませんでした。むしろ大人がよく見るようなドラマを好んで見ていた「ドラマ小僧」でした。

今も鮮烈な記憶として私の心に残っているのは「3人家族」。TBSで昭和43年に木下恵介アワーとして放映されたドラマです。竹脇無我扮する商社マンと栗原小巻扮する旅行代理店のOLとの淡い恋物語を中心に男3人の家族と女3人の家族がおりなす人間模様を描いたものです。当時小学生だった私は不思議とこのドラマに魅せられていました。ここに出てくる高度成長時代の大人の社会をなにか憧れに似た気持ちで見ていた記憶があります。それぞれ山手線と京浜東北線に乗って見つめあう竹脇無我と栗原小巻のシーンはとくに印象的です。ちなみに、このドラマの主題歌を今でも歌うことができます。

このころ、青春ドラマと呼ばれるドラマもたくさん放送されました。この中でも昭和46年に放送された「俺は男だ」は記憶に残るドラマです。このドラマの原作は実は漫画でした。今ではめずらしいことではありませんけど。現在、千葉県知事の森田健作演じる「小林君」と早瀬久美(今でもきれいですよね)演じる「吉川君」は私には「素敵なお兄さんとお姉さん」でした。当時の高校生の生活は小学生の私にはなんとなく漠然としたものでしたが、今は死語となりつつある「青春」と呼ぶにふさわしい雰囲気は十分に伝わってきました。

昭和47年に日本テレビで放映された「パパと呼ばないで」も良かったですね。亡くなった姉のひとり娘(杉田かおる)を突然預かることになった独身サラリーマン(石立鉄男)。下宿しているお米屋さんの家族に助けられながら慣れない子育てに奮闘する姿を描いた、涙あり、笑いありの人情ドラマ。どれも大好きだった石立鉄男ドラマの真骨頂でした。何度見ても感動します。このドラマの舞台になったのが下町の風情を残す東京の月島。今では高層マンションが林立する街になってしまいましたが、40年も経った今も私の中では懐かしい場所です。

ぶらり信兵衛道場破り」も忘れることができません。昭和48年に当時の東京12チャンネルで放映されました。原作は山本周五郎の「人情裏長屋」ですが、中学生だった私はこの短編を読みながら、感動のあまり涙を堪えることができなかったことを覚えています。このドラマは原作の雰囲気をとてもよく残しているドラマで、高橋英樹が主人公の松村信兵衛のイメージとぴったりでした。最近、BSNHKでリメイクドラマが放映されていますが、「ぶらり」を夢中で見ていた私としては残念ながら「ん~なんか違うんだよなぁ(微妙)」って感じ。

高橋英樹といえばなんと言ってもNHKの大河ドラマ「国盗り物語」です。「ぶらり信兵衛」と同じ昭和48年に放映されました。群雄割拠の戦国時代の緊張感が伝わってくる上質で重厚なドラマでした。なかでも高橋英樹が演じる織田信長は私にとってのヒーロー。冷徹で繊細な信長に血湧き肉躍る思いでこのドラマを見ていたのを思い出します。近藤正臣が明智光秀、火野正平が羽柴秀吉。当時の若手俳優が多かったのですが実力者揃いのキャスティングでした。ちょうどこの頃、偶然電車の中で火野正平が向かいの座席に座っていて、緊張しながら握手をしてもらったことを思い出します。

NHKの大河ドラマといえば国盗り物語の次の年(昭和49年)に放映された「勝海舟」もよかったですね。このドラマの主演は当初渡哲也でしたが、途中で病気降板して松方弘樹に変更されました。でも、勝海舟、というより勝麟太郎のイメージはやはり松方弘樹の方がぴったりでした。私はこのころ「氷川清話」という勝海舟の書いた自叙伝を読んでいたのですが、麟太郎の父親である勝小吉がドラマで演じていた尾上松緑と重なり、麟太郎よりもこの小吉にとても魅了されてしまいました。富田勲が作曲した主題曲も実に重厚で、維新を迎えた日本が満を持して世界の荒波に船出するときの興奮をみごとに表現した名曲だと思います。

日本テレビで昭和50年に放送された「俺たちの旅」もよかったですね。中村雅俊が主演していましたが、小椋桂が歌う主題歌を聴くと今でもその当時のことを思い出します。世の中のながれからはちょっとはずれた主人公達の気持ちには当時思春期まっただ中の自分となんとなく共感するものがあったんだと思います。これからの自分の人生がどんなものになるのか。そんなことに漠然とした不安を抱えていた年代ならではの思いがこのドラマを見ると共感できたのかもしれません。

昭和52年のNHK大河ドラマ「花神」もとても記憶に残るドラマでした。それまで村田蔵六(のちの大村益次郎)という人物を私は知りませんでした。適塾ではあまたの若者が学問で切磋琢磨していましたが、村田蔵六はその中でめきめきと頭角をあらわし、明治という時代を背負って立つ逸材のひとりになりました。「花神」は江戸から明治にいたる大きな時代のうねりを感じることができるすばらしいドラマでした。その大村益次郎は今、日本近代軍制の創始者として靖国神社の入り口に大きな銅像となって立っています。

硬派なドラマとしては昭和54年のNHKドラマ「男達の旅路」も忘れてはいけません。元特攻隊員の警備員を演じる鶴田浩二が渋い演技で光ってました。以前のコメントにも書きましたが、説教臭く、「若い奴らが嫌いだ」が口癖の吉岡指令補はとても魅力的でした。その指令補に反目する若者達が次第に吉岡指令補に魅せられていく様は、まさしく私そのものでもありました。とくにこのシリーズの中でも「車輪の一歩」は名作だと思います。私もいつの間にか「若い奴らが嫌いだ」とつぶやく年齢となりましたが、吉岡指令補のような中年にはなれなかったなぁとつくづく思います。

昭和56年に放送されたNHKドラマ「夢千代日記」は、冬の裏日本のモノトーンな風景がとても美しい叙情的なドラマでした。さびれた温泉街が舞台で、人間の性(さが)や定めを夢千代という芸者の日記という形で綴っていきます。個性的な役者さんが多く、樹木希林や中条静夫といった脇役の役者さん達がいい味を出していました。印象的なテーマ曲を聴くと、たちまちタイトルバックにもなっている余部鉄橋があたまの中に浮かんできます。こうしたしっとりとしたドラマがすっかりなくなってしまったことがとても残念です。

淋しいのはおまえだけじゃない」は昭和57年の向田邦子賞を受賞したTBSのドラマです。西田敏行演じるサラ金の取り立て屋。さる人物から依頼を受けて大衆演劇の劇団を旗揚げします。いろいろな思いを背負って集まってきた劇団員をだますうちに次第に気持ちが変わってきて・・・。このドラマで演出を担当していた高橋一郎は、“ドラマのTBS”とも呼ばれていた当時のTBSドラマのクオリティーを支えたスタッフのひとり。そのながれは平成16年のTBSドラマ「オレンジデイズ」や「砂の器」に受け継がれています。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を題材に昭和59年に放映されたNHKドラマ「日本の面影」もなかなか良かったですね。明治から大正にかけて欧米列強の後を追うべく富国強兵の国策を進めた日本。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という外国人の目を通して、古き良き時代を捨て去り、アジアの一等国になるべく突き進む日本の姿を描いたこのドラマは小泉八雲の「怪談」をモチーフにしていてとてもユニークでした。明治・大正期の日本の雰囲気とはこんな感じだったのかなぁと思わせる演出も素晴らしかったです。

昭和60年のNHKのドラマ「シャツの店」もテレビドラマの傑作のひとつです。鶴田浩二が昔かたぎのシャツ職人の親方を演じています。頑固一徹、自分にも他人にも厳しい親方。そんな親方に愛想をつかして家を出て行った妻(八千草薫)と息子(佐藤浩一)。夫婦間の、あるいは世代間の意識のギャップがユーモラスに描かれ、最後はお決まりのハッピーエンドながら心地よい余韻がのこります。当時はまだ独身だった私が大いに影響を受けたドラマのひとつでした。そういえば、このドラマの舞台も月島でした。

職人ものといえば、平成元年にTBSで放映された「あなたが大好き」もなかなかなものです。江戸指職人(田中邦衛)の跡継ぎ息子を真田広之(実は私と同年代)が演じているのですが、いつもはカッコいい役の真田ですが、今回は“親の後を継ぐと決心したものの、実は自他ともに認める不器用な息子”というちょっとかっこ悪い役でした。でも、真田広之はそれを無難に演じているのですからさすがです。私の好きなエリック・サティの「Je te veux」が主題曲になっていますが、この曲はドラマのテイストを決める重要な役割を果たしています。

戸田菜穂や萩原聖人、櫻井淳子などがまだ新人だった頃のフジテレビのドラマ「葡萄が目にしみる(平成3年)」も特筆すべきドラマでした。いわゆる“青春もの”なのですが、切なくて叙情的なすばらしい作品でした。新人俳優やオーディションで選ばれた素人が多いのでセリフが棒読みだったりしますが、このドラマにおいてはそれはそれで新鮮なものにも思えます。素朴な演出と使われたBGMがよかったこともありますが、なにより林真理子の原作に救われたような気がします。高校生を演じていた戸田菜穂や櫻井淳子が初々しくてとても可愛かったですが、その彼女たちもいつの間にかお母さん役をやる年代になってしまいました。

平成5年に放映されたNHKドラマ「」も秀逸でした。今はすっかり大人になった井上真央が子役として出ていますが彼女の演技力はこのころから特筆すべきものがあります。造り酒屋に生まれた盲目のひとり娘として成長していく烈の生涯を描いています。閉ざされた雪国の冬にじっと耐えて生きる人々の生活が伝わってくるような雰囲気がよかったです。大きくなった烈を演じたのは松たか子でした。彼女もまだ新人だったのにその演技はすばらしいかったです。それにもましてNHKのクオリティの高さを感じます。

最後に「魚心あれば嫁心」。これはテレビ東京で平成10年に放送された連続ドラマです。これも舞台は東京月島。閉院した船津医院の夫人・朋江(八千草薫)をとりまくさまざまな人間模様を、朋江の川柳を通じて描いています。こちらのドラマの脚本も向田邦子賞を受賞しています。とくに、息子が12才も年上の女性と結婚すると言い出し、はからずも彼らと同居することになった朋江。息子夫婦の価値観との違いを乗り越えていこうとする姿にほっとします。ほのぼのとした気持ちになれるドラマでした。

最近のドラマはあまりにも安直に作られ、「いかにして視聴率がとれ、いかに安く作れるか」に主眼がおかれているように感じます。キャストが実力をともなわない人気頼りで決められているようにも思えます。小奇麗な顔立ちでも、その役の雰囲気にはおよそ似つかわしくない俳優が多すぎるような気もします。良いドラマは人を突き動かすエネルギーでもあります。心を潤す清流だともいえるでしょう。その意味で、もっともっと心を揺さぶるような良質なドラマと、画一化されない俳優陣が出てくることを願うばかりです。

学ぶ姿勢

医学部を卒業して初期研修の2年間が終わっても、まだ医者になったという自信は生まれません。だって「研修医に毛がはえた程度」なんですから。なにをやっても研修医の時とそれほど変わってはいません。せいぜい採血をするときの度胸が多少ついた程度でしょうか。研修医時代、指導医から「おまえは医者になったんだ。だから看護婦さんにできることはすべてできなければいけない」と言われたことがあります。点滴を作ることも、そして、その点滴にルートをつなぐことも、あるいは刺した点滴針を固定することも、日常の業務で看護婦さんがしていることすべてをできるようにしろ、ということです。

言われた当初、それにどんな意味があるのか具体的にはわかりませんでした。しかし、通常、医師は点滴の内容を指示し、点滴針を刺すことしかしません。点滴針を刺す際も、介助の看護婦さんとペアでなければルートのつながった点滴を完成させることはできないのです。でも私は、細かい作業の手順を看護婦さんに教わり、その上で自分なりの工夫をすることで点滴をひとりでできるようにしました。しかも、自分でオーダーした点滴のメニューを混合し、ルートをつなぐことまで、です。私は単に指導医が言ったとおりのことをしたまでですが、そのことの意味が後にわかってきました。

病棟は忙しいです。医者も忙しいのですが、看護婦さんはもっと忙しい。いろいろな場所からナースコールがなるからです。そのたびに通常業務が中断します。そこにもってきて患者が急変したりすると、それはもうからだがいくつあっても足らないという状況になります。急に点滴が必要になったにも関わらず、なかなか看護婦さんがつかまらず、ナースステーションでただウロウロする研修医をよく目にします。しかし、私は違いました。自分で処置台の上に点滴や薬剤、ルートを並べててきぱきと点滴を作り、包交車をひとりガラガラとひっぱっていってささっと患者に点滴をしてしまう。そして、ナースステーションには「実行者 セバタ」と書かれた指示伝票だけが置かれている。「く~っ、かっこいい~」ってなもんです。

でも、医療安全管理の点からいうとあまりいただけないんでしょうね。だって、使用される薬剤と投薬量の確認が実質的になされませんし、医療行為がなされている状況を第三者によって確認していませんから。なにせ「医療安全管理」なんて言葉はほとんど出てこない時代でしたから。経験の浅い研修医だった私はとにかく指導医が言う通りに「なんでもできるスーパー研修医になろう」と思っていました。思い上がりですけど。先輩医師の経験談を聴いては「臨床上のコツ」みたいなものを片っ端からメモ帳に書いて覚えていました。経験の不足をこうして補おうとしていたのです。今では「経験より根拠」って時代になってしまいましたけど。医療安全だとか、根拠だとか、いい世の中になったのか、世知辛い世の中になったのか、私にはわかりませんが。

そんな中、別の科のある指導医のことは今でも忘れません。実は、その指導医と私ははじめからそりがあわず、彼が言うことなすことすべてに棘(とげ)があるように私には感じられました。彼は感情の起伏がはげしく、機嫌の悪い時などはどのように接すればいいのか戸惑うばかりでした。私たち研修医は、早朝、病棟にやってきて患者の採血をしてまわります。本来、夜勤の看護婦さんがやるのですが、採血の練習もかねて私たち研修医がはやらせてもらっていました。そして、担当患者を診察してまわり、病棟に届いた採血結果を確認して検査方針を修正したり、治療方針を決めたりします。一方、指導医は午前中の外来に行く前に病棟に寄って研修医から患者の報告を受け、どのような検査をするのか、あるいはどのような治療をするのかを研修医に指示します。とある朝のあわただしい風景のワンシーンです。

研修医(私):「というわけでどうしましょうか?」
指導医:「どうすればいいと思う?」
私:「え~と、抗生剤を投与して・・・」
指:「ほう。なにを出すのよ」
私:「なにがいいんでしょうか?」
指:「ええっ?なにがいいって、あなたが主治医でしょ」
私:「はあ・・・」
指:「・・・(なんか微妙な沈黙)」
私:「なにを出すのかっていわれても・・・(そんなのわかるわけねぇだろ)」
指:「好きなの出しなよ、好きなの」
私:「はぁ?はぁ・・・(それでいいのかなぁ)」

経験も、実際的な知識も不足している私は言われるがままに「好きな抗生物質」を患者に投与するべく指示伝票に記入しました。「好きな抗生物質」と言いながら実際には「知っている抗生剤」だったんですけど。しかし、そんな抗生剤を伝票に書いたことも忘れて仕事をしていた私は、突然、指導医の怒鳴り声で呼び出されました。「せばたっ、ちょっと来いっ!」。なんのことだろうと指導医のところにいくと、彼はさっきの点滴の指示伝票を片手に鬼のような表情で立っていました。「おまえよ~、なんでこんな抗生剤を出してんだよ、バカっ」。なんのことだろうと思えば、例の「好きな抗生剤」のことでした。

私:「いや、先ほど先生は『好きな抗生剤を』と言われたので・・・」
指:「おまえなぁ、あの患者にこんな抗生剤出したら腎臓ダメになっちゃうでしょ」
私:「はぁ・・・(「好きなやつ」って言ったじゃないか)」
指:「腎臓の悪いあの患者に投与すべき抗生剤かどうか調べたか?」
私:「いえ、調べてませんでした」

私は「それなら『好きな抗生剤』なんて言うなよ」と怒り心頭で輸液の本や薬の本をめくっていました。「腎機能の低下と抗生剤」について調べたのです。そして、腎機能が落ちている患者にふさわしい種類と量に修正して点滴伝票を書き直しました。指導医は「好きな抗生物質で」と言っておきながら、他方で私の伝票を密かに確認していたのです。適切な抗生剤を出していたかどうかを確認するために。きっと何かの意図があってあんなことを言ったんでしょうね。当時はそんなことを考えてもみなかったので、なんでこんな意地の悪い指示の出し方をするんだろう、「性格の悪い奴だ」ぐらいにしか思っていませんでした。一事が万事こんな調子でしたから、研修中はまさに「胃に穴があくか」と思うほどにストレスフルでした。消化器内科の先生に頼んで胃カメラをやってもらったことも。

病棟の医師控室で患者のカルテを書いていたときのこと。日常業務をようやく終え、すでに遅い時間になって今日一日の記録をまとめてカルテに記載をしていました。そこへあの指導医がやってきました。そして、おもむろに患者のCT写真を撮り出して、ひとりで黙々といろいろな場所を見比べていました。私は素知らぬ顔でカルテ記載を続けていたのですが、指導医はふと私の方を見て言いました。

指:「せばた、このリンパ腺は何番だと思う?」
私:「はい?え~と(わ、わからん。リンパ腺の番号なんて知らないよ)」
指:「何番よ。好きな番号言ってみな」
私:「ええっ?(また「好きな番号」かよ)」
指:「知らないものをいくら考えたって仕方ないんだから」
私:「じゃあ、6番でしょうか」

すると、それを聞いた指導医は「フフっ」っと鼻で笑って医師控室から出ていきました。私はもう頭にきてしまって、「くっそ~っ!」と怒り心頭で画像診断の教科書をめくりました。

そうなんです。指導医は負けず嫌いの私の性格を知ってか知らずか、結果として彼のあのような態度が私に自発的な学習を促していたんです。それに気が付いたのは2年間の研修がもう終わろうとしたときでした。こんな指導方法にはよしあしもあるでしょうし、好き嫌いもあるでしょうが、私はあの指導医のおかげで自分で調べることの大切さを知りました。なにより、ひとつひとつ確認することの重要性を知りました。人の命に関わることですから当たり前なことですが、ともすると研修医は受け身で指示待ちに陥りやすいもの。研修を実りの多いものにするためには能動的に動かなければならないんだということをあの指導医は教えてくれたのです。

もちろん、彼がそれを意図的にやったかどうかはわかりません。彼の中では「熱心にやっている研修医の鼻っ柱を折ってやろう」と思っていたに過ぎないかもしれません。しかし、私にとってそんなことはどちらでもいいのです。今でもあのときの経験がいかに貴重だったかを思い出します。だからといって私は彼のようにはなれませんでした。後輩たちのお世話係(これをオーベンといいます)になった私は自分を悪者にしてまで指導はできなかったのです。それだけにあのときの指導医のやり方はとても印象的です。昔ながらの教育って奴なんでしょうね。

労働基準法が守られている今の研修医。夕方5時には仕事終了で、残業は指導医がやるなんて病院のうわさも聞きます。恵まれているようで、実は大切なものが教育されていないような気がします。早朝から深夜まで、文字通り労働基準法もへったくれもない研修でした。それでも「今の自分のスタンスは、あの研修医時代に培われた」と胸を張れます。ですから、私自身はまた研修医をするなら、いろいろな面で恵まれた今の研修よりも、毎日胃に穴があくほどの思いをしたあの時の頃をまた選びたいです。絶対。とはいえ、この「昔はよかった」というノスタルジーは今の若い人たちに一番嫌われるんでしょうけど。それでも「昔の研修医」の多くは私の意見に賛同してくれるのではないでしょうか。「今の研修医にも是非経験させたい」って。「余計なお世話」って声が聴こえてきそうですが・・・。

 

「説教おやじ」万歳

早いもので健さんが亡くなって1年になります。1年経っても「俳優 高倉 健」がいなくなってしまった喪失感はそう簡単には癒えそうにありません。健さんは私の父親の世代ですから、もはや超高齢者になろうとする世代なのですが、思い出す「高倉健」はいつも「昭和残侠伝 吠えよ唐獅子」の中の花田秀次郎、若かりし頃の健さんです。実生活でもその秀次郎そのままを生きた健さんは私の心の中でも永遠に秀次郎のままです。

ところで私は「俳優 高倉 健」ともうひとり、鶴田浩二という俳優も好きです。鶴田浩二も健さんとともに東映黄金時代の任侠映画によく出演していました。しかし、任侠映画の人気に陰りが出始めると、映画だけではなくTVドラマにも出演して活躍の場を広げました。それまではずっとスクリーンの中の俳優さんだったので、TVに出てきた鶴田浩二にちょっと違和感を感じていました。しかし、そこは大物俳優。優れた作品を選んで出演していたせいか、鶴田浩二の魅力は決して色あせることはありませんでした。

その鶴田浩二が出演したドラマの中でも、私はNHKで放映された「男たちの旅路シリーズ」と「シャツの店」が好きです。このドラマの中で鶴田浩二はいずれも頑なに自分の価値観を貫く戦中世代を演じていました。戦後、価値観が一変しまったかのような社会にあえて逆らって生きる頑固なオヤジが鶴田浩二の役どころです。戦争を生き残った戦中派には理解しがたい現代の若者に眉をひそめながら、「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばからない中年とでもいいましょうか。当時のその「若い奴」のひとりが私なのですが、そんな「頑固な説教おやじ」のような吉岡司令補に惹かれていました。高倉健も鶴田浩二もいわゆる寡黙な「男のなかの男」って感じの役が多いのですが、健さんが演じる花田秀次郎はどちらかというと背中でものをいうタイプ。鶴田浩二演じる吉岡司令補は「俺は甘っちょろい若い奴らが大嫌いなんだ」と明確に自分を主張します。若者に厳しい分、自分にも厳しい。今のおやじ達にはいないタイプですよねぇ。

一方の「シャツの店」は、下町の頑固なシャツ職人の「親方」が突然奥さんに家出されるところから物語がはじまります。はじめは「あいつが許せねぇ」と言っていた親方も、一人息子の思いもよらない離反を通じて自分を振り返り、夫婦を振り返るというもの。このドラマのところどころに印象的なセリフがあります。今でも印象的なのは、お見合いがうまくいかず「独身を貫いてシャツ職人を極める」と言いだした弟子にしみじみと語り掛けるときのセリフ。「そりゃとんだ了見違いだ。ひとりじゃなにをやったってうれしいことがあるか。客がついた、シャツの評判がいい。ひとつひとつ喜びを分かち合うことができる」。自分に従順だと思っていた妻や息子に家出され、ひとりの生活を強いられてはじめて家族の意味を知ります。そして弟子には「いいか。見合いをやめるな」とまでいうのです。当時、独身だった私の胸にもグッとくるものがありました。この頑固な親方の説教も、吉岡司令補とはまた違った魅力があって私は大好きです。

これらのふたつのドラマは、今でもDVDで見直すことがあります。ふたつとも山田太一が脚本を書いているのですが、鶴田浩二の魅力をひきだすセリフにあふれています。そして、今もそのセリフは輝きを失っていないと思います。是非、皆さんも機会があればこれらのドラマをご覧になってみてください。

 

あなたの知らない世界

私が子どものころ、夏になるとテレビで「あなたの知らない世界」と題した番組がよく放送されていました。心霊スポットや怪奇現象を紹介する番組でした。夏の風物詩みたいなものですが、私は怖いもの見たさで必ずチャンネルをあわせていました。その後、大人になるにつれその手の番組にはだんだん興味を持たなくなっていきましたが、一方で不思議な体験を何度かするようになりました。

勤務医をしていたとき、「俺には霊が見える」と公言する先輩医師がいました。「病院には霊がうろつく場所が決まっていて、あそこにはこんな霊がいるんだ」といつも得意そうに話していました。その先生によれば、「霊が見えるかどうかは、その人間がもっている霊的パワーの強さが影響する。そのパワーが強い人間に霊は寄ってくる」のだそうです。人が集まるとその先輩は必ず自分の不思議体験を話してくれましたが、多くの同僚は冷ややかな目でその話しを聞いていました。

私自身は医学部に入るころから、不思議な体験をするようになっていました。一番強烈な体験は解剖実習の初日に起こりました。緊張のせいか、要領を得なかった実習の初日は夕方遅くまでずれ込み、疲れてアパートに帰ってきた私はいつもより早めに布団に入りました。肉体的にも精神的にも疲れていたのであっという間に寝てしまったのでした。ところが、何時ごろかふと目が覚めてしまいました。そのとき、あたまの中はすっきりと覚醒していましたが、目を開けることはできるものの手足はまったく動きません。瞬間的に私は「金縛りだ」と思いました。

金縛りなんてそれまで経験したことがありませんでした。そのときははっきり覚醒していて、恐怖心というよりも、なんだか新鮮な気持ちがしました。「これが金縛りかぁ」なんてちょっぴり感動するような気持ちとでもいいましょうか。しかし、そんな甘っちょろい気持ちはすぐに吹っ飛んでしまいました。なぜなら、私の枕元に置いてあった小さな冷蔵庫の脇に、白い着物を着た老人がこちらに背を向けて正座していたからです。私はド近眼なので、眼鏡をかけなければ布団の中からははっきりは見えないのですが、白い着物の老人は確かにそこにいました。

なにせ体が動かないものですから逃げようにも逃げることもできず、声を出そうにも出せない状態でした。そこで私はとっさに目を閉じて念仏を唱えることにしました。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心の中で繰り返してみました。ところが、念仏をなんども唱えてもその老人は姿を消すことはありません。身じろぎひとつせず後ろを向いてじっと座っているのです。ところが、うっかり「この後ろ姿の老人が私の方に振り返ったら」などと想像してしまいました。すると、なんとなくその老人が振り向きそうに思えてきて、私は恐怖のどん底へ突き落されてしまいました。私はただその恐怖に耐え、目を固く閉じて何度も念仏を唱えることしかできませんでした。そのうち私はいつの間にか眠ってしまいました。

翌日、友人にこのことを話すと、友人はゲラゲラ笑いながら私の話しを聞いていましたが、ふと真顔になってこう言いました。「それ、この解剖体の霊かも?」。そういわれてみると確かに今解剖をしている解剖体と年格好が同じです。私たちは目を丸くしてお互いの顔を見合わせました。解剖実習は自ら献体を申し出られた篤志家のみなさんのご厚意によるものです。当然のことながら、実習期間中、毎日合掌することになっていました。この一件があってからというもの、私はそれまで以上に熱心に手を合わせ、解剖体に心から感謝の気持ちを捧げながら実習を続けました。以後、あの老人が再び姿を現すことはありませんでした。

強烈な体験がもうひとつあります。それは勤務医をしていたころのお話しです。病院での仕事はまず入院患者の朝の回診から始まります。そして、検査の追加をオーダーしたら外来に行って診療をします。外来ではたくさんの患者を診なければならず、午前中の診療が午後遅い時間までずれ込むことも少なくありませんでした。その日もいつものように長い外来を終え、医局で簡単な昼食を済ませて病棟に向かいました。医局を出て、エレベータに乗り込み、担当している階のボタンを押して壁に寄りかかって目を閉じるともう病棟に到着です。

エレベータの扉の向こうからナースコールの音やモニター(重症患者の心臓の動きを監視する装置)の音、あわただしく人が行きかう音が聴こえてきます。当時、私が担当していた病棟にはさまざまな患者が入院していました。病気の種類も重さもさまざまです。ですから、いつもどこかで患者の容態が急変し、せわしくスタッフが動き回っていました。ほどなくして扉が開くとナースステーションの奥にある処置室を頻繁に人が出入りしていました。容態が急変した患者でもいるのかな、と思った瞬間、誰かとぶつかりそうになりました。

「すみません」。そう言ってぶつかりそうになったその相手を見ると、私が担当する患者と同室の若い女性患者でした。血液疾患の治療のため入院していたのですが、骨髄移植後の経過が良くなく、いつも深々と帽子をかぶり、マスクをしてベットに横になっていました。今日は調子がいいのか、いつもの帽子とマスク姿でどこか売店にでも行くようでした。彼女とは直接話しをしたことはありませんでしたが、私が「こんにちは」と声をかけて道をあけると、彼女は軽く会釈をしてエレベータに乗り込んでいきました。

私はナースステーションの奥のあわただしさが気になり、そちらの方に歩いて行きました。処置室の中をのぞいた私は「急変ですか?」と尋ねました。処置室では救命措置がおこなわれているようで、医師が心臓マッサージを続けており、狭い処置室は緊張感が漂っていました。私が加わったところで邪魔になるだけのようにも思えましたが、「なにかお手伝いしましょうか?」と患者に近づこうとした瞬間、私は愕然としました。なんと、その救命措置を受けている患者はついさっきエレベータの前ですれ違ったあの患者だったのです。

「○○さんとはさっきエレベータの前ですれ違ったばかりですよっ!」。救命処置中にもかかわらず思わず私はそう叫んでしまいました。みんなはびっくりしたようにこちらを見ました。それから私も加わって救命処置が続けられましたが、結局彼女を助けることはできませんでした。その後、しばらくはさっきのエレベータ前での風景が私のあたまから離れませんでした。そのときの彼女の表情はうかがい知ることはできませんでしたが、それでも苦しい病気から解放され、天国に旅立って行ったのかもしれません。

まだまだ不思議な体験はあります。なかには私の勘違いや思い込みもあるんでしょうけど。でも、やはり科学では証明できない「私たちの知らない世界」があると思います。私がはじめて当直に行った病院では、いつになく急変が多くなるそうです(ちなみに私の医療行為が原因ではありませんので誤解なきよう)。我々はこういう状態を「荒れる」というのですが、そうした現象は既出の先輩医師的にいえば、「おまえの霊的エネルギーが強いから」ということになるのかもしれません。そういえば、今でもうちの医院で患者を診ていると時々・・・。もうこのくらいでやめておきます。

良きサマリア人

みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。

とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。

つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。

以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。

かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。

ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。

「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。

「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。

ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。

あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。

倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。

だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。

 

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。

北海道のこと

今日は久しぶりの晴天です。今までどんよりとした景色が続いていただけに爽やかな気分で過ごすことができました。ただ、晴れ渡った分だけ気温が上昇しましたから、暑さが苦手な私としては涼しい北海道の気候を思いださずにはいられません。

北海道の夏は爽やかです。こちらでいう真夏日はお盆前後の2週間ほどしかありませんし、湿度が低いので日陰に行けば結構涼めます。私は札幌の中央区というど真ん中のマンションに住んでいました。11階でもありましたので、夏は東西の窓をあければ心地よい風が入ってきてエアコンいらず。夜、うっかり窓を開けたまま寝てしまえば風邪をひきそうなときさえあります。おまけに人を刺す蚊も入ってきませんでしたから、ほんとうに申し分のない夏を過ごすことができました。

北海道の夏を涼しく感じるもうひとつの要因は至るところに咲いている花の美しさにあると思います。北海道の春は、梅と桜、タンポポが一斉に咲きだして始まります。とくに桜は、うすピンクの花びらと若葉が同時に我々の目を楽しませてくれます。道路脇に積み上げられた雪がすっかり溶けると、まさに百花繚乱の春を迎えるのです。しかも、北海道の春はまだ昼夜の気温差が大きいため、花の色はとても鮮やかです。そんな花々がまるで春の訪れを讃えるかのように路地のいたるところに植えられています。

札幌では5月に桜が満開になるのでこのころにお花見があります。お花見とはいえ、まだ冬のような寒さは続いています。とくにGWのころはまだ開花したばかりです。それでなくても寒いのに桜がちらほらしかほころびていない寒々とした光景の中での花見となります。北大の構内には中央ローンというちょっとした広場があり、北大生は生協でコンロとジンギスカン用の独特の形をした鉄板を借り、ラム肉を焼きながらお花見をします。お酒が入るので多少寒くても、あるいは桜が咲いていなくても関係ありません。

北海道には梅雨はないといわれますが、正確には「蝦夷梅雨」というものがあります。6月のライラックが咲くころ、大雨にこそなりませんが天候が悪くて肌寒い日が続きます。これが「蝦夷梅雨」です。このころに「よさこいソーラン祭り」が開催されます。この祭りは私が北大にいたころにはじまりました。高知県のよさこい祭りで使われる鳴子を手に北海道の民謡ソーラン節にあわせて踊るのです。北大の学生が企画したものからはじまったといわれていますが、今や札幌の代表的なお祭りになりました。

夏は北海道の魅力を存分に楽しめる季節です。私のお勧めは7月下旬に行く富良野と美瑛です。札幌にいたころ、家内と早起きをして車で富良野によくでかけました。午前中の早い時間帯に富田ファームを訪ね、ラベンダーアイスを頬張りながらラベンダー畑を歩く。そして、色とりどりの花が一面に咲くフラワーランドに立ち寄り、丘陵地帯を車でぬけてお昼過ぎには札幌に戻る。帰りには対向車線には延々と渋滞の車列が続いています。札幌に帰るとなんか休日の時間を有効に使えた気持ちになったものです。

私が一番好きな北海道の季節は秋です。9月も下旬ともなればだいぶ涼しくなり、大雪山系では紅葉がはじまります。そして、10月になると街に紅葉がおりてきます。紅葉とはいえ、北海道の紅葉は赤くありません。赤く発色するモミジはほんの1週間ほどで葉を落としてしまうからです。ほとんどの紅葉は黄色と深緑。しかし、それでも色鮮やかで実にみごとです。私のお勧めは北大の13条門から構内に入ったところの銀杏並木と札幌郊外にある豊平峡ダムです。とくに豊平峡の紅葉を初めて見た父は「極楽黄土とはこういう感じなんだろうなぁ」と感心していました。

北海道の秋の紺碧の空はとても美しい。ひんやりと頬をなでる秋風を感じながら見上げる抜けるような紺碧の空はまさに心洗われるようです。このころになると、各家庭ではストーブを炊き始めます。洗面道具をカタカタいわせながらの銭湯の帰りしな、ストーブの煙突から漂ってくる香りに「秋が来たんだなぁ」ってほっこりした気分になったことを思いだします。6畳一間のアパートに帰ってストーブをつけ、コタツに入ってのんびりすると、もう「ちょ~しあわせ~」って感じでした。

11月も下旬になると結構頻繁に雪が降ります。ただ、まだ根雪にはなりません。根雪になるのは12月後半です。ですから、クリスマスの頃にはすっかり雪景色。まさに「ホワイトクリスマス」。学生時代に私はそのクリスマスの日に讃美歌を聴きに教会へ出かけたことがありました(ちなみに私はクリスチャンではありません)。冬ともなれば夕方とはいえ外は真っ暗。しかも氷点下。吐く息はすっかり白くなっています。ひとりで訪れた私を快く歓迎してくれた教会からの帰り道、雪あかりの中で踏みしめる雪の「キュッ、キュッ」という音を聴きながら、ふとさっき教会で流れていた「神の御子は」を口づさんでいました。

なんかとっても幸せな気持ちになって、ちょっと立ち止まって深呼吸をしてみました。するとどうでしょう。雪の香りがするじゃありませんか。乾いた香り。うまく表現ができないんですけど。見上げるともう雪雲はすっかり消えて、キラキラと星が輝いていてとてもきれい。そこは住宅街でしたが、あたりは一面の雪。ほとんど人影もありません。そのときになぜかとても幸わせな気持ちになりました。「北海道に来てよかったなぁ」って。この話しを人にすると、そこには誰か「髪の長い人」が寄り添っていたのでは?と言われるのですが、残念でした。冬の夜道でひとり感傷にひたる男って不気味でしょうけど。

私は北海道が大好きです。仕事を引退したらまた札幌に住みたいと思うほどです。気候が自分にあっているんでしょうね。北海道大学で学べたことも自分にとってはなにものにも代えがたいほど大切な思い出です。生活の場としても素晴らしいところですし、休みの日に遊びに行くところにも事欠きません。のんびりと自分のペースで大学生活を送れたという意味で北海道は自分に一番合っていたんだと思います。北海道は第二のふるさと。札幌駅周辺も北大構内も随分と変わってしまいましたが、私の心の中の北海道はいつまでも私に勇気と力を与えてくれます。

わが心の故郷「逓信病院」

医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。

その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。

当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。

この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。

研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。

東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。

ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。

そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。

ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。

ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)

私の好きな詩

皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。

流 星

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

井上靖

この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。

実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。