「プライマリ・ケアに対する人々の信頼を醸成する」ためには、まず、患者がプライマリ・ケアをどうとらえているかを調べてみなければいけないと私は思っていました。それらをインタビューをはじめとする質的調査手法で調べてみようと思ったのです。そして、患者がプライマリ・ケアに対して持っているイメージの背景に何があるかを明らかにしてみようと考えました。そのためにまず日米の比較研究をしてみよう。そう思っていたときに巡り会ったのが米国ミシガン大学のマイク・フェターズ先生です。
私は当初、米国留学から帰国したばかりの助教授に、日米比較調査をするアメリカ側の相手を探すため、米国で診療している日本人医師を紹介してもらいました。するとミシガン大学医学部のアメリカ人研究者が質的研究を実際にやったことがあるらしいと教えてくれました。それがフェターズ先生でした。さっそく私はフェターズ先生にeメールを送りました。すると彼も私の研究に関心があるとの返事をもらいました。それ以後、日米比較調査はとんとん拍子に具体化していきました。
問題は研究費をどう捻出するかでした。質的調査、しかも日米両国での調査となればそれなりの経費がかかります。そこで私は受けられそうな研究助成(グラント)に片っ端から応募してみました。小さな額から大きな額まで、応募できる助成のすべてに申請書類を送りました。その中でもとある大手製薬会社の助成金は500万円と多額でした。大学院に進んでからすでに結構な額の自腹を切っていたこともあって、この研究助成金は是非獲得したいものでした。私は祈るような気持ちで応募しました。
しばらくして私の研究が採択される旨の通知が来ました。500万円の助成金が受けられるのです。正直、ほっとしました。この助成金でインタビュー調査に使用するビデオカメラや音声録音機器のほか、質的調査の分析の際に必要となる機材を購入することができます。なにより調査に協力してくれた人たちに謝金が払えます。また、アメリカへの渡航費用や滞在費も捻出できます。私のモチベーションは一気に高まりました。論文を執筆するペースもどんどん進んでいき、日米比較研究をはじめる準備は次第に整っていきました。
そのときの研究室には大学院生の後輩がいました。他大学の歯学部を卒業した彼を、うちの医局の教授が誘って大学院生として入学してきたのです。しかし、彼もまた入学後ずっと教授から指導を受けることもなく、日々を無為に過ごしていました。なにをやればいいのかわからないまま時間だけが去っていく。そんな毎日に彼はどんどん元気がなくなっているように見えました。せっかく期待を胸に入学してきただろうに、なかば「飼い殺し」になっている彼が気の毒でした。
私は彼を共同研究者にして日米比較調査の手伝いをさせようと思いました。500万円もの助成金を得られたのですから、彼をアメリカに連れていく渡航費も出して上げられます。私の調査の手伝いをしながら、彼自身の研究に対するモチベーションを高められればという思いがあったのです。そのことを告げると彼の表情は明るくなりました。これまでたったひとりで頑張ってきた私ですが、共同研究者という心強い仲間もできました。日米比較調査に対する期待はどんどんふくらんでいきました。
フェターズ先生とはeメールで、ときには国際電話でやりとりをしながら日米比較調査を具体化していきました。その一方で、渡米するまでに日本でのインタビュー調査も進めておかなければなりませんでした。北海道大学の倫理委員会に日米比較調査をする申請をしたり、調査に入る地域への挨拶まわりをしたり。調査に協力してくれる人の募集やインタビューガイドとよばれる進行表の作成など、やらなければならないことが目白押しでした。それまでマイペースだった大学院生活は一転してとても忙しいものになりました。
そんなとき、フェターズ先生から私を愕然とさせる連絡が入りました。それは「ミシガン大学との共同研究には約300万円の協力費が必要だ」というのです。今回の日米比較調査は正式に北海道大学とミシガン大学の共同研究になっていました。ですから、北海道大学に対する申請の他に、ミシガン大学でも膨大な申請書類を提出して審査を受けなければなりません。ミシガン大学の施設を使い、私も研究員として調査に加わる以上、それなりの費用がかかるというのがフェターズ先生の説明でした。
500万円の研究助成を受けられると喜んでいたのもつかの間、その多くをミシガン大学に支払わなければならない。フェターズ先生は「これは大学の決まりだから」と言いますが、思いもかけない多額の出費はやはりショックでした。しかし、予算が大幅にオーバーするからといって調査を縮小することもできません。アメリカに連れて行く後輩の渡航費を負担しないわけにもいきません。予想外の出費を自腹でまかなうことにして調査は予定通りに進めることにしました。
アメリカには打ち合わせのために何度か行きました。そのときの珍道中はすでにこのブログでも紹介した通りです。ビデオ機材を担いでなんども「羽田ーデトロイト」を往復したせいか、アメリカでの入管では結構しつこく入国目的をきかれました。二回目の打ち合わせに渡米した帰り、成田空港では珍しくめずらしく手荷物検査も受けました。入管の審査官はビデオの三脚を中心に細かく調べていましたが、おそらく麻薬の密売人を疑われていたんだと思います。三脚に麻薬を隠すことが多いのでしょう。
日米比較調査というビックプロジェクトを進めているというやりがいを感じながら毎日が充実していました。日本での調査も順調に進み、あとは渡米するのみとなりました。アメリカでの長期滞在のために用意したどでかいトランクの中には、日本での調査結果とともに私の夢と希望が詰まっていました。成田で共同研究者である後輩と合流し、「羽田発デトロイト行きのノースウェスト機」に搭乗しました。打ち合わせに初めて渡米したときの失敗を繰り返さないためデトロイトへの直行便を選びました。
デトロイト空港での入国審査ではかなり入念に質問されました。「入国の目的は?」「どのような研究?調査の内容は?」「共同研究者の所属と名前?」「その間の生活費はどうする?」「どこに住む?」などなど矢継ぎばやにきかれました。きっと観光ビザで入国しても実は労働目的ってアジア人が多いからなんでしょう。ようやくアメリカに入国できたのもつかの間、レンタカー会社に行き、慣れない英語で車を長期間借りる手続きをしてようやくアン・アーバー市へ。
アン・アーバーに着いてミシガン大学へ。まずは大学の留学生用の宿舎を借りなければなりません。広い大学構内にレンタカーを走らせ、あちこち迷いながらようやく事務所にたどり着きました。英語での手続きは思いのほか簡単ですぐに終わりました。ミシガン大学の広さは日本の大学の比ではありません。構内にひとつの街が存在するかのような広さ。無料の巡回バスが定期的に走っているくらいですから。校舎を移動するときはそのバスに乗っていきます。アメリカでは車なしでは生活できないのです。
大学の構内には至るところに掲示板があり、ボランティアの募集やなにかのレッスンの勧誘チラシがぎっしり貼られています。例えば、転居かなにかで車が不要になった人は「車売ります」と書いた紙を貼っていきます。そのチラシには電話番号が書かれた小さな紙片がぶらさがっていて、その車に興味をもった人たちがその小さな紙きれをちぎって持って帰るのです。アメリカに何年も留学する人たちはこうして中古の車を手に入れます。アメリカならではの合理的なシステムです。
私たちが借りた留学生用の宿舎は二階建ての建物の二階にあって、20畳ほどのリビングと8畳の寝室、そして、台所とバスルームという家内とふたりで生活するにはちょうどいい広さでした。週末には掃除や洗濯をしてくれるハウスキーパーが来てくれました。一方で、一緒に連れて行った大学院の後輩は、発展途上国からの留学生などが格安で住むことができるアパートに部屋を借りました。そのアパートは大学からは少し離れていましたが、私の宿舎に来るときは大学の無料バスで来ることができました。
フェターズ先生は家庭医療学講座の准教授でした。平日は彼のオフィスがある大学の施設に通い、アメリカで行なう調査の計画と準備をしました。オフィスには長崎大学医学部から留学していた先生や公衆衛生学部の日本人留学生などがいて、私たちの調査に協力してくれました。24時間英語で話さなければならない環境は私にとってはそれなりにストレスでした(家内によれば、寝言すら英語だったそうですから)が、日本語が通じる日本人留学生が身近にいることはとても心強かったです。
準備万端でおこなったアメリカでの調査はとても興味深いものでした。アメリカ人の成熟した社会性に感心したといってもいいかもしれません。調査はまずインタビューに協力してくれる人を探すことから始めました。当初、誰かからの紹介ではなく、調査に興味を持ち、自発的に応募してくる参加者を集めることにしていました。そこで、アン・アーバー市とその周辺地域にある教会やスーパー、床屋さんなどをまわって、掲示板にチラシを貼らせてもらい協力者を募集しました。
アメリカでは協力的な人ばかりでした。調査の目的と概要を説明して「貼り紙をさせてもらえないか」と頼むとほとんどの人が好意的でした。「とても大切な調査だね。好きなところに貼っていっていいよ」といってくれます。とくに教会などでは「他の教会、知り合いの人にも貼り紙を頼んであげましょうか」と申し出てくれるなどとても協力的でした。ときには私の英語が下手で困ることもありましたが、貼り紙をさせてもらうのに苦労することはほとんどありませんでした。
一方、日本ではこうはいきませんでした。同じように貼り紙をお願いしても、「それはちょっと勘弁してください」と拒否されたり、「責任者の許可をとらなきゃならない」と言われてその後返事がないまま、といったことがしばしばでした。日本では調査の目的や内容の問題というよりも、「協力する」ということ自体が嫌厭されていたように思います。結果として、アメリカでは貼り紙を見て自発的に応募して来た人が多かったのに対して、日本の参加者はその全員が紹介してもらって集めた人という結果になりました。
********* 「質的研究(3)」に続きます。