2023年12月にはじめて一緒に映画を観に行った母が脳腫瘍になってしまいました。昨年の11月頃から呂律がまわらなくなりはじめ、左の手足の動きもぎこちなくなりました。2023年の春、大きな後遺症は残さなかったものの、軽い脳梗塞になっていたことから、私は「脳梗塞が再発したのか」と思っていました。それにしては血圧はそれほど高くなっておらず、また、症状の軽い日もあるなど、脳梗塞にしては必ずしも合致しない状況をなんとなく不思議に思っていました。
でも、年末の忙しさに追われているうちに症状はどんどんひどくなり、飲み込みも怪しくなってきたことから病院を受診させました。そして、MRIを撮った結果、「右前頭葉の脳腫瘍」との診断。その病院では治療ができなかったため、他の病院を受診する必要がありました。とはいえ、タイミング悪く、年末のお休みに入ってしまい、受診は年明けになります。しかも紹介された病院の予約がとれたのは1月15日でした。日に日に症状がひどくなるのにヒヤヒヤしながら年が明けるのを待ちました。
正月、まだなんとか歩けた母といっしょに父親の墓参りに行きました。「母親の脳腫瘍が悪性度の高いものではないように」と父親の墓に手をあわる私。年が明けると早々に別の病院に紹介状を書き、受診させました。受診した病院の外来医は「進行が早いので早く処置をした方がいい」と即日入院させてくれました。満床なのにベット調整をしてまで入院させてくれた外来医には感謝です。翌週、さっそく腫瘍のまわりに溜まった水をぬく姑息的措置を受けることになりました。
病理診断の結果、やはり悪性度の高い神経膠芽腫という脳腫瘍でした。術前に撮ったMRIでの腫瘍のサイズは、年末の病院でのそれの倍ほどに。腫瘍を摘出することはもうすでに不可能であり、放射線治療と抗がん剤でなんとか成長を抑える治療効果に期待するしかありません。溜まった浸出液を排液する管を患部に入れる手術が終わった母は、術後、ベット柵を一日中叩くなどの不穏な状態が続き、かろうじて動いていた左手足もまったく動かなくなりました。私はこの一ヶ月の変化の大きさに少し動揺していました。
母親が入院した病院は、救急の指定を受けていることもあって慌ただしい雰囲気がありました。職員もいつも忙しく動いていて、大きな病院にしばしば見られる「患者の放置」を心配しました。でも、その病院は忙しいながらも、職員の人たちもそれなりによくしてくれました。術後のお見舞いに行ったときのこと、麻酔の影響がまだ残っているのか、ぼんやりしながら何かを伝えようと口ごもっています。しかし、口の中が乾燥して思ったように話せないようでした。
家内が口のまわりをぬれたハンカチで軽くぬぐってもいいか看護師に声をかけました。すると、なにか仕事をしていたにもかかわらず、わざわざ母親のベットサイドに来てくれ、その様子を見て「乾燥しているようなので口腔内ケアをしましょう」といってすぐに対応してくれました。嫌な顔もせず、仕事を中断してまでめんどうなことをやってくれるこの看護師さんが私には「白衣の天使」に見えました(マスク美人だったから?)。患者側の立場に立ってあらためて見えてくるものがあるものです。
その後の母は、しばらくは混乱しているようで、すっかり寝たきりの認知症患者のようになりました。ベット柵を叩いて音を立てたり、手から延びている点滴や尿道カテーテルを抜いたりするため、準拘束された時期もありました。しかし、術後の影響も少しずつなくなり、話す言葉もなんとかわかるようなものになってきました。動かなかった左の手足も動くようになり、徐々に改善していることがわかります。しかし、前頭葉の脳腫瘍であるためなのか、前頭側頭型認知症のような症状がでてきました。
私が見舞いに行くたびに、「あたまの病気の方はもういいのか?」と心配そうに言います。どうやら私が脳腫瘍になったと思っているようです。そんなとき私はあえて否定せず、「こっちはもうすっかりよくなったから大丈夫。そっちの病気の方はどう?」と返しています。そうすると、「あれっ?私が勘違いしてるのかな?」という表情になります。間違いのない記憶も多いのですが、忘れてしまったこと、あるいは、妄想ともいうような誤った記憶になっていることも少なくありません。
家内とふたりで見舞いに行くのですが、あるとき、家内がひとりで見舞いに行ったことがあります。いつも一緒の私がいなかったことがそうさせたのか、いつしか母親の中の私は家内と離婚したことになっていました。見舞いに行った私を見るなり、「おまえも離婚してしまったのだから、早くいい人をみつけなさい」と真顔で。隣に立っている家内を指さして、「この人、誰かわかる?」と尋ねると、不思議そうな表情で「わからない」と。家内がマスクをしていたせいでわからなかったのか、まるで忘れてしまったかのです。
私は笑いそうになるのをこらえながら、「大丈夫だよ。今はこの人と一緒に生活しているから」と。家内は多少ショックを受けたようでしたが、別の日に見舞いにいった妹によると、「私と離婚した家内」は母親の入院している病院の看護師になっているそうです。実家のご近所の方も病院の職員として働いていると言ってみたり、記憶の混乱や妄想がその後もしばらく続きました(そして、今も多少の混乱が続いています)。でも、大騒ぎをしたり、乱暴になったりしていないことが救いです。
こんなこともありました。母親の隣のベットには母と同じぐらいの高齢患者がいます。ある日、母と私たち夫婦が会話をしていると、カーテンの向こうから「すみません」とか細い声が聞こえてきました。しばらく無視していた私たちですが、どうやらその声は私たちに向けられているようです。家内がカーテンを少し開けて、「どうなさいましたか?」と声をかけました。するとその患者が言いました。「私にチューしてくれませんか」。一瞬、家内はひるんだように言葉を失いました。
しばらくの間があき、「はぁ・・・?あのぉ・・・」と戸惑いながらも言葉が出てこない家内。その患者は「私にチューしてほしいんです」と繰り返します。家内は耳を疑ったようですが、患者が自分のマスクをはずすのを見て確信したようです。「この人は私にチューを求めている」と。家内は動揺を隠しながらも「私はご家族ではないので、それはできないんですよ」と患者をなだめました。「そうですか。わかりました」と残念そう。穏やかで、素直で、優しそうな患者さんでよかったです。
この病院での治療をひとまず終えて、母は今、他の病院のリハビリ病棟に転院しました。広々とした、明るい病院です。院長先生をはじめ、職員の皆さんの雰囲気も話し好きな母には合っているように思います。きっと気に入ってくれるでしょう。入院時の病院スタッフとの面談で私は「急変した場合は積極的な救命措置を望まないこと」、「残された療養を穏やかに過ごせることを優先してほしい」とお願いしました。それほど長くはないであろう母親に残された生活に苦痛がないことを望むからです。
病院スタッフとの面談で、私は「これまで認知症状がなかった母親は、今回の病気の影響で前頭側頭型の認知症のようになってしまいました。もし、スタッフの皆さんに失礼なことを言ったりしたら許してやってください」と付け加えました。前の病院では、ありもしない妄想でスタッフに「あなたはウソばかり言っている」とありもしないことで悪態をついたりしたからです。しかし、「そういうことは慣れているので大丈夫ですよ」と今度の病院のスタッフも笑いながら言ってくれました。
入院前、母は「なんでこんな病気になってしまったのだろう」とこぼしたといいます。そのことを聴いた私は母親を不憫に思いました。しかし、以前から母親には「長生きは修行なんだよ」と繰り返し言ってきました。「あの人も亡くなった。この人も認知症になった」とこぼす母に、私は「幸運にも長生きできた人には、そうした人たちの悔しい思いを背負いながら生きる義務があるんだよ」と言ってきたのです。長生きは決して安楽なことばかりではありません。長生きには長生きなりのつらさがあるのです。
昔、ある高齢の患者さんに「どうして生きているのかわからない」と言われたことがあります。そのとき、長生きをしなければわからないつらさがあることに気付きました。しかし、私は言いました。「それは、あなたの生きざま、死にざまを若い人たちに見せつけるために生きているのですよ」と。人生は修行であり、それは「苦行」かもしれない。でも、自分にとっては修行としての意味があり、その修行が満了したときにお迎えがやってくる。まわりの人たちにその生きざま、死にざまを残して旅立っていくのです。
私が兄のように思っていた叔父が数年前に亡くなりました。私のクリニックに通院していたのですが、たまたま受けた内視鏡検査の事前検査で異常があり、それが進行した膵臓癌によるものだったことがわかったのです。自分のクリニックに通院させておきながら見逃してしまったことを悔やみました。しかし、異常が見つかる三ヶ月前の当院での採血では異常がなかったのです。でも、その後の叔父は、まさに生きざま、死にざまを私に見せつけました。残された1年間を冷静かつ淡々と、そして、立派に生き抜いたのです。
病院では手術不能の膵臓癌であること。肝転移もすでにあり、余命もそれほど長くはないことを説明されたはずです。私のところに報告に来る叔父は冷静でしたが、主治医から説明を受けたときはきっと動揺したに違いありません。治療の選択について意見を求められたとき、私は「積極的な治療をして、体力を必要以上に奪われる選択はあまりお勧めしない」とお話ししました。そして、叔父はその通りの治療を選びました。検査のたびに報告に来る叔父に、私も淡々と、そして、悲壮感が漂わないように接しました。
叔父のふたりの息子達に私は「夏になる頃には状態が厳しくなると思う」と告げました。叔父の性格を思うと、主治医から受けていた説明を自分の家族にこと細かく伝えていないだろうと思ったからです。叔父は自分がなにもできなくなるまでにやっておくべきことをテキパキと片付けていきました。自分に残された日々が長くはないことを知っている人とは思えないほどの手際の良さでした。そして、それを「自分の終活だから」と笑う叔父に、私は「日々が終活なのはみんなも同じですよ」と涙をこらえながら言いました。
亡くなる数日前、入院中の叔父は携帯電話で私のところに電話をしてきました。突然、呂律がまわらなくなったらしく、話しの内容がよく聞き取れません。私はとっさに「これは腫瘍塞栓による脳梗塞だ」と思いました。肝臓に転移した癌の一部がはがれおちて血液とともに脳にながれて起こる脳梗塞なのです。おそらく「なぜこのような症状になったのだろうか」と聞きたかったのかも知れません。でも、もはや厳しい段階になったことは間違いなく、叔父の家族にこの状況を早く知らせた方がいいと思いました。
「申し訳ないけど、話しの内容がよく聞き取れない。家族に連絡しておくから、一緒に主治医と相談してほしい」と話して電話を切った私は、これで叔父と会話するのも最後になるだろうと思いました。そして、何日かたって叔父が亡くなったことを知らされました。息子は「最後に間に合わなかった」と肩を落としていました。私は彼に「でも、君のお父さんにとってはそれでよかったのかもよ。自分の弱っていくところを見せたくない人だったから」と言いました。それは私の正直な気持ちでした。
人の生きざま、死にざまから学ぶことは少なくありません。私はたくさんの「死にゆく人」と接し、見てきました。人が死ぬことは悲しいことであり、その人を失うことの寂しさは測りしれません。しかし、人が旅絶っていくということの意味はそればかりではないのです。その死にざま、生きざまを通じて残された人たちに語りかけているのです。「私からおまえはなにを学ぶのか」と。最愛の人を失ったことの喪失感に自分を見失う人がいます。でも、故人はそんなことを望んでいないはずです。
認知症のなかった母親がどんどん変わっていく姿を「可哀想だ」と思ったこともあります。でも、認知症もないまま、今の病気のこと、これからの自分を待ちうけている未来のことを考えるのはつらすぎるはず。認知症になったことで、そうした不安感、恐怖心から多少なりとも逃れられるのであれば、それはそれでよかったことのようにも思えます。年をとることは病気ではありません。その意味で、「ものわすれ」だって病気ではありません。老化現象と認知症の境界がどこかについては議論のわかれるところだとしても、です。
「自分は認知症ではないか」と不安になって当院に受診される人がいます。その多くが認知症ではないのですが、そんな人たちには「自分が認知症じゃないかと心配しているうちは認知症ではありません」とお話ししています。認知症は不治の病。治すことはできないのです。最近、いいお薬が出たことは報道でご存知の方も多いかもしれません。しかし、その薬を使えば年間300万円もかかります。しかも「症状を9ヶ月短縮する」程度の効果です。そもそも「9ヶ月の短縮」って「300万円の効果」といえるのでしょうか。
歳を重ねるにしたがって病気にかかっていくのは当たり前です。病気と無縁でいられた若いときと同じというわけにはいかないのです。日本人はともすると「ゼロか百」、「無謬性」にこだわります。人は誰でも必ず死にます。それと同じように年をとればなんらかの不具合が生じるもの。でも、その不具合は生活の支障とならないように対処することが可能です。そして、自分の病気や不具合との関わり方や生きざまを通じて、周囲の人たちの模範や希望、教訓となることもできるのです。
先ほどの叔父も、7年前に亡くなった父もそうでした。彼等の生前の姿から学ぶことも多く、模範とすべきことも少なくなかったと思います。父を亡くしてから、母は一人暮らしとなりました。幼い頃に母親を亡くしましたが、母はたくさんの家族・親戚のなかで成長しました。そんな大勢で生活してきた彼女にとって、一人暮らしはさぞかし淋しいだろうと思いましたが、母は「今が一番しあわせ」と繰り返して言っていました。そして、「お父さんには感謝だわ」とも。母が一人暮らしを幸福だと感じていたのは意外でした。
つらい病気も少なくありません。自分の病に悩んでいる人もいます。ですから、全部をひとまとめにして言うことはできませんが、「歳をとって病気になるのは当たり前なのだ」と考えるべきです。健康体でなくてもいいのです。もちろん、「これからどうなるのだろう」と不安を感じたり、恐怖に思うことすらあるかもしれません。でも、人の人生はあくまでも相対的なもの。過去の自分と比較することはできません。他人の人生と比べるものですらありません。それが「あなたの人生」なのです。
「修行」を満了して旅立つときに「苦」はありません。むしろ、「苦から解放される瞬間」なのです。どんな生い立ちだったにせよ、どんな生き方をしてきたにせよ、「修行」を満了するまでの生きざま、そして、死にざまこそが一番重要です。これからの日本を担う若い人たち、残された周囲の人たちへのメッセージでもあります。そんな人生は一度きり。どうせ生きるなら前向きに「生ききる」ことです。
さまざまな病気をもつ皆さん、頑張りましょう。
※ 「老い」を感じて私が思うのは、これからの若い人たちに頑張ってもらいたいということ。
そんな若者への応援歌はサザン・オールスターズの「希望の轍」。
by 若い人の希望になりたい老人(私のこと)